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「3-4-8 プライマリーケアとしての遺伝医療と倫理ガイドライン」

玉井 真理子・中澤 英之・阿部 史子 19970901 『遺伝医療と倫理』(バイオエシックス資料集 第1集)
信州大学医療技術短期大学部心理学研究室

last update: 20131127

◆3-4-8

プライマリーケアとしての遺伝医療と倫理ガイドライン

玉井真理子

I.狭義の遺伝性疾患からcommon diseaseへ

 従来の遺伝医療(genetic service)は、単一遺伝子病(single gene disorder) と言われる疾患、すなわち狭義の遺伝性疾患をその対象とすることが多かった。し かし、そもそも疾患とは、広い意味では「遺伝」と「環境」の相互作用の結果であ ると言うこともできる。その意味において、遺伝医療とは、狭義の遺伝性疾患のみ を対象とするものではなく、広義の遺伝性疾患、すなわちcommon disease(一般的 疾患、以下ではcommon diseaseとする)をも当然その対象としているものである。
 また近年、別な文脈でも、遺伝医療とcommon diseaseとの関連が指摘されている。 それは、主に分子生物学分野における技術革新を背景とし、様々な疾患の病因・病 態の遺伝子レベルでの解明が急速に進展していることによる。すなわち狭義の遺伝 病からcommon diseaseへと、遺伝子診断・遺伝子治療の対象範囲が明らかに拡大し ており、そういった状況を前提にした上でのいわゆるELSI(Ethical, Legal and Social Issues:倫理的法的社会的問題)関連の論考が、1990年代に入ってから散 見されるようになっている。
 以上ふたつの点から、現代の遺伝医療とはcommon diseaseをもその対象として成 立しているものであると言うことができる。前者を、およそ医療とは「遺伝」と 「環境」との相互作用の結果としての疾患をその対象とするものであり、遺伝医療 もその例外ではないという“本来的な意味”において、とするなら、後者は、遺伝 子レベルでの病因・病態解明の対象がcommon diseaseにまでひろがりつつあるとい う、“今日的な事実”において、である。
 たとえば、遺伝カウンセリングに関しては先駆的な編著書1)もあるPeter S. Harperは、1995年のLancet誌において「(遺伝医療の)最近までの主たる関心と適 用範囲は、メンデルの法則に従う遺伝形式(mendelian inheritance patterns)を もつような、希であるが重要でもある疾患に向けられてきた。しかし現在、力点は、 多くの西欧諸国において主要な健康問題になっているchronic common disease(一 般的慢性疾患)に移りつつある」と端的に述べ、遺伝医療はもはや疾患全体を実質 的に射程内に入れた形で拡がりつつあることを指摘した2)。彼はまた、1990年代半 ばにおいて糖尿病や乳がんの発症に関与する遺伝子が特定されたことなどを例とし て挙げ、とくに、1995年を、新しい遺伝学(new genetics)が公共政策としての医 療に対してもたらした衝撃について多くの議論がなされた年であるとし、転換期と 位置付けている。
 たとえば、1995年4月にRoyal College of GP Spring Meetingのサテライトとし て行われたEC Concerted Action on Genetics Services in Europe(CAGSE)のワー クショップ報告も、タイトルは「プライマリーケアにおける遺伝学(Genetics in Primary Care)」である。その報告者Rodny Harrisは、細胞遺伝学や臨床遺伝学、 そして高まりつつある社会の期待が、ヘルスケアシステム全体に様々な要求を突き 付けており、それらの問題は遺伝学者だけで対応できるものではないことを指摘し ている。実際、そのワークショップは学際的(multi-disciplinary)なものであり、 様々な専門分野の研究者が集ったものであったという3)。氏はヨーロッパ各国の実 情の違いをふまえつつ、「遺伝スクリーニングに際しての事前の同意」に関しては 問題が多く、特にダウン症の母体血清マーカースクリーニングではよくこの事前の 同意が無視されていることや、「一般的助言と同意(generic advice and consent)」に関しての議論があることを指摘している。
 この「一般的同意(generic consent)」という概念は、Sherman EliasがThe New England Journal of Medicine誌のsound Boardのなかで論じたもので、「The rights of patients;患者の権利」という著書もあるGeorge J. Annas との連名で 書かれたものである4)。このなかで氏は、増え続ける説明同意文書が必ずしも患者 の適切な自己決定に寄与するとは限らず、インフォームドコンセントではなく誤解 に基づく同意("misinformed consent")も引き起こしかねないとの問題意識から、 疾患の種類によっては「一般的同意(generic consent)」の可能性も含めて現実 的な検討が必要であるとの問題提起をしている。

II.海外の動向

 先進西欧諸国では、前述のごとくcommon disieaseが遺伝医療(とくに遺伝子診 断)の実質的な対象となり、遺伝医療が特殊な疾患をもつ特殊な医療領域ではもは やなく、プライマリーケアや公衆衛生のなかに位置づくようになってきたことを見 据えたガイドライン作りや法制化が進んでいる。社会的・倫理的側面に関して共通 しているのは、適切なインフォームドコンセント、すなわち十分な情報提供と自己 決定(同意・拒否・選択)の保障、事前・事後のカウンセリングの重要性、そして 心理面でのそれを含む包括的なサポート体制の整備であろう。遺伝医療に関する各 国のガイドラインの例としては、以下のようなものがある。

