「問題なのは「家族の定義」か?
――厚生労働省の終末期医療ガイドラインへのゲイ・レズビアンの反応を読む」
片山 知哉 2007/03『Birth――Body and Society』(先端総合学術研究科院生論集) pp.27-45
last update: 20151224
■■ 問題なのは「家族の定義」か?
――厚生労働省の終末期医療ガイドラインへのゲイ・レズビアンの反応を読む――
(2007年3月院生論集「Birth」初出)
先端総合学術研究科 片山知哉
■ はじめに
2006年9月15日に,厚生労働省から「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」が出され,それに対してゲイ・レズビアンの「一部」が動いた。本稿では,その動きと共にその意味について,現時点(2007年2月20日)における概略を描く。本稿で述べるのは以下の三点である。第一点は,ガイドラインの前史として,ゲイやレズビアンはこれまで医療の問題をどう考えてきたか,概略を述べる。第二点は,ガイドラインのたたき台はどのようにゲイやレズビアンに読まれたか,概略を述べる。第三点は,第二点を受けて,そこで何が議論されていないのかを整理する。
最初に二点を断っておく。第一点,この問題は現在進行形である。後に述べるように,厚生労働省の検討会は組織されたが,第一回検討会では具体的内容に踏み込んだ検討は為されておらず,第二回検討会の日程は公表もされていない。議論は今後に委ねられている。更に,厚生労働省だけでなく救急医学会でのガイドライン策定の動きもまた視野に入れる必要があるだろう。即ち,運動はこれらに合わせてまだまだ可能であり,必要でもあり,それに応じて問題の構図は形を変えていくだろう。第二点,この問題は僕のごく周囲で見出され,そこからゲイやレズビアンに呼びかけられた。いわば僕はこの問題の只中にいるのであり,それによる視点の限界は随所に認められるだろう。本来は,医療におけるゲイやレズビアンの権利を巡って,丁寧に検討する作業が必要だと僕は考えるが,本稿ではその問題の所在を指摘するところで終わる。
■ ガイドライン前史:ゲイやレズビアンはこれまでどのように医療の問題を考えてきたか?
ゲイやレズビアンが求めてきた権利保障は様々であるが,その中で医療問題はどのように取り組まれてきたかについて,本項において概略を述べる。
第一点,少なくともゲイにとっての医療問題は,まずHIVやSTIの問題であった。著書・雑誌・ウェブサイト・チラシなどを見るとき,医療に関しては突出してHIV・STI情報が多いことが目に付くだろう。しかしテクスト情報だけでなく,運動としても同じことが言える。ゲイやレズビアンに対する支援の少なくない割合が,HIV支援団体の枠組みで為され,かつその団体のメンバーとしてもゲイやレズビアンが多く参加している。HIV・STIから離れた運動は,実質的には少ないのだ。
第二点,医療機関へのアクセスが課題とされた。自分の性的指向を理由に,不快な思いをするのではないかという恐れから医療機関を受診できないことが語られ,実際に不快な対応を医療者から為されたことの体験談が語られた。そこから,診察でどのように医師に伝えれば不快な思いをせずに済むかの工夫が語られ,ゲイやレズビアンの勤務する医療機関が望まれ,限られた範囲だがそうした医療機関の情報がインフォーマルに流通した。また,ゲイやレズビアンをターゲットとしたクリニック構想が実際に検討された。
第三点,パートナー(や親しい友人)が急な病気や事故で倒れた時の体験も語られた。ずっと傍に付いていたくても,病院では血縁家族しか本人の傍にいることが許されず,自分たちは全く蚊帳の外に置かれた辛さ。葬儀にも参加できず,お墓の場所も分からず,忽然と自分の周囲からその人の全てが消えてしまう辛さ。それはノンフィクション記事として,小説や映画として,バーやサークルなどでの会話として,語られた。
以下,この第三点を中心にやや掘り下げて検討したい。残念なことだが,この点について本格的な調査研究は僕の知る限りなく,実態を把握することは困難である。数少ない文字化された資料として,Association of Gay Professionals(同性愛者専門家会議。以下,通称であるAGPと略す)代表の平田俊明が,2006年レインボートーク東京第二回シンポジウムにて行った指摘を引用する。
――私は,癌のターミナル期でホスピスに入院したゲイ男性のことをお話ししますね。皆さんにお配りした資料の中に,論文のコピーがありますが,そこに,癌の末期でホスピスに入院したゲイ男性が,家族から,パートナーとの面会を禁止されたというケースが載っています。
末期癌を患った50代のゲイ男性のAさんは,ホスピスに入院した後,一時的に混乱した状態になり,看護師に自分がゲイであることをカムアウトします。その後,Aさんが医療者にカムアウトしたと知ったAさんの兄は,その翌日から,AさんのパートナーのBさんが,面会に来るのを禁止してしまいます。Aさんは兄の言うことに逆らえず,医療者も兄の決定に介入することはできませんでした。AさんはBさんに会えないまま次第次第に弱っていきます。そして,亡くなる2日前に,急に切羽詰まった様子で,Aさんは兄に電話をかけます。「もう頼むわ,殺してくれ。しんどい。みんなによろしく言っといて。僕がお兄ちゃんに頼みたいことは,Bさんのことだけ。よろしく頼みますってことだけ。あとは何もない,何もいらん。」 その二日後,Aさんは亡くなります。
私がこの論文を読んでいちばん問題だと思ったのは,この論文を執筆した看護師たちが(おそらくAさんを実際に看護していた看護師たちだと思うのですが),パートナーの面会が禁止された出来事をまったく「問題」として取り上げていないんですね。この論文には,ちゃんと「考察」欄もあるのに,そこでも,まったくそのことには触れていない。この看護師たちは,Aさんが死ぬ二日前に切羽詰まって語った言葉,「僕がお兄ちゃんに頼みたいことは,Bさんのことだけ,あとは何もいらん」という言葉を,一体どういう思いで聞いていたのだろうと腹立たしくも思い,かなしくもなります。――
(AGP[2006:15])
パートナー(や親しい友人)が急な病気や事故で倒れ,しかし病院に行っても面会もできない事態に直面して,どうしようもなく諦めた人も多かっただろうし,それは彼らの置かれた状況を考えたら決して非難できないと僕は思う。だが,そうした中でも諦めなかった人はいた。彼らは終末期医療の現場で,本人との面会・看護・医療情報の説明を,血縁家族だけでなくパートナー(や親しい友人)にも保障することが,必要な課題と考えた。特に,同性パートナーシップ保障について考えてきた人たちの多くは,医療におけるこの課題について何らかの形で考え続けてきた。
それは運動家たちだけの意識ではなかった。2004年に「血縁と婚姻を越えた関係に関する政策提言研究会」が行った「同性間パートナーシップの法的保障に関する当事者ニーズ調査」がある(血縁と婚姻を越えた関係に関する政策提言研究会[2004])。それによれば,第一に,同性間パートナーシップを保障する制度が将来出来たら利用したいかどうか,との問いに対して72.6%が「利用したい」と答えており,同性間パートナー制度に高いニーズがあることが示された。第二に,同性間パートナーシップにおいて必要な制度について問うた設問では,「一方が入院した時の看護・面会権」・「一方が病気になった際の医療上の同意権」が必要性についても,利用したいという希望についても,全項目中最多であり,医療における諸権利のニーズが高いことが示された(必要性について5段階評価する設問では最も高い評価である「非常に必要」とした割合がそれぞれ86.4%と81.1%,利用したいかどうかという問いについて「利用したい」とした割合がそれぞれ87.4%と83.2%)。つまり,こういうことだ。同性間パートナーシップについて保障する法制度が必要だ,そしてそれがないために様々な権利が否定されているが,そこで最もニーズが高いのは医療における諸権利である,とこのアンケート結果は言っているのだ。
同性パートナーの権利が認められていないとは,そもそもどういうことか。それについても語られた。考えてみると良い,たとえば結婚している異性間のカップルであれば,特に準備なく,仮に周囲から反対されていても,健康保険や国民年金で扶養に入るのも,生命保険の受取人に相手を指名するのも,相手が病気になったときに医師から説明を受けるのも,治療方針を選択するのも,面会し介護するのも,相手が亡くなったときに葬儀をするのも,遺産を受け取るのも,すべてパッケージになって付いてくるではないか。これら全て,同性間パートナーに保障されていないものではないか。……と。
