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野崎 泰伸「ディアスポラとしての障害――障害はないにこしたことはないか、への1つの視座」

障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927


◆報告要旨
 野崎 泰伸(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー)
 「ディアスポラとしての障害――障害はないにこしたことはないか、への1つの視座」

  何らかの特定の社会的属性を――それが明示的でも暗示的でも――称揚することによって、人間の存在を肯定しようとする立場がある。この立場を属性主義と呼ぶことにしよう。私は本発表において、この属性主義は不要であり、個人の存在、その人が在ることを肯定すればよいことを主張する。私の議論においては、その人の社会的属性は否定されないが、属性主義は否定されるのである。
  「その人が在ることを肯定する」ということは、人間が存在することの基盤を、社会的属性にではなく、単に「その人が存在する」ことに求めよう、と言っていることになる。このことは、属性そのものが不要であることを意味するわけではない。属性を、属性主義とは無縁なものに転轍する必要があるということである。それは、「属性によって人間が存在することの承認を、もう求めなくてもよい」という可能性へと開いてゆく。だとしても、そのことは社会的な属性による紐帯も否定するものでもない。否定されるべきは、「同じ属性であるからこそ共同性が立ちあげられるべきである」という属性主義である。属性主義への抵抗は、同じ属性であることによってその存在が承認されるという論理、つまり人間存在の基盤としての共同性を立ち上げるべきだという回路を批判するものなのである。その意味において、属性主義に対抗するのはディアスポラ性であるといえよう。
 こうした議論は、「障害はないにこしたことはないか」という疑問に側面から答えるものとしても読める。障害という社会的属性は、障害者という人間存在にまとわりつくものではあるが、そのことと、障害によって障害者の存在の価値づけを行うことは論理的には別のことである。このことは、論理的には別のことであるにもかかわらず、両者をつなげてしまう現実の力学が、存在はするがそれは不当であることをも示す。

◆読み上げ原稿

はじめに
たとえば私は、関西出身であり、生物学的には男性であり、おそらくは異性愛者であり、先天性の障害をもち、ブラックミュージックをこよなく愛する、1973年生まれの人間である。このように、人間存在には言うまでもなくいくつもの属性がはりついている。さらには、この社会において、現実的には属性によって「生きやすさ/生きにくさ」が決定されてしまっている。加えて、ロックが好きか、あるいはヒップホップが好きかによってたとえばその人の一生が決まることはほとんどないだろうが、障害の(医学モデル的な)有無、軽重や種別、あるいは日本国籍を有するかどうかなどは、この国で生きようとする上でその人の生死すら決定してしまう。属性の中でもとりわけ、社会的属性は人間の存在のありようを決定してしまう現実がある(1)。
私は本発表において、この属性主義は不要であり、個人の存在、その人が在ることを肯定すればよいことを主張する。私の議論においては、その人の社会的属性は否定されないが、属性主義は否定されるのである。属性主義は、個人が存在することを越えてしまう「余分なもの」である。

1. 属性主義について
1.1. 属性主義とは何か
人は具体的な場面、具体的な文脈において、具体的な「何者か」である。たとえ本人がそれを拒絶しようとも、社会的文脈や関係性は「何者かであること」を――それが本人にとって正当に思えようが、不当に思えようが――要請してくる。また逆に、「何者かであること」を本人が歓迎する場合もあろう。いずれにせよ、社会の中で具体的に存在し、生きている以上、それがたとえ本人にとってつらくとも、「無色透明である」、すなわち「何者でもない」ことはできず、「何者か」であってしまう。まずはこのことを確認しておく。
次に、「何者かであること」によって、その存在が承認されるということがある。つまり、社会的な文脈によって、「何者か」xであるとき、「「xであること」によってその存在が承認されること」がある。このことは、他でもないx、「xではないところのy」ではない「何者か」xということが、当該の存在を承認するということである。このことは明らかに、「ある人が、具体的な文脈において「何者か」xであってしまう」ということとは違う。具体的な「何者か」であるということが、存在の承認/存在の肯定の理由になっているわけである。これは、次のように定式化できる。

