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佐藤一成氏インタビュー


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インタビュー 2017/06/23 聞き手:立岩真也 於:埼玉・虹の会事務所
◇文字起こし:ココペリ121 「20170623佐藤一成.MP3」00:00:00〜01:08:00(68分)
 聞き取れない箇所は、***(hh:mm:ss)聞き取れるけれど自信のない箇所は、【きこえたおと(hh:mm:ss)】と表記しています。

虹の会  ◇福嶋 あき江  ◇病者障害者運動史研究  ◇2017/06/23 佐藤一成さんに聞く,於:さいたま市

佐藤一成写真20170623-2  佐藤一成写真20170623-1

 ※これから手をいれてまいります。

佐藤:〔福嶋さんの埼玉での生活の〕最後の半分なんですよね。僕が一緒にいたの。前半のことを知る人っていうのは、今連絡が取れる人といったら、1人いないことはないんですけれど、ちょっとあんまりいないという感じで。本当は、一緒に暮らしていた戸塚さんという車椅子の人がいたんですけれど、それも一昨年なくなっちゃったので。

立岩:それが、今度聞かれるっていう。

佐藤:そうなんです。その彼女が、一緒に暮らしていたからね、最初。中等で、頸損で、事故で。それで、一緒にということで。

立岩:記事か何かで見てとかって書いてなかったでしたっけ。その方ですね。

佐藤:そうそう。それが、彼女が話していて、という感じかな。だから聞いた感じの話みたいな、最初の頃ですけれど。

立岩:佐藤さんは、85年に埼玉大学に。

佐藤:に、入ったのかな。

立岩:お生まれって、そうすると66年あたりですか?

佐藤:66年です。

立岩:ちなみに私は60年。

佐藤:そうなんですか。私、ちょっと『生の技法』というのは読んだことありまして。いつだったか忘れたけれど。

立岩:随分昔のことなので。

佐藤:そうですね(笑)。

立岩:90年だから。85年に学校に入られるわけだから、それで、大学3年生のときには、福嶋〔あき江〕さん亡くなられるわけですよね。そうすると、丸3年いないくらい。2年半。

佐藤:そうですね。

立岩:僕、福嶋あき江の『二十歳もっと生きたい』という、あの本は前から知っていて持ってはいたんです。ちょっとつくりが不思議な本で、何だろうと思っていたんだけれど。それの謎が、佐藤さんのブログというか、あれを読んで初めて、解けたというか。

佐藤:あれも僕が一方的に書いていますからね。伊藤さんという方がいたんですけれどね。

立岩:養護学校の先生?

佐藤:そうそう。四街道のね、下志津病院に併設された養護学校の先生ですね。その人が、亡くなってすぐに出てきて、とにかく原稿を全部持っていっちゃったんだよね。そのとき、自分たちもわからなくて、誰だ、お前は?みたいなことだったんだけれど。非常に変わった人ですね。とにかく付き合いにくい、嫌な人ですよ(笑)。つまり、でかい顔してぱっと入ってきて。もちろん年もかなりおじいさんだったから、誰やねんっていう感じだったんだけれど、でも先生ですって、そうなんですかって言って。そのまま原稿が伊藤さんのほうにあってということで、柳原〔和子〕さんに、伊藤さんにつて頼んでということで、話が始まっていたんですよ。

立岩:そのときの元になった原稿、渡したわけだけれども、ざっと見た記憶はありますか?

佐藤:あります。原稿は、ちゃんとしたものというよりは、彼女は手とかが動かないから、こういうちっこいメモ帳みたいなのにいっぱい書いてあるんですよね。ただそれは本当の元の原稿じゃないですよ。たぶん柳原さんがリライトしたものみたいな。そういうのがいっぱいここにありますけれど。これ、彼女の字ですね。

立岩:これは福嶋さんご自身の?

佐藤:これは福嶋さんの字ですね。こういうのが、細かいので見ていっぱいあったので。彼女がアメリカから帰ってきて、最初こっちで生活するわけですけれど、その時点では本を書く気は一応あったんですよ。最初は書いていたの。だから、それがこれになるんだけれど。その後だんだん毎日に忙殺されて、結局あまり本はもういいんじゃないかと。しかも昔の話だし。でも、あき江さんは確かに最初のほうの人でしたけれど、だんだんアメリカなんかに行く人も増えてきたし、バークレーとかCILとか、そういう話もだんだん日本に入ってくるようになってきて、ちょうどその頃だったんですよ。そういうふうになってくると、だんだん私が出す意味って何だろうっていう話になってきて。僕がいた頃は、一応書いてはいて。しかも寄付をいただいているので。それは、本を出すという前提で寄付をいただいてアメリカに行っているという縛りがあったので、もう書かなきゃならんと。

立岩:お礼に訪米の報告みたいな。

佐藤:そういうのがいっぱいあったんですね。これはアメリカにいたときの日記なんですけれど、こういうのがあるにはあるんですよ。ただ、最後のほうになって、俺もどこにいっちゃったんだと思って、さっき話をして、そこにあるのを思い出したんですけれど。これは、それこそ戸塚さんが預かっていたというか、俺が直接受け取って、戸塚さんに持って行ったものなんですけれど。このほかに、いろいろこういう細かいのがいっぱいあって。それが、ちょっと今どこに行っちゃったか思い出せないんですけれど。もしかして、今の会長の家かもわからないですけれど、そういうのがいっぱいあったので、一応見てはいますね。それで、伊藤さんが持っていったものと、持っていっていないものってあるんですよ。伊藤さんの興味というのは、アメリカに行くまでだったりとか、アメリカの中でのことであると。帰ってきてからのことっていうのは、そんなに興味がない。ただ、柳原さんとしてはそっちを書きたいという。

立岩:柳原さんは、むしろあとのほうを。

佐藤:あとが書きたいというような話もあって、どうするかみたいなことになって。折衷案で、ああいう中途半端なふうになった感じなんですけれどね。ただその経緯は、柳原さんと伊藤さんで何の話をしたのかは、ちょっと僕は全然わからないですね。その後もちょっといろいろあって、テレビドラマ化の話とかもあったので。その過程で、伊藤さんと意見の違いというか、もありまして。伊藤さんはその時点で、もう引き受けないということを約束したにも関わらず、その夜にドラマ発表されちゃったので。

立岩:テレビ?

佐藤:テレビ。それで非常に腹が立って、いい加減にしろっていう話になって、それから連絡は取っていないです。そうしたら、亡くなったという話を2、3年前に聞いたけれど、という感じですね。

立岩:養護学校で、福嶋さんたちにアマチュア無線を教えていた人ですよね。何の先生だったんですか?

