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死刑関連ニュース1989年 朝日新聞(2月)



1989年2月1日 夕刊 2社
◆反「拘禁2法」運動活発化 市民団体集会など


 今国会で審議される予定の「拘禁2法案」をめぐり、人権派の弁護士や市民団体などが異議をとなえる動きが活発化している。
 日弁連は9日午後6時から東京・霞が関の日弁連講堂で市民集会「4番目の『死刑から無罪』−−島田事件から人権と代用監獄を考える」を開く。1月31日の判決で無罪−釈放となった島田事件の赤堀政夫さんのあいさつ、えん罪を生む代用監獄制・拘禁2法案への反対アピールなどを予定している。
 神奈川の市民グループなど主催の「手わたさない・わたしの人権」集会は12日午後1時から横浜駅西口の神奈川県政総合センターで。軍事政権による人権弾圧の怖さを描くアルゼンチン映画「ナイト・オブ・ペンシルズ」を特別上映。最近のえん罪事件で知られる「横浜病妻死事件」の山下章さんら4人が“理不尽な留置場体験”を訴える。
 「国家秘密法に反対する市民ネットワーク」は22日午後6時半から東京・市ケ谷駅前の日本YWCAで「今、ケーサツがこわい」学習会を。えん罪でなめた留置場体験を基に、手塚千砂子さんが「裸体検査などによる人権侵害の怖さ」を訴える。



1989年2月1日 朝刊 3総
◆大蔵敏彦さん 1審から34年間島田事件弁護人を務めた(ひと)


 「無罪に向けて一歩一歩、歩いてきたわけではない。とにかく死刑執行だけは絶対にさせてはいけない。その思いがこれまで私を貫いてきた」
 31日、元死刑囚赤堀政夫さん(59)への再審無罪判決を、静岡地裁の弁護人席最前列で聞いた。裁判長の前に立つ赤堀さんを見つめながら。
 「とにかく、大変だったね、と言いたい。彼の30何年かの苦しみを、時間をかけてポツポツ聞きたい。残りの人生を温かく送れるように、力になりたい」
 自分の性格を「粘りがない。あきらめが早い」という。それでいて、無実を叫ぶ赤堀さんの弁護を34年半続けてきた。4件の死刑囚再審事件で、1審から無罪判決まで弁護人を務めた例は、ほかにない。
 赤堀さんは1審で、事件当時はずっと東京方面にいた、東京に着いた日に雪が降った、とアリバイを主張した。図書館で新聞をめくると、事件の4日前、東京で3月には珍しい淡雪が降った、とある。無実を確信した。
 反省も残る。有罪の決め手になった法医鑑定を、確定審で突き崩せなかったものだろうか、と。「落ち着いたら、当時の文献をひもといてみるつもりです」
 全生活に島田事件があった。その事件が終わった。「弁護士は人権を守るための情熱をなくしてはいけない、と学んだ。これからも、そうしたい」。昭和30年、脊椎(せきつい)カリエスで入院、10年間コルセットがとれないまま、弁護活動を続けた。今も、わずかに前かがみに歩く。
 島田事件の年に結婚した妻智子さんは50年に亡くなった。長女彩子さんと2人暮らし。
 (江木慎吾記者)
      
 おおくら・としひこ 朝鮮京城府(現ソウル市)生まれ。東大卒。昭和25年弁護士登録。29年から島田事件弁護人。53年、静岡県弁護士会会長。静岡県清水市に住む。64歳。



1989年2月1日 朝刊 5面
◆冤罪根絶に司法の誓いを(社説)           


 冤罪(えんざい)の被害者が、またひとり「死の淵(ふち)」から生還した。
 赤堀政夫さん。昭和29年に静岡県島田市で起きた幼女殺害事件の犯人として死刑を宣告され、きのう静岡地裁の再審無罪判決により自由を回復するまで、34年8カ月にわたり獄中から無実を訴えてきた。
 判決は、検察側の主張を一部採りいれつつも、「捜査段階の自白は信用性に欠ける」と無罪の理由をたんたんと述べている。
 同じ日、熊本地裁では婦女暴行事件の犯人とされ懲役3年の刑をうけた故松尾政夫さんに、死後の再審無罪が言い渡された。
 無実が明らかにされて、ほんとうによかったと思う。同時に、正義実現のシステムであるはずの司法制度がおかした償いようのない過ちに対するいきどおりと、いつだれの身に振りかかるかもしれぬ冤罪への恐怖とを、あらためて感じる。
 昭和50年の最高裁「白鳥決定」以後、誤判救済の潮流は確かなものになりつつある。いったん死刑が確定したのち再審で無罪をかちとったのは、赤堀さんが4人目で、世界的にもまれな例だ。それは、司法が過去の過ちを自ら正す健全さを体得したという点で、成熟を示す現象とみることもできる。
 だが、無実の訴えが実るのに、なぜこうも長い年月を要するのか。赤堀さんの身柄拘束期間は、過去最長だった免田栄さんの場合をさらに上回る。松尾さんに再審の門が開かれたのは、亡くなる1カ月前、13回目の再審請求によってだった。
 島田事件には、見込み捜査、別件逮捕、自白の偏重、法医学の大家による鑑定結果への安易な依存など「冤罪の構図」がきわだっている。それにもかかわらず、救済が遅れたのは、司法の威信を守るという大義名分にかくれ、関係者が過ちをかばいあい、真実から目をそむけていたからではないか。
 誤った裁判は、無実の人の人生を台なしにするばかりでなく、真犯人を逃がしてしまうという意味で、二重の大罪である。その責任は、警察、検察だけでなく、裁判所も含めた司法制度全体にある。司法関係者は、この際罪根絶の誓いをあらたにすべきだろう。
 刑事裁判では、犯人の処罰と人権の擁護という2つの要請がとかく対立しがちだ。人間の営みである以上、ある程度の過ちも避けがたい。誤判の悲劇をどう防ぐかは、司法制度に課された永遠の宿題である。
 誤判対策の第1は、自白偏重のあしき体質を一掃することだ。自白は建前の上では「証拠の王」の座を追われたが、わが国の捜査と裁判にはいまなお自白依存の体質が抜きがたくしみついている。
 ウソの自白を誘発しやすい代用監獄制度はできるだけ早く廃止すべきであり、永続化は許されない。弁護士と被疑者との面接権も十分に保障されなければならない。裁判の結論を左右しかねない鑑定の質を高めるための工夫と努力も大切である。
 対策の第2は、誤判の疑いが出てきた場合、速やかに救済の手が差しのべられるよう制度を整えることである。いまの再審制度は旧刑事訴訟法の規定をほとんどそのまま引き継いだもので、再審請求人の権利保護や審理手続きの面に不備が多い。
 島田事件の再審では、検察側が捜査段階の書類の証拠提出を拒否し、現在の訴訟構造に潜む死角の存在が明らかになった。
 誤判を速やかに正すことこそ、司法の信用維持につながる。その自覚にたち、再審を無辜(むこ)救済の制度として純化していく努力を、司法関係者に求めたい。



1989年2月1日 朝刊 3社
◆処刑場跡(東京ある記)


 永井荷風の旧居跡がある新宿区余丁町(よちょうまち)を歩いているうち、町の南端で児童公園に入り込んだ。寒風の強い朝まだき、ブランコにも砂場にも子供たちの姿はない。ぐるりと巡り、隣接した富久町(とみひさちょう)へ抜ける出口に来たら、門わきのイチョウの根元に、ひっそり建つ石碑が目に入った。
 碑文が「東京監獄市ケ谷刑務所/刑死者慰霊塔/昭和39年7月15日建之/日本弁護士連合会」。幅60センチ、高さ2メートルほどの碑前に、黄菊白菊が供えられている。花器は都民生協製「いちごジャム」の透明な広口瓶。「498円」の値段表が張られたままだ。
 市ケ谷刑務所は明治27年(1894)の開所から昭和12年(1937)までここにあり、東京拘置所が巣鴨に完成して廃止になった。ここの刑場で処刑された死刑囚は数百人に上ったという。中に毒婦高橋お伝、怪盗稲妻小僧、大逆事件の幸徳秋水ら12人もいた。
 廃止とともに、なお16人の死刑囚が巣鴨へ送られることになった。それを伝える新聞の見出しが「居は変われど儚(はかな)し」。16人の罪状は、夫を殺した60歳の妻1人が「殺人」、あとは全員が「強盗殺人」だった。
 そして、この跡地の行方が話題になる。「『買い手もすぐにはつくまい』といふ大蔵省の悲観論に対して(略)『祠(ほこら)でも建てれば参詣(けい)人が多くて儲(もう)かること疑いなし』といふ抜け目のないのが数人、処刑場だけの払下げを希望」(朝日)。以来どんないきさつがあったかまではせんさくしなかったが、刑場跡に碑が建ち、児童公園になっているのはなにより。
 碑の横の細道に幼い声が上がった。「どっちぃ行くのぉ?」「あっちぃ?」。保育園児6人が、少女のような保母さんに引率されてやって来たのだ。しおれかけた黄菊白菊の前を、小さなグリーンの帽子6つがちょこまかと駆け抜けた。(吾)



1989年2月2日 朝刊 1社
◆被告死亡で公訴棄却 別府の保険金殺人


 大分県別府市の別府国際観光港で昭和49年11月に起きた「3億円保険金殺人事件」で殺人罪などに問われ、1、2審で死刑判決を受けた荒木虎美被告(61)が今年1月13日に死亡したのに伴い、最高裁第1小法廷(角田礼次郎裁判長)は1日までに、荒木被告に対する公訴を棄却する決定をした。



1989年2月3日 朝刊 2外
◆「おしん」賛美、ホメイニ師「許さぬ」 責任者、一時は禁固刑


 【テヘラン2日=村上(宏)特派員】イスラム革命10周年を間近にしたイランで、「おしん」をたたえたラジオ番組が最高指導者ホメイニ師の怒りを買い、責任者が一時解雇される出来事があった。
 1月28日の婦人デーに放送された「イスラム女性の象徴はだれか」というインタビュー番組。ある女性が「おしん」と答えたため、司会者が「日本の古い時代の女性ではないか。予言者モハメッドの娘などはどうなのか」と聞き返したところ、「それではもっと古い」と答えた部分があり、それが反イスラム的とみられた、というのが専らのうわさだ。
 ホメイニ師は、国営放送のハシェミ総裁あてに「引用するのもはばかられる。この番組をつくった責任者は罰せられるべきだ」と手紙を出した。イラン紙がこれを大きく掲載し、「意図的なものならば、死刑にも値する」とまで強い調子で非難して騒ぎが大きくなった。
 ホメイニ師の手紙が公表されたのは30日。翌31日には、放送局長に5年の禁固、イスラム思想担当責任者ら3人に4年の禁固とムチ打ち50回の判決が下され、4人とも解雇された。1日、4人の刑罰と解雇はホメイニ師の恩赦ですぐ撤回されたが、波紋は大きかった。
 NHKが製作したテレビドラマ「おしん」はイランでも輸入され、人気を集めている。



1989年2月4日 朝刊 5面
◆えん罪防止へ代用監獄廃止(声)


 水戸市 北 繁(大学名誉教授 80歳)
 死刑の確定していた「島田事件」の赤堀政夫・再審被告に対し、静岡地裁は1月31日、無罪判決を言い渡したが、同事件では61年5月、同地裁での再審開始決定の時「残念でならぬ ずさんな鑑定」と題した私の言い分を本欄で取りあげていただいたいきさつがある。
 事件当時、検察当局が被告を有罪と断じた根拠は、故古畑種基東大名誉教授の鑑定にあった事は明らかだが、再審決定当時、その古畑鑑定に多大の欠陥がすでに指摘されていた。
 古畑先生は金沢医大教授時代から、優れた法医学者として私も尊敬していたのであるが、島田事件については、他の法医学者もなぜあんなずさんな鑑定をなさったのか不思議に堪えないとの批判があり、私もその通りだと思わざるを得なかった。
 無罪判決を得た赤堀被告には慶賀に堪えない。被告の虚偽の自白は遺憾ではあるが、その原因の1つに警察当局の被告に対する不当な態度があったと推察される。
 そのことを思うと、今問題になっている代用監獄制度を恒久化する、いわゆる拘禁2法を撤回するよう、強く当局に要求する次第である。それは、出来る限り冤罪(えんざい)を少なくするためにも。



1989年2月5日 朝刊 時評
◆週間報告(1月28日〜2月3日)


 ●政治
 北九州市議選で自・民が議席減 リクルート疑惑と消費税導入も争点となった北九州市議選(定数64)は、改選前に比べ自民が3、民社が1議席減らし、社会は10人全員当選、共産は1議席増やした。公明は現状維持。自民は得票率も4.8%減り、選対委員長は敗北を認めた(29日)
 塚本委員長の進退ヤマ場に 民社党の大内書記長は塚本委員長と都内で会談し、リクルート疑惑に絡む責任問題で、委員長としての進退を含めた決断を求めた(30日)。塚本氏は2月7日の定例中央執行委員会までに、何らかの結論を出したいとの考えを表明(31日)
 竹下改造内閣が資産公開 竹下改造内閣の閣僚(愛野経企庁長官を除く)の資産が公開された。改造内閣が発足した昨年12月27日の時点で所有していた本人名義の土地・建物、預貯金、有価証券、ゴルフ会員権などが対象。公開された20閣僚のうち、16閣僚が株を持っており、額面総額は1億500万円(31日)
 日米首脳が初会談 竹下首相とブッシュ米大統領がホワイトハウスで会談し、両首脳は日米関係が2国間関係にとどまらず、世界にとって重要な意味を持つとして、これまでの日米協力の枠組みを超えて世界的な規模での「幅広い責任分担」が求められていることを確認。首相は日本の経済協力の対象地域を従来のアジア集中型から米国と西側の安全保障にとって重要な中南米や中東にも広げる方針を伝えた(2日)
    
 ●経済
 インサイダー取引規制の政令案了承 証券市場での不公正なインサイダー(内部者)取引を規制するための改正証券取引法の実施細目を定めた政令案が閣議で了承、大蔵省が作成した省令と合わせて4月1日から実施される(31日)
 相銀52行が普銀へ 全国の52の相互銀行が普通銀行に転換、中小企業に限定されていた融資先が大企業にも広がる。普銀転換に伴って、全国相互銀行協会は、第2地方銀行協会となる(1日)
 日韓ニット交渉合意 日本のニット業界が韓国からのニットセーター類の対日輸出をダンピング(不当廉売)だとして政府に提訴していた問題で、韓国側が(1)輸出量を前年実績並みに自主規制する(2)輸出価格の監視制度を設ける、ことに大幅譲歩したため、日本側はダンピング提訴を取り下げることで基本的に合意した(1日)
 貿易黒字、6年ぶり減 大蔵省が発表した1988年の国際収支統計によると、経常収支黒字は794億8800万ドル(前年比8.7%減)、貿易収支黒字は947億8900万ドル(同1.7%減)だった。経常黒字は7年ぶり、貿易黒字は6年ぶりの縮小(3日)
 G7、インフレ防止で一致 先進7カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G7)がワシントンで開かれ、インフレの再燃防止が当面の最大課題である点で一致。食い違いが表面化した為替相場の水準については最近の相場水準を追認することで妥協(3日)
    
 ●社会
 ビデオ押収で最高裁決定 リクルートコスモス社の楢崎弥之助代議士に対する贈賄申し込み事件にからみ、東京地検特捜部が日本テレビから贈賄工作の一部を収録したビデオテープを押収した問題で、最高裁第2小法廷は「押収処分はやむを得ない」と、日本テレビ側の特別抗告を棄却した(30日)
 原衆院議長にリ社献金など1900万円 原健三郎衆院議長の政治団体に、リクルートから過去5年間に計400万円の献金があったことが判明、同議長もこのほかに1500万円分のパーティー券をリ社に買ってもらっていたことを明らかにした(30日)
 4件目の死刑囚無罪 静岡県島田市の幼女殺害事件で死刑が確定した赤堀政夫さんの再審で、静岡地裁が無罪を言い渡し、赤堀さんは34年ぶりに釈放された。また、熊本県の婦女暴行事件で無実を訴えていた故松尾政夫さんの再審でも、熊本地裁が無罪判決(31日)
 追号は「昭和天皇」に 天皇陛下は亡き陛下に「昭和天皇」の追号を贈り、宮殿の殯宮(ひんきゅう)で奉告した(31日)
    
 ●国際
 ユーゴで指導権争い激化 ユーゴスラビアの唯一の政党である共産主義者同盟のシュバール連邦幹部会議長(党首)に対し、セルビア共和国とボイボジナ自治州の党が退陣を要求。党中央委総会で、経済危機に地域・民族問題も絡む深刻な党内対立があらわになった(30日)
 米駐日大使にアマコスト氏 フィリピン大使も務めたアジア通の国務次官。日米間の懸案の現実的解決を重視するブッシュ大統領が、日本指導層への知名度などを買って指名(31日)
 韓国、ハンガリーが国交 韓国とハンガリーは、外交関係開設の合意議定書に署名し、正式に外交関係を樹立した。「反共」を国是にしてきた韓国が社会主義圏と国交を結ぶのは初めて。ソウルの外務省では、修好議定書署名のほか、貿易・経済協力協定、文化交流協定も調印された(1日)
 中ソ外相会談 シェワルナゼ・ソ連外相が、ソ連外相としては30年ぶりに中国を訪問(1日)。銭其シン・中国外相^と2回にわたり会談。中ソ首脳会談の準備のほか、カンボジア問題の政治解決や中ソ国境の緊張緩和などを話し合った(2、3日)
 パラグアイでクーデター 1954年のクーデターで実権を握ったストロエスネル大統領(76)が34年間支配してきたパラグアイでクーデターが発生(2日)、アンドレス・ロドリゲス第1軍団司令官(64)が全権を掌握、臨時大統領に就任した(3日)



1989年2月7日 朝刊 5面
◆真実追求こそ人権擁護の道(声)