社会の具体的な空間/文脈において、「何者か」xであることが、当該のXという存在を肯定する理由になる。

これはまた、Xが「xという性質を要請してくる場面において、そうしないと存在が肯定されない」ということでもあるから、Xという存在が肯定されるためには、当該の文脈においてはxであらざるを得ない、ということでもある。だとすれば、上記において定式化した文章は、次のようにも言い換えることができる。

Xという個人の存在が生きていてよいという承認を得るためには、xという社会的規範に従わなければならない。

この主張を本報告では「属性主義」と名づけることにする(2)。この属性主義は、たんに「この私がある」ことを肯定しようとすることを否定する契機があるからこそ、批判されるべきなのである。

1.2. 属性主義について――「ろう文化」を例に
たとえば、以下のような「ろう文化」の主張がある。

「「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者であ
る」。これが、私たちの「ろう者」の定義である。
これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点か
ら、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」と
いう社会的文化的視点への転換である」 (木村、市田 [1995:354])

この社会は、聞こえることを「正常」とみなし、聞こえないことを「異常」とみなす社会である。こうした「ろう文化」の主張は、そのような「ろう=病理的障害」という視点をいわば否定することによって、ろう者の存在を肯定しようとする。また、日本手話によって作り出されてきた文化を生きるという指摘も「ろう文化」の主張には含まれている。たとえば、聴者の世界では「失礼」であるだろう、面と向かって指をさすというようなことも、ろう者の世界では行われる。これに対して「失礼だ」と聴者がろう者に向かって言うならば、それは聴者世界による「文化帝国主義」であろう。
ただし、私はこの「ろう文化」の主張は、過剰であると考えている。それは「ろう者のくせに偉そうに言うな」というものではまったくない。ろう者の存在を肯定するのに、わざわざ文化概念は不要である、そのように主張したいのだ。私は、ろう者個人が生まれ育ってきた中で培ってきたさまざまな文化や歴史性を肯定する。それは、その人にとってなくてはならないものであろうからである。ただそれは、「その人の存在を、生きてきた歴史を込みで肯定する」と言えばいいだけで、それは「ろう文化の肯定」にはならないはずである。ろうに特有のしぐさがあり、それを聴者が非難したり嘲笑したりするならば、ただ単に聴者の無理解を糾弾すればよいのではないか。文化に依拠せずとも、理論的にそれは可能であるはずである。
文化という概念を持ち出したとき、かならず、「では他文化のひとはどうなるのか」という問題が理論不可避的に現出する。文化とは、同じ文化の中においては統合や包摂のよりどころになるが、違う文化同士では最終的に排除の道具ともなり得る。私が問題にしているのは、この点なのである。文化に依拠する形で個人を肯定するのではなく、直截に個人を肯定すればよいのである。文化において共同性を獲得することを、私は擁護する。しかしながら、同じ文化であるなら同じ共同性を携えるべき――文化の規範論的主張はそこまで言っていると思う――だとは私は思わない。この2つは似ているが、まったく異なることである。

2. ディアスポラと〈承認〉について
2.1. 認識レベルの肯定から存在レベルの肯定へ
属性主義が問題になるケースとして、他にはたとえば民族や国籍なども考えられる。そのときに、その属性が実体的なものか、それとも関係的なものかということが問われたりする。障害についても、それが実体を伴ったものなのか、あるいは関係的な構築概念かといったことを問題にすることができよう。
しかしそれは、いかほどの問いであるのだろうか。障害とは、何らかの原因(それは1つとは限らないし、また、きっちりとは特定されない場合もあるだろう)によって無力化させられていることなのであれば、無力化させられた個人にとっては、実体を伴うものであると言わざるを得ないし、無力化の過程を問題にするのであれば、関係的な概念であると言わざるを得ない。それらがいかほどの濃淡によって現出するかは、障害の種類、程度・個人の置かれた状況などによっていかようにも変わり得るとしか言いようがない。
このような、認識のレベルにおける「障害は実体概念か、構築概念か」という二項対立的な図式においては、障害をもつ個人の存在がないがしろにされがちになるのではないか。言い換えれば、こういうことである。「障害とは何か」という問いによって、障害を定義しようとすること、それによってニーズを同定しようとすることは、立法においては不可欠であるだろう。ただそのことは、障害に正しい定義が存在するとか、そもそも定義することが正しい営みであるということを意味しない。いっぽうでまた、障害概念が構築的であり、相対的であるというのもまた難しいのではないか。とりわけ、生死にかかわる障害を考えたとき、またそのような障害を甘受せざるを得ない身体を考えたとき、構築概念であるなどと言えるはずもない。つまり、私は認識のレベルにおいては、実体概念でありかつ構築概念であり、その濃淡については人によると言わざるを得ないと考える。障害の社会モデルの考えは、障害を認識レベルにおいて、多くは医学的な実体概念から、相対的・構築的概念へと移行させた、と考えるべきなのではない。むしろそれは、障害を認識レベルから存在レベルの思考、つまり、障害の実体的あるいは構築的アイデンティティによって障害者を肯定する道から、(障害ではなく)障害者という個人に依拠して、その個人を肯定する道を切り開くべきものではないのか。その中で、個人において障害の意味を考えたければ考えればよいのであって、障害に関して意味があるから障害者の存在が肯定されたり承認されたりするというのは、順番が逆ではないのか。

