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■科学技術/所有・国際競争・国家戦略・… ■共有地の悲劇(↓) ■引用 「浜田 いわゆる情報というものは、人々がつながったり、何かを共有したりする道具として、いわば市民社会の通貨としてあると思います。それと同時に、吉見さんがおっしゃったように、権力や富が集中するのを加速させる面も持っています。特に情報サービスに関しては、実際に物を売買することと比べ、簡単にコピーして流通させることができ、コストがほとんどかからないという特性を持っているので、集中が起こりやすい分野だと思います。もちろん情報を作るのに、時間やコストがかかっているわけですから、それに対して対価を求めること自体(p.244)は、非難されるべきものではない。ただそれが知識や富の極度の集中をもたらす面を防ぐ仕組みが必要ではないかと思います。今のままだと、先進国の大企業にいっそう富が集まって、発展途上国はますます貧しくなるという状況が加速されることになりかねないと思います。私がひとつ提案したいのは、たとえば、ある情報サービスに関して、そこで得られる利益に上限を設けて、そこまではコストを回収して一定の利益を得ることは許されると思うのですけれども、あるレベルに達したら、その情報は人類の共有財産とみなして無償で配布するというような仕組みを考えてもいいのではないかということです。現実の世界ですぐに導入するのは難しいかと思いますが。 […]知的所有権、著作権の問題とからむと思うのですが、たとえば、アメリカの著作権の保護期間は過去四〇年間に一一回も延長されています。これはディズニーが著作権の法改正のロビー活動をして、ミッキーマウスの著作権が切れそうになると著作権の保護期間を延長させているからです。ディズニーは今持っている権益を守るために、弁護士を大勢雇ってルールそのものを変えたのです。もちろんディズニーはそれで利益を守るのですが。そうするといろいろな所に影響が出てくるのですね。たとえば日本の著作権法もなぜかアメリカに追従していますから、著作権の切れた作品のテキストをボランティアが打ち込んで無償で公開するという青空文庫のようなもので、今まで公開できていたものがいきなりできなくなってしまうなど、世界の公共の文化に影響を及ぼすようなことを、一企業が行ってしまう。それは大きな問題だと思います。そもそも著作権というものは、企業が永続的に独占的な利益を得るためのものではないはずなのですが。」(244-245) 浜田 忠久・吉見 俊哉 20031010 「インターネットとNPOのパワー――JCAFEの軌跡と未来」(対談),水越・吉見編[2003:235-250]* *水越 伸・吉見 俊哉 編 20031010 『メディア・プラクティス――媒体を創って世界を変える』,せりか書房,286p. 2500 >TOP ●『思想』 20010305 所有(1) 『思想』922(2001-03) 1200 ◆宮本 忠雄 20010305 「所有/非所有の間――無所有」(思想の言葉) 『思想』922(2001-03):001-003 ※ ◆熊野 純彦 20010305 「所有と非所有の<あわい>で(上)――生命と身体の自己所有をめぐる断章」 『思想』922(2001-03):004-029 ◆浅見 克彦 20010305 「愛と所有――所有的な愛と自我」 『思想』922(2001-03):030-053 ◆立岩 真也 20010305 「自由の平等(1)」 『思想』922(2001-03):054-082 ◆出口 顕 20010305 「商品としての身体、記号としての身体――臓器移植・アイデンティティ・想像の共同体」 『思想』922(2001-03):083-107 ◆加藤 秀一 20010305 「身体を所有しない奴隷――身体への自己決定権の擁護」 『思想』922(2001-03):108-135 ◆立岩 真也 2000/11/15 「所有」 『政治学事典』,弘文堂 http://koubundou.co.jp/ ◆大庭 健・鷲田 清一 編 20001010 『所有のエチカ』, ナカニシヤ出版,叢書思想のフロンティアIII,243p. 2200円+税 ◆森岡清美・塩原勉・本間康平 編集代表 19930210 『新社会学辞典』,有斐閣 ◇「私的所有 private property[E]; Privateigentum[G]; propriete privee[F] 所有とは、本源的には、人間の自然に対する領有あるいは獲得の行為であり、集団として行う社会的行為である。