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森永ひ素ミルク中毒



◆(財)ひかり協会 http://www.hikari-k.or.jp/
 「森永ひ素ミルク中毒とは」 http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e.htm
 「事件史年表」 http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htm

◆wikipedia
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E3%83%92%E7%B4%A0%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%AF%E4%B8%AD%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6

末岡陽子「日本における保健行政の変容と保健師活動」より

 「森永ひ素ミルク中毒の後遺症児の訪問調査に取り組んだ大阪の保健婦の活動は「14年目の訪問」としてまとめられ、1969(昭和44)年の第27回公衆衛生学会で丸山博によって発表され、これを契機に「森永ミルク中毒のこどもを守る会」が改めて再結集された。全国に「ひかり協会」が設立され、救済事業に取り組んだが、大阪の保健婦の取り組みは、放置され諦めていた被害児やその家族にとって一筋のひかりであった。以下に事件の経過を要約する☆47。

 この事件では、致死量にも達しうる程の量のひ素が、乳幼児という発育あるいは発達上の重要な時期に与えられたのであるから、事件当時の激しい症状の起伏にのみとどまらず、その後の発育、発達にも多大の影響を及ぼしうることは、当然考えられることであった。したがって、被害児のその後の経過観察と充分な健康管理が必要であったにもかかわらず、森永も、国ならびに地方の行政機関も、多くの医療機関、医学者も、翌1956年(昭和31)に実施された「精密検診」の結果をもとに、「治癒、後遺症なし」としてこの事件を処理した。そのために、各地の被害者の訴えは耳を傾けられることもなく、何ら継続的に観察、研究されることなく、「14年目の訪問」で再び社会的な目がむけられる時まで放置されていた。
 1955(昭和30)年頃、各地の保健所では「赤ちゃんコンクール」が行われていた。一定時期の乳児の中から体重が一番重く、運動面の発育の早い赤ちゃんが優良児として表彰されていた。当時は、敗戦後の経済的に困難な時期からようやく抜け出した高度経済成長期の初期であり、乳業各社ははげしい陣取り合戦、開発競争をくりひろげ、合理化路線をとっていた。森永は鮮度の落ちた牛乳を原料とするために乳質安定剤として第二リン酸ソーダを添加するという、安易でかつ安全無視の技術開発を行い、その結果乳業界髄一の高度成長を遂げることになった。そして「牛乳のように腐敗の心配もなく、母乳に近い栄養を含んでいる」として、赤ちゃんから母乳が奪われ、いかにも進んだ育児法であるかのように宣伝された。
 この事件が新聞報道されると、森永粉乳の使用停止およびBAL(ジメルカプトプロパノール)などを用いての治療により被害児の臨床症状は急速に消退していった。厚生省は、食品衛生的な観点から、一過性の急性食中毒として処理し、簡単な食物調査やミルクの購入経路調査を実施し、原因ミルクの回収に力点をおいた。そこには、被害児は医療機関に送ればよいのであり、保健婦等が障害児の正しい発達を指導するといったような保健サービスは全く考えられていなかった。当時の京都市の状況について、以下の報告がある。

 「京都市では、保健婦を動員して市内の乳幼児の家庭訪問を行い、赤ちゃんの状態を聞くと同時に、粉乳の種類、罐の番号などを調べてまわった。その直後の9月に衛生局では転勤が発令され、動員された保健婦の半分以上がその対象になったという。そして翌31年には、被災者同盟はわずかばかりの補償と、森永奉仕会の設立とをひきかえに解散することとなる。その後、この事件については、マスコミが取り上げることはなかった。森永奉仕会は、森永ミルク中毒後遺症の究明等のために研究資金を提供することを目的とするとされていたが、実際にはこの事件に直接かかわる医学論文が、昭和33年には急激に減少していったことに象徴される事態となっている。(京都府市町村保健婦協議会[1987:71])」

 事件後14年たった1969(昭和44)年10月、第27回日本公衆衛生学会で『14年前の森永MFひ素ミルク中毒患者はその後どうなっているか』と題して、大阪大学医学部丸山博教授等によって、これらの被害児の現状について問題があると発表された。この調査は、大阪の保健婦、養護教諭を主体とする調査班が、勤務時間外に被害者宅に足を運んで、ようやく実態を把握したものであり、調査に協力した被害者の多くが、様々な健康問題をかかえていることを明らかにした。この『14年目の報告』を契機に再び社会的に注目をあびることとなった。そして森永ひ素ミルク中毒事件の被害者の実態を明らかにする取り組みが、西日本各地で始められ、自覚症状が非常に多いこと、身体発育に影響があること、知能障害、てんかん、脳性まひ等、中枢神経系の障害があるという重大な事実が明らかにされていった。
 森永ひ素ミルク中毒の問題が再び社会に取り上げられ、陽の目を見るようになったのは、臨床医ではなく、一養護教諭の被害児童の健康問題への取り組みにはじまり、保健婦の集団としての取り組みとして展開されたのである。これは、企業森永の健康破壊の責任を明らかにすることとともに、@病気の実態は診察だけでは明らかにならないこと、A病状を人間から抽出するのではなく、生活の場で健康の状態が明らかにされること、B生活の場で発育・発達の中の病気をみていくべきであること等、当時の医療のあり方への大きな問題提起でもあった。マスコミ発表直後、大阪府、その他の自治体は『家族からの問い合わせに対しては、直接森永乳業へ連絡せよ』との文書が事務連絡として各保健所へ流された。一方、蜷川革新知事を有する京都府では、『適切な医療機関を紹介せよ』と各保健所へ通知していた。前後して、被害者の救済等の要求をかかげた親の組織『森永ミルク中毒被害児を守る会』が再び結成された。