2.2. 肯定される存在の「主体」とは
同じことをさらに別様に述べる。私に語るべき「民族性」や「文化」や「歴史」などがあることが、私を肯定する理由であるべきなのだろうか。「民族性」や「文化」や「歴史」が、私を肯定する基盤となり得ないならば、私は肯定も承認もされ得ないのか。あるいは、信じられる宗教などもない場合、私は承認されることがないのか。仮に、それらがまったくないにしても、ただひとつ拠り所はある。それは、「この私が存在する」ということである。「私の存在」が存在しない存在などない。そのほかに何もないとしても、私には「私が存在する」ということの事実だけはある。それこそが、そしてそれだけが、すべての個人に共通に与えられているものであって、個人の肯定や承認はそこからはじめられるべきものではないのか。
ともあれ、「私の存在」の肯定というときの主体である「私」とは、いままで生きてきてここにこのように存在する「私」のことである。それは決して無色透明な個人ではあり得ない。ただし、「私の存在」の肯定を言おうとするとき、私に付着する属性の肯定を言う必要は、論理的にはないということである。
早尾貴紀は、日本での無国籍者を例に、次のように言っている。

「このように、日本においては、定住者であっても、さらには日本での出生者であって
も、戸籍制度の外部に置かれ、「本来的国民」ではないとして、市民権を制約されてい
る人びとが集団で存在する」(早尾 [2009:204])

しかし早尾は、この「本来的」なる言葉を、国家が「意図的かつ必然的にその差異化の対象として生み出され利用されてきたと言うべきであろう」(同、205)と述べている。これを踏まえるなら、次のように言うことができよう。国籍じたいも社会的構築物であり得るが、現にそういうものとして「無国籍者」は存在する。ただし、それがその人の存在を「本来的」に規定するものではあり得ない。私は、障害ということに関しても同じように考えよう、というのである。つまり、障害は社会的構築物であるということを認めるとしても、それは実体がないという意味ではない。そういうものとして障害者個人は、その生身の身体をもった者として存在する。ただし、それが当該の障害者の存在を「本来的」に規定する、ということではない。文化としての障害という言い方は、ここの部分があいまいであるがために、あたかも障害を「本来的」に規定してしまい、そのことで存在の是非まで言ってしまうような可能性を印象づけてしまうのである。

3. 障害はないにこしたことはないか、へのディアスポラ論の「回答」
ここまでの議論で、「障害はないにこしたことはないか」という問いに対して、何が言えるか。障害という属性のある種の語り方が、その人間存在の是非、すなわち規範をも述べてしまうところに「過剰性」がある。本来、属性とは人間存在の規範性を語るものではないはずだ。ただし、文化によって人間が抑圧されたり、またそれを逆手にとって文化によって人間存在を称揚しようとする試みがある。すなわち、文化という語り方は、無自覚に規範性を語ってしまう危険性があるということである。そして、私が本発表で示したことは、もうそのようにしなくてもよいということだ。つまり、原理的に言って、障害があるという属性を、文化という道を通ることなく、障害者の存在の是非とは切り離して語ることが可能だし、むしろそうすべきだということである。障害という属性は、障害者の存在には付着するものではあるが、そのことと、存在の是非や規範とは分けて考えるべきだということである。繰り返すが、「同じ属性の間での紐帯」はあってもよい。ただ、それだけを手がかりに存在の是非まで語るのは、語るに過剰だということなのである。