分業の形成とともに、自己の労働による獲得物は自ら取得するという関係が発生するが、しかしこの場合でも、分業労働は集団全体の分業体系の一環として行なわれるのであり、そのような社会的獲得行為を前提とし、そのなかで、それに対して、個々人の取得が行なわれるのである。このように、全分業系をもってする社会的獲得行為を前提にもちながら、それに対して、それから自らのものとして獲得したもの、いわば奪い取った(prive)もの、これが私的所有である。したがってそれは、単純な個人的所有とは概念的に異なる。私的所有が生産手段、特に土地にまで及んだとき、そのことを基礎に階級が発生する。階級関係においては、他人労働が自然から領有あるいは獲得した剰余生産物を支配階級が奪うのだから、まさに私的所有の関係といえる。→所有、所有形態、領有 [文献]平田清明『市民社会と社会主義』1969;大野節夫『生産様式と所有の理論』1979 細谷昂」(p.572) ◇所有 property[E]; Eigentum[G]; propriete[F] 「一般に所有とは、諸個人が対象に働きかけて自己のものとする現実的な関係行為であり、同時にそれを相互に承認する社会関係である。しかし、近代以降においては(したがって現代の私たちにとっても)、所有はまず何よりも資本制的に私的な所有として、しかも所有権という法的な形態で存在している。日常意識にとっては、所有とは本来的に私的所有権のこととして理解されている。 マルクスは、このような近代的所有が歴史的に特殊な形態であることを明らかにするために、近代的所有とは対極にある前近代的な、ことに本源的所有を分析し、これとの対比において近代的所有の特殊性を浮彫りにしている。マルクスによれば、人類が登場したばかりの本源的状態においては、人間は自然のなかで生まれた自然的存在であり、人間の生きる基地である大地も自然的前提として与えられている。人間は、天与の生活諸条件であるこの大地に対して、自分の身体の延長として働きかけ、自己に固有の(eigen)ものとして関係する。これが所有(Eigentum)の本源的なあり方であり、ここでは労働と所有とが本源的に同一である。マルクスは、対象に対して自己のものとして現実的に関係行為する、というこの側面を所有の本質規定として、しばしば「活動的所有」とか領有(内化)とよんでいる。 しかし、この本源的状態においては…… たとえば、古代ローマでは…… この後、奴隷制や農奴制のような…… 近代的所有形態である資本制的・私的所有は、このような労働と所有の同一性を解体し、人格的依存関係と共同態を解体することにらって形成される。具体的には、封建社会に広く成立していた領主=農奴的な所有関係、ツンフト(Zunft)にみられたような親方=職人的な所有関係、自由な農民的土地所有関係などを解体することを通して、土地、生産用具、生活諸条件の所有から自由な、そして人格的依存・支配からも自由な、二重の意味で自由な労働者がつくり出され、労働力も土地も一個の商品として自由な売買による私的所有の対象となる。ここでは、労働と所有の同一性に代わって、「労働なき所有」と「所有なき労働」が対立する。 こうして所有は、かつて自己のものとしての現実的な関係行為(領有)であった労働から完全に分離し、純粋に排他的な所有権として自立化する。だからこそ私たちの目には、所有のこの形態が普遍的な姿に映るのである。 マルクスは以上のように、資本制的に私的な所有形態の歴史的特殊性を明らかにしたうえで、再び労働と所有との同一性が再建される個体的かつ共同的な所有を将来に展望した。→本源的所有、領有、私的所有、所有形態、土地所有、個体的所有 [文献]…… 湯田勝」(p.766) ◇所有形態 (湯田勝,pp.766-767) ◇所有形態論/分業展開史論 (湯田勝,p.767) ◇所有と経営の分離 (村田稔,p.767) ◆佐藤 岩昭 「所有権[財産権]<仏>propriete、<独>Eigentum、<英>ownership 所有権とは「所有者ハ法令ノ制限内ニ於テ自由ニ其所有物ノ使用、収益及ヒ処分ヲ為ス」(民法206条)ことができる権利を意味する。また、普遍的な意味における所有権という言葉は、外界の(p.481)物資に対する人間の支配を意味するが、上述の民法206条が規定する「所有権」はより技術的な意味を有している。すなわち、第一に、この専門用語は近代市民社会における私的所有権を意味しており、第二に、ヨーロッパ大陸法的な所有権であるとともに、日本法独特の技術性をも有しているといわれている。すなわち、有体仏に対してのみ認められる権利であると理解されている点が、ヨーロッパ大陸法の代表であるフランス法における所有権と異なる点であるといわれている。