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分配的正義について

―問うことと残されるもの―

立岩真也(立命館大学政策科学部教授)
20020712 2002年度第4回・公共研究会
→20020910 『公共研会報』4:1-8(衣笠総合研究機構プロジェクト)



 *文中のリンクは今後追加します(20020902)。
 *『公共研会報』には質疑応答の部分は掲載されていません。

  立岩と申します。この4月に立命館大学にやってまいりました。現在は政策科学部にいますが、来年度以降は、来年4月に開学予定の大学院・先端総合学術研究科の「公共」の分野で仕事をすることになると思います。
  今回使うのは、国立社会保障・人口問題所から出ている雑誌『季刊社会保障研究』第38巻第2号の特集「福祉国家の規範理論」に書いた「分配的正義論――要約と課題」という文章です。9月に出る予定で、この特集は、研究所のプロジェクトが3年くらいあり、その参加者が書いたものです。
  他に配布するのは、私が書いたり話したりしたもののリスト。それから、昨年1月の『朝日新聞』の「論壇」の欄で「21世紀の入り口に」というシリーズがあったその最終回に掲載された「つよくなくてもやっていける」。私の基本的なスタンスをわかりやすく書いています。そして藤原書店の雑誌『環』9号(2002年4月)の特集「21世紀、日本のグランドデザイン」に書いた「分配の再編」も資料としてお配りしています。
  今日は時間的な制約で、命題はいろいろ列挙しますが、なぜそう言えるのか、その説明はできないだろうと思います。相手のロジックに飛躍があるとか指摘し批判し、自らとしてはなにをどんな根拠で主張できるか、またこちらに対する批判をどのように反批判するかといったところが勝負どころであり、仕事の内実なのですが、ここではそれを説明することはできず、たんにこういうことをやっていますという話をさせていただこうと思います。
  私は1997年に『私的所有論』(勁草書房)を出してもらい、その後2000年にもう1冊『弱くある自由へ』(青土社)という本を出してもらっています。前者にまず私が言おうと思ったことが書かれています。この本は書評等でバイオエシックス(bioethics)、生命倫理の主題を論じた本だと紹介されたり論じられたりしました。それはそれで当たってはいて、たしかにそういう主題に紙数も費やしていますが、ただ基本は、題名の通り「所有」についての考察です。そして今の仕事は、そのときに考え書いたことを引き継ぎながら足りないところを補いながら、先に進めていこうという仕事です。
  言いたいことは、煎じ詰めれば、ただ「働ける人が働き、必要な人が取る」ということです。この主張自体はまったく単純なものであり、そして少しも新しいものではありません。ただそこをもう少しきちんと考えてよいのではないかと思っています。存在の自由のための分配を主張し、またその上で考えるべきことを考えようとしてきたということになります。すでにやってきた仕事は『私的所有論』と、2001年に『思想』に書いた論文「自由の平等」1〜4で、5はまだ書いてなくて、昨年11月以来止まっています。90枚の原稿を4回書いたので360枚ほどあります。あと、最初『現代思想』に4回掲載したものを『弱くある自由へ』の第7章として再録した「遠離・遭遇――介助について」は介助・介護という主題に即して書いたものですが、関係があります。
  この「分配的正義論――要約と課題」はこうして書いてきたことを要約し、やっていないことを列挙しているにすぎず、また分量も30枚くらいで短いものなのですが、ここで手短に私の仕事の概要をお話しするにはよいのではないかと思い、これを使うことにしました。(以下、この文章からの引用は<>で囲ってあります。節・項の設定も同じにしてあります。またhttp://www.arsvi.com→「立岩」から全文をご覧いただけます。)
  全体は3節に分かれていて、第1節と第2節で別の立場に対する批判を行うとともに自らの基本的な立場を要約しています。まず、私が主張していることと違うことを言う人がいるので、その人たちが言っていることを検討し批判する必要があります。それは同時に自分の主張にいささかの説得力を持たせることでもあります。またそれを引き継いで具体的に所有・分配のメカニズム、機構まで議論を進めていくことになります。第3節ではさらに考えなければいけないことを記しています。分配という捉え方によって何を問うことができ、何が問えないか、残されたものをさらにどう考えていくかという話になります。
  少しも奇抜なことをしたいわけではなく、また思弁を究めようというのでもありません。例えばそれは、政治がいま行っていること、行っていないことをどう評価するかという主題につながるものだと考えます。それは様々にすでに論じられているではないかと言われるかもしれないのですが、私にはそうも思えないないのです。より政策の現場に近い学問は、まずその記述に専心することになります。もちろんそれだけでもなくて、その現状を判断もします。規範的な評価を下すわけです。しかし規範的な言明を行う根拠が必ずしも明らかではないことがあるように思います。他方に、根拠を問題にする学としては哲学や倫理学といったものがある。ただ政治哲学、法哲学も含めて、具体的なそして基本的な主題を論ずるところまで来てくれていないのではないかと思うことがあります。いずれも残念なことで、きちんと考えれば理論的に詰められるべき論点は現実の社会に山のようにあると思っています。実学的なものと理論的なものとの棲み分けの中でうまく対象化されておらず論じられていない部分がずいぶんとあるのではないかという気持ちを持っていて、そこを私はやりたいなと思っています。

I 批判

  1 規則について
  この社会には所有をめぐる規則と価値、二つのものがあると考えます。規則は<生産した者が生産物を(あるいは生産に応じて)受け取れるという規則>です。それを正義とし、必要に応じた分配は、仮に認めるとしても、あくまで付加的なものとして、そこに生ずる問題を緩和するものとしてしか認めない立場があります。そしてそれも認めない立場もあります。価値は<その人の生産(を行なうことのできる能力)がその人の価値を示すという価値です。この規則と価値が合わさって近代社会ができている。むろんそれだけではないですが、これらが大きな部品としてあるだろうと考えます。それを正当とする考え方を検討して、批判すべきものを批判しようとします。
  まず私的所有の規則を批判する作業を『私的所有論』第2章、8章で行っています。この規則を正しいとする主張は、ジョン・ロック、カントの初期、ヘーゲル、そして現代では、今年亡くなりましたがロバート・ノージック(Robert Nozick)の初期の著作『アナーキー・国家・ユートピア』 で表明されているリバタリアン(libertarian)の主張としてあります。それを批判しようというのが一つの課題であり、議論の中身です。どう批判したかは今日は紹介しませんが、いくつかの論点があります。簡単に言うと、ロックは、私の身体は私のもの、私の身体からできたものであるがゆえに私のものである、とします。それに対して私は、私の身体は私のものではない、だから私の身体によってつくられたものは私のものではない、という言い方をしているわけでは実は、ないのです。私が言っていることは、もっと単純なことで、「私が作った」という事実と、それを「私が取れる」という規範的な命題、その二つの間には必然的なつながりはなく、その二つのつながりについて説得的な根拠が実は提出されていないという話につきます。我々の社会が乗っている規則を正当化するとされる言説が、実はそれを正当化していないと言っているのです。
  さらに、それだけ言っても人はなかなか納得してくれないことがあるので、「自由の平等・1」(『思想』922号、2001年3月)で議論を付け足すことをしてみようとやってみています。<Robert Nozick の初期の著作等、リバタリアニズムの主張が考察の対象となった。それは、自由と介入とを対比し、国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入であるとし、これを排すべきだと主張する。これに反論する側は、自由に平等を対置し、平等が大切だと、あるいは自由も大切だが平等も大切だと言う。しかしこれらの主張は当たらず、対立の図式自体も間違っている。>
  これは、議論で相手に対抗するには相手の土俵に乗ってしまえばよい、向うが認めるはずの前提から議論をすればよいということでもあります。自由を尊重するということから分配が導出されるはずである。であるはずなのにそれを否定するのは、どこか論理が間違っているのではないかという話になります。結論を言えば<同じ根拠から彼らの主張を否定することができる。得られることはよい。それは生きられるのがよいことの一部であり、そのことによって自由に生きていける。しかし私有派の規則では、できないからとれない人にはその自由は及ばない。自由がよいものなら、それは誰にもあってよいものである。自由が普遍的に、つまり誰にでも認められるなら、分配が支持される。だから自由を主張するなら、自由のための分配を主張する立場の方が一貫している。>言えばこれだけの話なんです。議論はもう少し複雑になっていますが。
  こういうことを言うと、積極的自由と消極的自由を混同していると反論されるのかもしれないのですが、それは言えないだろうと考えています。リバタリアニズムにも錯誤がある、それは大まかに言えばこう言えるのではないか。<自由によって分配を否定する側の問題は、自由の分配問題とでも呼ぶべき問題から逃れることはできないにもかかわらず、この問題がないかのように振舞うことにある。その人たちは、納税は強制であり、その税は自らの労働の果実の一部なのだから、徴税とは強制労働に他ならないとする。この指摘自体はもちろん間違いではない。間違いは、自らが支持する制度の側には強制が不在であるかのように考えてしまうことである。>
  もう一つ、ある種の契約論、ゲーム論的な論を立てる立場があります。人間のあり方を想定し、そこにいつくかの条件を加え、そこに構成される社会状態をよしとするというタイプの議論です。それにも問題がある。実はそれが全然うまくいっていないということをいくつか述べて、それをもって批判することを次にやってみました。
  さらに付加的にいくつかの論点があります。<他人に迷惑をかけない限りの行いは自由であるという主張があるが、この主張が当たらないことを述べた。ほかに生産物は生産者の一部としてあることを指摘する主張、努力や苦労に応じて報いられるべきであることを言う主張、寄与・貢献に対する報いがあってよいとする主張を検討し、その一部を受け入れるとともに、それが私有派を支持することにならないことを述べた。>
  これが原稿用紙3枚で書きなさいと言われたときの、私の所有の規則の批判、その規則を正当化する議論に対する批判の要点ということになります。本当かどうかは書いたものを見ていただいて、ここが嘘でしょうと言っていただければ、考え直してみたいと思います。