(1) 属性の中でも何を「社会的」属性となすのか、あるいはみなすのかについても、非常に重要な問いであると考えるが、ここでは詳述できない。
(2) 具体的には、巷で流布されているような、「(生物学的)女性であるならば、おしとやかにすべき」とか、「(政治的)日本人であるならば、日本の防衛を考えるべき」などのレベルを考えている。

参考にした文献
綾屋紗月 2009 『前略、離婚を決めました』,理論社
綾屋紗月、熊谷晋一郎 2008 『発達障害当事者研究』,医学書院
Boyarin, Jonathan and Boyarin, Daniel 2002 Powers of Diaspora: Two Essays on the Relevance of Jewish Culture (=赤尾光春・早尾貴紀訳 2008 『ディアスポラの力――ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』,平凡社)
現代思想編集部編 1995 『現代思想』23-3、青土社
早尾貴紀 2009 「ディアスポラと本来性――近代的時空間の編制と国民/非国民」(臼杵監修 [2009:166-206])
藤家寛子 2007 『自閉っ子は、早期発見がお好き』,花風社
服巻智子編著 2008 『当事者が語る異文化としてのアスペルガー』,クリエイツかもがわ
市野川容孝・小森陽一 2008 『難民』,岩波書店
亀井伸孝 2009 『手話の世界を訪ねよう』,岩波ジュニア新書
木村晴美 2007 『日本手話とろう文化――ろう者はストレンジャー』,生活書院
2009 『ろう者の世界――続・日本手話とろう文化』,生活書院
木村晴美、市田泰弘 1995 「ろう文化宣言」(現代思想編集部編 [1995:354-362])
ニキ・リンコ 2005 『俺ルール!――自閉は急に止まれない』,花風社
2007 『自閉っ子、えっちらおっちら世を渡る』,花風社
ニキ・リンコ、藤家寛子 2004 『自閉っ子、こういう風にできてます!』,花風社
野口道彦他 2009 『批判的ディアスポラ論とマイノリティ』,明石書店
大澤真幸、姜尚中編 2009 『ナショナリズム論・入門』、有斐閣
徐京植 2005 『ディアスポラ紀行――追放された者のまなざし』,岩波新書
臼杵陽監修 2009 『ディアスポラから世界を読む――離散を架橋するために』,明石書店

