ノディングスによるケア倫理の定式化には理論的に弱いところがある。先年マイケル・スロート(Michael Slote)が発表した著書『ケアと感情移入の倫理(Ethics of Care and Empathy)』の大きな目的のひとつは、こうした弱さを補うことにある。スロートによれば、従来のケア倫理研究は主に教育学者や心理学者によってなされてきた。これらの研究者は、道徳理論を組み立てるにあたって配慮しておくべき伝統的な哲学上の問題に十分な注意を払っていない。そこでスロートの狙いは、ノディングスが提示したケア倫理の基本的な枠組を踏襲しつつ、これを哲学的な批判に耐えるものとして洗練させることにある(注16)。
すでに見てきたように、ノディングスは、道徳的善悪を感情移入という概念を用いて定義した。すなわち、道徳的に正しい行為とは、行為者が他人に感情移入していること(行為者の他人への気づかい)の表れであるような行為である。スロートはこの定義の基本的な枠組を踏襲しつつ、わずかに修正を加えている。修正を加えるにあたってスロートが参照したのは、感情移入にかんする近年の実証研究の成果である。
心理学者のマーティン・ホフマン(Martin Hoffman)は、他者に感情移入する力が子どもの中で発達・成熟していく過程をあきらかにし、この過程を段階づけて提示した(注17)。ホフマンの研究は重要である。他者に感情移入する人の力には、より成熟した段階とそうでない段階とがあり、その差は実証的かつ客観的に示しうるということをあきらかにしているからである。スロートが注目したのもこの点である。スロートはノディングスによる道徳的善悪の定義に、ホフマンのいう「成熟した(fully developed)感情移入の力」の概念を導入したのである。そこでスロートによれば、行為が道徳的に不正であるのは、成熟した感情移入の力が行為者のうちに欠如していることを当の行為が表している場合であり、その場合かぎりである(注18)。
本稿第3節では、ノディングスによるケア倫理の定式化は、道徳的義務が有する規範性をうまく説明できないことを述べた。私たちにはなぜ・どこまで他人を気づかう義務があるのか。ノディングスはこの問いにたいして満足のいく答えを示せなかった。同じ問いにたいして、スロートによって修正されたケア倫理は、より洗練された解答を提示しうる。以下、スロートの議論からみちびきうる解答をあきらかにし、検討することにしよう。
まず、ノディングスの解答の難点をもういちど整理しておこう。ケア倫理においては、道徳的な善が、他人にたいする気づかいの表れと同一であるとされる。そこで、他人を気づかいたいという欲求が行為者の内に自然と沸いてこない場合、それでもなお行為者が相手を「気づかうべき」であることを示せなければ、道徳的義務のもつ規範性がケア倫理の枠組下では成立しない。道徳理論としてのケア倫理の難しさはここにあった。さてこの問題にたいするノディングス自身の解答は、次のようであった。すなわち、気づかいたくなくても他人を気づかうべきであるのは、行為者本人が理想とする人間関係を実現するために、気づかうことが不可欠だからである。この解答にはふたつ難点があった。第一に、人によって理想とする人間関係のイメージが異なりうるため、関係を実現するために必要とされる気づかいの内容が一定しない。言い換えれば、縁遠い他人にたいしてどれだけ気づかうべきなのか、基準を客観的に示すことができていなかった。
また第二に、ノディングスの議論にしたがえば、行為者に他人を気づかうよう要請することが有効なのは、本人がその実現を欲求している人間関係を築くという目的のために他人を気づかうことが不可欠な場合だけである。そこで、結局のところ、広い意味で本人が相手を気づかいたいと欲求していないかぎり、それ以上の気づかいを行為者に要請することはできない。こうした問題があった。
さてスロートは、ケア倫理による道徳的善悪の定義を修正した。修正された定義は一見するかぎり、ノディングスの解答が抱えるふたつの難点とはどちらも縁がないようにみえる。
第一に、私たちにはどこまで他人を気づかう義務があるのか。スロートによって修正されたケア倫理は、この問いにたいする答えを経験科学の知見の内に求めることができる。スロートはホフマンの実証研究の成果をふまえ、ケア倫理に「成熟した感情移入の力」の概念を導入した。スロートはこの概念にうったえて私たちの義務の範囲を次のように定めることができる。すなわち、感情移入の力を完全に発達させた段階にいる人が他人を気づかうのと同じだけ、私たちにも他人を気づかう義務がある。
