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分配的正義論

―要約と課題―

立岩真也
200209
『季刊社会保障研究』38-2(特集:福祉国家の規範理論)
(国立社会保障・人口問題研究所)
http://www.ipss.go.jp/



 *この文章を用いて報告した立命館大学公共研究会での報告の記録があります。


  しばらく、存在とその自由のための分配を主張し、また、その上で考えるべきことを考えようとしてきた。この「働ける人が働き、必要な人がとる」という主張自体はまったく単純なものであり、まず、どのように別の立場を批判するか、次に、どのように自らの立場を弁護するかである。このことについて既に述べたことを、もちろんその論の内実が大切なのではあるが、ここでは説明・証明を省きごく短くI・IIで要約する。
  次に、さらにどんなことを考えるべきか。それは例えば、政治がいま行なっていること行なっていないことをどう評価するかという具体的な問題につながるのだが、「現場」に近い一方の学はその記述に追われ、また、なされる評価・提言はその根拠があまりよく検討されているように思えない。他方で、「哲学的」な営みはより原理的な部分の考察に専念しようというのか、具体的な諸問題についての規範論的な考察が十分に行なわれていない。それは望ましいことではない。なにを私は考えたいかをIIIに記す。
  こうして、この文章は何かを新たに示そうとする文章ではない。過去に書いたものをほぼそのまま使っている箇所もある。このことをおことわりしておく。

I 批判

  1 規則について
  1)生産した者が生産物を(あるいは生産に応じて)受け取れるという規則がある。それを正義とし、必要に応じた分配はせいぜい付加的なものとしてしか認めない立場がある。2)その人の生産(を行なうことのできる能力)がその人の価値を示すという価値がある。この二つを吟味し、批判する。
  1)の検討・批判を『私的所有論』〔1997〕(以下著者名略)の第2・8章で行なった。それにはいくつかの論点があるが、私の議論について誤解があるかもしれない。私は、私の身体は私のものではないからその産物は私のものではないと述べたのではない。John Locke をはじめとする論者の論に対する基本的な批判は、それが正しい理由を言っているかのように見えて、実はその理由を述べていないことに対するものだった。
  「自由の平等・1」〔2001-2002(1)〕では、さらに自由の尊重から平等を批判する論を取り上げ批判した。Robert Nozick の初期の著作等、リバタリアニズムの主張が考察の対象となった。それは、自由と介入とを対比し、国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入であるとし、これを排すべきだと主張する。これに反論する側は、自由に平等を対置し、平等が大切だと、あるいは自由も大切だが平等も大切だと言う。しかしこれらの主張は当たらず、対立の図式自体も間違っている。
  同じ根拠から彼らの主張を否定することができる。得られることはよい。それは生きられるのがよいことの一部であり、そのことによって自由に生きていける。しかし私有派の規則では、できないからとれない人にはその自由は及ばない。自由がよいものなら、それは誰にもあってよいものである。自由が普遍的に、つまり誰にでも認められるなら、分配が支持される。だから自由を主張するなら、自由のための分配を主張する立場の方が一貫している。そしてこの論に対する批判、例えば積極的自由と消極的自由の混同といった批判は無効である。
  自由によって分配を否定する側の問題は、自由の分配問題とでも呼ぶべき問題から逃れることはできないにもかかわらず、この問題がないかのように振舞うことにある。その人たちは、納税は強制であり、その税は自らの労働の果実の一部なのだから、徴税とは強制労働に他ならないとする。この指摘自体はもちろん間違いではない。間違いは、自らが支持する制度の側には強制が不在であるかのように考えてしまうことである。
  もう一つ、自由という条件を満たした(それ以外の条件を外した)ゲームを行ない、どのような状態が現われるかを見ようという型の論がある。ゲームの初期条件とゲームの過程が正当であるなら、そこで決まった状態が、どんな状態に落ち着くにせよ、正当な状態と考えればよいのではないか。しかし第一に、ゲームの出発点、過程、そして結果が特定されそうにない。第二に、条件を特定すればある範囲の答が出る可能性はあるが、その条件が妥当なものだとは思われないし、生産物の私有という答に行き着く条件は限られている。第三の、より基本的な問題は正当性の問題である。かりにある状態に収束するとして、その状態が正当な状態であるのは、その状態をもたらしたものに正当性が付与されている場合だ。だが、検討してみると正当であることが説明されていない。
  さらに、他人に迷惑をかけない限りの行ないは自由であるという主張があるが、この主張が当たらないことを述べた。ほかに生産物は生産者の一部としてあることを指摘する主張、努力や苦労に応じて報いられるべきであることを言う主張、寄与・貢献に対する報いがあってよいとする主張を検討し、その一部を受け入れるとともに、それが私有派を支持することにならないことを述べた。

