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中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第4回]」を読んで

村上 潔MURAKAMI Kiyoshi) 2018/08/04

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last update: 20181001


■中村佑子 2018/07/06 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第4回]」『すばる』40-8(2018-08): 208-226

▼kiyoshi murakami(@travelinswallow)

中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所(4)」:生れ出る「はず」だった生命の存在を、その生命を宿した存在(「母」)が言葉で表すことにより、その存在の生命が(改めて)新たに立ち上がる。それは奇跡や幻などではなく、遍くこの世にある(が気付かれない)営み・過程なのだということ。
[2018年8月4日23:07 https://twitter.com/travelinswallow/status/1025744918944219136

中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所(4)」:>続>それは、「社会的に奪われた」/「医療的な問題」/「自己の選択」といった因果関係のカテゴライズを越えて直接的に認識しなければいけない現象なのだろう。つまり、合理性や「理解」を拒絶する力の働きとして。https://twitter.com/travelinswallow/status/1025744918944219136
[2018年8月4日23:13 https://twitter.com/travelinswallow/status/1025746491942420480

中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所(4)」:>続>ここで心理学や記号論、はては母性看護学のテキストを引っぱりだしてみても始まらない。ここで問われるべきは「母」なるものの発する「力」そのものだから。その力=言葉に正面から相対するほかに手立てはない。https://twitter.com/travelinswallow/status/1025746491942420480
[2018年8月4日23:22 https://twitter.com/travelinswallow/status/1025748894246789121

中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所(4)」:>続>もちろん、正面から相対すればすべてを把握できるわけではない。まずもってその力は他者(社会)からの介入を拒む。拒むことによって成立する力だから。その力の本質を共有できる人間のみ、断片的に感受しうる。https://twitter.com/travelinswallow/status/1025748894246789121
[2018年8月4日23:33 https://twitter.com/travelinswallow/status/1025751625686601728

中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所(4)」:>続>その感受しえたものをどう言葉に表す(べきな)のか。次にこの難問が立ちはだかる。本人以上の言葉に仕立ててしまう人もいる。黙って立ち尽くす人もいる。答えはない。しかし問い続ける。「母」の力と命の姿を。https://twitter.com/travelinswallow/status/1025751625686601728
[2018年8月4日23:39 https://twitter.com/travelinswallow/status/1025753043508183043


◇中村佑子 Yuko Nakamura(@yukonakamura108)
立命館大学生存学研究センター、女性学の村上潔先生の深い読みです。本当にいつも本質をすばり突く読解をしていだき、私自身も学ばせていただいています。未知な領域を手さぐりでずっと書いているので…灯台…。https://twitter.com/travelinswallow/status/1026474889539014662
[2018年8月7日10:14 https://twitter.com/yukonakamura108/status/1026637571068067841


