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「被災地の現状から学ぶ――今、私たちが備えなければならないこと
絆・術・策」インタビュー報告資料

古井 正代青木 千帆子

last update:20111018

  ■家族

Uさん:その日は「***」という事務所にいた。帰りの支度しようかなと思ったらがたがたなった。ちょっと時間をおいてから(事務所が送迎してくれて)家に帰りました。家は大丈夫だった。お父さんが家にいた。その夜に水が出なくて●●にトイレをかりにくるようにいわれていった。あと2,3日はKの福祉センターに(両親が留守をする昼間だけ)通った。あと2,3日は(どこにも)通わず一人で自宅にいました。[…](携帯は)ドコモがつながらなかった。うちは結構近くに人がいるので周りの人が見に来てくれた。いろんな人が来て窓越しとかインターホン越しに声かけてくれた。[…]家は買いだめっていうかしていた。何があってもいいように電話番号を書いたやつをかべにはっていた。

MYさん:自身の時はここ(事務所W)にいた。自宅にもどったら電動車いすが倒れていた。あと2週間は家にいた。大きな地震が起きるときは早く知らせてほしい。もし家に一人でいるときに地震が来たら不安です。当時は余震がたくさん起きていたので不安だった。ずっと母について動くようにしていたので安心。

TYさん:地震が起きた時はここにいた。自転車で自宅(市営住宅)に帰ったけれどスロープに(15cm位の)段差ができて入れなくて。(ヘルパーが中を確認したら茶碗が2〜3個割れているくらいだった。しかし何しろ入れないのでKの)避難所に行った。2日間だけ。それから実家に行った。実家は6人家族。祖母と両親と弟2人。家自体は大丈夫だったけど、壁は壊れてめちゃくちゃになっていた。
正代さん:自宅は衣食住の環境が整っていたのか?
TY氏:(うなずく)。介護はシャワーの時だけ必要で、あとは時間がかかるけど自分でできる。
正代さん:じゃあお母さんもいたし問題なかったんやね。
TY氏:買い物に行っても何もなくなっていた。道路も陥没して陸橋も壊れていた。街灯がつかなくなっていた。3日くらい。
ヘルパー:郡山市は亡くなった方が1名2名とか、被害自体は少なかったんですよ。ガソリンがなくなったということが大きかった。

MHさん:この日は事務所Wを体調不良で休んでいて自宅にいた。一人で家にいるときに地震が起きて、左側のタンスにおいてあった手動の車いすが落ちてきて、右側からテレビが落ちてきた。部屋の真ん中のベッドで寝ていて、真上では照明が落ちてきそうになっていた。お母さんがすぐ帰ってきてくれたけど、一人でしばらくいてとても怖かった。偶然自分は無傷。今だから笑えるけど。
ヘルパー:「今気をつけているのは、手動の車いすとか重いものは高いところにおかないこと。」
MHさん:家ですごす2週間はひまだった。[…]
正代さん:生活は困らなかった?
MH氏:特に困らなかったけど。家族の紐帯は強くなった。自立しようかと考えていたけど、家族といるのは安心。