また、20世紀にいたり、「所有権の絶対性」は――「契約自由の原則」とともに――さまざまな修正を受けている(憲法29条2、3項)点も注目に値する事柄である。」(pp.481-482) ◆川本隆史 「狭義には、人間が自分の身体と能力を行使して外界の事物に働きかけ、その成果を正当にわがモノとし、これを全面的・包括的・排他的に支配する事態を指し、「財産」とほぼ同義に用いられる。広義には、<生命、自由、財産に対する資源権>の総称で、「固有権」とも訳すことができる。すなわち、<それをなくしてしまうと自分が自分でなくなり、それを奪ってしまうと相手が相手でなくなるほどに掛け替えのないことがら>のこと。歴史的には、まずアメリカ独立戦争期の「ヴァジニアの権利章典」[1776]において定式化され、「フランス人権宣言」[1789]においては「自由、所有、安全および圧制への抵抗」に対する自然権を保全することが「あらゆる政治的団結の目的」であると謳われた。 【所有の正当化】所有は事実上の占有と異なり、常に正当性の主張(所有への権利)を含意している。 ◆森政稔 「『所有とは何か』 プルードンの初期の著作。この作品で、プルードンは「所有(私的所有権)とは ◆鷲田清一 20000101 「所有 property 英、propriete 仏、Eigentum 独 社会的な財を私有か公有かどちらの原理によって分配し管理するかという所有制度の問題が事実上意味をなさなくなったことが、ベルリンの壁の崩壊、冷戦体制の瓦解の一つの大きな帰結である。<所有>の概念は、幸福の概念とともに、19世紀まであれほど熱く論じられたのに、その後長らく思想の舞台から消えていた。もちろん、所有権論や所有権史は法学者たちによって連綿と取り組まれてきた。が、所有とは何か、「もつ」とは何か、という哲学的な問題について正面から論じることはほとんどなくなっていた。 もちろん知的所有権や、脳死判定や臓器移植をめぐる脳死体の可処分権の問題、あるいはさらに人工的な多細胞生体の「著作権」などをめぐり、にわかに所有の問題が再浮上してきてはいる。しかしもっと重要なのは<所有>の概念そのものへの問いである。 固有性を表すプロプリエテ(propriete)という概念は、ふつうは所有とか所有権とか所有物(もしくは財産)と訳されることが多い。が、この概念は同時に、各個人の交換不可能な存在、つまり各人の自己固有性を表すためにも用いられる。所有と固有、交換できるものと絶対に交換できないもの、この対立する二契機が同じプロプリエテという言葉によって表現されているところに、<近代>の思想の一つが現われている。というのも、近代の<所有>概念は、市民が他者によって搾取されることのない自由で自立的な存在であることの前提条件として提起された。が、それは自由であることへの要求を所有する自由への要求へと還元することでもあったからである。こうして、ものの存在は所有の対象へ、そしてひとの身体の当の主体のもっともベーシックな所有物へと還元される。そしてそのこはがあらゆる所有権の基礎をなすとされる。環境を人間という「主人」の所有物とみなす、身体の全体、あるいは臓器や胎児を主体の占有物とみなす、そういうところから、現代文明のさまざまな問題も発生してきている。さらには<私>のアイデンティティーをめぐって、意識が自己自身を時間のなかで保持しつづける働きのうちでそれを根拠づけようという、ロックからフッサールまで脈々と受け継がれてきた考え方の問題性をそれと関連している。現在、所有をめぐるこうした問題系の全体を再検討する必要がある。」 (鷲田清一*,『イミダス2000』,集英社,20000101,p.1135) *「哲学・現代思想」の項目は野家啓一・鷲田清一・篠原資明・中岡成文の執筆。 おそらくこの項目の執筆は鷲田 ◆以下は立岩『私的所有論』より。 井上達夫は一九九一年度の日本法哲学会の統一テーマ「現代所有論」に関して次のように述べる。 「所有とはそもそも何か。何によってそれは正当化されるのか。いかなる主体…が何を、何ゆえに、何のために、所有できるのか。所有することによって、誰に対して何ができ、何を拒否できるのか。 所有の概念を、所有権という権利としてのみ構成することは妥当か。「所有は義務づける(Eigentum verpflichtet)と言うとき、この「義務付け」が単なる外在的制約ではないとすれば、それは所有の意味および正当化根拠と、どのように関係しているのか。また、功利主義的発想と個人権理論的発想、あるいは、帰結主義的発想と義務論的発想は、所有の概念規定と正当化において、どのように関係するのか。 