   東京都 前川 乃代(無職 29歳)
 34年8カ月ぶりに再審判決で無罪となられた赤堀政夫さん、またすでに故人となられていますが晴れて無罪を勝ちとられた松尾政夫さん、お2人に心から拍手を送ります。
 2つの再審判決を通して感じるのは、人が人を裁くことの重大性と冤罪への恐怖です。明日はわが身にふりかかるかもしれないということをだれが否定できるでしょうか。冤罪に泣く人々がほかにもいるであろうこと、さらに無実でありながら死刑囚としてすでにこの世を去った人がいるかもしれないことを思うと本当にいたたまれない気持ちになります。
 30年余にわたり毎日「死」の恐怖と向かい合ってきた赤堀さんの髪は真っ白です。人間であればこの世に生を受けて人生の盛りを過ごしたであろうその長い年月を思うとき、これは決して許されることのない司法の犯した過ちであると思います。
 1つの事件が起きた時、被害者と加害者の間に存在するのは、ただひとつの真実であるはずです。その真実が人の道にのっとったあらゆる方法で明白にされていってこそ、法というものが人権を擁護するものになりうると信じます。
 被害者の遺族の方々の行き先のなくなった憤りに報いるためにも改めて自らのいのちを手にした赤堀さんの再出発のためにも関係者の人たちは襟を正していただきたい。



1989年2月9日 夕刊 娯楽
◆「夢の遊眠社」と「第三舞台」、新作公演そろいぶみ


 人気劇団の「夢の遊眠社」と「第三舞台」が、11日、東京でそろって、新作の初日を開ける。夢の遊眠社は、野田秀樹作・演出で、坂口安吾の小説を下敷きにした「贋作・桜の森の満開の下」。第三舞台は、1981年に初演した舞台を全面的に書き換えた鴻上尚史作・演出の「宇宙で眠るための方法について・序章」。両公演とも、チケットの前売り開始と同時に、ファンが殺到している。野田と鴻上に抱負などを聞いた。
     
 ●贋作・桜の森の満開の下 「安吾の世界」に材
 野田が1年半ぶりに書き下ろした「贋作・桜の森の満開の下」は、これまでとは、かなり趣が違う。言葉遊びを多用した、機知に富んだせりふは相変わらずだが、時間や空間がねじれた中を登場人物が跳ね回るイメージが強い野田戯曲としては、ストーリーが明確だ。作風が変わった? 「人生も残り少ないし(笑い)、いろんな作品を書いた方がいいと思って」と、33歳の野田は言う。
 野田が「生まれ変わり」と自称している安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」からイメージとエピソードを借りた。「珍しく人間を描いているのかな。これまでは、言葉が記号的に並んで、役者が動くことで呼吸し始めるようなせりふだったけれど、今回は読んでいる時に、すでに息吹があるから」
 舞台では、夜長姫と耳男の凄絶(せいぜつ)な恋物語と、「壬申の乱」を背景に、カンけりや鬼ごっこなどのイメージの中で「ファースト・エンペラー」の話が、紡ぎ出される。「昭和」の終わりと、タイミングが重なった。「僕らの年代は、国とか人間の死に対するリアリティーがないという意味で、歴史上始まって以来の人種じゃないですか。今を逃すと、そういうことを考える機会がなくなるのじゃないか」
 今秋に上演予定の新作も、近松の「国性爺合戦」に材をとっているという。「国家」をテーマにした作品が続くが、「それは、偶然タイムリーだった、ということにしておけばいいことで……。うーん、大河ロマン路線です」。夜長姫役で、元宝塚の毬谷友子が客演している。
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 「贋作・桜の森の…」は、11日−28日(24日休演)、東京都新宿区の日本青年館。3月3日−8日、京都・南座。問い合わせは電話03−496−1051(同劇団)。
      
 ●宇宙で眠るための方法について・序章 「物語」をテーマに
 鴻上は、初めて映画を監督したことでも話題をまいている。封切られたばかりの「ジュリエット・ゲーム」がそれ。小学教師(村上弘明)が、一目ぼれした女性(国生さゆり)を、ひたすら追いかける「恋愛冒険活劇」。村上が熱演だ。
 「宇宙で眠るための方法について・序章」も、チケット売り出しの3日前から、徹夜の行列が出来る前人気だが、以前から鴻上は「あらかじめ知るストーリーと、劇場で体験するストーリーは別の物だ」として、開幕前に内容を公表しない。「ちょっとだけサービスすると、雪深い山荘に集められた11人の男女の話で、テーマは『物語』。どうして僕たちは物語を求めるのだろう、ということです」
 ここでいう「物語」とは、「自分の存在理由の意味付け。僕らは、自分を見つめ、内面を探検していっても、おそらく何もないだろうということに気が付いている。そうではなく、他者との関係の中で、『おれは何かであるはずだ』と、自分の場所を作ってゆくことが物語」「死刑囚が花を生けて、その水を毎朝取り換えることに、自分が生きている意味を見いだした、という記録を読んだことがありますが、これこそが物語です」。
 そして、あらゆる欲望を超えた「人間の唯一の本能は、物語を作る『物語欲』じゃないか」という「新説」を、芝居の中で説明するという。
 夢の遊眠社の今回の公演は、JR東海が協賛している。鴻上も「企業協賛、欲しい。声を大にして募集しています」。スポンサーがついたら、「入場料を数百円でも下げたい。うちの芝居は、何回も見てくれるお客さんが多いから」。
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 「宇宙で眠るための…」は11日−3月12日(13、20、24、27、3月6日休演)、東京・新宿の紀伊国屋ホール。4月2日−13日。大阪・近鉄小劇場。当日券あり。03−367−0292(同劇団)。



1989年2月9日 朝刊 2社
◆大喪の礼に伴う恩赦に批判と評価


 「死刑含める必要」廃止運動家 「指紋押捺は外せ」全国の被告
 「抑制効いた措置」法曹関係者
     
 8日夕の閣議で決定した昭和天皇の大喪の礼に伴う恩赦では、最大の影響力を持つ大赦令から公職選挙法違反がはずれたほか、一律に罪を軽くする減刑令も実施されないことなどから、法曹関係者の間からは「先例に比べて抑制が効いた恩赦だ」との声が聞かれる。しかし、外国人登録証明書への指紋押捺(おうなつ)が人権問題として争われた外国人登録法違反については、在日韓国・朝鮮人を中心に「大赦からはずすべきだ」という要求が出るなど、批判的な意見もある。また、死刑が恩赦の対象にならなかったことに関連して、死刑廃止を求める市民運動家らからは「人道的に死刑は減刑にすべきだ」との主張が出されるなど、過去の政令恩赦の時と違い、市民レベルからの動きが目立った。
 大赦は、確定判決のほか、公判中や捜査中の者も赦免され、恩赦の中で最も効果が大きいが、結局、公選法違反関係は大赦令には含まれなかった。復権令によって罰金判決の選挙違反者などの資格が回復されるとはいえ、実刑などの悪質な違反者の大半は今回の恩赦から除外される見通しだ。
 「政治倫理が問われたリクルート事件が追い風」(法務省関係者)となって、政治家も大赦を強く主張できなかった、とみられる。
 死刑については、死刑制度に反対するグループなどから「死刑は減刑にすべきだ」という声もあった。「現行の死刑制度は憲法違反の疑いが極めて濃く、死刑の廃止、執行停止に向かっている世界の大勢に反している」とするのは「死刑執行停止連絡会議」(代表世話人、菊田幸一・明治大教授ら)。今後、確定死刑囚の減刑を求める要望書を竹下首相あてに提出したり、大喪の礼に参加する死刑廃止国の代表にわが国の死刑制度の現状を訴える文書を送付したりする予定だ。
 一方、「私たちは形の上では被告でも、実際には人権侵害を告発した原告。天皇の名による恩赦ではなく、あくまで判決で決着をつけてほしい」−−法務省が先月中旬、大赦の中に外国人登録法を含める方針を固めて以来、指紋押捺(おうなつ)拒否などで同法違反の罪に問われて公判中の被告らは一斉に反発を示した。
                                    
      
 ○制度そのものに疑問
 板倉宏・日大教授(刑法)の話 国民主権であり、社会の体制も安定している現在の日本の状況からいって、皇室の慶弔事を理由とした政令恩赦を実施する必要はあるのだろうか。恩赦は行政権による司法権に対する介入であり、そもそも制度の存在自体に疑問がある。内閣の専権事項としているわが国の恩赦は、政権党に有利になりがちになるという傾向がある。今回のように政令恩赦の対象が絞り込まれていれば、前例に比べて抑制されている、といえよう。しかし、選挙違反を復権にする理由はまったくないのだから、はずすべきだったと思う。



1989年2月10日 夕刊 1社
◆赤堀さん無罪確定、検察側が控訴断念 島田事件


 死刑囚の再審「島田事件」で静岡地裁が1月31日、赤堀政夫さん(59)に言い渡した無罪判決に対する控訴問題を検討していた静岡地検は10日、「控訴しても、無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」などとして控訴を断念、同日午後にも正式発表する。これにより、赤堀さんの無罪が確定、刑事補償法に基づいて、1万2668日にも及ぶ拘禁生活の刑事補償を請求することになる。



1989年2月11日 朝刊 2外
◆「越北」した独立運動家、韓国が功労者として認知


 天皇暗殺謀った朴烈も
        
 【ソウル10日=波佐場特派員】韓国で、国の独立に貢献しながら朝鮮戦争時に「北」へ渡ったことを理由に評価されてこなかった独立運動家らについて、韓国政府はこのほど、功労者として認知、褒賞することを正式に決めた。対「北」開放政策の一環だが、対象者の中には、日本の天皇の暗殺を謀ったとして大逆罪を問われた朴烈らも含まれている。
 韓国は、この3月1日、日本の植民地下の1919年に起きた全民族的な独立運動「3・1独立運動」の70周年記念日を迎える。独立功労者の褒賞は、この日を期して行われる。
 今回褒賞の対象になるのは、いずれも独立後の朝鮮戦争(50−53年)時に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に「越北」した人たちで、計22人。植民地下の亡命政府、上海臨時政府の樹立や3・1運動に貢献しながらも「北」へ行ったという理由で韓国政府がこれまで認知してこなかった独立運動家ばかりだ。
 主な顔ぶれを拾うと、朴烈、金奎植、安在鴻、趙素昂、といった人物があがっている。
 このうち朴烈は19年に日本に渡り、アナキズム運動に参加。26年、天皇暗殺を謀ったとして死刑を宣告された(朴烈事件)。日本の敗戦で出獄。一時期在日朝鮮居留民団の団長もつとめたが、49年に帰国。朝鮮戦争時、「北」へ行き、その後北朝鮮で要職にもついた。



1989年2月14日 朝刊 2社
◆留学資金殺人に死刑 中国


 【上海13日=伴野特派員】13日の人民日報によると、福建省福州市地裁は11日、日本への留学費用をめぐるいざこざから、留学生とその女友達ら5人を殺し、2人を負傷させた同省の陸上選手李志忠に死刑を言い渡した。
 判決によると、李はもう1人の陸上選手と留学生の泊まっていたホテルを訪ね、留学生と居合わせたり、来合わせた友人をピストルと刃物で次々と殺傷、4500元(1元は33円)を奪って逃げた。2人は、30日に警官隊に包囲され、1人は射殺、李が逮捕されていた。



1989年2月15日 朝刊 1外
◆ホメイニ師、「悪魔の詩」著者へ死刑声明 イラン


 【テヘラン14日=村上(宏)特派員】イラン国営放送によると、イランの最高指導者ホメイニ師は14日、「悪魔の詩」が反イスラム的であるとし、著者の英国籍インド人、サルマン・ルシュディ氏と発行責任者に死刑を宣告し、世界中のイスラム教徒に2人の処刑を呼びかける声明を出した。同師は、2人の居どころを知っている者が処刑の意思がある者に通告することも勧めている。



1989年2月16日 夕刊 2総
◆ホメイニ師の「悪魔の詩」著者ルシュディ氏死刑宣告 世界懸念


 「処刑者」に賞金… NY版元に爆弾予告 仏の出版社は刊行断念
      
 インド出身の英国人作家サルマン・ルシュディ氏の小説「悪魔の詩」が、イスラム教の開祖マホメットを「冒とくしている」としてイランでは最高指導者ホメイニ師がルシュディ氏に“死刑宣告”したのに続き、15日にはイスラム革命機関が同氏を“処刑”した者には賞金を出すと発表するなど波紋を広げている。他方、エジプトのノーベル文学賞受賞者マフフーズ氏は同日、ホメイニ師の“死刑宣告”を「精神的テロリズム」と非難するなど、イスラム世界の中にも事態の行き過ぎを懸念する声が出始めた。
                                    
      
 【テヘラン15日=村上(宏)特派員】イラン国営放送によると、イランのイスラム教革命機関の1つ、「ホルダド月15日財団」は15日、最高指導者ホメイニ師が前日、“死刑”を宣告したルシュディ氏を“処刑”した者に対し「外国人なら100万ドル(約1億2600万円)、イラン人なら2億リアル(約3億7000万円)の賞金を出す」と発表、「実行の際に殺されてしまった場合には殉教者と見なし、その家族の生活は、財団が一生面倒をみる」と約束した。同財団は革命後のイランに新設された機関で、国民の寄付などをもとに、貧困者救済や戦争などによる死者の遺族の救済に当たっている。
 一方、イランのイスラム指導省は15日、同書を発行したバイキング・ペンギン出版社と、姉妹関係にある代理店のすべての本を発禁処分にした、と発表した。
   ◇
 各地からの報道によると、エジプトのノーベル賞作家マフフーズ氏は15日、ホメイニ師が14日、ルシュディ氏に“死刑宣告”したのは「精神的なテロリズムだ。本の主題が何であれ、そこにどんな誤りがあろうとも、民主的な方法で論議されねばならない」と行き過ぎに警告した。
 他方、ニューヨークのマンハッタンにある「悪魔の詩」出版元のバイキング・ペンギン社事務所に15日、爆破予告の匿名電話があり、スタッフらが一時避難する騒ぎがあった。しかし、警察の調べでは、爆発物などは見つからなかった。ロンドンにある同出版社の本社スポークスマンは同日、「『悪魔の詩』の出版は続ける」と表明した。
 しかし、フランスのラジオ、テレビが同日伝えたところによると、「悪魔の詩」の翻訳出版を計画していたパリの出版社「プレス・ド・ラ・シテ」はイスラム教徒による一連の抗議行動を考慮して、「社員や顧客の安全」を理由に、出版中止を決めた。



1989年2月16日 朝刊 千葉
◆怒りの台地(証言 私の昭和:23) 千葉


 廃港への執念、今も脈々と
      
 「腹を立てないやつはバカだ」
 三里塚・芝山連合空港反対同盟の委員長だった一作は、死ぬ直前まで妻の戸村澄江さん(77)にこう言い続けた。
 昭和54年春から悪性リンパしゅに侵された一作は、9月、東京の国立がんセンターに転院。見舞いに来た人たちが驚くほど、やせて、目だけが異様に大きく見えた。
 11月2日、70歳で死去。
 成田空港が開港してから1年と6カ月目だった。
   *   *   *
 北海道小樽市の教師の家に、10人兄弟姉妹の8番目として生まれた。成田市三里塚で父親の農機具製造販売店を手伝う一作と会ったのは、昭和9年の秋、東京・赤坂の牧師の家でだった。
 一作は、当時としては珍しい長髪のざんばら頭に背広姿。持って来た模造紙大の水彩画を見せた。三里塚・御料牧場の並木の紅葉が描かれていた。この日も見合いの後、写生旅行に行くと言い、画板や絵の具を持っていた。
 「芸術家肌のおとなしい人」。その第一印象は、家では、死ぬまで変わらなかった。
 嫁いだのは、その年の暮れ。23歳。一作、25歳。
 18年に召集令状が来た。入隊の日、ろく膜炎の跡が見つかり、その日のうちに帰された。ふだんから「兵隊は嫌いだ」と言っていた一作は、飛ぶように帰ってきた。
 22年に父親が死に、一作は家業を継いだ。
   *   *   *
 41年7月、突然、成田市三里塚に新東京国際空港の建設が決まった。隣接の富里案が地元の猛反対に遭ったため、その代案として、だった。成田なら計画用地の約4割が御料牧場などの国公有地だから、土地取得は簡単だ、との考えが政府にあった。
 そんな場当たり的なやり方に三里塚の農民たちは激怒した。反対運動が一挙に盛り上がった。
 だが、「顔」となる委員長がなかなか見つからない。一作のところに就任要請が来たのは、地元有力者3人に次々と断られた後のことだった。
 一作は「家業が忙しいから」と、いったん断った。ほっとしていたら、夜になって「代わりが見つかるまで、ちょっとだけ引き受けることにしたよ」と言い出した。「店がやっと軌道に乗ったときなのに」。そう思ったが、一度決めたら聞く人ではないので黙っていた。
   *   *   *
 8月20日、三里塚・芝山連合空港反対同盟が結成され、一作は初代の委員長についた。
 戸村家の12畳の書斎が、反対同盟の集会場になった。毎晩のように十数人の農民たちが集まり、激論した。擦り切れた畳の目を指でたどると、あのころのみんなの声が聞こえて来る。
 一作が参加したのは、政府が農民に相談なく、土地を取り上げることが許せないからだった。教会に自宅敷地を提供するほど熱心なキリスト教信者の家庭で育った一作にとって、神の意思に沿う当然の義憤だったと思う。
 基本はあくまでも非暴力だった。
 ところが43年2月26日、これを吹き飛ばす事件が起きた。
 その日、成田市役所下の市営グラウンドでは、約1700人が参加して反対派集会が開かれ、全学連が機動隊員約3000人と衝突した。
 一作は転んだ学生をかばい、警棒を浴びて頭に7針縫う大けがをした。
 成田赤十字病院に駆けつけると、顔や頭を包帯でぐるぐる巻かれ、ベッドに横たわっていた。
 「なぜあの時、おれは機動隊に向かって行かなかったのか」。声を震わせて繰り返した。結婚して30年以上になるが、夫が泣くのを初めて見た。
 さらに3月10、20、31日と続く第1次成田事件から46年の第1、2次代執行にかけて、死者を含め双方に大量の負傷者と逮捕者を数えた。
 一作も44年11月、工事中のブルドーザーにかけのぼり威力業務妨害罪で逮捕された。
 一作の帰宅を待つ1日は長かった。
 疲れ切って帰って来たかと思うと、ものも言わずに寝てしまう。寝言で突然、「このばかやろう」と怒鳴ることがよくあった。本人も自分の声で目を覚まし、「何か言ったか」と聞いた。
 一作と2人、各地の市民集会に招かれた。新婚旅行もしていなかったので、夫婦の旅といえば、このときぐらい。委員長になって以来、どんどん遠くなって、近寄りがたくさえあった夫とのつかの間の2人だけの時間だった。
 53年5月20日、成田空港開港。
 しかし一作はまだあきらめていなかった。怒り声で、自分に言い聞かせた。「まだ完全に開港したわけじゃない。これからでも廃港に追い込める」
 1年後に発病。主治医は「怒り過ぎが病気の原因じゃないですか」と笑い顔で言ったが、冗談に聞こえなかった。
 いよいよ最期が近づき、脈が乱れ始めると、見ていられず、そっと廊下にぬけ出た。死に顔はまるで眠っているようだった。少しほっとした。
   *   *   *
 一昨年夏、北海道に帰郷するため、初めて成田空港を利用した。一作が、あんなに怒った末にできた空港だったが、その威容さには驚いた。
 眼下に広がる北総台地の緑がまぶしい。一作の口癖を思い出した。
 「死んだら骨を空からまいてくれればいい」
 墓は空港から1キロほど離れた農地のわきにある。みかげ石に聖書の1節が刻みこまれている。
 「真理はあなたに自由を与える」(一部敬称略)
        