 「この報告は、公衆衛生に従事するもの、特に保健婦が自分たちの仕事を見直すきっかけになった。京都では、医師、保健師や教育関係者、弁護士等が『森永ひ素ミルク中毒調査字研究会』を発足させて、守る会京都支部に集結する被害児の親達と協力して実態解明の取り組みをはじめていった。
 また、京都府は、守る会の要望に対し、『当時は全国的なことで、厚生省がやるものとして取り扱ってしまったことは申し訳ない。府民の健康を守るという立場で府はやるべきだった。親の苦労もたいへんだったと思う。被害者の追跡調査をやって、今後府として十分援助していきたい。』との知事発言にもとづき、京都府ひ素ミルク中毒追跡調査委員会を発足させた。そして京都市と協力して554名の被害児を対象に、保健婦による訪問調査と府下12病院での精密検査を実施し、いわゆる京都検診として、被害者の健康、心理発達の実態を究明する上に大きく貢献した。(京都府市町村保健婦協議会[1987:71-72])」

 こうした経過ののち、1973(昭和48)年10月、守る会の提唱する「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」(以下、恒久対策案)について、森永、厚生省、守る会の三者会談が始められ、昭和49年4月、恒久対策案の精神を生かし、各種事業を実施するとともに、現在および将来にわたって全被害者の救済を図るために、財団法人ひかり協会が設立された。救済の内容は、全被害者に対し恒久対策案に基づいた治療、養護、生活保護等で関係事業の経費は全て森永が負担するもので、一時金補償ではないことが特徴であった。当時の状況を大阪市西淀川保健所の松尾礼子は下記のように回顧している。

 「私自身、被害児が担当地区内にいましたので、当然、仕事としての訪問を考えていましたが、『すでに解決した問題を何故するのか、行政としての責任はもてない』などと上司に言われ、勤務時間外の訪問にはじまり、マスコミ発表直後、行政当局に呼ばれる、被害児が金を要求するような運動に関わらない方がよいと何度も忠告(?)を受ける、民事裁判の証人に立つ時も首になるのではとの不安を覚えたり、行政がよしとしないことだということが分かりました。また労働組合は、住民である被害者にも、私にも何の手も差し伸べてはくれませんでした。(厚生省健康政策局計画課[1993:92])」

 「☆46 昭和30年6月より、岡山県をはじめ各地で、人工栄養児にかぎって特有の症状をもつ奇病が続出、8月24日、患者の共通食であった森永MFミルクから相当量のひ素が確認され、銅製品による中毒である事が確定。調査の結果、森永乳業徳島工場で製造の際、安定剤に使用した薬品が、それまで使用していた第2リン酸ソーダと全く別の「第3リン酸ソーダおよびヒ酸ソーダその他の混合物とでもいうべきもの」であったことが判明。昭和31年の集計で、全国で12,131人が中毒、うち130人の死亡が厚生省で確認されている(丸山博[1980:92])。」
 「☆47 京都府市町村保健婦協議会編 [1987:70-76]参照」

■引用

◆2008/11 稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/** 『流儀』,生活書院

 山田「インターン制度反対という運動は要するに身分の問題についての運動だった。医者も労働者だと規定して、「「労働者として働いているのに、研修だということで給料もくれないのはおかしい。これは労働収奪ではないか」と言っていたのだけれども、実際にはほとんどみんなバイトをやって、結構いいお金をもらったりしていたから、特別生活に困っているわけでもなかった。だからそれほど切実感のある運動ではなかったし、インターン制度について考えることから社会の矛盾に気づいていくというふうになりにくかった。  実際に七〇年に何らかの形で蜂起しようと考えていた人たちはやっぱり革命を目指すわけだから、日本の社会のことを考え、世界情勢についても目を開いていったわけだけど、インターン制度反対と大学の機構改革というところまでしか考えなかった人は、それで終わりになってしまった。運動が終わったら、それ以上の展開がなかったし、普通の医者になってしまったように思う。
 しかしこうした医学生の運動が行われた後いろいろな運動が出てきたのは、市民があのときまで“抑圧される側が抑圧する側に対して公然と異議申し立てをする”という場面をあまり見たことがなかったのだけど、実際にそういう場面を見て“やってもいいんだ”ということになったからだと思う。例えば患者が医者に対して何かものを言ってもよい、学生が教授に対して「バカヤロー、お前何言ってんだ」という形でものを言ってもよいというのが見えた。今まで異議申し立てをしたいのだけどもできない、そういうことは日本ではしてはいけないのだ、と思い込んでいたのがここで崩れて、それで一斉に異議申し立てが行なわれるようになったのだと思う。
 ちょうど公害だとか、経済成長による矛盾みたいなものが一斉に出てくる時期でもあったし、やっぱり日本の一つの転換点だったと思う。森永ヒ素ミルク中毒☆なんていうのはやっぱり転換点の事件であることは確かだと思うのだけれど、あれも学生の運動がなかったら、被害者の運動はああいう形にはならなかったかもしれない。」

