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『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』

山田 真 20050725 ジャパンマシニスト社,261p.


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山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社,261p. ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya] ※ h01

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内容(「BOOK」データベースより)
それは1968年東大・医学部から始まった。トホホでおちゃめ、まっすぐで熱い生き方。ワハハ先生の言葉に励まされ支えられた子育て。ご近所に、こんな小児科医がいてくれたらと何度も思った。そんなあなたに贈るワハハ先生誕生の物語。

内容(「MARC」データベースより)
それは1968年東大・医学部から始まった。トホホでおちゃめ、まっすぐで熱い生き方のワハハ先生誕生と青春の物語。季刊『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』に連載したものに手を加えて単行本化。

山田真[ヤマダマコト]
八王子中央診療所所長。「障害児を普通学校へ全国連絡会」世話人。『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』編集代表

■目次

はじめに
I 一九六〇年春・進路 
  上京 12 
  東大入学 17
  ぼくらのアイドル「こまどり姉妹」 22
  デモより麻雀 27
  『資本論』より「ガラスの動物園」 32
  演説と同情と演劇と 42
II 一九六七年初春・激動
  卒業試験ボイコット 50
  「医局講座制」を告発 55
  ストライキ突入 61
  ああ、「反革命分子」 67
  くやし涙 73
  とうとう委員長に 79
  無期停学 85
III 一九六七年秋・闘争
  町医者への道 94
  ホームレスの患者さんたち 100
  病気とつきあっていく術を学ぶ 106
  大量処分 113
  東大闘争のきっかけ 122
  燃えあがった六日間 129
  終息に向かうなかで 136
IV 一九七〇年春・出会い
  森永ミルク中毒の教訓 152
  企業と癒着する医者 158
  一万一七七八名への責任 165
  お母さんたちの後悔と自責 171
  ぼくにとっての「歴史的な一日」 179
  鍼をたずさえ三里塚 186
  大規模な公害「水俣病」 194
  医学の悪用がおこなわれるとき 204
V 一九七三年秋・誕生
  残念ですが閉院します
  ボーナスはジョニ黒
  小倉で会いたい人がいる
  五ケ月の遠距離恋愛 231
  「正しい医者」への違和感
  娘の誕生。――障害者運動、ふたたび
  こどもたちを分けるな
おわりに

■はじめにより(紀伊國屋書店のHP)

 […]ぼくは、第二次世界大戦のまっ最中に生まれたのです。そして、六ヶ月後には日本も戦争に突入したのでした。
 軍医である父と軍国の母・である母とのあいだに生まれたひとり息子であるぼくは、ほっておけば右翼的な大人になる運命だったのでしょうが、時代の波はぼくを少しちがう人 間にしてくれました。
 小学校に入学したのは一九四七年ですが、その年は戦後民主教育が正式にスタートしたといってよい年で、先生たちは平和、人権、平等といったことの大切さを生徒たちに一生懸命伝えようとしていました。戦後日本の平和は、日本が戦争中、アジアの人たちにたいへんな被害を与えたことの反省がないままに作られた虚妄であったといえるかもしれませんが、多くの国民が平和を維持しようとがんばっていたのは確かだと思います。そんななかで、先生たちもがんばり、先生たちの労働組合である日本教職員組合は活発に闘っていましたから、ぼくも無意識のうちに影響を受けていたのでしょう。
 高校に入ると、数学の時間なのにフランス革命について熱っぽく語り、その結果、生徒たちがみな「ラ・マルセイェーズ」をフランス語で歌えるようになってしまう[…]

■引用

III 一九六七年秋・闘争
  大量処分 113
 「山本俊一氏は著書のなかでこう書いています。
 「U内科事件は研修生、学生と医局員との間の争いで、教授会は中立の裁判の立場にあった。『喧嘩両成敗』の原則に立って、双方に対して、<0117<軽く譴責処分をして置けばこれが東大処分にまでエスカレートすることもなかったであろう。でも、教授会は研修生・学生だけを処分する片手落ち(原文ママ)の方向に動いたのである。」
 この文章は『東京大学医学部紛争私観』(本の泉社)という本からの引用ですが、この本の著者である山本俊一さんは、当時、東京大学医学部公衆衛生学の教授をしておられました。ご自身が学生だった頃に学生運動をなさっていたというような噂を聞いたこともあり、教授という立場にあってもぼくたちの運動を理解しておられたことが、この著書を読むとわかります。ぼくが処分を受けたときも、また今回の事件に対する”処分会議”の席上でも処分には反対と発言しておられたのです。
 しかし、当時ぼくたちはそのようなことかわからず、「温厚そうな顔をした山本教授にだまされてはいけない」というふうに思っていました。そんな誤解をいま、山本さんにおわびしなければなりません。
 さて、山本さんの著書では、その後の大学側の対応もくわしく書かれて<<います。」(山田[2005:118-119])