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・Policy Document一般

1. President's Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research. Screening and counseling for genetic conditions: the ethical, social, and legal implications of genetic screening, counseling, and education programs. President's Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research, Washington DC. 1983(USA)
2. Royal College of Physicians Report. Prenatal diagnosis and genetic screening. Royal College of Physicians, London, 1989 (UK).
3. Nuffield Council on Bioethics. Genetic screening: ethical issues. London, Nuffield Foundation, 1993 (UK).
4. House of Commons Science and Technology Committee Human Genetics: the science and its consequences. Science and Technology Committee, London, 1994(UK).
5. Genetics Research Advisory Group. The genetics of common disease. A second report to

      [資料集p.108]

the NHS Central Research and Development Committee on new genetics. Department of Health, London, 1995 (UK)
6. Andrews LB, Fullerton JE, Holtzman NA, Motulsky AG. Assessing genetic risks: implications for health and social policy. Washington DC, National Academy Press, 1994 (USA).
7. Genetic screening. Report of a Committee the Health Council of Netherlands. The Hague. Health Council of Netherlands, 1994 (Netherlands).
8. Biotechnology related to human being. Oslo, Ministry of Health and Social Affairs, 1993 (Norway).
9. Annas G, The Genetic Privacy Act and Commentary. Health Law Department, Boston University School of Public Health, Boston, 1995 (USA).

・特定の領域や対象に焦点をあてたもの

<遺伝性のがん>
1. Statement of the American Society of Human Genetics on Genetic Testing for breast and ovarian cancer predisposition. Am J Hum Genet, 55, 1-4, 1994 (USA).
2. National Action Plan on Breast Cancer. Position paper: hereditary susceptibility testing for breast cancer. NAPBC, Washington DC, 1996( USA).
<小児の遺伝子診断>
3. Working Party of the Clinical Genetics Society. The genetic testing in children. J Med Genet, 31,785-97,1994 (USA) .
4. American Society of Human Genetics Board of Directors/American College of Medical Genetics Board of Directors Report. Points to consider: ethical, legal and psychological implication of genetic testing in children and adolescence. Am J Hum Genet, 57, 1233-41, 1995 (USA).
5. GIG response to the UK Clinical Genetics Society report "the genetic testing of children." J.Med.Genet.32,490-494,1995 (UK).
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 国際的な声明としては、ユネスコ(UNESCO)が現在草案を検討中の「ヒトゲノム保 護宣言(Declaration of Protection for Human Genome)」がある。これは、ユネ スコという国際機関の性質上あくまでも学術研究の領域に限定されたものではある が、ヒトゲノムを「人類共有の財産」であるとその前文で明確に定義している。ま た、最初から南北問題を背景としており、各国に対する当該問題に関するガイドラ イン等の整備を促すものでもある5)。
 一方、学術研究にとどまらず、保健医療分野全般におけるガイドラインとしては、 世界保健機構(WHO)が草案を検討中の「臨床遺伝学および遺伝サービスの提供に おける倫理的問題に関するガイドライン(Guidelines on ethical issues in medical genetics and the provision of genetics services)」もある。このガ イドラインは、まだ草案の段階であるが国内でもすでに紹介されている。これは、 家族計画(family planning)の文脈、とりわけ遺伝病の予防(prevention of hereditary disease)と同

      [資料集p.109]

じ枠組みのなかで登場しており自発的な選択(voluntary)を強調してる点が特徴 であるが、その特徴ゆえに、いくつかの問題点が指摘されているものでもある6)。 また、詳細に関しては別稿にゆずるものとするが7)、草案起草の段階で、とりわけ 「優生学」との関連に関しての記述内容が変わっており、項目のタイトルも、「優 生学についての考察(eugenic consideration)」から「予防は優生学ではない (prevention is not eugenics)」になっている。草案として各国の関係者に配布 されたものは後者で、個人の選択としての選択的妊娠中絶と国家の選択としての優 生政策は違うものであることを強調している。
 また、最近の米国のガイドラインとしては、「遺伝サービス:公衆衛生のための ガイドライン試案(Genetic Service: Developing Guidelines for the Public Health)」 が挙げられる8)。ここでも、サブタイトルには「公衆衛生(Public Health)」という文言が含まれており、一般医療としての位置付けを強調している ことがうかがえる。このなかには、しばしば問題になる「匿名性」に関して、比較 的整理された形の記述が見られる。「匿名性が保たれなければならない」などとい う記述を越え、以下のように、個人を特定できるか(code:識別番号/idendifier: 個人情報)とサンプルをどこで使うか(単一の施設/複数の施設)によって4つの レベルに分けている点で興味深い9)。