 「☆ 森永砒素ミルク中毒 この事件はいったん一九五六年に終結させられることになるが、一九六九年、丸山博(大阪大学医学部)の日本公衆衛生学会での報告を期に、運動が再開される。丸山の著作集が出ている(丸山[1989a][1989b][1990])。このうちこの事件にかんする文章が収録されているのは第三巻『食生活の基本を問う』。この事件について何点かの書籍があるが、みな絶版になっている。森永砒素ミルク中毒事件文書資料館がある。(〒七〇〇-〇八一一 岡山市番町一-一〇-三〇пZ八六−二二四=0737)
 「丸山教授らは、日本公衆衛生学会をはじめ、日本小児科学会、日本衛生学会にも働きかけ、各学会もそれを受けて後遺症の調査、対策を目的とした委員会を発足させた.」(東海林・菅井[1985]、第3章「砒素ミルク中毒事件」)
 (財)ひかり協会http://www.hikari-k.or.jp/の「ひ素ミルク中毒事件」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e1.htm→「事件史年表」http://www.hikari-k.or.jp/jiken/jiken-e2.htmによれば、日本小児科学会「ヒ素ミルク調査小委員会」設置決議がなされたのは一九七一年。」

 立岩「例えば同じ告発する側の内部における意見の対立や齟齬は、裁判において原告の利にならないから、語りにくい。それは戦術として当然のことだと思います。ただいつまでもそうであってよいということはないわけで、その辺りはどうだったのか。
 森永ミルク事件の裁判でも、ずいぶんいろいろあったというお話をお聞きしたこともありますし、この山田さんの本の中でも一部分取り上げられている。社会科の教科書にそうした事件があったということは述べられている。しかし、事件の内実、内部で起こったことは明らかではない、五〇年代に始まって、いったん終息したようになってしまった後もう一度問題にされ、そしてある種の「解決」があったのは七〇年代で、その間二〇年弱の時間があった出来事だというリアリティが僕自身なかったんです。われわれの世代以降はその程度なんです。その当時に始まっていたのだけれどもなかなか中でいろいろあったりもした出来事の内実を、少し伺えればと思います。
◇山田:森永が最初だったんだろうね。安田講堂が落ち、その主力が捕まっちゃって、残っている部分でとにかく何か運動を続けていかなきゃと思った。いわゆる活動家、当時で言えば学生と労働者が引っ張って、という運動がもうできなくなっているから、これはもう市民運動に依拠するしかないだろうという感じになった。それで高橋晄正さん☆をひっぱりだそうということになった。
 晄正さんが東大闘争の中に登場してきたのは、東大闘争のきっかけになった「春見事件」だね☆。そのとき処分された学生の中に、現場にいなかったT君が現場にいたということにされて処分されてしまったということがあったのだけど、それを晄正さん流の科学的実証主義で、彼は確かにその日九州にいたということを精神科医の原田さんという人と二人で実地調査までして証拠を挙げた☆。われわれはどうして高橋さんがあんなに一生懸命やっているのか、当初よくわからなかったのだけど、その後、これはいかにも高橋さんらしい行為だということがわかった。
 高橋さんは非常に誠実な学者で、たまたま自分が物療内科にいて、物療内科の教授から製薬会社のグロンサンの検討会へ行けと言われて、それで行ってみたら驚いた。そういう製薬会社の研究会に来ている医者はみんな提灯持ちで、効くという宣伝をしているにすぎない。論文や何かもいい加減なものがそのまま通る☆。それがきっかけになって日本の医療に疑問を持つようになったし、医学者の不誠実にも怒りを覚えるようになった。
 高橋さんはよくいろいろなところへ行って発言したけれども、科学論争をやったら彼の正確さに誰もかなわない。みんないい加減なことやっていたんだよね。それで、「医者は腐敗している、薬の効果なんていうものはみんな捏造されたデータによって示されたインチキな効果である」ということを言い出して、独自に告発を始めて、それが大衆の支持を得ていた。本も物凄く売れたりしていたから☆、われわれとしてはやっぱり高橋さんを広告塔として担ぎ出さない手はないという、今考えると高橋さんに大変失礼な発想で高橋さんを代表にして、市民運動として再生しようと考えた。
 ちょうどその頃に水俣だとか森永だとか、スモンはちょっと遅れるのだけれども、いろいろな運動が出てきた。それはもうサリドマイド☆だとか、大腿四頭筋短縮症☆だとか、未熟児網膜症☆だとか、後から後から薬害を告発する動きが出てきた。今だって薬害や医療被害はあるけれど、みんな声を出して告発しないから出てこないだけだよね。
 一方われわれの運動の流れとしては、大学が悪いだけじゃなくて、学会だってよくないじゃないか、それなら改革しようということで、学会闘争を始めた。当時の小児科学会は乳業四社――森永・明治・雪印・和光堂――が全部仕切って、医者の面倒を見てくれるというシステムになっていた。だから、その四社と縁を切れみたいなところから運動が始まった。
 そんなとき、学会の会場へ森永ミルク中毒の被害者が来た。われわれは森永ミルク中毒という事件があったということもよく知らなかった。被害者の石川さんは「小児科学会の医者が自分たちの健康診断をやって『被害なし』と診断書を出したお陰で、長い間偽患者扱いされた」という話をした。先輩の医者たちがやったことではあってもわれわれにも責任がないとは言えないという意識は、そこで初めて出てきたのかもしれない。
 被害者本人が来て、告発をして、それで総体としても医者の責任を問われたということが、そういう場所で初めてあった。それまで医者が患者に責任を問われることなんてなかったから。“世の中には良い医者と悪い医者がいて、良い医者が悪い医者を告発する”という構図になっていたわけだから、“その告発しているお前らも同罪なんだぞ”というふうに言われる経験がずっとなかった。でも、われわれはその初めての場所に立ち会えた。
 小児科の医者で今も活動しているのが結構いるのは、やっぱりそこから始まったからだって思うんだよね。恐らく精神科と小児科以外は、そういう場所には立ち会えなかったと思う☆。
◇立岩:突き上げをくらってない。
◇山田:うん、くらってない。
◇立岩:ご本には、そうやって患者が出てきたけど、学会員は大勢としてブーイングで、冷たかったと書いてありますね☆。そんな感じだったんですか?
◇山田:それはそうだよね。
◇立岩:なんでこの人来たのというか。精神障害で言えば、その後は、もう勝手にやってきて壇上占拠といった形になりますよね。そもそも、この時、森永ミルク中毒の被害者の方が小児科学会にやってきた、そのいきさつは覚えていらっしゃいますか?
◇山田:学会が騒然となっていたことはわかった。最初のところはわからないけれど、岡山の被害者で高校生だった石川さんが来て、自分で告発したわけで、岡山では何かしら連絡があったんだろうね、きっと☆。
◇立岩:その当時、すでに学会には内紛というか、ゴチャゴチャした状況になっていたんですか?
◇山田:そう。鳥取での学会を粉砕したといったことがあって、それこそ演壇占領してみたいなことはやっていた。
◇立岩:精神科と小児科に関してはそういうことが少なくとも一時期あったという話は聞きますけれども、他にはあまりそれは広がってないんですか?
◇山田:広がらなかったね。内科なんかが少しやったけれども、ほとんどなかった。
◇立岩:小児科学会の中が流動化している情勢の中に、石川さんがやってきて話して、大勢としてはブーイングだけれども、一理あるというか、言われるだけのことはあるというふうに山田さんは思ったということですか?
◇山田:それはもう、とにかく話を聞いただけで、これは先輩である小児科医たちが酷いことをやったんだなというのがわかるようなものではあったよね。それに何となく予備的に知識もあったような気はする。広島なんかで運動をやっていた青医連の医者たちは森永ミルク中毒のことをもう知っていたと思うし、彼らが最初は被害者と繋がっていったのだと思うのだけれども。