この解決のために,一つには同性婚や,ドメスティック・パートナー(Domestic Partner:DP)制度を求める動きが現れたのは理解しやすい。DP制度とは,地域によって別称はいくつかありまたそこで示される内容は差があるが,簡単に言えば結婚とは異なるものの結婚に準じた保障をパートナー間に与える制度である。例えばオランダ,ベルギー,カナダ,スペイン,南アフリカなどで同性婚が,ノルウェー,フランス,ドイツ,イギリス,ニュージーランドなど多くの地域でDP制度が,既に成立している(尚,アメリカは州により異なる)。他国で同性婚やDP制度が成立するたびに,あるいはそれが否定されるたびに,それがニュースとなって,ゲイやレズビアンに紹介され,話題となった。このテーマについては日本語で読めるものに限っても著書もウェブサイトも複数あり,メーリングリストもあり,様々な議論もありつつ続いている。
僕はこうした動きは確かに必要なことだったと思う。しかし,率直に言って現在の日本において,同性婚やDP制度が成立する見通しはない。そこからもう一つの動きとして,同性婚やDP制度の代替手段が検討され実行されてきたのだ。それには医療における諸権利に関して言えば三つあり,一つは養子縁組,一つは公正証書・任意後見制度,一つは個人情報保護法の活用であった。この中で,養子縁組制度は他国に比べ日本においては制限が緩く,同性婚の代替手段として最も早期に注目され,実際に利用されたものであるが,近年注目は下がっている。そのため以下,後二者を取り上げ検討する。
公正証書を活用する方法とは,パートナー二者間の権利義務契約についてただ口約束をするのではなく,公的にお墨付きを与えて結婚やDPに準じた効果を得ようとするものである。たとえば公正証書において,二者間の療養看護の権利義務や財産管理の代行権利などを,互いに委任することが書き込まれるわけだ。この公正証書についてはいくつかのことが語られ,また書かれた。例えば永易至文が編集した雑誌『にじ』(現在は休刊)の第6号・第7号において,赤杉康伸・石坂わたるのカップルが公正証書を実際に作るまでが記事として載せられている(永易[2003a][2003b])。また第3号「同性パートナーは入院・手術の許諾はできるか」という記事においても,公正証書への期待が述べられる(永易[2002])。赤杉・土屋・筒井編[2004]においても,公正証書については大きく取り上げられ,公正証書を作成した出雲まろうへのインタビューや,著者らによる公正証書紹介などが載せられている。ただ,この時点では,公正証書で何が出来ないかについての自覚は乏しかったかもしれない。公正証書での契約は,二者間の権利義務について規定したものであるため,第三者(医療者や血縁家族)の行動を拘束する力はなく,結局のところ医療判断代理は範囲外なのである。後に,2006年4月永易により弁護士を招いて行われたワークショップや,2007年赤杉によるAll Aboutでのウェブ記事(赤杉[2007])において,その限界が意識されるようになる。
次に任意後見制度を見てみる。任意後見制度を活用し,予め元気なうちから判断能力が低下したときのために,パートナー間でお互いを後見人に指名し,意思表明ができなくなった際に備えようとすることが検討された。成年後見制度自体が2000年4月施行であるから,検討はまだ深まってはいない。だが,所々で検討は始まっているようだ。いくつか挙げるとすれば,ゲイ雑誌『G-men』で2006年6月号より開始となった永易による連載記事「僕らのエンディングノート」では,2007年2月・3月号の二回に渡って成年後見制度について紹介が為された(永易[2007a][2007b])。またLGBT-JAPAN.COMというウェブサイトに載せられた,同じく永易による「パートナーシップのQ&A」という連載にも記述がある(LGBT-JAPAN.COM[2006])。しかし公正証書と同様,期待された任意後見制度だが,やはり検討が進むにつれ,立法担当官の見解として「医療判断」は含まれないと明文化されていることや,解釈論ではその判断は変えられないことなどが気付かれ,これによっても「医療」の問題は解決できないことが,まだ一部ではあるが知られるようになった。従って,公正証書・任意後見制度の両者とも,現状では「医療」まで適用できず,ここで試みは頓挫することになった。
では個人情報保護法については何が考えられたか。本法についてはこれに基づき2004年12月24日に,厚生労働省から『医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン』が出されている(厚生労働省[2004])。そこには,「本人以外の者に病状説明を行う場合は,本人に対し,あらかじめ病状説明を行う家族等の対象者を確認し,同意を得ることが望ましい。この際,本人から申出がある場合には,[……]現実に患者(利用者)の世話をしている親族及びこれに準ずる者を説明を行う対象に加えたり,家族の特定の人を限定するなどの取扱いとすることができる」とある。オープンリーレズビアンである尾辻かな子大阪府議は,府議会にてこのガイドラインの,「現実に患者(利用者)の世話をしている親族及びこれに準ずる者」に同性パートナーは含まれるのかと質問し,同性パートナーも病状説明の対象に含まれる(少なくとも大阪ではそうする)という回答を得た。このことは,他でもよく引用され期待された。これに応じた動きとして注目されるのは,大阪の団体Queer and Women's Resource Centerが2005年11月に作成・配布を始めた「緊急連絡先カード」である。自分の身に万一のことがあったときに,連絡して欲しい人の名と連絡手段を記入するこのカードは,決して広く使われているとは言えないが現在でも配布が続けられている。
しかし,個人情報保護法とそのガイドラインにどこまで期待できるかは分からない。最大限ゲイ・レズビアンに有利に解釈したとしても,「本人の意識がはっきりしていて,確認できる場合」の「情報提供の範囲の規定」をしたものに過ぎない。本人の意識がはっきりしていれば,本人がパートナーを指名し,パートナーは医療の説明を受けることができるとしよう。しかし,逆に言えば「本人の意思が確認できない場合」はどうなるのか。本人が事前に情報の範囲を決めておかなかったらどうなるのか。そもそも情報提供以上の医療判断についてはどのように為されることになるのか。
更に問いは続く。本人の意思であれば,本当に医療機関では守られるのだろうか。現行法上も医療判断について血縁家族が代理同意できるという根拠は法制度上存在しない。にもかかわらず,現在医療機関では,今でも本人以外に家族に同意を求める「慣習」が根強い。それは何らかの法律で規定されているものではないはずだが,正面からそれを争って勝てるだろうか。このレベルでもゲイ・レズビアンは困難に直面した。だから例えば,「終末期がん治療:患者より家族意向…46%が回答」という見出しで2007年2月17日付『毎日新聞』に掲載された,「がんの治療方針や急変時の延命処置などを決定する際,患者本人が意思表示できる場合でも,まず家族の意向を優先している病院が約半数の46.6%に上ることが,厚生労働省研究班(主任研究者,松島英介・東京医科歯科大助教授)の調査で分かった。家族の意向を優先する理由として半数以上の54.6%は「家族とのトラブルを避けるため」と回答しており,患者の意思が十分尊重されていない実態が浮かんだ」(『毎日新聞』2007-02-17)という記事などを気にする人たちがいる。まさにこれは,ゲイやレズビアンが直面している問題そのものだからだ。
本項に記した道筋を整理する。医療におけるゲイ・レズビアンの権利保障に関して,特に面会・看護・説明同意権についてはパートナーの権利として検討された。その解決として一方には同性婚やDP制度を求める動きとなって現れたが,もう一方には現行法制度上で代替手段を検討する動きとなった。それには公正証書・任意後見・個人情報保護法が挙げられたが,現在の法制度上はいずれも医療問題を解決することは困難であることが認識された。最後まで考え続けた人は多くはなかったものの,考えてきた人はこの結論に辿り着いた。
これが現状の到達点であり,これを超える試みは今のところ見当たらない。同性間パートナーシップについて考えている人は多くいるはずだが,多くは他国での同性婚やDP制度について紹介するに留まり,国内の公正証書・任意後見・個人情報保護法以外の検討はほとんど為されていないと言って良いと思う。後述する検討の準備として記しておくが,実質的に医療における同性パートナーの権利を検討する上で重要と思われる,国内外の諸法制度とそれを巡る動向についての検討が為されてこなかったことは指摘されて良いだろう。例えばアメリカにおける持続的代理権Durable Power of Attorneyについて,またそれが財産関係と医療関係との二種類あることについて,さらにそこで代理人を立てるプロセスについて,医療判断における家族の権限について,どのように扱われているか。更にイギリス,ドイツ,フランス,オランダ,カナダなどにおいてはどうか。それらと比較した上での日本の成年後見制度について,更に2005年5月に出された日本弁護士連合会の「成年後見制度に関する改善提言」(日本弁護士連合会[2005])について。これらについての検討が全く為されてこなかったのだ。これはその後の運動を制約する知的現状として,ロビーイング能力の問題とはまた別に把握されるべきである。
■ ガイドラインたたき台への反応:ガイドラインはどのようにゲイやレズビアンに読まれたのか?
