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原口武彦「ウフエ・ボワニ年譜(1905〜1993)」

アフリカアフリカ Africa 2014

日本アフリカ学会第47回学術大会研究発表資料(C7「 F.ウフエ・ボワニ評伝」)
ウフエ・ボワニ年譜(1905〜1993)

2010/5/29 作成者 原口武彦
<生い立ちと学業>
1905 (10月18日)バウレ族を構成する25支族の1つアクエ族の首長(母方)の家系に生まれる.
1910 アクエ首長Kouassi N'go(母方の伯父)暗殺され、首長になる.義父が摂政役につく.
1914 Bonzi小学校入学(生誕は1898年で入学は1909年という説もある).
1915 バンジェール中学校入学(50人の合格者の1人).
1917 (4月)洗礼を受ける(洗礼名Felix、13歳).
1918 ダカール、William Ponty校入学(100人の合格者中20位).
1921 ダカール、Jures Carde医・薬学アフリカ人学校入学.
<補助医師時代>
1925 Jures Carde医・薬学アフリカ人学校卒業、帰国、アビジャン中央病院「補助医」.
1927 西部のギグロに転属.
1929 東部のアバングルに転属.
1930 アンデニエ王国(アバングル)の王Boa Kouassiの姪、Kadija Sow(セネガル生まれ)と彼女がイスラム教徒だったため「特免」を取得して結婚.
1931 長男Felix誕生.
1932 ココア不売運動を指導.
1933 次男Augustin誕生(その後、息子2人、娘1人誕生).
(8月)ウフエの弟AugustinアクエのCanton長に就任.
1934 Dimbokroに転属.
1936 ウフエの母N'dri Kan死去.ウフエToumodiに転属.
<本格的な政治活動>
1938 (12月)ウフエの弟Augustin死去.
1939 (6月)死去した弟を継いでCanton長に就任.
1941 長男Felix死去.
1943 (1月)Latrille総督(フランス共産党員)着任.
1944 (1月)「自由フランス」ブラザヴィル会議(フランス‐アフリカ会議)開催.
(4月)SAA(アフリカ人農業組合)創立、G.Dadierらの推挙でウフエ、初代組合長に就任.
(11月)フランス第1回制憲議会選挙で当選、(12月)議員としてパリへ.
1945 (2月)フランス共産党院内グループに加入.
1946 (4月)フランス制憲議会でウフエ・ボワニ法案(強制労働廃止法案)全会一致で可決.
(4月)PDCI(コートジボワール民主党)結成.
(6月)フランス第2回制憲議会選挙で当選.
(10月)バマコでRDA(アフリカ民主連合)結成大会、運輸大臣C.Tillon(フランス共産党員)が用意した特別機でバマコへ.ウフエ調整委員会(RDAの最高機関)委員長に就任.
(11月)フランス第1回国民議会選挙で当選.
(12月)第1回フランス留学生(148名、うち女子13名)派遣.
(2月)アンデニエ王継承問題.
1947 (5月)フランスRamadier内閣からフランス共産党離脱.
(11月)Pechoux臨時総督(タカ派)着任.
(10月)Raymond Barbe(フランス共産党指導者)仏領西アフリカ周遊.
1948 (2月)トレッシュヴィル事件、Djaument率いるBDE(象牙民主ブロック)とRDAとの抗争、
1949 RDA党員300名逮捕、その他地方各地で紛争.
(12月)拘留者8名がハンガーストライキ(1月2日まで16日間).
1950 (1月)各地で反仏紛争を起こしたRDAの責任者としてウフエに逮捕状(検挙は実行されず).
(2月)ウフエの腹心Biaka Bodaの遺体発見.
<フランス国務相時代>
1950 (9月)Pleven 首相と会談
(10月)RDA,フランス共産党院内グループから離脱を宣言.
(12月)ミッテラン海外相と会見.
1951 (2月)アビジャン港竣工式にミッテラン海外相アビジャン訪問.
(6月)フランス第2回国民議会選挙で当選.
(8月)国民議会での演説で不正選挙を告発.
1952 (3月)第1回領土議会選挙でRDA派圧勝、ウフエ議長に就任.
(9月)Marie-Therese Brou (第1回フランス派遣留学生の一人、25歳年下)と2度目の結婚.
(10月)ウフエに対する逮捕状正式に棄却される.
1956 (1月)第3回フランス国民議会選挙に当選.
(2月)Guy Mollet内閣に入閣(delegue a la presidence du Conseil)、基本法草案の準備.
(4月)ガーナ・ンクルマ首相(当時)アビジャン訪問.
1957 (6月)Bourges-Maunoury内閣に国務相として入閣.
(11月)Gaillard内閣に保健・人口問題相として入閣.
(5月)Pflimlin内閣に国務相として入閣.
1958 (6月)ドゴール内閣に国務相として入閣.
(9月)フランスーアフリカ共同体を国民投票で承認.ギニアは離脱.
(10月)アビジャンで外国人(トーゴ、ダホメ人など)排斥運動.
(12月)コートジボワール自治共和国宣言.
<大統領時代>
1959 (1月)フランス第5共和制Debre内閣に国務相として入閣.
(4月)コートジボワール制憲議会選挙に当選、ウフエ初代首相に選出される.そのためフランス政府国務相は辞任.
1960 (8月)コートジボワール完全独立、ウフエ初代大統領に就任.
独立式典に医師Le Dantec(ダカール医学校の創立者、恩師)を招待.
1962 (5月)米国を公式訪問、ケネディ大統領と会談.
1963 (1月)閣僚17名、国会議員70名ほかの大量逮捕.
(5月)アフリカ統一機構創立総会出席(アジスアベバ)
(4月)Ernest Boka(初代教育相)逮捕、獄死.
1965 (10月)大統領に再選.
1966 UGTCI(コートジボワール労働総同盟)などの反対で二重国籍法案を取り下げる.
1968 (4月)ナイジェリア内戦でビアフラ支持を表明.
1969 (12月)サンウィの分離独立運動を鎮圧.
1970 (10月)大統領に3選.Fologoを特使として南アに派遣.
(11月)ゲビエ(ベテの1支族)の反乱の首謀者ニャベ逮捕、死去.
1975 (10月)大統領に4選.
1980 (10月)大統領選に5選.
1983 (3月)ウフエの生地ヤムスクロへの遷都法案国会で可決.
(4月)教員ストライキ.
1985 (10月)大統領に6選.得票率100%.
1987 (3月)ウフエの姉の1人Adjua の葬儀、ガボンのボンゴをはじめ8カ国の国家首脳が参列.                                                
1989 (9月)コーヒー、ココアの生産者価格を一挙に半額に引き下げ.
(10月)警察の装備拡充のための自らは3000万CFAフランを拠金し、国民的募金運動を提案・開始.
1990 (5月)下級兵士、待遇改善を求めて反乱.
(9月)ローマ法王、平和ノートルダム寺院の寄進式にヤムスクロ訪問.
(10月)複数政党制下の初の大統領選挙で7選(得票率81.7%).
(11月)アラサンヌ・ワタラを首相(新設)に任命.
1991 ウフエ・ボワニ平和賞(UNESCO、ウフエ・ボワニの拠金)第1回ネルソン・マンデラとデ・クラークが受賞(緒方貞子の受賞は1995年第5回)
1993 (6月)パリで前立腺腫瘍を手術.
(11月19日)療養中のスイスから重態のまま帰国.
(12月7日)死去.
1994 (2月7日)ヤムスクロの平和ノートル寺院で大葬儀.


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm

UP:2011 REV:
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