佐藤:わからない。とにかくアマチュア無線ということですよね。だから、外の世界をみたいな話の、一応筋書きとしてはそういう。

立岩:伊藤さんという方が、そういう形で福嶋さんたちを知っていたというのは、これはわかる話なんだけれども、柳原さんと伊藤さんというか、福嶋さんというか。

佐藤:福嶋さんは、あまり柳原さんを知っていたわけではないと思うんですよ。知っていたかもしれないけれど、その前の段階で、誰を編者にするとか、間に編集を誰入れるとか、そういう話まで全然いっていなかったはずです。断片の、小さいメモ帳に書いたやつを、どうやってこれを原稿にするんだろうっていうふうに思ったくらいの感じ。これは、一応前半の分はあるので、これはこれで取ったんでしょう。

立岩:柳原さんは、本のあとがきで、福嶋さんがアメリカに行くという記事を拾った新聞で見たと。それで福嶋さんという人を知って、行ったって、そんなようなことを書いていました。

佐藤:じゃあ、そこで知っていたのかな、

立岩:だから、最初は、彼女が福嶋さんのことを知り、伊藤さんは伊藤さんで、そういう立場で福嶋さんのことを知って。話がごちゃごちゃ流れていって、出版社のレベルで、柳原さんという人はものを書くということになったんでしょうかね。柳原さんは、そのあと、がんになって、『がん患者学』という本で、けっこうそれが売れたんですよね。自分がかなりおもいがんだったんだけれど、いったん戻ったらしいんですよ。そうすると、がんで治った人たちを調べて話を聞いていたら、けっこうこんな厚い本を出して。それがけっこううけたんですよね。けっこう売れて、2、3冊はそんなような、続編とかを出して。ただ、やっぱり再発しちゃったみたいで、数年前に亡くなられたみたいです。僕は存じ上げない人。そんなことがあったらしいです。

佐藤:僕も全然知らない。

立岩:そういう人ですね。高野さんのことも書いているし、小説等も書いているので、その当時、関心はあったんでしょうね。さっきの話に戻りますと、原稿の束の中で、アメリカから帰りましたというところで終わっているじゃないですか。そのあとのことが書いてあった部分はあるんですか?

佐藤:ありました。だから、伊藤さんとしても、それは勝手にどうこうできなかった感じだったんじゃないかなと思うんだけれど。今考えると。虹の会もボランティアの会だったので、介助ボランティア最大の活動で回していただけで、特に何も自立運動とか、そういうことに結びついていない。社会運動にもなっていないし。だから、解散するというような流れでいたんですよ。だけど、ちょっと続けることになって。それもいろいろあったんですけれど。そういうことがあったので、伊藤さんとしても、その後のことはあまり触れなかったのかなとも思うし。でも、こっち来てからのことは伊藤さんもわからないから、やりようがなかったのかなっていう気がします。伊藤さんは、一切本当に来たことがないくらいの感じ。

立岩:埼玉でのこっちでの生活とか、そういうのはわかっているというか、触れたわけじゃないという。

佐藤:そういうことですね。

立岩:そうすると、福嶋さんが、3年、4年の間に、書かれた部分、書いていないことでもいいんですけれども、その日々を。理念としては、それをアメリカで、みたいなところで、これからこうやっていきたいみたいな、そういうのはあったと思うんですけれど。でも、日々をどう過ごすとかっていうことと、それはまた別の話なんです。それで、こっちに戻ってこられてから数年の間に書かれていたことみたいなのが、どんなようなことが書かれていたんですかね。

佐藤:最初の頃は、とにかく学生がけっこう集まってきていたと。俺が来る前なんだけれど。そうすると、いろいろわいわいするから、自分の生活というのが保てないというか。たまり場みたいな感じになって。当時、学生ってけっこう暇だったから、今みたいにバイトとかないから。

立岩:私も暇でした。

佐藤:だから、そういう感じだった。僕もそうですけれどね。だからたまり場みたいになっちゃって、あまりそれも良くないみたいな。だから、非常にそういう、運営というか、そういうような感じのことであれしていましたけれど。ただ、お金があるわけじゃないから、枠として、彼女の他人介護料と。あと、戸塚さんは賠償金だったんですよ。そもそも。事故だから、賠償金生活だったので、賠償金で毎年何十万と来るみたいな。そのうちから、解除料を払ってということで。だから、生保は取れるようなあれじゃないから、生保代わりというか、そんな感じでなっていたわけですけれど、それで人を雇うしかなかったから。夜までは当然人は回らないし、ボンラティアで。84年って、俺が来る1年前に1回機関紙が1号も出ないっていう状況になって。非常にそこでもめていた。もめていた間のことっていうのは、いろいろ残っているんですけれど。つまりは、薫さんとあき江さんが一緒に住んでいたんだけれど、離れるっていう話になって。無理があるわけですよね。2人一緒に生活するって。そもそも施設から出てきたのも、どうしても介助者にお互い縛られちゃうし。別れることになって、それで結局、どうする、こうするでもめちゃって、このまま虹の会なくなってしまうのか、みたいな感じが、84年に1年あったらしいんですよね。その前後で佐竹というのがいて、これも筋ジスなんですけれど、埼大に通っていた学生さんで。

立岩:学生で筋ジスだったんですね。

佐藤:そうそう。車椅子の人で佐竹※っていうのがいて。それが、京浜東北線の北浦和で、ちょっと行くと蕨という駅があるんですけれど、蕨のあたりが実家なんです。駅前が。そこから通ってきていたんですけれど。
※佐竹 保宏 1993a(199310 「「理解」と「意味」――社会学的アプローチ」,『現代社会理論研究』3:7-11 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000328980-00 [146]
―――― 1993b(199310 「相互作用秩序の分析可能性――「フレーム」と「エスノ・メソッド」」,『現代社会理論研究』3:13-35 [146]

立岩:男性ですか?

佐藤:男性。

立岩:それもちょっと参加するようになって風向きが変わってきて。しかもその佐竹ってのが英語がぺらぺらで、CILのこととかも非常に詳しいし、これから大学に出たらCILみたいなのをつくって、みたいな話もあったから、なんとなくその感じに乗って、僕が入った年にまた虹の会がちゃんとやろうみたいな感じになって、やっていくっていう感じになるんですよ。

立岩:同居していた2人が分かれるにあたってのごちゃごちゃみたいなのがあって。それでもって、活動的にも停滞というか、途中からうまくいかなくなっていて、これどうかなって言ったんだけれど、その佐竹さんが登場して、ちょっと元気になってきた。

佐藤:そうそう。薫さんはそのまま離れて、1個先の駅で与野ってあるんですけれど、与野に移って。あき江さんだけ元のところにいて、という形で。

立岩:もともとのっていうのは、このへんに近いんですか?