  2 価値について
  もう一つ、価値について。その人が生産を行う能力がその人の価値を示すという価値について。これについては『私的所有論』第6章第2節の「主体化」のところで書いています。「主体化」という言葉はフーコー(Michel Foucault)が使った言葉ですが、マックス・ウェーバー(Max Weber)が『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に書いていることでもあります。この価値があるということは、できる人が作りだし、それをその人が受け取るという規則があることとは論理的には別のことです。ただ実際には、この規則とこの価値が組み合わさって近代社会が動いてきた。単に暮らすために働くなら、1の規則のもとでも、生活するに足りるだけ働いたらそれでおしまいになる、働いて得て使って、それでおしまいということになります。しかし生産と生産物に、また生産できる能力にそれ以上の価値が付与されるなら、その人の価値を示すという価値が付与されるなら違ってきます。生産はすなわちその人の価値を示すわけですから、より多くというドライブがかかります。この二つが組み合わさると、それが拡大的生産を生み出す、そういう方向に働く。それをどう見るかという問題です。
  <第一に、その歴史性と作為性を指摘した。そのあり方が普通であるわけではなく、歴史的に仕掛けられたものと捉えられることを述べた。そしてこの仕掛けがもうあまり効かなくなっている部分のあることを述べた。>2001年に東大出版会から出た「越境する知」というシリーズの第5巻『文化の市場:交通する』に入っている「停滞する資本主義のために――の準備」の中でもそのことを書いています。
  <むろんこの指摘自体はその価値を否定するものではない。歴史性・作為性を明らかにすることは、それ自体として、歴史的であり、作為的であるものを棄却することを意味しない。>すこし補足すると、社会批判をする場合、ある事態の歴史性・作為性を指摘することをもって批判するというタイプの議論を長らくやってきたように思います。しかし<歴史性あるいは作為性を明らかにすることはそれ自体として、その歴史的であり作為的であるものを棄却すべきことを意味しない>。だからさらにもう一言言わないとまずいわけですよ。そういう議論を、1980年代、90年代、私が今やりたいと思っているような議論が流行らなかった時代、我々はきちんと行ってこなかったのではないか。あの時期は歴史学と人類学の時代だったと思っています。もちろんこれらはどちらも重要な貢献をしたのですが、しかしながらそれが行ったことは、ある事象を地理的に時代的に相対的であることを指摘することに止まっていた、とだけ言うつもりはありませんが、さらに考えるべきものが残っていた。それを今、考え継ぐことが重要ではないかと私は思っています。そういう背景があってこの部分を書いています。
  <第二に、存在とそのための手段との関係について。>全く言わずもがなのことですが、<手段は生きて暮らしていくための手段なのであり、それが存在を凌駕することは、自明に、ありえない。しかし手段の生産によって存在の価値が示されるとは、この関係が転倒してしまっているということであり、存在が肯定されるならそれは否定される。そしてそれは一人一人に負荷をかける。できないことについての否定、できるようになるための負担が大きくなってしまう。さらにそれは、できることに関わる羨望と負け惜しみを誘う。それもまた自身に対する負荷となり他者への加害となる。ならばこの価値を拒否すればよい。>
  なぜこんな当たり前のことをわざわざ言っているかというと、一つには、<羨望や嫉妬やルサンチマンという語を使ってなされる社会的分配に対する非難がある>からです。このことについて「自由の平等・2」(『思想』924号、2001年5月)で書いています。ノージックの本の中にもそういう箇所があります。ハイエク(F. A. Hayek)の議論の中にもそれを非難している部分がある。しかし私は直観的にそれは違うのではないかと思っていて、そこをきちんと言おうと、言い返そうと思い、<それらが当たらないこと、怨恨を持ち出して分配を批判する側の方がむしろ怨恨の圏域に内属していること、羨望や負け惜しみを減らそうと思うなら分配派に付いた方がよいことを述べた。その後、さらに言われうることを検討した。>そういうことになります。
  以上が批判の部分です。真っ向から対立する一派に対してどのように言うかということのあらましです。しかしその中身が問題になるわけで、そして、それがうまくいっているかどうかが問題になるわけですが、今日は話の中身には立ち入らないということです。どうせ嘘だろうと思ってほっておいてもいいし、興味があれば見ていただいて、嘘を探していただければよいのではないかと思います。