もちろん「完全に発達した段階」という概念は抽象的である。ホフマンもそれがどのような状態であるかを明確にしていない。そこで、現実の道徳問題を前にしてより具体的に私たちにはどのようにふるまう義務があるのかと問われれば、スロートの議論は必ずしも明確な答えを示せないかもしれない。しかしまた、感情移入の力が成熟する過程は客観的に段階づけて示しうるというのであるかぎり、どこかの段階でその力が完全な発達を遂げると考えることや、その段階もまた他の段階から客観的に区別しうるものと想定することは自然である。その意味で、スロートのケア倫理は、私たちの義務の範囲にかんする客観的な基準の存在を示すことに成功している。
さらにこのことは第二の論点にもかかわる。ノディングスのケア倫理では、道徳的な義務の範囲は、行為者に偶然そなわっている欲求のありようによって制限された。行為者本人が理想とする人間関係を実現するために必要である以上の気づかいは、義務とはいえなかったのである。これにたいしてスロートのケア倫理では、義務の範囲を行為者の欲求のありようとは無関係に定めることができる。自分がどれだけ他人を気づかいたいと欲求しているかにかかわりなく、私たちには、感情移入する力を完全に発達させた段階にいる人がするのと同じだけ他人を気づかう義務がある。スロートのケア倫理はこうして、道徳的義務がもつ規範性を肯定することにも成功している。
さてカントは、道徳的義務の規範性を合理性と結びつけて理解していた。カントによれば、定言命法の要請にしたがうことは合理的にふるまうことである。したがって、道徳的義務にしたがわない人は、非合理的だとして非難されるに値する。道徳的義務が有する規範性は、規範に沿わない行為にたいする非難を正当化するのである。ではケア倫理はどうか。スロートは、ケア倫理が正しいとすれば、規範に沿わない行為はやはり非難に値するが、その理由が異なるという。すなわち、道徳的義務にしたがわない人が非難に値するのは、非合理的だからではなく、「心ない(heartless)」からだというのである(注19)。
5 相対主義
しかしスロートのケア倫理からみちびかれる以上の議論には、問題がないだろうか。スロートのケア倫理は、感情にうったえて道徳判断を正当化する私たちの態度が妥当であることを立証するといえるだろうか。最後に、スロートのケア倫理の問題点を指摘しておこう。
第一に、実証研究の成果と、道徳的な価値にかんする規範的な主張とのかかわりについてひとこと述べておこう。ホフマンによって実証研究の成果として提示された「成熟した段階」を、スロートは道徳的に価値の優れた状態として理解している。しかしここは注意が必要である。ホフマンの研究が示しているのはあくまでも、生物学的また社会的プロセスとしての人の成長過程には「成熟した段階」と呼ばれる状態があり、これは事実として他の段階から客観的に区別することができるということにすぎない。「成熟した段階」に(他の段階よりも)道徳的に高い価値があるという主張はあくまでスロートのものであり、これはそれ自体、規範的な主張である。ホフマンの実証研究はこの規範的主張の妥当性を立証するものではない。
もちろん、だからといって直ちにスロートの議論が誤りであるとはいえない。もとよりスロートは道徳的な議論をしているのであり、スロートの主張は、その妥当性が科学的に実証されることを期待するべき類の主張ではない。問題はあくまでも、「成熟した段階」には高い価値があるという主張が、道徳的にいって正しいかどうかである。
さて、「成熟」の概念にはもともと規範的な響きがある。これは否定できない。私たちは一般に、人の幼いふるまいを咎め、大人らしくふるまうことを推奨する。気づかいにかんしても同様である。他人の悲しみにまったく関心を示さない人と、いつも努めて相手の立場にたって物事を感じようとする人とでは、後者のほうが道徳的に優れていると考えても誤りとはいえないだろう。成熟を道徳的善と同一視するスロートの主張は、この意味で、私たちの道徳的直観にうったえる。
スロートの議論の問題はその先にある。実は問題の一部は本稿でもすでに述べてきたことの繰り返しである。すなわち、スロートのケア倫理もまた、相対主義を回避できていないのである。以下にこのことをあきらかにする。
スロートは、人の感情移入する力が「完全な発達(fully developed)」を遂げるという。しかし、私の力が完全に発達した状態が、他の人の力が完全に発達した状態と、常に同じであるという保証はどこにもない。むしろ、ふつうに考えればまったく同じである可能性はほとんどないといってよいだろう。類推のためにここではまず「跳躍力」について考えてみよう。私の跳躍力はおそらく陸上部の仲間と切磋琢磨していた高校三年生のころ完全な発達を遂げた。しかしこれは跳躍種目のオリンピック選手の最盛期の跳躍力とくらべてまったく及ばない。同様のことが人の感情移入する力についてもいえるはずである。私の力は、仮に完全な発達を遂げることがあるとして、かならずしも他の人の力と同程度の発達をみせるとはかぎらない。
