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【被災者手記】「悪魔からの逃避行」

201103**

last update:20110720

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  3月12日〔土曜日〕避難1日目
 車の大渋滞進まない前が見えない、25キロは、渋滞しているだろう。頭の上の防災スピーカが、耳障りに避難せよ、大至急避難せよ、福島第一原子力発電所において、放射能漏れの、危険があるので町民のかたは全員、川内第一小学校まで、避難せよと、繰り返している。避難中何度も訓練であってほしいと願った。
 家族9人で、3台の車に分乗して逃げた、直ぐに帰れると思い、とりあえず、避難しようと思い出てきた。飲み物も無い、食べ物もない、着変えも無い、私も以前原子力発電所で働いたことがある、少しは知識を持っていた。消防車が、けたたましくサイレンを鳴らし通りすぎていった。大変なことが起きていると思った。町ぐるみで避難命令が出る、と言うことは、相当な事故が起きていると直感した、外れてほしかった、何度も願った、ふるさとが、遠くになるにつれ、これまでの人生が、走馬灯のように流れた、今は亡き、祖父母や、父母兄弟親戚部落の友達など、共に暮らしたことが、頭の中で駆け巡った。背中に油汗がどっと流れ気分が悪くなった。後ろに乗っている妻が気が付いて声を掛けてきた。お父さん大丈

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夫?ふっと我に返った。しかし現実を受け入れる事がどうしても出来ない。後ろの車は長女が運転している孫が二人乗っている車が渋滞していると、車から降りて来て爺ちゃん怖いよどうなるの中学2年のHが、今にも泣き出しそうに、爺ちゃん助けてと言ってくる。車が渋滞で進まない、防災無線は避難を呼び掛けている少しでも速く遠くに逃げ避難場所に行きたいのだろうが車が、進まないので気持ちが焦っているのが伝わってきた。3台目の車は二女の夫が運転していた。3人乗ってる、その孫も同じ、爺ちゃん怖いよう助けてと涙声、孫たちの願いをすべてを、これまで聞き入れてきた、今度ばかりは、どうしようもない。悔しい思いで自分が情けない大丈夫、大丈夫、爺ちゃんが絶対守ってやるからと、声をかけるしかなかった。自分の車に同乗している息子、「Tが一番心配だ」息子は生まれつきの障害を持っている、先天性水頭症身障の1級を受けている。34歳体重64キロ、外出すると、眠らない、食べない、飲まない、排便もしない、一番恐れていたことが起きてしまった。極度の神経過敏症なのだ。車の中でも機嫌が悪い、大きい声で奇声を出すだけ、会話もできない、しぐさも出来ない、他の人には何も分からないだろう。親と、兄妹と、

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孫達しか分からない。その表情を、みて判断し、介護してきた。無常にも、その表情が、出てきた、汗が噴き出してきた、それが進むと、ひきつけを起こす。妻が必死になだめる背中にタオル入れて身体を拭いている。機嫌が悪くなってきた、お父さんどうしようと叫ぶ、Tが死んでしまうど、涙声になってきた、T大丈夫・大丈夫・T君、平常心に戻し優しく声を掛けた、頑張れよ、頑張るんだよと、声をかけ祈るしかなかった。こんなことで、息子を殺してたまるか、死なせてなるかと自分に言い聞かせた、東電が憎い、なぜ嘘をついてきたのか、どんな地震が来ても大丈夫、これの一点張り、3重、4重の防護して、大地震がきても、バックアップの発電機が稼働し、発電所の機能は保たれる。絶対発電所外には放射能漏れは起きないの一点張りだったのに、見事に外れたのだ。車のテレビの報道で想定外の津波が来たと言い訳を言っていた、がっかりした、この期に至っても、まだこんなことを言っているのかと、人として、こんなことを言えるのだろかと、官僚みたいな東電の風習にがっかりした。「安全安心地域と共に生きる」など歯の浮くような言葉を並べて、双葉郡の住民を、県民を、国民、騙していたのだ。私は人災だと思った。過去にも、インドシナア半島で、すで

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に巨大津波が起きているのだ、地球上で今度の地震よりも大きい地震が2つも発生しているのだ。この地球で、どこで発生しても、日本のどこで起きてもおかしくなかったのだ。地震専門家は、たびたび指摘していた。宮城県沖地震の起きる確率は、90パーセントを超えている。それを、おろそかに進めて来た防災設備に東京電力と国に大きな非があると思った。私は間違い無く人災だと思っている。何年か前の、地震で2号機重油タンクの配管が破れタンクローリ車を横付けして直接つないで修理したのを見たこともあった。また重油タンク廻りが地盤沈下して補修したこともあった。当時こんな地震で配管が切れたら、非常用発電機なんか動かないだろうと、素人の自分でも思ったことを今思い出した。
 避難所まで25キロ走るのに、4時間50分もかかった。普通なら30分で着くのに燃料も少ない、車も心配、孫達も心配、止まってしまったらもう動けなくなる。途中何台か、ガス欠の車もあった。普段なら買ってきてやるから待っていろとも、声かけてやれるがそれも出来ない。困っている人も助けてやれない、状況が悔しかった。川内の避難所の手前のスタンドに長い行列があった。それでも並んだ、やっとの思いで10リッター入れて貰った、それでも嬉し