  ■ヘルパー

NSさん:地震の時私はモールに買い物に行っていて、その前に郵便局行って(ATMで)払い込みして久しぶりに買い物に出ていた。買い物しようと思って5分もたたないうちにぐらっときた。(1階の食料品売り場にいた)最初こんなにゆれるからとまらないのかと思って待っていたらどんどん大きく揺れてみんなしゃがんた。私はしゃがみ込んで、しゃがみながら床にトンビ座りして。そのうちモールの2階が火事になったみたいだった。(スプリンクラーが作動して2階の一部だけが燃えたようだった。店員が外に出るよう誘導したが)靴が脱げてちゃて店員の人にもってもらって駐車場に出た。いったん揺れが収まったものの駐車場に避難してから雪も降ってきて風もふいていて寒かった。それでベンチに座らされて、呼吸困難を起こしてモールの外にあるベンチにしばらくいた。車いすを借りられますかって聞いて、持ってきてくれて車いすに乗った。ベンチにはしばらくいた。揺れがとにかく何べんも来ていたから、落ち着くまであぶねぇと思っていた。1時間くらいたって帰った。モールの中では棚の品物からライトから割れて(落ちて)大変だった。
今考えてみれば、私家の中にいたらと思うと怖い。たまたま買い物していて。家に帰ったらほんとうにものはがしゃがしゃに落ちていたけど天井や壁がはがれたりとかはなにもなくて、お風呂のタイルだけひとつはがれていて、テレビがひっくり返っていた。水道も使えなくなってトイレはしばらくそのままだった。電気がつかなくなってその日の晩は台所に固まっていた。下手に動くと怖いから台所の食事するところの椅子に一晩座りっぱなしでいた。
正代さん:食べるものはあった?
NSさん:食べ物はあった。台所にあるものがあって、ごはんも炊飯器の中にあって。味噌汁はひっくり返っていた。もう飲めない。(掃除はせず)しばらくそのままだった。
 2日目になったら(地震以前に)週に1回お願いしていたヘルパーが(様子を見に)来て。モールから自宅に帰って来た時にも法人Iの職員がみんなのところ回っていて一人来てくれた。Kの避難所の方にみんな避難するようにいわれたんだけど、生活ができる状態だったから「うちの中にいて大丈夫です」と言ってそのまま残った。畳の散らかっているところに毛布を敷いてカーボンヒーターをつけっぱなしで寝ていた。
 3日目になってそのうち(地震以前に週に1回来てくれていた)ヘルパーさんが確認しにきてくれて片づけを手伝ってくれた。ガスが3日目くらいに再開して、水は4日目くらいにもどった。電気は3日目。2日目だったかな。
正代さん:その間食べ物はどうしてはったん?
NSさん:あるものを食べていた。まだゆれがあって怖かった。家はIHヒーターも使ってあっためたり簡単な料理したりしていた。4日目以後食料がだんだん乏しくなってきた。また別の週3日きてくれていたヘルパーさんが、食料をもってきてくれて助かった。他にも民生委員の人や法人Iの人が水を運んできてくれて、そのうちに水道が出てきたので使わず仕舞いだった。安否を見に来てくれて生活できているかみてくれた。片付けにも来てくれた。

SYさん:地震の時は家に一人でいたんですけど、母親が外にいたのですぐに戻ってきて助けてくれました。家はキッチンが少し崩れて時計が落ちたりしました。家ではフローリングの床で横になっていました。そこには物は落ちてこなかったです。[…]家族の安全を確認しようとしたが携帯で通じなくなって連絡がつかなかった。でもみんな無事でした。[…]家は農家なので米と野菜があり電気もなんとか止まらなかったので避難所にはいかなくてもよかった。水は止まらなかったが汚いへどろというかさび水みたいなのがでていた。それが1週間ぐらい続いたけれど、何とか使っていました。電気が止まらなかったのが一番良かったですね。[…]ヘルパーの確保はちゃんとしておいてほしい。親がいたからいいけど、一人でいて連絡も取れない、動けないだったら何もできない。僕は話することしかできない人なので、孤立したらどうなっていたのかを考えると心配。どんな状態でもヘルパーがこれるように考えておいてほしい。[…]2週間ちょっとくらい風呂に入れなかった。体拭いてもらってはいたからまだましだったかなと思うけど。(震災後最初のお風呂は)2週間後、両親の介助で。ヘルパーはどうしても来れなかったので。つらかったですね、やっぱり。

SKさん:地震の時は一人でいてぐらぐらーっとなったのでストーブを止めて扉を開けて玄関にいました。STさんが帰ってきてくれたから安心して、少しだけ家の中にいた。揺れが収ったから公民館に行った。公民館は壊れているからだめだといわれて、小学校に行った。小学校の体育館も壊れやすいからだめだといわれた。みんな別のところにいっていた。それで法人Iのスタッフが来て車に乗せてもらってKのセンター、避難所に行った。家は物だけでなく押入れや台所の壁が落ちた。私はびっくりして飛び出したからあまりよくわからないんだけど。地震の時ストーブの前にいたからよかった(消して出ていた)。電気は気づいていなかったので一晩中テレビつけっぱなしだった。避難所には3週間いた。[…]一人でいたから本当に怖かった。STさんが生きていたらよかった。やっぱりヘルパーさんの十全な体制があるといいなとは思いますね、やっぱり。私も重度というか寝たっきりだからというのもあるし。24時間の体制があると違うと思う。[…]最初の2週間は平日は別の組織のヘルパーがきていて、土日の朝は法人Iのヘルパーがきてくれた。トイレはなかなかいけなかった。福祉センターの保健婦やヘルパーさん、STさんに頼んでやってもらっていた。お風呂は2週間後から入浴車がくるようになった。その前は法人Iのスタッフと一緒に銭湯に行った。女性の入浴車に男性介助者が一人いて不満だったけどいえなかった。