II 根拠と可能性の条件

  1 根拠について
  第2節第1項が「根拠について」です。問いは、必要に応じた積極的な分配の根拠はどこにあるかという問いです。『私的所有論』と「自由の平等・3」でこのことについて考え、「社会的分配の理由」でいくつかを補足しました。「社会的分配の理由」は、まだ出ていませんが、ミネルヴァ書房から5冊出る「シリーズ福祉国家のゆくえ」の最終巻が『社会的連帯の理由』で、横浜国立大学の齋藤純一さんが編者です。齋藤さん、この秋に北海道大学に移る政策科学部の宮本太郎さん、私、前回この研究会で報告なさった後藤玲子さんなども書いています。
  これは規範の根拠、「なぜ?」という質問に対してどう答えるかという問題です。ただ根拠とはいったいなんなのかといった議論はひとまずすり抜けてしまい、やさしい話の方から行こうとしています。ただ、そう素直に「なんで?」という問いを立てても仕方のないところはあります。根拠について考えるとは、<根拠を問いそれに応えるとはどんなことであるのかについて考えることでもある。問いの設定によっては、この問いに対する答の試みは行き止まるか、終わらない。>そういうことです。解が出ないような条件を設定して、答えがないから根拠がない、と言っても意味がないことがあります。
  <行なうのは、Iの1でとりあげたゲーム論的あるいは社会契約論的な議論にあった問題を意識しながら、ありうる初期条件から社会状態が導出されること、したがって後者に現実性があることを言うことである。初期条件から出発して規範を導き出そうとするとき、初期条件の現実性が問題にされる。また両者が離れていれば論理の飛躍が指摘され、近ければ同語反復に過ぎないとされる。>つまり、AであるがゆえにBであると言うとき、実はAからBにつながらないことがある。所有の正当化の議論においてロックが失敗しているのはここです。他方で、AとBが、よく考えてみるほとんど同じことを言っていて、ただの繰り返しにしかなっていない場合もあります。その両極の間のちょうどよいところをうまくやっていかないといけないということがあったりします。
  そして具体的なテーマとして、ここで私が正当化しようとするのは、単なる分配ではなく政治権力を背景とした強制としての分配です。「私は贈与したくない、嫌だ」という人も含めて取ることの正当性を論じたいとなると難しさが一つ加わります。つまり、強制がなぜ正当化されるかという問題です。さらに民主制という政体において、規範は人々の支持を得られなければいけないとされます。とすると、「その規範に同意しているのであれば、同意している規範をわざわざ強制する必要はどこにあるのだ」、と難癖をつけられる可能性があります。同じことを別に言えば、人が嫌がるから強制するのだとして、その嫌だと思う人がなぜ嫌なことに同意するのかということです。そういう問題を考えなければいけないことになります。ここでは説明が不足ですが、問題の一端を感じとってくれればと思います。
  そして私が行なってみたのは、根拠を示す、分配を根拠づけるというよりは、「人間がこれこれの存在であるとすれば、社会的分配に賛成の一票を投じるということもありうるのではないか」というくらいのことを言えればよい、それなりの現実性があることを言えればよいというものです。相当にもっともと思われる人間のありようから社会的分配が導かれるかという問題です。
  それで私が考えてみたのは二筋の話です。「利己的な動機」「利他的な動機」というまったく平凡な二つが昔から持ち出されます。まずはこの図式に乗って、その一つずつについて考えていくことにしようということになります。
  『私的所有論』第4章のタイトルは「他者」で、「利他」か「利己」かと言われれば、どちらかと言えば「利他」に近いことを考えたのだろうと思います。そこでは他者の存在を人は認めたいのだということを書いています。そこから分配は支持される。<私の存在のために、私の存在の承認のために他者を要するというのではなく、ただ他者の存在が快であることがあることを述べた。そして、いくつかの主題について考えていくと、意外にもこのような他者に対する態度は強いものとしてあること、私たちの生にとって基底的なものであることがわかる。>いかにも怪しげな他者の肯定が、我々の強い欲望として存在すると言えば言えるのではないかということを言ってみました。
  そして「自由の平等・3」では、私が私を大切だというところから、私の存在の自由が大切だいう前提からどこまでのことが言えるかを考えてみました。それにさきに紹介した齋藤さん編の本に入る「社会的分配の理由」で、補遺のようなかたちて考察を補充しました。利己性から分配のところまで行けるか、行けないかという議論をやってみたということです。これは『私的所有論』には出ていない論点です。また前回の後藤玲子さんのロールズの話にも関係してきます。
  3つの段階と言いますか、を考えることができると思います。第一に、私のために必要なものを要求する。私に発する主張から、私は私が大切だから私は私が生きるためのものがほしいという私から、自分がつくったものは渡さないという近代的な所有の規則の支持に、実はロジカルには行かない。これはすこし考えれば明らかであることを言う。<むしろこの規則のもとで多くを受け取れない多くの人によって分配の規則が支持される可能性はある。>我々の所有の規則においては、少ししか作れない人は少ししか取れないのですから、「それでは嫌だ。それよりは皆で分けた方が僕はいい」と言う人がいたって不思議ではありません。そこまで、とりあえず言える。しかしその中には反対する人もいるでしょう。人によっては持ち出しになりますから、私有派の主張する規則の方がよいというという人もいる。それはどういうシステムをとるかによって、どちらが過半数をとるか、あるいは半々に割れるかはモデルによっていろいろです。けっこう拮抗するところまで行くけれど、場合によっては多数決で負けるかというところですね。
  第二は、ジョン・ロールズ(John Rawls)はこういうあたりにいると強引に解釈してもよいのではないかと思っているのですが、自らの状態を知らない、自らの将来を知らないという条件を付加した場合です。ロールズがもってくる「無知のベェール」というのはそういう仕掛けで、自分がこういう規則をとったら損することになるか、得することになるかについての自分に関する情報がないという条件が付与されます。自分がどれだけ仕事ができるかできないのかに関する情報を、あらかじめ隠しておくという工夫をする。しかしそこには限界があると考えるしかありません。<結果的に、このことは分配の普遍性に至らず、権利性、即ち分配に人は応じなければいけないという義務性の問題に導かれないことになる>。ここではあっさり書いていますが、この一文についても一つの論文が必要なくらいのところではあるのでしょう。
  もっと現実に即して言えば、介護保険が持ち出された時の議論はこんなものだったのだろうと思うのです。ロールズの言う「無知のベェール」は現実の記述ではないですが、しかし経験的にも私たちは将来についてかなりの程度無知ではあります。「明日何が起こるかわからない。歳をとったら介護を受ける状態になるかもしれないでしょう、皆さん。ですから皆で保険に入って、いざとなったら使いましょう」というのがあの時の謳い文句でした。これはなかなか説得力のある話でありまして、ですからある程度受けもしました。しかしこれが公的な保険である限り、自分の将来が不安だから朝日生命だとか日本生命だとかといった民間の保険に入るのと同じではありません。この謳い文句では、強制的に「俺の将来はどっちでもいいんだから入らない」という人まで引き入れることの正当性は言えないんですね。誰をも引き入れる普遍的な、強制力をもって参加させる制度にはならないのです。ではそういう難点をロールズの議論はクリアできているだろうか、クリアできていないかもしれない。そういうことを考えていただければよいのではないでしょうか。とすると、二つ目もけっこういいところまで行くのだけど、このあたりで止まってしまう。
  そこでもう一つ考えます。第三に、<私の存在が否定されないことを求めることから、分配が支持される。それは、手段=能力を私がどれだけもっているかとは別に、私が生きていたいということであり、またそのような水準で私の存在を承認してほしいということである。そう思うにあたっては、贈与を要する事態がわが身に現実に生ずることを必ずしも要するわけではない。ここでは必ずしも物質的に利得を得ず供出することになる側の人たちも分配に賛成する側にまわる可能性がある。そしてこの私の個別性からの主張は、各々がもつ属性や能力と別に自らを認めよという主張なのだから、普遍的な主張になり、また、他者に自らの存在を承認する義務を履行せよという請求となる。>
  つまり、私にとって私の存在は大切だという前提から、社会的分配が正当化されうるのではないかということです。それは、すべての人々に対して義務を課しその履行を求める要求であり、普遍性を有するものです。その議論がうまく言っているかどうか、これについても書いたものを読んでいただいて、ご批判をいただければと思います。
  このように、まず相手を批判するという仕事をし、次に自分たちの立場の根拠、というよりは立場が成立しうる現実性を言う、私たちがこのぐらいの存在であるとするとこの立場を肯定するだろう、受け入れるに吝かでないだろう、と言えるのではないだろうかと、そういう戦略で仕事をしているということになります。

  2 業績原理の部分的な採用
  こんなことを言った上で、しかし<このことは分配に対する反対がなくなることを意味しない。(分配に応ずるためにより多く)働くこと自体は面倒なことでもある。私はこの世界の方が確実に得をするから分配は不要だと思う。だから難しさは残る。だがその反対は、自らが自由であるための資源を手元により多く残しておこう、負担を減らそうという、それ自体は健康的な心性、それにもとづく計算から来る。それは私たちが支持するものを基本的に否定するものではない。まず、こうしたあり方を前提したとき、どの程度か、生産に応じた分配が生産の維持、社会運営の手段としては必要とされることになる。機能主義的・帰結主義的な私的所有の正当化論が言うことはつまりはこういうことだと『私的所有論』第2章3節他で述べた。>
  社会的不平等を機能主義的に正当化するというタイプの議論はずっと伝統的にあります。リバタリアニズムの帰結主義的な正当化という言い方が果たして成立するのかどうわかりませんが、別府のアジア太平洋大学(APU)で教員をされているデイヴィッド・アスキュー(David Askew)さんが、リバタリアンは自らの主張の根拠を示していない、結局その部分には帰結主義的な正当化が入ってくるのだということを書いてらっしゃいます(「倫理的リバタリアニズム」、有賀誠・伊藤恭彦・松井暁編『ポスト・リベラリズム――社会的規範理論への招待』、2000年、ナカニシヤ出版)。ご参考まで。帰結主義的な正当化はたしかに一定の妥当性をもつ。しかしそれは煎じ詰めてみれば、こういうことしか言っていないということでもあるという話を私はしようとしています。<私たちは、あくまでこの機構を、部分的なもの、手段的なものとして認める。>これは基本的に所有のシステムを正義とした上で、そこで生じた問題を事後的に補償するということではなくて、話としては逆になる。そうではない方を基本にしながら、しかしけちな人間を適当に動かして生産なり生産のレベルを維持するためには、こうしたものを部分的に採用せざるをえないという話になるわけです。
  話自体はきわめて単純です。ただいくつかの具体的な問題を当然生じさせることにはなります。<以上から、社会的分配だけで暮らす人が得られるものは「最低限」になってしまう。>このことが論理的に帰結します。これは大きな制約ではあります。そこをどう考えるかという主題が具体的に出てきます。ただ、まずは、<社会的分配のあり方を制約するのは、人々の利害、損得に関わる函数であり、またそれだけであることを確認しておく意味はある。分配を制約する条件は実はこれだけしかなく、この条件を満たす限りでの分配は可能だと言える。>
  次に、<分配を支持する契機と回避したいと思う契機、この二つの契機の並存を前提にしたとき、強制の必要性もまた現われてくる。>これはさきほど言った、自らが強制されることに自らが同意するというパラドキシカルな事態をどう説明するのかという議論に関わっています。以上のように考えるとき、不思議に見える事態がそうではないと言えるのだという話をしています。中身は省略します。