終末期医療ガイドラインたたき台は,どのようにゲイ・レズビアンに読まれたのか。それを述べる前に,ガイドラインの経緯を記しておく。
厚生労働省(旧厚生省)においても,1987年より5年おきに,継続的に終末期医療についての検討会が開催されてきた。第4期は2002年10月より開始され,その調査結果は2004年7月に『終末期医療に関する調査等検討会報告』(厚生労働省医政局総務課[2004])としてまとめられている。この結果について厚生労働省に尋ねたところ,一般国民にリビングウィルについて尋ねたが,制度化・法制化への抵抗が強く,このため,医師会や研究班へのガイドライン作成支援に留めることになったという返答であった。確かにその後,医師会や研究班ではこの問題について検討が為される一方で,厚生労働省としての指針は出されないままになる。
研究班と医師会について本稿で必要な範囲で触れておく。研究班は複数あるが,その一つ,厚生労働省難治性疾患克服研究事業「特定疾患患者の生活の質(QOL)の向上に関する研究」班(主任研究者:中島孝(国立病院機構新潟病院副院長))においては,ALS(筋萎縮性側索硬化症)など難病患者の事前指示書等について検討が為された(尚,本稿で論じている厚生労働省「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」はこの研究班の主任研究者を中心に作成された)。日本医師会でも検討は為され,第9次生命倫理懇談会2006年2月報告(日本医師会第\次生命倫理懇談会[2006])では,終末期の治療選択にあたって患者の意思が不明確な場合につき,「この場合,家族または患者が予め指名していた者と治療について話し合うことになる。ここで,何らかの方法で(例えば,後で述べるような事前指示により)患者がこのような状況で何を希望するかを推定できるならば,それを考慮しつつ医療者側が患者にとって最善の選択肢を検討し,患者の意思を代理人として担う家族等と話し合って合意を目指すことになる」とあり,家族と並んで「患者が予め指名していた者」という文言がある。これはゲイ・レズビアンがよく引用する箇所である。
こうした厚労省の姿勢は2006年夏に転換する。2006年2月富山・射水市民病院事件などによる世論の盛り上がりを受けて(時機を狙っていたのか,しぶしぶなのかは現時点では分からない),同9月にガイドライン策定計画を発表。2006年9月15日に「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」(厚生労働省医政局総務課[2006b])へのパブリックコメント募集をホームページ上で開始(厚生労働省医政局総務課[2006a]),2006年12月27日にアナウンスの上(厚生労働省医政局総務課[2006c]),2007年1月11日「第一回終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会」が開催された。検討会の事務局は医政局総務課菊岡課長補佐,座長に樋口範雄が選出された(検討会については,当日まで委員は明らかにされず,現時点でも厚生労働省のホームページには委員のリストも議事録も公開されていない)。
第一回検討会においては,初回ということもあり,また検討委員の多さもあって,具体的にガイドラインの内容面に踏み込んだ検討は為されなかった。当日の場では,2007年1月9日までのパブリックコメントについて,たたき台の記載項目ごとに意見が分類され,資料として委員に配布された(資料については以下。独立行政法人福祉医療機構[2007])。パブリックコメントの総数65通。電子メール47件,郵送18件。うち医療関係者30名(医師が半数),医療関係者以外31名(自営業が多い(弁護士など)いろいろ),不明4名。研究者・報道関係者からのコメントが乏しいことが目立ち,また全体に集まり具合が少ないのが目に付いた。今年度中に検討会はあと二回開催される見込みである。公的な意味での経緯は以上である。
ガイドラインたたき台について,具体的に眺めてみれば様々に批判することができる。それは終末期医療についての広汎な論争を投影することのできるスクリーンである。しかしその中でゲイやレズビアンが反応したのは,「2.終末期医療及びケアの方針の決定手続き (2)患者の意思の確認ができない場合」であった。そこに記されている,「家族等の話等から患者の意思が推定できる場合には,その推定意思を尊重し」「患者の意思が推定できない場合には,家族等の助言を参考にして」の,「家族等」に同性パートナーは含まれるのかという点が,注目され議論された。そして,第一回検討会の議論でゲイやレズビアンが注目した事柄とは,そこで「家族等」の「等」が何を指すのかを巡っての議論が為されるのかどうか,「血縁家族」に限定された際の問題点が議論されるかどうか,であったのである。
では次に,終末期医療ガイドラインに関して,ゲイやレズビアンが行なった動きについて現時点までの概要を述べる。2006年8月の時点で,厚生労働省及び「特定疾患患者の生活の質(QOL)の向上に関する研究」班主任研究者中島孝に対し,家族の範囲について,同性パートナーの尊重について質問する動きがあったが,継続した動きにはならなかった。同9月には,たたき台についてのパブリックコメントを厚生労働省に送ろうという呼びかけが一部でなされたが,これも継続した動きにはなっていない。実際に動きとして現れたのは2007年1月の初めであり,赤杉が中心となって第一回検討会の前にパブリックコメントを送ろうと呼びかけられ,さらに第一回検討会後にその報告と共に再度呼びかけを行った。呼びかけの対象は,十数箇所の団体やメディア,関連するメーリングリストや掲示板,数十人の関心を持ってくれそうな個人であった。また,赤杉自身がウェブ上で記事を書いた(赤杉[2007])。これに対し,個人のブログ(例えばぼせ[2004],akaboshi[2005],ひろぱげ[2002])や,代表的SNSであるMixi内日記で,関心を持った人が,この呼びかけ文を掲載,あるいはそれに触発された文章を載せた。ゲイメディアとしては雑誌『バディ』のウェブサイトであるバディジェーピィ(バディジェーピィ[2007]),STAGPASSが運営しているウェブサイト上のニュース記事であるJapanGayNews(STAGPASS[2007]),広くゲイやレズビアンが購読者層になっているメールマガジンMILK(MILK[2007])がこの話題を取り上げた。団体として反応したのはAGPであり,団体名で提言を作成し検討会の委員に渡している。ごく最近,オープンリーゲイであり,赤杉のパートナーとして知られる石坂の団体「石坂わたると多様性のある中野を作る会」のチラシにパブリックコメントの呼びかけが載せられ,レインボーカレッジのメンバーのひとりが署名活動を始めた(まめた[2005])。
動きとしては以上でほぼ網羅している。つまり,あまり大きな動きは起こっていないし,内実としてもパブリックコメントの呼びかけに留まり,それ以上のロビーイングにはつながっていない。更にそこで起こった反応の内容について見ておきたい。この呼びかけは赤杉が中心となって為されたが,その呼びかけの内容に関してはAGPも関与しており,実際AGPの提言は赤杉の呼びかけ文においてその全文が引用されている。従って両者の関係は非常に近い。そのAGPの提言内容を以下に引用する。
――今回のガイドラインを作成するにあたって重要なのは,患者本人の意思の尊重をいかに実現して行くのかであり,「意思の確認方法の明確化」であると思われます。しかし,我々の経験から見て現在の「たたき台」では,「意思の確認方法の明確化」が不十分であると思いますので,以下の二点について提案を行ないます。
提案1
「家族等」の中に,同性パートナーを含めるべきである(というよりも,当然同性パートナーも含まれると考えます。)。「家族等」とは,必ずしも患者と血縁関係/婚姻関係にある者を意味しない。「長年,患者と実際に生活を共にしてきたパートナー」や「長年,患者と情緒的・物理的に近しい関係にあったパートナー」等,実際に本人にとって重要な関係を持っており,本人の意思を最もよく把握している人とすべきです。
(理由)
長年連れ添った同性パートナーが存在するにもかかわらず,本人の急変によって,単なる「友達の一人」として扱われ,日頃疎遠であった血縁家族の意思の方が重視され,医療方針の決定はもちろん,面会すら制限され,結果的に本人が望む終末期を迎えられなかった場合があり,本人の望む終末期を迎えるためにも,日頃疎遠な血縁家族よりも,実際に生活を共にしてきたパートナーの方が本人の意思を把握することができる場合もあり,一律に血縁家族を意思の把握する対象とするのではなく,実態に合わせて判断すべきです。
