「かほどイスラムを冒とくする本を書いた者と出版者を処刑せよ」。イランの最高指導者ホメイニ師が「悪魔の詩」の著者で、英国籍インド人作家サルマン・ルシュディ氏(41)に死刑宣告した。師の怒りはイランのみならず、世界各地のイスラム教徒にまでまたたく間に広がった。事件はルシュディ氏が18日に謝罪したことで収束に動き出したようにみえるが、イラン側はまだ不満を残している。キリスト教の世界とイスラム教の世界。言論の自由を重視する西欧文明と宗教国家。1冊の本が価値観の相違をあぶり出したようだ。テヘランとロンドンから報告する。
「死刑宣告」が出されたのは、14日のことだった。イラン国営放送の午後2時のニュースが、最高指導者ホメイニ師の声明を発表。「著書『悪魔の詩』で、イスラム教、予言者マホメット及びコーランを冒とくしたサルマン・ルシュディと、その出版に携わった者たちに死刑を宣告する。勇敢なるイスラムの信徒は、彼らを速やかに処刑せよ」
翌日には、「ホルダド月15日財団」という、貧困者や戦死者の遺族などの救済を事業とする革命機関が、処刑を実行すれば外国人なら100万ドル、イラン人には2億リアル(1リアルは約1.8円)の賞金を出すと発表した。
国際常識からは異常ともみえる、この「処刑宣言」。イスラムの論理からは、どう説明されるのか。16日付の英字紙ケイハン・インタナショナルは「いわゆる先進国では、身すぎ世すぎは個人の自由なのだろう。しかし、何百万人もの人が神聖視している人格については、何を書くのも自由というわけではない。とくにイスラムでは、予言者やその家族を中傷するものは、打ち首にされねばならない」と論評している。また、あるイラン人は、イスラムを裏切った者に対する死の宣告は、古来からイスラムの指導者の義務だったという。ルシュディ氏がインドのイスラム教徒の家に生まれ育ったということが、肝心な点なのだ。
この本が最初からイスラムに対する攻撃を目的としていた、という陰謀説も、イランでは強調されている。出版者が、著者に50万ポンド(約1億1500万円)も払ったという、英国のデーリー・エクスプレス紙の記事が紹介され、「資金の出所はシオニスト(イスラエル)だ」という説も流された。イスラム主義の拡張を脅威とみる大国などが、特にイスラム革命を実現したイランつぶしを狙っている、という警戒心が、イランには根強い。
革命から10年間を乗り切ってきたものの、イラクとの戦争では、停戦受け入れを余儀なくされた。戦時中から続く物価高は貧困層へのシワ寄せが大きく、「モスタザフィン(被抑圧者)解放」の革命スローガンは、ちょっぴり色あせて見える。
こうした意気のあがらぬ状況の中で、「敵を作り、それへ向けて国民のエネルギーを盛り上げるという、よく取られる手段が、今度の問題ではないか。政権の基盤であるイスラムの原則は譲らぬ、という姿勢を見せることにもなる」−−西側外交筋などには、こんな見方もある。
「著者に生命の危機」、「殺人部隊すでに出発か」。14日以来ルシュディ氏が住む英国の新聞、テレビは連日トップニュースで報じた。5万6000部刷った本はあっという間に売り切れた。
ホメイニ師に呼応して、イスラム教徒の多い英北部ブラッドフォード市のモスクの指導者アブダル・カダス氏は「アヤトラ(師)の命令を実行するため喜んで自分の命を投げ出す」と過激発言。英国にはイスラム原理主義者が1000人はいる、との情報も騒ぎを大きくした。ルシュディ氏夫妻は即刻ロンドンの自宅から姿を消し、警察の特別部隊の保護下にはいった。
「処刑宣告」を待つまでもなく、昨年発刊以来この本に、イスラム教徒は反発してきた。パキスタン、インド、マレーシア、バングラデシュなどは発禁処分をとり、ブラッドフォード市では抗議のため本が燃やされた。今月12日、パキスタンでの抗議デモは荒れて6人が死亡した。が、騒ぎが大きくなったのは、ホメイニ師が登場してからだ。レバノンでひん発する誘拐事件や散発するテロの背後には、ホメイニ師の影がある、というのが西欧の見方。それだけに「宣告」は単なる脅しでなく、深刻に受けとられた。
「処刑宣告」に対して英政府だけでなく、仏、オランダ、欧州議会まで西欧が足並みをそろえてイランに激しく抗議した。批判の論旨はどれも明解。「どんな意見であれ、自由な発表が保証されるべき」というものだ。しかし、本の内容が適切だったかを問うたものは見当たらない。
当初、「小説は歴史的事実に根拠を置いている。読んでいない人が文句をいう」と強気の発言をしていたルシュディ氏が、18日、「イスラム教徒に苦痛を与えたことを深く後悔する」との謝罪声明を出した。逆に同日イタリアでは翻訳本が出版され、売り切れた。こうした表面の動きの下で、英国政府は事態を沈静化したい意向を示す。中東和平外交に一役買いたいサッチャー政権としては、昨年12月再開した在テヘラン英大使館を閉じることは避けたいようだ。
1989年2月20日 朝刊 特集
◆昭和史「木戸証言」記録から
故木戸幸一氏が国会図書館の発意に応じて、4人の質問者に語った「昭和史の証言」のうち、太平洋戦争の直前から終戦に至る部分を中心に抜粋し、テーマ別に構成した。内大臣とは、内閣には属さず、天皇の側近にあって天皇と政界上層部とを結ぶ職。国務相である内務大臣とは別である。「証言」の間にはさんだ注、解説と年表は、朝日新聞社で作成した。質問者名は省いた。
○首班奏請 「大権」願った宇垣
「首班奏請」とは、次の首相候補を天皇に推薦することである。まさに国政を左右する仕事だ。昭和の初めまでは、西園寺公望らの元老がきめていた。元老なきあと、内大臣の役目となった。