  3 資源よりむしろ国境が制約する
  大上段に振りかざしてみて話をしていくとこういうことになるのですが、実際には日本の社会はあまりこういう議論をしません。「どちらか正しいか、そんなことはどうせわからないんだし」、という感じで、「それはそれとして」と、話は次に行きます。それはどんな話か。<とくにこの国で語られるのは正当性の問題ではなく「財政」の問題である。分配の必要条件であり制約条件であるとされる資源と生産について、そしてそれらと国境との関わりについて>考えることになります。
  「どちらが正しいかそれは知らないが、ないものはないんだから」という言い方、社会的な分配は生産、成長を制約するから「残念ながらお引き取り願います」、「そこそこのところで止めておかざるを得ません」と言い方がそこらに満ちているわけです。それに対してどのように言うかという主題があると思う。それを『思想』に2000年に書いた文章(「選好・生産・国境――分配の制約について」、『思想』908号・2000年2月、907号・3月)で考えました。興味があったらご覧ください。<資源が分配を制約すると、例えば、少子化・高齢化でこのままの福祉を続けていけば財政が破綻すると言う。それに多くの誤解、間違いがある>ことを述べています。
  まず負担が増えるという言い方が、実際には負担の配分のあり方が変わることであることを蔽い隠していることがあるということです。そして、もう一つ論点として考えなければいけないのは、財の投下が生産の増大、成長に結びつく場合とそうでない場合とに分けたとき、後者、<分配が生産の増大に結びつかない場合には、生産の増大に結びつく部分が優先されることによって分配が排されることがある。つまり、生産は分配にとって少なくともその時点では阻害要因であることがある。成長をもたらす部門に集中的に労働と財が投下され、単に生活を維持するための活動が切り詰められることがある。>ある種のトレード・オフの関係になる。そのことをどう考えるかという問題があります。<しかし、少なくとも生産と消費の水準が一定に達した地域において、生産とともになされなくてはならない労働、また世界から失われ世界に排出されるものを考えたとき、全般を一緒に括ったものとしての成長が必要がないと考える人がいるなら、その人にも強制し加担させて生産全般を増やそうとする政策的介入は正当化されないし、不要なものと考えられる。また、生産する人間の数を増やそうとする政策もまた肯定されることはない。>
  これは、我々の世界が政策として行っていること、経済政策として行っていることをどう考えるかという問題でもあります。成長を要件とし、その上で放任、自由化という策を支持する人たちがおり、他方に公共事業といった策を支持する人たちがいて対立しているのですが、それは基本的な立場を共有しつつ、そのための手段としてどちらがよいのかという争いです。政府は大きな方がよいのか小さい方がよいのかという議論がこのレベルでなされてきた部分が多々あると思うんです。その前に強制力を用いた経済政策、成長に向けた政策自体が基本的に正当化されうるかを考えたとき、それはじつは正当化されないということになると私は考えます。そのことを切り詰めて書いたのが先程紹介した新聞に掲載された文章であったり、少しだけ増やして書いたのが雑誌『環』に書いた文章です。説明そのものは長い方を見てもらわないといけませんが、そのように考えています。
  <こうして、分配を制約するのは、負担を回避し利益を維持したい人、成長から多くの利得を得られる人の利害なのだが、第三には、国家が分立し国境が存在することが分配を十分に行なえないようにしている。分配を制約する要因として残るのが半透膜のように機能する国境の存在である。>マイクロな場に存在している制約、例えば介護が十分に供給されないのはなぜかといったことをを順番に考えていくと、どうしても国境というものの存在に行き着くだろうと、これは前から思っていたことでした。それをロジカルに言えるのではないかと思っていて、そのことを書いてみようと「選好・生産・国境」という文章を書いたのです。<分配を制約する要因として残るのが半透膜のように機能する国境の存在である。>国境が存在し、閉じられながら開いている。開きながら閉じています。分配は国家を単位としてなされます。同時に輸出輸入で財が出入りします。資本は移動可能です。人はそれに比べれば少し不自由ですが、移動できたりする。移動しようとする人もおり、やむにやまれず移動せざるをえない人もおり、その場にとどまろうとする人たちもまたいる。そういう条件が存在するときに、そこでは分配が十分に行われないということが論理的に言えるだろうと思いました。そのことを書いたのです。例えば、<一つに国境間の移動によって負担を逃れられることが分配を困難にする。一つに国家間の格差を維持しようとする力が働く中で開発、成長が優先されてしまうことによって分配が困難になる。>こうした一文一文をどのように言っていくのかということが勝負どころになるわけですが、結論だけ言えばそうなります。
  <その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。>このことは多くの人々が感じていることでしょうけれども、あらためてきちんと言えるのではないか、言わなければならないのではないかと思います。<とするととるべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。>そんなことは無理だと言われるかもしれません。しかしながらさまざま考えていくと、基本的にはこの方向しかないのだと言うしかない。もちろん現実的には難しいのですが、まず、こうでしかありえないと言えるなら、そこから論を立てていくしかないと私は思います。そして<むろんそれは困難だが、財の流れがしかるべく整序されれば、分配の問題への対処に限れば、世界大の徴収・分配域が形成されるのと同様の効果をもたらすことはできる。>
  というようなことを今、私は考えているということです。最後にこういうところから仮説、議論をいくつか紹介し、そこに残る話を最後にお話できればと思います。