この点についてはスロートにも自覚があるようである。このことはスロートが「完全な発達」という言葉につけてもちいる冠詞の揺れに端的に表れている。たとえば著書中、「他人に感情移入し、共感的な関心を示すという人間的能力の完全な発達(full development of the human capacity for empathy and empathic concern for others)」という表現ではじまる文章がある(注20)。文頭には、定冠詞のTheとカッコで括った不定冠詞のaとが併記されている。スロートにも、「完全に発達した状態」が人によって異なる可能性を否定することはできないのである。
完全な発達を遂げた状態が道徳的善であるとする一方、完全に発達した状態は人によってさまざまであるという。このようにして、スロートのケア倫理は、道徳的価値にかんする相対主義をみちびく(注21)。
このことは何を意味するのか。もういちど先の問いに戻って考えよう。私たちにはどれだけ他人を気づかう義務があるのか。スロートのケア倫理が示した解答にしたがえば、私たちには、感情移入する力を成熟させた段階の人が動機づけられるのと同じ程度に他人を気づかう義務がある。しかし本節であきらかにしたとおり、成熟しても他人を気づかう度合いは人によってさまざまに異なりうる。だとすれば、成熟した人のうち、どの人を基準にすればよいのか。当然このような問いが出てくる。
スロートのケア倫理はこの問いに適当な答えを出すことができない。第一に、成熟してさえいればだれを基準にしてもかまわない、という答えはあきらかに不十分である。このことは、少し極端な例を考えてみればただちに了解されるはずである。たとえば、生まれてからこれまでまったく道徳教育を受ける機会がなかったために、他人に感情移入する力が極端に乏しい人(注22)。たとえこれから訓練を受けてもこの人の感情移入する力が大きく伸びることは見込めない。こうした人を基準に道徳的善悪を定義することはあきらかに不適当である。そもそも、力がこれほど極端に低い人まで含めてだれを基準にしてもかまわないとしてしまえば、基準の幅が広くなりすぎる。これでは「どれだけ他人を気づかう義務があるのか」という初めの問いに答えたことにはならない。
そこで第二に、成熟した人々のうち、特定の個人や集団をかぎり、これを基準として指定するとすればどうか。しかし、そうした指定は専断的あるいは場当たり的であることを免れえないように思われる。スロート自身は別の文脈で、ひとつ具体的な基準を示唆している。スロートがここで考察しているのは、自己犠牲の行為の妥当性である。たとえば、自分の生活を省みず外国の貧しい人々に財産の大半を寄付するといった行為の妥当性である。私たちにこのような自己犠牲を払う道徳的義務はあるだろうか。この問いにたいするスロートの答えは次のとおりである。すなわち、こうした自己犠牲が道徳的に優れた行為であることは疑いえない。しかし、寄付をせずにいることが「標準的な人間の成熟した感情移入の力(fully developed normal human empathy)」の欠如を示すものとはいえず、したがって道徳的に問題があるとはみなせない(注23)(注:「標準的」に傍点)(強調筆者)。このように述べるスロートはここで道徳的善の基準を「標準的(normal)」な人間に置いているとみなしてよいだろう。ここで「標準的」ということは、スロートによれば統計的概念として理解されるべきだという(注24)。さてしかし、こうした基準設定の仕方は、専断的かつ場当たり的だといわざるをえない。なぜ統計の上で標準的な人間が道徳の基準であるべきなのか。たとえば、よく「大衆の倫理観の低さ」が嘆かれる。こうした嘆きが正しいとすれば、本当の基準は統計的標準値よりも少し高い位置になければならないのではないか。また、基準をこのように設定してしまうと、基準が時代や場所によって変化するように思われるが、それはかまわないのか。スロート自身、こうした問いには答えていないのである。
◆註と文献
(1)本稿は、2009年度科学研究費補助金(若手研究(スタートアップ)、課題番号21820006、研究課題名「道徳判断の正当化において感情が果たす役割に関する研究」)による成果のひとつである。
(2)Leon Kass, “‘Making Babies’ Revisited,” in G.E. Pence ed., Classic Works in Medical Ethics, McGraw Hill, 1998; “Wisdom of Repugnance,” in G. McGee ed., The Human Cloning Debate, Berkeley Hills, 1998. Kassは、ヒト胚研究やヒトクローン作製が、それについて想像する人に嫌悪感(repugnance)を催させることを根拠として、これらの研究にたいする道徳的非難の正当化を試みた。Kassの議論を検討した試みとしては、拙著Hitoshi Arima, “Disgust and Moral Censure,” Journal of Philosophy and Ethics in Health Care and Medicine, 日本医学哲学倫理学会, 2009, no.4(in press)を参照されたい。