−−何度か首班について奏請しているが、その時は重臣の意向をきき、少数意見もつぶさに陛下に申し上げたのか。
木戸 そうだ。自分の判断も申し上げて、大体おとすところへおとすわけだ。あとの方になると、その方式をとらんし、平沼さんだけと相談したこともあるし、だれとも相談しないでやったこともある。(注 平沼=騏一郎・枢密院議長)
鈴木内閣から東久邇内閣へ移る時だがね。この宮さんのまわりに変なのがいる。右翼もついている。宮さんに大体話したら、承知したと言う。翌朝お召しになり、昼まで缶詰にした。そして、近衛や緒方と3人で相談して組閣した。軍部を抑えるためにだ。(注 緒方=竹虎)
幣原内閣の時は、吉田茂を幣原さんの所へやったら、受けないと言うんだ。今日は非常の事態だから陛下のほんとうの気持ちをお話ししたい、陛下も席を与えてとくとお話しするそうだ、と言ったら、幣原さんは引き受けますと言った。この時など、重臣になにも言わなかった。(注 幣原=喜重郎)
広田内閣のあと昭和12年1月、宇垣一成陸軍大将に組閣の大命が下った。ところが陸軍が反対して、陸相候補を出さないため組閣できない。宇垣は、陸軍の「大命阻止」を天皇の「大権発動」で打開しようと、湯浅倉平内大臣に頼み込む。しかし、湯浅は乗らず、宇垣内閣は流産した。
木戸 どういう構想で、湯浅さんが宇垣を推したのか、分からないんだ。これはね、軍としては耐えられないことなんだな。懸命に粛軍をやっている軍としてね。どうして3月事件の黒幕だった宇垣を推したのかね。私には分からんな。(注 3月事件=昭和6年、右翼と陸軍の一部とが組んで宇垣内閣樹立を図ったクーデター未遂事件)
私はふに落ちないので、湯浅さんに会って話したよ。全軍あげて反対なんだ。これは派閥というんでなく、根が深いんだ。陛下が宇垣を擁して全軍と戦うなどはいけない、と言ったら、湯浅さんも同感だったな。湯浅さんの所に宇垣が来て、陛下のあれがあればと言った時、湯浅さんはそれに乗らなかった。
−−我々事情を知らない者からすると、実は宇垣内閣が出て来ることを、僕は望んだね。
木戸 要するに、側近に長いことおって、陛下というもののお立場を考えるとだ、宇垣を抱いてだ、全軍と、おれが任命しようとしている男をどうするんだと、ケンカされちゃあ困るんだね。そういう格好になる。
−−内乱にならないとも。
木戸 あの時分だんだん、天皇の機関説を排撃するというような空気で、陛下のおっしゃったことは、なんでもしなきゃならんという空気があったんだな。僕は、それは間違いだと言うんだ。だったら、陛下がほとんど窒息されちゃう。ものも言えなくなる。
○天皇 戦況すべて伝わった マ元帥訪問は自発的に
−−軍部の方から、かなり戦況については。
木戸 戦況はよく聞く。細川護貞の『情報天皇に達せず』にあることなど、全然うそだ。もうさすがに大元帥だから、軍としては、大本営の発表はあれだが、陛下にはほとんど時をはずさずちゃんと申し上げている。
−−どの程度まで。
木戸 それは、入った情報全部だ。たとえば、ミッドウェー海戦で日本の航空母艦4隻がやられた時は、即刻報告がきている。その時には鮫島武官が話して、帰りに私に話している。だからそういった調子で、たとえばガダルカナルで反攻の総攻撃があったと、それが失敗したと電報が来れば、翌日ちゃんと陛下に申し上げている。内政のこと、政党の動静、貴衆両院の動き全部、私の知っていることは、陛下も全部ご承知だと解していい。(注 鮫島=具重・侍従武官、海軍)
−−藤田さんの本で、終戦がうまくいったのは、天皇と鈴木さんのお2人が一致してやったからできたのだと。(注 藤田=尚徳・侍従長)
−−終戦の原動力がどうであるか、いろいろ解説する人には、鈴木派と木戸派がある。
木戸 それはそう。だけど、もしあの時鈴木総理があそこにいなかったら、なかなかうまくいかぬ。もし、鈴木さんが法律家だったら、閣内不統一で総辞職で、それっきりだ。鈴木内閣はだれが作ったか。鈴木内閣が生まれてきたのは、私の力だ。それだけの力は、私も持っていた。それから、もやもやしていた御前会議を巻き返したのは、私が触媒なんだから、総理がしっかりしてなけりゃ、やっぱりできない。結局は、やっぱり陛下がしっかりしていたからだ。陛下がご自分では、触媒のような意見は出せない。だから私が出した。
うまくいく時はうまく事がすらすらといく。逆に原子爆弾も、お役に立っている。ソビエトの参戦も、お役に立っている。うまくいく要素となった。ソビエトや原爆がやってくれたから、この程度復活の日本ができたとも言える。
−−陛下がマッカーサーをお訪ねになったのは、どなたのお考えか。自発的なのか。
木戸 自発的にそうした。外務省と話して一向に差し支えないということだった。率直にお話しして、大変ないい効果があった。もし、お会いしなければ、戦犯問題もあり、我々が防ごうにも防ぎきれなかったと思う。
いよいよ私が巣鴨に入ることになり、12月10日にご陪食になるという。食事の前に、しばらく陛下とお話した。私は前から申し上げていたように、「ご退位は今ここでしてはいけない。いつかというと、日本が平和国家として世界に復帰した時だ、講和条約の時。そこまでは陛下にやっていただきたい」と申し上げた。
だから平和会議のころ、巣鴨にいたら、松平君が来て、陛下の話をしてそのことを言っていた。私は、そうだが、新しい日本の憲法には退位を認める条項はないし、事実として実行できないかもしれない。しかし、「そういう陛下のお気持ちをどっかに残しておく必要がある、自分も深く責任を感じているということを、どっかで表したら」と言った。これが伝わったとみえ、講和会議が終わった時にご詔勅が出たが、読んだ感じではむしろ逆にとれるような形だった。陛下は不本意でなかったかと思う。(注 松平=康昌・式部官長)