III 機構の構想/に残る課題

  1 分配する最小国家?
  「分配する最小国家の可能性について」という論文を書いたことがあります(『社会学評論』49-3(195)、1998年、日本社会学会、特集:福祉国家と福祉社会)もちろんこんな言葉はありません。「最小国家(minimal state)」という言葉はノーックの本の中に出てきますが、そこでは社会的分配は行われません。むしろ国家による分配は否定されます。ですからこれは語義矛盾です。しかし私は、国家に分配を引き受けさせつつ、国家の役割は小さくなる、そのようなあり方が可能でもあり、また望ましくもあるのではないかと思うのです。
  <分配を肯定し、その範域が拡大されるべきことを主張するのだが、しかしそのことは、政治の領域が行なっていること全般を肯定することではない。実際、国家は権利を強制力によって保障する活動――分配はその重要な一部である――だけを行なっているのではない。さまざまなものに租税からの支出がなされる。今、分配は支持されたが、それは政府支出全般を支持するものではない。むしろその大きな部分について正当性を疑うことになる。経済学では、公共財については政府支出がなされるべきだとされる。公共財とは個々人から個別に料金をとれない、そして/あるいは、とるべきでない財だと言われる。しかし、「とれない」のか「とるべきでない」のか、いずれかの理由によるのかはっきりしないものもある。>私には、経済学は意外とそういうところがいいかげんではないかという感触があります。公共経済学は何が公共財かという話から始まるわけですが、公共財であるという言い方自体にわからないところがあるのです。<また、「とれない」場合には、技術がそれを変化させる可能性もある。>今まではお金を個別に取れなかったが、テクノロジーの進歩によって一人ひとりから個別にお金を取るということは、例えば道路の使用について等、いまよりもっと広げることができていくだろうと思います。<次に「取るべきでない」と言えるもの、費用を強制的に徴収すべきものがどれだけあるか。なにかがなされてよいことであることと、それに強制力が用いられるべきであることとは同じでない。>よいことと強制されてよいこと、誰でもその違いをわかっていることのはずなのに、いっしょにされてしまうことがよくあります。例えば博覧会をやることはよいことだ、ワールドカップをやることはよいことだということと、それを国家が担う、税金を使って行う、人を強制して行うことがよいことだということは、当然イコールではないのですが、その差異がないものとされてしまいます。そのあたりのことをきちんと考えていきましょうと。私は国家を介在させる分配を支持するのですが、その立場から、いま国家がやっていることの相当の部分は実はやらなくてよいのではないかという話ができるのではないかと思っているのです。そういうことをキャッチフレーズ的に言うと「分配する最小国家」という言い方も成り立たなくはないと思います。
  ただこれが本当に望ましいのかとなると、微妙な問題があります。それはパターナリズム、ある種のお節介をどう考えるのかという問題にも関わってくる。私はパターナリズムを否定しきれない、肯定せざるをえない場面があると考えていて、そのことについては「パターナリズムについて」(『法社会学』、日本法社会学会、2002年)などに書きました。ただその上でも、国家がすることは少なくなるはずだと私は考えている。そういうこともきちんと考えられているか。そうじゃないと思うんですね。例えば公共事業も「公共」という名前がつくのですが、公共事業の正当性についてどこまで詰められた議論が行われているかと考えてみるとはなはだ疑問だと思います。それを一個ずつ考えていくとどこまでのことがどう言えるのかというテーマがある。それは具体的でそして理論的におもしろいテーマだと思っています。

  2 基準について
  二番目は基準について。分配すると言うが実際にどのようにするのか。まあてきとうでいいんじゃないの、と言いたい気持ちが私にはあるんですが、とはいえ幾多の問題があるわけで、そこをどう考えるかという問題があるということなんです。ここで実は私に近い立場の人たち、少なくとも結論的には近い立場の人たちも、この問題の前でいくつかの間違いをやっているのではないかと「自由の平等・4」(『思想』930号、2001年11月)で書いています。
  例えばジョン・ローマー(John E. Roemer)という人がいて、『分配的正義の理論』の翻訳が去年出ました。(1996 Theories of Distributive Justice, Harvard University Press=2001 木谷忍・川本隆史訳『分配的正義の理論――経済学と倫理学の対話』、木鐸社、388p.、4000円)彼はハーバードで数学を勉強した人だそうで、経済学部の松井暁さんが精力的に紹介なさっているアナリティカル・マルキシズム(高増明・松井暁編『アナリティカル・マルキシズム』、1999、ナカニシヤ出版、244p.、2600円)の陣営の一人で、面白いと思います。しかしその人たちも含めて、ちょっと違っているところがあるのではないかと、そのことについて『思想』の2001年の11月号で書きました。そのようなことを含めて「分配の基準」について考える。これも具体的な社会保障、社会福祉のテーマであるとともに理論的におもしろい多くの論点を含んでいる。
  これもやらない手はないと思っていますが、意外と皆さん、やっていない。現場で、まあこんなものでしょうというところでやっておられる方々と、具体的な主題の手前の「根拠」といったところでやっている方々とがいて、真ん中が抜けているという感じです。その中で、例えばセン(Amartya Sen)が、誰にどれだけを分配するのかということについて、具体的に、なおかつ理論的にそのあたりの話に立ち入っている。これはよいのではないかと、人が注目したということがあるかもしれません。では、センが言ったからこの問題は解決されているのか終わっているのか、それはそうではないわけで、いよいよおもしろいテーマであると思っています。

  3 分配の機構
  <政治が何をするかしないかにも関わり、またどれだけを供給するかその基準の設定の問題にも関わり、どのように分配を実現するかという方法・機構を巡る問題がある。このことについても十分な議論がなされてきているようには、私には思われない。>とはいえ、社会福祉の領域で「現物給付」か「現金給付」かといった議論は昔からあり、ないことはありません。それに近い部分があるんですが、もっとベーシックに考えていったときにどういうことが言えるかということです。
  <一つに、税を用いて必要なものを用意し、それを無料で供給するという手段がある。費用を払わなくてすむから、個々人の手持ちにかかわらず利用できる。一人一人について測って各々別々に分配する必要がない。しかしこれは、その利用が膨張するのを防ぐことが難しい。また、何に使うかについて個々人が決定することができない。税を使える用途は有限だから、ここには選択が当然入ってくる。これは何が社会的に供給されるかが政治的に決定されているということである。とすると、何をして暮らすかは一人一人が決めることだという考え方からは肯定されない支出が見出されもするだろう。>と、このタイプのお金の使い方については言えるわけです、切り詰めて言えば。
  <では個人に対して供給し、それを何に使うか個人が決めればよいではないか>という一つのアイディアがあります。簡単に言えば<世界の財を人数分で均等に割ってしまう。その限りでは政府のすることは、徴税と、それを足して割って、それぞれに渡すことだけになる。ここでは政治は積極的な目的をもつことがなくなる。何を得て暮らすかは個々人が決め、営利・非営利の様々な供給組織から選んで利用する。これを支持するいくつかの理由がある。>この主題に関係するとこですと、例えば「福祉多元主義」という議論があります。ただ、この議論からしてこんがらがっているのではないか。<直接的な供給主体の多元性と供給の責任主体の多元性とを区別せずに論じられることがある。区別すべき>であることを、『社会政策研究』という雑誌の創刊号(2000年、発売:東信堂)に載った「多元性という曖昧なもの」という文章に書きました。
  <しかし、同じだけを得ようとしても、その人が置かれている状況やその人の身体の差などによって、必要なものが異なる。その差に対応する必要がある。>人はそれぞれ違い、同じだけ与えても同じにはなりません。<とするとどうするか。このようなことから、基準や優先順位の問題は結局は残ることになり考えなくてはならないことになる。一人一人にその人の生き方をゆだねればよいという線を維持しながら、しかしそれではすまない部分に踏み込んでいかざるをえない。例えば地域間の格差がある。実際、都会との格差の存在が、この国の「公共事業」の現実性を維持してきた。>鈴木宗男さんのことを思い出してみてもよいかもしれません。<しかし、このままではよくはないとするとどう考えたらよいか。また国際援助もその多くは事業に対するものであり、目的を定めたものだった。もっと直接的な分配の方が望ましくないのか。これらを考えることにも関わってくる。>

  4 生産財の分配
  今までの話は、マーケットはマーケットでやってもらい、後は税金をとって分配をする」という、二元論、混合経済、福祉国家の戦略というものでしかない。けれどもそれでももっと考えることがあるという話だったのですが、同時にそれと一緒に考えないといけないと思うのは消費レベルの分配と生産における分配の正当性について、それぞれを考えるという仕事だと思うんですね。労働の分配、労働の分割をどう考えるかも面白いと思っています。
  生産財の分配の問題が一つあります。とくにこのごろ気になっているのは科学技術の問題であり、科学技術の所有の問題です。技術はまさに生産財です。それをどういうかたちで所有するか、所有させるのかという問題は、国境の存在とも絡んでとても重要な問題になっています。
  HIVの感染者は世界で約4000万人くらいいて、年間約300万人が死んでいます。ニューヨークのビルが壊され亡くなった人と同じくらいの人が毎日亡くなっていく状態が、ここ何年か続いています。それはどういうことと関わっているか。薬をうまく使えば、エイズはいま亡くなる病気ではありません。問題は薬、薬に関わる技術の所有のあり方です。生産財としての技術の所有の問題をどう考えるかを考えざるをえません。
  国境を前提とし、所有システムを前提とした上では、日本は科学技術立国で他の国に負けないようにバイオ・テクノロジーであるとか先端科学技術の方に邁進しなければならない、産学協同でやらないとならないという話に乗る事情はよくわかります。しかし、少なくとも社会科学としては、切羽詰まったせき立てられた技術開発の行動に乗らざるをえない構造は何であるのか、そこから抜ける道は存在するか、存在しないかを考えることは、少なくともやってよいことであり、私はやるべき仕事である、こういう議論をきちんと詰めていく必要があるだろうと思います(「所有と流通の様式の変更」、『科学』71-12、2001月12月)。これは生産財の所有のあり方として何が望ましいのかという古典的な問題でもあります。経済体制の問題がかつてずっと議論されてきたにもかかわらず、我々の世代が20年くらいさぼってきたテーマを、もう一回きちんととらえ返すことにつながっていくだろうと思います。
  同時に労働の配分のあり方を考える必要があります。このごろ、ようやくというか労働の分割、ワークシェアリングが言われるようになってきたのですが、このアイディア自体はずっと前からありました。ただ見向きもされない時期が長く続いてきて、そしてさまざまあって、この時世で、どうもこれしか残らないようだというよくわからないかたちで導入するとかしないとか言っているわけです。これについても、消費の場面での分配と別に、あるいは消費の場面での分配と同時に労働の分割・分配が正当化されるか、僕は正当化されると思っていますが、そういう議論をする必要があるだろうと思うし、そのために具体的などういうシステムを考えないといけないかということを考えてもよいだろう。お配りした文章にはなぜこれもやってもいいのかという理由を二つくらい書いています。こうして労働の分配・労働の分割も面白い主題として存在すると思います。1980年代くらいからでしょうか、しばらく私たちは消費社会がどうしたというような話をしていたのですが、とくにこれから何十年かは、労働がもっとも大きな主題の一つとなるでしょう。