  2 価値について
  2)その人の生産(を行なうことのできる能力)がその人の価値を示すという価値について〔1997:223-228〕(『私的所有論』第6章2節)で検討した。この価値があることは、できる人が、作りだし、それをその人が受け取れるという1)の規範があることとは別のことである。ただ実際には、この規則とこの価値とが組み合わさって近代の社会は動いてきた。たんに暮らすために働くのなら、生活するのに足りるだけ働いたらそれで終わる。だがそれが人の価値を表示するということになると、自らの価値はたくさんあるにこしたことがないから、生産と生産のための努力はその必要を越えていく。それは生産と消費を増大させる。またこの価値が1)の規則を支持する働きもある。
  第一に、その歴史性と作為性を指摘した。そのあり方が普通であるわけではなく、歴史的に仕掛けられたものと捉えられることを述べた。そしてこの仕掛けがもうあまり効かなくなっている部分のあることを述べた(このことについては〔2001b〕)。むろん、この指摘自体はその価値を否定するものではない。歴史性あるいは作為性を明らかにすることはそれ自体として、その歴史的であり作為的であるものを棄却すべきことを意味しないからである。
  しかし第二に、存在とそのための手段との関係について。手段は生きて暮らしていくための手段なのであり、それが存在を凌駕することは、自明に、ありえない。しかし手段の生産によって存在の価値が示されるとは、この関係が転倒してしまっているということであり、存在が肯定されるならそれは否定される。そしてそれは一人一人に負荷をかける。できないことについての否定、できるようになるための負担が大きくなってしまう。
  さらにそれは、できることに関わる羨望と負け惜しみを誘う。それもまた自身に対する負荷となり他者への加害となる。ならばこの価値を拒否すればよい。ところが羨望や嫉妬やルサンチマンという語を使ってなされる社会的分配に対する非難がある。「自由の平等・2」〔2001-2002(2)〕では、F. A. Hayek 等の著作に見られるこの種の論を検討し、それらが当たらないこと、怨恨を持ち出して分配を批判する側の方がむしろ怨恨の圏域に内属していること、羨望や負け惜しみを減らそうと思うなら分配派に付いた方がよいことを述べた。その後、さらに言われうることを検討した。他の人の不幸を望み喜ぶこととして羨望や嫉妬は批判される。それが望ましくないものであることに同意するが、しかし社会的分配についてはその批判が当たらないこと、次に、人間が各々独自の存在であり多様な価値をもつ存在であることを平等主義が破壊するという主張も当たらないことを確認した。