 ●御料牧場
 三里塚の地名は、佐倉城から3里の距離にあたるのを旅人に知らせるため、街道沿いに塚を築いたところからつけられたと言われる。下総御料牧場は明治8年に開設された。
 太平洋戦争後の昭和21年から23年にかけ、同牧場約1500ヘクタールのうち1000ヘクタール以上が引き揚げ者や周辺農家の次、3男のために開放され、1000戸以上が入植した。
 第2国際空港の予定地と決まったた41年当時は、入植者の生活がようやく安定したころだった。
 当初、戸村一作氏は集会で「天皇家の財産をつぶして空港にするのは昔なら不敬罪に当たり、死刑ものだ」と演説し、支援学生を驚かせた。
 しかし44年、御料牧場の栃木県移転が決まったときには、閉場式に押しかけ、「宮内庁は農民を犠牲にして逃げていくのか」と叫んだ。
 成田空港は昨年、利用客1700万人、離着陸回数が10万回を突破、施設能力が限界に近い、といわれる。
 だが、反対運動はいまも根強く、2期工事の平成2年度大枠完成は絶望的な状況となっている。
 これまでに警察側の死者5人、負傷者3835人、反対派の死者2人、負傷者3000人以上、逮捕者3370人。



1989年2月16日 朝刊 2外
◆麻薬犯70人を処刑 イラン


 【テヘラン15日=村上(宏)特派員】イラン国営放送によると、麻薬の密輸・取引業者70人が14日、イラン国内の26都市で一斉に処刑された。強力な麻薬取り締まりを進めているイランでは、先月16日にも56人の大量処刑が行われた。今回はそれを上回り、麻薬犯の1日の処刑としては、最大規模とみられている。処刑されたのは、長期にわたって麻薬を密輸、販売していた業者で、女性3人を含む。
 イランには、アフガニスタン、パキスタンと国境を接する地域で生産される麻薬が密輸入され、イランはトルコ経由で欧州へ運ばれるルートになっているだけでなく、国内でも常用者の増加が問題になっている。
 取り締まりの中心部隊、革命委員会(コミテ)によると、麻薬中毒患者は約100万人に上るという。
 イランでは先月21日、アヘン5キロ以上、ヘロインのような毒性の強い麻薬なら30グラム以上を製造、密輸または不法所持していれば死刑にするなど、厳罰を科す法律が発効した。



1989年2月17日 夕刊 らうんじ
◆手をつなぐ在日韓国人「政治犯」 残る30人の釈放運動【大阪】


 韓国の民主化が進む中で釈放され、去年暮れにようやくの思いで日本の土を踏んだ在日韓国人政治犯たちが、手をつないで残された政治犯の釈放運動に乗り出した。留学や商用などで訪れた祖国で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)のスパイの疑いで捕らえられた人たちだったが、そろって「つくられた犯罪」を主張、逮捕の経過や投獄中の体験を語り始めている。自分たちの体験を日本国内で正直に話すことが、祖国の「政治犯」をなくし、民主化につながる、と信じるからだ。
 (広島支局 渡辺雅隆記者)
    
 ○「同窓会」
 東大阪市石切のホテルの露天ぶろで1月22日夜、成均館大生趙一之さん(32)=広島市=や元高麗大生の尹正憲さん(35)=東大阪市、李宗樹さん(30)=京都市、会社員朴栄植さん(36)=大阪市=らが汗を流した。「政治犯」として捕らえられ、同じ時期を獄中で過ごした。釈放され、去年暮れに帰国して以来の再会。国内の救援グループも駆けつけ、にぎやかな集まりになった。
 「同じようにでっちあげられながら、刑期は3年の人も5年、7年、15年、無期の人もいる。祖国で氷点下の獄中を毛布1枚で耐えている政治犯のことを思うと…」と一之さん。尹さんが付け加えた。「韓国内には『在日』だけで、まだ約30人の政治犯が投獄されている。少しでも早く残された人の釈放を勝ち取り、あの国から政治犯を無くすことが先に出た人間の義務だと思う」
 一之さんらのかたわらで話を聞いていた夫辛花さん(58)=大阪市=が言った。「あなたたちの姿を見ていると、少しは心も安まります」
 実は、夫さんの夫(61)は8年前、取引先とのゴルフコンペで渡韓中に、「スパイ団の首謀」とされ、死刑判決を受けて服役中。特赦などで懲役20年にまで減刑されたが、糖尿病やがんと闘いながら獄中生活を続けている。夫さんは「幇助(ほうじょ)罪」を問われたため、渡韓も出来ないでいる。
    
 ○証言 
 韓国国軍保安司令部が一之さんや尹さんらを「スパイ団」として逮捕した、と発表したのは1984年10月。だが、その1カ月以上前から、一之さんらは司令部に連行され、過酷な調べを受けていた。
 「夏休みを終えて金浦空港に着いたとたんに男たちに取り囲まれ、そのまま司令部へ。『お前はカンチョップ(間諜)だろ。吐け』。カンチョップなんて言葉すら知らなかったから黙っていると、真っ暗な部屋でいすに座ったまま地下プールにつけられたり、ぬれタオルを顔にかぶせられたりした。電気いすにかけられたこともあった」。一之さんらはそろって証言する。
 拷問の中で、実際には行ったこともない北朝鮮に行ってスパイ教育されたり、友人を洗脳しようとしたりした、と決めつけられた。
 一之さんの場合、友人を装って近づいて来た同じ大学の在日同胞(東京都中野区在住)が、広島市内の自宅まで訪ねて来て見つけた1冊の雑誌がスパイ容疑の唯一の「物証」とされた。それは日本の新聞社が発行した週刊誌の別冊『チュチェの国−朝鮮』。たまたま、高校時代の担任からもらって持っていた。一之さんは「在日韓国人の実情を知りながら、スパイに仕立てあげようとする同胞がいたことがショックだった」。
 「日本で差別され、民族意識に目覚めた私たちは分断された祖国の歴史を学ぼうと留学した。ソウル市民の生活の様子を、日本の親類に話し、韓国内の友人には日本の民主主義について話した。それが、どうして国家機密を北の工作員に報告したスパイになってしまうのか」。「同窓会」でそう話していた朴さんが訴えた。「私が妻や2歳の子どもと別れて獄中につながれた6年余りの歳月のおかげで、朝鮮半島の南北分断の矛盾を日本の人たちが考えてくれたと思う。それが祖国の民主化に役立ったと思えば、私の6年も無駄ではなかった」
    
 ○再渡韓
 「このまま泣き寝入りしたら、何のために留学したのか分かりません」。1月29日夕、広島市内で開かれた帰国報告集会で、趙一之さんは祖国に再び留学する決意を披露した。
 不安がないわけではない。でも「あと1単位で大学を卒業できる。このまま日本にとどまったら、スパイ容疑を認めて逃げたみたいだから」との気持ちが勝った。「無実を信じてくれる人たちからの1枚のはがきに、どんなに力づけられたか」
 広島の集会には、再渡韓する一之さんを送るため、「同窓会」のメンバーも足を運んだ。「一之だけじゃない。私だって、時期が来れば渡韓して無実を晴らすつもりでいる」と朴さん。「一之が無事に復学して留学生活を送れるのか、それとも再逮捕なんてことがあり得るのか。それが韓国の民主化のバロメーターになるかもしれない」。一之さんは近く、再び金浦空港に向かう。



1989年2月18日 朝刊 1外
◆「悪魔の詩」著者謝れば許される イラン大統領、自制訴え


 【テヘラン17日=村上(宏)特派員】イラン国営通信によると、イランのハメネイ大統領は17日の金曜礼拝演説で、「悪魔の詩」の著者サルマン・ルシュディ氏への“死刑宣告”に関し、「著者が誤りを認め、イスラム教徒に謝罪すれば許されるであろう」と述べるとともに、英国などの外国大使館を襲ったりしないよう市民に訴えた。
 一方で、ハメネイ大統領は「イランが両国関係の悪化に責任があるかのような英国の態度は、間違っている」と非難し、本の発行を許したこと、イラン批判をしたことへの説明を厳しい調子で求めた。
 この日、テヘラン大学の金曜礼拝集会に参加した人々は、「英国に死を」のスローガンを繰り返した。しかし同大統領は、デモ隊が英国などの大使館に押しかけたり、建物を破壊したりすれば、それはイスラムを傷つけるだけだと述べ、市民に自制を呼びかけた。また、賞金は重要な要素ではないことを強調した。



1989年2月19日 朝刊 3総
◆小説「悪魔の詩」、日本の書店も販売自粛


 丸善など「テロの恐れがある」
     
 小説「悪魔の詩」の著者でインド系英国人作家サルマン・ルシュディ氏に対するイランの最高指導者ホメイニ師の“死刑宣告”に関連して、世界各国で脅迫事件やデモなどが相次いでいるが、東京でも同書(英バイキング・ペンギン社版)を取り扱っていた洋書販売の最大手「丸善」がテロにまき込まれる恐れがあるなどの理由で店頭販売を中止、2番手の「紀伊国屋」も現時点では取り扱わないとするなど、波紋が広がっている。
     
 関係者によると、これまで日本には約50冊が輸入されて、完売している。「丸善」の本店に当たる日本橋店では、東京にある総代理店を通して、昨年11月から今月はじめにかけて3回にわたり、計十数冊仕入れ、完売した。しかし、今月中旬、10冊を追加注文したところ、代理店側から注文を受けるのを控えているとの回答があった。さらに、ホメイニ師の“死刑宣告”の翌日の16日には、バイキング・ペンギン社の日本事務所から、「同書に関する脅迫が英国などで発生しており、発売を見合わせた方がよさそう」という内容の連絡があったため、発売を中止することに決めた、という。世界各地で騒ぎが広がるにつれ、逆に注文も増え、その後も1日10本以上の電話問い合わせがあるが、担当者が「入手は不可能です」と断っている。
 同店洋書フロアの担当者井上憲彦さんは「万が一、テロでも発生すれば、お客さんに迷惑がかかるため、発売中止措置を取った」と話している。
 一方、紀伊国屋書店理事の渡辺和彦・洋書店頭部長によると、同書はこれまで取り扱っておらず、今のところ店頭販売する予定はないという。しかし、ここ数日来、1日5件から10件の問い合わせが続いているといい、「どうしても欲しいと言われる方の名前や連絡先は記録している。騒ぎが静まり、まとまって入荷した場合に、連絡するためです」としている。
     
 ●〈注〉サルマン・ルシュディ氏の「悪魔の詩」の主な登場人物は、イスラム教の開祖マホメットをもじったと見られる「マホウンド」と、インドの映画俳優「ギブリール・ファリシタ」、「サラディン・チャムチャ」の3人。物語は、ギブリールとサラディンが乗った飛行機がハイジャックされるところから始まる。飛行機は爆破され、2人は抱き合いながら落下する。ギブリールは大天使ガブリエルに、サラディンは悪魔に変身し、奇想天外なストーリーが展開される。
 マホウンドは、ギブリールの夢の中にだけ登場する。マホウンドは商人上がりの予言者で、砂で作られた町、ジャヒリアへ布教に行くという設定。
 この物語の中で、イスラム教徒がとくに問題にしているのは、予言者マホウンドの妻たちが、売春婦になぞらえて描かれている点だ。売春婦たちには、マホメットの実在の妻たちの名前が付けられている。
 例えば、ある個所では「売春宿『カーテン』の女たちがマホウンドの妻たちに成り変わった、とのうわさがジャヒリアの町に広まると、ひそかな興奮が町の男たちの間で高まった」「予言者の留守をいいことに、ジャヒリアの男たちは『カーテン』につめかけ、店の売り上げは3倍になった」などの表現が出てくる。
 イギリスのあるイスラム学者は「キリスト教世界で言えば、聖母マリアを売春婦にたとえるようなものだ」と指摘している。



1989年2月19日 朝刊 1社
◆主婦強殺犯、韓国警察が逮捕 京都府警共同捜査 【大阪】


 京都市南区のマンションで一昨年6月、主婦が刺殺された事件で、京都府警捜査本部(九条署)は当時、土木作業員として来日、現場近くに住んでいた韓国全羅北道全州市孝子洞一街、畜産業趙城テツ^=チョウ・ソンチョル=(29)が同州警察局全州警察署にすでに強盗殺人容疑で逮捕、起訴されていたことを18日、発表した。犯行現場に残されていた指紋、足紋などから趙の犯行と断定、昨年8月、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて韓国警察当局に捜査資料を提供するとともに捜査員を派遣、共同で捜査を進めていた。
 調べでは、趙は一昨年6月5日午後1時35分ごろ、京都市南区吉祥院西ノ庄向田町、マンション「吉祥院ガーデンハイツ」A棟404号、時計眼鏡店員渡辺繁さん(36)方へ押し入り、妻容子さん(当時31)に包丁を突き付けて脅迫、財布から約1万円を奪ったが、容子さんが壁の防犯ベルのボタンを押して騒いだため、包丁で左胸を刺して殺害、逃走した疑い。調べに対し、趙は犯行を自供している、という。
 趙は一昨年2月7日、知人を頼って商業ビザで入国、「吉祥院ガーデンハイツ」の近くにあるパチンコ店従業員宿舎で寝泊まりしながら、京都市内のビル建設現場などで働いていた。しかし、3カ月後の5月ごろからスロットマシーンに凝って負けが込み、盗みに入って犯行に及んだらしい。
 同捜査本部は聞き込みから趙が事件発生の4日後にあわてて帰国していることをつかみ、趙が住んでいた京都市内の部屋の指紋と足紋を採取、現場に残されていた指紋、足紋と照合した結果、一致した。韓国警察当局は趙を去年11月28日に逮捕、12月29日に起訴している。
 日韓両国間には犯罪人引き渡し条約がないため、趙は韓国の国内法によって処罰される。同国では強盗殺人罪は死刑または無期懲役となっている。



1989年2月20日 夕刊 2総
◆「悪魔の詩」の邦訳を出版社が見送り 


 英国籍インド人作家サルマン・ルシュディ氏の小説「悪魔の詩」は、イランの最高指導者ホメイニ師が著者や出版社に「死刑宣告」したため世界的に販売、翻訳の中止が広がっているが、日本でも邦訳を検討していた早川書房(東京)が20日までに、翻訳見送りを決めた。同社は、難解な内容と翻訳の難しさが主な理由としている。しかし、騒ぎが見送りの方向を後押ししたことは否定していない。
 同社は今年1月末、ルシュディ氏の別の小説「真夜中の子供たち」(寺門泰彦訳、上下2巻)を出版している。たまたま「悪魔の詩」への批判が高まってきた時期と重なったため、初版1万部はすぐに売り切れ、すでに重版を出している。



1989年2月20日 夕刊 2総
◆悔い改めても死刑撤回せぬ 「悪魔の詩」著者にホメイニ師声明


 【テヘラン19日=村上(宏)特派員】イラン国営通信によると、イランの最高指導者ホメイニ師は19日夜、「悪魔の詩」の著者サルマン・ルシュディ氏は、「たとえ悔い改めても、許されない」との声明を出し、「死刑宣告」の撤回はありえないことを明らかにした。17日にハメネイ・イラン大統領は、著者が謝れば許される可能性があると述べ、ルシュディ氏がその翌日、遺憾の意を表明したことで、騒ぎはどうやら収拾に向かうと思われた。しかしホメイニ師の再度の強硬声明は、こうしたイスラムの論理とこれに反発する西欧諸国などとの対立の火に油を注ぐことになりそうだ。
 ホメイニ師の事務所を通じて発表された声明は「ルシュディが悔い改め、最も敬けんな人間になったとしても、生命、財産をかけても彼を地獄へ送ることが、全イスラム教徒の義務である」というもの。
 ルシュディ氏は18日、自分の小説が「イスラム教徒に深い苦しみをもたらした」と謝罪の意を表明したが、今回のホメイニ師の声明は「帝国主義者どもの報道機関は、著者が悔い改めれば死刑宣告は撤回されると言いたてた。しかし、これは完全に打ち消されよう」と、“恩赦”の可能性を強く否定した。
 声明はさらに、非イスラム教徒の方が素早く処刑を実行できるのなら、その人は賞金を受け取る資格があるとまで述べ、その場合、イスラム教徒が賞金または報酬を支払うべきだとしている。ホメイニ師の「死刑宣告」に呼応してイランの革命機関や地方都市住民らが賞金拠出を表明。これにはイラン国内でも「報奨金をだすのでは、利益のための殺人になり、宗教心に基づく行為にならない」(18日のエテラート紙)といった疑問を投げかける論調が出ていた。
 再度のホメイニ声明で、イランとルシュディ氏の間に妥協の余地はなくなった観がある。各国の、イランに対する反発がさらに広がる恐れがある。



1989年2月20日 朝刊 3総
◆「悪魔の詩」作者に死刑宣告 価値観の差あぶり出す(時時刻刻)


 「かほどイスラムを冒とくする本を書いた者と出版者を処刑せよ」。イランの最高指導者ホメイニ師が「悪魔の詩」の著者で、英国籍インド人作家サルマン・ルシュディ氏(41)に死刑宣告した。師の怒りはイランのみならず、世界各地のイスラム教徒にまでまたたく間に広がった。事件はルシュディ氏が18日に謝罪したことで収束に動き出したようにみえるが、イラン側はまだ不満を残している。キリスト教の世界とイスラム教の世界。言論の自由を重視する西欧文明と宗教国家。1冊の本が価値観の相違をあぶり出したようだ。テヘランとロンドンから報告する。
       