佐藤:そうそう。最初にいたのが、大久保領家っていって、ここ埼大なんですけれど、こっち側のほうに行って。その次、下大久保っていって、ちょっと大学の東側に行きまして。最後は、埼大の並びのもうちょっとそっち側のアパートに移って、そこで亡くなるんですけれど。それで、84年以降というのはあまりボランティアも来なくなっちゃうというか、そういうところもちょっとあって。非常にあの頃ってバブルっぽいというか、あまりいい時代じゃなかったんですよ。非常に俺もなじめない時代だったんですね。嫌な感じの時代で。そうなってくると、ボランティア?みたいな感じの流れになって。非常に軽薄な感じの時代だったから。

立岩:ディスコとか。

佐藤:そうですね。あと、スキーとか。大学でいうと、そういう感じですよ。軽井沢に行ってテニスとか、そういう感じでしょ。そういうので、どんどん人が離れ始めちゃって、探すのでも、毎日あき江さんも大変になっちゃってということで。昼にずっと来ていた人は、もともと病院の看護婦さん、1人は藤本っていったかな。辞めて一緒に住んでいたんだけれど、その人も離れちゃったみたい。藤本さんは、薫さんと一緒に行動をともにすることになるんですよ。一緒に住んでいて始めたんだけれど。向こうに移るんだけれど。次の人は忘れたけれど、とにかく元からいた人が薫さんのほうについていっちゃうから、あき江さんのほうは昼間の人もいなくなっちゃった状態なの。

立岩:長い時間やれる人で、昼間入っていたのが。

佐藤:いなくなっちゃった感じになって、そこから探さなきゃいけない感じになって。そうすると、一応そこはお金が払えるから、パートでみたいなことで、近所のおばちゃんが入ることになったんですけれど。それはそれでちょっと落ち着いて。ただ夜は探さなきゃいけないのと、昼間はどうしても空いちゃうときとかもあったので、そこも暇な学生がいたので話を伺って。けっこう大変になったのは、大変にはなったんです。枠が増えたから。探す枠が増えたから、大変になったというのはあります。時代もあまり良くなかった。探すので毎日大変だったみたいで。ただ、そういう状況の中で、あき江さんとしては、このままボランティアの会で終わりたくないということで。俺はたまたま、俺が当時付き合っていた女の子が介助にボランティアで行っていて。俺はちょっとついて行ったのが最初。でも、その頃はもうたまり場みたいな感じじゃなくなっていて。何かのときに、きっかけは覚えていないんですけれど、たまたま行ったときに、こういうんじゃないのをやりたい、社会運動的なことをしたい、みたいな話がすごいあって。それが、大学3年始まる前だから、亡くなる3カ月くらい前だった。いろいろやりたいから、それで、いろいろ学生に頼る感じのことをやめたいと思うっていうことになって。
 そうすると、ちょうどそのとき卒業するっていってた人たちが、運営に残るみたいな。今まで、卒業しちゃったらいなくなってという感じだったから、それで残るっていう話になって。そこでちょうどいい機会だからっていう話になって、そういう感じでやりましょうよなんて言って、そういう感じになっていたのよ。だから、始まるときに、虹の会って、できれば学生からどんどん脱却していきたいというのが、あき江さんの中にはあって。そういう感じで頑張っていきましょう、みたいな話になって。いろいろあって、そうしたら夏に死んじゃうと。非常に残念な話です。本人は、そういうことをやりたかった。だから自分が今やっていても、自分だけ何かやっているだけで次の人が続くわけでもないし、多くの人が施設から出られるよういするためにやっているのに、何もなっていないみたいな。これじゃいかん、みたいな。

立岩:そういうので感じているのはあるけれど、じゃあどうしようかって話もあるんです。金もないわけですし。そういったときに、彼女は、今の状態を変えるためにどうしなきゃみたいなことをおっしゃっていたのかっていうのと。それから、倒れる数日前に、けっこう長い時間佐藤さんとお話していたと。そういうときに福嶋さんは何をおっしゃっていたのか覚えていることとかありますか?

佐藤:具体的に何をしようっていうのは、彼女の中にはあまりなかったんですよ。ただ、当時、障害者運動って2分化していて、全障連と全障研とあって。埼大って、そもそも全障研の***(00:22:15)とかなんですよ。清水〔寛〕先生がいたから、そういう感じだったんですよね。でも、全障連の流れもあって。自立運動みたいになってくると地域だから、どうしても全障連のほうが強かったりとかいう流れもあるじゃないですか。越谷のほうにすごいでかい団体があったんですね。〔埼玉〕社会福祉研究会※とか、わらじの会っていうところがあるんですけれど、そういうところともいろいろ。ただ、あまりわらじの会とかにあまり踏み入れてなくて。あき江さん自身があまり好きじゃなかったというか。
→埼玉自立埼玉障害者自立生活協会:http://www.arsvi.com/o/ssj.htm 「埼玉社会福祉研究会」(1980年発足)が前身

立岩:なんとなくちょっと違う感じはしますね。

佐藤:彼女は、まずクリスチャンで肉を食べないとか、いろいろあるわけ。非常にいい人なんだよね。クリスチャンにありがちな感じのやつなんですよ。だから、ちょっと逸脱した感じのことを無頼でやっていかなきゃいけないじゃん、運動なんて、みたいなことがあまり通用しないんですよ。彼女って。だから、性格的な限界ももちろんあるんだけれど、ただこのままじゃ駄目だよねっていうことを彼女は言っていて。そこは【勢力(00:23:29)】をあわせるみたいなことも必要だよね、みたいな。ちょうどそのときに、手がここから先がない人が、セキグチっていったかな、セキネっていったかな、駅のほうに住んでいて。その人がちょいちょい訪ねてくるようになっていて。その人が見るからに無頼というか、ヤクザっぽいというか、そういう感じだった。そういう人の影響もあって、ちょっと考えないといけないよね、みたいな。このままじゃ、そんないい子ちゃんじゃ駄目だよね、みたいなことは言い始めていましたけれどね。でもその程度であって、具体的な戦略が彼女にあったかっていうと、正直そんなに頭のいい人だったとは思っていないですね。薫さんのほうが頭が良かったです。きれた。けれど、福嶋さんはいい人ではあるけれど、頭は良くなかったですね。そういう意味では切り替えもできないし。

