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「リブとして「男女雇用平等法」に反対する論理――京都の運動の事例から」
村上 潔
20071209 社会文化学会第10回全国大会 於:三重大学
http://japansocio-culture.com/taikai/10.htm
last update: 20151225
■報告予稿集原稿
1975年の「国際婦人年」に始まる「国連婦人の10年」において、世界的な要請から、日本国内では女性労働に関する様々な制度上の画策がなされた。その目玉となったのが、労働基準法「改正」である。労働大臣の諮問機関として1969年に設置されていた労働基準法研究会は、1978年11月20日に、産前産後休暇と育児時間を除く就労女性への保護規定の廃止を盛り込んだ報告書を提出する。これに対して、既存の労働組合・婦人団体・そして全国のリブ運動は総じて反対の声をあげた。しかしそれだけでなく、労基研報告では、同時に「男女平等法」の立法化が謳われていた。ここに、“「保護」撤廃=(雇用における)男女「平等」”/“「保護」から「平等」へ”、というロジックが示されたのである。各所のリブ運動は、直ちにこのロジックの不当性を指摘し、この策動を批判する運動を起こしたが、その後の対応は二分化する。
1979年1月、東京で〈私たちの男女雇用平等法をつくる会〉が結成され、新宿の中島通子法律事務所を中心に活動を始める。〈つくる会〉は、働く場で「本当に役立つ平等法を」働く女たちの側から作り出し、野党を通して要求していこう、と呼びかけた(中島編[1984]参照)。
こうした動きに対し、東京・多摩の主婦たちによるネットワーク〈主婦戦線〉は、痛烈な批判を浴びせた。〈主婦戦線〉の国沢静子は、男女雇用平等法策動の本質を、「女の階層分化=〈女の女差別〉構造の策動」であると指摘し(『星火通信』1979年6月15日号)、「国際婦人年」イデオロギーに「協力」する「上昇志向派」のリブが、この策動に「唯々諾々と乗せられ」て「「保護つき男女平等法」を野党各党と競うことに熱中し」ていると批判した(国沢[1980])。
本報告では、このリブ運動内における立場の相違が根底的に意味するものをより鮮明に抽出することを目的として、同時期の京都のリブ運動における労基法改悪反対運動に注目する。
分析対象は、1979年3月に〈おんな解放連絡会・京都〉(略称〈お解連〉)が母体となり、女150名により結成された、〈労基法改悪反対実行委員会〉である。同実行委は、1978年11月末に開かれた中島通子の講演会(〈婦人民主クラブ〉主催)における、中島の「身体を張って労基法改悪を食い止めよう」という呼びかけをきっかけとして運動を始めたが、その後の〈私たちの男女雇用平等法をつくる会〉の平等法制定に重点を置いた運動方針には戸惑いを覚える。そこで実行委は、〈つくる会〉の主張を綿密に検討した(労基法改悪反対実行委員会編[1979])うえで、〈つくる会〉の主要メンバーと直接意見を交わす場として合宿を開催する(1979年8月25〜27日、京都市左京区八瀬の養福寺会館にて。参加人数131人)。この合宿は、「「労基法」と「平等法」のかかわりをはっきりさせる」ことを目的としていた実行委の主要メンバーに「一層の混乱」をもたらす結果となったが、その後の実行委による理論の模索の過程から、「「男女雇用平等法」は女にかけられた攻撃だから、だんこはねのけようという立場」が獲得されるに至る(労基法改悪反対実行委員会編[1980])。本報告では、以上の経過と意義を詳しく述べる。
【文献】
◇国沢静子 1980 「翔べなくてよかった十年間の総括」,『現代の眼』21-4(1980-4):108-113
◇中島通子編・私たちの男女雇用平等法をつくる会 1984 『働く女が未来を拓く――私たちの男女雇用平等法』,亜紀書房
◇労基法改悪反対実行委員会編 1979 『労基法改悪反対連続ティーチ・イン第2回まとめ――「改悪反対運動と男女雇用平等法」』,労基法改悪反対実行委員会
◇労基法改悪反対実行委員会編 1980 『やりますぇ女の合宿'79夏――京都・大原・八瀬の里・女100人… 合宿あれこれぱんふ』,労基法改悪反対実行委員会
UP:20071015 REV:
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