 ○イスラムの論理 裏切り者に死は当然
 「死刑宣告」が出されたのは、14日のことだった。イラン国営放送の午後2時のニュースが、最高指導者ホメイニ師の声明を発表。「著書『悪魔の詩』で、イスラム教、予言者マホメット及びコーランを冒とくしたサルマン・ルシュディと、その出版に携わった者たちに死刑を宣告する。勇敢なるイスラムの信徒は、彼らを速やかに処刑せよ」
 翌日には、「ホルダド月15日財団」という、貧困者や戦死者の遺族などの救済を事業とする革命機関が、処刑を実行すれば外国人なら100万ドル、イラン人には2億リアル(1リアルは約1.8円)の賞金を出すと発表した。
 国際常識からは異常ともみえる、この「処刑宣言」。イスラムの論理からは、どう説明されるのか。16日付の英字紙ケイハン・インタナショナルは「いわゆる先進国では、身すぎ世すぎは個人の自由なのだろう。しかし、何百万人もの人が神聖視している人格については、何を書くのも自由というわけではない。とくにイスラムでは、予言者やその家族を中傷するものは、打ち首にされねばならない」と論評している。また、あるイラン人は、イスラムを裏切った者に対する死の宣告は、古来からイスラムの指導者の義務だったという。ルシュディ氏がインドのイスラム教徒の家に生まれ育ったということが、肝心な点なのだ。
 この本が最初からイスラムに対する攻撃を目的としていた、という陰謀説も、イランでは強調されている。出版者が、著者に50万ポンド(約1億1500万円)も払ったという、英国のデーリー・エクスプレス紙の記事が紹介され、「資金の出所はシオニスト(イスラエル)だ」という説も流された。イスラム主義の拡張を脅威とみる大国などが、特にイスラム革命を実現したイランつぶしを狙っている、という警戒心が、イランには根強い。
 革命から10年間を乗り切ってきたものの、イラクとの戦争では、停戦受け入れを余儀なくされた。戦時中から続く物価高は貧困層へのシワ寄せが大きく、「モスタザフィン(被抑圧者)解放」の革命スローガンは、ちょっぴり色あせて見える。
 こうした意気のあがらぬ状況の中で、「敵を作り、それへ向けて国民のエネルギーを盛り上げるという、よく取られる手段が、今度の問題ではないか。政権の基盤であるイスラムの原則は譲らぬ、という姿勢を見せることにもなる」−−西側外交筋などには、こんな見方もある。
 (テヘラン=村上宏一特派員)
       
 ○西欧側の見方 「言論の自由」が大切
 「著者に生命の危機」、「殺人部隊すでに出発か」。14日以来ルシュディ氏が住む英国の新聞、テレビは連日トップニュースで報じた。5万6000部刷った本はあっという間に売り切れた。
 ホメイニ師に呼応して、イスラム教徒の多い英北部ブラッドフォード市のモスクの指導者アブダル・カダス氏は「アヤトラ(師)の命令を実行するため喜んで自分の命を投げ出す」と過激発言。英国にはイスラム原理主義者が1000人はいる、との情報も騒ぎを大きくした。ルシュディ氏夫妻は即刻ロンドンの自宅から姿を消し、警察の特別部隊の保護下にはいった。
 「処刑宣告」を待つまでもなく、昨年発刊以来この本に、イスラム教徒は反発してきた。パキスタン、インド、マレーシア、バングラデシュなどは発禁処分をとり、ブラッドフォード市では抗議のため本が燃やされた。今月12日、パキスタンでの抗議デモは荒れて6人が死亡した。が、騒ぎが大きくなったのは、ホメイニ師が登場してからだ。レバノンでひん発する誘拐事件や散発するテロの背後には、ホメイニ師の影がある、というのが西欧の見方。それだけに「宣告」は単なる脅しでなく、深刻に受けとられた。
 「処刑宣告」に対して英政府だけでなく、仏、オランダ、欧州議会まで西欧が足並みをそろえてイランに激しく抗議した。批判の論旨はどれも明解。「どんな意見であれ、自由な発表が保証されるべき」というものだ。しかし、本の内容が適切だったかを問うたものは見当たらない。
 当初、「小説は歴史的事実に根拠を置いている。読んでいない人が文句をいう」と強気の発言をしていたルシュディ氏が、18日、「イスラム教徒に苦痛を与えたことを深く後悔する」との謝罪声明を出した。逆に同日イタリアでは翻訳本が出版され、売り切れた。こうした表面の動きの下で、英国政府は事態を沈静化したい意向を示す。中東和平外交に一役買いたいサッチャー政権としては、昨年12月再開した在テヘラン英大使館を閉じることは避けたいようだ。
 (ロンドン=吉田秀雄特派員)



1989年2月20日 朝刊 特集
◆昭和史「木戸証言」記録から


 故木戸幸一氏が国会図書館の発意に応じて、4人の質問者に語った「昭和史の証言」のうち、太平洋戦争の直前から終戦に至る部分を中心に抜粋し、テーマ別に構成した。内大臣とは、内閣には属さず、天皇の側近にあって天皇と政界上層部とを結ぶ職。国務相である内務大臣とは別である。「証言」の間にはさんだ注、解説と年表は、朝日新聞社で作成した。質問者名は省いた。
                                    
      
  ○首班奏請 「大権」願った宇垣
  「首班奏請」とは、次の首相候補を天皇に推薦することである。まさに国政を左右する仕事だ。昭和の初めまでは、西園寺公望らの元老がきめていた。元老なきあと、内大臣の役目となった。
                                    
      
 −−何度か首班について奏請しているが、その時は重臣の意向をきき、少数意見もつぶさに陛下に申し上げたのか。
 木戸 そうだ。自分の判断も申し上げて、大体おとすところへおとすわけだ。あとの方になると、その方式をとらんし、平沼さんだけと相談したこともあるし、だれとも相談しないでやったこともある。(注 平沼=騏一郎・枢密院議長)
 鈴木内閣から東久邇内閣へ移る時だがね。この宮さんのまわりに変なのがいる。右翼もついている。宮さんに大体話したら、承知したと言う。翌朝お召しになり、昼まで缶詰にした。そして、近衛や緒方と3人で相談して組閣した。軍部を抑えるためにだ。(注 緒方=竹虎)
 幣原内閣の時は、吉田茂を幣原さんの所へやったら、受けないと言うんだ。今日は非常の事態だから陛下のほんとうの気持ちをお話ししたい、陛下も席を与えてとくとお話しするそうだ、と言ったら、幣原さんは引き受けますと言った。この時など、重臣になにも言わなかった。(注 幣原=喜重郎)
  広田内閣のあと昭和12年1月、宇垣一成陸軍大将に組閣の大命が下った。ところが陸軍が反対して、陸相候補を出さないため組閣できない。宇垣は、陸軍の「大命阻止」を天皇の「大権発動」で打開しようと、湯浅倉平内大臣に頼み込む。しかし、湯浅は乗らず、宇垣内閣は流産した。
                                    
      
 木戸 どういう構想で、湯浅さんが宇垣を推したのか、分からないんだ。これはね、軍としては耐えられないことなんだな。懸命に粛軍をやっている軍としてね。どうして3月事件の黒幕だった宇垣を推したのかね。私には分からんな。(注 3月事件=昭和6年、右翼と陸軍の一部とが組んで宇垣内閣樹立を図ったクーデター未遂事件)
 私はふに落ちないので、湯浅さんに会って話したよ。全軍あげて反対なんだ。これは派閥というんでなく、根が深いんだ。陛下が宇垣を擁して全軍と戦うなどはいけない、と言ったら、湯浅さんも同感だったな。湯浅さんの所に宇垣が来て、陛下のあれがあればと言った時、湯浅さんはそれに乗らなかった。
 −−我々事情を知らない者からすると、実は宇垣内閣が出て来ることを、僕は望んだね。
 木戸 要するに、側近に長いことおって、陛下というもののお立場を考えるとだ、宇垣を抱いてだ、全軍と、おれが任命しようとしている男をどうするんだと、ケンカされちゃあ困るんだね。そういう格好になる。
 −−内乱にならないとも。
 木戸 あの時分だんだん、天皇の機関説を排撃するというような空気で、陛下のおっしゃったことは、なんでもしなきゃならんという空気があったんだな。僕は、それは間違いだと言うんだ。だったら、陛下がほとんど窒息されちゃう。ものも言えなくなる。
                                    
      
 ○天皇 戦況すべて伝わった マ元帥訪問は自発的に
 −−軍部の方から、かなり戦況については。
 木戸 戦況はよく聞く。細川護貞の『情報天皇に達せず』にあることなど、全然うそだ。もうさすがに大元帥だから、軍としては、大本営の発表はあれだが、陛下にはほとんど時をはずさずちゃんと申し上げている。
 −−どの程度まで。
 木戸 それは、入った情報全部だ。たとえば、ミッドウェー海戦で日本の航空母艦4隻がやられた時は、即刻報告がきている。その時には鮫島武官が話して、帰りに私に話している。だからそういった調子で、たとえばガダルカナルで反攻の総攻撃があったと、それが失敗したと電報が来れば、翌日ちゃんと陛下に申し上げている。内政のこと、政党の動静、貴衆両院の動き全部、私の知っていることは、陛下も全部ご承知だと解していい。(注 鮫島=具重・侍従武官、海軍)
 −−藤田さんの本で、終戦がうまくいったのは、天皇と鈴木さんのお2人が一致してやったからできたのだと。(注 藤田=尚徳・侍従長)
 −−終戦の原動力がどうであるか、いろいろ解説する人には、鈴木派と木戸派がある。
 木戸 それはそう。だけど、もしあの時鈴木総理があそこにいなかったら、なかなかうまくいかぬ。もし、鈴木さんが法律家だったら、閣内不統一で総辞職で、それっきりだ。鈴木内閣はだれが作ったか。鈴木内閣が生まれてきたのは、私の力だ。それだけの力は、私も持っていた。それから、もやもやしていた御前会議を巻き返したのは、私が触媒なんだから、総理がしっかりしてなけりゃ、やっぱりできない。結局は、やっぱり陛下がしっかりしていたからだ。陛下がご自分では、触媒のような意見は出せない。だから私が出した。
 うまくいく時はうまく事がすらすらといく。逆に原子爆弾も、お役に立っている。ソビエトの参戦も、お役に立っている。うまくいく要素となった。ソビエトや原爆がやってくれたから、この程度復活の日本ができたとも言える。
 −−陛下がマッカーサーをお訪ねになったのは、どなたのお考えか。自発的なのか。
 木戸 自発的にそうした。外務省と話して一向に差し支えないということだった。率直にお話しして、大変ないい効果があった。もし、お会いしなければ、戦犯問題もあり、我々が防ごうにも防ぎきれなかったと思う。
 いよいよ私が巣鴨に入ることになり、12月10日にご陪食になるという。食事の前に、しばらく陛下とお話した。私は前から申し上げていたように、「ご退位は今ここでしてはいけない。いつかというと、日本が平和国家として世界に復帰した時だ、講和条約の時。そこまでは陛下にやっていただきたい」と申し上げた。
 だから平和会議のころ、巣鴨にいたら、松平君が来て、陛下の話をしてそのことを言っていた。私は、そうだが、新しい日本の憲法には退位を認める条項はないし、事実として実行できないかもしれない。しかし、「そういう陛下のお気持ちをどっかに残しておく必要がある、自分も深く責任を感じているということを、どっかで表したら」と言った。これが伝わったとみえ、講和会議が終わった時にご詔勅が出たが、読んだ感じではむしろ逆にとれるような形だった。陛下は不本意でなかったかと思う。(注 松平=康昌・式部官長)
 あとで陛下の地方ご巡幸の時、いちいちお祭り騒ぎだ。私は巣鴨にいて新聞で知った。端的に言えば、坊主にでもおなりになったほうがいいと思った。松平君に注意したら、あれは陛下の悲願だ、とにかく迷惑をかけたのだからみんなに親しく会って慰めたい、お祭り騒ぎにするのは向こうだと言う。それなら分かる、やり方を考えろと言った。
 戦後、だんだんとなんとはなしに、陛下にもご自信がついてこられた。
                                    
      
 ●開戦へ 御前会議がんじがらめ、聖断で回避は無理
 ◇日米交渉進まず
  昭和に入ると日本の進路について、考え方の対立が激しくなってきた。元老西園寺公望ら宮廷グループや親英米派の政治家らは、欧米諸国と協調しながら発展していこうと考えた。一方、陸軍を中心とする勢力は、領土や権益の現状に強い不満をもち、国内の改革を叫んで5・15事件や2・26事件を起こし、外では中国大陸の侵略を進めた。近衛文麿をはじめ多くの要人もこれに引きずられていた。
  さらに、ナチス・ドイツと結んで、英米に対抗しようという陸軍など親独派の主導で、昭和15年9月、日独伊三国同盟に調印した。
  近衛らは日米の衝突はなんとか避けようとしていた。近衛の意を体した前陸軍省軍事課長・岩畔豪雄ら日本側の要人とアメリカのカトリック関係者との間で、民間交渉が行われた。16年4月16日、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官は、それまでの交渉結果を「日米諒解案(りょうかいあん)」として以後の交渉の基礎とすることを話し合った。
  この報告電報を受けて、近衛は喜ぶ。軍も重荷になっていた「支那事変」解決の見通しがつきそうだと、乗り気だった。ところが、日ソ中立条約に調印して帰国した松岡洋右外相は、「日米諒解案」に強硬に反対した。近衛はいったん総辞職し、松岡をはずして第3次近衛内閣をつくる。
                                    
      
 木戸 野村・岩畔から電報が入り、近衛君も喜んだ。ところが、この電報は、素人くさい。宮内大臣が見て、「これは外交文書として、むちゃくちゃだ」と言う。これは外務省を抜きにしてやっていたのだ。近衛君は一応応じようとした。
 松岡は帰って来て、私の所へ来て、「ドイツとソ連はやるだろう。もし、ハーケンクロイツがウラジオストクにひるがえったら、大変だ。だから、その時は日本もやって、シベリアの半ばイルクーツクの線まで進出する」と言っていた。(注 宮内大臣=松平恒雄、元駐英・米大使)
 まずい時はすべてちぐはぐ、ちぐはぐになっていくものだ。最後に、ハルからは侮辱的電報が来た、取り消せと松岡は怒る。近衛君はまあまあとなだめていた。ところが外務省が、近衛君の知らんうちに、アメリカへ電報を打った。そこで近衛君も怒って総辞職するという。私は松岡を切れと言った。
 やめたあとで、松岡が来て、「陰謀だ、陰謀だ」とわめいていた。
                                    
      
 ◇ドイツに筒抜け
 −−日米交渉と3国同盟の関係について。
 木戸 これは日米の腹芸だ。近衛君は、3国同盟が有名無実になっても、アメリカと結んで支那事変を処理したかったし、松岡は、ドイツと結んでアメリカにこわもてで当たろうとしたのだ。日米交渉は、松岡からドイツに筒抜けだった。アメリカ大使館に打つ電報を、同盟の義務と称して、全部ドイツに教えてる。
 ドイツはソ連を攻撃した。日曜日だったが、私はそれを聞いてすぐ参内し、松岡が来たら待たしてくれと言っておいて、私は陛下に会った。こうしておかないと、松岡が陛下に、イルクーツクまでの進撃論など上奏されるとこわいので。私はこういうことを陛下に話して、松岡が上奏したら陛下がいけないと言ってもいけない。いいと言っても困る。総理と相談しろと言ってもらうようにとお願いした。案の定、松岡が来て上奏したら、例の通り陛下に言われて、それを近衛君に報告した。
        
 ◇頂上会談流れる
  このままでは、戦争になってしまう。近衛と木戸はルーズベルトと頂上会談をして、その結果を天皇の意思だとして軍部を抑え、行き詰まった日米関係を一挙に打開しようとした。しかし、アメリカ側はその前に予備交渉が必要だと言う。そんなことをすれば、アメリカは中国からの日本軍の撤兵を主張し、これに陸軍が反対してつまずくことは分かっていた。
 −−洋上会談の計画は。
 木戸 近衛君が来て、自分で乗り出して会談しようと言った。ルーズベルト、チャーチルの大西洋上会談みたいにだ。私は大変結構だと言った。これには陸海軍も乗り気だった。海軍はなんとかいう船を出そうと言うし、陸軍は随員を出そうと言っていた。
 近衛は、僕らのやむをえぬ時の常とう手段だが、陛下のお力を借りようとした。ハルと話がついたら、すぐ私の所へ電報を打つから、陛下のお許しを得てくれ、それから内閣に知らせてくれと言っていた。軍にはメンツがあったが、陛下の御命ならばという隠れみのがある。
 向こうでは、ハル長官が、予備会談なしに両者が会って、あとで日本に裏切られたら大変だと言う。撤兵でつかえる。それでは困るんで、直接ルーズベルトに会いたいと、こっちは言う。とうとうお流れになった。
                                    
      
 ◇天皇が軍責める
  日米交渉はうまくいかない。16年9月6日に御前会議が開かれた。ここで、「10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す」という帝国国策遂行要領が決定する。天皇は心配して、前日に近衛首相、杉山元陸軍参謀総長、永野修身海軍軍令部総長の3人を呼び、説明を求めた。
                                    
      
 木戸 9月6日の時は、近衛君に見せられて驚いた。「明日きめると言ったって急すぎる、期限つきではだめだ」と言ったが、近衛君はどうしてもと言う。それで奏請したところ、近衛君だけでは説明がつかず、両総長も入って説明した。陛下がこれをきかれて、杉山を責めたら、永野が助け舟を出して、「このままでは重病人で死ぬ、大手術をすれば助かる見込みがある」と言った。
 陛下は非常に心配されて、私に、「御前会議で質問してみる」と言われたので、私は、「原枢府議長が質問するはずだから、陛下は締めくくりのご発言を」とお願いした。それで陛下は御前会議の終わりに、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」を引いて、軍をいましめた。(注 両総長=陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、原=嘉道・枢密院議長)
 −−そこまでいっていれば御前会議でくつがえせなかったか。
 木戸 それはできない。ここまで行く間に、がんじがらめに、いろんな手が打たれている。海軍も強くなってきた。近衛君は、陸軍を海軍でけん制していたが、7月ごろ「海軍が強くなって困った」と言っていた。
      