立岩:戦略立てるような、そういうタイプじゃないよね。潔癖というか、清潔というか。

佐藤:そういう感じ。そういうところはあった。

立岩:わらじみたいな、ちょっと汚い感じのところは、ちょっと。

佐藤:ちょっと合わないですよね。

立岩:それはありますね。

佐藤:福祉研究会という名前だったと思うんですよ。その後名前が変わっていったような気がするんですけれど。

立岩:それは、障害者もいるけれど、埼玉大の全障研じゃないような人たちもいたみたいな、そういう。

佐藤:それはあまりなかったと思う。向こうは、また違う大学があるんだよね。共栄っていったかな。春日部か何かにあるんですよ。女子校だったか何かわかんないけど。そこの大学の講師の人とかがけっこう参加していたりして。そっちのほうの感じですよね。

立岩:埼玉大というわけではなくて。

佐藤:なくて。

立岩:浦和の別の学校の人たちたちが活動してる。

佐藤:だから俺なんかは、ぶっちゃけ埼大にいると全障研のことしかわからないんですよ。だから、自立運動とか、青い芝のいろんなこととかもわからないんですよ。はっきりいうと勉強できないんですよ。だけど、そういうのをちょっといろいろ勉強してみて。(★★いちおうのチェックここまで)

立岩:『東京新聞』でしたっけ。取材されてますよね。佐藤さんの紹介みたいなのがあって、埼玉大学に入って障害者運動を学んだって書いてあったんですけれど、それはどういう話なんですか?

佐藤:それは、僕は養護学校の先生になるための課程にいたので。教育学部ですから。別に教育論をやっていれば良かったんですけれど、たまたま障害者運動についてゼミでやることになって、グループ分けで、たまたま障害者運動の歴史、養護学校の義務化について調べるという担当になったんですよね。養護学校義務化を調べると、当然義務化後の2つ、全障研と全障連と分かれているのに当然触れることになるじゃないですか。それを知ったときに、ちょっと衝撃を受けまして。そこから、いろいろ勉強してという感じになって。だから、そこが大きな転機だったんですかね。

立岩:ゼミの先生は。

佐藤:清水先生。

立岩:清水先生自身が、両方?

佐藤:そうそう。だから向こうからすると、僕はすごくそっちに傾倒していると思われていたと思うんですよ。埼大のみんなから。ただ、別にそんなことはないんですよね。だから、福嶋さんが死んでから、1年くらい何もできないんですけれど、その後僕がやるとなったときには、けっこう向こうに行くようになりましたね。わらじに。だから、今仲良くなりましたけれど。

立岩:しばらくやって、そんなこんな、ちょっといろいろ知識というか、ものを知って、わらじはわらじで割合近くて、出入りすると。清水さんも、排撃ということではなかったですか?

佐藤:全然ないですよ。あの人自身は、全然そういう感じじゃなかった。だから、あの人は本当に子供みたいな人なので。だから本当に、それ素晴らしいねってなるし、自分の言っていることとか、こっち側とかないんです。そういう俗っぽくない人なんですよ。全然子供なんですよ。だから、天真爛漫に研究をして、ただ思ったことを言って、周りがわーっと言って、そっちだって言うんだけれど、全然それには。だから逆にいうと、それをやらせたのは、ゼミの卒業生の人が1人いて。清水先生じゃなくて、ゼミの卒業生の人が実際に仕切っていたんですよ、というゼミだったんですよ。その人が、初めて僕らが行ったときに、ネタを振るんですよね。君のグループこれやってみようかって言って。それが、それだったんですよね。だから、その人自身も、いろんな世界を見せようと思ってやっていたんだと思うんですけれど。だから、清水先生もそれに対して全然何も言わないし、自分も勉強するような感じで、一生懸命参加している感じのゼミだったので。先生が教える感じのゼミでは全然なかったから。

立岩:京大とか、やっぱり関西とかでは雰囲気違うみたいですけれどね。私、今勤めているのが立命館ですけれど、立命館は全障研というか、共産党の勢力が強い、そういうところで。特に関西は、部落解放同盟VS共産党みたいなのがあって、半端じゃない対立関係があるから、そういうのもあると思うんだけれど、埼玉の清水先生に関しては、そういう話だったんでしょうね。

佐藤:共産VS社会党みたいな感じも、あまりなかったですね。大学の中でですけれど。非常にフラットに学問として、清水先生は考えていたと思いますね。そして、それを僕らに伝えようとしていたと思いますね。

立岩:私は79年に大学入っているんですけれど、ちょうどその年が養護学校義務化の年で。大学入ったら、反対の人たちととそうでない人たちがいて、喧嘩してて。それが最初です。そういうのも、福嶋さん自身は、そういう。

佐藤:逆にそれを、僕がすごく吹き込んだところはありましたね。こういうのがありましたから。そうすると、福嶋さんなんか何も知らないから。埼大なんかでも言っていて。清水先生も天真爛漫な人だから、あなたみたいな人が1人暮らしって素晴らしいですね。だから、何も考えてないわけ。でも、ちょっと愛らしい人ではあるわけなんですよ。うれしいです、来てくれてありがとう、みたいな。ミーハーじゃないけれど、薄っぺらいっちゃ薄っぺらいんだけれど、そういう感じなわけ。だから、全然もう介助者募集してください、ボランティアも僕の授業使ってください、どうぞどうぞみたいな、そういう後先ない人というか。清水先生すごいいい人なんですよ。そういう感じでやっていたから、だから、あき江さん自身もあまり知らなかったんだと思うんですよね。こういうのを知らなかった。そもそもが知らない。だって、病院にいて、そこからアメリカに、しかも介助者が一緒にパックで行って、いわば無菌状態でパッケージで行っているから。帰ってきて、こっちに来て、さっきも言いましたけれど、看護師さんと、もう1人県庁に勤めている人がいたんですよ。三島っていうのがいるんですけれど。今も***(00:31:39)住んでいる。連絡取ろうと思えばとれるような感じの位置にいるんですけれど、三島って。三島も一緒に住んでいたんですよ。三島は、普段県庁に勤めていますから、夜だけ。1人暮らしするみたいなあれで。今、体良く言えばルームシェアということですよね。それでやっていたんですよね。三島もどっちかっていうと共産系の組合の感じの人だったので、だからそっちのほうしか知らない感じというか。だから、福嶋さん自身は何もわかっていないし、伊藤さんもそういうことも何もわからないで、ただとにかくアメリカに送り出せばいいやと思っているから。つまり、何一つ意図がないんですよ。その後のビジョンもないんですよ。帰って来て、埼大に来るっていうのは、三島を頼りにっていうことでしかなかったんですね。冷静に考えると、千葉でやればいいんですよ。そんなこと。

立岩:三島さんを頼ってここに来た?

