所有
立岩 真也 2009/07/30
『環』38(Summer 2009):96-100
■不在であること・今できること
■不在にさせてしまうもの
■もう一つ不在にさせてしまうもの
「[…]私たちの社会の根の方に、生産者による所有が正当であるという信仰があり、多くの立派な哲学者その他はその信仰を有する人たちである。そのように見ることができると知ると、この信仰がいかに強く、所謂経済という領域に限らず、この社会に及んでいるのかがわかる。それが、所有について考える必要を感じさせないようにしてきたもう一つの理由だとも言える。
しかしその信仰を共有する必要はない。としたら何が言えるか。そのように考えていったらよい。その上でさらに、その人の身体・生命に対する他の人たちの「不可侵」も言えるはずである。私の論について、その人の身体の所有を否定するが「ゆえに」その人の身体による生産物の所有を否定するという筋立てになっていると理解されることがあるが、そうではない。「私の作ったものでないから私のものでない」という主張は、「私の作ったものが私のものである」という筋の話を認めた上に成り立つとも言える。私はその前提を採用していない。
たしかにここは考えどころではある。最近、P.ヴァン・パリースの著書の日本語訳e;『ベーシック・インカムの哲学――すべての人にリアルな自由を』(勁草書房)が刊行された。そこでは、いま生産されているものは、生産技術等々これまでの人々の営為の蓄積によって可能になっているものであり、一人ひとりの生産者とされる人はなにほどのこともしていないのだと、そして働いている人は、そうした過去からの蓄積が付着した「職」を、他の人を排除して特権的に、得ることができているのであると言われる。そして、働かない人、働く気のない人も含めた全ての人に「ベーシック・インカム」を、という主張がなされる。
私は、生産者と職について言われていることはもっともだと考える。彼の主張もわるくないと思う。ただ、このもっともな了解「から」社会的分配を主張することは――このような論の運びが私たちの社会において一定の力をもつことを認めつつ――しないでおこうと思ってきた。「生産者による所有」という図式を基本に置かないところから論を立てた方がよいと考えてきたからだ。世界のほとんどすべてが既にこの世にはいない人たちによって作られたものであることを認めたとしても、その残りの部分については「貢献」の差はやはりある。となると、その差に対応した所有という話にやはり戻されるのではないか。しかし他方、この社会にあって、ヴァン・パリースのような論の運びに説得力があることもわかってはいた。するとどうしたものか。二つの方向の論をなんらの形で組み合わせていけばよいのか。このように考えていくことになる。
心配なのは、この本にこんな論点があることにどれだけの人が気づくだろうかということだ。気づかれないとしたら、それもやはり、所有についての思考の不在・貧困を指し示しているということになる。」(立岩[2009:100])