  6 残されること
  <分配を基本的に否定する立場と別に、問題を分配の問題として語ることに懐疑的な立場がある。分配を語ることが楽観的であると、あるいは現実とその問題を看過していると感じられる。それはどのようなものか。またそれにどのように応ずることができるか。批判の一つは、福祉「国家」と言い、成員を「国民」に事実上限ってしまうことに向けられるだろう。>これに対しては、基本的に私は国家という範囲に限定して考えないとは答えた、と言えると思います。むしろ、<成員を、また分配の範域を限っていることによって分配は、したがって生存は困難になっており、その範囲を拡大すべきことを述べた。>
  <もう一つは、逆からの指摘とも言える。人は具体的な関係の中で共感し同情する。そうしたあり方を捨象し、空想を語っているのではないかと言う。>そこから、国家より大きな範囲での分配といった話は夢物語にすぎないということにもなる。こういう言い方、これを共同体主義と言えるかわかりませんが、小さい人の集まり、顔の見える関係が大切なのだというところからの反論、懐疑もあります。それをどう考えるかという、もう一つの問題があります。しかし、人間は近い距離にある人のことについては感じるが、距離が遠くなると感じなくなる、だからむりなんだ、小さい範囲でやっていくしかないという話は、距離を抽象化しすぎてはないかと考えることもできるのではないか。そこをもっと考えてみる必要があるのではないかと思います。このことについては「自由の平等・3」ですこし述べました。
  <さらに基本的な疑念は、分配だけで問題が解決されると考えているように受け取られることから来るのだろうか。だがそのようには考えていない。譲渡されてならないものがあることを認める。分配を語ることですべてが語られるのではない。私たちは問題の生じない世界を夢想するのでもないし、またそのような世界をよしとするのでもない。一つには回復されることのない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。一つには、やはり徴収し分配することができない関係、そのような関係の中にある例えば愛情といったものをどう考えるか。また、帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これらについて考えることが残されていることを認める。>
  ここまでは、基本的に、右から左に、左から右に、下から上に、上から下に行き渡る、AさんのところからとってきてBさんにあげるということができる、そうすべきである財について考えてきています。それは「分配的正義」をめぐる議論です。私はそれでとりあえず押そうと思っています。今までのテーマについて、これをやろうと思っている。しかしそれしか世の中に問題はないということではまったくないのです。私はそういうものしか世の中にないと思ったのではなく、そちらの方から考える方が楽だから考えているんです。
  つまり、簡単な問題と難しい問題があって、私は簡単な問題についてお話をしました。考えれば解けそうな問題について、分配可能なものをいかに分配するかということについて考えようというのです。しかし世の中には分配したり交換したりできないもの、あるいはすべきでないものがあります。例えば責任という問題がある。悪いことをしたときにどうするか、どうやって償うかという問題があります。それは交換されたら困るもののように思えます。司法取引がなにかうさん臭いのもそういうことに関係するのかもしれません。そういうものが、世界の半分かどうかわかりませんが、ある、厳然として残る。これは別の経路から、同時に考えるべき巨大な主題として残されていると思います。
  岡野八代さんが新著を青土社から最近出されました(『法の政治学――法と正義とフェミニズム』、青土社、318p.、2600円)。おもしろいです。私が取り上げてきたことの逆の側から攻めているのです。「分配的正義」という捉え方では正義の中で一番大切なことがすくいあげられないじゃないかと彼女は言っている。そうだと思いますね。ロールズを引き合いに出して、正義を分配の問題として語ることの限界を指摘し、そうした把握からはみ出してしまうことをどう語るかを私は考えたいのだというように、その本は書かれている。その議論がうまくいっているかどうかはよく読んでみないとわかりませんが、少なくともこころざしとしていいぞ、と思うんです。私はひよわな人間なので、楽な方を選んでいるのですが、私が逃げているところを正面から考えてくれる人がいるというのはうれしい。そんな位置関係になっていると理解していただければよいと思います。
  ただ私にしても、こうして楽な方から考えていったとしても、考えていくと、きっと別のところに出るだろうと思うんです。自分の仕事を見直してみても、『私的所有論』で言っているのは、つまりは、譲渡されないもののための譲渡、交換されない存在のための交換ということです。<存在は代替されないし、交換されない。その上で、一人ひとりのあり方を認めることと、分配のあり方とはどのようにかかわるのかという問題はさらに残る。分配を考えるためにも、分配されないものについて考える必要があるのだ>。だから両者はつながってもいるし、独立してもいる。しかし私は簡単に考えられそうなところから考えていくつもりですということで、今日は、その粗筋についてお話させていただいたということです。
  これでとりあえずお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

(質疑応答)

山口 (この部分の記録はまだ確定していないのでいまのところ略)

立岩 いずれについても、きちんとした答えができない、としか答えられないのに近いです。
  一つ目の「公共性」という言葉。新しい大学院の「公共」という分野のスタッフにもなるにもかかわらず、けしからんことに、私自身はこれまで書いた文章の中で「公共性」という言葉を一度も使ったことがないかもしれないですね。そしてさしあたり、これから積極的に使っていこうとも考えていません。
  それがなぜなのか、自分でもよくわからないところがあるのですが、一つには、公共性という言葉を使う人たちが、その言葉を使うことによって何を言いたいのか、何を主題にしたいのかということ自体、よくわからないところがあります。そして、漠然としていてよくわからないのと同時に、なんだか妙に単純であるような気もします。私的なものと公共的なものの分かれ方、分け方、そして関係が大切だと思うのです。私は、私的なものというものがどのようなものであるとされていて、それはどれだけの根拠があるのか、どんなものが私的なものであってはいけないのか、同時になにが私的なものであるしかないか、そんなことを考えるというスタイルで考えようとしていると思います。そして公共が私に固有に属さないものであるという言い方もおかしいかもしれません。私に属しながら公共、であるものがあるかもしれず、そういう思考、作業の結果として定義は出てくるものだと思います。世界を私的なものと公共のものとに分けて考えていこうという問いの立て方はできないと思います。今言ったような線で考えていくしかないと思います。
  それ以上は申し上げにくいのですが。いま公共という言葉がある種のタームとして浮上していますが、それはなぜなんでしょうね。「今の社会は、私は私で、エゴイズムの社会でよろしくない、そこで公共性が大切だ」という、当たっていなくはいないだろう感覚がある程度広くあるということでしょうかね。「公共哲学」という必ずしも立派な出来ではないシリーズが東大出版会から出ていますが、それが一定読まれているのだとすれば、一つにはそういう需要があるということなのかもしれません。ただあれを読んでも、あまり感心しないわけです。なぜだろう。問い始めないといけないものがするっと抜けている感じがします。エゴイズムばかりはよくない、しかし国家もよくない、だからそのまん中あたりに「公共」、みたいな。そんな筋になってしまうとすればつまらない。もっと具体的に、同時に理論的に、例えば国家にどこまでのことをなぜさせるのか、させないのかを考えた方がよいと思います。今までの「公私論」に関してもそういうところがあると思います。具体的なテーマに即して、公共事業とか具体的な問題を詰めて考えていく中から、私のもの、私のものでないものを考えていく問い方にしていかないと何も見えてこない。そうでないと漠然としてわかるようで、わからないことが続いているのではないかと思います。そういうことをやっていく中で公共、公共性にポジティブな意味付与や定義が出てくるのであればよいと思いますが、いまのところは公共という言葉を様々な領域に漠然と被せているというぐらいのところにとどまっているように思います。それで私は、公共という言葉を決まったタームとして使うことは、今のところ考えていないということです。
  「コミュニタリアリズム(communitarism)」の評価についても似たようなことが言えると思うんです。それについてもどういうものであるか私はよく知らない、勉強が足りず、これから勉強しようということで、たいしたことは申し上げられないのですが。ただ、具体的な関係、顔が見える関係の中で、何かが自分と共通であるというものを私たちがどこかで大切にしていることは事実であり、それを根本から否定する必要もないし、また不可能でもあると思う、そういう事実と、そういう契機を含み込みながら、どのらうに社会が形成能なのかという問題の「間」を考えることか大切なことであって、その「間」の作業の手順をいくつか抜かしてしまうと、小さな共同体を延長させていくかたちで国家を想定し、それが肯定されてしまう仕儀に至ってしまう可能性もなくはないと思います。「親密圏」についての議論などがこのごろはありますが、そういうものを人が大切だと思っていることを事実として承認しつつ、その社会の中でのあり方、位置づけ、またより遠い関係、より広い関係との接続の問題について、手順を抜かずに慎重に考えていくことが、多分、必要なんじゃないかと思います。