  東大闘争のきっかけ 122
「ふたりの医学部の教官がわざわざ九州へ出向き、T君が「H医師糾弾」の当日、まちがいなく九州にいたことを確認しました。
 この教官のうちのひとりが、当時人気のあったアリナミンやグロンサンを”効かない薬”と告発しはじめていた高橋晄正さんという研究者だったのです。高橋さんは、T君処分の一件にも科学的精神を発揮して調査に乗<0123<りだしたわけでした。高橋さんたちも「T君はたしかに九州に行っていた」と証言してくださったので、大学側は誤認処分をしてしまったことを認めないわけにはいかなくなりました。」(山田[2005:123-124])

 「「医学連」は「全国医学生連合」の略称で、それは全国の医学部学生の”闘う組織”でした。組織の中心には「ブント」という新左翼の党派の人たちもいて、彼らが東大闘争についての実質的な指導をしていたのでしょう。
 「ぼくは「なんとしても革命を起こさなくては」というところまではまじめに考えず、「世の中の理不尽さがいくらかでも正されれば」程度の思いで活動していましたから、「党派の連中にはついていけない」といふうに思っていました。しかし…」(山田[2005:126])→時計台占拠
 cf.全日本医学生連合(医学連)

 「「森永ミルク中毒事件」と初めて出会った日のことは、いまでもよく覚えています。その日、ぼくたちが学会改革のスローガンを掲げて闘っていた小児学会の席上へ、森永ミルク中毒の被害者がやってきました。それは、ぼくにとって驚異的なできごとでした。
 被害者の代表としてやってきた石川雅夫さんは、当時まだ高校生でしたが、「昭和三〇年当時、赤ん坊だったミルク中毒の被害者を健診して、異常なし∞後遺症なし≠ニいいきったのは小児科学会に属する学者たちだった。その後、被害者は亡くなったり後遺症に苦しんできたりしたが、検診の結果、被害なしということになったものだからずっと偽患者のようにいわれ、世間から忘れられた。この責任はあなた方、小児科学会の全員が負うべきではないのか」と明快な言葉でぼくたちを告発したのです。
 会場からは「帰れ、帰れ」のやじが起こりました。それはこうした告発になんの心の痛みも感じない医者たちの冷ややかな応答でもありました。ぼくは怒りと悲しみの思いに包まれ、なんとかしなければと思いました。」(山田[2005:149-150])

  鍼をたずさえ三里塚 186

 「医者は、鍼灸師の免許をもっていなくても鍼をうつことができるという”特権”をもっています。しかし、鍼を<0190<うって収入を得ることはできません。つまり、サービスとしてなら医者は鍼を打つことができるわけです。
 実際に鍼をやってみると、肩凝りや腰痛に対して目を見張るような効果があります。ぼくの医療のなかに鍼はきっちりと位置を占めるようになりました。
 そして、鍼の魅力にとりつかれつつあったときに三里塚に行くことになったのです。
 ぼくは肩凝りや腰痛に悩まされている人たちの家を訪れて鍼治療をしました。鍼治療は人気があり、ぼくはひっぱりだことになりました。医療団のなかには先輩の整形外科医もいましたが、ぜんぜんお呼びがかからないという話を人づてに聞いたことがありました。彼は「近代医学が鍼なんかに負けるなんて世の中まちがっいてる」と嘆いているとの話でした。しかし、肩凝りなどの治療なら近代医学的な方法より鍼のほうが勝っているのは明らかなことです。」(山田[2005:190-191])
V 一九七三年秋・誕生
  五ケ月の遠距離恋愛 231
「その頃、東大医学部物療内科の講師であった高橋晄正さんは、薬害の告発を始めていました。高橋さんが最初に糾弾したのはアリナミンやグロンサンといった”総合ビタミン剤”でしたが、当時のアリナミンの売れ行きといったらすごいものでした。ちょうど「高度経済成長まっしぐら」とい<0235<う時代でもあり、国民はバリバリ働くことを国から求められていましたが、バリバリ働いて疲れたからだはアリナミンで回復させるというようなことがいわれていたのです。
 しかし、アリナミンはインチキ薬だと高橋さんが告発しました。」(山田[2005:235-236])
 →高橋晄正