◆20181001 「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読んで【集約】」

■引用

「この連載を書いてきて、私のなかである変化が起こっていた。それは、これまで集めてきた女性たちの声を、ふとした瞬間、風に、街路に、木々に、水に、聴くような心持ちがすることだ。それは、女性たちのなかに湛えられている、ある「自然」の形を聴こう聴こうとしていることで起こった変化かもしれなかった。」(p.208)
「皆が寝静まった夜中に、木々と風とは、人間のあずかり知らない舞踏を繰り広げているようだった。しばらく見上げていたら、私自身もケヤキが風に打たれる感覚を内側から会得できるような気がしてきた。それは、人間が感じたことのない種類の喜びのような気がした。」(p.209)
「〔プールの〕生あたたかい水のなかで、自分と水の境目は、定かではない。もしここから出ていかなくてはならないとしたら……。それはなにかとても厳しい、冷たい審判のようなものに思えた。このあたたかい水の感触から切り離されて、降り立たなければいけない地上で触れることになる「空気」は、「私」の輪郭を否が応でも屹立させる。そしてなにより地面にむかって引っぱられるような重い感覚、あんなに柔らかく聞こえていた母の声と、たしかな心臓の鼓動はもう聞こえず、知らない声や世界の雑音が直接耳に入りこんでくる。」(pp.209-210)
「横で泳いでいるはずの母も、私も、そしてついこの間、空気中に出てきたばかりの娘も、みんなこの苦しみを通り抜けて、この世界で息をしているんだ。すべての人が抱える宿命のようなものを全身で感じながら、私はプールから上がり、母に声をかけた。」(p.210)
「誰からも注視されることもなく続けられる、ものしずかな現象たちは、「私」の壁を壊し、境界をあいまいにして、ひそやかに優しげに、「他」と交わっていた。それは、私のなかのなにに似ているかといえば、「感情」なのだ。私は、水のなかの声や細胞たちの会話、雪や木々と交じり合いながら、かつて感じたことがあるけれど、思い出せずにいる記憶が呼び出されていた。[…]誰からも見られることなく行われる出来事の深淵さは、私たちの手が届かない場所にあるという意味で、もっとも信頼できるもののように思われた。」(p.210)
「〔マルグリット・〕デュラスが〔『戦争ノート』で〕「絡み合い」と呼ぶものは、自分のお腹のなかで動く胎児と、この世界のひろがりとの奇妙な一致を意味している。それはデュラスが求めてやまない「世界の全体性」だ。[…]この世界という器のなかにぽっかり浮かんで、何かを喪失した者の声を聴いてきたデュラスが、幻想でもいいと希求しつづけた「世界の全体性」。」(p.211)
「デュラスは出産のことを「挙行される通過、外の世界への出立【ルビ:しゅったつ】」と呼んだ。まだ「出立」していない、この世に現れ出る手前にある胎児と、その子を抱える自分の胎内は、この世界には存在しない場所にある、という意味で、この社会が前提にしている矛盾や階級の謎をあぶりだす。」(pp.211-212)
「私には〔プラトンの〕「コーラ」とはやはり、「子を宿す母の場」という気がしている。子宮という空隙は、いつか訪れるかもしれない「他者」にむかって開かれ、その可能性は毎月未遂に終わったり、宿った子を失うという可能性をも引き受けている。存在の「有」と「無」の運命を担っているという意味で、それは肉体のなかにあるにもかかわらず、世界には存在しない「未」であることで、名指されもしないものを定位させる場だ。|意味が意味を成す前の、言葉を獲得する手前の、まだ地上に降り立つ前の場所では、この世界のことが嘘いつわりなく明瞭に見える。」(p.212)
「妊娠中に世界の成り立ちについて、鋭敏な感覚になったことは、私にも思い当たる。それは、手のひらを上に向けて雨粒を受け取るのが楽しかったりする、ものを受け取るという「受動性」の感触や、水の物質性への反応を、妙に微細に感じるようになったりすることだった。こうして妊娠中に自分の感覚が開いてゆくように感じたのは、「私たちがあずかり知らないところの現象」を自分の身体のなかで感じていたからかもしれない。」(p.212)
「もの言わぬ現象を全身で感じて、確実に反応しているのは、揺れ動き絶えず変化する私たちのいじらしい「感情」というものなのだと。だから人は、自らのうちでわき起こってくる謎の感情を無視してはいけない。それは自分からもっとも遠いものをキャッチし、言語化も判断もできない、なにかしらの現象に素直に反応しているのかもしれないのだから。」(p.213)
「感情はいつでも自分のあずかり知らないところで動き、自分を守りもする。否応のない波に自分は乗っかっているだけのような気もするが、それが生命そのものとも感じている。」(p.213)
「言葉にしなければ、ないことにされてしまう出来事。それは、この世界のほとんどのこと、と言えると思った。目にとめ、感じなければ、世界の事象はほとんど私たちの無意識下で、だまったまま過ぎ去ってゆく。もしすべてを感じようとしたら、それはとてもエネルギーのいることだ。さらに、感じたとしても、言葉にしなければ、他者と共有できない。もしかしたら、彼女〔今橋愛さん:歌人〕の「しんどさ」はそんなところから来ているのかもしれない。」(p.217)
「ふだんは、そこまで自堕落になってはいけないだろう、そこまで自分を許してはいけないだろう、と制限していることを妊娠中は解除してしまう、という感覚は私にも思い当たる節があった。[…]それは、重すぎて自分のものでなくなったような身体を律する術をもう持てなかったということもあったけれど、精神的な倫理規範を解いた、ということでもあった。[…]自分の身体の要求を第一義に、その他自分をしばっている抑圧をはずした。それは何か自分のなかからわき起こる強烈な意志だった。そして、たしかにそれは楽しかったのだ。自分に〔ママ〕律していた秩序のほとんどは破っていいことになった。そして世間もそれを許してくれる。命を預かる妊婦の身体は、まるで公共物のように扱われる。[…]私はやすやすと、自分に課しているルールをはずした。」(p.220)
「私は出産後、言葉との関係でいえば、むしろ言葉を忘れていく恐怖から、言葉と出会いなおそうと躍起になっていたのかもしれない。」(p.221)
「彼女〔シルヴィア・プラス〕という人を死に追いやったものは、子育ての時間のなかで、自分の言葉の世界が崩れ去ることへの恐怖だった。」(p.221)
「不在は不在のまま、いつまで経ってもその空白は消えない。不在は不在のまま、何かが代わりに埋めてくれるわけではない。しかし、言葉にするという作業のなかで、失った存在を慰撫し、無限にひらかれる寛容性に、その柔らかい感情をひらいていくこともできる。今橋さんは、言葉という鏡のなかで、もう一度「ときちゃん」と出会いなおしたのだ。それは喪の作業というより、祝福の作業だった。」(p.224)
「彼女は、亡くした子どもたちの命を、これまでずっとどこかで感じて生きてきたのだと思う。そして四十年も経って、はじめてそれを客観的に口にした。これまでずっと、彼女のなかで生き続けていたであろう子どもたちの姿を、私は一瞬見たような気がして、「こんにちは」と心のなかで挨拶をした。お母さんは、あなたたちのことを言葉にして、そうして私に渡してくれたよと。」(p.224)
「果実を失ったからっぽのお腹を、デュラスは「ひとつの虚無体」と呼ぶ。この母体の空白は、地上にやってきた赤ちゃんをその手に抱くことで埋められるのだが、子どもを亡くしたあとは、もうどこにもその空白の行き場はない。|しかしデュラスもまた、書くことで「虚無体」に生きる場所をあたえ、失われた「果実」と会話し続けたのだと思う。」(p.226)
「失われた子どもたちは、無言のまま母のなかで生きてきたが、こうして母が言葉にしたことで、形となり、呼ばれ、私という他人に、その存在を渡されもする。」(p.226)
「もうこの世界にはいないかもしれない、だけどたしかにその存在を感じるものは、一人の人間のなかに棲まい、やがて言葉にされることで私たちにもその存在を知らしめる。そのことの希望を思う。」(p.226)


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20180806 REV: 20180807, 1001
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