◆原稿全文

はじめに
たとえば私は、関西出身であり、生物学的には男性であり、おそらくは異性愛者であり、先天性の障害をもち、ブラックミュージックをこよなく愛する、1973年生まれの人間である。このように、人間存在には言うまでもなくいくつもの属性がはりついている。さらには、この社会において、現実的には属性によって「生きやすさ/生きにくさ」が決定されてしまっている。加えて、ロックが好きか、あるいはヒップホップが好きかによってたとえばその人の一生が決まることはほとんどないだろうが、障害の(医学モデル的な)有無、軽重や種別、あるいは日本国籍を有するかどうかなどは、この国で生きようとする上でその人の生死すら決定してしまう。属性の中でもとりわけ、社会的属性は人間の存在のありようを決定してしまう現実がある(1)。
何らかの特定の社会的属性を――それが明示的でも暗示的でも――称揚することによって、人間の存在を肯定しようとする立場がある。この立場を属性主義と呼ぶことにしよう。たとえばこの社会においては「男性」であることや「異性愛者」であることは、多くの場合当人にとって――それが無自覚であっても――「利得」をもたらす。言い換えれば、私たちのこの社会は、男性優位、異性愛者優位の属性主義を内包しているといえよう。他方、そのような属性主義において社会的にマイノリティの立場に捨て置かれた人たちが、自らの存在を肯定する戦略として、属性主義を利用する場合がある。たとえばろう文化がそうであり、ホームレス文化や韓国ナショナリズム、シオニズムもその例である。属性主義は、理論不可避的に排除を呼び起こすからこそ問題なのである。
私は本発表において、この属性主義は不要であり、個人の存在、その人が在ることを肯定すればよいことを主張する。私の議論においては、その人の社会的属性は否定されないが、属性主義は否定されるのである。属性主義は、個人が存在することを越えてしまう「余分なもの」である。
「その人が在ることを肯定する」ということはどういうことか。それは、その人が生きてきた歴史、文化、そして何よりもその人の身体の経験が否定されることはない、ということである。無色透明の個人ではなく、さまざまな属性が立ちあらわれたり消えうせていったりするような現実の生身の存在として「その人が在ること」を肯定するということである。
もう少し別様に説明すれば、人間が存在することの基盤を、社会的属性にではなく、単に「その人が存在する」ことに求めよう、と言っていることになる。このことは、属性そのものが不要であることを意味するわけではない。属性を、属性主義とは無縁なものに転轍する必要があるということである。それは、「属性によって人間が存在することの承認を、もう求めなくてもよい」という可能性へと開いてゆく。だとしても、そのことは社会的な属性による紐帯も否定するものでもない。否定されるべきは、「同じ属性であるからこそ共同性が立ちあげられるべきである」という属性主義である。属性主義への抵抗は、同じ属性であること(の承認)が、人間存在の基盤としての共同性を立ち上げるべきだという回路を批判するものなのである。その意味において、属性主義に対抗するのはディアスポラ性であるといえよう。
社会的属性に基づく共同性というのは現実にあるし、それを否定しない。たとえば、同じ障害をもつ者同士において、同様な経験から立ち上がってくる、つまり、障害というメルクマールによって立ち上がるような共同性はある。それを否定するものではない。たとえば聞こえない、手話言語を話すなどというメルクマールが、同じ聞こえない者同士をつなぐことはある。問題は、違う経験をもつ障害者が、「私も障害者である」といったときにとる態度である。その人たちとは違う経験にせよ、障害をもちながらいままで生きてきた私を迎え入れるとき、「障害による共同性」は再定義される。必ずしも同じ様態であるわけではない誰かを迎え入れるとは、こういうことなのである。
このように、人間存在と社会的属性とを切り離すということは、属性主義を批判するということなのであり、決して「負荷なき自我」を想定するものではない。存在に属性がどうしようもなく付着することを認めることと、その属性によって「その人が在ること」の正負の価値をつけることとがまた別のことであるという主張なのである。
こうした議論は、「障害はないにこしたことはないか」という疑問に側面から答えるものとしても読める。障害という社会的属性は、障害者という人間存在にまとわりつくものではあるが、そのことと、障害によって障害者の存在の価値づけを行うことは論理的には別のことである。このことは、論理的には別のことであるにもかかわらず、両者をつなげてしまう現実の力学が、存在はするがそれは不当であることをも示す。

1. 属性主義について
1.1. 属性主義とは何か
人は具体的な場面、具体的な文脈において、具体的な「何者か」である。たとえ本人がそれを拒絶しようとも、社会的文脈や関係性は「何者かであること」を――それが本人にとって正当に思えようが、不当に思えようが――要請してくる。また逆に、「何者かであること」を本人が歓迎する場合もあろう。いずれにせよ、社会の中で具体的に存在し、生きている以上、それがたとえ本人にとってつらくとも、「無色透明である」、すなわち「何者でもない」ことはできず、「何者か」であってしまう。まずはこのことを確認しておく。
次に、「何者かであること」によって、その存在が承認されるということがある。つまり、社会的な文脈によって、「何者か」xであるとき、「「xであること」によってその存在が承認されること」がある。このことは、他でもないx、「xではないところのy」ではない「何者か」xということが、当該の存在を承認するということである。このことは明らかに、「ある人が、具体的な文脈において「何者か」xであってしまう」ということとは違う。具体的な「何者か」であるということが、存在の承認/存在の肯定の理由になっているわけである。これは、次のように定式化できる。

社会の具体的な空間/文脈において、「何者か」xであることが、当該のXという存在を肯定する理由になる。

これはまた、Xが「xという性質を要請してくる場面において、そうしないと存在が肯定されない」ということでもあるから、Xという存在が肯定されるためには、当該の文脈においてはxであらざるを得ない、ということでもある。だとすれば、上記において定式化した文章は、次のようにも言い換えることができる。