自由と責任を調和させる所有システムは、どのようなものか。私的所有者の自由な交換としての市場システムが、自己の倫理的基礎の破壊を帰結しないための条件は何か。所有システムの再構築による社会主義の救済は可能か、また、いかにしてか。 日本の伝統的な所有観念・所有形態は、資本主義的所有とどのように接合し、日本経済が現在露呈している欠陥に、どのように関わっているのか。現代日本が直面している土地・住宅問題や環境問題は所有およひ所有権の概念にどのような変容を要請しているのか。/問題のリストは無限に続く。提示した問題群は例示的列挙である。」(井上達夫[1991:3-4]) ◆ロック(別掲) ロック(John Locke 〜 ) をはじめとする論者達が持ち出すのは、自己労働→自己所有という図式である。自己に属するものから派生・帰結したものに対しては、その者が権利・義務を負うと言う。 「たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかし人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の動きは、まさしく彼のものであると言ってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれらに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。」(Locke[1689=1968:32-33]) Aがaを作る、ゆえにaがAによって取得される、という筋の話である。しかし、身体は出発点に置かれる。ロックは身体を予め彼のものだとしている。無論、この時代の主題は、土地や物の所有をどのように基礎づけるのかである。身体の所有自体が問題化されているのではない。身体そのものは神様が自分に自分のものとして与えてくれるのかもしれない。しかし神様がいないとどうなるのか。身体の所有を疑ってしまうとどうなるか。身体・生命が他者のものではなく、自分のものであることはどのように根拠づけられるのか。 ★04 第27節。ロックの所有論については、Macpherson[1962=1980]、蛯原[1986:21-91]、三島[1992]。 ここまでの議論によって正当化された個人的領有はいくつかの制限をもち、ロックはその制限をとり払う方向に記述を進める。マクファーソンは、その制限は三つであり、それぞれの解決がなされていると読むことができると言う(Macpherson[1962=1980:228-248])。ロックの見解をさらに明確にするために、またロックの所有論の限界についての議論との関係において、マクファーソンの記述に従い紹介する。 1「少なくともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり」(33 sec.27――この注と注07に限りLocke[1689=1968]の訳書頁数と節数を表示)で、ある人は領有してよい。この「十分さという制限」は、一つは貨幣の導入――それは同意されたものである――の必然的諸結果に対する暗黙の同意によってとり払われる。また、土地については、他人たちにとって十分に満足できるほど残すより以上に多くの土地が領有されるかもしれないとしても、すべての土地が領有され、かつ利用されているところでの、土地を持たぬ人々の生活手段における水準が、土地があまねく領有されてはいないところでの何人の水準より高いことから、各人が依然として自分の保全の権利、したがって生活必需品を領有する権利を持つことからとり払われる(41-43 sec.36,37)。 2「腐らないうちに利用して、生活の役に立て得るだけのものについては、誰でも自分の労働によってそれに所有権を確立することができる、けれどもこれを超えるものは、自分の分前以上であって、それは他の人のものなのである。腐らしたり、壊したりするために神によって創られたものは一つもない」(36 sec.31)。この「損傷の制限」は、貨幣の導入によって克服される。「自分の正当な所有権の限界を超えたかどうかは、その財産の大きさのいかんにあるのではなく、何かが無用にそこで滅失したか否かにあるから。」(52 sec.40)土地についても、同様に「所有者の手中で滅失毀損することはない」金銀の存在により、「自分からの生産物を利用し得る以上の土地を正当に所有する」ことが可能になる(54 sec.50)。 3明示的に語られているわけではないが自己労働による領有の正当化から、ロックにおいては「正当な領有は、ある人が自分自身の労働でもって調達しうる嵩に制限されているように思われる」。