あとで陛下の地方ご巡幸の時、いちいちお祭り騒ぎだ。私は巣鴨にいて新聞で知った。端的に言えば、坊主にでもおなりになったほうがいいと思った。松平君に注意したら、あれは陛下の悲願だ、とにかく迷惑をかけたのだからみんなに親しく会って慰めたい、お祭り騒ぎにするのは向こうだと言う。それなら分かる、やり方を考えろと言った。
戦後、だんだんとなんとはなしに、陛下にもご自信がついてこられた。
●開戦へ 御前会議がんじがらめ、聖断で回避は無理
◇日米交渉進まず
昭和に入ると日本の進路について、考え方の対立が激しくなってきた。元老西園寺公望ら宮廷グループや親英米派の政治家らは、欧米諸国と協調しながら発展していこうと考えた。一方、陸軍を中心とする勢力は、領土や権益の現状に強い不満をもち、国内の改革を叫んで5・15事件や2・26事件を起こし、外では中国大陸の侵略を進めた。近衛文麿をはじめ多くの要人もこれに引きずられていた。
さらに、ナチス・ドイツと結んで、英米に対抗しようという陸軍など親独派の主導で、昭和15年9月、日独伊三国同盟に調印した。
近衛らは日米の衝突はなんとか避けようとしていた。近衛の意を体した前陸軍省軍事課長・岩畔豪雄ら日本側の要人とアメリカのカトリック関係者との間で、民間交渉が行われた。16年4月16日、野村吉三郎駐米大使とハル国務長官は、それまでの交渉結果を「日米諒解案(りょうかいあん)」として以後の交渉の基礎とすることを話し合った。
この報告電報を受けて、近衛は喜ぶ。軍も重荷になっていた「支那事変」解決の見通しがつきそうだと、乗り気だった。ところが、日ソ中立条約に調印して帰国した松岡洋右外相は、「日米諒解案」に強硬に反対した。近衛はいったん総辞職し、松岡をはずして第3次近衛内閣をつくる。
木戸 野村・岩畔から電報が入り、近衛君も喜んだ。ところが、この電報は、素人くさい。宮内大臣が見て、「これは外交文書として、むちゃくちゃだ」と言う。これは外務省を抜きにしてやっていたのだ。近衛君は一応応じようとした。
松岡は帰って来て、私の所へ来て、「ドイツとソ連はやるだろう。もし、ハーケンクロイツがウラジオストクにひるがえったら、大変だ。だから、その時は日本もやって、シベリアの半ばイルクーツクの線まで進出する」と言っていた。(注 宮内大臣=松平恒雄、元駐英・米大使)
まずい時はすべてちぐはぐ、ちぐはぐになっていくものだ。最後に、ハルからは侮辱的電報が来た、取り消せと松岡は怒る。近衛君はまあまあとなだめていた。ところが外務省が、近衛君の知らんうちに、アメリカへ電報を打った。そこで近衛君も怒って総辞職するという。私は松岡を切れと言った。
やめたあとで、松岡が来て、「陰謀だ、陰謀だ」とわめいていた。
◇ドイツに筒抜け
−−日米交渉と3国同盟の関係について。
木戸 これは日米の腹芸だ。近衛君は、3国同盟が有名無実になっても、アメリカと結んで支那事変を処理したかったし、松岡は、ドイツと結んでアメリカにこわもてで当たろうとしたのだ。日米交渉は、松岡からドイツに筒抜けだった。アメリカ大使館に打つ電報を、同盟の義務と称して、全部ドイツに教えてる。
ドイツはソ連を攻撃した。日曜日だったが、私はそれを聞いてすぐ参内し、松岡が来たら待たしてくれと言っておいて、私は陛下に会った。こうしておかないと、松岡が陛下に、イルクーツクまでの進撃論など上奏されるとこわいので。私はこういうことを陛下に話して、松岡が上奏したら陛下がいけないと言ってもいけない。いいと言っても困る。総理と相談しろと言ってもらうようにとお願いした。案の定、松岡が来て上奏したら、例の通り陛下に言われて、それを近衛君に報告した。
◇頂上会談流れる
このままでは、戦争になってしまう。近衛と木戸はルーズベルトと頂上会談をして、その結果を天皇の意思だとして軍部を抑え、行き詰まった日米関係を一挙に打開しようとした。しかし、アメリカ側はその前に予備交渉が必要だと言う。そんなことをすれば、アメリカは中国からの日本軍の撤兵を主張し、これに陸軍が反対してつまずくことは分かっていた。
−−洋上会談の計画は。
木戸 近衛君が来て、自分で乗り出して会談しようと言った。ルーズベルト、チャーチルの大西洋上会談みたいにだ。私は大変結構だと言った。これには陸海軍も乗り気だった。海軍はなんとかいう船を出そうと言うし、陸軍は随員を出そうと言っていた。
近衛は、僕らのやむをえぬ時の常とう手段だが、陛下のお力を借りようとした。ハルと話がついたら、すぐ私の所へ電報を打つから、陛下のお許しを得てくれ、それから内閣に知らせてくれと言っていた。軍にはメンツがあったが、陛下の御命ならばという隠れみのがある。
向こうでは、ハル長官が、予備会談なしに両者が会って、あとで日本に裏切られたら大変だと言う。撤兵でつかえる。それでは困るんで、直接ルーズベルトに会いたいと、こっちは言う。とうとうお流れになった。
◇天皇が軍責める
日米交渉はうまくいかない。16年9月6日に御前会議が開かれた。ここで、「10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英、蘭)開戦を決意す」という帝国国策遂行要領が決定する。天皇は心配して、前日に近衛首相、杉山元陸軍参謀総長、永野修身海軍軍令部総長の3人を呼び、説明を求めた。