西川 (この部分の記録はまだ確定していないのでいまのところ略)

立岩 プルードンは、「所有・財産とは盗みである」と言ったというのは知っていて、ごもっともではなかろうかと思った、というぐらいで、ほとんど読んでないのが実際のところです。でもきっとおもしろい人なんではないかと思います。
  ただまず言葉の使い方について言えば、当たり前ですが、同じではないだろうと思います。私の考えでは、「分配的正義」の「分配」の中に狭義の「分配」とそれから「交換」が入ります。ここでの交換は、プルードンの言う意味での交換とはたぶん違って、普通の意味での交換、私たちが毎日やっているようなレベルの交換ですが、大きく分配の中に分配と交換があるという位置づけです。そして「分配的正義」の問題として語られるし、語るべきであるものがあるとともに、もう一つ、そうでないもの、少なくとも容易に譲渡されたり、分配されたりしないものにかかわる正義の問題があるだろうと、それを「矯正的正義」と言うべきかどうかわかりませんが、そんな具合になっています。図式だけ言えばそういうことです。
  そういう言葉の使い方の異同はともかく、一つ、私なら私とプルードンとマルクスとか、巨大な思想の流れとの距離について考えさせられました。『私的所有論』の文献の中にはマルクスの文献が一つも入っていないんです。私たちの世代、私は1979年に大学に入ったんですが、たぶん、マルクスを読んだ最後の、といってもこれからどうなるかわかりませんが、世代だと思います。前の世代ほどきちんと読まなかったと思いますが、とりあえずは読んで、いろんな意味で影響を受けたと思います。ただ、マルクスおよび周辺の人たちをどう読むかということをやるとえらい大変だな、その作業自体に手間をとるだろうという、で、僕は楽な方向に行く人ですから、自分で考えた方が早いかもしれないなと思って、それで勝手な仕事をしているということが一つあります。マルクスは巨大な思想家ですから、いろんな要素がある。ここではこうだと言っても別のところで全然違うことを言っていることがある。マルクスはこう言っていると言えば、いや別のことを言っていると反論する人が必ずいるでしょうし、そしてその反論はそれとして当たっていたりもするわけです。そういう議論に巻き込まれるより、その人たちが言ったことを論じるより、あの人たちが言ったことを気にしながら、別口で議論を立てた方が、ある意味ですっきりするのではないかと思ったのです。そんなことが背後にあってほとんど言及していません。
  ただそれでも、労働価値説、搾取の問題については『私的所有論』の中で少しだけふれています。労働が生産物を作りだしその価値を作り出すということと、労働者がその生産物、生産物の価値を取得するということとは同じではありません。しかし、少なくとも通俗的な意味での搾取という考え方が、自分で作ったものなのに自分のものにならない、上前を誰かがはねているというということであるとすれば、それはロック以来の生産者による取得という図式があった上で成り立つのではないでしょうか。僕はそれと違うというところから議論を始めようと思いました。上前をはねている奴がいるから、そいつをなんとかしないといけないということの手前から考えないといけないなと。もちろんマルクスが共産主義社会とかいうときには、それは生産者が生産物をとるという社会ではないのですから、そういう契機が入ってもいます。最初に私が述べた、作る人が作りとる人がとる、というのもそういうことです。マルクス自身の中にいろんな多様性があって、それに付き合うやり方もあるけど、それはそれとして、そういうものを読みながらも、自分で考えてみてまずは書いてみよう、そんな感じのつきあい方ということになるでしょうか。
  もう一つアソシアシオンについて。それは19世紀の社会主義の文脈の中にもあったし、また我々の時代、1970年、80年代の社会思想の展開の中で、ある種の協同組合であったり、生産の単位のあり方、分配のあり方のオルタナティヴを提起する思想や実践の流れの中にもありました。そしてその時期に遅れて私たちもいて、考えることになったわけです。直観的に言うと、気分はよくわかる。それはよいかもしれない、という感じはあります。今でもあります。だけど、たぶん、労働・生産・分配の単位、範囲として考えた場合、アソシアシオン、協同組合的なものがこの社会の中で、単体として生きていくことは難しいだろうなと思えたのです。また、そういう試み、分配の平等をある単位の中で実現し、その単位を社会の中で点々と作り、繋いでいくことによって変革を実現していこうという議論にしても同様のことが言えるのではないかと思いました。そこで、難しい理由はこれこれしかじかだということを考え、それを言い、そこから考えていかないといけないと思いました。思っています。それをどのように考えていくか。その仕事は始まったばかりで、まずは所得の分配、消費の場面における分配から考えていく、すると話は必ずそれで終わらなくなり、生産点における分配の問題、労働の分割の問題、そこまで必ず行くだろう。そうして考えていく中に、多分、アソシアシオン的なものが位置づくのではないかと思います。まずは引いて考える、引いたところから考えていく、それが今は必要なのではないかと思っています。非営利組織、NPOについての議論についても同じことが言えると思います。私はNPO、NGOの存在意義をまったく否定しません、むしろ積極的に評価してきています。ただ、先ほども述べたように、私、私企業でなくまた政府、国家でもないところにあるもの、あるいは必要なものとしての公共性、その担い手としての非営利組織、といった単純な話でまとめてしまってはならないということです。

質問 7頁目では<私たちの立場から見れば、分配の基本的な位置づけ、基本的な立場とやむなく必要とされる部分との関係の把握に起因する。私たちは基本的に分配を肯定し、その上で、仕方なく生産を促す手段の採用を肯定するのだが、分配派にも、そのようには考えず、主体/環境、選択/所与といった図式から離れられず、結果として自らに無理な制約を置いてしまうことがある。>と書かれています。また8頁には<同じだけを得ようとしても、その人が置かれている状況やその人の身体の差などによって、必要なものが異なる。その差に対応する必要がある。とするとどうするか。このようなことから、基準や優先順位の問題は結局は残ることになり考えなくてはならないことになる。>とあります。この部分、そして両者の関係を説明していただけませんか。