□被害者−支援者、裁判−直接行動
◇立岩:それ以降の山田さんたち、あるいはもうちょっと大きいところでもよいのですが、医療者の患者たちとの関係の仕方、繋がり方は、どんな経緯を辿るのですか。
◇山田:その後、森永に関して言えば、われわれは「森永告発」と言われる組織を作って、不買運動をやったりした。また一方では、被害者の健康診断をやったりした。だけどそれはもう副次的な話で、主に森永の会社に行って、糾弾して騒ぐということをずっとやっていたよね。
 実際に裁判になって、われわれ告発する側は裁判結審までやらせようと思っていたのだけれど、途中で和解したということがあった。告発する側は和解に反対するということだったから、そことは運動を一緒にやれなくなって、それで抜けたわけ。
 東京での森永ミルク中毒被害者運動の始まりについても触れておこうかな。一九七〇年当時東京には森永の被害者はいないということになっていたのだけれど、どうも東京にも被害者がいるらしいということで、僕ともう一人、黒部という小児科医と二人でいろいろなつてを辿って被害者の家を廻ったりもした。東京でも砒素入りのミルクを飲んだ被害者がいたんだ。こんな経緯で被害者組織を二人で組織したようなものだから、東京はちょっと他とは違うでき方をしたわけだ。他の地域はみんな被害者自身が作った組織だったのだけれども、東京はそういう組織だったし、それで非常に僕らと被害者との関係が深いということもあったから、森永告発が手を引いた後も、二人ともそのまま残って付き合うことにはなったわけ。
◇立岩:どこかで和解するのか結審までずっとやるのかという対立が起こる。常にどちらももっともなわけです。
 その両方もっともな、その間に、内部に、いろいろなことが起こるわけですね。例えば、法律家・弁護士と、支援する医療者がいて、本人がいて、家族がいて、少なくとも関係者が三者か四者かいる。そうすると、その目標設定が各々違ってくる。もちろん患者の中にも違いがある。その中でどこが主導権を持ってやるのか。それが結局どういう事態を起こすのか。そういうことは森永に限らず起こってきたし、今も起こっていますよね。
◇山田:医療裁判はやっぱり医者と弁護士が主導していて、被害者抜きになっていることが多い。だから、松下竜一さん☆たちがかつて豊前火力発電所反対で運動したときのように、裁判を医者や弁護士なしで被害者だけでやったほうがすっきりしているし、よい裁判ができそうに思えたりもする。われわれが市民運動を始めようとしていた時期に、本田なんかが中心になって「日本の医療を告発する医者・弁護士の会」という支援する医者と弁護士の会の集まりみたいなものをやったことがあるのだけれども、僕はそういうのは好きじゃなかった。「被害者は医療のことはわからないし法律のこともわからないから」ということでほとんど弁護士と医者が主導して運動を進めてしまうことになりがちだから。
 水俣に関わっている後藤孝典さん☆という弁護士は、「医者と弁護士の間でも裁判に対する姿勢が違う」と言っていた。「医者は負けても平気だから非常に困る」と。本当は医者というよりも、あの頃の活動家がそういう言い方をしていたというのがあるんだけど。「裁判には負けても究極的には負けてない」とか、「何度負けても最後に一回勝てばいい」とか、「負けても歴史的に意味がある」という言い方をしていた。
「やっぱり裁判は勝たなきゃしょうがいないのであって、負けたものに歴史的な意味はあまりない、と私は思うんだけど、医者の側はそういう言い分けをする。それで結局患者さんが時間をかけて、お金をかけて、最終的に一銭も取れない状態でも、『理念的に勝ったのだから意味がある』とか言うんだから、やっぱり医者は第三者で無責任だ」と後藤さんは言っていた。
 現実のこととしては一時、被害者がぼくたち医者のところへ被害を訴えて来ると、「やろう、やろう、裁判やろう」という感じで、みんなで煽って裁判をやらせるみたいな時期があった。ほとんど一件も勝てないという状態だったのだけれども、「たくさんやっているうちにはそのうち勝てるようになるかもしれない」みたいな話があったりしたんだよね。
 スモンの裁判を最後までやった古賀照男さん☆という人がいて、彼がやった裁判は本当に被害者自身の裁判だったと思うけれど、そういうふうに被害者自身が方針を決めて進めていくという裁判は少なかった。弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしていたようなところがあったと思う。それはもう今も薬害C型肝炎訴訟でもなんとなく垣間見られるような気がするけど、考えすぎかな☆。何か被害者の思いと弁護士の方針が少しすれ違っているような気がする。」