木戸 9月6日の時は、近衛君に見せられて驚いた。「明日きめると言ったって急すぎる、期限つきではだめだ」と言ったが、近衛君はどうしてもと言う。それで奏請したところ、近衛君だけでは説明がつかず、両総長も入って説明した。陛下がこれをきかれて、杉山を責めたら、永野が助け舟を出して、「このままでは重病人で死ぬ、大手術をすれば助かる見込みがある」と言った。
陛下は非常に心配されて、私に、「御前会議で質問してみる」と言われたので、私は、「原枢府議長が質問するはずだから、陛下は締めくくりのご発言を」とお願いした。それで陛下は御前会議の終わりに、明治天皇の御製「四方の海みなはらからと思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」を引いて、軍をいましめた。(注 両総長=陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、原=嘉道・枢密院議長)
−−そこまでいっていれば御前会議でくつがえせなかったか。
木戸 それはできない。ここまで行く間に、がんじがらめに、いろんな手が打たれている。海軍も強くなってきた。近衛君は、陸軍を海軍でけん制していたが、7月ごろ「海軍が強くなって困った」と言っていた。
◇不意の近衛辞任
7月、日本軍は南部仏領インドシナへ進駐した。これに対する制裁措置として、アメリカは日本への石油輸出を止めた。これで、戦争に消極的だった海軍でも、開戦派の主張が強くなった。燃料が心細くなったことから、「じり貧」をおそれたのだ。
近衛は東条英機陸相を説得して開戦を避けようとするが、東条は受け付けない。10月16日、近衛内閣は総辞職する。
木戸 最後に近衛君が投げ出す前に、東条が私の所へ来たので私は、「海軍の首脳部は楽観していない」と言った。東条は、「海軍が自信なければ、戦争はやれない」と言った。東条は主戦論者ではない。しかし極めて事務屋だ。御前会議で決まったからやると言う。しかし、海軍のためなら、考え直す、とまで言った。
東条が帰ってから、私は、これは若干見込みあり、と考えた。そこですぐに電話をかけたら、近衛は、閣僚の辞表をまとめているという。これも不意打ちだ。
◇御製で治まらず
昭和20年8月、天皇は御前会議で、終戦の決断をされた。ではなぜ、開戦の時に同じような「聖断」で戦争を回避できなかったのかと、よく議論される。一国の運命が決まる時、元首が意思表示するのに和歌を読み上げる程度でよかったのかという疑問は残る。
−−9月6日の御前会議で、陛下の力を借りることを出さなかったのか。明治天皇の御製では、おさまらなかったのだ。
木戸 わがままみたいに言えないことはないが、どんなことが起こるか。場合によれば、秩父宮擁立などがおこる。やれるようなら、陛下にやっていただいている。
◇皇族内閣に反対
開戦へと突っ走り始めた局面を転回させようと、一部で皇族内閣が企図された。軍部を抑えるには、天皇の権威をより強く感じさせる皇族内閣しかない、というわけだ。木戸は、国民のうらみが皇室に向かうことをおそれ、強く反対する。木戸の念頭にあったのは、なによりも皇室の安泰だった。
木戸 東条も、東久邇宮を持ってきたら、と言った。私はむずかしいと思った。この場合、臣下でよくできなくて、陛下が自ら皇族を出して開戦して負けたら大変だ。皇室が抹殺される。負けたら国民のえんさの的になる。東条に、陸軍が180度転回したから皇族に願うのか、と聞いたら、そうではなく、皇族という方向で進むかどうかを決める、と言うのだ。私は絶対反対した。
それで、陛下に会って、「皇族を出してはいかぬ。国民がやらねばならない」と申し上げた。それでだれかということになり、及川と東条以外にない、ということになった。(注 及川=古志郎・海相)
●主戦論ではない東条
木戸は、後継首班を及川にしようか、東条にしようかと迷う。時間はどんどん流れる。9月6日の御前会議で、日米交渉のめどがつかない場合には開戦を決意する、ときめた10月上旬は過ぎていた。戦争を避けるには、とにかくこの御前会議決定を白紙にもどし、日米交渉を続けなければならない。
木戸 東条は陛下の命なら懸命にやるので、強い。9月6日の決定を白紙にかえすなら、東条だと思った。たとえ海外の影響が悪くともだ。
−−御前会議で決めたのだ。それを白紙にかえすというのは、容易ならぬことと思うが。
木戸 それはテクニックだ。組閣を命じられたあとで、東条に9月6日の決定をやり直して、これは陛下の命だからと言った。日米交渉の時、近衛と打ち合わせて陛下の命を利用しようとした時と同じだ。まあ、陛下を利用するというか。
−−陛下にしても、一度決めたことを白紙にするというのは、どうだったろう。
木戸 別にためらわなかった。
◇東条以外にない
東条の首相就任は、外国の目には日本が開戦に踏み出したととられた。東条を首相にしたことがのちに、木戸の最大の失策と非難される。木戸の日記によると、東条を首相にすることについて、天皇は「虎穴(こけつ)に入らずんば虎児を得ずだね」といわれた。
木戸 東条は必ずしも主戦論者ではない。事務的な三段論法的な単純な人だ。いやな人間という印象はない。陛下の命とあらば、きくだろうし。
−−世間では東条をしたから戦争になったと、木戸さんを非難したが。
木戸 非難は甘受する。壁に背中を押しつけられているのだ。持ちごまは全部使っている。あの段階では陸軍の気に入らなければけとばされた。