Xという個人の存在が生きていてよいという承認を得るためには、xという社会的規範に従わなければならない。

この主張を本報告では「属性主義」と名づけることにする(2)。この属性主義は、たんに「この私がある」ことを肯定しようとすることを否定する契機があるからこそ、批判されるべきなのである。

1.2. 属性主義について――「ろう文化」を例に
たとえば、以下のような「ろう文化」の主張がある。

「「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者であ
る」。これが、私たちの「ろう者」の定義である。
これは、「ろう者」=「耳の聞こえない者」、つまり「障害者」という病理的視点か
ら、「ろう者」=「日本手話を日常言語として用いる者」、つまり「言語的少数者」と
いう社会的文化的視点への転換である」 (木村、市田 [1995:354])

この社会は、聞こえることを「正常」とみなし、聞こえないことを「異常」とみなす社会である。こうした「ろう文化」の主張は、そのような「ろう=病理的障害」という視点をいわば否定することによって、ろう者の存在を肯定しようとする。また、日本手話によって作り出されてきた文化を生きるという指摘も「ろう文化」の主張には含まれている。たとえば、聴者の世界では「失礼」であるだろう、面と向かって指をさすというようなことも、ろう者の世界では行われる。これに対して「失礼だ」と聴者がろう者に向かって言うならば、それは聴者世界による「文化帝国主義」であろう。
ただし、私はこの「ろう文化」の主張は、過剰であると考えている。それは「ろう者のくせに偉そうに言うな」というものではまったくない。ろう者の存在を肯定するのに、わざわざ文化概念は不要である、そのように主張したいのだ。私は、ろう者個人が生まれ育ってきた中で培ってきたさまざまな文化や歴史性を肯定する。それは、その人にとってなくてはならないものであろうからである。ただそれは、「その人の存在を、生きてきた歴史を込みで肯定する」と言えばいいだけで、それは「ろう文化の肯定」にはならないはずである。ろうに特有のしぐさがあり、それを聴者が非難したり嘲笑したりするならば、ただ単に聴者の無理解を糾弾すればよいのではないか。文化に依拠せずとも、理論的にそれは可能であるはずである。
文化という概念を持ち出したとき、かならず、「では他文化のひとはどうなるのか」という問題が理論不可避的に現出する。文化とは、同じ文化の中においては統合や包摂のよりどころになるが、違う文化同士では最終的に排除の道具ともなり得る。私が問題にしているのは、この点なのである。文化に依拠する形で個人を肯定するのではなく、直截に個人を肯定すればよいのである。文化において共同性を獲得することを、私は擁護する。しかしながら、同じ文化であるなら同じ共同性を携えるべき――文化の規範論的主張はそこまで言っていると思う――だとは私は思わない。この2つは似ているが、まったく異なることである。
私自身は、ろう文化も同じ点に問題があると考えるが、では、ろう文化の主張をする眼前のろう者の存在を私は肯定するのか。もちろん、肯定する。そのひとの歴史において、ろう文化を主張しなければ生きる基盤を失っていたかもしれないということは、容易に想像がつく。だから、「そのように主張しなければ生きることすらままならなかった」という点において、「そのひとがろう文化を主張しながら生きてきたこと」は肯定されるべきだ。ただ、私はもっと別の道が残されているように思う。なんらかの属性を、たとえば文化という規範的装置によって肯定することで、個人の存在を肯定する道の他の道を、私は模索することになる。