佐藤:そうなんです。その件についても、三島はそんなに何度もしゃべったことがないだって。

立岩:三島さん自身は、そこまで、やってくるほどっていう感じはあったんですね。

佐藤:そうそう。ただ、最初そういうふうに発表されてしまったし、自分も1人暮らしはするつもりだったから、それはそれでいいかなって。それはけっこう気持ちのでかい人なんでしょうけれど。そういう話になって、始まったということですから。だから、そのことについては、三島さんは会うたびに、私全然知らないけれど急にそんな話になっちゃって、なんてことをよく言いますよね。そんな感じの人。だから、全体的に意図なく始まっている。埼玉の生活が。周りにいたのがたまたまそういう人だから。そうなると、全障連の思想っていうのは全然ないから、たまたま僕がそれで勉強したことがあって、こういうのがあって、こういうのがあってって言うことに、えーってなって。もうちょっと運動として考えていかないといけないみたいな話にだんだん傾いていくんだけれど。

立岩:だんだんそういうこともしなきゃいけない、清廉潔白だけでもやっていけないっていうふうな感じにはなってきたけれど、具体的にどうやって組織というか、つくっていくかみたいなところまでは、時間切れ。

佐藤:時間切れですね。僕も一緒に考えたいと思っていたし、やっていきたいと思っていたんだけれど、時間切れでしたね。

立岩:やっていかなきゃっていう。体はだいぶ落ちてましたか?

佐藤:どこかで書いたかもしれませんけれど、吸引機の話があって。

立岩:押し入れに機器しまってあったと。

佐藤:支給してもらっていたらしいんだけれど、その時点で、吸引機を必要とするかもしれないという危機感が、彼女の中にあったんです。ただ、今日は大丈夫かな、明日は大丈夫かな、まだ大丈夫かなっていうことで、たぶんずるずるしたまま押し入れに入れていた。その存在を知っているのも1人か2人しかいなくて。

立岩:あるということ自体?

佐藤:あるということ自体。それが、その1人か2人も聞いてはいたけれど、使い方までは教えない。だから、簡単に言えば誰も使えないわけですよ。だから、あったところで。

立岩:コツがいりますよね。

佐藤:あれは練習しないとできないことだから、こっちとしても。だから、本当は介助者に練習させればよかったけれど、福嶋さんに言わせれば、そんなことをやったらみんな逃げちゃうということがあって、その逡巡の中で結局死んでしまったという感じだから。だから、本人もかなり死期は悟っていた感じがあって。亡くなる前に話をしたって言っていましたけれど、あと1年、2年、頑張れて3年くらいだと思うから、とにかくその間になんとかしたいんだと。形をつくって、人を増やして死にたいんだ、みたいな話をしていましたけれどね。

立岩:今、筋ジスの人って、呼吸がしんどくなって。80年代くらいから呼吸器入れる治療というか、つけるようになって、それで長生き。それまでだと10代とか、20代前半で亡くなったりとか。それも多少伸びて。それで、結局心臓の筋肉が遅くなってきてっていう感じだけれど、福嶋さんは心臓にもきていたくらいの感じだったんですか?

佐藤:そういう感じというよりは、たぶんつまって、ただ単純に呼吸ができなくなった。

立岩:呼吸をなんとかしていれば、もうちょいいけたと。

佐藤:全然いけたと思いますね。今うちの会長が筋ジスなんですけれど、ペースメーカーも入れて、呼吸器で。僕の1つ上だから51。だからもうけっこう長生きというか。

立岩:新聞にも出ていた。

佐藤:だから、そんなことがもしも当時できたなら、全然問題なかったと思います。

立岩:吸引の対処ができれば、だいぶ違ったかもしれない。こっちの話になりますけれど、福嶋さんたちは***(00:37:22)、いろいろ事情はあるんですけれど、国立療養所の話を雑誌で書いていて。金沢に医王病院という元国療があって、そこに、古込さんという筋ジストロフィーの45歳の人がいて、その人を今年中に医王から出すっていう。出たいと言っている人がいると。その話にちょっと似ていて。だけど、医王から生きて出た人は、彼が実現させたらそれが初めてで。石川県で重度訪問は存在しなかったけれど、弁護士さんとか入ってもらったりして、今年になって交渉して。ようやくうまいこと動き出したかなというところです。
 私は、『生の技法』という本を書くにあたって、高野さんという人がいる、福嶋さんという人がいるということは一応知っていたんですよ。八雲から出てきた鹿野さんとかね。ああいう人のことを一応して知っていて。そういうことが80年代の頭にあって。でも、確かあの方々早くに亡くなられたから、そうすると、続けるのが難しいじゃないですか。いったんそうやって中座したみたいになっちゃって、それから25年とか30年とか経っちゃったよなって。それってどうなんだよっていうところで、その先駆者として、その人たちがどういうふうに受け継がれて、こうやって埼玉であれば虹の会とか、なんだかんだ受け継いできたんでしょうけれども。千葉の加藤さんとう、高野さんと一緒にやって別れた加藤さんという方が、どうやら違う支援のところをやっている。NPO法人か社会福祉法人かやっていて、そういう形で、***(00:39:17)というんだよね。

佐藤:だから、医療が追いついていなかった感じですよね。今は医療があるっていう、そういう感じで。呼吸器も、いきなり呼吸器になりませんもんね。こういうのをつけて、それでここ切ったりとかね。だんだんいろいろと。

立岩:福嶋さん、病院には通われていたんですか?

佐藤:全然行っていないです。

立岩:医療と縁がなかった?

佐藤:そうなんですよ。行って、いろいろ見てもらったほうがいいよっていうような話があったけれど、行ってなかったんだよね。埼玉には蓮田市に筋ジスの療養所があるので、簡単にいえば蓮田に行けばいいんですよね。別に千葉まで行かなくても。だから、そこでいろいろ調べてもらって、悪いところがあったら悪いところで考えればいいんじゃない?って言ったんだけれど。

立岩:全く行かなかった?

佐藤:ちょっとそれは記憶が曖昧で、確認しないとあれですけれど、例えば月に1回行っていたとか、そういうことはまずないです。そういうことではないです。1回くらいは行ったかもしれないけれど、みたいなくらい。だから、毎月行っているとか、そういう感じじゃないですけれど。今、うちの会長とかは、たぶん毎月行っていたりとかするわけですけれど、そういうことはないです。

立岩:***(00:40:46)チェックして、心臓はどうだ、呼吸はどうだっていう。

佐藤:そうそう。そういうことは全くなかったので。

立岩:素朴な質問ですけれど、佐藤さん男性じゃないですか。いわゆる身辺介助とか、実際どういう仕事というか、関わりというか。

佐藤:僕は、全然そういうのはしない。しゃべったり。当時、いろいろやっていたことがあって。車椅子講習会とかをやっていたりとか、あとバザーみたいなのをやっていたりとか、そういうのを手伝ったりとか。

立岩:バザーは、虹の会ということでバザーをやっていたんですか?