東条内閣は対米交渉を続ける。しかし、誤解や行き違いが多かった。やがて、中国と仏印からの全面撤兵などを求める強い調子の「ハル・ノート」が来る。日本側は、「最後通告」と受けとった。
木戸 東条は懸命にやった。ところがいい返事がない。最後に、ハル・ノートが来た。これが、急転直下で強いものだ。即時撤兵などだ。もうだめだ。あの時は、モナコでも開戦するだろうと、ある外交官が言った。
◇開戦ついに決定
−−12月1日の御前会議は。
木戸 終わってから食事し、懇談した。若槻などから順々に話したが、戦争をだめという人がいない。さっぱり盛り上がらない。慎重にとか、何とか言うだけで。こうして12月1日の御前会議は、開戦と決定した。(注 若槻=礼次郎)
その前日、高松宮が陛下に会ってから、私に、海軍は戦争に賛成できない。命が出たら、あとにはひかないが、と言われるので、海軍大臣と軍令部総長を呼んだ。この時は、すぐご裁可がなかった。あとで、2人とも確信を持っているから、決めてよろしいと言われた。東条も、あとで陛下からやれと言われた。
●和平へ 強硬論抑えて巻き返す 水際戦を阿南主張
◇危機感から試案
戦局が危機的になった昭和20年4月、戦争終結を考え始めた重臣らに推されて鈴木貫太郎内閣が成立する。しかし、鈴木は表面的には抗戦派の姿勢をとり続け、真意は測り難かった。
和平のため、中立条約を結んでいるソ連に仲介を頼むことになった。5月14日の最高戦争指導会議構成員会議で、対ソ交渉の開始を決め、6月にマリク駐日ソ連大使と広田弘毅元首相の極秘会談が始まる。
ところが一方で、陸軍は本土決戦をうたった「今後採るべき戦争指導の基本大綱」を作成。これが、6月8日の御前会議で決定されてしまう。強硬な抗戦方針に危機感を抱いた木戸は、内大臣の職権外だと思いながら、和平をめざす「時局収拾対策試案」を起草する。
木戸 6月何日か、御前会議の案を陛下が見ろとおっしゃるんで、それを見ると依然として強いんだな。戦争遂行ということなんだ。
こりゃ大変だ、私はここで1つ思い切った手を打たなければ、ほんとに日本がだめになると、まあ試案を作って、そして9日に陛下に、同時に秘書官長をして、今の加瀬君とか松谷陸軍大佐とかああいう連中と情報をとっていたから、この連中の意見を徴して、この案でわたりをつけると、こう決心したんだ。(注
秘書官長=松平康昌、加瀬=俊一・外相秘書官、松谷=誠・首相秘書官)
その時、陛下が見ろとおっしゃられたお考えは、それまで、私が陛下に終戦の話をしていたにもかかわらずしかも、近ごろ鈴木内閣はその使命でやっておると申し上げていたにもかかわらず、今になってこんな強いものが出てくるとは、どういう考えなんだと、こう思うね。私も実は驚いた。
◇具体案作り急ぐ
木戸の試案は「天皇陛下の御勇断を御願い申し上げ、戦局の収拾に邁(まい)進するの外なし」「御親書を奉じて仲介国と交渉す」とし、条件として、自主撤兵をあげるなど、初めてともいえる具体的な和平案だった。木戸は天皇の許可を得て鈴木首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾陸相、米内光政海相と協議を始める。
木戸 東郷君に会った時に、「もちろん賛成だが、しかし最近の御前会議の決定で、外務省としては動けない」と、こう言うんだ。それから米内さんに会って話したらね、「賛成だけども総理はどういう考えかね」と、総理が強いのではないかという意味のことを言われたがね。
そのあとで、総理に聞くとね、もちろんどうかしなければと、「しかし米内はどう考えているかね」と言うんだな。そこいらが、今の5月11日からの案でこう来たのにかかわらず、急に御前会議の強い案が出たり、総理も、ろくに反対しないで、それをそのままつかんだ。総理も米内があまり反対しないので、結局、米内はやっぱりほんとは強いのかなと、こう思ったのじゃないかな。だからね、そのまま強いものがずうっとでてしまったきりになったんだ。
−−非常に重大だというので、その時はお考えになって、これをお出しになったのか。
木戸 むろん重大な戦局であり一刻も早くなんとかせねばというお考えだ。まあ内大臣として、私がそういう具体案まで出し自分が動くとは、陛下も予期しておられなかったので、大変ご機嫌よく、ぜひ早くやれというので、私が動き出した。
◇18年に終戦の話
戦局悪化のいきさつをさかのぼると、圧倒的な戦力で米軍が反攻に転じたのは17年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナル島上陸からだった。
木戸 戦争は機会があればやめるということはだいぶ前からあった。もっともシンガポールが落ちたあとすでに「戦力が落ちるから、なるべく早く」と東条に話していた。18年ごろか。
−−3月30日に、陛下が終戦のお話を木戸さんになさったのが日記に出ている。18年だ。
−−陛下はそういう時、かなりざっくばらんにお話しするのか。
木戸 非常にお話は上手な方ではない。じょう舌ではない。だけど、ざっくばらんにお話しになる。
◇会いたいと陸相
20年6月8日の御前会議で決まった「戦争完遂」の方針にしばられて、東郷外相ら和平派の動きが止まってしまったのを、木戸は打開しようとする。抗戦派の阿南陸相にも、和平試案を見せる。
木戸 それで私は、東郷、鈴木さん、米内さんの3人に話した。
そのあと、阿南に話そうと思ったが、話したら正面衝突すると思い、時を過ごしていたら、たしか18日か、私に向こうから会いたいと言ってきた。会ったら、いきなり、「あんたがやめるという話があるが、やめちゃいかんよ」と言うんだ。そこで私は、「これから私の言うことをあんたが聞くと、やめろと言うかもしれんよ」と言って、私の試案を見せて、こうこうだと話した。