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かった。避難所に着いたら、ここは満杯でいっぱいなので、外の避難所に行ってほしいとの案内。途方にくれた、息子を早く車から降ろしてやりたい静かな所で休ませてやりたい。妻が頼りがいの無い夫のような、顔つきで俺を見ている。自分でも、そう思えた自分が情けなかった。普段なら怒る所だが、我慢して心を鎮めた。携帯電話もつながらない、何度掛けても駄目だった。後方の孫達とも離れてしまい、避難所の中を何度も捜したが、見つからなかった。受付に頼んで次の避難所に向かって出発せざるを余儀なくされた。ここから30キロ先に、親戚の家があるのを思い出した。しかし電話は通じない。民家に寄って固定電話を借りて、ようやく通じた。離れた孫達とも連絡が取れた。親戚はわたしの息子の具合悪いことを知っているので、直ぐ来い、何故真っ直ぐ来ないんだ、と怒っていた。嬉しかった、地獄に仏、と言う言葉を思い出した。こういう時に使う言葉なんだと思った。この後のことなど考える暇もなく、5時半頃やっとの思いで息子を畳の上に横にすることができた。疲れが一度に出てきた。余震は相変わらず続いている。孫達の悲鳴が絶えず聞こえる。45キロの避難の一日がようやく終わりそうだ。しかし電気が停電し暗い、寒い、そして辛い、

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一晩になりそうだ。しかもこの後の避難に次ぐ避難など想像もしてなかった。

  避難3月13日〔日曜日〕避難2日目
 福島県伊達郡川俣町山木屋、福島県の阿武隈山脈でもかなり高く海抜650mぐらいあるだろう。原発から40キロは、離れた、昨夜は、かなり寒さが厳しかった、布団の中に入っても寒くまったく眠れなかった。余震も相変わらず続いている。そのたび起き上がる。息子も驚いて眠れなかった電気もまだ来てないろうそくで明かりをとっているため、危険なので熟睡も出来ない。不安を抱えながらの仮眠である。テレビも映らないため情報も入らない、ラジオのニュースに耳を傾けて、原発事故に集中した1号機の冷却装置が、正常に稼働しなく原子炉格納容器の温度が高くなり危険であるとのこと、2号も危ない、大変なことになりそう不安が増してきた。もしも、もしかして、考えるだけで恐ろしくなり、嫌に成ってきた。もしかして、生家に、帰れなくなるのではないか。脳裏に映ったのは、あのソ連のチェルノブイリ原発事故だ。半径60キロ、アメリカのスリーマイルでも80キロぐらい一時強制避難があった。最悪そうなったら、双葉郡は完全にアウトだ。目

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の前と言うか、頭が痛く、立っている足に力がなくなるのがはっきり分かった。昨夜は寒かったので、旧式の電気が無くても、芯を出して燃焼するタイプのストーブを買いに、二本松市内に出かけた。しかし1台も買えなかった。往復50キロも走ったが、どの店も売れ切れ、在庫無し、とのこと。ガソリンも無いのに、売っていないことに頭にきた。避難先の主人が心配して、LPガスのレンジを直接燃やして、暖を取れるストーブを作ってくれた、息子の部屋もこれですこし温まってきた有難かった。原発の1号機事態が悪い方向にむかっているニュースが流れている。私は、車のテレビから離れられなくなっていた。私の家族9人と避難先の家族4人と、計13人騒然となってきた。私の娘婿が自家用車の電源から、コンバータを利用して、100ボルトの電源を取り出しテレビが見れるようになり、皆ニュースに釘づけになった。16:00過ぎ、1号機の爆発の状況が出た、最悪のことが起きた。まさかあの1号機が囲いごと、屋根も吹き飛ぶとは想像もしなかった。しかし現実なのである。双葉厚生病院から避難するのに順番待ちする人々が、物凄い音と地響きが鳴り白い粉じんみたいのが降ってきたと、報道されていた。とうとう始まったかと、大きなため息が漏れた。目に見