提案2
意思確認ができる状態で,患者本人が,意思確認ができなくなった場合誰の話を聞いてもらいたいのか,本人意思の推定に関する話を聞く対象者を指名できるようにすべきである。意思決定の合意内容をまとめる文書の中に,誰を対象者に指名するかも盛り込むことができるようにすべきである。
(理由)
意思が確認できない場合で,家族等の中で意見がまとまらない場合が想定されていますし,本人と血縁家族とが医療に関して倫理観の違う場合もあり血縁家族が本人の意思を代理できるとは限りません。本人の最善の利益をより実現させるためには,本人の意思を推定するための話を聞く対象者を本人が指名するのが,本人の意思を尊重するためにもっとも妥当だと考えます。事前に対象者を指名することができるようにする方法があると「意思の確認方法」がより明確になると考えます。なお,指名される対象者は血縁家族に限られないことは,提案1で述べた通りです。――
ここでAGPは,慎重に「代理」という語を排し,同性パートナーに限らず本人が事前に指定している者がいる場合には,その者の助言を充分に尊重して患者の意思を推定するよう提言している。ここではAGPが,パートナーといっても本人の「代理」はできない,という意識を持って提言内容を作成した意図が読み取れる。赤杉が作成したパブリックコメント文例を見ても,その流れは基本的には読むことができる。しかし,赤杉の呼びかけ文(それは赤杉のブログで全文を読むことができる。赤杉[2004])等においてはこの動きを同性パートナーの権利の文脈で取り上げているためか,上で挙げたゲイメディア・ブログ・日記等では概ね,この問題を同性パートナーの権利の問題として取り上げており,それとは異なる読みは見当たらない。一番はっきりしているのはSTAGPASSのJapanGayNewsであり,ニュース記事には「パートナーを看取るために」とタイトルが付けられている(STAGPASS[2007])。これらが赤杉の呼びかけ文の強い影響下にあるとも言えるが,赤杉の呼びかけ文が彼らにとってごく自然な内容であったとも言えるかもしれない。
本項で記した内容を整理する。厚生労働省から「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」が出されたが,その経緯についてまず整理した。次に,ゲイやレズビアンの「一部」が「たたき台」を,その文中の「家族等」に同性パートナーが含まれるのかという観点から注目し,ゲイやレズビアンに向けてパブリックコメントの呼びかけを行なった。そしてその反応は,概ね「同性パートナーの権利」という文脈のものであった。ここから考えると,ゲイ・レズビアンにとって終末期医療ガイドラインの問題とは,同性パートナーの権利の問題であるとして,概ね違和感なく受け止められたと言って良いと思う。
■ そこでは何が議論されていないのか
しかしこう振り返ってみた時,議論すべきことが議論されていない不全感を僕は覚える。生命倫理一般ではなく,議論の範囲を「家族」についての問題に限ったとしても,更にそれをゲイやレズビアンの利害に関係する領域に限ったとしても,考えるべきことはもっとあると思う。例えば,これまでに医療判断を家族に委ねることの孕む問題は,確かに指摘されてきた(家族代理の問題は重要なテーマであるが,ここでは詳細は論じない。典型的には筋萎縮性側索硬化症を巡って,植竹ら[2004],立岩[2004],川口[2006]などで書かれている)。また上で見てきたように,ゲイやレズビアンも,医療判断を血縁家族に委ねることについて問題化した。しかし,その問題化の仕方は明らかにずれている。
この点を少し図式的に整理してみたい。医療判断を血縁家族に委ねる,医療現場にある「家族主義」について問題化するという時,少なくとも二つの方向で問題化できる。第一は,「本人にとって物理的・心理的に身近な人というのが,血縁家族とは異なるにもかかわらず,血縁家族が重視されること」によって生じる問題(第一の問題化)。第二は,「血縁家族に限定せずとも,本人にとって物理的・心理的に身近な人が,本人の医療判断を代行すること」によって生じる問題(第二の問題化)。この二つは,全く異なる問題を提起する。
ゲイやレズビアンが行なったのは,第一の問題化のほうである。本人にとって物理的・心理的に身近な人がいるのに,そうではない血縁家族が医療判断において重視されるとは,次のような問題が生じるだろう。例えば本人の意思・意向,最善の利益を知らず,代弁もしない/できない危険性が高いのではないか。本人が傍にいて欲しいと望むだろう人間を不当に排除する結果にならないか。つまりゲイやレズビアンは,血縁家族よりもパートナーの方が身近であり,パートナーの方が本人の利益に適った行動もでき,本人もそれを望んでいるのだ,と主張する。別の言い方をすれば,そこでは「家族の定義」を問題とし,どちらがより本人にとって良い家族であるかを争っているのだ。
第二の問題化は,これとははっきりと異なる。そこで問題となっているのは,家族の定義ではない。血縁家族かどうかは関係なしに,本人にとって物理的・心理的に身近な人が,本人の医療判断を代行することそれ自体の問題性に注目する。第一に,医療判断という一身専属性の高いものについて,どこまで他者が関与して良いかが問われる。第二に,身近な人は本人と利害関係を有し,しばしばその利害は対立するが,その時そうした者の判断は妥当なのかが問われる。介護をめぐる身体的・心理的負担や,経済的負担,更にそこに血縁家族であれば遺産問題が絡むだろう。第三に,負担を抱えた人間の判断は歪みやすく,そのためその言葉を信頼して良いかが問われる。第四に,代理可能性が当人の関係性にどう影響するか。相手に命綱を握らせることが関係を歪める危険性について問われる。
第二の問題化をした人から見ると,「家族の定義」を問題化したゲイ・レズビアンの言い分はあまりにロマンティズムに満ちた甘いものに見えるかもしれない。だが,そこには確かにゲイやレズビアンのニーズの重要な一つがあり,終末期医療の議論において第一の問題化が欠けているとするなら批判されるべきだし,実際欠けているから批判は必要だろう。と同時に,ゲイやレズビアンが第一の問題化しか為し得ず,第二の問題化を考えてこなかったことを批判することも正当なことだと僕は思う。第二の問題化として記した事柄はゲイやレズビアンにとって他人事では決してなく,現時点で第一の問題化として記した事柄の陰に隠れているだけだからだ。
そして本人の判断能力や代理を巡る問題があり,生死や予後を巡る判断の困難さを巡る問題があり,医療者−患者関係を巡る問題があり,病床の数や介護の公的保障の有無や経済的保障の有無という問題があり,マイノリティ属性による差別と心理的承認の問題があり,それらがここに絡んでくるという構図になる。これら錯綜した問題圏は,まだほとんど検討されていないが,ゲイ・レズビアンもまた医療において直面する問題なのである。現状は,ゲイやレズビアンは医療問題に関心が低く,考えるべきことを考えてこなかったと言って良いだろうと僕は思う。ここから更に考えるべきことがある。
上述のように,医療におけるゲイ・レズビアンの権利の保障は,同性パートナーの権利の保障という枠組みで読まれてきた。同性婚・DP,そしてその代替手段が検討されたが,それは先に見た「第一の問題化」であり,「第二の問題化」を始めとする諸問題が検討されていないため,医療におけるゲイ・レズビアンの権利全般を扱うことに成功していないことを述べた。だが,パートナー関係という枠組みだけで見ることの問題は,そこに留まらない。パートナー関係がゴールなのか,本当にそれは望まれているのか,現状では安定したパートナー関係がどれくらいあるのか,という点が黙殺されているからだ。そう,先に挙げた,「同性間パートナーシップの法的保障に関する当事者ニーズ調査」(血縁と婚姻を越えた関係に関する政策提言研究会[2004])は,そもそも同性パートナーに関心のある層しか対象にできなかったのではないか。その結果は,実感に裏打ちされたものだったのか。