大地からの生産物だけでなく、土地の領有についてもこれらの制限が課されているとみてよい(Macpherson[1962=1980:230]) 。 この(マクファーソンによって)「想定された労働の制限」については、ロック自身によって明確にされていないものの、人間の労働は彼自身の所有だから彼はそれを自由に売却してよく、売られた労働は買い手のものとなり、彼はその労働の産物を領有する権利を与えられる、という論理によって取り払われている、と解しうるとマクファーソンは考える。その論拠として二つがあげられる。 第一は、ロックが、ある人の権利は購入した労働によっても確立されると考えていることである。「…私も他人も共同で権利をもっている場所で、私の馬の喰う芝生、私の掘り出した鉱石は、誰の譲渡も同意もなしに、私の所有物となる。私の労働がそれを、それが置かれていた共有の状態から取出したのであり、こうして私のものであった労働がそれに対する私の所有権を確立したのである。」(34 sec.28) マクファーソンは、他のいくつかのロックの記述からも、彼が「自然状態の中へ、発展した商業経済の市場関係をさかのぼって読み込んでいたので、察するところ彼は、彼の市場関係といっしょに賃金関係も読み込んだ」(Macpherson[1962=1980:245])ことが明らかだとする。ロックが賃金労働を自然状態の中に認めていたという推定は、彼が自然権、自然法と市民社会の関係の把握において、市民社会および統治の権力は、自然法の諸原理を実施することに制限されると考えていたことから(137-138 sec.135)強化される。すなわち、市民社会において合法的とされるからには――ロックの論理構成においては――それは自然権だとされていたに違いないのである。 他方、村上淳一は、ロックの労働による基礎づけは、所有=支配秩序の流動化の可能性を示唆するものの、二つの限界を持つと述べる。第一は労働が純粋な個人の労働でないことである。それを示すものとしてあげられるのが、マクファーソンが第三の制限の乗り越えとしてあげる部分である。第二は、労働がなお事実上の所持、利用と結びついたもの、その意味で支配−保護と関連したものであり、したがって所有権は抽象的な処分権ではなく、具体的な利用権ないし義務を中心とするものであることであり、そこであげられているのは、先の二番目の制限、「損傷の制限」――マクファーソンが貨幣の導入によって乗り越えられるとした制限――としてあげた部分である(村上[1979:84]) 。 この村上とマクファーソンの見解の相違は、基本的にロックの自然状態の把握――ロックにおいては自然状態と政治状態、政治社会の間に質的な区別がない点は、一般に、むろんマクファーソンにおいても(先述)、村上においても([1979:85])承認されている――の判断を巡るものであり、マクファーソンは資本制的な市場関係(の投影)としてそれを捉え、村上は前近代的な社会としてそれを捉えていることによる。 自然状態で合意された所有権が政治社会で確定される、この間に質的な断絶はない。したがって同様に、というよりは、ロックにおいては労働という内容が規定されていたがここではそれがなされていないから、よりいっそう、現状に対する批判的、改革的な効力を持たない(村上[1979:83,85])。 ◆19970410 『ロック所有論の再生』 有斐閣,一橋大学法学部研究叢書,290p. 第1章 方法序説 第2章 最近のロック所有論研究書 第3章 ロック所有論の基本的論点 第4章 ヒュームとカントのロック所有論批判 第5章 ロック的但し書きとリバタリアニズム 第6章 ロック的著作権論 第3章第1節 私的所有権正当化の論拠 私的所有権正当化の論拠として 1)価値の創造/2)功績/3)人格の拡張 1)について 「自分の作ったものに対して他人は権利を持たないという主張は理解できる。そしてこの観念はおそらくそれ以上基礎づけるまでもないだろう」(森村[1997:117]) 「私的所有権正当化の論拠についてのこれまでの検討からは、<価値の創造>がごく重要な役割を果たしているのに対して、<功績>と<人格の拡張>は、それを補う副次的な役割を果たしていることがわかった。最後にこれら三つの正当化の論拠とはやや異質の、<生存と繁栄>という論拠を検討しよう。」(森村[1997:131]) >TOP ◆カント(Immanuel Kant) カント(Immanuel Kant 〜 )の(初期の)言葉ではこうなる。 「肉体は私のものである。なぜなら、それは私の自我の一部であり、私の選択意思によって動かされるから。