阿南は、「分かる、だがもう一度水際でたたいて、それを機会に秘密交渉に入った方が有利じゃないか」と言う。私は、「そうは思わん。水際でたたいて、あんたが特攻機3000機を全部つぶしても、もう一度来たらこっちはゼロだ。そしたら結局上陸されて、日本は松代の洞くつで全滅することになる。あんたがた軍人は幸せだ。ご馬前で最後の突撃すれば済むかもしれんが、政治家はそうはいかん。あとのことを考えなきゃならん」と言った。阿南は、よく分かると言った。(注 松代の洞くつ=大本営の移転予定地)
◇窮境知らぬ広田
木戸の言上で、天皇は20年6月22日、最高戦争指導会議の構成員を召して戦争終結の努力を求め、ソ連に仲介を求める和平工作が正式に決まった。
木戸 6月22日に陛下に申し上げたら、御前会議にとらわれないようにとおっしゃってもらった。そんなわけで、一応はやっと木戸試案にのったわけだ。
−−大体、内府案の対策が構成員の会議で承認されたか。
木戸 承認という意味ではない。内大臣の位置からいって、原案者にはなれない。
内大臣は口で話す以上に、書類でこれでと政府につきつけることはできない。一種の触媒だな。5月から東郷が案を練っていた。だからね、内閣で最初から手をつけたのが東郷君だ。
東郷君は、米内、総理を説きふせても、内閣の方針に持っていきそこなっている。御前会議の案でいこうというのを、それは困ると言って、私が試案で巻き返した。大体の方針はこれでいいとして、広田は意外に日本の窮境を知らない。たとえば、日本の海軍がほとんど全滅していたことは知らない。それはあとで巣鴨で分かった。
●原爆も「工作」に弾み
仲介を頼もうとしたソ連はすでに2月のヤルタ会談の秘密協定で、対日参戦を米英に約束していた。日本はそれを知らない。
広田らの和平工作がはかどらないため、政府は近衛を特使としてソ連に派遣することを決めた。
−−近衛さんの持っていく和平条件は。
木戸 結局、軍隊の武装解除と固有の日本をできるだけ維持するという案だ。
−−近衛私案か。それとも陛下とお話しになった上でのものか。
木戸 近衛私案だ。私との話は日米会議の時と同じだ。陛下の親書を持って特使として行く。要するに、軍隊を抑えるためだ。
ソ連の仲介で連合国の連中が承知して、それを基礎にしてネゴシエーションするところまでくれば、その時、近衛が私の所に電報を打ち、それを私が陛下に申し上げ、逆に内閣に向かって、近衛のことについて陛下はご承知と、こう言えば。軍隊だって戦争に勝てないことをよく知っているが、めんつの問題なんだ。陛下の命だときく。どうして武装解除するか。軍隊は何百万も無傷だ。大変なんだ。
−−8月に原爆が落ちなかったら、ふんぎりがつかなかったのじゃないか。
木戸 ソビエトが参戦してもまだつっぱるんだから。日本の国体をきめるとかなんとか、そんな夢物語で日本をつぶしちゃう。あの観念右翼というのが一番困る。
◇「宣言」を物差し
7月26日、米、英、中3国が日本に無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。連合国による占領、日本軍の武装解除、戦犯の処罰などの条件をあげた宣言に対して、鈴木首相は「ただ黙殺するだけである」と発言した。
木戸 そのうち、ポツダムからあれが出た。鈴木さんはその辺のところでと思ったようだが、リードしていく気迫がない。年をとって、いわゆる後入斎になっていたね。だから、この宣言も新聞では黙殺した。向こうでは、黙殺を否定ととって、それで強くなった。(注 後入斎=人のあとについて動く人)
また時がたって、そこへ原爆が落ちた。これは大変なことだ。9日にソ連の参戦だ。日本にとって最悪の状況がぱっぱっと起こったが、こっちもはずみがついて、しゃにむに和平に持っていくことになる。この時、ポツダム宣言が1つの物差しになった。あの時、宣言がなかったら我々が考えねばならぬ。宣言が基準になった。
◇強硬論再び浮上
ポツダム宣言への態度を決める8月9日深夜からの御前会議で、「聖断」によって天皇統治大権だけを条件として宣言受諾が決まった。12日、バーンズ米国務長官から「天皇及日本国政府の国家統治の大権は……連合軍最高司令官の制限の下に置かれるものとす」という回答が伝わると、軍部や平沼枢密院議長が「これでは国体が護持できない」と再び強硬論を主張、紛糾する。
木戸 このころから、また逆に陸海軍とも非常に強くなってきた。一時は、原爆とソビエトの参戦でショックを受けたが、だんだん巻き返してきた。そこへこの回答が来て、国体を汚すと平沼さんあたりが反対した。
私も、今更これで腰くだけでは困ると思って、総理に「行く」と電話した。で、実は平沼さんが来てこうこうだと話をしたら、「それは重大問題だ」と言って、初めはどうやらぐらつく。みな日本の都市をつぶされ、国民はどうなる、国体とか非国民とか言っても、我々4、5人が殺されれば済む、やりましょうと言った。厄介なのは、最高戦争指導会議で決めねばならないことだ。これは総理と両総長が判を押さないとできない。(注 両総長=梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武海軍軍令部総長)
◇米軍ビラで決断
最後の御前会議は8月14日、あわただしく開かれた。