 ◇不意の近衛辞任
  7月、日本軍は南部仏領インドシナへ進駐した。これに対する制裁措置として、アメリカは日本への石油輸出を止めた。これで、戦争に消極的だった海軍でも、開戦派の主張が強くなった。燃料が心細くなったことから、「じり貧」をおそれたのだ。
  近衛は東条英機陸相を説得して開戦を避けようとするが、東条は受け付けない。10月16日、近衛内閣は総辞職する。
          
 木戸 最後に近衛君が投げ出す前に、東条が私の所へ来たので私は、「海軍の首脳部は楽観していない」と言った。東条は、「海軍が自信なければ、戦争はやれない」と言った。東条は主戦論者ではない。しかし極めて事務屋だ。御前会議で決まったからやると言う。しかし、海軍のためなら、考え直す、とまで言った。
 東条が帰ってから、私は、これは若干見込みあり、と考えた。そこですぐに電話をかけたら、近衛は、閣僚の辞表をまとめているという。これも不意打ちだ。
                                    
      
 ◇御製で治まらず
  昭和20年8月、天皇は御前会議で、終戦の決断をされた。ではなぜ、開戦の時に同じような「聖断」で戦争を回避できなかったのかと、よく議論される。一国の運命が決まる時、元首が意思表示するのに和歌を読み上げる程度でよかったのかという疑問は残る。
                                    
      
 −−9月6日の御前会議で、陛下の力を借りることを出さなかったのか。明治天皇の御製では、おさまらなかったのだ。
 木戸 わがままみたいに言えないことはないが、どんなことが起こるか。場合によれば、秩父宮擁立などがおこる。やれるようなら、陛下にやっていただいている。
       
 ◇皇族内閣に反対
  開戦へと突っ走り始めた局面を転回させようと、一部で皇族内閣が企図された。軍部を抑えるには、天皇の権威をより強く感じさせる皇族内閣しかない、というわけだ。木戸は、国民のうらみが皇室に向かうことをおそれ、強く反対する。木戸の念頭にあったのは、なによりも皇室の安泰だった。
                                    
      
 木戸 東条も、東久邇宮を持ってきたら、と言った。私はむずかしいと思った。この場合、臣下でよくできなくて、陛下が自ら皇族を出して開戦して負けたら大変だ。皇室が抹殺される。負けたら国民のえんさの的になる。東条に、陸軍が180度転回したから皇族に願うのか、と聞いたら、そうではなく、皇族という方向で進むかどうかを決める、と言うのだ。私は絶対反対した。
 それで、陛下に会って、「皇族を出してはいかぬ。国民がやらねばならない」と申し上げた。それでだれかということになり、及川と東条以外にない、ということになった。(注 及川=古志郎・海相)
                                    
      
 ●主戦論ではない東条
  木戸は、後継首班を及川にしようか、東条にしようかと迷う。時間はどんどん流れる。9月6日の御前会議で、日米交渉のめどがつかない場合には開戦を決意する、ときめた10月上旬は過ぎていた。戦争を避けるには、とにかくこの御前会議決定を白紙にもどし、日米交渉を続けなければならない。
        
 木戸 東条は陛下の命なら懸命にやるので、強い。9月6日の決定を白紙にかえすなら、東条だと思った。たとえ海外の影響が悪くともだ。
 −−御前会議で決めたのだ。それを白紙にかえすというのは、容易ならぬことと思うが。
 木戸 それはテクニックだ。組閣を命じられたあとで、東条に9月6日の決定をやり直して、これは陛下の命だからと言った。日米交渉の時、近衛と打ち合わせて陛下の命を利用しようとした時と同じだ。まあ、陛下を利用するというか。
 −−陛下にしても、一度決めたことを白紙にするというのは、どうだったろう。
 木戸 別にためらわなかった。
      
 ◇東条以外にない
  東条の首相就任は、外国の目には日本が開戦に踏み出したととられた。東条を首相にしたことがのちに、木戸の最大の失策と非難される。木戸の日記によると、東条を首相にすることについて、天皇は「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児を得ずだね」といわれた。
                                    
      
 木戸 東条は必ずしも主戦論者ではない。事務的な三段論法的な単純な人だ。いやな人間という印象はない。陛下の命とあらば、きくだろうし。
 −−世間では東条をしたから戦争になったと、木戸さんを非難したが。
 木戸 非難は甘受する。壁に背中を押しつけられているのだ。持ちごまは全部使っている。あの段階では陸軍の気に入らなければけとばされた。
                                    
      
  東条内閣は対米交渉を続ける。しかし、誤解や行き違いが多かった。やがて、中国と仏印からの全面撤兵などを求める強い調子の「ハル・ノート」が来る。日本側は、「最後通告」と受けとった。
 木戸 東条は懸命にやった。ところがいい返事がない。最後に、ハル・ノートが来た。これが、急転直下で強いものだ。即時撤兵などだ。もうだめだ。あの時は、モナコでも開戦するだろうと、ある外交官が言った。
       
 ◇開戦ついに決定
 −−12月1日の御前会議は。
 木戸 終わってから食事し、懇談した。若槻などから順々に話したが、戦争をだめという人がいない。さっぱり盛り上がらない。慎重にとか、何とか言うだけで。こうして12月1日の御前会議は、開戦と決定した。(注 若槻=礼次郎)
 その前日、高松宮が陛下に会ってから、私に、海軍は戦争に賛成できない。命が出たら、あとにはひかないが、と言われるので、海軍大臣と軍令部総長を呼んだ。この時は、すぐご裁可がなかった。あとで、2人とも確信を持っているから、決めてよろしいと言われた。東条も、あとで陛下からやれと言われた。
                                    
      
 ●和平へ 強硬論抑えて巻き返す 水際戦を阿南主張
 ◇危機感から試案
  戦局が危機的になった昭和20年4月、戦争終結を考え始めた重臣らに推されて鈴木貫太郎内閣が成立する。しかし、鈴木は表面的には抗戦派の姿勢をとり続け、真意は測り難かった。
  和平のため、中立条約を結んでいるソ連に仲介を頼むことになった。5月14日の最高戦争指導会議構成員会議で、対ソ交渉の開始を決め、6月にマリク駐日ソ連大使と広田弘毅元首相の極秘会談が始まる。
  ところが一方で、陸軍は本土決戦をうたった「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を作成。これが、6月8日の御前会議で決定されてしまう。強硬な抗戦方針に危機感を抱いた木戸は、内大臣の職権外だと思いながら、和平をめざす「時局収拾対策試案」を起草する。
 木戸 6月何日か、御前会議の案を陛下が見ろとおっしゃるんで、それを見ると依然として強いんだな。戦争遂行ということなんだ。
 こりゃ大変だ、私はここで1つ思い切った手を打たなければ、ほんとに日本がだめになると、まあ試案を作って、そして9日に陛下に、同時に秘書官長をして、今の加瀬君とか松谷陸軍大佐とかああいう連中と情報をとっていたから、この連中の意見を徴して、この案でわたりをつけると、こう決心したんだ。(注
 秘書官長=松平康昌、加瀬=俊一・外相秘書官、松谷=誠・首相秘書官)
 その時、陛下が見ろとおっしゃられたお考えは、それまで、私が陛下に終戦の話をしていたにもかかわらずしかも、近ごろ鈴木内閣はその使命でやっておると申し上げていたにもかかわらず、今になってこんな強いものが出てくるとは、どういう考えなんだと、こう思うね。私も実は驚いた。
                                    
      
 ◇具体案作り急ぐ
  木戸の試案は「天皇陛下の御勇断を御願い申し上げ、戦局の収拾に邁(まい)進するの外なし」「御親書を奉じて仲介国と交渉す」とし、条件として、自主撤兵をあげるなど、初めてともいえる具体的な和平案だった。木戸は天皇の許可を得て鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相と協議を始める。
            
 木戸 東郷君に会った時に、「もちろん賛成だが、しかし最近の御前会議の決定で、外務省としては動けない」と、こう言うんだ。それから米内さんに会って話したらね、「賛成だけども総理はどういう考えかね」と、総理が強いのではないかという意味のことを言われたがね。
 そのあとで、総理に聞くとね、もちろんどうかしなければと、「しかし米内はどう考えているかね」と言うんだな。そこいらが、今の5月11日からの案でこう来たのにかかわらず、急に御前会議の強い案が出たり、総理も、ろくに反対しないで、それをそのままつかんだ。総理も米内があまり反対しないので、結局、米内はやっぱりほんとは強いのかなと、こう思ったのじゃないかな。だからね、そのまま強いものがずうっとでてしまったきりになったんだ。
 −−非常に重大だというので、その時はお考えになって、これをお出しになったのか。
 木戸 むろん重大な戦局であり一刻も早くなんとかせねばというお考えだ。まあ内大臣として、私がそういう具体案まで出し自分が動くとは、陛下も予期しておられなかったので、大変ご機嫌よく、ぜひ早くやれというので、私が動き出した。
                                    
      
 ◇18年に終戦の話
  戦局悪化のいきさつをさかのぼると、圧倒的な戦力で米軍が反攻に転じたのは17年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナル島上陸からだった。
        
 木戸 戦争は機会があればやめるということはだいぶ前からあった。もっともシンガポールが落ちたあとすでに「戦力が落ちるから、なるべく早く」と東条に話していた。18年ごろか。
 −−3月30日に、陛下が終戦のお話を木戸さんになさったのが日記に出ている。18年だ。
 −−陛下はそういう時、かなりざっくばらんにお話しするのか。
 木戸 非常にお話は上手な方ではない。じょう舌ではない。だけど、ざっくばらんにお話しになる。
                                    
      
 ◇会いたいと陸相
  20年6月8日の御前会議で決まった「戦争完遂」の方針にしばられて、東郷外相ら和平派の動きが止まってしまったのを、木戸は打開しようとする。抗戦派の阿南陸相にも、和平試案を見せる。
                                    
      
 木戸 それで私は、東郷、鈴木さん、米内さんの3人に話した。
 そのあと、阿南に話そうと思ったが、話したら正面衝突すると思い、時を過ごしていたら、たしか18日か、私に向こうから会いたいと言ってきた。会ったら、いきなり、「あんたがやめるという話があるが、やめちゃいかんよ」と言うんだ。そこで私は、「これから私の言うことをあんたが聞くと、やめろと言うかもしれんよ」と言って、私の試案を見せて、こうこうだと話した。
 阿南は、「分かる、だがもう一度水際でたたいて、それを機会に秘密交渉に入った方が有利じゃないか」と言う。私は、「そうは思わん。水際でたたいて、あんたが特攻機3000機を全部つぶしても、もう一度来たらこっちはゼロだ。そしたら結局上陸されて、日本は松代の洞くつで全滅することになる。あんたがた軍人は幸せだ。ご馬前で最後の突撃すれば済むかもしれんが、政治家はそうはいかん。あとのことを考えなきゃならん」と言った。阿南は、よく分かると言った。(注 松代の洞くつ=大本営の移転予定地)
                                    
      
 ◇窮境知らぬ広田
  木戸の言上で、天皇は20年6月22日、最高戦争指導会議の構成員を召して戦争終結の努力を求め、ソ連に仲介を求める和平工作が正式に決まった。
                                    
      
 木戸 6月22日に陛下に申し上げたら、御前会議にとらわれないようにとおっしゃってもらった。そんなわけで、一応はやっと木戸試案にのったわけだ。
 −−大体、内府案の対策が構成員の会議で承認されたか。
 木戸 承認という意味ではない。内大臣の位置からいって、原案者にはなれない。
 内大臣は口で話す以上に、書類でこれでと政府につきつけることはできない。一種の触媒だな。5月から東郷が案を練っていた。だからね、内閣で最初から手をつけたのが東郷君だ。
 東郷君は、米内、総理を説きふせても、内閣の方針に持っていきそこなっている。御前会議の案でいこうというのを、それは困ると言って、私が試案で巻き返した。大体の方針はこれでいいとして、広田は意外に日本の窮境を知らない。たとえば、日本の海軍がほとんど全滅していたことは知らない。それはあとで巣鴨で分かった。
                                    
      
 ●原爆も「工作」に弾み
  仲介を頼もうとしたソ連はすでに2月のヤルタ会談の秘密協定で、対日参戦を米英に約束していた。日本はそれを知らない。
  広田らの和平工作がはかどらないため、政府は近衛を特使としてソ連に派遣することを決めた。
                                    
      
 −−近衛さんの持っていく和平条件は。
 木戸 結局、軍隊の武装解除と固有の日本をできるだけ維持するという案だ。
 −−近衛私案か。それとも陛下とお話しになった上でのものか。
 木戸 近衛私案だ。私との話は日米会議の時と同じだ。陛下の親書を持って特使として行く。要するに、軍隊を抑えるためだ。
 ソ連の仲介で連合国の連中が承知して、それを基礎にしてネゴシエーションするところまでくれば、その時、近衛が私の所に電報を打ち、それを私が陛下に申し上げ、逆に内閣に向かって、近衛のことについて陛下はご承知と、こう言えば。軍隊だって戦争に勝てないことをよく知っているが、めんつの問題なんだ。陛下の命だときく。どうして武装解除するか。軍隊は何百万も無傷だ。大変なんだ。
 −−8月に原爆が落ちなかったら、ふんぎりがつかなかったのじゃないか。
 木戸 ソビエトが参戦してもまだつっぱるんだから。日本の国体をきめるとかなんとか、そんな夢物語で日本をつぶしちゃう。あの観念右翼というのが一番困る。
                                    
      
 ◇「宣言」を物差し
  7月26日、米、英、中3国が日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。連合国による占領、日本軍の武装解除、戦犯の処罰などの条件をあげた宣言に対して、鈴木首相は「ただ黙殺するだけである」と発言した。
                                    
      
 木戸 そのうち、ポツダムからあれが出た。鈴木さんはその辺のところでと思ったようだが、リードしていく気迫がない。年をとって、いわゆる後入斎になっていたね。だから、この宣言も新聞では黙殺した。向こうでは、黙殺を否定ととって、それで強くなった。(注 後入斎=人のあとについて動く人)
 また時がたって、そこへ原爆が落ちた。これは大変なことだ。9日にソ連の参戦だ。日本にとって最悪の状況がぱっぱっと起こったが、こっちもはずみがついて、しゃにむに和平に持っていくことになる。この時、ポツダム宣言が1つの物差しになった。あの時、宣言がなかったら我々が考えねばならぬ。宣言が基準になった。
                                    
      
 ◇強硬論再び浮上
  ポツダム宣言への態度を決める8月9日深夜からの御前会議で、「聖断」によって天皇統治大権だけを条件として宣言受諾が決まった。12日、バーンズ米国務長官から「天皇及日本国政府の国家統治の大権は……連合軍最高司令官の制限の下に置かれるものとす」という回答が伝わると、軍部や平沼枢密院議長が「これでは国体が護持できない」と再び強硬論を主張、紛糾する。
                                    
      
 木戸 このころから、また逆に陸海軍とも非常に強くなってきた。一時は、原爆とソビエトの参戦でショックを受けたが、だんだん巻き返してきた。そこへこの回答が来て、国体を汚すと平沼さんあたりが反対した。
 私も、今更これで腰くだけでは困ると思って、総理に「行く」と電話した。で、実は平沼さんが来てこうこうだと話をしたら、「それは重大問題だ」と言って、初めはどうやらぐらつく。みな日本の都市をつぶされ、国民はどうなる、国体とか非国民とか言っても、我々4、5人が殺されれば済む、やりましょうと言った。厄介なのは、最高戦争指導会議で決めねばならないことだ。これは総理と両総長が判を押さないとできない。(注 両総長=梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長)
                                    
      
 ◇米軍ビラで決断
  最後の御前会議は8月14日、あわただしく開かれた。
 木戸 バーンズ回答がビラでまかれた。朝に僕がベッドにいる時、持ってこられて知った。日本語訳だ。これが全国津々浦々の軍隊に知られたら大変なことになる。ぼくは朝飯も食わずに陛下のところに行って、「こんなものをまかれたら、このままでは大変だ。至急にご決定を願うほかはない」と申し上げると、陛下も「もっともだ」と言われ、10時半に閣僚が集まった。
 急のお召しだから、服も着替えず平服のまま来た。そこでご聖断を願った。だからね、内閣も一致していなかった。だから、これが普通の法科出の憲法に精通していた総理なら、内閣の不統一で総辞職ものだ。ところが、たまたま提督総理でかまわないから、平気でできた。こっちも、ご聖断、ご聖断でやってしまった。うまくいく時はうまくいくもんだ。陛下のおぼしめしが分かっていたから、閣議決定した。その時は、阿南もご聖断にサインしている。
                                    
      
 ○二人の宰相 近衛が準備し東条が戦
 木戸 私が文部大臣になったころ、近衛君はね、内閣を参議と入れ替えようと話するんだ。驚いたね、全く。私は一つ一つくずして、とうとうだめにしたんだが、近衛にはこういう思いつきがある。だからあの人のおもりは大変なんだよ。これはね、だれも知らないことだよ。(注 参議=12年、内閣強化のため臨時に置かれた内閣参議。国務相待遇で、宇垣一成、池田成彬、松岡洋右ら10人を任命)
 −−近衛内閣成立の経緯などについてお願いする。
 木戸 林内閣の倒れ方がおかしかった。今度は近衛君に出てもらおうと思った。今度は2・26事件のあとより、近衛君にも色気があると思った。会ってみると、覚悟していた。
 −−事変が起こりそうなので、近衛さんが出たのか。
 木戸 全然予想してなかった。支那事変、大東亜戦争の時など、まさに近衛によってだ。3国同盟をするということも。近衛は性格的に弱く、軍がかつぎやすい要素がある。
 −−親軍派。
 木戸 これが、あの人の分からんところで、軍といっても、合理的な統制派より、神がかりな皇道派にずうっと近いのだ。
 私と対照的なのは近衛だ。会った人は共産党でも右翼でもみんな近衛さん近衛さんといって味方になる。うまいことを言うからね。僕にはあの野郎、あの野郎といって敵になった。仕方がない。性格なんだな。
 −−東条内閣について。
 木戸 東条は一生懸命にやっていた。内閣を作る時、内務大臣も兼ねるのはどういうことかと聞いたら、「陛下の命で戦争をやめることにするが、国内混乱したらその責任を取るためだ」という。まことにごもっともだと承知して。これが東条のいい所だ。まじめにやるところだ。
 −−それで、誤解されている。
 木戸 東条を奏請したのは、誤解でなく正解だ。政治家としたら、そのくらい憎まれなきゃ。
 東条は事務的だから、かならず私に報告する。例の帳面を出してね。それから手袋をはめてすうっと帰る。ちょうど、上官に報告するようにだ。
 話する暇もなくなった時は、赤松秘書官がよく来て、何か注意してくれと言う。で、もう少し政治家になれ、と言ったことがある。「東条が馬に乗ってごみ箱を見るのは、どうなんだ」と聞いたら、赤松君は「どれだけ国民が苦しんでいるか、陛下に代わって見ているのだ」と言う。そこで赤松君に、「総理は陣頭指揮と言うが、総理大臣の陣頭はどこだと聞いてくれ」と言ったら、赤松君は頭をかかえていた。私は首相室だと思う。東条というのは、そういう男だ。(注 赤松=貞雄)
 近衛君があのまま生きていて戦犯になったら死刑だろう。広田が死刑になるくらいだからね。文官から1人殺すなら、総理だったし、やっぱり近衛だろうな。東条はむしろ後始末みたいなものだ。2つの御前会議で、英米との戦争は近衛が準備し、時期が来て東条が戦をした。単純だよ。(注
 広田=弘毅・元首相)
                                    