2. ディアスポラと〈承認〉について
2.1. 認識レベルの肯定から存在レベルの肯定へ
属性主義が問題になるケースとして、他にはたとえば民族や国籍なども考えられる。そのときに、その属性が実体的なものか、それとも関係的なものかということが問われたりする。障害についても、それが実体を伴ったものなのか、あるいは関係的な構築概念かといったことを問題にすることができよう。
しかしそれは、いかほどの問いであるのだろうか。障害とは、何らかの原因(それは1つとは限らないし、また、きっちりとは特定されない場合もあるだろう)によって無力化させられていることなのであれば、無力化させられた個人にとっては、実体を伴うものであると言わざるを得ないし、無力化の過程を問題にするのであれば、関係的な概念であると言わざるを得ない。それらがいかほどの濃淡によって現出するかは、障害の種類、程度・個人の置かれた状況などによっていかようにも変わり得るとしか言いようがない。
このような、認識のレベルにおける「障害は実体概念か、構築概念か」という二項対立的な図式においては、障害をもつ個人の存在がないがしろにされがちになるのではないか。言い換えれば、こういうことである。「障害とは何か」という問いによって、障害を定義しようとすること、それによってニーズを同定しようとすることは、立法においては不可欠であるだろう。ただそのことは、障害に正しい定義が存在するとか、そもそも定義することが正しい営みであるということを意味しない。いっぽうでまた、障害概念が構築的であり、相対的であるというのもまた難しいのではないか。とりわけ、生死にかかわる障害を考えたとき、またそのような障害を甘受せざるを得ない身体を考えたとき、構築概念であるなどと言えるはずもない。つまり、私は認識のレベルにおいては、実体概念でありかつ構築概念であり、その濃淡については人によると言わざるを得ないと考える。障害の社会モデルの考えは、障害を認識レベルにおいて、多くは医学的な実体概念から、相対的・構築的概念へと移行させた、と考えるべきなのではない。むしろそれは、障害を認識レベルから存在レベルの思考、つまり、障害の実体的あるいは構築的アイデンティティによって障害者を肯定する道から、(障害ではなく)障害者という個人に依拠して、その個人を肯定する道を切り開くべきものではないのか。その中で、個人において障害の意味を考えたければ考えればよいのであって、障害に関して意味があるから障害者の存在が肯定されたり承認されたりするというのは、順番が逆ではないのか。

2.2. 肯定される存在の「主体」とは
同じことをさらに別様に述べる。私に語るべき「民族性」や「文化」や「歴史」などがあることが、私を肯定する理由であるべきなのだろうか。「民族性」や「文化」や「歴史」が、私を肯定する基盤となり得ないならば、私は肯定も承認もされ得ないのか。あるいは、信じられる宗教などもない場合、私は承認されることがないのか。仮に、それらがまったくないにしても、ただひとつ拠り所はある。それは、「この私が存在する」ということである。「私の存在」が存在しない存在などない。そのほかに何もないとしても、私には「私が存在する」ということの事実だけはある。それこそが、そしてそれだけが、すべての個人に共通に与えられているものであって、個人の肯定や承認はそこからはじめられるべきものではないのか。
ただし、次のことには注意すべきかもしれない。ある種の精神障害をもつ者は、「私の存在」を発見することが難しかったり、また逆に、「私の存在」が重すぎて耐えきれなくなるからこそ、私が存在することを抹消したい、ないことにしたいという気持ちに苛まれるのではないか。だから、すべての個人に「私の存在」は与えられたとしても、すべての個人がそれを発見することはできないかもしれない。この問題については、いずれ改めて考えたい。
ともあれ、「私の存在」の肯定というときの主体である「私」とは、いままで生きてきてここにこのように存在する「私」のことである。それは決して無色透明な個人ではあり得ない。ただし、「私の存在」の肯定を言おうとするとき、私に付着する属性の肯定を言う必要は、論理的にはないということである。
早尾貴紀は、日本での無国籍者を例に、次のように言っている。

「このように、日本においては、定住者であっても、さらには日本での出生者であって
も、戸籍制度の外部に置かれ、「本来的国民」ではないとして、市民権を制約されてい
る人びとが集団で存在する」(早尾 [2009:204])

しかし早尾は、この「本来的」なる言葉を、国家が「意図的かつ必然的にその差異化の対象として生み出され利用されてきたと言うべきであろう」(同、205)と述べている。これを踏まえるなら、次のように言うことができよう。国籍じたいも社会的構築物であり得るが、現にそういうものとして「無国籍者」は存在する。ただし、それがその人の存在を「本来的」に規定するものではあり得ない。私は、障害ということに関しても同じように考えよう、というのである。つまり、障害は社会的構築物であるということを認めるとしても、それは実体がないという意味ではない。そういうものとして障害者個人は、その生身の身体をもった者として存在する。ただし、それが当該の障害者の存在を「本来的」に規定する、ということではない。文化としての障害という言い方は、ここの部分があいまいであるがために、あたかも障害を「本来的」に規定してしまい、そのことで存在の是非まで言ってしまうような可能性を印象づけてしまうのである。