自分の選択意思をもたない生命ある世界や生命なき世界の全体は、私がそれを強制して自分の選択意思のままに動かすことができるかぎり、私のものである。太陽は私のものではない。他の人間においても同一のことがあてはまる。したがって、どのような所有権もproprietasつまり独占的な所有権ではない。しかし、私があるものを、もっぱら自分のものにしようと欲するかぎり、私は、他人の意志を、少なくとも自分の意志に対するものとして前提したり、あるいは、その行為を自分の行為に反するものとして前提したりすることはしないであろう。したがって、私は、私のものというしるしをもっている行為を実行するであろう。木を切るとか、これに細工をするとか、等々。その他人は私に言う。それは自分のものである。なぜなら、それは自分の選択意思の行為により、言わば自分自身に属するから。」 (Kant[1764/65=1966:309]) 村上淳一によれば、カントは、グロティウス、プーフェンドルフと同じく、自然状態における所有権形成の根拠を、合意によって基礎づけられた先占に求める)。 だが、自然状態における所有は、事実上の所持を伴う経験的・感覚的・物理的な所有(ヘルシャフトと不可分な所有)であり、したがって暫定的に法的な所有(provisorisch-rechtlicher Besitz)にすぎないのに対して、政治社会における所有は所持を伴わない観念的(intelligible)――人により可想的、英知的と訳されている――な所有、純粋に法的な所有であり、したがって確定的な所有(permtorischer Besitz)であるとされる。 「外的な私のものとは、たとえ私が当のものを占有していなくても[当該対象の所持者でなくとも]、私のなすそのものの使用を妨げることが侵害となるであろうようなその当のものである。」(Kant[1797=1972:374]) この純粋に法的な、観念的な所有は、合意にもとづく先占ないし労働という経験的事実によってではなく、アプリオリに根拠づけられる。該当する部分を二箇所――村上は後者を引用している――あげる。 「…私の意思のいかなる対象も客観的に可能な私のもの・汝のものとみなし、かつそれを取り扱うことは、実践理性のアプリオリな一前提である。 こうした要請は実践理性の許容法則[lex permissiva]と名づけられうるものであって、これは単なる権利一般の概念からは、導き出すことのできない権能をわれわれに与えるのである。それはすなわち、われわれの意思の或る特定の対象の使用について、われわれが最初にそれを占有したことを理由として、他人はその使用を差し控えるべきであるという、その以前には存在しなかった拘束性を一切の他人に課す権能である。理性は右の要請が原則として妥当であることを欲する。しかも、このようなアプリオリな要請によってみずからを拡張する実践理性としての資格においてそうするのである。」(Kant[1797=1972:372]) 「…非経験的占有という概念の演繹は、次のような実践理性の法的要請に、すなわち「外的なもの[使用可能なもの]が誰にとってもその人のものとなりうるように他人に対して行為することは、法的義務である」という要請に基づいている。」 (Kant[1797=1972:378]) そして、このような所有を、アプリオリな基礎づけのゆえに確定的な所有として保証する政治社会は、やはりアプリオリに、普遍的な法律の下で各人の自由意志が実現される状態として把握される(村上[1979:85-86]) 。 また村上は、カントが、他面において、所有権から政治的支配の要素を完全に除去していない点として二つあげる。一つは、カントが国家を自権者たる家長の社会として理解していたこと、一つは、自然状態における所有と政治社会における所有を質的に分離しつつも、政治的秩序(政治社会)は各人に彼のものを保証する法的状態にすぎず、各人のものを新たに協定し決定するわけではないとして連続的にとらえていたことである(村上[1979:86-88]、第一の点についての批判として知念英行[1981:116etc.]) 。 少なくとも二つのことを分けることができる。 一つは、ヘルシャフトと結びつく具体的な利用権ないし利用義務としての所有権と抽象的な処分権としての所有権との対比において、カントが後者を主張したこと。そして、それが近代的所有権概念と合致すること。 一つは所有権の基礎づけとして、経験的な事実においてそれを主張する方向と、先験的な原理より導出する方向、その対比において、カントが――村上の解釈に従えば、抽象的処分権について――後者に位置すること。 これをさらに二つにわけることができよう。