      
 ○鈴木貫太郎 分からないタヌキ…
  小磯内閣のあと、首相になれという話に、鈴木貫太郎は初め、高齢などを理由に固辞した。
                                    
      
 木戸 鈴木さんを陛下の所に連れて行って、「こういう時だから、引き受ければ、まことに重大な決意をせねばならぬ」と言うと、「分かっておる、陛下の命とあらば」と言った。私の印象では、引き受けてくれたし、私にはいいと思ったが、何とも分からぬこともあった。強いことを言う。
 −−あの当時は、強気でいかぬと大変だった。
 木戸 幸いに、あの人は侍従長だったし、私も秘書官長で親しかった。話しやすかった。陛下の気持ちが大体分かる。皇室をつぶしてまで焦土作戦をする人ではない。海軍の軍人でもあるし、それで押し切ったのだ。
 −−いまだに、鈴木さんについては、ぼんくらだ、という説と、秘めたる志があったという両説があるが。
 木戸 秘めたる志ではないが。年をとって、だいぶもうろくされていたし、タヌキでもあった。
 −−議会では、迫水書記官長が鈴木さんに耳うちすると、それをおうむがえしに言うだけだった。しかし、何かある。収拾してくれる、と議員は思っていた。(注 迫水=久常)
                                    
      
 ○木戸証言について 『日記』の含意を肉付け 伊藤隆・東大教授
 木戸幸一は昭和10年代に活躍した華族として、近衛文麿、有馬頼寧(第1次近衛内閣で、木戸は文相・厚相、有馬は農相であった)と共に代表的存在であり、特に昭和15年に天皇に最も近い側近、内大臣に任命され、太平洋戦争の開戦と終戦に際して、天皇の側にあった。彼のこの間の日記(昭和5〜23年)及び関係文書は、私もその一員である木戸日記研究会の手で出版され(東京大学出版会)、昭和史の基本史料の1つとなっている。木戸のこの間の行動はこの日記及び関係文書によって正確に知ることができる。
 今回ここに紹介されたのは、昭和42年に国会図書館によって行われた木戸に対するインタビュー記録の抜粋である。事実のレベルにおいて、日記その他で知られていることを大きく変更するような発言は見られない。ただ、日記はおおむね簡潔であり、例えば「某々来訪、面談」といった記述の場合、その会話の内容を伺い知ることができないことが多い。この談話は、それを一部補うものである。また日記は極めて客観的な記述であり、そこから木戸の感情を伺うことはかなり困難である。この談話はまたそれを伺い知ることの出来るという点で、貴重である。
 この談話の中で、木戸はこの間に接触した多くの人々について論評している。こうした後の回想に有りがちな、回想の時点での再解釈から、この談話もまぬがれていないが、人々に対する感情・評価という点から、日記の記述の微妙な含意を読み取ることができるのである。
 先に述べたように、第1次近衛内閣で首相と閣僚であった近衛、木戸、有馬は、昭和15年の「新体制」(これは当初近衛を中心とした新党の計画であり、結局大政翼賛会になる)計画の中心でもあった。木戸は近衛の最も近い相談相手であったが、木戸は近衛の人事政策について「真意がわからん」と言っている。木戸が嫌っていた陸軍の皇道派と近衛が個人的には親しいという、軍とのかかわり方の違いも2人の間にはあった。木戸は近衛の「理想論」を批判している一方、彼の「不徹底」さをも批判的に述べている。近衛がしばしばその政治的姿勢を変えたことは確かである。近衛がいわゆる統制派と同調して「シナ事変」を拡大し、国内の「新体制化」を推進した時、木戸は必ずしもそれに基本的に反対して行動したわけではない。しかし、近衛が、日米開戦に躊躇(ちゅうちょ)し、第3次内閣をほうり出し、さらに開戦後皇道派などと組んで早期和平の方向に動き始めたとき、内大臣木戸はこの動きに反対し、自らのソ連を通じての和平という方向で和平へのイニシアチブを握ろうとした。木戸は近衛の情報に対するルーズさを警戒していたし、目的の実現のためにはそれを秘匿することが何よりも必要な事だと信じていた。これが、近衛の立場からは「情報天皇に達せず」という事態であり、木戸の側からは、防止すべき不正規のルートによる天皇への働き掛けという事態であったのである。木戸はまた、「会った人は……みんな近衛さん近衛さんといって味方になる。僕にはあの野郎、あの野郎といって敵になった」という性格の対照性を指摘しているが、これは確かに政治家としての相違を端的に指摘する言葉であろう。
 木戸は皇道派を含む「精神右翼」に反発し、むしろ統制派と言われる永田鉄山や東条(「論理がシャープ」「まじめ」「主戦論者ではなかった」)に対して、むしろ好感を示している。彼らのきちょうめんな、ある意味では官僚的な実務能力を買っていたように見える。逆に平沼などの「精神右翼」、皇道派の真崎など、そして海軍にも必ずしも好意を持っていないし、政党の評価は極端に低い。軍にも三分の理があり、それを抑え切れなかった政党を批判するという論をしばしば述べている。また西園寺と牧野にはその柔軟さに好意を表明し、逆に一木喜徳郎や湯浅倉兵などは「頑固」で「政治家でない」として低い評価が与えられている。これの説明として「下からこつこつ上がってきた人間」ともともとのエスタブリッシュメントとの違いを挙げているが、それだけではなさそうに思える。
 また近衛には軍が担ぎやすい要素があると述べたすぐ後に、彼と皇道派の関係をあげている。しかし、これも3国同盟を始めとする近衛内閣の施策がほとんど統制派のリードによって行われたという事実をミスリードするような発言である。
 天皇の行動に関しては、木戸はおおむね天皇を(皇室をも含めて)政治の過程に引き出そうとする動きを抑えるという、これまでの天皇側近と同じような態度を取っている。宇垣内閣流産の時の説明もその1つである。しかし、開戦回避の際(日米首脳会談計画)と終戦の場合(近衛特使派遣)には、明らかに天皇の権威を用いる計画であった。前者の説明の中で、木戸は「近衛は、僕らのやむをえぬ時の常とう手段だが、天皇のお力を借りようとした」と述べている(しかしこれも開戦につながる9月6日の御前会議で、天皇の力を借りた場合、「あの時に、一刀両断はっきりやればやれる」が、その結果「場合によれば秩父宮擁立などがおこる」危険性を指摘している)。そして東条内閣の成立の際、いわゆる9月6日の決定の「白紙還元」を内大臣として「陛下の命」として伝達するという行動を取っている。終戦工作の場合には天皇と意思を疎通させながら、軍の反発を避け、薄氷を踏む思いで事を進めている。前述のように近衛や吉田茂らの動きとは一線を画して行動し、「軍隊は何百万も無傷だ。この連中に、連合国が武装解除する。どうして承知できるか」という状況の中で、「御聖断」を導く。その役割は木戸の言葉によれば「触媒」である。正式の決定は内閣によって行われ、上奏裁可されたのである。
 数年前に問題となった、木戸の「天皇退位問題」もここに率直に述べられている。巣鴨に入る直前の天皇からの招待の際に述べたというが、これは日記には記載がないので、確認できないが、後の時期の日記(未公刊)に記載されているようである。
 木戸は日米戦争について、「2つの御前会議で、英米との戦争は近衛が準備し、時期が来て東条が戦をした」と述べている。これは一面の説得性を持つが、木戸はその中でどういう役割を果たしたのか、この談話では語り尽くされているとはいえない。
                                    
      
 ○主なできごと
 明治22・7・18  木戸幸一生まれる
   34・4・29  昭和天皇、裕仁親王誕生
 大正 3・7・28  第1次世界大戦始まる
    4・2     木戸、京都帝大法学部卒業、8月、農商務省に
            入る
 昭和 5・10・28 木戸、内大臣秘書官長兼宮内省参事官となる
    7・5・15  5・15事件
    8・8・24  木戸、宮内省宗秩寮総裁兼内大臣秘書官長
            となる
   11・2・26  2・26事件
   12・1・29  宇垣内閣流産
   12・6・4   第1次近衛内閣成立。木戸、文相のちに厚相を
            兼ねる
   12・7・7   盧溝橋事件
   14・1・5   平沼内閣成立。木戸、内相
             (〜14・8・28)
   15・6・1   木戸、内大臣となる。天皇側近として、
            国政の実権を握る
   15・7・22  第2次近衛内閣成立
   15・9・27  日独伊三国同盟調印
   15・11・24 西園寺公望死去、91歳
   16・4・13  日ソ中立条約調印
   16・7・16  第2次近衛内閣総辞職、第3次近衛内閣成立
   16・7・28  日本軍、南部仏印へ進駐
   16・8・1   アメリカ、対日石油輸出を止める
   16・9・6   御前会議、帝国国策遂行要領を決定
   16・10・16 近衛内閣総辞職。木戸、拝謁(はいえつ)して
            皇族内閣に反対の旨をいう
   16・10・17 重臣会議。木戸、東条を次期首班にと主張、
            反対なし
   16・10・18 東条内閣成立。木戸、東条に「9月6日の
            御前会議決定にとらわれずに」と天皇の意を
            伝える
   16・11・26 米、強硬な「ハル・ノート」を日本側に示す
   16・12・1  御前会議。対米英蘭開戦を決定
   16・12・8  太平洋戦争始まる
   17・2・15  シンガポール陥落
   17・6・5   ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
   18・2・1   日本軍、ガダルカナルから撤退始める
   19・7・18  東条内閣総辞職
   20・2・4   ヤルタ会談
   20・4・1   米軍、沖縄本島に上陸
   20・4・5   小磯内閣総辞職、7日鈴木内閣成立
   20・5・7   ドイツ無条件降伏
   20・5・14  最高戦争指導会議構成員会議、対ソ交渉方針
            決定
   20・6・8   御前会議。本土決戦の方針を決める
   20・6・22  最高戦争指導会議構成員会議で天皇「戦争
            終結の努力」を求める
   20・7・10  最高戦争指導会議。ソ連に近衛を派遣する
            ことをきめる
   20・7・26  対日ポツダム宣言
   20・7・28  鈴木首相「ポツダム宣言を黙殺」と発言
   20・8・6   広島に原爆投下、9日長崎にも
   20・8・8   ソ連参戦
   20・8・10  9日深夜から御前会議。国体維持を条件に
            ポツダム宣言受諾を決める
   20・8・12  降伏条件について連合国の回答来る
   20・8・14  ポツダム宣言受諾を決定、玉音放送の録音
   20・8・15  玉音放送
   20・8・15  鈴木内閣総辞職、17日東久邇内閣成立
   20・9・11  東条ら戦犯39人に逮捕命令。東条自殺未遂
   20・9・27  天皇、米大使館でマッカーサーと会見
   20・10・4  近衛、マッカーサーから憲法改正について
            激励される
   20・10・5  東久邇内閣総辞職。9日幣原内閣成立
   20・11・24 内大臣府廃止
   20・12・6  近衛、木戸らの逮捕命令出る。16日近衛自殺
   21・2・19  天皇、神奈川県下を巡幸、全国巡幸の始まり
   21・5・3   極東国際軍事裁判始まる。23年11月木戸に
            終身刑の判決
   30・12・16 木戸、病気のため仮釈放
   33・4・7   木戸、赦免。神奈川県大磯に隠棲(いんせい)
   42・2・16  国会図書館で第1回談話録音、77歳
   52・4・6   木戸幸一死去。87歳



1989年2月21日 夕刊 1総
◆「死刑宣告」に批判的な見解 「悪魔の詩」問題で外務省首脳


 外務省首脳は21日、「悪魔の詩」問題について「それぞれの国の歴史、伝統、習慣を尊重しなければならない。(『悪魔の詩』の著者が)多少の配慮に欠けた、という人もいる」としながらも、「しかし、殺人の教唆も感心しない」と、イランのホメイニ師の「死刑宣告」に批判的な見解を示した。
 ただ、同首脳は西欧諸国がイランに抗議し、駐イラン大使の召還を表明していることに関連しては、「日本としては駐イラン大使を召還することは考えていない」と述べ、大喪の礼参列のため来日するイランのミル・サリーム副大統領と宇野外相が会談する際も、日本側からこの問題を持ち出さない考えだ。



1989年2月21日 夕刊 1総
◆素粒子・21日


 中曽根もの言わず、下おのずから疑惑を成す? 米テレビでしゃべり、こちらで貝ではね。
   ×
 竹下「侵略」と言わず、イタリア紙おのずと批判を成す。第2次大戦の歴史ねじ曲げ、と。
   ×
 桃李春風の候近いのに、国の目的は善く生きること(アリストテレス)の薄きを嘆くのみ。
   ×
 イランで会った優しく親切な若者たちよ。『悪魔の詩』作者に死刑宣告の異常に何思うか。
   ×
 月食、雲上にあり。山中に隠者を尋ね、雲深く居所わからずなんてつぶやいてあきらめた。



1989年2月21日 朝刊 1総
◆EC12ヵ国、駐イラン大使召還へ 「悪魔の詩」問題  


 【ブリュッセル20日=友清特派員】欧州共同体(EC)加盟12カ国の外相は20日ブリュッセルでの閣僚会議で、イランのホメイニ師が英国籍インド人作家S・ルシュディ氏の暗殺を呼びかけたことに抗議し、全加盟国の駐イラン大使が引き揚げるなどの声明を、満場一致で採択した。これによって「悪魔の詩」問題は、EC諸国とイランとの外交問題にまで発展、イラン側の反応が注目される。
                                    
      
 合意内容について外相会議は、20日中に公式声明にまとめて発表する。
 英国外務省スポークスマンによると、この声明は各国政府によってただちに実行に移され、ルシュディ氏への脅威がなくなるまで続けられるとしている。
 ホメイニ師がルシュディ氏の著書「悪魔の詩」をイスラムへの冒とくとして同氏に死刑宣告したことを、声明は国々の平和共存と表現の自由に反すると非難し抗議の意思を表明するため、(1)全EC加盟国が駐イラン大使(大使を置いていない国は公館長)を本国に呼び戻す(2)各加盟国駐在のイラン大使の行動を首都の半径60キロ以内に制限する(3)政府高官の訪問禁止の3点でほぼ合意したと述べている。



1989年2月21日 朝刊 1総
◆EC、厳しい対イラン共同行動 「悪魔の詩」問題<解説>


 インド人作家S・ルシュディ氏の「悪魔の詩」をめぐるホメイニ氏の暗殺呼びかけに抗議して駐イラン大使引き上げを決めたECの共同行動は具体的外交措置を伴う、厳しいものになっている。ホメイニ師の「悪魔の詩」著者に対する死刑宣告が余りに常識外れとしても、暗殺団の組織や、同氏への攻撃など具体的な行動が明らかになっていない段階では、極めて異例といえるだろう。
 その背景としては、EC諸国の政府のみならず国民の反ホメイニ感情がある。レバノンでの西欧人誘拐、各地のテロは同師の影響下にある原理主義者の犯行といわれ、苦汁を飲まされ続けてきた各国の反応が、その分増幅されて大きくなったことは否めない。
 しかし、これまで単に「言葉の上」だけだった互いの応酬が、緊迫感を増し、いつ本物のテロにかわってもおかしくない状況になってきたことは確かだ。
 (ロンドン・吉田特派員)



1989年2月21日 朝刊 2外
◆イスラム教と国際常識 宗教については守りの姿勢(透視鏡)