佐藤:そうそう。これはもう最初からやっていて。

立岩:バザーは?

佐藤:82年くらいとか。これはしょうがなかったんだよね。最初は、4万円しか他人介護量がないみたいな状況で、薫さんも4万円出して、合計8万円で。プラス2万円をバザーで何とかするっていう見切り発車で始まっているから、82年に。だから、バザーはやらなきゃいけないわけ。少なくても1年に1回やるんだったら、年間24万くらいは必ず稼がなきゃいけないわけ。もちろんそれ以上稼げれば、もっとボーナスとかあげれば、10万しか給料がないわけだから。そういう話なんだけれど、そういうことで、看護師さんを引き抜いてきたという経緯があったから、どうしてもしょうがなかったのかな。だから、バザーは最初からあったんですよ。

立岩:毎年1回はやるんですか?

佐藤:たぶんそうだったと思う。俺が学生だった頃までは、そうでしたね。福嶋さんが死ぬ前であれば、年に1回やっていた感じか。でも、バザーっていったって、別にそんな。

立岩:けっこうバザーやったり、廃品回収やったりして、その頃***(00:42:43)。

佐藤:やっていましたね。

立岩:それ、79、80年くらい。繰り返しになるんですけれど、廃品回収やっていましたよね。日曜日に。

佐藤:けっこう廃品も高かった時代があるので。

立岩:介助のボランティアが来るというだけでもなくて、毎日必要なんだけれども、お金も足りないし。

佐藤:だから、バザーという発想は苦し紛れではあったけれど、1つ良かったんですよ。人が来るという意味では。ベースになった。だから、地域の人に品物を提供してもらうという意味では、地域の人の目も多少向くというところがあって。

立岩:そうじゃないと誰も知らないものですよね。

佐藤:学生が来ているだけっていう話になっちゃうから。だから、バザーって苦し紛れではあったけれど、すごくいい間口で。

立岩:今もやっておられる?

佐藤:今はバザーという形じゃないんです。今は、もうお店にしてやっているので。

立岩:店を出して常時?

佐藤:そういう感じですね。

立岩:リサイクルみたいな。

佐藤:そうそう。それも、でも全く別の感じになっちゃっていますけれどね。今、知的障害の連中が来るようになったので、そいつらが働いているということになっていますね。

立岩:昨日、多摩行ったら、そこで***(00:44:06)。一緒に話聞くので、【法政(00:44:13)】の三井さんという教員がいまして。その話して、そうですかっていって。

佐藤:三井さんってなんか聞いたことあるな。

立岩:言っていました。じゃあ、そんな感じで、直接の介助には入れないけれども、バザーをやったりだとか、いろいろ。

佐藤:そうですね。それこそビラ配りに行ったりとかしなきゃいけいから、そんなことをやっていたりとかね。

立岩:福嶋さんご本人もキャンパスに入ってりとかというのは。

佐藤:そういうこともありましたよね。当時は、もっと大学は自由だったから、大学なんかどこにでも貼れたし。だから、知っている先生がいたら、教室入ってやらせてくれたし。だから、入り口でこんなことをやらなくても、けっこうちゃんと確実に手渡せた。

立岩:教室回って、先生に頼んで。

佐藤:そうそう。やりそうな人たちに直接行けたから。今、だってもう入れないんだから、話が違うけれど。

立岩:入れないですか?

佐藤:入れないです。だって、貼れないんだもんね。

立岩:ビラね。ビラ貼るの大変になりましたよね。

佐藤:みたい。あまり参考にならないですけれどね。

立岩:雰囲気というのかな、そういうのは大切だと思っていて。ここは、一応わかっているけれど、こっちは全然わかっていないとか、そういうことはけっこう大切だったり。

佐藤:今俺の中で、ものを書いたりしちゃっているから余計ですけれど、都合のいいようにかなり編さんしちゃっている気がするんですよ。簡単に言うと。今言った話にも、確かに福嶋さんってそういう人だったし、それは間違っている話ではないと思うんですけれど、事実どうだったっけなっていうのを思い出すと、だんだん怪しくなってくるところがあって。いろいろ昨日今日になって何話したらいいだろうと思って。引き受けてから、あれ?と思っていろいろ考えたんですけれど、あまり浮かばなくて。もう随分前だし。

立岩:だって、30年?

佐藤:そうなんですよね。一応これが、僕が大学4年のときに書いたんですけれど。これは、ここの注釈の部分は、せっかくなので。本文はどうでもいいんですけれど。

立岩:卒論みたいですね。

佐藤:卒論なんですよね。これ、彼女の遺稿を抜いているんですよ。遺稿にこういうのが書いてありましたって。こういうのが、注釈の部分なんですけれど、遺稿から引いているんですよね。

立岩:遺稿というのは、遺稿のつもりじゃないけれど。

佐藤:そうそう。彼女が書いた原稿。

立岩:それは、本には書いていない。

佐藤:書いていない部分ですね。これは、虹の会始まってからだと思うので。だから、一番ばらばらの紙がまとまっているといったらこの部分がまとまっているのかなと思うんですけれど。【本の場合は(00:47:22)】いいんですけれどね。自分も何を書いたか覚えていない、30年前だから恥ずかしいんですけれど。でも、ここは参考になるかなと思って。

立岩:虹の会の機関紙で、新しいのがあるからあげるよ、みたいな。

<機関紙に関するやりとり>(00:47:56〜00:49:25)

佐藤:ケア付き住宅というのが当時はやって、相模原にあったんですけれど。

立岩:シャロームという。

佐藤:そう、シャローム。それが今考えると発想は完全に施設なんですけれど、グループホームみたいな感じですよね。それをやりたいっていうのがあったんだよね。ケア付き住宅というのをすごい盛んに言っていたけれど。

立岩:彼女が行っていた?

佐藤:行っていた。というか、それしか知らなかったというか。勉強していなかった。

立岩:東京で自立ホームというのができて、相模原にシャローム。白石さんという、今もやっていらっしゃいます。震災のあとで、それの代表みたいな。もう70くらいですけれど。

<機関紙に関するやりとり>(00:50:14〜00:51:05)

立岩:でも、こうやってちゃんと残っているといいですよね。昨日は、82年、83年、島田養育園というところの脱走事件というのに関わった人に話を聞いたんですけれど、資料とかもないし、4人いるんですけれど、たぶん4人に聞いたら4人とも違うことを言う。

佐藤:そうだと思うんですよ。それはそうなんですよね。僕もたぶんいいように言っているし、それは絶対そうですよね。

立岩:それは、そういうものだというのはわかって聞く、わかって話すという、それに尽きると思うんですよね。結局、そうやって言っても、一人ひとり違う見方ででもしゃべってもらわないと全然わからないというので、ありがとうございます。ここ、今これセットとかありますけれど、これは佐藤さんの趣味で?