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えない悪魔が、ついに牙を出してきたのだ。福島第一原子力には6機の発電所がある。他の号機も危ない、同じ爆発が起きると直感してきた2号機も爆発寸前で、ぎりぎりの対応している。3号機も危ない4号機も、もう手に負えない状態である。大変なことになってきた。今避難している所は約40キロ、ここも危なく成ってくる気がした。娘も孫達も心配になってきた。早く決断しなければならない。早めの避難をしたほうが良いと、思うようになってきた。また避難か。息子乗せてまたか。いったい何処にいったらいいのか迷った。何故我々が、こんなひどい目に逢わなければならないのかも悔しくて悔しくて涙がでた。娘の前で涙も出せない。孫にも見せたくない、ただ一人、一目を忍び、ただ鼻をすすりあげるしかなかった。この春中学三年になるHは、夢と希望を持っていた。一年生から始めていた部活のコーラスと、器楽部のトップリーダに内定していた。生徒会も会計の役を自ら手を挙げその役も決まっていた。そして2年生までの成績も、学年でいつも五位以内にいた。いわき市内でも優秀な高校に入学して、国立大学を目指していた。夜遅くまで塾に通い、部活と勉強とピアノを両立させ、我が孫ながら感心し又頼もしく思いそれは私の宝だった。そして2才歳下のKも、

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今年から姉と同じ中学に進み、同じ部活に入り一緒にやるんだと喜んでいた。中学の新しい制服も出来あがり、それを着て見せては、何とも言えぬ顔でほほ笑んだ顔が今でも、私の脳裏にしっかり焼き付いている。卒業式には、学校の校歌のピアノ演奏もやると、それは張りきっていた。外孫のHも、今年は五年生になる。鼓笛隊の先頭の指揮棒を振って1番前を歩くと張り切っていた。爺ちゃん、婆ちゃん、絶対見にきてね、約束だよ、絶対だよと、話していた。こんな夢を、小さな夢も希望も全て、なくなってしまった。原発事故で避難した子ども達もみんな同じ思いだろう、たくさん夢を持ち、強い志しを持っていたであろう。これから子ども達の成長に、少なからずや影響が出ると思う。知らない土地、初めて友達のいない学校でどんな思いをするのだろうか。想像もつかない、本当にかわいそうなことに成ってしまったと思う。これからの日本の将来を担う子供たちの夢を、大人が壊してしまった。しかし子どもたちは、我々が思うほどそんなに、弱くない、逆境をバネに変え、きっと今の辛さを乗り越えてくれると心に願った。孫たちも、私と目が合ってもあまり会話をしなく成ってきた、心境の変化は気付いているが、なんと言って慰めていいのか言葉に成らなかった。孫たちも、私の

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苦悩を察知しているのだろう。まだ電気が復旧しない。暗くなる前に早めの食事をしようと、避難先の姉さんが用意してくれた夕飯を、みんなで御馳走になった。すまないと思う気持ちと感謝で一杯だ。心の暗い夜をすごした。

  三月十四日〔月曜日)避難3日目
 余震の続くなか、着のみ着のままの姿で床につき、あまり眠れないまま朝を向かえた。外に出てみたら車のガラスが霜で凍っていたどうりで寒いとおもった。息子は、ほとんど眠らなかったため機嫌がわるい。多分環境の変化に慣れないのだろう。そして又避難の事を考えなければならない、頭が痛くなる。今思い出した12日のニュースで、ベントと言う言葉を使ってニュースで流してた。これは大変なことをしたと思った、非常用圧力逃がし弁の事である、原子炉圧力容器が事故で、内圧が高くなり放置すると爆発するので、それを防ぐのに高濃度の放射性物質を含んだ蒸気を外気に放出したのだ。内圧を下げるのにベントしたのだ、汚染をまき散らしたと思った、排気筒からフィルターを通して出せば、いくらかは放射能濃度を下げられるが、排気筒配管が地震で壊れていたのをテレビで映っていた。これは大変なことをした。発電所廻りに出しているのだ、

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そんな状態中での、爆発である、堪ったものでない、大気圏に放射生物質を吹き飛ばしたのだ、広い範囲に近い内汚染が出ると思った。3号機の爆発も起こったもう駄目だ、逃げなくては、4号機も5号機も6号機も危なくなってきた。夕方頃、ようやく電気が灯いた、みんな喜んだ。笑顔でいっぱいに成り、ちよと余裕がでた。今夜は寒くなく過ごせると思い安心した。食事後みんなで集まった、我が家の家族9人、妻の兄の家族4人も昼間、合流した、避難先の家族4人、全部で17人明日は次ぎの避難先に向かってここを出る事を話し合った娘達と孫達と明日は離れ離れになる、苦渋の選択をしなければならなくなった。自分の家族達の行く先を自分の口から、出さなくては成らなかった。孫が、この手から離れていくのかと思うと辛かったしかし、孫達の健康も考えてやらなければならない。無駄な被爆は、出来るかぎり避けてやらなければならない、早めの避難を決断した。爺ちゃんもがんばるから、離れ離れに成っても、絶対がんばれよ、必ず又一緒に暮らせるようになるから、必ずなるから、するから、がまん、がまんするんだ、孫達に、そして自分自身にも強く言いきかせた。情けなかった、家族を守れなかった事が辛かった。単身赴任で横浜の会社で働き、鶴見に長女の夫が居る。