II 根拠と可能性の条件

  1 根拠について
  では必要に応じた分配の積極的な根拠はどこにあるのか。『私的所有論』と「自由の平等・3」で検討し、「社会的分配の理由」〔2002b〕でいくつか補足した。
  これは根拠を問いそれに応えるとはどんなことであるのかについて考えることでもある。問いの設定によっては、この問いに対する答の試みは行き止まるか、終わらない。答を出しようのない条件を設定して、答がないとしても意味はない。行なうのは、Iの1でとりあげたゲーム論的あるいは社会契約論的な議論にあった問題を意識しながら、ありうる初期条件から社会状態が導出されること、したがって後者に現実性があることを言うことである。初期条件から出発して規範を導き出そうとするとき、初期条件の現実性が問題にされる。また両者が離れていれば論理の飛躍が指摘され、近ければ同語反復に過ぎないとされる。同時に、もう一つ、政治権力を背景として人々への強制として徴収と分配を行なうことに関わる問題がある。強制はなぜ正当化されるのか。また、人々が支持するなら強制は不要ではないか。自らが好まないゆえに強制されるなら、強制に同意するとは不思議なことではないか。これらの疑問に応える必要がある。
  大きく、普通に使われる語を使えばひとまず「利他」「利己」と分けることのできる二つの契機があり、この各々から考える。
  一つ、『私的所有論』第4章、そして「自由の平等・3」の一部で、他者の存在を認めることから、分配は支持されると述べた。私の存在のために、私の存在の承認のために他者を要するというのではなく、ただ他者の存在が快であることがあることを述べた。そして、いくつかの主題について考えていくと、意外にもこのような他者に対する態度は強いものとしてあること、私たちの生にとって基底的なものであることがわかる。
  一つ、私の存在、存在の自由を大切だと考えるという前提からどこまでのことが言えるかを検討した。「社会的分配の理由」で考察を補充した。三つがあるとした。第一に、私のために必要なものを要求する私に発する主張から自分が作ったものは渡さない規則の支持には必ずしも行かない。むしろこの規則のもとで多くを受け取れない多くの人によって分配の規則が支持される可能性はある。第二に、自らの状態を知らないという条件を付加するとその支持はさらに強まるかもしれない。「無知のヴェイル」を持ち出すJohn Rawlsの議論をそのように解釈することもできる。しかしそこには限界がある。分配の普遍性に至らず、そして権利性すなわち義務性が導かれないのである。
  第三のもの、私の存在が否定されないことを求めることから、分配が支持される。それは、手段=能力を私がどれだけもっているかとは別に、私が生きていたいということであり、またそのような水準で私の存在を承認してほしいということである。そう思うにあたっては、贈与を要する事態がわが身に現実に生ずることを必ずしも要するわけではない。ここでは必ずしも物質的に利得を得ず供出することになる側の人たちも分配に賛成する側にまわる可能性がある。そしてこの私の個別性からの主張は、各々がもつ属性や能力と別に自らを認めよという主張なのだから、普遍的な主張になり、また、他者に自らの存在を承認する義務を履行せよという請求となる。
  こうして二つの双方が存在と存在の自由のための分配の規則を支持する。私がただ私であるというだけの存在を望み、人が人であるだけで存在していることはよいことだと思っている。それらは、私たちのありようの相当に基本的なところに発するもので、格別の心情を要する困難な主張ではない。

  2 業績原理の部分的な採用
  このことは分配に対する反対がなくなることを意味しない。(分配に応ずるためにより多く)働くこと自体は面倒なことでもある。私はこの世界の方が確実に得をするから分配は不要だと思う。だから難しさは残る。だがその反対は、自らが自由であるための資源を手元により多く残しておこう、負担を減らそうという、それ自体は健康的な心性、それにもとづく計算から来る。それは私たちが支持するものを基本的に否定するものではない。
  まず、こうしたあり方を前提したとき、どの程度か、生産に応じた分配が生産の維持、社会運営の手段としては必要とされることになる。機能主義的・帰結主義的な私的所有の正当化論が言うことはつまりはこういうことだと『私的所有論』第2章3節他で述べた。ただ私たちは、あくまでこの機構を、部分的なもの、手段的なものとして認める。(もう一つ、労苦には報いてもよいという感覚も、ある程度はこれを支持する。)むろん、私有を正当化しようとする人たちにとっても、この論点だけが残るとなれば、その時点ですでに私有の原理は絶対的なものではありえないのである。
  以上から、社会的分配だけで暮らす人が得られるものは「最低限」になってしまう。これは大きな制約ではある。ただ、社会的分配のあり方を制約するのは、人々の利害、損得に関わる函数であり、またそれだけであることを確認しておく意味はある。分配を制約する条件は実はこれだけしかなく、この条件を満たす限りでの分配は可能だと言える。
  次に、分配を支持する契機と回避したいと思う契機、この二つの契機の並存を前提にしたとき、強制の必要性もまた現われてくる。相反する二つの望みが並立してあって一方が他方を打ち消すことがないとき、それでも基本的にはその一方をとろうとするなら、それを確保し他方を抑制するために、自らへの強制に自らが同意することがある。いやおうなく一つを選ぶしかないなら、それは必ずしも必要でないかもしれないのだが、私は他の人々に負担を委ねることによって両方を得ることもできる。他の人たちが負担を担う限り、自らは負担せずに自らと他者との存在が肯定される。つまり「ただ乗り」をすることができる。それを否定しようとし、しかしそのままにしておけばそうなってしまうから、それを自らに禁ずることにする。これが、贈与・供出への支持には自発性を要するはずであり、自発性が存在するなら強制は過剰であり不要ではないかという問いに対する答でもある。