佐藤:これは、うち今バンドをやっているから。

立岩:もともとそっち系でもあるんですか?

佐藤:もともとちょっと好きだったけれどね。でも、それとは全く関係ないですけれどね。たまたまこういう形になったという。いろいろ呼んでくれたりするようになってきたので、頑張ろうかなと。

立岩:こんな感じで音楽系のところって、そんなにたくさんないですよね。

佐藤:そうかもしれない。かといって音楽だけやっているわけじゃないから。みんな日銭はちゃんと、にじ屋というリサイクルショップをやって、そのうえでだから、そんなに練習もできないしけっこう大変なんですよ。でも、まあまあ。歌は伝わりやすいから。

立岩:私の場合、対局の***(00:53:03)とか。

佐藤:でも、学者さんってそういうことでしょ。それは専門のだから。

立岩:そういう商売なので、それは誰に何言われようと。自分の本にも書いてあるんですけれど、一番かっこいいのは歌を歌って、短く。

佐藤:印象的にね。

立岩:だけど、それは、ほかのもっとそういうことができる人にやってもらって、私なんか時事を書くことしかできない。それは分業というのでしょうがないということで。でも、佐藤さんのところにも書いてあった、その当時に関係した人が、20歳でやる本以外に文集をつくったと。

佐藤:つくったんですよ。それ、彼女が亡くなって、本が出るっていう話になったときに、ちょっとみんなとしては納得がいかないみたいなところは、もちろんあったわけですよね。伊藤さんが持って行っちゃったから。だからそういうのもあって、みんなで追悼文集をつくりましょうっていう話になって、それをつくったんですよね。それがないんですよ。自宅にもないっていうね。ちょっと探したんですけれど。誰かが持っているはずなんだけれど。たぶん1000円とか500円くらい、忘れちゃったけれど。機関紙に書いてあると思います。それをつくって、あれしたんだよね。売ったっていうか、そんな感じだったと思うんだけれど。それは、けっこう早々に売り切れちゃった感じだったから。当時は、何も考えがなかった、そこで終わりだったので。

立岩:そうかもしれない。ほしいっていう人が来たら、まだ残っているつもりであげちゃったら、自分の手元に0になっちゃったとかって、ありますよね。

立岩:そういう感じだったんですね。あれの原板とかも、どこかに。というのは、あれ原板自分たちでつくって、当時ワープロでつくったのを印刷所に持って行って、印刷してもらったので。

佐藤:ワープロの代わりだと、もう今は。

立岩:もう今はないですよね。

佐藤:だから、もう印刷仕上がったものしかないんだけれど。でも、100人くらい書いたのかな。関わってくれた。

立岩:主に大学生?

佐藤:もう卒業した。大学で関わったとか。

立岩:大学で関わった人たちが、もう就職しちゃったみたいな。

佐藤:あとは、さっきの、最初にいた頃の人とかも書いていたかな。

立岩:さっき言っていた、途中から入ってきた、英語ができる筋ジストロフィーの人というのはどうなったんですか?

佐藤:佐竹くん。結局亡くなっちゃったんですよ。29歳で、あき江さんと同い年で亡くなった。

立岩:どういう字を?

佐藤:佐竹は、にんべんに左、竹は普通の。

立岩:その人も若くしてというか。

佐藤:若くして、20代で死んじゃいましたね。だから、大学に来ていたとき、たぶん23、24だったと思うんだけれど、5年後くらいに亡くなっちゃうという。あき江さんが死んだあともその後やっていたんですけれどね。なくなっちゃいました。

立岩:だけど、そのあと数年生きている。

佐藤:そういう感じですね。

立岩:関係したのだと、ほぼ大学生だと埼玉大?

佐藤:あともう1つ隣に衛生短期大学というのが。どっちかっていうと、最初そっちが主でしたね。女性ばっかりだったんですよ。衛生短期大学って。看護婦さんみたいな感じの人たちになるやつの、当時で言うと施設の寮母さんとか、そういう感じの学校だったのね。福祉系の大学、短大、女の子ばっかりだったこともあって、福嶋さんも薫さんも女の子だから、女性の介助者を。簡単にいうと女の会だったんですよ。今考えると、それもうまくいかなかった1つの要因なんじゃないかと思うんだけれど。なんとなくぐちゃっとして。

立岩:女の子がぐちゃっといて、わいわいいるんだけれど。

佐藤:そりが1回合わないと、ちょっとうまくいかないっていう感じ。それが、例の84年のいろいろ停滞しちゃった頃のあれなんじゃないかなと思うんですけれど。

立岩:本当の人間関係みたいなので、うまくいかなくなるときありますよね。

佐藤:そうなんだよね。特にみんな若いしね。あき江さん自身も若かったわけでしょ。

立岩:そこの中で引っ張っていくっていう話になりにくいですよね。性別にしても年齢にしても。

佐藤:そうそう。引っ張るタイプの人でもないんだよね。福嶋さんが。真ん中でにこにこ笑っていて、だからばーっと集まってくるんだけれど、それで引っ張るという感じではない。でも、それが生き残るすべだったのかもしれないとも思うんだよね。つまり、極端な話をして、こうやって落ちる人をつくるくらいだったら、ミツバチが寄って来るのを待っていたほうがいいっていうね。それで介助やってくれればいいじゃん、みたいな感じのところは。

立岩:そうすると、福嶋さんいなくなって、けっこうがらっと変わった虹の会自体。名前は継承されているわけだけれど。

佐藤:もう全然違うと思いますよ。

立岩:じゃあこれからどうすればいい、みたいな話だったんですか?

佐藤:そのときは、僕はもう辞めるというので、辞める派で完全に話し合いをして。でも、あき江さんがやろうと言ったこともあるんだから、みたいな正論もあって。とかなんとか言っていたら、今うちの会長さんが、蓮田の病院にいて。あき江さんと同じように、蓮田の筋ジスの療養所にいて、病棟にいたんですよ。ずっと子供の頃から入院してきて、でも出たいという話になって。

立岩:最初、福嶋さんに反感というか、他人介護でどうするんだということを言っていたけれど、でも出て。

佐藤:出て、結局佐竹と、今のうちの会長工藤さんというんだけれど、工藤さんともう1回やるという話になって、それで始まりはしたんです。

立岩:じゃあ、再建かなくらいの、まだどっちかわかんないくらいのときに、工藤さんと若い佐竹さんがやって、じゃあやるか、みたいな。

佐藤:そこで、今度男の会になるんですよね

立岩:がらっと。

佐藤:だから、もうそもそもが変わっちゃった感じ。女の会じゃなくて、男の会になったっていう。言っちゃあれなんですけれど、でも雰囲気は、見た目も変わりますし、華やかさはゼロになるし。そういう感じにはなりましたね。

立岩:2人の生活を成り立たせていくというのは当然あるわけです。そこから始まったみたいな?