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そこに長女と孫二人と犬1匹が行く様に話した。二女の娘と夫と孫一人と、犬一匹、猫三匹は、富岡町の避難場所のビックパレット郡山に、私は保原町の知人宅に行くと決めた。それぞれ割り振った。辛い判断で有るが、妻と良く相談して決めたことを告げた。
 しかし娘達は反対していた。Tを、父と母に置いて行くことは出来ないと、一番心配していた反論だった。予想はしていた、この子達の兄妹愛は、人一番強いのは知っていたから、生まれた時からTの障害を見て来たから、心配でいられないのだろう。心を鬼にして自分の家族は、自分の子供達は、自分で守ってくれ。お父さんとお母さんでTは絶対守る、だから心配しないで、おまい達は自分の家族を守ってくれ。今の状況は確かに悪く、いつまでとは言えないが、必ずまた、元の生活に戻れるから、希望を持って頑張ろう。そう言ってようやく納得させた。特に辛いのは、2年前から一緒に暮らしていた孫達だ。2年前に、横浜の鶴見に、マンションを買って住んでいたのを売り払い、家族みんなで田舎に引っ越してきて、一緒に暮らしていたが、また離れ離れになってしまうことだ。長女のHは小児ぜんそくなので、空気の良い田舎での生活を、特に願っていたのに、残念でならない。田舎に引っ越してからは、ぜん

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そくの発作も起きず安心していたのだったが、又心配になった。私の敷地内に、昨年12月初めから、念願であった、マイホームの建築を始めて3月10日に完成して、12日〜13日に引っ越しの計画を立て、それはみんな大喜びの最中の出来ごと、我々の、こんな小さな夢も、希望もすべて消えてなくなってしまった。一部屋ずつ貰い部屋の飾り付けや机の配置など、カーテンの色など孫達が得意に話していた。本当にかわいそうなことに成ってしまった。この責任は我々大人にある。どう説明し、どう納得させたらいいか心が痛く気分が悪くなった。こんな小さな幸せを、東電の社長は知るすべもないだろう。本当にせつない夜を向かえてしまった。原発はとんでもない方向に進み、最悪のニュースばかりメディアも大騒ぎに放映している。こんなに騒いだら、不安をあおるだけだろうと思った。

  3月15日〔火曜日〕避難4日目
 3回目の避難の朝を向えた、朝の食事は、大人数なので交代で、3回に分けて食べた。無言の食事が続いた。テレビのニュースの音だけ耳に入る。原発の放射能漏れ、環境の汚染、線量の高さ、圧力容器の内圧の上昇、ヘリコプターの水掛け、失敗みたいなところを写しだしていた。原子力保安院の責任のない説明、なんとも、我々か

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ら見れば頼りなく、また責任は東電にありきのような、発言と、発表の自信の無いしぐさに、がっかりした。常に原子力発電所内の機器点検保守管理、機能確認、設備の安全性を確認する原子力保安院なのに、事の重大さに驚いているようだ。本当情けない。あわただしくかたずけし、そして出発の準備、冷静さをよそっているつもりだが、かなりイライラしていた、妻に当たり散らしたり、娘達にも、何かを言った記憶がある。9時30分頃ようやくできた。妻の兄夫婦と息子二人の4人は、群馬県桐生市に、避難先の夫婦と子供二人の4人は、群馬県の館林の明和村に、それぞれ昨夜の内にきめて連絡を取っていた。用意の出来た家族から出ると言うことで、妻の兄夫婦が、先に出た。悔しさと、悲しさと、不安を交ぜた別れ、肩を抱き合い泣きながら、また必ず元気で会おうね、必ずね、かならずだよと、声を掛け合いの別れが辛かった。私の妻は、実家が同じ町内で距離にして2キロぐらいの間、いつも近くて喜んでいたのに、本当に残念だ、次ぎは我々の番だが、私が一向に腰を上げないでいたら、妻が怒り出した。お父さんが出なければ、皆んなが出れないんだよ、早くしてよ、と急がされた。避難先の姉さんは、妻の実の姉なのだ。早くしないと、戸締り出来ないから急いでと言う、