(3)ヒューム(David Hume, A Treatise of Human Nature, D. Norton and M. Norton eds., Oxford University Press, 2000. Book III)やアダム・スミス(Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, Liberty Fund, 1982)らいわゆるmoral sentimentalismに属する哲学者も、empathyとほぼ同義の概念であるsympathyを重視した。本稿の後半部で検討するMichael Slote(Ethics of Care and Empathy, Routledge, 2007)によれば、ケア倫理もまたmoral sentimentalismの流れを組む道徳理論であるという。しかし本稿ではヒュームやスミスの議論を直接は扱わない。いずれ別に検討したい。
(4)Nel Noddings, Caring: A Feminine Approach to Ethics and Moral Education, Second Edition, University of California Press, 1984.
(5)Ibid. p.30.
(6)Ibid.
(7)ノディングスによる道徳的善悪の定義にかんする本文の解釈はSlote, Op. cit. pp.10-12を参考とした。
(8)本文の例はNoddings, Op. cit. p.90. から取ったものである。
(9)カント『人倫の形而上学の基礎付け』第2章(『カント:世界の名著32』中央公論社、1972年)
(10)Christine Korsgaard, The Sources of Normativity, Cambridge University Press, 1996. Lecture 1.
(11)このことは、とくにケア倫理に限らず、道徳を感情に基礎づけるすべての道徳理論に当てはまるものと考えられていることが多い。Cf. Jesse Prinz, The Emotional Construction of Morals, Oxford Uni-versity Press, 2007. p.128.
(12)Noddings, Op. cit. pp.49-51&79-95.
(13)Ibid. p.83.
(14)Ibid. p.49.
(15)また、もともとそうした抽象的な博愛精神は、ケア倫理の中核にある主張と折り合いがよくない。ノディングスを含め、ケア倫理を支持する研究者の多くは、身近な親しい人にたいする義務と、縁遠い他人にたいする義務とがあるとすれば、前者のほうが後者よりも強いことを認める(Noddings, Op. cit. p.86; この点でより明確な主張はSlote, Op. cit. Chapter 2)。ケア倫理が身近で親しい人にたいする「依怙贔屓」を正当化することに注目して、この点から道徳理論としてのケア倫理を批判的に検討した文献に、安部彰「ケア倫理批判・序説」『生存学Vol.1』生活書院 2009 279-292頁。
(16)Slote, Op. cit. pp.3-4.
(17)Martin Hoffman, Empathy and Moral Development: Implications for Caring and Justice, Cambridge University Press, 2000. Part I&II.
(18)Slote, Op. cit. p.31
(19)Ibid. p.106.
(20)Ibid. p.116.
(21)こうしたタイプの相対主義は、一見して、「道徳判断は正しいことがありうる」という考え方(いわゆる意味論的な道徳実在論)そのものとさえ矛盾するように見える。しかし、実際のところ、この点について研究者の意見は一致していない。矛盾するとする見方はたとえばLaura Schroeter and Francois Schroeter, “Is Gibbard a Realist?,” Journal of Ethics and Social Philosophy, Vol.1, no.2 (2005) 1-18. 矛盾しないとする見方はPrinz, Op. cit. pp.164-7.
(22)Prinz, Op. cit. が思考実験にもちいたマリーの例を参照せよ(p.38)
(23)Slote, Op. cit. p.34.
(24)Ibid.