☆ 「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘っていた小児学会の席上へ、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なできごとでした。
 被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、異常なし∞後遺症なし≠ニいいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者は亡くなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないのか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
 会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちの冷ややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[2005:149-150])
 石川の文章として、石川[1973]「被害者・障害者の人権解放へ――ヒ素ミルクの十字架を負って」、梅崎・一番ヶ瀬・石川[1973]。
 「昭和四七年八月二〇日、私たちは一八年にわたる差別と抑圧に終止符をうち、苦しみを試練とし、解放をめざして立ちあがろうと決意した。それは、まず、仲間がつぎつぎと殺されていったこと、多くの親は結局先に死ぬ以上、今後私たちが生き抜いていくにはみずからの力で闘っていかねばならないこと、仲間で団結し私たち自身で立ちあがらなければ森永との闘いに勝利はありえないし、解放もない、という認識にみんながたったからであった。
 私たちはその日、@森永ヒソミルク中毒による後遺症の恒久的治療と、たとえ「障害」があろうとなかろうとそんなことに関係なく人間として生き抜いていけるための恒久的保障を勝ちとる、Aヒ素中毒による「障害」「病気」をもつ私たちに対する差別をなくす、B一致団結して闘い抜く、という三つの願いをこめて、「私たちのからだを返せ」というスローガンを決定した。」(石川[1973:113])
☆ 日比逸郎[1973]「ヒ素ミルク事件と小児科学会」より。
 「問いかけにこたえられぬ学会
 昭和四三年の東大医学部紛争に端を発した医局講座制粉砕の医学生・青年医師の闘いは、各大学医学部・大学病院医局をゆさぶった。その余波は医局講座制の一支柱と化していた学会にも、学会紛争として波及した。小児科学会でも青年医師を中心とした学会改革運動が開業医会員をまきこんで、昭和四五年秋にはすでに一定の成果をあげていた。
 医学部紛争やこれらの学会紛争の過程で、大学教授のかつての絶対的権力と権威はかなりの傷をうけていた。かつて大学教授によってその理事を独占されていた小児学会も、理事の中に少数ながら開業医や病院勤務医が選出されるような状態にはなっていた。
 このような情勢をみて、守る会はまず全国の青年小児科医に、アピールを郵送した。それは、彼らに森永ヒ素ミルク中毒事件のいきさつを教え、彼らに「小児科学」が被害者を救いえなかったことを教えた。これは「学問のあり方」に対しての深い疑念から学会改革運動にとりくんでいた彼らの心をつよくゆさぶった。彼らはただちに守る会と接触し、被害者やその家族のナマの訴えを聞いた。
 四六年二月、守る会は学会の理事会に対して、森永ヒ素ミルク中毒の被害者の追跡調査と救済について、「学会の見解」を公開するように申入れた。それとともに、一六年間の空白をもたらした、かつての小児科学会の権威者たちの「小児科学」をどう考えるかと学会に問うた。すなわち、西沢六人委員会の作成した診断基準、治癒判定基準や、五人委員会の後遺症なしの結論、あるいは三一年のいわゆる精密検診、森永奉仕会と学会との関係などについて「学会の見解」を明らかにするようにとの申入れであった。
 患者が専門家集団としての学会にむかって、きわめて具体的にかつ学問的に医学のあり方について問いかけたのである。この問いかけに学会は答えるすべをもたなかった。
 一六年前に、西日本全体の小児科関係者のほとんどをまきこみ、当時、一九六編の医学論文や多数の学会報告を生みだしたこの事件について、「資料や情報の収集に努めているが、未だ見解を述べる段階に達していない」ので、理事会は小委員会を発足させて患者の問いかけに答えるべく資料・情報の収集にあたらせることを公約した。
 守る会はさらに追打ちをかけた。四月の学会総会に参加して、多数の小児科医に被害者として直接、語りたいと理事会に申入れたのである。理事会は困惑し、この申入れを拒否したが、改革派会員の働きかけに押されて、「休憩時間を利用して発言の機会を与える」ことを渋々みとめた。
 その日、守る会の岡崎事務局長は、被害者家族を代表して、小児科医に直接語りかけた。
 「事件発生後わずか三カ月で後遺症なしと判定した西沢説の非科学性は、被害者とその家族に一六年間の暗黒をもたらした。この悲劇はすべて医学の名において被害児に押しつけられたもので、この問題を避けて小児科医が医学や医師の倫理を語るほど罪深いことはない」
 この年はちょうど四年に一度の日本医学会総会開催の年にあたっていて、小児科学会も参加していた。主要テーマは「医の倫理」であった。
 岡崎氏は最後に、@森永乳業に働きかけて、同社のもっている被害児の名簿などの資料を学会に提出させてほしい、A被害児の救済に学会をあげて緊急にとりくんでほしい、という二点を学会の総意として議決してほしいと訴えた。
  森永事件は政治の問題
 守る会の一連の働きかけは、決して陳情ではなく、明らかに「小児科学」の本質とあり方についての問題提起であった。この問いかけては学会内部にさまざまな波紋を生んだ。もっともうろたえたのは、かつての西沢委員会のメンバーであり、岡山県で守る会の反対をおしてふたたび「官製検診」を強行しつつあった、いわゆる官製委員会のメンバーたちであった。
 彼らは理事会に対して、学会が森永問題をとりあげぬよう圧力をかけた。官製委員会のメンバーたちは岡崎発言の直前の評議員会や総会で、異様なまでのハッスルぶりで、学会が森永問題をとりあげることと被害者代表に発言の機会を与えることに反対して猛烈なキャンペーンをはった。彼らのやり口は「森永事件は政治の問題である。守る会は政治的変更のある団体である。守る会は被害者のごく一部の組織で被害者の代表たりえない」といった、学会員の政治アレルギーを利用した偏向助長のアジであった。
 一六年前の事情を知る会員には「古傷にさわられたくない」という気分をひきおこさせ、事件のいきさつを知らぬ会員には「森永問題はどうもタブーのようだ」というタブー意識をもたせることに成功した。しかしそれと同時に、改革派の会員には、森永問題こそ学会改革の上で避けて通れぬ重要な試金石となることを本能的に察知させてしまった。
 守る会の問いかけは、会員間の医学のあり方についての意見の分裂を鮮明に浮き出させたのである。学会は右に左に大きくゆれ動いた。
 「被害者どうせ一六年お待ちになったのだから、ついでもう少し待っていただいて、学会での発言などご遠慮いただこうではないか」という官製委員会メンバーの提案はさすがにとおらなかったが、「患者の訴えを真正面から聞くところから医学は始る。被害者代表を正式に学会に招待して十分にその訴えをきこう」という改革派委員の意見もとおらなかった。妥協の産物が、「休憩時間を利用して、非公式に一五分間だけ発言することを許してあげます」という結論であった。
 岡崎発言のあと、会員間の医学に対する意識の分裂はさらに鮮明となった。岡崎発言にひきつづいて森永問題を最重要議題として十分討論しようという改革派の声は、圧倒的多数の保守派によって葬りさられた。しかし、森永と学会の癒着を徹底的に追及した改革は医師の努力は、岡崎発言の重みとあいまって、「被害者救済を第一義とする」森永砒素ミルク中毒調査小委員会を総会の総意として発足させることに成功した。
 長時間にわたる議論にわく会議場や廊下を、心配顔の森永の社員が自由に出入りしていた。患者を会場に入れることには神経質な学会員も、森永という一企業の社員が会場に入ることにはなんの疑問も示さなかった。」(日比[1973:□])