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重い腰をようやく上げた。そして自分自身に言い聞かせた、よし、出るぞ、兄夫婦と、自分の子供達と、大事な孫達に声を掛け、途中の車の運転には充分気をつけるよ、家族が乗っている事を忘れるなよ、車の運転に集中しろよ、あと何を言ったか覚えてなかった、孫達が、爺ちゃん、婆ちゃん、ありがとう、と言う言葉が特に胸に刺さった。出来ることならこのまま連れて行きたい衝動にとらわれたが無理だった、最後の別れを告げ出発した。目指すは、保原町、山木屋からおよそ30キロぐらいの距離、そんなにかからないで着くと思う。無言の運転が続く、何も話したくなかった。
 また他所の家に行ってお世話になるかと思うと、心が痛い、保原のこれから行く、Sさんの家もそれは親切な方でとても良い人です。Tのことを、いつも心配し案じてくれる家庭の人達です。12〜3年前に桃を買いに寄ったのが縁で、それから、親しく家族ぐるみで今もお付き合いが続いている。今度も避難中に連絡があり安否を気付かつてくれていた。遠慮しないで、いつでもおいでと声を掛けてくれた。困ったときはお互い様だからと声を掛けてもらった。今日はその好意にあずかろうと思っている。昼前に着いた、そしたら待って居たのか、昼の食事を用意をして、Tの休む寝室まで用意し

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て待っていてくれた。嬉しかった、もし自分が、反対の立場だったら、ほんとに此処まで出来るかと、考がえらせられた。
 保原の避難先 Sさんの自宅も地震の被害を受けていた。瓦屋根のぐしの部分が壊れて落下して庭のあちこちに、散らかっていた。まだ片付けも、ままならない状態のようです。しかし家の中は、大丈夫との事でした、我々のこれまで避難のことなども話し相手になってくれて、75歳ぐらいの母さんも、一緒に聞いてくれて、ほんとに遠慮しないで居ておくれと優しく声を掛けてくれた。ここもまだ水道が復旧してなかった。燐の家よりバケツでくんで、食事の用意やお風呂など、不自由な生活をしていた。ここにも地震の影響が、まだ残っていて、今度の地震の大きさを痛感した。夜布団の中で妻と良く話し合い、此処にも長く御世話になれないと思った。
 原発の事故もだめで、自分の家にも、帰れそうもないし、こんなに長くなるとは思ってもいなかったし、衣変えもないし、困ったことになった。Tも又家が変わり、眠れそうにもなかった。案の定眠れなくてイライラし始めた、危ない方に向かっているのがわかった。妻も、私も必死に介抱した。前身汗びっしり、下着を夜中に3回も交換した、後変える下着もないと言う、しかたないので、バスタオ

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ルを、下着の中に入れ、間に合わせ必死に介抱し、一晩見守りながら祈った。早く朝に成ってくれ、早く明るく成ってくれと祈った。長い、長い一晩だった。

  3月16日〔水曜日〕避難5日目
 みぞれ交じりの朝を向かえた。今日はビックパレットふくしまに避難しようと妻と決めた。次女夫婦がいるはずだ。携帯で、連絡し行くことにした。Sさんには、丁重に挨拶し無理を押して出た。Sさんの母が泣きながら止めた。Tくんが、可哀想だから、ここにいなさいと必死に止めてくれた。本当に、他人の私達に親身になってくれた。年1度、桃買いに来るだけなのに、こんなに親切にしてもらい、申し訳けなく、断るのが辛かった。それと同時に、東京電力の憎しみが更に増してきた。頑張ってね、がんばるだよと、我が母のような言葉をかけられ、はい、はい、としか答えられなかった。辛い別れをしてしまった。保原から福島市内を抜けて4号国道を南下し郡山市に向かった。昨夜はほとんど眠らず身体がすごくだるかった。目が渋く頭が、ボーっとしていた。二女に電話したら、ビックパレットふくしまでなく、郡山北高校にいるとの連絡あった。お姉ちゃんが朝早く横浜に行くと言って出発し別れたと言っていた。