  3 資源よりむしろ国境が制約する
  とくにこの国で語られるのは正当性の問題ではなく「財政」の問題である。分配の必要条件であり制約条件であるとされる資源と生産について、そしてそれらと国境との関わりについて「選好・生産・国境」〔2000a〕で考えた。資源が分配を制約すると、例えば、少子化・高齢化でこのままの福祉を続けていけば財政が破綻すると言う。それに多くの誤解、間違いがあることを述べた。
  まず非常に単純な誤解がある。同じものをどのように分割しても総量は同じでしかない。こんなことで間違えるはずはないと思うのだが、家族によって無償でなされていることを有償にすることを巡る議論にはこの間違いがある。なされてきたことを社会的な負担のもとに置くこと、有償化し、社会化することそれ自体は負担の総量の増大を意味しない。次に、負担が増える場合にも負担と利得とが相伴って増える。その限りでは、負担という根拠によって社会的分配への賛否を言うことはできない。
  両者について考えていくと、第一に、負担の総量の増加ではなく、負担と利益の各人への配置が変わることへの抵抗が分配への反対をもたらしていることがわかる。つまり、分配前より受け取りが少なく負担が大きくなる人たちがそれを避けたがっているという単純な事情が働いているだけなのである。
  第二に、分配が生産の増大に結びつかない場合には、生産の増大に結びつく部分が優先されることによって分配が排されることがある。つまり、生産は分配にとって少なくともその時点では阻害要因であることがある。成長をもたらす部門に集中的に労働と財が投下され、単に生活を維持するための活動が切り詰められることがある。しかし、少なくとも生産と消費の水準が一定に達した地域において、生産とともになされなくてはならない労働、また世界から失われ世界に排出されるものを考えたとき、全般を一緒に括ったものとしての成長が必要がないと考える人がいるなら、その人にも強制し加担させて生産全般を増やそうとする政策的介入は正当化されないし、不要なものと考えられる。また、生産する人間の数を増やそうとする政策もまた肯定されることはない。成長や人間の増加から利益を得るがゆえにそれを望む勢力も存在するが、少なくともそれが政策として実現されてはならないと言いうる。
  こうして、分配を制約するのは、負担を回避し利益を維持したい人、成長から多くの利得を得られる人の利害なのだが、第三には、国家が分立し国境が存在することが分配を十分に行なえないようにしている。分配を制約する要因として残るのが半透膜のように機能する国境の存在である。一つに国境間の移動によって負担を逃れられることが分配を困難にする。一つに国家間の格差を維持しようとする力が働く中で開発、成長が優先されてしまうことによって分配が困難になる。その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。とするととるべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。むろんそれは困難だが、財の流れがしかるべく整序されれば、分配の問題への対処に限れば、世界大の徴収・分配域が形成されるのと同様の効果をもたらすことはできる。