  ■避難所

OHさん:地震の時は自宅にいた。上のものが落ちてきた。でかいスピーカーとか全部滅茶滅茶になった。その時は一人でいたが近所の人が心配してきてくれた。外に出るのも大変だった。駐車場に降りて車いすに乗っけてもらって、近所の人と一緒にみんなが集まっているところ(近所の駐車場)にいった。(雪が降ってきたので)近所の人の車に乗り換えてココス(ファミリーレストラン)に行った。その後法人Iのスタッフが迎えに来てくれた。[…]そのあと福祉センター(あいえるの会が福祉避難所を開設したところ)。[…](避難所には)3週間。[…]同窓会みたいになっていた。
ヘルパー:でも楽しかったのは最初の1週間ぐらいであとはみんないらいらして。
正代さん:今になって思うことは
OHさん:Kだけだべ(自分たち障害者が避難できたのは)。やっぱどこか近くで(福祉避難所は近くにあったら助かる。福祉センターは事務所Tから3kmくらい離れたところ)[…]
ヘルパー:福祉避難所にいてもシャワーを使わせてもらえなかった。1週間ぐらい。
正代さん:なんで?
ヘルパー:公平性の観点から。他の体育館の避難所とかにはシャワーなんかないと。
正代さん:なんちゅう役人根性や。あほちゃうか。食べるものは回ってきていた?
ヘルパー:ひどかったですよね。菓子パンと水だけが2日間続きましたよね。2日目の夜カップラーメン。次の日から冷めたおにぎり、パン。市役所から回ってきていました。栄養状態は悪かったです。
OHさん:うん
ヘルパー:健常者と障害者で違うものが回されるということはなかったけど、(他の避難所にはあった)炊き出しはなかった。ボランティアが炊き出しをしに来ても「ここは特殊な場所だから」「いろいろあるんで」と断っていたことが後から分かった。

Oさん:3月11日当日は事務所でパソコンとか作業をしていた。熱中していたがものが落ちてきて棚もぐつぐつきてそういう状態で動きが取れなくて地震がはげしくなった。気候も雪とかふったりしていたので、ここで辛抱することになった。電話をかけまわったんだけど通じなかった。でも電話かけなければなんねえと思って携帯から公衆電話からかけてもらってやっと通じた。いっても  家はアパート生活しているので戻ろうとしたが、そこも全部崩れていてその時はどこにもいかずKの福祉センターの方に行きました。次の日いったん帰ったんだけど、やはり生活するうえではヘルパー使わないととかいろいろあったんだけど、ヘルパーが来ないとか水が止まっているとかそういういろんな面で困る。それで福祉センターに、法人Iの一部のメンバーは2週間ぐらい避難所にいた。
HNさん:地震が起きた時やはり困ったのは地震よりも津波のメールが来て原発がこわれちゃった。その放射能が目に見えないのでそれがやはり私はなんていっていいかどうやっていいかわからないというのが現状です。それでやはり地震になったときは私も怖かったです。ふらふら5分もなっていたな。気持ちも動揺しちゃうので、おまけに私は買い物にいっていてモールの2階にいたものだから、エレベータが止まって(電動車いすなので)動けなくなった。天井から水が漏れてきた。時間がたってから警備員の方とか従業員とかみんなで車いすを持ってもらって階段でおろしてもらったんです。それでここの事務所Wまでもどってきたんだけど、その中に入るのが怖くなってしばらく外にいました。それから避難所っていうか障害福祉センターに行ったのですが、一番大変だと思ったのはヘルパーさんが人が足りない面があったのがやっぱりやっている職員は大変だったと思う。
正代さん:電動車いすごとおろしてもらった?
HNさん:そう。だから車いすにのったままだから大変不安。おろすときに怖かったですよ。あと、モールから事務所Wに戻ってくる途中も時々揺れて壁とかが落ちてきたんですよ。危なかった。
青木:翌日から避難所でしたか?
HNさん:自宅にいようと思ったのですけどヘルパーさんがこれないからといったので避難所の次の日から事務所Wのみんなと一緒に避難所に行った。最初の晩は停電したの。家が真っ暗になっちゃって困ったの覚えています。電気が来なかった。
正代さん:一晩はどこにいたの?
HNさん:自宅です。(夫婦と娘2名の)4人で。
HKさん:夜停電になったのは1時間ぐらいだったから、すぐ電気がついた。
HNさん:でもその1時間でもこわかったべ。
HKさん:子どもは最初友達の家に泊まりにいかせてもらって、一度帰ってからその後会津の実家にあずけた。私は地震の日は事務所Wにいた。子どもは二人とも学校。上の人が学校から帰ってなくて電話もつながらないからそれが一番心配でした。(普段は子どもが学校から事務所Wに帰ってきて合流から帰宅していた)
正代さん:HKさんはどこに
HNさん:ここ(トイレ)に入っていた
HKさん:私はたまたま病院に行っていたんですよ。そこでお昼を食べていつもだったら買い物して帰るのだけど、その日はなんとなく早く帰りたいと思ってすぐ事務所Wに帰ってきた。それでトイレに入ったらいきなり(地震が)きたから事務所の中で物が落ちたりするのはみてない。トイレから出たらすごい状態になっていた。トイレも壁が割れていたけど(その時は)気がつかなかった。
正代さん:トイレからでるのには時間がかかった?
HKさん:あぶないからそこにいろと言われて、あぶないからくるなっていって
Oさん:しばらく便所にいた。今は横にこういうのおいてあるけど、当時はこれが縦に棚が何個もあって、こっちもね。コップとか全部おちてきて、全部割れて。逃げようと思っても逃げられないようになっていた。初めは簡単に思ったけど全然だめで、そうなった時点でこっちもビビッて来て、もうこれで終わりかなと思った。
HKさん:こんな死に方もあるのかなと思った。
正代さん:便所でおわるのも情けないね
HKさん:とりあえずズボンは上げておきたいと思って
(周囲笑う)
HKさん:このまま死んだらいやだなと思った。
正代さん:とりあえずズボンは上げたんや
Oさん:こうやっていってっけど
HKさん:あの時は大変やったね。子どもがいるから子どもの安否をと思ったんだけど、電話がつながらないでしょ。子どもの顔を見るまでは絶対に死んでも死ねないと思った。高校生と中学生。