一つには、根拠づけ、ということ。一つには現実との、現実の改変との関係の問題である。後者から考えれば、ここで根拠づけを、何かが(他の誰かのものではなく)私のものである、という規則が先占によって与えられ、その先占が「実践理性の要請(Postulat)としての実践理性の許容法則(Erlaubnisgesetz)」によって根拠づけられることだと解してよいとするなら、先占の根拠づけはアプリオリに与えられているとしても、先占そのものは経験的な事実として存在するより他ない。全くの未開の土地であればともかく、この言説は、所有の布置の現在に対して何を語ることができるだろうか。 つぎに、先験的な導出(一般)について。先に私は、グロティウス、プーフェンドルフ、ロックという系列における所有権の基礎づけについて、その前提となる事態を認めることができるとは限らないこと、さらにそれが認められたとしてもそれが何かを正当化するとは限らないことを指摘した。カントの構制はこの問題点を解消した。だが、代わりに持ち出された先験的な根拠づけは――どんな論理によってなされようと、その最終的な前提を疑うことが可能であることをもって不可能と呼ぶことができるなら――成功しない。 それよりも、私達は、ここに断層を見出すべきだろうか。カントにおいて、経験性−先験性の分割が与えられた。自然状態が、歴史性・経験性・有限性として捉え返され、ゆえに、そこにおける根拠づけが断念され、代わりに先験性が与えられた、というように。あの奇妙な自然状態というものが、もし、奇妙なものだとかつて思われていなかったとしたなら、そこには歴史性・有限性・経験性といった観念、それを一つの項とする分割が存在しなかったとも考えられるのである。 ◆藤原 保信 1991 「所有権論考」,『早稲田政治経済学雑誌』306:22-41→藤原[1997:69-89] ――――― 1997 『自由主義の政治理論』,早稲田大学出版部 ※ * 「さて、私的所有がよいか、共同所有がよいかという議論は、すでに古代ギリシアにみられる。周知のように、プラトンは、…」(藤原[1991→1997:71]) *このような対置ではうまくとらえられないことを立岩[2003]で述べた。 >TOP ■共有地の悲劇 (tragedy of the commons) ◆立岩『私的所有論』第2章注20より Hardin[1968=1993]はLloyd[1833]を引いて共有(牧)地を各自が自分の利益を最大化しようとして使う結果、過度の放牧が起こり、破滅的な結果が起こるという筋の「共有地の悲劇」を自然環境を巡る問題の所在を言う論として用いた。これを回避する方法として私有化そして/あるいは規制があり、人口問題の後者の解決策として「出産の自由」の制限が主張される(批判としてCallahan[1972=1993])。また、人間を自然の支配者とする「フロンティア(カウボーイ)倫理」に環境の福利のために尽くす「救命ボート倫理」が対置される。豊かな国からの低開発国への援助(猛烈に込んでいる救命ボートから落ちて泳いできた人の別の豊かな救命ボートへの乗り移りを認めること)が否定される。その理由として「共有知の悲劇」の論理が用いられる。国境を閉鎖すること(これは国家を単位とした私有化の選択である)によって資源の使用が制限され、人口増加が抑制されるというのである。(Hardin[1972=1975][1974][1977=1983])紹介と批判としてCallahan[1974]、Schrader-Frechette[1991a=1993][1991b=1993]――後者ではこれに対置されるものとしての「宇宙船倫理」が検討されている。Hardin[1977=1983]の訳者でもある竹内靖雄[1989]等では肯定的に言及されている。 また、「共有地の悲劇」は社会学等では「社会的ジレンマ」(「囚人のジレンマ」と呼ばれる二人間ゲームの一般化として定式化される)の一つとして考察の対象になる(長谷川計三[1991a][1991b:30-33]、小林久高[1995:261-271]、「社会的ジレンマ」について山岸俊男[1990]、海野道郎[1991]等を含む盛山・海野編[1991])。 所有論との関わりでは次のような指摘。「勤労の果実を勤労者に確保する制度の経済的必要性は、やはり認められなければならない。そのような制度がまったくない時には、土地の耕作のように長期的な労働などの「投資」の結果はじめてひとつの財が生み出されるような場合には、個人にとって自分で耕作の労をとるより他人の労働の成果が実る頃にそれを奪うという戦略の方が合理的になるし、それがわかっているのに耕作する者もいなくなるからである。