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なぜ昨日出かけなかったのかと変に思った。今回で3回目の移動で、うんざりして言葉も出ない、Tは機嫌が悪く、窓ガラスに、握りこぶしを、どん、どんと、ただくだけ。妻もあきらめて、なだめようとしない。以前にも、そう言う仕草はなんども見ているから、諦めた。機嫌が悪い時の行動だった。4号国道も、至る所が地震の影響で凹凸があり、危険なところが多い。一部迂回した道路もあった。午前11時頃、郡山北高校の避難所に着いた、二女夫婦が向えいてくれた。避難所の体育館に入ってみた。富岡町の顔見しりの人達が、たくさん避難していた。床に毛布を敷くだけで、皆過ごしているようだ、お姉ちゃん、4号国道で横浜に向かったよ。うんとうなずくだけだった。腹の中が痛くなるほど心配した。一度も走った事もない道路、パンクしたとき私を呼ぶぐらい、メカには弱い、そんな娘が、自分の子供二人乗せ、ただ夫の所に行く一心で運転しているだろう。気力・体力・集中力が、持つか凄く心配になった。私の指示が、悪かったのか迷った。無事を祈るしかない。避難所の状況では、Tが暮らせる雰囲気では無かった。妻と娘と三人で、良く相談した、迷った、悩んだ、早く決めないと、今夜寝る所がなくなるやはり県外に、私達も出なければならないのか、悩んだ末、電話し

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た。茨城県日立多賀に、実の弟が居る。嫁さんに電話がつながった今こんな状態なので行く所が無く困っている、少しの間泊めて欲しいと、電話で見えない相手に頭を下げた。心良く引き受けてくれて、直ぐ来るようにと言われたが、来る途中に日立市の保健所に寄ってスキニーング〔身体汚染検査〕をしてから来て下さいとの事。私も妻も兄妹も孫も皆、原発が爆発する以前に避難し安全なのにどうして、不信におちいった。妻はしかたないよ向こうでそう言うなら、お父さん受けようよ、涙声だった。被爆しないように早くから避難していたのに、茨城県では、原発の避難者の受け入れには、その指示を徹底しているようだ。バカやろ。どうせやるなら、車全部止めて、やらなければ、汚染なんか止められるかバカやろ、勝手にしろ、自分で一人ごとのように、毒舌を吐いた。今は素直に、はいと、言うしかなかった。気を取り直し、160キロの避難先を、目指し出発した。4号国道を南下し郡山から49号線をいわき方面に向かった。2時頃いわきバイパスに乗った。日立市まで60キロの道路標示が見えた、あと2時間ぐらいで着くと妻に話したら、早く着くと良いね、Tを休ませたいしなあ・・うん明るい内に着けると思うよと、声を掛けた。勿

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来駅を過ぎ海岸線に出たら,異様な風景に出合った。自分の記憶に無い景色が続き始めた、なんと津波が国道を越して上がり、家も、車も、道路も、線路も、船も、堤防も、すべて破壊してしまっている。恐ろしい光景であった、妻が私達はまだ良いよ、家が残ったから、原発が治れば帰る家が有るんだから、ここの人達より幸せだよ。この後の事も考えもしないで、そうだな、早く戻って、片付けしないとならないからなと、妻を、気休めしたく、優しく言った。高萩の辺から車の渋滞が始まった、一向に進まない対向する車もあまり来ない、時々数台来るだけ仕方ないので、流れに沿った。時間だけは進んだが車は進まない、途中で2匹の黒のラプラドールが歩道に立っていた、飼い主が避難中に放置したのだろう主人を、待ち続けて居るのだろう可哀そうにと、不偶に思えてならなかった、原発の犠牲者が此処にもあった。飼い主も連れて行けなかった事状があったのだろう。郡山の避難所で貰った白むすびがあったので、渋滞中にスキを見てむすびを食べさせた。よほど腹減って居たのだろう一口で食べてしまった乾パンもくれた。実はこの車にも私の犬2匹が乗って居るのだ、猟犬で私の山の相棒で家族なので連れて来ている。だから他の犬とは、思えなかったし、私も生ま

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れて物心ついて以来犬はいつも家には飼っていた。なんとか生き伸びてくれと、妻と二人で祈った、しばらく車の後について来たが、離れた。良かったのか、悪かったのか複雑な気持ちで、答えは出せなかった。車は相変わらず進まないこのまま行くと、5時までには、日立保健所に入れない、もし今日汚染検査を済ませないと、今夜の避難先に入れない。また新たな不安が出て来て、イライラが溜まって来た。カーナビを操作し別な道路を捜した、思い切って山の方に向かい大きい道路に出たら左折し、日立に向かって進んだ。携帯電話で、番号案内で保健所の番号を調べた、遅れるので待ってほしいと頼み6時まで待ってくれると約束とれた。ようやく保健所に着いた5時40分頃だった、私と妻は、車から降りて検査を受けた。汚染は無いと知っていても、気分の良いものではない結果が出るまでやはり不安である。私は勤めていた時に何度も受けていたので良かったが、妻は始めてなので心配そうだった。大丈夫汚染なんか無いから心配するなと声を掛けてやった。うんと、小さくうなずいていた。息子を車から降ろせないかと言うが、無理と断った変な顔していたが乗ったまま検査した、全部汚染無しと言う結果がでた。証明証も発行してくれた。これで良し、これで良しと何度