 外国で、自分の信じている宗教について聞かれると、無宗教だと答える日本人が多い。
 しかし、日本ではふだんそう気にしない宗教の問題も、ここ中東では、何かにつけ意識させられる。イスラム教に原理主義が勢いよく広がったのは、この地域の人々が、イスラムに自分たちのアイデンティティーを見いだそうとし、かつ、西洋化でない近代化を模索する際の思想的な支柱にしている、という背景があると思われる。
 そうした状況を理解し、他人の宗教を尊重しているつもりの立場からみても、疑問をはさみたくなる出来事が、イスラム革命の国イランで相次いでいる。
 その1つは、1月末、イラン国営放送の番組で、最高指導者ホメイニ師が激怒し、番組責任者の処罰を求めた事件。教祖マホメッドの娘ファティマの誕生日を記念した「女性の日」の番組で「イスラム女性の象徴はだれか」と問う街頭インタビューに、ある女性がテレビドラマで人気の「おしん」の名をあげ、ファティマを「1400年も前の古い女性」と答えたのが大変な侮辱と受け止められた。ホメイニ師の手紙が同放送の総裁あてに出された翌日、関係者4人の解雇と禁固刑、ムチ打ちの判決が下り、反イスラムと見られたら、最高指導者の一言でたちまち処罰されるのかと、外国人たちは肝を冷やしたものだ。
 これは、すぐ恩赦が出たし、国内問題で済んだ。しかし、今月14日、「イスラムを冒とくする書物」とされた小説「悪魔の詩」の著者と発行責任者に、ホメイニ師が死刑を宣告、世界中のイスラム教徒に2人の処刑を呼びかけた事件になると、国際問題である。さらに、イラン及びイスラムのイメージにもかかわってくる。
 問題の小説の著者はイスラム教徒の家に育った。自分たちの宗教を裏切った人間には、死が与えられるのがイスラムの教えだ、とイラン人はいう。また、この事件の前のことだが、最高裁長官のアルデビリ師が「イスラムの厳罰主義は、イランの評判を落とすことにならないかと心配する人がいるが、予言者マホメッドは、自分の娘でさえ、悪いことをすれば手を切る。それは神の罰だから、といわれたではないか」と語っている。
 それぞれの宗教には、それぞれの歴史や教義がある。しかし、イスラム教徒に国境はないとはいっても、今日の国際社会で、外国にいる人間に、その国の法手続きを踏まず、いきなり死刑を宣告したうえ、賞金をかけてまで処刑を進めるというのは、どう考えても行き過ぎではないだろうか。こんな疑問は、「国際常識を気にして、宗教の原則を曲げろというのか」と逆襲されるだろうか。
 イランは革命後の1979年11月、米国の大使館を学生らが占拠し、館員を人質に取った事件で、国際的な印象を害し、孤立化へのきっかけをつくった。武器補給にまで苦しんだイラン・イラク戦争中の苦い経験を経て、昨年の国連停戦決議受け入れ後は、微笑外交を繰り広げ、孤立から抜け出すことに努めた。
 次期最高指導者に指名されているモンタゼリ師も、革命10周年を迎えた今月11日、過激なスローガンは「世界中の人に、イラン人は人殺しを任務とこころえていると思わせ、イランを孤立させてしまった」と指摘し、急進主義を戒めた。今回の作家らに対する「死刑宣告」は、同じ歴史を繰り返すことにならないのだろうか。
 戦後のイランでは、戦時下ではやむを得ない面があった言論の自主規制を廃して、自由な批判が必要だとする論調が高まってきた。その中で、イスラムについては、ことさらに守りの姿勢を固くしている印象がなくもない。宗教問題にうっかり触れると、どんな罰が下るかわからない、という恐れがついて回る。もちろん、ひとの宗教問題を興味本位で取り上げるべきではない。筆者も、一方的な判断でイスラム教を批判するつもりはないことを、イラン当局が理解してくれることを祈っている。
 (テヘラン 村上宏一)



1989年2月21日 朝刊 1外
◆イラン孤立の事態も 西欧、原理主義を警戒 「悪魔の詩」問題


 大使召還で新局面
                                    
      
 【ロンドン20日=吉田特派員】英国在住の作家に対するイラン・ホメイニ師の「死刑宣告」に対し、欧州共同体(EC)は20日、対イラン抗議で共同歩調をとることで基本的に合意した。宣告への共同非難声明とともに、駐テヘラン各国大使の一時召還など具体的な外交措置が盛り込まれる厳しいもので、「悪魔の詩」騒動は新しい局面にはいった。イラン側の反応はまだ出ていないが、イランが再び国際的に孤立する事態も考えられ、ペルシャ湾岸情勢は場合によっては再び不安定化する恐れもある。
           
 20日、ECがテヘラン駐在大使の一時召還などで共同歩調をとることに基本的に合意した背景には、「言論の自由を守る」という西欧民主主義の基本擁護だけでなく、イスラム原理主義への共通した警戒感がある。例えばレバノンでの人質事件は、ほとんどがホメイニ師の影響下にあるヒズボラ(神の党)の行為と当地では受け取られている。イラン・イラク戦争終結後、イラン政府は穏健派が指導権を握って、対西欧融和を図りつつあるが、今回の事件が再び原理主義派を勢いづかせ、彼らが世界各地でテロに走るのではないかとの懸念だ。
 スペイン、仏、伊など欧州各国では、問題の書「悪魔の詩」の翻訳が予定され、すでに一部出版されているが、ここ数日これらの翻訳者、出版社に脅迫が行われていることも、懸念に拍車をかけている。
 20日の決定に先立ち、事件の最初の段階で、米、仏、西独など欧米各国はホメイニ師宣言に激しく抗議、欧州議会も抗議の決議を行った。西独は駐イラン代理大使を帰国させた。各国とも既に個々には対策をとっていた。
 これに対し、ルシュディ氏の在住する一方の当事者、英国は、これまで、旧イラン大使館の増員計画は凍結したものの、それ以上の行動はとらず慎重な態度を続けてきた。この背景には、14日以来のイランとの交渉から、ホメイニ師は国内急進派に動かされているが、ラフサンジャニ議長やハメネイ大統領など政権内現実派は、ホメイニ発言に批判的だとの認識があり、イラン政府を追い込むことにちゅうちょしていた。
 20日、ハウ英外相がEC外相会議で対イラン共同行動をとることを提案したのは、こうした認識にもかかわらず国内外の圧力に押されたためと言える。また、突出した単独行動をとることを避けたとも言える。
 しかし、今回の共同行動が、イラン側から何らかの肯定的反応をもたらすという保証はない。その場合EC側がとれる行動は外交関係の断絶など限られたものになる。その場合再びイランを孤立化に追い込み、過激な行動に走らせる可能性がある。対イラン強硬行動はその意味で両刃の剣ともいえよう。
 こうした欧州の対イラン強硬態度に比べ、イラン以外のイスラム諸国はイラン擁護、反イランいずれにしても、発言を抑え距離を置く姿勢を明確にしてきた。下手に論争に介入、国内の論戦に火を付けて、内に抱える原理主義グループを刺激するのを避けるためだ。特に湾岸諸国は国内にイランと同じシーア派住民が多くいるだけに慎重だ。
 インド、パキスタン、マレーシアなどもすでに以前から「悪魔の詩」を発禁処分にしている。
 しかし、西欧が今回、統一行動で合意したことで、イスラム諸国側も何らかの行動に出る可能性が出てきた。イスラム諸国会議の開催も一部で提案されており、その場合は、アラブ全体をも巻き込んだ論争に発展する可能性がある。



1989年2月22日 朝刊 1外
◆イランの対外強硬派勢いづく 「悪魔の詩」問題


 【テヘラン21日=村上(宏)特派員】欧州共同体(EC)との間で双方が大使召還という事態を招いたことで、「悪魔の詩」問題はイランにとっても重大な外交問題に発展した。国際的な孤立から抜け出そうという目下の外交路線から大きくそれてしまったわけで、特に西欧諸国との関係悪化は、戦後の復興を遅らせることにもなりかねない事態となっている。
 「悪魔の詩」の著者に対する最高指導者ホメイニ師による「死刑宣告」は、対外強硬派を力づける結果となっている。21日のイラン国営通信によると、宗教者組織「テヘランの戦う聖職者」は20日、英国との国交を即刻断つよう求める声明を出した。また19日の国会では数人の議員が、英国との関係改善を進めた外務省の方針を非難し、この本の出版を認めた英国に、もっと早く抗議すべきだったと批判した。
 21日のイラン紙ジョムフリ・イスラムには「今回の問題は、イランにとってはイスラムの大義を守る戦いであり、西欧諸国はイデオロギー戦争を持ち込むべきではない」とするベシャラチ外務第1次官の寄稿文が載った。同次官はこの中で「米軍艦がイランの民間機を撃墜した時、彼らは何も言わなかったではないか」とも述べている。
 対イラク戦争後のイランでは、借金も含め外国からの協力を得ながら復興を早めようという考えと、外国依存は独立を危うくするから、できる限り自力で復興を目指す対外強硬論とが対立してきた。最近では、借金は当面しないことで指導部の考えがほぼ一致したものの、西側先進国をはじめとする外国との経済協力まで否定するものではなかった。しかし、「悪魔の詩」問題は、経済協力の後退にまで及びかねない、と西側外交筋はみている。
 もし、著者のサルマン・ルシュディ氏が実際に殺されでもすれば、イラン石油の輸入禁止を含む経済制裁も考えられる。イランの新聞には、イスラム諸国による石油輸出禁止戦略を提唱する論調も現れたが、アラブ諸国から同調する動きは出ていない。輸入禁止によるイランへの痛手が大きくなる可能性の方が、むしろ高い。ベシャラチ外務次官が、いみじくも「イデオロギー戦争」と呼んだ新たな戦争の影がイランを覆い始めた。



1989年2月23日 夕刊 2総
◆西独では共同出版へ 「悪魔の詩」


 【ボン23日=雪山特派員】西独の出版業者団体は22日、著者サルマン・ルシュディ氏がイランから死刑宣告を受けて問題となっている小説「悪魔の詩」を、イランの言論抑圧への抗議の意思表示として多数の出版社による共同出版として出版する方針を決めた。すでにトーマス・マンなどの文芸書で知られるS・フィッシャー書店など14社が参加を明らかにしている。



1989年2月23日 夕刊 2総
◆米加で抗議強まる 「悪魔の詩」問題


 【ニューヨーク22日=金丸特派員】イランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の作者サルマン・ルシュディ氏に死刑宣告したことに対し、ニューヨークでは22日、文学者らによる2つの抗議行動があった。問題の作品の朗読会とイラン国連代表部への抗議デモだ。一方、カナダでも同書の輸入を認めた国税大臣の身辺を警察当局が厳戒したり、外務省が駐イラン臨時大使の召還を決定するなど、やはり動きが目立ち始めている。
 ニューヨークでは22日午後、米国ペンクラブなどの主催で「悪魔の詩」の朗読会が開かれ約400人が参加した。この日は同書の米国版が出版された日。朗読の一方で、有力作家らが次々にホメイニ師の死刑宣告を「文学への迫害」と非難、同書の発売を中止した大手チェーン書店の弱腰を批判した。
 一方、カナダでは「悪魔の詩」の輸入を認めたジェリネック国税相に対して、暗殺脅迫があったと伝えられ、国家警察は22日から同相の身辺を厳戒態勢下においた。
 また、カナダ外務省は21日夜、駐イラン臨時代理大使の召還を決定した、と発表した。クラーク外相によれば、この措置は「ホメイニ師の死刑宣告に対する拒絶の意を示すもの」だという。



1989年2月23日 朝刊 1外
◆経済関係で思惑に差 「悪魔の詩」問題への措置で欧米各国


 【ロンドン22日=吉田特派員】「悪魔の詩」著者へのホメイニ師の「死刑宣告」問題で、欧米諸国は大使召還や抗議声明など足並みをそろえて対イラン措置をとっているが、イランとの経済関係をめぐる思惑はばらばらだ。
 EC外相会議で最も強硬な主張をした西独は、「西独・イラン経済協力は大きな影響を受けるだろう」(西独産業貿易協会)と予測。英国は、イランが実際の行動に出るような場合は、経済制裁も含め、対イラン措置をさらにエスカレートする構えだ。
 これに対し仏は、政経分離の方針を明確にし、現在進行中のイラン内でのガスタービン、自動車組み立て工場建設などの商談は積極的に進めている。また英連邦内のニュージーランドは「肉の輸出など経済に影響を与える事態は避けたい」(ロンギ首相)と、英国の呼びかけにもかかわらずECの大使召還にも同調していない。



1989年2月23日 朝刊 1外
◆米の大手書店が販売やめ、論争に発展 「悪魔の詩」問題


 【ニューヨーク21日=金丸特派員】英国籍インド人作家サルマン・ルシュディ氏の著書「悪魔の詩」は米国でも大手書店の本棚から姿を消し、言論の自由と安全論争に発展している。21日にはニューヨーク・タイムズ紙上に、全米最大手書店の社長からの釈明文が掲載された。また、米国ペンクラブは21日、ニューヨークで22日に「悪魔の詩」の朗読会を開くと発表、国連本部ではデクエヤル事務総長が死刑宣告の撤回を求める意向であることが明らかにされた。
 米国最大のチェーンストア書店ウォルデンブックス社は16日、同社所有の書店1200軒の店頭から「悪魔の詩」を引っ込める決定をした。同社では全体で1万部を購入、全米660市のチェーン店で売っていたという。



1989年2月23日 朝刊 1外
◆仏は共同出版の話 「譲歩だ」と批判も 「悪魔の詩」問題


 【パリ22日=清水特派員】新聞・出版各社が合同で翻訳すべきだ、いや、それではイランの脅迫に屈することになる−−「悪魔の詩」の翻訳出版をめぐり、仏国内の世論が沸騰している。
 フランスでは、ホメイニ師がルシュディ氏の死刑宣告をした直後、版権を持っている会社が出版延期を表明。これに対し、革新系の週刊誌エベヌマン・デュ・ジュディの呼びかけで、エクスプレス誌、フィガロ紙など20近い出版社、新聞・週刊誌が共同でフランス語訳を出版するため準備を始めた。
 しかし出版者の1人アラン・モロー氏は「合同出版は不寛容に対する譲歩であり、勇気というより後退である。フランスには危険を賭(と)しても、個人で出版に挑む出版人がいることを示すべきだ」と指摘、社会党幹部もこれを支持した。



1989年2月23日 朝刊 1外
◆経済制裁受けても死刑宣告変えぬ 「悪魔の詩」でホメイニ師


 【テヘラン22日=村上(宏)特派員】イランの最高指導者ホメイニ師は22日、宗教指導者らに当てた声明の中で、小説「悪魔の詩」の著者に対する「死刑宣告」について、「これは神の命令であり、たとえ経済制裁があろうとも変わることはない」と述べた。これは、欧州共同体(EC)諸国が駐イラン大使の召還という強い意思表示をした事態を受けても、イランは方針を変えない決意を改めて示したものだ。
 イラン国営放送で読み上げられた長文の声明は、主に宗教的なもの。その中で、「後世、この死刑宣告がイランに対するEC諸国の強い反発を招いたことを理由に、間違っていたという人々が出てくるかもしれない」と指摘した上で、「どんな反響があろうと、たとえ経済制裁が行われても我々は妥協すべきでない」と述べている。
 ホメイニ師は一方、イラン国内で革命10周年を機にでてきた、革命の成功していない部分を見直そうという論調に反撃。例えば現実的な外交政策を推進しようとする動きに対し、「今度の(『悪魔の詩』をめぐる)問題は、大国がいかにイスラムを敵視しているかを示した。現実的な外交という考えは、単純すぎる」と、批判的な考えを明らかにした。



1989年2月24日 朝刊 3総
◆英外相、日本政府に支持求める 「悪魔の詩」問題


 大喪参列のため訪日したハウ英外相は23日、英国大使公邸で記者会見し、小説「悪魔の詩」をめぐるイランとの対立で「経済制裁などの措置は考えておらず、外交ルートを通じて解決を図りたい」としたうえで、「それには各国の支持が不可欠。日本にも共同歩調をとるよう要請したい」と、24日に予定している宇野外相との会談で、欧米各国の対応に支持を求めることを明らかにした。
 ハウ外相はホメイニ師の「死刑宣告」を「言論と出版の自由に対する挑戦」として改めて批判し、「日本政府からはまだいかなる意思表示もなく、我々への支持を要請したい」と述べた。



1989年2月24日 朝刊 5面
◆「悪魔の詩」は謝罪と寛容で(声)


   東京都 安倍 治夫(コンサルタント 68歳)
 イランの最高指導者ホメイニ師が、「悪魔の詩」という小説を涜神的として激怒し、著者に“死刑宣告”した心情は、日本のイスラム教徒の1人として原理主義の立場から理解できないでもない。
 しかし、表現の自由や国際法の立場からはいかがなものであろうか。他国の文学者の言論が自国の宗教の原理を侵すからといって、もし一国の元首が一々死刑を宣告し、国境を越えて他国に刺客を送ることがゆるされるなら、主権も人権も平和も保たれまい。
 この方式をおしすすめると、名作「神曲」の地獄編の中で、預言者マホメットと女婿のアリーを無残な八つ裂きの刑に処して見せた、詩人ダンテなども、さしあたり罪万死に値し、これを傑作とたたえるイタリア国民は死刑を免れまい。それではいかにもおかしい。
 もともとイスラム教は寛容の宗教であり、同一の真理を求める限り、他宗教との平和的共存を否定しない。コーランでは、「あなたの宗教はあなたのもの、私の宗教は私のもの」という言葉で、1300年も前に、信仰の自由を宣言している。
 ルシュディ氏の謝罪とホメイニ師の寛容によって、この1件が平穏に落着することを祈りたい。



1989年2月25日 朝刊 解説
◆天皇そして昭和(テーマ談話室)


 ●現行憲法第1世代のつとめ
 昭和天皇の死去に続く一連の事態から、私はいま、われわれ現行憲法下で生まれた第1世代の政治的な力量不足を思い知らされると同時に、より若い世代のために取り組むべき課題の重大さを痛感している。
 現行憲法下で最初の、新たな手続きで営まれるべき昭和天皇の葬送と新天皇の誕生が、明治憲法下の天皇制の魔力に酔い続けている世代とその陣営で政治的影響力を獲得した人々によって支配され、明治憲法下の儀式が、実質的に復活しつつある。
 現行憲法上の天皇の地位は、天皇家の伝統に正統性の根拠を持つものでなく、すべての儀式は新たな原理に基づくべきであって、小渕官房長官は「憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重する」と述べているが、国事行為について必要なのは「憲法の趣旨」だけである。
 昭和天皇の戦争責任はマスコミをあげてのキャンペーンによって、死去後の2日間で少なくとも国内的には否定されてしまった。しかし、戦争責任の核心は、他国への軍事的侵略に対する政治的責任であり、軍隊の統帥は国家唯一の主権者たる天皇の専権だったのである。統制の対象であるはずの軍人に押し切られたとか、ミスリードされたとかいう議論は、統帥の誤りを認めるものであって、そこから生じた結果への責任を否定するものではなく、むしろ加重するものであろう。
 戦後も、被害国に対して真に責任を負う気持ちがあったならば、退位の契機はいくらでもありえたのではないか。占領軍を始めとする周囲の意向に従ってとどまっただけだという議論は、時々の権力に寄り添う道を選んできたということを認めるに等しいのではないか。
 いま、このような想定をする不穏当さを承知のうえでいえば現行憲法に合致した天皇交代手続きを含む天皇制の創造は、30年ほど待たねばならないことになった。そのころ、われわれの世代は社会の第一線から退きつつあるはずである。それではわれわれに何ができるか。それは、あとの世代のために現行憲法の否定、弱体化をめざす政治に抵抗し、天皇をめぐる伝統的要素の払拭(ふっしょく)に努めることであろう。
 新天皇の神格性、カリスマ性の欠如を理由に楽観的予想をする論調が多いが、私は必ずしも同意しない。むしろ、疑わしい過去からの切断が「象徴」としての尊厳の強要を初めて可能にするかも知れないのだ。しかも日本の「象徴」は穏やかな老人、よき父親、誠実な若者という、それ自体としては批判が困難な具体的人格を伴って目の前にある。一見健全に見える多くの人々の無関心さは、同時に歴史的・批判的関心の欠如をも意味する以上、「象徴」の政治的利用にとって不都合な土壌ではないのである。(神戸市 宮沢 節生 41 大学教授)
                   