もちろん皆がこの戦略をとる場合には、土地は耕作されないから、略奪の対象もなくなるが、だからといって自分だけが耕作することも無意味となるから、囚人のジレンマが発生する。これを解決するために前もって「各人の」土地を決めておくことで、その土地上での労働の成果の享受をあらかじめその者に保障することに皆が同意するのだと論じるなら、これは所有権の中に含まれる排他性(およびその系としての果実取得権)の要素に着目して、それを効率または経済的機能の観点から正当化する議論となる。」(嶋津格[1992:61-62])。 環境問題の解決策としての私有化の限界については山田高敏[1996]。環境的公平については戸田清[1994]で本格的に論じられている。cf.高橋久一郎[1995:288ff]。 >TOP ■研究者+文献 ◆青木 孝平 19920630 『ポスト・マルクスの所有理論――現代資本主義と法のインターフェイス』 社会評論社,297p. 3200 * ◆藤原 保信 1991 「所有権論考」,『早稲田政治経済学雑誌』306:22-41→藤原[1997:69-89] ◆――――― 1997 『自由主義の政治理論』,早稲田大学出版部 ※ * ◆川本 隆史 1991「自由・秩序・所有――ハイエクとセンの対決」,『現代思想』19-12→川本[1995a:130-143] <57> ◆――――― 19920318 「所有権の相対化のために――エンタイトルメント・自己所有・系譜学」,『フォーラム』10:81-99 <57> ◆――――― 1992c 「自己所有権とエンタイトルメント――私的所有権の光と影」,『法哲学年報』1991:77ー94 <57> ※ ◆――――― 1995b 「協議の政治と所有の分散――民主主義の二つの規範理論」,『現代思想』23-12:115-125 <313> ◆福間 聡 1999 「自己所有のための所有権へ――外的資源に対する私的所有権の正当性について」 『思索』32:087-105 ※ ◆――――― 200103 「道徳的運に抗して――コントロール条件に基づく道徳的責任の再検討」 『倫理学年報』50:125-139 ※ ◆――――― 2001 「自己所有権から自己所有へ――二つの能力概念の差異に基づいた転換」 『イギリス哲学研究』24:049-062 ※ ◆岸本 美緒 20011221 「所有についてのノート――比較史研究会をふりかえって」,イスラーム地域研究5班cグループ「比較史の可能性」第8回研究会 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~5jimu/new/011221-2-j.html ◆Macpherson, C.B. 1962 The Political Theory of Possesive Individualism,Oxford Univ. Press=1980 藤野渉・将積茂・瀬沼長一郎訳,『所有的個人主義の政治理論』,合同出版 ,358p. ◆森村 進 19950324 『財産権の理論』 弘文堂,216+12p. 3800 ※ ◆――――― 19970410 『ロック所有論の再生』,有斐閣,一橋大学法学部研究叢書,290p. ※ ◆大川 正彦 1993 「ヘーゲル市民社会論における私的所有と社会的資源(上)――「自己所有権」テーゼ批判をめぐって」,『早稲田政治公法研究』41:243-259 <66> ※ ◆――――― 19930223 「ヘーゲル市民社会論における私的所有と社会的資源(下)――「自己所有権」テーゼ批判をめぐって」,『早稲田政治公法研究』42:159-183 ※ ◆――――― 19931220 「人格,所有、アイデンティティ――ヘーゲル「抽象的法権利」論の一考察」,『早稲田政治公法研究』44:159-183 ※ ◆――――― 1996 「所有・人格・責任――「自己所有権」の再審にむけて」,1995年度文部省科学研究費研究成果報告書,総合研究(A)『応用倫理学の新たな展開』研究代表者:佐藤康邦(東洋大学教授):186-197 ◆――――― 19970420 「共同体主義による所有個人主義批判――マクファーソン,テイラー,ウォルツァー」,『早稲田政治公法研究』54:185-214 ◆――――― 20001010 「所有の政治学――所有的個人主義批判」,大庭・鷲田編[2000:172-194] ※ ◆Cohen, G. A. REV:....20030602,1226 . 20070321 ALIGN="RIGHT">TOP HOME(http://www.arsvi.com)◇ |