その黙殺された問いは,更に二つの問題を呼び起こす。第一の問題であるが,安定したパートナー関係が現に少なく,望まれてもいないとすれば,同性パートナーの権利保障という枠組みではゲイやレズビアンの医療における権利保障に足りないというだけでなく,つながらないと言うべきだろう。もちろん,だからといって,同性パートナーの権利を考慮する必要がないと言うべきではない。ゲイやレズビアンであるということを,単に個人的な性的欲望としてではなく,ライフスタイルとして感じられるようになった変化に伴い,同性パートナーへの意識が高まってきたのは,それほど昔のことではない。現在で言えば40代のコホート以降であろうし,その集団のエイジングに伴い今後同性パートナーの実数も期待も上昇するかもしれない。しかし少なくとも現状から判断すると,同性間パートナーシップを通じて医療における権利保障を考えるという構図では,関心を喚起することにさえも困難が大きいかもしれない。
このことは,今回の動きの伝播に限界をもたらした一因である可能性がある。ゲイやレズビアンの研究者も運動家も,こうした政治的な動きについて関心を引き出す土壌作りをやれてこなかった,少なくとも不充分であったと,僕にはそう感じられる。研究者が他国で成立した同性婚やDPのニュースを紹介するだけではなく,また文化表象や理論研究のみに没頭するのではなく,国内外の法制度について整理して紹介する努力や,現状の社会学的実態調査を行う努力が,もっと必要だったと思う。運動家も,広くゲイやレズビアンを動員する力や,実態に合わせた提言や,他領域の運動家たちとのネットワーキングや,国政内部への人脈作りや,適切なロビーイングがもっと必要だったと思う。何故やれてこなかったのか,これまでも繰り返し形を変えつつ同じ問いかけが為されてきていたはずだが,その積み上げが起こることなく消えて行ったその理由は何か,考えるべきであろうと思う。批判もあったが,こうした背景を考えると今回できることとしては,パブリックコメントの呼びかけが精一杯のやり方だったのかもしれない。
第二の問題であるが,安定した同性とのパートナー関係を持つことが難しい人への配慮が欠けているのではないかという問いである。これまであまりにも考えられてこなかったことの中で,考えるべきこととして五つ挙げる。こうした場合に,権利保障とは何を意味するのか,検討されねばならない。
第一に,既婚者についてどう考えるかである。既婚者のゲイ・レズビアンにとって,何がニーズであり,それを満たすにはどのような方法が適切かについて,(仲間内で既婚者の話題が出る頻度と比べて)驚くほど考えられてこなかった。実数が少ないとは思われないが,実態調査も非常に乏しい。また,既婚者のゲイやレズビアンに対するバッシングもあり,調査自体がやりにくいという問題もある。しかし,既婚者の中にも同性との継続した関係を持つ者もいるし,自分に万一のことがあったときには傍にいたいと願うこともあるかもしれない。これは異性間の内縁・浮気と同一視されてはならない。社会における,あるいは本人に内在化されたホモフォビアの存在ゆえに,異性と結婚した者も多くいるからだ。
第二に,様々な経緯からいわゆる「二重生活」を送っている場合をどう考えるか。「二重生活」とは,ヘテロセクシュアルの顔をして生きる場(学校や職場など)と,ゲイやレズビアンの顔をして生きる場の二つを持ち,この二つが関連することなく切り離されたままで生きる生活のことを指している。学校や職場ではゲイやレズビアンであることを隠し続け,そこにゲイやレズビアンとの関係が持ち込まれることを極端に避け,ゲイやレズビアンの友達やセックスフレンドがいてもお互いに氏名も住所も職業も知らない。こうした「解離的」生活について考えるべきことは多くある。その背後にホモフォビアの存在を考えることができる,というだけではない。一見適応も良く,ゲイであることを受け入れていると話し,ハッテン場やセックスフレンドとのセックスは問題なく巧みにこなすのに,「恋愛」となると出来なくなってしまう若者がいる。これが,「解離」のもたらす結果なのだ。つまり,「恋愛」は人格間の関係性であり,「二重生活」の片方だけで継続することは困難だからだ。
第三に,障害によりゲイやレズビアンの中に実質的にアクセスできない者のことをどう考えるか。障害とゲイ・レズビアンというテーマも,これまでに考えるべきことが考えられてきていない。重要な例外は花田実(立岩[1996]に掲載)であるが,他には日本のものでまとまった記述は見当たらない。断片的には記述を見つけることはできる。例えば脳性麻痺であるJanusは東京のパレード後に,次のような文章を書いている。「中野に生まれても,二丁目やハッテンバに行けなかった。片思いさえ,友人には言えなかった,皆,ゲイでなかったから。大学院で知り合った車椅子の友人は,コンドームの実物さえ見ずに逝ってしまった。会場で貰った山盛りコンドームを,ポケットの中でギュッと握り締める。」(Janus[2002])また,AGPが2006年度より開催した月一回のセミナーで,数回に渡り障害がテーマとして取り上げられたことや,『G-men』の連載「老後,どうする?」で永易が病気後の人物のインタビュー記事を書いていること(2006年6・7月号にて脳梗塞・膀胱癌,同8・9月にて心筋梗塞をそれぞれ患った人物へのインタビューが行なわれている。永易至文&GaGa・n・Bo[2006a][2006b][2006c][2006d]),『クィア・ジャパン・リターンズ』vol.2で後藤純一「ゲイにとってのうつ病」(後藤[2006])やエスムラルダ「人生はカネだ!」(エスムラルダ[2006])などで病気や社会保障について記事になったりしているが,まだまだ足りない。脳出血後の高次脳機能障害を持つゲイがどのような生活を送っているのかについてや,デフゲイ集団の動きについて,それ以外のことも含めもっと知られるべきことがある。近年ゲイやレズビアンのエイジングについて,雑誌等で取り上げられることが増えてきたが,残念ながら現時点ではエイジングについては,active agingとは異なる,「できなくなっていくこと」について,即ち障害の問題圏としてはほとんど語られてこなかった。disabling agingについても,より突っ込んだ検討が必要であろう。
第四に,他国籍でいわゆる不法滞在で隠れながら生きている場合はどうか。医療を受けること自体が経済的に困難である上に,強制送還を恐れて外に出ることも自由には出来ないそういうゲイやレズビアンのことを考える。彼らがどういう思いでいるのか,僕自身はほとんど何も知らないのだが,例えばぷれいす東京理事の生島嗣は,前述の2006年レインボートーク東京第二回シンポジウムにて次のような指摘を行なった。
――滞在資格の有無は大変大きな要件です。日本国籍で生きていて,私たちが無意識に持っているものがたくさんあります。たとえば,健康保険があります。外国籍の方が健康保険に入ろうと思うと,ビザの滞在期間が残り1年以上ないと入れません。
たとえば,外国籍の方が日本でHIVに感染したり,病気になると,治療費は全額自費負担となります。このため,HIVに感染して,治療薬を飲む場合,自費ですと一月に20〜30万円かかります。結構稼ぎがよくないと難しいです。日本に居る外国の方で,日本でHIVに感染してしまう方がかなりいらっしゃいます。
日本に住んでいる外国の方と日本人のカップルの場合,日本人は病気になっても,健康保険で治療が可能です。しかし,外国の方は,何か能力があれば仕事が見つけられたり,ビザ取得が可能ですが,そうでない場合,観光ビザで入国し,そのままオーバーステイになってしまうこともあります。健康保険に入れないと,なかなか治療さえ受けられない場合があります。
また,こんなケースもあります。ビザのない外国籍のゲイの方が「どうしても日本に居たい」と,弁護士に相談しました。「自分はビザを持っていない。日本国籍を持っていないので,健康保険にも入れず,治療したくてもできず,困っている」と。弁護士は「あなたのできる唯一のことは,日本人女性と結婚することです」と言いました。ゲイで男性に性的にひかれるのに,そういう選択肢しか残されていないということが,実際に起こっています。泣く泣く,別れて違う国で暮らすという苦しい決断をした人も居ます。また,オーバーステイで,日本に居続けるという選択をしている人もいます。その場合,治療は受けられず,苦しいが,日本人のパートナーと日本に居る。街角に立つ警察官に職務質問をされることにおびえながら,日々過ごしています。一緒に暮らしたい人が居るのに安心して暮らせないという現状があります。――
(AGP[2006:8])
更に,このような立場の弱さに血縁親族がつけこむ話も聞いたことがある。死に逝く直前に,残される外国籍のパートナーに自分の遺産を一部でも残そうと遺言状を作ろうとした。しかし,本人とそのパートナーは本人の親族から「不法滞在であることを通告するぞ」と脅され,パートナーは泣く泣く小額の金銭を受け取って,本人の死後日本を離れたという(山下[2003])。