 立岩「僕は山田さんの話を一応わかった上で次の話という感じで聞いてしまっているので、初めての人にとってみれば知らない話をうかがってないですね。この時期より少し後ですが、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)大会の第2回だから七七年ですか、明治大学での大会に、山田さんが森永ミルク中毒の人と一緒に行った話が本に書いてあるじゃないですか。連帯を呼びかけに行ったらすごい批判されて、という☆。
 一方で「治りたい、体をもとに戻せ」と森永ミルクの被害者の人が言って、「そんなこと言うな」と言う人たちがいて。それって解ける話なのかどうかはわかりませんが、現実にそういう場に遭遇してしまう医師というのは、普通はあまりそういう所にいないわけですが、でも出来事はそういう所に起こったりもするわけですよね。そのことがこの本の中には書かれているけれども、同じことでもいいですし、その後のことも含めてプラスアルファで少し思い出せることがあれば、もう少し足してお伺いしようと思うんですけれども。
◇山田:全障連大会へ行ったときというのは、森永のミルク中毒の被害者に関わっていて、一方で障害者の運動にも多少関わっていた。だから、公害被害者運動と障害者の運動が別々でやっているのはおかしいから、なんとか一緒にやれるようにという、後に反差別共同戦線などと言われるようになったものを構想して、乗り込んでいったんだよね。
 障害者の運動はいわゆる障害者のことについては闘っているけど、公害の被害者のことなんか知らないじゃないか、そのことを僕が啓蒙しなければならない、みたいな気分もどっかにあったりした。
 その頃、森永の被害者たちが立てていたスローガンが「体をもとに戻せ」だった。それを全障連大会の会場で森永の被害者が言った途端、ものすごい糾弾の嵐になって、「もとに戻せとはどういうことだ」、「もとの体が良くて今の体は悪いっていうことか」と。それはもう全く僕の予想していない反応だった。そういう言われ方、糾弾は本当に初めて聞いたという感じだった。一緒に行った森永の被害者は、まだ高校生だったから、とてもその問いに答えられるような状況ではなかった。
 私もその日は一日中糾弾され続けた。「お前、医者がこれまで障害者に対してどういう悪いことをしてきたか知ってるか」って言われて。
 大会は二日連続であって、私はもう本当に辛かったけれど、これはもう一日行かないといけないと思って、翌日も行って、ようやく彼らが何を言おうとしているかがわかった。 ◇立岩:これは、この後、幾度も現れる問題ですよね。チッソを糾弾することと障害者運動で言っていることと折り合いがつくのかとか、奇形児が産まれるから原発反対、でいいのかとか。私もこのことを少し引きずって、考えてみたことがあって、半分書いて途中になっていますけど☆。
 それで、山田さんが、「言おうとしていることはわかった」という感じですけど。 ◇山田:そのころ、ホームレスの人たちばっかりが来る診療所の医者をやっていたということがあったんだけど、彼らはべつに治してもらおうとは思っていない。彼らにとっては病院もシェルターみたいなものなんだよね。だから、暮れになると一斉に入院したいっていう人が出てくる。山谷の福祉事務所も正月は休みになって、それで仕事も何もなくて凍死するかもしれないから、お正月は病院へ避難してくる。診療の入り口の土間でものすごい苦しがっていて、「すぐ入院させないといけないんじゃないんですか」と看護婦さんが言うから、そりゃ大変だということで入院させてみると、「カツ丼が食べたい」とかなんとか言っている。もう仮病なんて当たり前で、入院したその日の夜に、病院のネーム入りの浴衣着て酒買いに行って、病室で飲んでいるとか。
 われわれも一旦入院と決めたんだからすぐに退院させるわけにもいかない。もうしょうがないというか、診療所のすぐ裏に福祉事務所の分室があって、そこへ「入院が必要」と届けると、大体正月いっぱいいられる。
 そういう医療をやっていたから、「医療というものは“治す”ということだけではない」と思っていたことがあって、それできっと「体をもとに戻すのがいいことなのか」ということとつながったんだよね。医者は患者さんを診たときに「治った」とか「改善された」という状態にすることを目標にする。それは医者が自分で勝手に決めるわけだ。最近になって、インフォームド・コンセントの時代になり、いくつかの道を患者さんに提示して一緒に選ぶというようになったのかもしれないけれど、当時は「治せれば医者にとって成功。医者にとっての成功は当然患者にとっても成功」と当たり前に考えられていた。「治せても成功とは言えない」とか、「治さないほうがよいこともある」なんて考えもしなかった。
 でも、例えば精神科の場合なら、幻聴は治らないほうがよい場合もあるというふうに言われたりする。幻聴なくなったら寂しくて生きてられないというようなことがある。それは精神科の問題だけではなくて、他の患者さんでも、症状をとってしまえばプラスではなくて、症状があるとよいこともあったりすると気づいた。でもそういう考え方は仲間の医者とはあまり共有できなかったし、今でも共有できないことが多い。
◇立岩:もとに戻すとか、治るとか治らないとか、もとのままでいいっていうことのいろんな意味合いみたいなものが実はある。それに対する意味のつけ方みたいなものが本人がという場合と医者がという場合の違いも含めて、いろんな違いがあって、そこのところをどうみるかという話だと思うんですよね。
 その際、ゴチャゴチャしたものに出会うという体験ですか。ゴチャゴチャしないままずっと行くというのもあるわけじゃないですか。そういう生き方というか人生というか。でもいつの間にやらゴチャゴチャしちゃったわけですよね。山田さんの場合にしてもね。 ◇山田:ゴチャゴチャしたことを考えなければならない場面に出会っちゃったからね。出会っちゃっても、こんなゴチャゴチャしたことに足突っ込んだらヤバイと思って関わらなければそこでおしまいだったと思うけれども。なんか意地張って関わっていた。そういうゴチャゴチャしたことを考えるのが、嫌でもないんだ。
 最初にホームレスの人たちの診療所で仕事をするきっかけになったのは、大学卒業を前にストライキをやって無期停学になり、その間どこかに居場所を作らなきゃいけないことになった。「活動家のたまり場みたいな診療所があるから行ってみないか」というので行ってみて、最初はびっくりしたんだけど。でもね、その診療所は潰れたからやめたけど、潰れていなければずっとあそこにいたって言えるよ。嫌いじゃなかった。今でも一番好きな場所だったかもしれないと思う。」

