石川 雅夫
いしかわ・まさお
◆梅崎 幸子・一番ヶ瀬 康子・石川 雅夫 197307 「サリドマイド裁判勝利のために」,『市民』15(1973-7) http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/shimin.htm
◆石川 雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会) 19731115 「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」,朝日新聞社[1973:103-115]*
*朝日新聞社 編 19731115 『立ちあがった群像』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療6,250p. ASIN: B000J9NNZ6 [amazon] ※ b
「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
私たちはその日、①森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、②ヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、③一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113])
◆1970年 「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘ってい<0149<た小児学会の席上へし、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なてきごとでした。
被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、”異常なし””後遺症なし”といいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者はなくなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちのひややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[149-150])*
*山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p. ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon] ※ b