第五に,パートナーからドメスティック・ヴァイオレンス(DV)を受けている場合はどうか。この点はやや突っ込んで議論してみたい。一つ目として,この問題はほとんど論じられることがないが,実態としては深刻である。社会におけるホモフォビアの存在故に,DVが起こっても相談することが困難で,異性間の場合以上に密室化するということがある。そしてまた,ゲイの場合は特に,シェルターや緊急避難先の病院がなく,問題が発見されても解決につながらない。異性間であれ同性間であれ,パートナーシップに限らず関係性を論じる時は,その危険性を同時に議論すべきだと思うのだが,現在はそうなっておらず,日本では同性間DVについての調査がほとんどない。貴重な例外として,日本のセクシュアル・マイノリティに関する暴力について調査したDiStefano[2006]があり,今後研究の層が広がるかもしれない。
二つ目として,ゲイやレズビアンにとって,DVについて検討することの意味を考える。一般的に言ってDVを考えることもまた,「家族主義」を問題化する。しかし,この問題化とはどのようなものか。これは単に家族の定義を問題化する「第一の問題化」ではありえないが無関係でもなく,その危険性を承知の上で,家族以外の親密な人的ネットワークの必要性を言う点で「第二の問題化」とも異なる側面を持つ。ここで問われるのは,誰を自分にとって身近な人と見なし,身近に置くかを巡るポリティクスである。その意味ではDVについて検討することは,もう少し広い文脈に接続することが可能かもしれない。婚姻関係を含めた固定したパートナーシップとは異なる,友達や仲間とのネットワークを語る上野千鶴子[2005]もこれに近いかも知れず,この本はゲイの間でも参照され,またゲイやレズビアンの中でも将来複数の友達で共に暮らす話が出たりもする。だが,そこではその限界について語られていない。他のフィールドで何らかの仕方で「家族主義」を問題化した人たちと連帯することで,関係における可能性と共にその限界や危険性を検討することを通じ,ゲイやレズビアンの運動家たちも,同性婚へのイデオロギー的対立に陥ることなく,関係性について別の角度から検討することが可能となるかもしれない。
三つ目として,終末期医療ガイドラインについて,厚生労働省のものであれ救急医学会のものであれ,DVについて考えてきた人は別の点から異議申し立てをするだろう。それは例えば,パートナーから暴力を受け,その結果重度の脳障害が生じ意識障害となった場合に,本人の医療停止の判断において当のパートナーが含まれてよいか,あるいはその暴力を見て見ぬ振りをした人間が含まれてよいか,あるいは担当する医師がDVの可能性を検討するための準備(知識も時間も場も必要だ)を保障する必要はないか,そして誰が本人の利益を代弁するのかその方法はいかなるものか,と問うだろう。
■ おわりに
本稿では,厚生労働省から出された終末期医療ガイドライン(たたき台)に対して,ゲイやレズビアンの一部が動いたことを巡って,その動きと共にその意味について概略を描いた。第一項では,ガイドライン前史として,ゲイやレズビアンはこれまでどのように医療の問題を考えてきたかについて述べた。第二項では,ガイドラインたたき台への反応として,ガイドラインはどのようにゲイやレズビアンに読まれたのかについて述べた。第三項では,そこで議論されなかったことについて,すなわち限界について述べた。これらを通じて僕は,率直に言ってこの動きがうまくいっていないことや,その背景だけでなく,医療におけるゲイやレズビアンの権利を巡って,何が問題であるのか,今後のより丁寧な検討のためにその問題の所在を指摘しようとした。
もっと,考えねばならないことがあり,しかもそれには時間的猶予がない。2007年2月,日本救急医学会の「救急医療における終末期医療のあり方に関する特別委員会」(委員長:有賀徹昭和大教授)がまとめたガイドライン案があるが,これは患者の意思が不明で家族が判断できない場合は治療継続に関して医療者が判断するという内容で論議を呼んだ。結局は2月19日に予定されていた取りまとめは延期されたのだが,これについても何故「家族」なのかを問う必要がある。厚生労働省がそのガイドラインにおいて,現場で判断がぶれることのないほど仔細な内容を書き込むことがなければ,今後おそらく救急医学会だけでなく,他の学会や病院が独自にガイドラインを作成するようになるだろう。そうなった時に,僕らはどうすべきか。本稿ではまさにそうした,現在進行形の問題を僕は考えていたし,現時点においてという制限の中だが多くを記した。多くは今後の動きに委ねられている。従って僕は,一旦ここでキーボードから手を離そうと思う。
(2007年2月20日)
■ 引用文献
akaboshi 2005 フツーに生きてるGAYの日常
http://akaboshi07.blog44.fc2.com/ 2007-02-20
赤杉康伸 2004 NOV'S BLOG
http://novkun.jugem.jp/ 2007-02-20
赤杉康伸 2007(2007-01-07)
「女スパイ赤杉康伸の口紅政治情報 もしもパートナーが病気で倒れたら?」
http://allabout.co.jp/relationship/homosexual/closeup/CU20070107A/ 2007-02-20
赤杉康伸・土屋ゆき・筒井真樹子編 2004 『同性パートナー』社会評論社
Association of Gay Professionals 2006「RT 2006 Tokyo-2nd 報告」『AGPニュースレター74号』pp5-21
バディジェーピィ 2007(2007-01-07) bjニュース「終末期医療ガイドラインに,同性パートナーの声も届けよう」
http://www.badi.jp/kiji/2007/01/nw0701051.html 2007-02-20
ぼせ 2004 ぼせweb
http://blog.livedoor.jp/bose_web/ 2007-02-20
DiStefano, Anthony S. 2006 『日本のセクシャル・マイノリティに関する暴力についての研究報告:2003-2004のJLGBT調査に基づくまとめとすすめ』 山本雅訳
http://www.igh.ucsf.edu/publications/Japan/index.html 2007-02-20
独立行政法人福祉医療機構 2007(2007-01-12) 第1回終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会
http://www.wam.go.jp/wamappl/bb13GS40.nsf/vAdmPBigcategory30/C0231568DF7F132D49257261000DF99C?OpenDocument 2007-02-20
エスムラルダ 2006「人生はカネだ!」『クィア・ジャパン・リターンズ』vol.2 pp144-149 ポット出版
後藤純一 2006「ゲイにとってのうつ病」『クィア・ジャパン・リターンズ』vol.2 pp124-131 ポット出版
ひろぱげ 2002 hiropage-blog http://homepage.mac.com/hiropage/iblog/ 2007-02-20
Janus 2002「9月8日…パレードにて」『AGPニュースレター51号』pp19 Association of Gay Professionals
川口有美子 2006『勇美記念財団平成17年度一般研究助成 在宅ALS患者と家族のための緩和ケアに関する調査研究 完了報告書』勇美記念財団
http://www.zaitakuiryo-yuumizaidan.com/kawaguchiyumiko.pdf 2007-02-20
血縁と婚姻を越えた関係に関する政策提言研究会 2004「同性間パートナーシップの法的保障に関する当事者ニーズ調査」
http://www.geocities.jp/seisakuken2003/ 2007-02-20
厚生労働省 2004(2004-12-27)「「医療・介護関係事業者における個人情報の適切な取扱いのためのガイドライン」等について」
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/12/h1227-6.html 2007-02-20