☆ 「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。[…]
 森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
 全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。自分たちはこんなからだにされた≠ニいうとき、こんなからだ≠ニいういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
 さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
 ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れることになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]それは一九八三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])
 この時(一九七七年八月)の代表幹事は横塚晃一だが、病気入院中で大会には参加していない――七八年七月に死去。この組織の結成は一九七六年。編書として全国障害者解放運動連絡会議編[1982]『障害者解放運動の現在――自立と共生の新たな世界』。他に関西ブロックから出された「一問一答」というシリーズがある。ウェブ上に廣野俊輔が作成を継承している資料がある(広瀬[2008-])。
 ここでは、ヒ素ミルク中毒被害者の運動と脳性麻痺等の障害者の違いが言われているのたが、そうでない記述もある。さきに山田が言及した石川雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会)の文章(石川[1973])、横塚晃一の文章(横塚[1973]――文章自体は後に著書に収録される機関紙掲載の文章)を並べている本(朝日新聞社編[1973])があり、そのコメント(大熊由紀子が書いたという)ではこの二つの会の共通性が指摘されている。
 「ここに紹介した二つの会には、いくつかの共通点がある。
 一つは守られる立場、保護される立場を抜け出し、自ら考え、発言し、実践しようとしている点である。さらに、「あわれな存在」としてつつましく助けを求めるという、多くの人びとに好感をもって迎えられる道より、はっきり自己を主張しようとしている点である。
 第二の共通点は、施設やコロニーを拒絶し、小規模な共同体を提案していることだ。[…]「街が拒否するから」「人が差別するから」「コロニーへ、施設へ逃げこみたい」というのが一〇年前の青い芝の会であった。街をかえ、人びとを変えよう。そのために街へ出ていくことから始めなければならない、と現在の「青い芝の会」は考える。
 このような思想の変化は”守る会”的な運動にも芽ばえつつある。たとえば染色体が一本多いために重い知恵おくれになるダウン症の親たちの会「こやぎの会」の人たちはいう。いままでの特殊教育の目的は「こどもたちを社会に」あわせることだった。しかし、それだけではだめだ、「社会をこの子たちに」あわせる運動をしよう、と。
 次章の精神神経学会の改革の底流にも、このような思想の変革があるように思われる。
 二つの会のもう一つの共通点は、自分たちを苦しめているこの「差別」の問題に執拗にかかわりあっていこうとしていることだ。」(朝日新聞社編[1973:126])
 ここで次章とあるのは福井東一「混乱の中から生れたもの――精神神経学会」。」