木戸 バーンズ回答がビラでまかれた。朝に僕がベッドにいる時、持ってこられて知った。日本語訳だ。これが全国津々浦々の軍隊に知られたら大変なことになる。ぼくは朝飯も食わずに陛下のところに行って、「こんなものをまかれたら、このままでは大変だ。至急にご決定を願うほかはない」と申し上げると、陛下も「もっともだ」と言われ、10時半に閣僚が集まった。
急のお召しだから、服も着替えず平服のまま来た。そこでご聖断を願った。だからね、内閣も一致していなかった。だから、これが普通の法科出の憲法に精通していた総理なら、内閣の不統一で総辞職ものだ。ところが、たまたま提督総理でかまわないから、平気でできた。こっちも、ご聖断、ご聖断でやってしまった。うまくいく時はうまくいくもんだ。陛下のおぼしめしが分かっていたから、閣議決定した。その時は、阿南もご聖断にサインしている。
○二人の宰相 近衛が準備し東条が戦
木戸 私が文部大臣になったころ、近衛君はね、内閣を参議と入れ替えようと話するんだ。驚いたね、全く。私は一つ一つくずして、とうとうだめにしたんだが、近衛にはこういう思いつきがある。だからあの人のおもりは大変なんだよ。これはね、だれも知らないことだよ。(注 参議=12年、内閣強化のため臨時に置かれた内閣参議。国務相待遇で、宇垣一成、池田成彬、松岡洋右ら10人を任命)
−−近衛内閣成立の経緯などについてお願いする。
木戸 林内閣の倒れ方がおかしかった。今度は近衛君に出てもらおうと思った。今度は2・26事件のあとより、近衛君にも色気があると思った。会ってみると、覚悟していた。
−−事変が起こりそうなので、近衛さんが出たのか。
木戸 全然予想してなかった。支那事変、大東亜戦争の時など、まさに近衛によってだ。3国同盟をするということも。近衛は性格的に弱く、軍がかつぎやすい要素がある。
−−親軍派。
木戸 これが、あの人の分からんところで、軍といっても、合理的な統制派より、神がかりな皇道派にずうっと近いのだ。
私と対照的なのは近衛だ。会った人は共産党でも右翼でもみんな近衛さん近衛さんといって味方になる。うまいことを言うからね。僕にはあの野郎、あの野郎といって敵になった。仕方がない。性格なんだな。
−−東条内閣について。
木戸 東条は一生懸命にやっていた。内閣を作る時、内務大臣も兼ねるのはどういうことかと聞いたら、「陛下の命で戦争をやめることにするが、国内混乱したらその責任を取るためだ」という。まことにごもっともだと承知して。これが東条のいい所だ。まじめにやるところだ。
−−それで、誤解されている。
木戸 東条を奏請したのは、誤解でなく正解だ。政治家としたら、そのくらい憎まれなきゃ。
東条は事務的だから、かならず私に報告する。例の帳面を出してね。それから手袋をはめてすうっと帰る。ちょうど、上官に報告するようにだ。
話する暇もなくなった時は、赤松秘書官がよく来て、何か注意してくれと言う。で、もう少し政治家になれ、と言ったことがある。「東条が馬に乗ってごみ箱を見るのは、どうなんだ」と聞いたら、赤松君は「どれだけ国民が苦しんでいるか、陛下に代わって見ているのだ」と言う。そこで赤松君に、「総理は陣頭指揮と言うが、総理大臣の陣頭はどこだと聞いてくれ」と言ったら、赤松君は頭をかかえていた。私は首相室だと思う。東条というのは、そういう男だ。(注 赤松=貞雄)
近衛君があのまま生きていて戦犯になったら死刑だろう。広田が死刑になるくらいだからね。文官から1人殺すなら、総理だったし、やっぱり近衛だろうな。東条はむしろ後始末みたいなものだ。2つの御前会議で、英米との戦争は近衛が準備し、時期が来て東条が戦をした。単純だよ。(注
広田=弘毅・元首相)
○鈴木貫太郎 分からないタヌキ…
小磯内閣のあと、首相になれという話に、鈴木貫太郎は初め、高齢などを理由に固辞した。
木戸 鈴木さんを陛下の所に連れて行って、「こういう時だから、引き受ければ、まことに重大な決意をせねばならぬ」と言うと、「分かっておる、陛下の命とあらば」と言った。私の印象では、引き受けてくれたし、私にはいいと思ったが、何とも分からぬこともあった。強いことを言う。
−−あの当時は、強気でいかぬと大変だった。
木戸 幸いに、あの人は侍従長だったし、私も秘書官長で親しかった。話しやすかった。陛下の気持ちが大体分かる。皇室をつぶしてまで焦土作戦をする人ではない。海軍の軍人でもあるし、それで押し切ったのだ。
−−いまだに、鈴木さんについては、ぼんくらだ、という説と、秘めたる志があったという両説があるが。
木戸 秘めたる志ではないが。年をとって、だいぶもうろくされていたし、タヌキでもあった。
−−議会では、迫水書記官長が鈴木さんに耳うちすると、それをおうむがえしに言うだけだった。しかし、何かある。収拾してくれる、と議員は思っていた。(注 迫水=久常)
○木戸証言について 『日記』の含意を肉付け 伊藤隆・東大教授
木戸幸一は昭和10年代に活躍した華族として、近衛文麿、有馬頼寧(第1次近衛内閣で、木戸は文相・厚相、有馬は農相であった)と共に代表的存在であり、特に昭和15年に天皇に最も近い側近、内大臣に任命され、太平洋戦争の開戦と終戦に際して、天皇の側にあった。彼のこの間の日記(昭和5〜23年)及び関係文書は、私もその一員である木戸日記研究会の手で出版され(東京大学出版会)、昭和史の基本史料の1つとなっている。木戸のこの間の行動はこの日記及び関係文書によって正確に知ることができる。