厚生労働省医政局総務課 2004『終末期医療に関する調査等検討会報告書』
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/07/s0723-8.html 2007-02-20
厚生労働省医政局総務課 2006a(2006-09-15)「「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」に関するご意見の募集について」
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/p0915-2.html 2007-02-20
厚生労働省医政局総務課 2006b(2006-09-15)「終末期医療に関するガイドライン(たたき台)」
http://www.mhlw.go.jp/public/bosyuu/iken/dl/p0915-2a.pdf 2007-02-20
厚生労働省医政局総務課 2006c(2006-12-27)「第1回終末期医療の決定プロセスのあり方に関する検討会の開催について」
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/01/s0111-1.html 2007-02-20
LGBT-JAPAN.COM 2006
http://www.lgbt-japan.com/index.php 2007-02-20
まめた 2005 ROAD OF THE MONKEY
http://blog.livedoor.jp/mameta69/ 2007-02-20
MILK 2007(2007-02-07)号外「終末期医療ガイドラインに関するパブリック・コメントご投稿のお願い」
http://blog.mag2.com/m/log/0000001830/ 2007-02-20
永易至文 2002「同性パートナーは入院・手術の許諾ができるか?」『にじ』第3号pp2-9 にじ書房
永易至文 2003a「公正証書こうすればできる」『にじ』第6号pp24-29 にじ書房
永易至文 2003b「同性カップルとローン・生保」『にじ』第7号pp34-38 にじ書房
永易至文 2007a「僕らのエンディングノート 第八回 成年後見制度について知っておこう」『G-men』2月号131号pp312-313 古川書房
永易至文 2007b「僕らのエンディングノート 第九回 成年後見制度でできること」『G-men』3月号132号pp312-313 古川書房
永易至文&GaGa・n・Bo 2006a「老後,どうする?13 青山吉良「脳梗塞」の場合 ゲイが病気をするとき その1」『G-men』6月号123号pp330-331 古川書房
永易至文&GaGa・n・Bo 2006b「老後,どうする?14 青山吉良「膀胱癌」の場合 ゲイが病気をするとき その2」『G-men』7月号124号pp330-331 古川書房
永易至文&GaGa・n・Bo 2006c「老後,どうする?15 アツシ「心筋梗塞」の場合前編 ゲイが病気をするとき その3」『G-men』8月号125号p330-331 古川書房
永易至文&GaGa・n・Bo 2006d「老後,どうする?16 アツシ「心筋梗塞」の場合後編 ゲイが病気をするとき その4」『G-men』9月号126号p330-331 古川書房
日本弁護士連合会 2005「成年後見制度に関する改善提言」
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/2005_31.html 2007-02-20
日本医師会第\次生命倫理懇談会 2006『平成16・17年度 「ふたたび終末期医療について」の報告』
http://www.med.or.jp/nichikara/seirin17.pdf 2007-02-20
STAGPASS 2007(2007-01-03) JapanGayNews #1058「パートナーを看取るために」
http://www.stag.jp/xc/bbs/art/news/1058 2007-02-20
立岩真也 1996 花田実 (生存学HP内ファイル)
http://www.arsvi.com/0w/hndmnr.htm 2007-02-20
立岩真也 2004『ALS――不動の身体と息する機械』医学書院
上野千鶴子 2005『老いる準備』学陽書房
植竹日奈・伊藤道哉・北村弥生・田中恵美子・玉井真理子・土屋葉・武藤香織 2004『人工呼吸器をつけますか?――ALS・告知・選択』メディカ出版
山下敏雅 2003「家族」
http://www.cpi-media.co.jp/kawahito/yamashita/yamashita.htm 川人法律事務所 2007-02-20
■ 本文中に登場した団体のURL(引用文献に挙げたものは除く)
Association of Gay Professionals 1999
http://www.agp-online.jp/ 2007-02-20
石坂わたると多様性のある中野を作る会 2006
http://ishizaka.exblog.jp/ 2007-02-20
尾辻かな子 2004 尾辻かな子活動日記
http://blog.so-net.ne.jp/otsuji/ 2007-02-20
ぷれいす東京(開設年不詳 1994年活動開始)
http://www.ptokyo.com/ 2007-02-20
Queer and Women's Resource Center 2003
http://www.qwrc.org/ 2007-02-20
Rainbow College 2005
http://rainbowcollege.blog68.fc2.com/ 2007-02-20
Rainbow Talk 2006 2006
http://homepage2.nifty.com/rainbowtalk2006/pc_top.html 2007-02-20
■ 付記2
終末期医療ガイドラインを一つの切り口として,医療問題についてゲイやレズビアンがどう動いてきたのかを巡って論じる本稿の性質上,本文中では触れることができなかった問いがある。それは現時点ではまだ,同性婚やDP制度,およびその代替手段を検討してきた人たちが語ってきたことを読む中で感じた個人的感想を超えない。そのためここに書くべきか迷ったが,運動のあり方を考える上で必要なことがそこにはあると思われたので,もう一つの「付記」として記すことにする。
一つのエピソードから始める。2006年4月23日,永易至文が主催した「第6回 aktaで話を聞く会 同性パートナーシップ法的保障はいま――現役ゲイ弁護士とともに検証する」でのことである(文字化された記録は残っていない)。各地で開催された2006年レインボートークは,2006年4月16日東京第二回シンポジウムをもって終了したが,永易のこのワークショップはその一週間後であり,レインボートークのスタッフや参加者も参加し,会場もその余波がまだ雰囲気として感じられるものだった。同性パートナーシップの法的保障に関して,現行法上の可能性と限界についてよく整理された内容であり,弁護士のぴた氏と永易との掛け合いのリズムも良く,参加者の関心の高さもあいまって,とても質の高いイベントであったと僕は思う。
その終了後に数名の参加者が,ぴたと永易を取り囲むようにして訴えていた言葉がある。「公正証書を使えば,それで問題は解決すると思っていた。親にカミングアウトしたりしなくても済むと思っていた。実際はそうじゃなかったんだ」。非難とも落胆ともつかないトーンで,自分の置かれた状況のしんどさと共に語っていた。それは時に,伝えるべき対象が外にあるのではなく,独り言のように,自分で自分を納得させるための言葉のように聞こえた。
公正証書に限らず,現在検討されている同性婚・DP制度の代替手段というのは全て,本人に強い能動性を求める。必要な能動的行為には二つあり,一つは周囲に理解を求めその協力を獲得すること(これは端的に言えばカミングアウトの諸問題につながる。家族が理解し自発的に協力しなければ,同性パートナーの面会・看護・医療同意権は承認されない),もう一つは事前に様々な場合を想定し検討し準備すること(例えば公正証書であれば必要なあらゆる場合に関して事前に記載が求められる)であり,現在のところこの両者が揃わないと実効性が得られない。