◆山田 真 20111205 『小児科医が診た放射能と子どもたち』,クレヨンハウス,わが子からはじまる クレヨンハウス・ブックレット004,63p. ISBN-10: 4861012031 ISBN-13: 978-4861012037 [amazon]/[kinokuniya] ※ npp-b

 「森永のヒ素ミルク中毒の場合は、事件が起こってから1年後に、被害を受けたあかちゃんの健康診断を厚生省(当時)がいっせいに行いました。そして、全員治っている、後遺症もない、だから将来も大丈夫である、と、たった1年のフォローでそう言い切ってしまい、その後、何もしませんでした。
 ですから、そういうことをさせないようにしなければなりません。いまは大丈夫でも、将来も大丈夫という話には、まったくなりません。
 それから、外側からは何も変化がないように見えても、見えないところの細かい変化が何かあるかもしれないので、そのへんを丁寧に診てゆこうと思っています。
 わたしたちは低線量被ばく、内部被ばくについて、「いまこれだけわかっています」というものをまだ持ち得ていません。」(山田[2011:29])

 「たとえば、実際に森永のヒ素ミルク中毒事件から何十年かたって、いまも関わり続けている医者は全国でもうふたりくらいになっていると思います。東京ではわたしひとりです。一時期は仲間がいましたが、結局みんなやらなくなってしまいました。水俣病も、カネミ油症事件も、やっぱり広がりませんでした。
 本当は公衆衛生学者や疫学者がちゃんと調べるべきです。昔から、たとえば公害にしても、ちゃんと関わっているのはと岡山大学の衛生学教室だけだと思います。岡山大学に青山英康さんという教授がいらっしゃったときに、たくさん次世代を育てられて、土呂久砒素公害もカネミ油症事件も水俣病も森永ヒ素中毒も、岡山大学の衛生学教室で調査をしました。
 青山さんが引退された後、津田敏秀教授がひとりでやっておられます。その津田さんも非常に孤立してやっておられて、ほかの衛生学者は一切関知していないので、調査を頼むとしたら津田さんです。もし津田さんが国の組織に入ってやるとなると、少数派で孤立するのではないでしょうか。恐らく潰されます。国の会議などでは、国側の研究者が10人いて、そのなかに津田さんがひとり入れられるというような構成にされるのです。とても動きにくいです。」(山田[2011:54])

■文献

◇滝川恵清 1972 『十七年目の訪問 森永ヒ素ミルク中毒のこどもたち 滝川恵清写真集』柏樹社 ASIN: B000J9ORX8 [amazon] 
◇田中昌人、北条博厚、山下節義 編 1973 『森永ヒ素ミルク中毒事件 京都からの報告』ミネルヴァ書房 ASIN: B000J9O3B4 [amazon]
◇吉田 一法 1973 『エンゼルの青春 森永ヒ素ミルク中毒事件被災児の記録 吉田一法写真集』,草土文化 ASIN: B000J9OEZ4 [amazon]
石川 雅夫(森永ヒ素ミルク中毒被害者の会) 19731115 「ヒ素ミルクの十字架を負って」,朝日新聞社編[1973:103-115]*
*朝日新聞社 編 19731115 『立ちあがった群像』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療6,250p. ASIN:000J9NNZ6 [amazon] ※
◇森永砒素ミルク闘争二十年史編集委員会 編 197702 『森永砒素ミルク闘争二十年史』医事薬業新報社
丸山 博 1980 『保健婦・養護教諭とともに』,土曜会20周年記念出版委員会
◇長谷川集平 1984 『はせがわくんきらいや』すばる書房、1984年3月 / ブッキング、2003年7月、ISBN 4835440587、(絵本)
◇ひかり協会 編 198503 『ひかり協会10年の歩み : 恒久救済の道を求めて』ひかり協会、(非売品)
◇京都府市町村保健婦協議会編 1987 『京都の市町村保健婦のあゆみ』,京都府市町村保健婦協議会
◇森永ミルク中毒事後調査の会 編 198806 『14年目の訪問 森永ひ素ミルク中毒追跡調査の記録』(復刻版)、せせらぎ出版、1988年6月、ISBN 4915655164 [amazon]
◇森永ヒ素ミルク中毒「被害者」の会 編 198810 『太陽の会の歩み17年 事業と運動の発展をめざして 解散記念文集』太陽の会(非売品)
◇丸山 博 19900131 『食生活の基本を問う――丸山博著作集・3』,農山漁村文化協会,358p. ISBN-10: 4540890905 ISBN-13: 978-4540890901 3568 [amazon] ※ ms.phn.m35.
◇森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会 編 199106 『守る会運動の歴史から「三者会談方式」を学ぶ 守る会運動の歴史学習版』森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会(非売品)
◇第24回自治体に働く保健婦のつどい実行委員会編 199301 『私憤から公憤への軌跡に学ぶ 森永ひ素ミルク中毒事件に見る公衆衛生の原点』,せせらぎ出版, ISBN 4915655415 [amazon] ※
◇山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon] ※
末岡陽子 2008 「日本における保健行政の変容と保健師活動」

 ※印のあるものは生存学資料室所蔵

*作成:末岡 陽子
UP:20080911 REV:
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