III 機構の構想/に残る課題

  1 分配する最小国家?
  こうして分配を肯定し、その範域が拡大されるべきことを主張するのだが、しかしそのことは、政治の領域が行なっていること全般を肯定することではない。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行なっているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。経済学では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。公共財とは個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。また、「とれない」場合には、技術がそれを変化させる可能性もある。次に「とるべきでない」と言えるもの、費用を強制的に徴収すべきものがどれだけあるか。なにかがなされてよいことであることと、それに強制力が用いられるべきであることとは同じでない。これらを考えていくと、むしろ政府の行なうべきことは少なくなるはずである。「分配する最小国家」〔1998〕という言葉を使ったことがある。それが本当に望ましいのか。それはこれから考えてみたいと思うが、しかし考える上での一つの準拠点にはなる。(全面的に肯定できないとすればそれは「パターナリズム」を肯定すべきである、肯定せざるをえない部分があるということでもある。「パターナリズムについて」〔2002a〕にこれまで記したことをまとめた。ただその上でも、国家がすることは少なくなるはずだと私は考えている。)

  2 基準について
  そして分配をどのように行なうか。この具体的な課題にも考えるべき多くの論点があるのだが、論理として詰められていないと思う。
  生産できるものに差がなければ分配の必要もない。違いがあるから分配が要請される。その異なりは人と人の間にあり、また人々が住まう場所、環境の間にある。その違いにどのように対応するか。この主題に関連し、「自由の平等・4」〔2001-2002(4)〕では、効用、満足度を基準にすると、わずかを得るだけで満足していると語るつつましい人や反対に贅沢な人がいるから本人の評価を基準に使うべきでないという主張を検討した。また機会と結果とを分け、環境に起因する部分を取り出し、その部分の平等を主張するとともに、それ以外については自己責任の領域とする主張を検討した。Amartya SenやJohn E. Roemer等の所論が対象となった。これらはいずれもリベラルな立場から分配を擁護する側の議論なのだが、それはIに述べた分配の立場と完全に同じなのではない。批判されるべき部分もあると考える。
  その検討の内容はここでは紹介しないが、問題は、私たちの立場から見れば、分配の基本的な位置づけ、基本的な立場とやむなく必要とされる部分との関係の把握に起因する。私たちは基本的に分配を肯定し、その上で、仕方なく生産を促す手段の採用を肯定するのだが、分配派にも、そのようには考えず、主体/環境、選択/所与といった図式から離れられず、結果として自らに無理な制約を置いてしまうことがある。
  比較し、順位をつけることの意味について慎重に考える必要がある。一方で比較し順位をつけることをつとめて避けて議論を組み立てようとする流れがあるのだが、他方にはひどく単純に比較し序列化することがなされることがある。どちらも間違っていると考える。
  違いに対応することと、違いを測定しそれに応じた基準を設定することとは別のことである。基準、上限の設定は、一つに、生産はたしかに一方では労苦でもあるから、また生産し消費し廃棄することにともなう好ましくないことも多々あるから、設定される。一つに、労なくして得られるのであれば多く得ようとすることに対応する必要から、やむなく行なわれる。むろんそれが過剰な介入につながるという懸念はある。だが一つだけここで確認しておくべきは、比較を回避した社会がより大きな自由を実現するわけではないということである。
  他方で、比較や基準の設定を行なう必要がない場合もある。またIIの3にあげた条件を調節することによって分配への制約要因を弱めることができれば、その必要は少なくなる。だから「ニーズ」の査定はつねに必要なのではなく、その人が必要と思うだけを受け取ること、その分を分配することが可能な場合もある。