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も自分に言い聞かせた。これで避難先に行くことが出来る。なぜか嬉しい気持ちにとらわれた。関所を通る通行手形を貰ったような気分になった。あと30分ぐらいで、今日の避難が終わる、もう少しもう少し頑張れば終わる事ができる。安堵感がこみ上げてくるのを、無理に抑えた。まだ車を運転している、着くまでは集中しなければならないと思い、気を引き締めた。こんな時、事故なんて起したら目も当てられない。おまわり呼んだり、保険屋呼んだり、事故処理したり、救急車呼んだり、時間のロスなど考えたら、うんざりする。集中を高めながらようやく着いた。足元がフラ付いた、今日も長〜い長〜い一日だった。もう避難は嫌だ、今度は、真直ぐ家に帰る時だけにしたいと願った。弟の妻に玄間先で、スクリーニングの証明書を見せた。ありがとうと、返事が返った何か変な雰囲気だったが、申し訳ないしばらく御世話になります。妻も丁重にお願いした。玄関先の階段が危険だったので息子を車から背中に帯で、おんぶして部屋にようやく入った。重かったのと安心したのと、一度に疲れが出て畳の上にしばらく横になってしまった、私も63歳と5ケ月もう年かな〜つくづく思えた。隣に居るTが、又変わった家と、部屋なので気持ちが高ぶっている。ここ5日間で、3回も部屋が変わ

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ったので、落ち着きがまるで無い。本当に可哀そうなことをしていると、息子に心から謝った。この場所はもう安心だろう、今度はもう逃げない何があっても、ここで、G・END。強く心に願った。此処は、実の弟の家だ少しはのんびりと、安心出来るだろうと甘い考えを持った。その日の7時半頃、二女夫婦と孫が、郡山避難所から、私たちの、後を追うようにやって来た。もう一家族が増えたやっぱり、避難所での生活は出来ないので、無理を承知でお願いして、私共を追ってきた。同じくスクリーニングをしてきたと言っていた。私は娘と夫と孫が、一緒なので安心だが、弟家族は避難者が増えて大変な事になるだろうと、心配が増えた。
 避難して泊るのと、遊びにきて泊るのと、ぜんぜん違う、それは体験して、はじめてわかってきた。12日から今日までの4日間で、はっきりわかってきた。頭の中には有るが、うまく表現出来ない。これまでの、自分達の生活がいかに自然で、自由で且つ心が豊かだったか、賛沢な暮しをして来た分けでもないのに、楽しかった。喜びも、悲しみも、食べる時も、苦しみも、疲れた時も家族全部で、分かち合い、喜びは、家族みんなで喜び、悲しみは、家族みんなで悲しみ、私が野良仕事に出れば、家族みんなが出て来て、笑い、遊

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び、学び、語る。こんな生活が、すべて出来なくなってしまった状態に、心の葛藤を、押さえることができない。そして又元の生活に戻れない不安、苦しみ、これから先の生活の経済的不安、今にも雨が降りだしそうな、空が真っ暗になり、低く雲が垂れさがり押しつぶされそうになっている気持ち、あるいは表情を、見透かすかのように、避難先の弟の妻、則子が明るく振る舞い声を掛けてくれた。
今夜は、安心して過ごせると嬉しくなってきた。しかしもう一つ心配ごとが有った。長女の車が、今4号国道を走り鶴見に向かっているとの連絡が入った。もう10時間も走りどうしだ、ノロノロ走行で、ぜんぜん進まないとの事、ガソリンは途中で並び一度入れたので間に合うと言っている、都内をうまく抜けられるか心配になってきた携帯電話の電気が少ないので、あまり話せないから切るとの事、道路案内は、鶴見から、パパが電話で誘導しているから行けるとHから、連絡あり、3台電話を有効に使っているんで、電話長話出来ないので切るよと言われた。爺ちゃんごめんねが最後でした。
それからもう眠れない、電話を枕元に置き、かかってくるのを、妻と二人でじっと待っていた、17日の午前2時30分、今鶴見に着いたよ。うん、うん、良かった、良かった、早くゆっくりおやすみ。