<「匿名性」に関する4つのレベル> ----------------------------------------------------------
レベル1:識別番号付サンプルから個人情報を分離し、単一の施設内で使う。施設 内の利用に際しても個人情報へのアクセスは制限する。
レベル2:単一施設内では個人情報付で使い、他施設では識別番号だけで使う。
レベル3:識別番号も個人情報も分離してサンプルだけを複数の施設で使う。 
レベル4:いかなる利用に関しても個人情報を完全に破壊する。
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III.実効性のあるガイドラインと作成プロセスの透明性

 本邦においても、「公衆衛生(public health)」や「一次医療(primary care)」、さらには「家族計画(family planning)」などの文脈で語られるよう になってきた遺伝医療における国際的潮流を見定めつつ、国内においても遺伝医療 とりわけ遺伝子診断(遺伝子治療に関してのガイドラインはすでにある)に関して のガイドライン整備、とりわけ実効性のあるそれの策定が、急務の課題として幅広 い関係者の間で認識されるよう、学際的議論の場が必要である10)。
 国内にはすでに日本人類遺伝学会のガイドライン(「遺伝カウンセリング・出生 前診断に関するガイドライン(1994年12月)」・「遺伝性疾患の遺伝子診断に関す るガイドライン(1995年9月)」)が存在しており、いずれも包括的に問題をとら え遺伝子診断一般を網羅したものとして一定の役割は果たしているものの、だから こそやや個別性・具体性に欠け「原則」と「現実」との接点が見えにくいため、実 効性には乏しいであろう。現実的な妥協点を示唆するような解説を含んだ実効性の あるガイドラインと、ガイドライン作成プロセスも含めた可能な限りの情報公開が 必要である。WHOのテクニカルレポート、たとえばWHOの研究報告書シリーズのいく つか 、たとえば「遺伝病のコントロー

      [資料集p.110]

ル(Control of hereditary diseases)」 に見られるように11)、遺伝性疾患当事 者の団体の代表を加えて検討するなどの方法は、特に検討されてしかるべき点であ ると思われる。
 これに対して、日本国内でも、いくつかの団体がガイドライン作りに着手してお り、そのひとつが、家族性腫瘍研究会の遺伝子診断(genetic testing)に関する ガイドラインである。このガイドラインにはその策定過程も含めて、これまで日本 国内においては見られなかった以下のような特徴がある12)。
1)ガイドラインを作成した倫理委員会には学会員以外の、非医療関係者も含まれ ており、学際的な議論がなされた。
2)「遺伝性疾患」一般に対するきわめて強いネガティブバイアスが社会的に存在 することに配慮したカウンセリングをするように求めている。
3)これまであいまいだった「研究」と「臨床」を分けて記述しており、研究段階 である技術が多い現実に言及している。
4)当事者団体からのヒアリングの過程を経ている。
 さらに、最近国内において、医師以外にも門戸を開いた形での遺伝カウンセラー 制度が具体的検討の段階に入っていると報道されているが13)、従来より指摘され ながら解決されず、それが最大の難関になってきたといっても過言ではないカウン セリングの健康保険適用なども含めた形で、積極的な問題提起が望まれるところで ある。

文献

1)Harper PS, Practical Genetic Counseling. Butterworth-Heinemann Ltd, 初版1981,第4版1993
2)Harper PS, Genetic testing, common diseases, and health service provision. Lancet, 346, 1645-46, 1995
3)Harris R, Genetics in primary care. J Med Genet, 33,346-348,1996
4)Elias S, Annas GJ, Generic consent in genetic screenig. N Eng J Med, 330,1611-3,1994
5)ぬで島次郎、海外の動向〜ユネスコ・ヒトゲノム保護宣言策定を中心に.生命倫 理研究会遺伝子問題研究チーム研究報告書「これからの医療と遺伝」、165-181、 1995
6)白井泰子・土屋貴志・丸山英二,筋ジストロフィーの遺伝相談および全身的病態 の把握と対策に関する研究、平成8年度研究班会議プログラム・抄録、35-37
7)Tamai M, WHO's Guidelines on Medical Genetics and "Eugenics": Japanese perspective(in press). 1997
8)Genetic Service: Developing Guideline for the Public Health(draft). Council of Regional Network(CORN) for Genetic Service. Proceeding of conference held in Washington, D.C., February 16-17, 1996, Co-sponsored by Genetic Service Branch, Maternal and Child Health Bureau, Health Resources and Services Administration, U.S. Department of Health and Human Services.
9)Pelias MZ, Informed Consent and the Use of Archived Tissue Samples. Genetic Service: Developing Guideline for the Public Health(draft), 152-158
10)Tamai M, The Medical Genetics Services within Primary Care and Formulating the Guidelines in

      [資料集p.111]

Japan. Tsukuba International Bioethics Conference Report(in press). 1997
11)Control of hereditary diseases. WHO Technical Report Series,865, 1992
12)Tamai M, Clinical Genetics and New Ethical Guidelines in Japan. Proceeding of UNESCO & ABC Conference(in press). 1997
遺伝カウンセラー制度化の試案作成へ:日本人類遺伝学会黒木委員長、医師・コ メディカルを対象に、来年の総会に提案.Medical Test Journal 第552号、1996

      [資料集p.112]



*作成:小川 浩史
REV: 20131127
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