佐藤:始まったみたいな。

立岩:それを広げてみて?

佐藤:そうですね。そのあとに今副会長とかやっているんですけれど、いろんな障害者の人が出てきたりとか、そんな感じになって、結局続いてきたという。途中から知的の連中が来るようになって、そっちにいろいろ変わってきて。形は変わったけれど、地域で生きるということについては、あまり変わらないでやってきたなと思っていますけれど。

立岩:そもそもボランティアとか嫌いだったけれど、でも、そういう障害児教育とか、そういうコースに入られたというのは何かあるんですか?

佐藤:自分は頭のいい子だったんだな。嫌な生徒だったと思うんですよね。ただ、高校のときはすごいひねくれていまして。

立岩:パンク少年だったのが不思議ですよね。

佐藤:そうだったんですよね。へんてこだったんですよね。でも大学にいける頭はあったので、だからちょっと嫌な生徒だったんですね。でも、やっていくうちにだんだんわかったのは、いわゆる全障連系の感じの人たちとの出会いというか、そういうので変わったのかな。結局アウトローなんだという。運動をやっていくとかってアウトローの話であって、ボランティアとかっていうとすごいいい人に見えるけれど、全然違うじゃんっていうことがわかったときに。

立岩:それは大学に入ってからでしょ。アウトロー系の障害者***(01:02:28)知らないじゃないですか。高校生の頃。

佐藤:高校生のときは、ダウン症の子を夕方の4時から6時の間だけ預かってくれっていうふうに、八百屋さんに頼んでいた人がいた。ダウン症の子を連れて、この子を面倒見てくれって。学校から帰ってきてから、俺が迎えに来るまで預かってくれって言っていたお父さんがいたんだって。

立岩:八百屋さんに?

佐藤:八百屋さんに。そうしたら、八百屋さんも一番忙しい時間だからちょっと難しいよってなって、そしてうちのお袋がそれを見ていて、そのダウン症があんまりかわいかったんだって。それで、ちょっと待ってあなたって言って、私が預かってやるわって言っちゃったんだって。どこの誰だか知らないんだよ。しかも、そのときお袋働いていたんだよ。保育園で、保母さん。しかも主任みたいなのやっていたんだよ。だから、結果的にその夕方の時間誰がその子の面倒を見る?っていう話になって、俺っていう話になったんですよ。トイレもその子できなくて、おしっこ漏らすような子。そんなのがあって、それが高校生のときで。

立岩:ダウン症の子は自宅に?

佐藤:うちに。しょうがないから、八百屋さんに行かずうちに、学校から帰ってきて、お父さんとお母さんが迎えに来る。そのお父さんとお母さんがまた素晴らしい人だったのよ。だけど、お父さんもお母さんも仕事を辞めるという選択をするべきじゃないと思ったんだろうね。でも、当時は学童とかも、障害児だからって言って預かってくれないっていうのがあって。仕方なくいろいろ探したんだと思うんだよ。そうしたら、たまたまうちのお袋に巡りあったもんだから。うちの親父が、養護学校の校長先生だったし、当時。そういうのもあって。うちのお袋は、昔もともと施設の寮母さんだったんだよ。親父がその施設内学校の先生で、そこで結婚しているから、そもそもそういううちなわけ。うちにもしょっちゅう足の悪い人とか来ているようなうちだったから。もともと元始はあったの。

立岩:そういう人たちとの付き合いが。

佐藤:あったの。そこで預かることになったのが、最終的なあれだよね。やりたいことがあまりなかったから。ちょっとそれもいろいろ理由があって、国立大学に入らなきゃいけなくて、埼大の教育学部で入れそうだ、試験的に。一番入れたのが、障害児教育のところが一番偏差値低かったんですよ、当時。当時というか、今もそうなのかもしれないけれど。やっぱり障害児教育って、あまりやりたい人いなかったのかな、昔。一番低かったから、一番入りやすいところで受けるというが***(01:05:30)あったので、それで入っちゃったっていう。ただもとにそういうのがあったから。だから、いろいろそういう流れがありましたね。たまたまいろいろ流れがあって、今まできて。そしたら、あき江さんが死んじゃうし。あき江さんが死んでいなかったら、別に普通に学校の先生をやっていたと思うし。

立岩:3年生のときに亡くなられているから、卒業前だもんね。卒業していれば、また。

佐藤:そう、全然違うと思う。俺が辞めるっていう派だったのに、俺が職員になるっていうことになっちゃったし、だからいろんなことがたまたまみたいな。わかったよ、2、3年やるよ、みたいな感じで始まったのに。

立岩:84年に再出発のときの有給のスタッフっていうのが。

佐藤:あき江さんが亡くなって、もう1回スタートして、今の会長とかと生活始めるっていったときの有給の職員は、僕と僕の元奥さんですね。2人。女性もいたからね。患者さんのこともあったし。

立岩:2人がとりあえず、***(01:06:40)月給っていうふうにもらって。

佐藤:もらって。あとは、最初ボランティアで運営。だから、そこはあき江さんと同じ形で始めて。でも、そこからものすごい行政交渉始まったから。がんがん、かなりいっていたので、2、3年後に夜の人にもバイト代を出せるようになって、みたいな感じ。僕と同じ立場の人も何人か増えて、みたいな感じになって。

立岩:埼玉の介護人派遣事業みたいなやつですか?

佐藤:そうですね。それが始まったんですね。それがけっこう足がかりだったんですよね。最初のとっかかりだった。

立岩:交渉だの何だのっていうのは、第2の虹の会以降という。

佐藤:以降ですね。それまでやったことがなかった。あき江さんがいた頃は何も。一度も。

立岩:じゃあ、高野さんというのが生きていれば、そういう方向に行ったんだろうなという感じの人だったみたいですけれど、彼はもっと早く、2年くらいしか出てこなかった。3年か。彼は本当に心臓が弱くて、こんな紙みたいに薄い心臓の筋肉があって、***(01:07:55)もしていないけれど。

(01:08:00)


UP:20180123 REV:
病者障害者運動史研究 
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