 ●異国にさらされた遺骨
 過日、公民館で「きけわだつみの声」を見ました。39年前につくられた映画で、学徒兵の遺稿を集めて出版された同名の本をもとにした作品です。
 戦場はビルマのジャングルの中で雨期、戦況は不利。敵弾に当たり最期をとげる者、上官の手でだまし討ちされる者、手投げ弾を与えられ自殺を求められる者、病に侵され薬も食べ物もなく望郷の思いを胸に死んでいく者、現実はもっと悲惨だったはずです。私も中国に従軍し、わが人生は20歳で終わりかと思った時は、目を閉じると身内の顔や故郷の一木位置草までやみに見え、望郷の思いにさいなまれた経験があります。胸を締めつけられる思いでした。
 無念の死を遂げた多くの将兵の遺骨はいまも異国の野山にさらされています。一方、犠牲になった将兵に「死は鴻毛(こうもう)より軽しと思え」とその名のもとに命じた天皇は、いま24億円という巨費をかけて墓に祭られようとしています。遺骨を野山にさらされている将兵の胸中はどんなでしょう。祖国の安泰と繁栄を願って命をささげた人々には手を差しのべていない。これでは死んだ将兵は浮かばれない。
 黒字大国という繁栄の世を享受している我々は、困難は多いにしても異国に眠る将兵の遺骨収集を、何十年でも続けるのが犠牲者に対する義務だと思うのですが。(船橋市 秋葉 行雄 63 無職)
         
 ●若き未亡人の死
 日中戦争が本格化して間もなく、僕の住んでいた村にも中国大陸での戦死者が相次いだ。英霊(遺骨)が郷里に無言のがいせんをする日、僕たち学童も多くの村民とともに駅頭まで出迎えた。大日本帝国と天皇陛下のために生命をささげた名誉ある英霊は、厳粛な雰囲気に包まれながら故郷に帰ってきた。
 小学校の講堂で盛大に葬儀が営まれ、遺族たちは父や兄や夫が国家のために名誉の戦死を遂げたことを誇りに思うとあいさつを述べた。肉親を失った悲痛の気持ちを表情に表すことの許されない時代だった。遺族の中に幼児の手を引いた若い未亡人がいた。駅前通りで小さなお店を夫婦で営んでいたが、夫を兵隊にとられたあと、しっかりと店を守っていた美しい人である。幼児を抱えてこれから先、大変だろうなあ、子供心にも気掛かりでひそひそ話し合った。
 葬儀がすみ2、3日してからこの人の家で夜中に異様な叫び声がした。近所の人が何事かとのぞいてみると、家の中で幼児と若い未亡人が死んでいた。生きる支柱を失った若妻が、子供とともに自らの生命を絶って恋しい夫のもとに旅立っていった姿だった。これを伝え聞いた村人のだれもが涙にくれた。ローカル紙の片隅に、軍人の妻の美談として小さく載った。
 戦争末期、僕の兄も南方洋上の孤島で散ったが、遺骨の帰ってきた日、常日ごろ無口だった父がふだんにもまして無念の感情に耐えながら押し黙っていた姿を、今でも忘れることが出来ない。(横浜市 杉茂 慶三 61 自由業)
        
 ●反乱将校の万歳
 戦前から戦後まで毎日新聞の宮内庁詰記者として皇室報道に尽力した藤樫準二さんが、あるとき私どもの事務室へ来てこんな話をしてくれた。
 2・26の反乱将校たちが軍法会議によって銃殺に処せられた時、侍従武官が昭和天皇に、みな立派に陛下の万歳を唱えて刑に服したむね報告した。天皇は、その者たちの万歳は朕(ちん)に向けての万歳ではなかろう、と言われたそうだが、陛下の怒りは大変なもので、死刑にされても許されなかったらしい。不義、不誠実を極度に嫌われる陛下だからそうであったであろう、と。
 このように藤樫さんがもらしてくれたのをいま静かに思いおこしている。藤樫さんが当時の侍従武官から戦後に聞き出したものなのか、あるいはまた聞きが側近から藤樫さんに伝わったものなのか。当の藤樫さんは数年前に故人となったので、聞きなおせないのが残念である。藤樫さんが日記に残してあればよいのだが。(小平市 宮下 矩雄 65 元宮内庁職員)



1989年2月25日 朝刊 6面
◆「悪魔の詩」、英などの対応に理解示す 対英会談で宇野外相


 宇野外相は24日午後、来日中のハウ英外相と外務省飯倉公館で約30分会談した。ハウ外相はイランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の作者サルマン・ルシュディ氏に「死刑宣告」をしたことに触れ「イラン首脳がこの小説に懸念を持つのは理解するが、殺人を教唆するのは理解できない。表現の自由を守り、殺人教唆を許さないということを、日本も支持してほしい」と、英国などの対応に支持を求めた。これに対し、宇野外相は「表現の自由が侵害されてはならない。一国の指導者が殺人を教唆することは今日の国際社会では受け入れられない」との立場を表明したが、西欧諸国が共同歩調をとり始めた駐イラン大使の召還は日本としては考えていないことを伝えた。



1989年2月26日 朝刊 時評
◆週間報告(2月18日〜24日)


 ●政治
 首相見解で波紋 竹下首相は衆院予算委員会の質疑で、第2次大戦の認識について「侵略行為はありえてもこの戦争全体を侵略戦争だと学問的に定義づけるのは難しい。後世の史家が判断すべき問題だ」と答弁した(18日)。これに対し、中国・新華社通信が「前任者よりも大幅に後退」と報じるなど中国、韓国、イタリア、ソ連で国際的批判が相次いだ。
 地方選で自民不振 鹿児島県知事選、徳島市長選、大分市議選でリクルート疑惑、消費税導入を追及した野党が予想を上回る善戦、とくに大分市議選では自民党が現職3人を落とし13人に後退したのに対し、社会党は15人全員が当選、第1党に躍り出た(19日)
 愛知氏、宮城知事選出馬を辞退 27日告示の宮城県知事選に自民党推薦で立候補を予定していた愛知和男代議士=自民党竹下派=が、リクルート社からの政治献金問題が争点となる選挙戦を戦うのは困難、として、出馬を辞退した(22日)
 「北方領土」平行線 竹下首相は来日したソ連のルキヤノフ最高会議幹部会第1副議長と会談、北方領土問題の早期解決を求めたが、副議長は「この問題を両国の壁とするのは妥当でない」と答え、進展がなかった(22日)
 民社・永末体制発足 民社党の第34回定期全国大会で永末英一委員長、米沢隆書記長はじめ新役員が無投票で選出され、塚本前委員長のリクルート疑惑関与で傷ついた党のイメージ回復と党再生を目指して再出発した。永末氏は就任のあいさつで、竹下内閣に総辞職か衆院解散−総選挙を迫って対決すると述べ、「社公民」共闘重視の構えを示した(23日)
     
 ●経済
 消費税転嫁で議論 鈴木東京都知事は、水道・下水道料金について、合理化努力で3%の消費税分を吸収、値上げとならないようにする方針を明らかにした(20日)。澄田日銀総裁も、物価安定の観点から画一的に消費者価格を上げるのでなく、企業がコストを削って吸収することも必要、との考えを示し(22日)、政府は地方自治体が公共料金を引き下げて消費者に税を負担させないようにする時は、恒常的な財源措置が必要、との統一見解を出した(23日)
 NTT株下落 リクルート事件の進展で嫌気されたNTT株は一時、上場の初値と並ぶ最安値160万円をつけた(22日)
 米・公定歩合0.5%上げ 米連邦準備制度理事会(FRB)はインフレ懸念が強まったため、公定歩合を現行の年率6.5%から0.5%引き上げて7.0%にすると発表した(24日)
     
 ●社会
 リクルート疑惑で逮捕、聴取 東京地検特捜部は、リクルートコスモス株譲渡の実務担当者、リクルート社経営企画室付部長小野敏広(38)を証券取引法違反の疑いで逮捕(18日)。「文部省ルート」で高石邦男・前文部事務次官(58)から初めて事情聴取をした(21日)のに続き、NTTの真藤恒前会長(78)からも事情を聴いた(23日)
 新幹線の台車に亀裂 東海道・山陽新幹線を走る旧型車両(0系)の台車の一部に亀裂が見つかり、JR東海、西日本両社のまとめで欠陥台車数は合わせて32台とわかった(22日)。新型2階建て車両の台車1台にも同様亀裂が見つかった(23日)
 昭和天皇の大喪の礼 故陛下の大喪の礼が東京・新宿御苑を中心に行われ、163カ国・28国際機関の代表ら約9800人が参列した。早朝、皇居内で皇室行事の「斂葬(れんそう)当日殯宮(ひんきゅう)祭の儀」「轜車(じしゃ)発引の儀」が行われた後国の行事に移り、午前9時半すぎ、ひつぎを運ぶ車列が皇居正門を出発、御苑に到着後、皇室行事の「葬場殿の儀」があった。続いて正午前、国の儀式「大喪の礼」が1時間余にわたって行われ、ひつぎは再び車列で八王子市の武蔵陵墓地に。最後に、皇室行事として、ひつぎを埋葬する「陵所の儀」が夜まで続いた(24日)
     
 ●国際
 シェワルナゼ・ソ連外相が新提案 中東歴訪でシリアを訪れたソ連のシェワルナゼ外相は、中東和平国際会議実現のため国連の仲介を前面に押し出した3項目の新和平提案を明らかにした(18日)
 「悪魔の詩」問題で対立激化 著者のサルマン・ルシュディ氏に対するイランのホメイニ師の「死刑宣告」に抗議し、欧州共同体(EC)が対イラン抗議で共同歩調をとることに合意し、駐イラン大使の一時召還を決めた(20日)。これに対抗してイランもEC諸国駐在のイラン大使召還を発表(21日)
 「カンボジア」継続協議 カンボジア問題政治解決のための第2回ジャカルタ非公式協議が紛争4派、ベトナム、ラオス、東南アジア諸国連合(ASEAN)の関係当事国が参加して3日間行われたが、ベトナム、ヘン・サムリン政権側と反ベトナム3派が「暫定政権」をめぐって対立、暗礁に乗り上げた。インドネシアのアラタス外相は「いったん休会して4カ月以内に再開する」と発表(21日)
 大喪外交で中国、インドネシアが関係正常化に合意 大喪の礼に参列するため来日したインドネシアのスハルト大統領と中国の銭其シン外相^が会談。1967年以来、事実上断絶していた両国関係を平和共存5原則と「バンドン10原則」に基づいて正常化を図ることで基本的に合意した(23日)
 タワー次期国防長官の指名承認を否決 米上院軍事委員会は、タワー次期国防長官の指名承認を11対9で否決。民主党議員が同氏の飲酒癖などを「職務に不適格」として反対に回ったため(23日)



1989年2月26日 朝刊 2外
◆「悪魔の詩」問題でデクエヤル氏、西欧を支持 弔問外交


 大喪の礼のため訪日したデクエヤル国連事務総長は25日夜、都内のホテルでハウ英外相と会談し、イランと英国をはじめとする西欧各国との厳しい対立に発展している小説「悪魔の詩」の問題で、作者のインド系英国人作家サルマン・ルシュディ氏の「人命と人権に対する脅威は取り除かれるべきだ」と基本的に西欧諸国を支持する意向を示した。
 イランの最高指導者ホメイニ師は同書が「イスラム教を冒とくした」としてルシュディ氏に「死刑宣告」、これに反発する欧州共同体(EC)諸国などが大使引き揚げを決めるなどの事態に発展している。ハウ外相は来日以来、各国首脳との会談で英国の見解を説明、協同歩調を取るよう求めており、デクエヤル事務総長にも支持を訴えた。
 これに対し同事務総長は、「宗教の自由はすべての人々に認められており尊敬されるべきだ」としたうえで、ルシュディ氏の「人命と人権に対する脅威」がすみやかに取り除かれるべきであることを強調した。
 このため、デクエヤル事務総長を中心とした国連が、イランと英国を中心とした西欧各国の間で、何らかの具体的な和解策を探る可能性も出ているが、英国側は時期や手段を含め、慎重な動きを要請した模様だ。



1989年2月26日 朝刊 読書
◆真夜中の子どもたち(上・下) サルマン・ラシュディ著(書評)


 縦横無尽な綺想小説
        
 世の中には“綺想小説”というものがある。幻想小説とも綺譚(きたん)とも違って、誇張、グロテスク、戯画化、ホラ話、風刺、パロディーといった要素を縦横無尽に使いこなした、リアリズムと超リアリズムのゴッタ煮の文学。「ガリバー」のスウィフト、「トリストラム・シャンディ」のスターンなどを源流として、ブルガーコフやグラス、カルヴィーノやマルケスに至る現代小説の最も肥沃な土壌をなすのが、この綺想小説(マジック・リアリズムともいう)の系譜なのである。
 『真夜中の子供たち』は、明らかにこうした“綺想小説”の流れに属している。時は20世紀前半から現代まで。舞台はインド、パキスタン、バングラデシュ。1947年のインド独立の日の真夜中に、ボンベイのイスラム教徒(ムスリム)の家系に生まれたサリーム・シナイが、この物語の語り手であり、主人公だ。もっとも上巻の半分以上は、主人公の生まれる以前の祖父母、父母のエピソードであり、この作品は実質的にはインドからパキスタンに移り住んだムスリム3代の“100年の苦難”を描いている。
 いや、さらにいえば、この小説は20世紀のインド半島の現代史そのものを描き出そうとしたものだ。インド独立の日に生まれた“真夜中の子供たち”は、やがて印・パ分離戦争、中印国境紛争、バングラ独立といった嵐のような戦争、政変、政治抗争に巻き込まれる。そうした現代史のビビッドな話題を、語り手のサリームは、パドマという“愛人”を聞き手に、千夜一夜のシェラザードよろしく、予言者や魔女、魔術使いを登場させながら、赤ん坊のすりかえ譚、奇病、ロマンス、クーデターなど、現実と空想、事実と妄想の区別もつかない挿話をちりばめ、延々と語り続けるのだ。
 “母なるインド”(バーラット・マーター)から生まれた子供たち。その意味では、この小説はまさに女中心の物語だ。サリームの祖母、母、叔母、乳母、妹、愛人、妻たちは、男たちよりはるかに生彩があり、家の中や社会でも大きな力を持っている。インド的な永遠、インド的な多様性と豊穣な混沌とを支えているのは、女の力であり、母性そのものなのだ。しかし、それは一方では鬼子母神のような血生臭い“女性神”をも生みだす……作中の〈未亡人〉(インドの国母だった)のような。
 母なるヒンズーの国で、発禁処分を受けた著者ラシュディ(インド風読みではルシュディ)は、今度は父なるイスラムの国から、死刑宣告を受けた。“綺想小説”以上のグロテスクなブラック・ユーモアが現実の世界にはある。文学の道は多難だ。=川村湊=
 (寺門泰彦訳、早川書房・上291ページ、下283ページ・各1,800円)



1989年2月27日 朝刊 2総
◆「悪魔の詩」処刑指令撤回を要請 宇野外相、イラン副大統領に


 宇野外相は26日のイランのミル・サリーム副大統領との会談で、イランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の著者に「死刑宣告」をし西欧諸国の強い反発を受けていることに関連して「表現の自由が奪われてはならない。処刑指令が撤回され、イランの対外関係が改善されることを望んでいる」と述べた。日本がイラン政府関係者に公式に処刑指令の撤回を要請したのは初めて。副大統領は「これは表現の自由の問題ではない。西側世界はイスラム教徒の感情を十分理解していない」と処刑指令の正当性を主張し、撤回を拒否した。
 外相は「悪魔の詩」の問題について「宗教的な国民感情には配慮が払われるべきだ」としながらも「その配慮を理由に表現の自由が奪われてはならない。我々は現状に重大な懸念を有している」と、強調した。



1989年2月28日 朝刊 3総
◆ロンドンに隠れ家 「悪魔の詩」作者のルシュディ氏語る


 小説「悪魔の詩」の作者でイランのホメイニ師から「死刑宣告」を受けたインド系英国人サルマン・ルシュディ氏(41)がこのほど、スペインの高級紙エルパイス紙との単独インタビューに応じ、小説を書いた動機や現在の心境などを語った。
 米ニューヨーク・タイムズの特配網が27日伝えた同紙のインタビューによると、ルシュディ氏は現在、ブラッドフォードから70キロ離れたロンドン北部の粗末な一軒家に身を隠しており、警察の24時間監視のもとにある。インタビューは、インドの芸術品や装飾品に埋まったこの隠れ家で行われた。会見中、ルシュディ氏は絶えず手をこすり合わせ、神経質そうに語った。
 ルシュディ氏は「特別に自衛手段はとっていない。ときどきは外出するが、その前にちょっと窓から外をみるぐらいだ。私の本に対する反応は、地球の自転をモチーフのひとつとして小説を書いたイタリアのウンベルト・エコに対して、バチカンがとったものと似ている」と語った。さらに「殺してやるという脅迫については話したくない。それが実行に移される可能性を大きくしたくないからだ」と語った。
 ルシュディ氏は「悪魔の詩」を書くにいたった経緯について、「初期の作品では、インドのイスラム社会について書いたが、後期は『悪魔の詩』も含めて、英国のイスラム社会について書いた」と語った。
 ルシュディ氏は騒ぎについて、「私には全く意外だった」という。
 非妥協的な人々からある種の反発はあっても、こんな騒ぎが起きるとは予想していなかった。「それに、私はインドで知ったイスラム文化を信頼していた。私が暮らした地域には、ものごとをただし、疑念を表明するのを受け入れる寛容の傾向があった。そして、それこそが、私の本に関して原理主義者たちが最も嫌っているところだ」と語る。
 ルシュディ氏はしばらくの間、電話にも出なかった。留守番電話には、次のような支援メッセージが録音されていた。
 「私はイタロ・カルビーノ(イタリアの作家)の未亡人です。私はあなたと話したい」。同業者たちは彼の名誉のために団体を組織した。しかし、何も助けにならなかった。イスラム教徒の怒りは手がつけられないほどになり、彼の2人目のアメリカ人の妻と9歳の息子はロンドンを離れた。