  3 分配の機構
  政治が何をするかしないかにも関わり、またどれだけを供給するかその基準の設定の問題にも関わり、どのように分配を実現するかという方法・機構を巡る問題がある。このことについても十分な議論がなされてきているようには、私には思われない。
  一つに、税を用いて必要なものを用意し、それを無料で供給するという手段がある。費用を払わなくてすむから、個々人の手持ちにかかわらず利用できる。一人一人について測って各々別々に分配する必要がない。しかしこれは、その利用が膨張するのを防ぐことが難しい。また、何に使うかについて個々人が決定することができない。税を使える用途は有限だから、ここには選択が当然入ってくる。これは何が社会的に供給されるかが政治的に決定されているということである。とすると、何をして暮らすかは一人一人が決めることだという考え方からは肯定されない支出が見出されもするだろう。
  では、個人に対して供給し、それを何に使うかは個人が決めればよいではないか。世界の財を人数分で均等に割ってしまう。その限りでは政府のすることは、徴税と、それを足して割って、それぞれに渡すことだけになる。ここでは政治は積極的な目的をもつことがなくなる。何を得て暮らすかは個々人が決め、営利・非営利の様々な供給組織から選んで利用する。これを支持するいくつかの理由がある。(「福祉多元主義」をめぐる議論では、この直接的な供給主体の多元性と供給の責任主体の多元性とを区別せずに論じられることがある。区別すべきことを「多元性という曖昧なもの」〔2000b〕で述べた。)
  しかし、同じだけを得ようとしても、その人が置かれている状況やその人の身体の差などによって、必要なものが異なる。その差に対応する必要がある。とするとどうするか。このようなことから、基準や優先順位の問題は結局は残ることになり考えなくてはならないことになる。一人一人にその人の生き方をゆだねればよいという線を維持しながら、しかしそれではすまない部分に踏み込んでいかざるをえない。例えば地域間の格差がある。実際、都会との格差の存在が、この国の「公共事業」の現実性を維持してきた。しかし、このままではよくはないとするとどう考えたらよいか。また国際援助もその多くは事業に対するものであり、目的を定めたものだった。もっと直接的な分配の方が望ましくないのか。これらを考えることにも関わってくる。

  4 生産財の分配
  分配には、いったん市場での価格設定を認めた上で、そこに生じ各人に帰属する財を分配するという手段だけがあるのではない。機会の平等/結果の平等という二分法を再考し、生産から消費に至る過程のどの部分に政治が介入することが正当化されるのかについて考える必要がある。
  一つには生産の場面である。まず生産財、とくに技術の所有について考える必要がある。「所有と流通の様式の変更」〔2001c〕という短文でこのことについて簡単に述べた。Iの私たちの立場からは、もちろん技術についても、開発者・生産者による独占的な所有権は認められない。開発者による利益の取得の部分的な許容、すなわち部分的な制限を行なってよいし、行なった方がよい。だが実際には、自由を認めるという言い方で独占が支持されることがある。さらにそれはたんに私的な主体によって行なわれているのではなく、そこに国家が介在し、より積極的に保護・育成したり、さらには国家自体がその主体として活動している。それは一つに、IIの3にあげたこと、国家が国境を接して分立して存在し同時にその間で財や人の移動が存在することに由来する。その状況を前提すれば、競争に乗らざるをえず、科学技術の開発に予算を重点的に配分することによって「国際的地位」の確保をはかる。追い越されないよう気にかけ、「国際競争力の維持」のために金をかけるところにかけ、かけないところ――未来に利益を生み出さないだろうところ、例えば死んでいくだろう人々――にはかけない。このようにこの国を含む多くの国々ではことは進んでおり、他方こうした場に参入することを最初からほとんどあきらめるしかない国々があり、人々がいる。この設定を受け入れるべきかどうかが考えられるべきことである。私は受け入れない方向を基本的にはとるべきだと考える。