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  3月17日〔木曜日〕避難6日目
 朝6時30分弟が仕事に出るので、妻が起きて台所で朝食の用意する音で、半眠りの目を擦りながら起きた。
 弟と二人で、食事を取った。此処日立も地震の影響でだいぶ壊れた屋根や、道路の凹凸が多く見られ、水道も断水しているとの事、幸い此の家は無傷だった地盤がしっかりし、地山の上に建造したと思う。此処大沼町も断水している。弟は、設備会社に勤務し水道や下水道の復旧に毎日忙しいとの事、200リッターのポリタンクに毎日井戸水を汲んで帰り、それで生活の水を確保している。やはり苦労しているようだ。弟も、兄き、何も遠慮しんなよ、心配ないから自分の家と思って暮らせと勇気づけてくれる。それは嬉しかった。テレビの放送は、原発事故のことばかり、最悪の事態ばかりで私共当事者としては見たく無い光景であった。我が家に戻れる時期が遅れるだけで不安が増すばかり、これから先一体どうなるんだろう。叉あの家に帰って、孫達と本当に生活できるのだろうか考えると、頭が痛くなり、心臓が苦しくなって、ため息も吐くだけになってしまった。早く帰って家の片づけもしたい、地震で壊れれた家の補修もしたい、農作業の準備もしたい、友達にも会いたい、離れ離れに

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なった兄妹にも会いたい、息子にも早く自分家で元のように、ゆっくり休ませて安心させたい。思いぱ、思うほど悔しくなり涙が出て止まらない。妻も泣いている、私は泣くなとなだめることができなかった。原発の事故は、もういい、せめて、せめて家に帰してほしいと泣いている。こんな生活、我慢出来ないよ、お父さん助けてよ。結婚して39年、子供たちの教育も終わり、勤めも昨年の6月で、全部やめてこれからは、百姓しながら孫達の成長を見ながらのんびりと、余生を過ごせると思っていた。18歳から勤めながら、家督を、守るため、農作業の時期なれば、朝の早くから仕事をして、勤めに行き、帰ったらライト点けて農作業、非農家の友達が、休みや連休に、遊びに行っても、私らは農作業、農作業、そんな生活の繰開始、しかし苦には思わなかった。あたり毎と思った農家だから祖父母と、両親と、私と妻、一時は三組の夫婦で、同じ屋根の下で暮らした。祖父母は、とても私達を面倒みてくれた、かわいがってくれた。長女のMも、二女のYも、息子のTも見てくれた。その優しさが、今の私の原点であると思う。HとKとYの三人の孫を思う気持ちが受け継がれていると思っている。私は、まじめに生きて来たと思っている。悪い事は勿論、人には

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迷惑も掛けなかったと思う。国の規定に従って来たし、税金だって滞納したことも無く、農政の減反にも積極的に協力したし、地域の事業にも積極的に参加したし、町の消防団にも入り二十五年間現役で活躍もした。本当に楽しかった此れまでの人生であったと思う。苦しかった事もたくさん有ったと思うが、今は何も思い出せない、楽しかった事ばかりしか思い出せない、人と言うのは、不思議な生きものに思えると思った。
 外に出て、北の空のかなたを、じっと眺めては、わがふるさとを思い、自分の町や、家や、友達を、孫達と過ごした日々を懐かしく思い出していた。

  3月18日〔金曜日〕避難7日目
 早いものだ。今日で、まる一週間目を向かえた、避難始めて五番目の避難所、ここは実の弟の家、その分だけ、すこし安心出来る、又気が休める、避難所みたいに気を使わないで済むが、救援物資が無いので食事代や光熱費は実費計算でまかなう。そこまで気を使わないと協同生活は成り立たなく成ってしまう。持ち金も少なく、不安が先にでる。今日は茨城県日立市の避難所に行ってみた、我々も救援物資を、貰えないか相談に行った。事情を話し避難所には入れない

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ので、毎日取りに来るから貰いたいと話した。原発の避難者にはまだ、出せない。茨城県も地震と津波の被害が大きく、地元の人々の分で一杯で、だめですと。はっきりと断られた。行政の縦割りがここにも有った。悔しかった何も好き好んで避難して居るんで無いのにどうしてこんな事になるのだろう。国では、万全の対策を取り避難者に、不安を与えないようにするなど言っているが、各県に徹底した指示が行き渡らないで居るようだ。まして茨城県は、原発の電気を使用して居たのに、福島は、双葉郡は、いったい何だったんだろう。なんでこんなバカを見なければならないのだ。この悔しさを、この悲しさを、この辛さを、この怒りを、どこに向けたらいいのだ。家に戻って、家族になんて話せばいいのか、わからないまま戻ってしまった。辛く惨めでならない一日でも早く、自分の家に帰りたい。猟師が、獲物を取らず空で帰るような心境である。ここの街は、なにの不安も無く皆普通に生活しているように見えるなんとも不思議な気がする。これより北へ、120キロ先の出来ごとなど何もなかった事のように。今日も色々嫌な事が有った日々であった。


*作成:青木 千帆子・権藤眞由美
UP: 20110720 REV:
全文掲載  ◇災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇被災地障がい者支援センターふくしま 

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