  ■ふりかえってみて

Oさん:ああいう避難のやり方じゃ問題がいろいろあったわけだ。あれがよかったかどうか。もし避難できなくて家に帰っていたら、今こうやっていられなかったかも。その点はよかったとは思う。あと原発とかの避難計画とか選択は個人の判断だとか言ってるけど、会議でも話し合っているんだけど避難所のこと、われわれヘルパーと暮らす生活している身分でもあるし、ただ単にぽんとそこらの例えば横浜とか神奈川に行けっていわれても、行くのはかまわねぇけど、その後の自分たちの生活の部分に個人個人が危機感もっている。自分でね、やれるなら別だよ、移動してもいいんだけど。そこらへんでどこにいっても、自分たちがどこに行ってもいいように、今みたいにサービスとかいろいろできるということが思案だと思うんだ。
HKさん:私は原発と関係なく避難しなければならないってことになったときにこの前思ったのは、地震が起きて、実はヘルパーは来てくれて、近くの避難所に行こうって言われたんだけども、その時私が思ったのは、もし私が避難所に行っても、たとえばトイレは入れないとか、ずっと介護を受けられないとかっていうことが頭に浮かんで、それだったら家にいた方がいいと思って家にいてしまった。そういう時、行政が郡山市の障害福祉課の職員がとりあえず一般的な避難所に行ってとにかく一晩くらい介護やるとか、そういうシステムがあれば、一晩あればどこに行こうかということを決められた。在宅の障害者でも障害者が選択している空気はなかったから、とりあえず一般の避難所に障害福祉課の職員がまずいって介護をやるというようなシステムがあればいいと思った。
正代さん:障害者だけがあつまらんでもということ?
HKさん:そうそう。ヘルパーがいればいられるように階段にはスロープ付けるとかやっておくべきだし、避難所を守るっていう意味では障害があってもなくてもおなじだから、避難所に避難できないっていうのはおかしいと思っている。
正代さん:ほんまやね。南相馬の話とかね。障害者は二人分のスペースとるから出て行けとかいわれたらしいしね。
HKさん:そうそう。おかしいな。あと知的の人がパニックを起こすからいられなかったり、そういう話がいっぱいあるから、その辺をなんとかしてもらわないと。
Oさん:そこらへんのこともそうだけどね。こっち(障害者)とかちょっとの人を移すんじゃなくてさ、全体的に役人くらいの人間が見れるようでないと足りないものも出てくるし。ただ村に行けば変な話だけど、車いすがいるだけで変な顔されるような。そんな政府の考えはまだまだだから、そこらへんが。差別っていうんじゃないけど理解がもうちょっとあればいいんだけど。ただ一般の人がけがしたときの事だけで、あと治ればちゃんと足も動く。過ぎてしまえばわすれちまうんだよ。だけど自分らはそれが永久に続いているわけだ。生きてから死ぬまで治ることじゃない。だからそういう部分で。



*作成:青木 千帆子
UP: 20111018 REV:
全文掲載  ◇災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇東日本大震災:本拠点の活動関連 

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