立岩 
  重要な御指摘です。けれどもこの話をすると長くなります。すこし手前の話をさせていただきましょうか。何を分配の基準にするかという議論を日本ではあまりしないですが、やっている人はやっているんだなとすこし勉強して知りました。知られているのはセンですね。ローマー等はまだそう知られていないと思います。そのセンの話にこういうのがあります。貧しい地域に行って「あなたはこの生活でいいと思っているの?」と聞くとしましょう、するとその人は「いい」と言う。すると単純な人は、あるいはけちな人は「いいと言ってるんだからいいじゃない、あげなくても」と言う。そういうものではないだろう、とセンは思う。ある状況の中で欲望自体も形成され変形させられ、わずかなものでも満足していると言わざるをえない。あるいは、ほんとうにそう思っているかもしれない。そういうことがあるだろう。そして他方にはどんなにもらっても満足しないという人がいる。そういう人もいそうだなと思います。こんな問題をどう考えるかは面白い問題で、一つの答の方向は、人の満足度を聞いているからそうなるのであって、聞かなければよい、もっと客観的な指標を立てればよいというものです。それを聞くと、なるほど、と思うのですが、他方で私たちは、医療や福祉でQOLとか満足度を指標にしている、というかこれまでそういうものが考慮されなかったことが反省され、ただサービスを得られればよいというものではない、利用者が満足できるものでないとならないと言われていることも知っています。この両方の話ともわかるように思います。とすると、その「間」をどう考えるか。分配の基準のこと一つ考えても、こんな問題があります。さきの例に戻っても、この人はいらないと言ってるんだから、さらにどうこう言うのはおせっかいかもしれないという感じもしながら、しかしそれでもほっとけないのではないかと思う。それをどう考えるかという問題がある。そういう時に、それをどう言うか。効用ではかるのが問題なのだから、もっと客観的なものを指標にする、例えばケイパビリティ(capability)をもってくるということなります。それでよいような気もします。しかし、それも違うのではないか、というのが僕の疑問の出発点です、ここでの。
  こんなことを考えていったときにも、分配を主張するリベラリストの論に、主張するその結論はあまり違わないのだけれども、違和感を感じることがあります。なんだか話がずれているのではないかと思える。どういうふうにずれているのかと考えていった時に、この種のリベラリズムの分配論の中に「個人の責任に属するもの」と「個人の責任に属さないもの」という分け方が出てくる。その分割によって、ここの部分は社会としては関与しないがこの部分は社会は用意するという線引きができるという話になる。
  それでよいのだろうかと考えていくとき、いくつか落っこちている部分、つながっていない部分があるように思えて、そこを詰めていかないと、この話も完結しないというつもりで、7頁目を書いています。詳しくは「自由の平等・4」で書いています。抜き刷りを差し上げますのでご検討ください。私の思いとしては7頁と8頁の話はむりなくつながっています。もっともな問題関心に発しながら、その問題をずらしてしまって、変なところに話が行っている部分が、社会的分配を支持する論者の中にもあるのではないか。そのように私が思っていることだけ、お話し、あとは書いたものを見ていただいて、お前の議論の方が論理的におかしいというようなことを御指摘していただきたいと思います。

質問 最後の「残されたもの」ということに興味があります。「分配を語ることですべてが語られるのではない」とありますが、「すべて語られる必要がある」とお考えでしょうか?

立岩 すべてが語られる必要はないですね。その上で両者の関係が問題です。
  例えば、感情や愛情といった関係としてあるものと、財をめぐる分配の空間は絡み合っていることに問題があるから、それを切り離してしまえばよいという考え方もあります。例えば家族はある種の関係の空間であると同時に財の分配の空間でもある。家族は両方の機能を持ってしまっているがゆえに問題が起きるのかもしれません。例えば家族の一員であることを維持していかないと経済的に立ち行かないので私は離婚できない、とか。妙な具合にくっついている。そんなことを考えるときには、経済的な部分と家族という関係とを切り離す方向で考えていけばよいのではないか。分配できるものをどうするか、分配されないものをどうするかと考える中で、いろんな戦略が出てくるのだと思います。

司会 (この部分の記録はまだ確定していないのでいまのところ略)

立岩 論文として書いたものの方にもうすこしは長く説明している箇所がありますが、今回配布したものにはなにも説明はないので、疑問も当然のことと思います。
  普遍性についてはこんなことを考えています。Aさんが「どんな自分でもいいから、とにかく自分を認めろ」と言ったとします。その言明の持つ意味は何か。一人ひとりの属性、私が何をもっているか、私が何ができるかということと別に、「私が私だというだけで認めろ」とAさんが言ったときには、もう一人のそういう私でもある別のBさんもやはりそのような意味での私なのだから、Bさんも認められることになる。ですからAさんのこの要求には普遍性が含まれている。そういうレベルでの普遍性が一つあります。
  義務に関しても、「私の存在を認めろ、そのためにできることをしろ」、と私が言うと、「そんなことは俺はいやだ、認めない」という奴が世の中には必ずいますから、義務が現実に履行されるわけではない。それはありえない。けれども、「私がただ私であるというだけの存在を認めろ」と言うことにおいて、とりわけ「あなたにとって私がどんな存在であろうとも」と言うときすでに、それは、その人の意思、恣意に関わらず、その人に対してこの承認の義務、承認のための負担の義務を主張しているのだと言えると思います。そしてそれは、誰であれ認めよと主張することにおいて、すべての人に対する要求、普遍的な義務履行の訴えかけになっていると言えます。
  二番目の疑問はまことにもっともなことで、おっしゃる通りです。私の議論が内在的にそのようになっています。まず主張自体がある種の二元論になっています。必要に応じた分配を基本的に主張するけれどそれ一本ではどうもやっていけない、としたときに生産に応じた取得という契機をある程度含めざるをえない。その「ある程度」がどのあたりで落ちつくかという具体的な均衡点、ここに納まるはずだという話は出てこない。どの程度、業績原理的なものを含めざるをえないかは、人間がどういう利害で働くか、さぼるかに関わりますから、その人のあり方によって変動する。それが予め規定できない以上、規定できないという話になる。議論内在的にそうなってしまいます。ロジカルにそうでしかありえないのですが、「そんな不確かなことを言われても困る」と言われたら、僕もいっしょに、「はい」と言うしかない。議論そのものがそういうふうにできていて、それは認めざるをえない。けれども、それでも言えると思うのは、能力主義、業績を採用するとはこういうものでしかないのだということですね。そこのところの仕掛けをはっきりさせ、その上で具体的に考えていくことができます。能力原理、実力原理を導入しなければいけないという人々がいる。そのとき、それを基本的な原理として貫徹しなければいけないという話にはならないのだというところまでは確認できる、確認しようということです。その上で、どのあたりを落としどころにしようかという話になる。そういうことです。
  もう一つは、私は日和見主義者だということです。20歳前からずっとこういうことを考えてはいて、社会を全部取っ替えてしまえという思想に影響を受けたのではあります。ただ、それがよい、それが一番と思って考えていったときに、うーん、でも難しいよなというところがある。私は、その両方を考えていくということしか社会科学はやることがないと思っています。威勢のいいことを言って、結果はそのままというのも、かっこいいようでかっこよくない。でも、現実は現実のようにしかならないのだからこのままで行くしかないんだよというのもそうよくない。では、どこにだったら現実を落とせるのか。ただの日和見はさらにかっこよくないですが、それでも、考えられるところまでは考えて、やれるところでやっていく日和見ならすこしはよいかもしれない。そんな感じでものを考えています。
  それはある種の社会運動の敗北、とまでは言いませんが行き詰まりを僕らが感じてきて、その中で、ある人は批判的であること維持しながらどこかで考えること自体をやめてしまう、ある人はどうもなんともならないようだからこの社会のままで行くということになる。どちらもつまらない。ほんとうは全部取っ替えてもらよのかもしれないというところから発しながら、でもここのところは難しかろうな、では何が難しいのだろう、ではどうしよう、と考えていくのが、社会科学として、と言う必要もないですが、私としては、おもしろい道だろうと。あるいはおもしろくなくても、これしかないのかな、と。私の発想は、そういう意味で単純、かつ軟弱なものです。

司会 ご研究の発想まで教えていただいて少しわかったような気がいたしました。
  今日は立岩先生の独自なオリジナルな思考を積み重ねながら論点を詰めていくというスタイルのご報告を聞かせていただきまして、脳が刺激されたような感じがします。思想の背景も語っていただきまして、どうもありがとうございました。


UP:20020902
立岩真也
立岩 真也
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