このため,同性婚・DP制度や,その代替手段を検討している人は多くの場合に,「本人に」能動性を期待する語り方をしてきた。例えば,家族や友人や職場の同僚にカミングアウトをして理解を得ていくことで,いざという時のセイフティネットにつなげていける。パートナーと万一の時のことを事前に話し合って,現在可能な法制度を利用して,対策をとっておくことが必要だ。いくつも必要な情報を示しはするが,つまりはそういうことを言ってきた。確かに,現状ではそれしか解決法はないように思える。
そしてそれは,これまでゲイやレズビアンの運動の中でしばしば言われてきた,「可視化」の主張と接続する。つまり,これまでゲイやレズビアンは,生活の中で姿が見えず,自分からもその存在を現し,その思いを語ってこなかった。だからこそ,周囲の人間からないこととされ,理解もされず,自分たちのニーズが満たされないできたのだ。この状況を打開するには,クローゼットの中から姿を現し,自分たちがそこにいるのだということを主張していかねばならない。……この話は,ある意味分かりやすい。実際にここまで単純な主張をする人は少ないが,これに近い意見を言う人は決して少なくない。
だが,これしか解決はないのだろうか。「可視化」戦略の問題点はいくつも,これまでに指摘されてきたはずである。第一に端的に言って,そもそもゲイやレズビアンは,単純に「いない」=不可視化されていたのではなかった。そうではなくて,異物として,マジョリティにとって都合よく眼差されてきたのだ。つまり,「可視化」とはこうしたスティグマへの抵抗としても読み取られねばならない。だがそうであるが故に,道徳的に問題のない(社会的ステイタスのある職に就き,収入もあり,多くは高学歴で,モノガミーで安定したパートナーもいる)ゲイやレズビアンのカミングアウト,というヒーロー物語をこの戦略は必然的に要請することになる。それは,こうした一級市民とそうでない人との分断を招く。ゲイやレズビアンの中に生じた,同性婚を巡るイデオロギー的対立(異性愛者と同様な結婚の権利を求めるか,結婚制度自体の撤廃を求めるか)の背景の一つは,この構図である。
第二に,可視化と言う時,それは個人を単位としたものか集団を単位としたものか,それを明確にする必要があるはずだ。仮に,ゲイやレズビアンが可視化されることによって,そのニーズが周囲から承認され,ゲイやレズビアンがより生きやすくなる,としよう。しかしそうだとしても,それは集団としてのゲイやレズビアンが承認されれば,ひとまず済む話である。次いで,その可視化の「コスト」を誰が支払うかも自明ではない。ゲイやレズビアンの可視化に必要なコストを,ゲイやレズビアン自身が支払うべきであるとは言えない筈であり,ゲイやレズビアンの周囲にいる人間がそのコストを担うべきだという主張の方が公正だと言える(そもそもゲイやレズビアンが現在社会的に不利な状況に置かれているのは,ゲイやレズビアンの責任ではない)。よって,カミングアウト戦略は,事態の改善のコストを周囲の人間ではなくゲイやレズビアンが担うものだとした上で,かつその実行を集団としてではなく個人に担わせるものであり,二重に暗黙の前提,それも公正とは言えない前提を持つ。
後者の点を別の角度からもう少し検討してみる。個人の能動性を期待することの問題性は,更に二つの点から提起することができる。第一に,能動的に行為することができる人とできない人がいるという事態をどう考えるか。誰もが能動的に自分の利害に関係する情報をもれなく集め,整理し判断し行動し,時には周囲に抗って運動する,ということを期待することはそもそも現実から乖離している。それには一定以上の知的能力・情報リテラシーや人格的基盤,経済的安定や社会的立場が必要であり,実際にはそれは一握りの人間なのだ。本文中でも多くを述べたが,これはダブルマイノリティの問題とも言える(既婚であること,障害を持つこと,日本の国籍を持たないこと,DV被害者であること,などを本文では挙げたが,他にも多くを挙げることができるだろう)。周囲の人間の恣意的な理解に関わらず,ゲイやレズビアンの全員にとって必要なものであるなら,その実現を個人の責任とすることはできない。
第二に,そもそも人は常に能動的でいることができるのか,という人間観を巡る疑問がある。これは第一に挙げた,能力のある人とそうでない人という区分とは異なる。常に人が能動的に行為することができるとすれば,必要な情報を収集し整理し,事前に様々な事態を検討して対策を練り,周囲の人間に理解を求めその協力を獲得するということも,あるいは(能力のある人であれば)可能かもしれない。しかし,運動家はこうした想定をよく頼りにするが,これもまた現実からは程遠いイメージである。どれほど能力があり,意志の強い人間であろうとも,「常に」能動的でいられるわけではない。人は特定の関心領域においてはすぐれて主体的に判断することも可能かもしれないが,そこから一歩離れれば判断に必要な情報を何ら持っていないこともあるだろう。突然の怪我や病気など予測のつかない事態は生じうるし,心理的に動揺することもあるだろう。身体的・心理的・経済的負担が長期に及べば,判断基準は徐々に歪みもするだろう。そうした時に,果たして周囲からの影響によって誘導されることなく,能動的に判断することは可能だろうか。僕には,「常に」は不可能であろうと思える。そう考えると,人は能動的であることもあるが,同時にその多くの時間は受動的でもあるという人間観に立たざるを得なくなる(この点については,『中央公論』誌の2002年7月号から2003年10月号に連載された,東浩紀『情報自由論』の第11回に関連する考察がある。『情報自由論』については,2005年よりウェブ上で公開されている。http://www.hajou.org/infoliberalism/index.html 2007-03-02)。
人は多くの場合に受動的である。そこを出発点とすれば,運動が目指すべきは「状況に依らず,あらゆるゲイやレズビアンが,受動的なままであっても,必要なものが満たされるような」普遍的な権利の確立であると考えられる。そして,その理念に基づいた戦略が,問われているのだと思う。
例えば先に挙げたエピソードに対して,どのように答えるか,というところでそれが問われる。僕自身が明快な答えを持っているわけではない。だが,少なくともそこで,個人の努力と責任のみに帰してはならないはずだ。もちろん,同性婚やDP制度,およびその代替手段を検討してきた多くの人たちがそうした,個人の努力と責任に全てを帰する立場であるとは僕は思わない。むしろ,そうではないと考えたからこそ,運動してきたのだろうと思う。しかし,戦略を打ち出す時に,そのことをどこまで意識し,可視性や能動性やコストを巡ってどこまで検討を行なったのか,つまりは「運動の意味」をどう考えてきたのか,僕には読み取れなかった。そこを,僕は問い掛けたいと思った。
(2007年3月2日)
■ ウェブ公開に当たっての注記
以上は,2007年3月に発行された院生論集『Birth ――Body and Society』に掲載したものの,ほぼ全文再掲である。ウェブ上に公開するに当たり,引用箇所はインテンドではなくダッシュ囲みに変更したことと,「付記1」(2007年3月2日時点での動きの概説)についてのみ,現時点から見ると情報が古く,不要と思われたため削除したのが変更点である。
それ以外の箇所については,その時点における僕自身の情報の乏しさ,考察の甘さなどが散見されるものの,現在進行形の論点を扱ったライブ感を重視し,敢えて変更は加えていない。また,こうした場合の常として,参照したウェブページの少なくない数が,既に閉鎖されているのだが,これも敢えてそのままに残してある。
その後の動きについては,既に僕の手から離れていることもあり,必ずしも把握出来ている訳でもなく多くを語ることが出来ない。そしてまた,ゲイ・レズビアンの中での関心の持続も出来ていないということも,語り得ない理由の一つである。本文中にも登場した,まめたが中心となってウェブ上で署名を集め,厚労省に持っていったエピソードは僕の中ではまだ記憶に新しいのだが,いまはどれだけの人がそれを覚えているのか,疑わしい。
ゲイ・レズビアンの医療における代理の問題は,まだまだ語るべきことが山積しているが,(2年前の時点と比べれば幾許かの思考の進展はあったとはいえ)これを記している現時点においても僕の側に整理して書き記すだけの準備が出来ていない。そしてそれが近いうちに可能になる見込みも無い。そのため,不完全な形であっても,ひとまず目に触れることの出来る形に公開した。御意見等,頂けると嬉しく思う。
(2009年4月7日)
*作成:片山 知哉