  「正しい医者」への違和感
  「被害者のなかで、ぼくたち「支援する医者」にも鋭く批判をするのは古賀照男さんくらいでした。古賀さんはスモンの患者さんでしたが、病気になる前は労働者で、病気になった後で加害者である「田辺製薬」を追求(ママ)するときも作業衣のままだったりしました。二〇〇三年に亡くなられましたが、最後まで製薬会社の追求(ママ)をやめず、その姿勢にぼくは深く感動し、また多くのものを教えられたと思っています。
 […]<0242<[…]
 古賀さんの闘いでは古賀さんが主役で、医者も黒衣にすぎませんでしたから、スッキリした気持ちでかかわることができましたし、古賀さんの言葉からあらためて日本の医療の問題点を見直すことにもなったりしました。
 しかし、被害者の人たちと医者とがこんな関係になれるのはめずらしいことで、医者が医療被害者運動の先頭に立ってしまうこともしばしばあったのです。」(山田[2005:242-243])
  cf.古賀 照男 200003 「孤独と連帯――古賀照男・闘いの記」,『労働者住民医療』2000-3,4,5 http://park12.wakwak.com/~tity/shadow/koga.htm
  「医療被害者運動や公害闘争では、裁判闘争が組まれることが少なくありませんでしたが、そんな場合、医者と弁護士とが闘争戦術を決め、被害者はその後からついていくというかたちに見えることもありました。そうすると医者や弁護士が闘争の主役のようになってしまいますが、それはぼくにとって納得できないことでした。
 森永ミルク中毒の被害者とのおつきあいなどはその後も続き[…]」(山田[2005:243])

  娘の誕生。――障害者運動、ふたたび
  「そんなときたまたま、全障連という団体の全国大会が東京でおこなわれることを知りました。これに参加することで、共同戦線が作れるだろうと考え、森永ミルク中毒の被害者のひとりと、その大会にのりこんだのです。しかし、そこで待ち受けていたのは予想外な反応でした。
 […]<0246<
 森永ミルク中毒の被害者は、この全障連大会の席で「自分たちは森永に対して、『からだを元に戻せ』というスローガンをつきつけながら闘っている」と発言したのです。ところが、大会に参加していた障害者の人たちから、このスローガンがさんざんに批判されることになりました。
 全障連大会に参加していた人の多くは脳性麻痺の障害をもつ成人でした。[…]彼らの運動の中心的な課題は、障害者に対する差別と闘うことでした。[…]<0247<[…]
 そんな彼らの前に森永ミルク中毒の被害者が現れ、「からだを元に戻せと森永乳業につきつけている」と発言したのです。そこで、障害者の人たちから「あなたは自分のからだをよくないからだと思っているのか。”自分たちはこんなからだにされた”というとき、”こんなからだ”といういい方にこめられたものはなんなのだ。元のからだに戻せということは、いまのからだを否定することで、それは障害のあるからだを差別する考え方ではないのか」といわれたのです。ぼくたちはこの厳しい問いに答えることができず、立ち往生してしまいました。
 さらに彼らは「自分たちは医者というものをまったく信用していない。医者たちが障害者に対してこれまでどんなひどいことをしてきたか、知っているのか」とぼくに問うたのです。そして、その日一日は、障害者の人たちのきびしい問いかけと糾弾を受ける一日になりました。
 ぼくは大きなショックを受け、その後しばらく障害者の運動から離れる<0248<ことになったのですが、結局、またその運動と出会うことになりました。
 […]  それは一九七三年に生まれた娘が、障害をもつことになったからです。」(山田[2005:246-249])

■言及

◆立岩 真也 20140825 『自閉症連続体の時代』,みすず書房,352p. ISBN-10: 4622078457 ISBN-13: 978-4622078456 3700+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2011/01/01 「社会派の行き先・3――連載 62」,『現代思想』39-(2011-1): 資料
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院
http://kumiko.sgy3.com/blog/2005/09/post_450.html


UP:20071125 REV:20081228 1031, 20101214, 20140825
山田 真  ◇医療史  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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