3. 障害はないにこしたことはないか、へのディアスポラ論の「回答」
ここまでの議論で、「障害はないにこしたことはないか」という問いに対して、何が言えるか。障害という属性のある種の語り方が、その人間存在の是非、すなわち規範をも述べてしまうところに「過剰性」がある。本来、属性とは人間存在の規範性を語るものではないはずだ。ただし、文化によって人間が抑圧されたり、またそれを逆手にとって文化によって人間存在を称揚しようとする試みがある。すなわち、文化という語り方は、無自覚に規範性を語ってしまう危険性があるということである。そして、私が本発表で示したことは、もうそのようにしなくてもよいということだ。つまり、原理的に言って、障害があるという属性を、文化という道を通ることなく、障害者の存在の是非とは切り離して語ることが可能だし、むしろそうすべきだということである。障害という属性は、障害者の存在には付着するものではあるが、そのことと、存在の是非や規範とは分けて考えるべきだということである。繰り返すが、「同じ属性の間での紐帯」はあってもよい。ただ、それだけを手がかりに存在の是非まで語るのは、語るに過剰だということなのである。
さらに残された問いとして、このような視座に立てば「自文化中心主義・対・文化相対主義」の対立にも何か有益なことが言えるだろう。また、私はシオニズムと優生思想とのあいだに論理的な親和性があると考えるが、そのことも本発表を手がかりに考えていくつもりである。


(1) 属性の中でも何を「社会的」属性となすのか、あるいはみなすのかについても、非常に重要な問いであると考えるが、ここでは詳述できない。
(2) 具体的には、巷で流布されているような、「(生物学的)女性であるならば、おしとやかにすべき」とか、「(政治的)日本人であるならば、日本の防衛を考えるべき」などのレベルを考えている。

参考にした文献
綾屋紗月 2009 『前略、離婚を決めました』,理論社
綾屋紗月、熊谷晋一郎 2008 『発達障害当事者研究』,医学書院
Boyarin, Jonathan and Boyarin, Daniel 2002 Powers of Diaspora: Two Essays on the Relevance of Jewish Culture (=赤尾光春・早尾貴紀訳 2008 『ディアスポラの力――ユダヤ文化の今日性をめぐる試論』,平凡社)
現代思想編集部編 1995 『現代思想』23-3、青土社
早尾貴紀 2009 「ディアスポラと本来性――近代的時空間の編制と国民/非国民」(臼杵監修 [2009:166-206])
藤家寛子 2007 『自閉っ子は、早期発見がお好き』,花風社
服巻智子編著 2008 『当事者が語る異文化としてのアスペルガー』,クリエイツかもがわ
市野川容孝・小森陽一 2008 『難民』,岩波書店
亀井伸孝 2009 『手話の世界を訪ねよう』,岩波ジュニア新書
木村晴美 2007 『日本手話とろう文化――ろう者はストレンジャー』,生活書院
2009 『ろう者の世界――続・日本手話とろう文化』,生活書院
木村晴美、市田泰弘 1995 「ろう文化宣言」(現代思想編集部編 [1995:354-362])
ニキ・リンコ 2005 『俺ルール!――自閉は急に止まれない』,花風社
2007 『自閉っ子、えっちらおっちら世を渡る』,花風社
ニキ・リンコ、藤家寛子 2004 『自閉っ子、こういう風にできてます!』,花風社
野口道彦他 2009 『批判的ディアスポラ論とマイノリティ』,明石書店
大澤真幸、姜尚中編 2009 『ナショナリズム論・入門』、有斐閣
徐京植 2005 『ディアスポラ紀行――追放された者のまなざし』,岩波新書
臼杵陽監修 2009 『ディアスポラから世界を読む――離散を架橋するために』,明石書店

*作成:
UP:20090906 REV:20090916
全文掲載  ◇障害学会第6回大会  ◇障害学会第6回大会・報告要旨

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