<生い立ちと学業>
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1905 | (10月18日)バウレ族を構成する25支族の1つアクエ族の首長(母方)の家系に生まれる. |
1910 | アクエ首長Kouassi N'go(母方の伯父)暗殺され、首長になる.義父が摂政役につく. |
1914 | Bonzi小学校入学(生誕は1898年で入学は1909年という説もある). |
1915 | バンジェール中学校入学(50人の合格者の1人). |
1917 | (4月)洗礼を受ける(洗礼名Felix、13歳). |
1918 | ダカール、William Ponty校入学(100人の合格者中20位). |
1921 | ダカール、Jures Carde医・薬学アフリカ人学校入学. |
<補助医師時代>
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1925 | Jures Carde医・薬学アフリカ人学校卒業、帰国、アビジャン中央病院「補助医」. |
1927 | 西部のギグロに転属. |
1929 | 東部のアバングルに転属. |
1930 | アンデニエ王国(アバングル)の王Boa Kouassiの姪、Kadija Sow(セネガル生まれ)と彼女がイスラム教徒だったため「特免」を取得して結婚. |
1931 | 長男Felix誕生. |
1932 | ココア不売運動を指導. |
1933 |
次男Augustin誕生(その後、息子2人、娘1人誕生). (8月)ウフエの弟AugustinアクエのCanton長に就任. |
1934 | Dimbokroに転属. |
1936 | ウフエの母N'dri Kan死去.ウフエToumodiに転属. |
<本格的な政治活動>
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1938 | (12月)ウフエの弟Augustin死去. |
1939 | (6月)死去した弟を継いでCanton長に就任. |
1941 | 長男Felix死去. |
1943 | (1月)Latrille総督(フランス共産党員)着任. |
1944 |
(1月)「自由フランス」ブラザヴィル会議(フランス‐アフリカ会議)開催. (4月)SAA(アフリカ人農業組合)創立、G.Dadierらの推挙でウフエ、初代組合長に就任. (11月)フランス第1回制憲議会選挙で当選、(12月)議員としてパリへ. |
1945 | (2月)フランス共産党院内グループに加入. |
1946 |
(4月)フランス制憲議会でウフエ・ボワニ法案(強制労働廃止法案)全会一致で可決. (4月)PDCI(コートジボワール民主党)結成. (6月)フランス第2回制憲議会選挙で当選. (10月)バマコでRDA(アフリカ民主連合)結成大会、運輸大臣C.Tillon(フランス共産党員)が用意した特別機でバマコへ.ウフエ調整委員会(RDAの最高機関)委員長に就任. (11月)フランス第1回国民議会選挙で当選. (12月)第1回フランス留学生(148名、うち女子13名)派遣. (2月)アンデニエ王継承問題. |
1947 |
(5月)フランスRamadier内閣からフランス共産党離脱. (11月)Pechoux臨時総督(タカ派)着任. (10月)Raymond Barbe(フランス共産党指導者)仏領西アフリカ周遊. |
1948 | (2月)トレッシュヴィル事件、Djaument率いるBDE(象牙民主ブロック)とRDAとの抗争、 |
1949 |
RDA党員300名逮捕、その他地方各地で紛争. (12月)拘留者8名がハンガーストライキ(1月2日まで16日間). |
1950 |
(1月)各地で反仏紛争を起こしたRDAの責任者としてウフエに逮捕状(検挙は実行されず). (2月)ウフエの腹心Biaka Bodaの遺体発見. |
<フランス国務相時代> |
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1950 |
(9月)Pleven 首相と会談 (10月)RDA,フランス共産党院内グループから離脱を宣言. (12月)ミッテラン海外相と会見. |
1951 |
(2月)アビジャン港竣工式にミッテラン海外相アビジャン訪問. (6月)フランス第2回国民議会選挙で当選. (8月)国民議会での演説で不正選挙を告発. |
1952 |
(3月)第1回領土議会選挙でRDA派圧勝、ウフエ議長に就任. (9月)Marie-Therese Brou (第1回フランス派遣留学生の一人、25歳年下)と2度目の結婚. (10月)ウフエに対する逮捕状正式に棄却される. |
1956 |
(1月)第3回フランス国民議会選挙に当選. (2月)Guy Mollet内閣に入閣(delegue a la presidence du Conseil)、基本法草案の準備. (4月)ガーナ・ンクルマ首相(当時)アビジャン訪問. |
1957 |
(6月)Bourges-Maunoury内閣に国務相として入閣. (11月)Gaillard内閣に保健・人口問題相として入閣. (5月)Pflimlin内閣に国務相として入閣. |
1958 |
(6月)ドゴール内閣に国務相として入閣. (9月)フランスーアフリカ共同体を国民投票で承認.ギニアは離脱. (10月)アビジャンで外国人(トーゴ、ダホメ人など)排斥運動. (12月)コートジボワール自治共和国宣言. |
<大統領時代>
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1959 |
(1月)フランス第5共和制Debre内閣に国務相として入閣. (4月)コートジボワール制憲議会選挙に当選、ウフエ初代首相に選出される.そのためフランス政府国務相は辞任. |
1960 |
(8月)コートジボワール完全独立、ウフエ初代大統領に就任. 独立式典に医師Le Dantec(ダカール医学校の創立者、恩師)を招待. |
1962 | (5月)米国を公式訪問、ケネディ大統領と会談. |
1963 |
(1月)閣僚17名、国会議員70名ほかの大量逮捕. (5月)アフリカ統一機構創立総会出席(アジスアベバ) (4月)Ernest Boka(初代教育相)逮捕、獄死. |
1965 | (10月)大統領に再選. |
1966 | UGTCI(コートジボワール労働総同盟)などの反対で二重国籍法案を取り下げる. |
1968 | (4月)ナイジェリア内戦でビアフラ支持を表明. |
1969 | (12月)サンウィの分離独立運動を鎮圧. |
1970 |
(10月)大統領に3選.Fologoを特使として南アに派遣. (11月)ゲビエ(ベテの1支族)の反乱の首謀者ニャベ逮捕、死去. |
1975 | (10月)大統領に4選. |
1980 | (10月)大統領選に5選. |
1983 |
(3月)ウフエの生地ヤムスクロへの遷都法案国会で可決. (4月)教員ストライキ. |
1985 | (10月)大統領に6選.得票率100%. |
1987 | (3月)ウフエの姉の1人Adjua の葬儀、ガボンのボンゴをはじめ8カ国の国家首脳が参列. |
1989 |
(9月)コーヒー、ココアの生産者価格を一挙に半額に引き下げ. (10月)警察の装備拡充のための自らは3000万CFAフランを拠金し、国民的募金運動を提案・開始. |
1990 |
(5月)下級兵士、待遇改善を求めて反乱. (9月)ローマ法王、平和ノートルダム寺院の寄進式にヤムスクロ訪問. (10月)複数政党制下の初の大統領選挙で7選(得票率81.7%). (11月)アラサンヌ・ワタラを首相(新設)に任命. |
1991 | ウフエ・ボワニ平和賞(UNESCO、ウフエ・ボワニの拠金)第1回ネルソン・マンデラとデ・クラークが受賞(緒方貞子の受賞は1995年第5回) |
1993 |
(6月)パリで前立腺腫瘍を手術. (11月19日)療養中のスイスから重態のまま帰国. (12月7日)死去. |
1994 | (2月7日)ヤムスクロの平和ノートル寺院で大葬儀. |