  5 労働の分割
  人の配置原理としての能力主義を肯定することは〔1997,pp.340ff.〕等でも述べた。ただこのことは、雇用・労働の場をそのままにしておいて、ただ分配を付加するという方法が最善であることを意味しない。労働市場、雇用に対する介入の正当性について考え、そのあり方を考える必要がある。こちらの方が選択される理由は何か。
  第一に、IIの2に述べたことだが、分配だけで暮らす人の得られるものの水準が最低限になってしまう。第二に、労働・生産の場に参画することの、その当人にとっての意義がある。「できない・と・はたらけない」〔2001c〕でも以上を述べた。
  第三に、労働に就かない(就けない)人に所得の保障だけで対応するより、労働を分割し、分配した方が適切である。この社会は生産・消費の総量を増加させることによって雇用を確保しようとしてきた。しかし、とくにこの社会にあってこの方法が妥当であると考えられない。失業があることは、少なくともこの社会においては、社会に全体として生産物がまずまず存在し、ゆえにこれ以上働かなくてもよい状態にあるということであり、基本的に好ましい状態である。そこで、労働市場自体はそのままにしておいて、対応を別に行なうという答が一つある。つまり失業者には所得保障で対応する。もう一つ、労働の分割、分配がある。前者を肯定するその前提となる分配派の立場に立つなら後者もまた肯定され、第一・第二の理由からも、またより効率的でもあるから支持され、政策としてそれを行なう正当性も得られる。

  6 残されること
  分配を基本的に否定する立場と別に、問題を分配の問題として語ることに懐疑的な立場がある。分配を語ることが楽観的であると、あるいは現実とその問題を看過していると感じられる。それはどのようなものか。またそれにどのように応ずることができるか。
  批判の一つは、福祉「国家」と言い、成員を「国民」に事実上限ってしまうことに向けられるだろう。これに対しては応えた。むしろ、成員を、また分配の範域を限っていることによって分配は、したがって生存は困難になっており、その範囲を拡大すべきことを述べた。
  もう一つは、逆からの指摘とも言える。人は具体的な関係の中で共感し同情する。そうしたあり方を捨象し、空想を語っているのではないかと言う。だが、わからないではないこの指摘も距離を抽象してしまってはいないか。むしろ現実は、距離と関係とは反比例するといった単純なものではないのではないかと「自由の平等・3」で述べた。
  さらに基本的な疑念は、分配だけで問題が解決されると考えているように受け取られることから来るのだろうか。だがそのようには考えていない。譲渡されてならないものがあることを認める。
  分配を語ることですべてが語られるのではない。私たちは問題の生じない世界を夢想するのでもないし、またそのような世界をよしとするのでもない。一つには回復されることのない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。一つには、やはり徴収し分配することができない関係、そのような関係の中にある例えば愛情といったものをどう考えるか。また、帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これらについて考えることが残されていることを認める。
  ただ、譲渡したくないものを譲渡せずにすむように、分配が要請されるのだとは言える。『私的所有論』で述べたのはこのことである。存在のための分配という主張がすでにこのことを言っている。存在は代替されないし、交換されない。(だから例えば身体の「不可侵」を持ち出して、分配を批判する議論は、私たちの立論には妥当しない。このことは「自由の平等・1」で述べた。)その上で、一人一人のあり方を認めることと分配のあり方とはどのように関わるのかといった問題はさらに残る。だから、分配を考えるためにも、分配されないものについて考える必要があるのである。

文献表

立岩 真也  1997 『私的所有論』勁草書房
―――――  1998 「分配する最小国家の可能性について」『社会学評論』49-3(195):426-445(日本社会学会)
―――――  2000a 「選好・生産・国境――分配の制約について」『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149
―――――  2000b 「多元性という曖昧なもの」『社会政策研究』1:118-139(『社会政策研究』編集委員会,発売:東信堂)
―――――  2001a 「停滞する資本主義のために――の準備」栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』(越境する知・5)東京大学出版会
―――――  2001b 「所有と流通の様式の変更」『科学』71-12(2001-12 832):1543-1546
―――――  2001c 「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」『季刊社会保障研究』37-3:208-217
―――――  2001-2002 「自由の平等」,『思想』[→2004 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』
―――――  2002a 「パターナリズムについて――覚え書き」『法社会学』(日本法社会学会)
―――――  2002b 「社会的分配の理由」齋藤純一編『社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房

For Distributive Justice

【了:20020703】


UP:2002
立岩 真也
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