今回ここに紹介されたのは、昭和42年に国会図書館によって行われた木戸に対するインタビュー記録の抜粋である。事実のレベルにおいて、日記その他で知られていることを大きく変更するような発言は見られない。ただ、日記はおおむね簡潔であり、例えば「某々来訪、面談」といった記述の場合、その会話の内容を伺い知ることができないことが多い。この談話は、それを一部補うものである。また日記は極めて客観的な記述であり、そこから木戸の感情を伺うことはかなり困難である。この談話はまたそれを伺い知ることの出来るという点で、貴重である。
この談話の中で、木戸はこの間に接触した多くの人々について論評している。こうした後の回想に有りがちな、回想の時点での再解釈から、この談話もまぬがれていないが、人々に対する感情・評価という点から、日記の記述の微妙な含意を読み取ることができるのである。
先に述べたように、第1次近衛内閣で首相と閣僚であった近衛、木戸、有馬は、昭和15年の「新体制」(これは当初近衛を中心とした新党の計画であり、結局大政翼賛会になる)計画の中心でもあった。木戸は近衛の最も近い相談相手であったが、木戸は近衛の人事政策について「真意がわからん」と言っている。木戸が嫌っていた陸軍の皇道派と近衛が個人的には親しいという、軍とのかかわり方の違いも2人の間にはあった。木戸は近衛の「理想論」を批判している一方、彼の「不徹底」さをも批判的に述べている。近衛がしばしばその政治的姿勢を変えたことは確かである。近衛がいわゆる統制派と同調して「シナ事変」を拡大し、国内の「新体制化」を推進した時、木戸は必ずしもそれに基本的に反対して行動したわけではない。しかし、近衛が、日米開戦に躊躇(ちゅうちょ)し、第3次内閣をほうり出し、さらに開戦後皇道派などと組んで早期和平の方向に動き始めたとき、内大臣木戸はこの動きに反対し、自らのソ連を通じての和平という方向で和平へのイニシアチブを握ろうとした。木戸は近衛の情報に対するルーズさを警戒していたし、目的の実現のためにはそれを秘匿することが何よりも必要な事だと信じていた。これが、近衛の立場からは「情報天皇に達せず」という事態であり、木戸の側からは、防止すべき不正規のルートによる天皇への働き掛けという事態であったのである。木戸はまた、「会った人は……みんな近衛さん近衛さんといって味方になる。僕にはあの野郎、あの野郎といって敵になった」という性格の対照性を指摘しているが、これは確かに政治家としての相違を端的に指摘する言葉であろう。
木戸は皇道派を含む「精神右翼」に反発し、むしろ統制派と言われる永田鉄山や東条(「論理がシャープ」「まじめ」「主戦論者ではなかった」)に対して、むしろ好感を示している。彼らのきちょうめんな、ある意味では官僚的な実務能力を買っていたように見える。逆に平沼などの「精神右翼」、皇道派の真崎など、そして海軍にも必ずしも好意を持っていないし、政党の評価は極端に低い。軍にも三分の理があり、それを抑え切れなかった政党を批判するという論をしばしば述べている。また西園寺と牧野にはその柔軟さに好意を表明し、逆に一木喜徳郎や湯浅倉兵などは「頑固」で「政治家でない」として低い評価が与えられている。これの説明として「下からこつこつ上がってきた人間」ともともとのエスタブリッシュメントとの違いを挙げているが、それだけではなさそうに思える。
また近衛には軍が担ぎやすい要素があると述べたすぐ後に、彼と皇道派の関係をあげている。しかし、これも3国同盟を始めとする近衛内閣の施策がほとんど統制派のリードによって行われたという事実をミスリードするような発言である。
天皇の行動に関しては、木戸はおおむね天皇を(皇室をも含めて)政治の過程に引き出そうとする動きを抑えるという、これまでの天皇側近と同じような態度を取っている。宇垣内閣流産の時の説明もその1つである。しかし、開戦回避の際(日米首脳会談計画)と終戦の場合(近衛特使派遣)には、明らかに天皇の権威を用いる計画であった。前者の説明の中で、木戸は「近衛は、僕らのやむをえぬ時の常とう手段だが、天皇のお力を借りようとした」と述べている(しかしこれも開戦につながる9月6日の御前会議で、天皇の力を借りた場合、「あの時に、一刀両断はっきりやればやれる」が、その結果「場合によれば秩父宮擁立などがおこる」危険性を指摘している)。そして東条内閣の成立の際、いわゆる9月6日の決定の「白紙還元」を内大臣として「陛下の命」として伝達するという行動を取っている。終戦工作の場合には天皇と意思を疎通させながら、軍の反発を避け、薄氷を踏む思いで事を進めている。前述のように近衛や吉田茂らの動きとは一線を画して行動し、「軍隊は何百万も無傷だ。この連中に、連合国が武装解除する。どうして承知できるか」という状況の中で、「御聖断」を導く。その役割は木戸の言葉によれば「触媒」である。正式の決定は内閣によって行われ、上奏裁可されたのである。
数年前に問題となった、木戸の「天皇退位問題」もここに率直に述べられている。巣鴨に入る直前の天皇からの招待の際に述べたというが、これは日記には記載がないので、確認できないが、後の時期の日記(未公刊)に記載されているようである。
木戸は日米戦争について、「2つの御前会議で、英米との戦争は近衛が準備し、時期が来て東条が戦をした」と述べている。これは一面の説得性を持つが、木戸はその中でどういう役割を果たしたのか、この談話では語り尽くされているとはいえない。
○主なできごと
明治22・7・18 木戸幸一生まれる
34・4・29 昭和天皇、裕仁親王誕生
大正 3・7・28 第1次世界大戦始まる
4・2 木戸、京都帝大法学部卒業、8月、農商務省に
入る
昭和 5・10・28 木戸、内大臣秘書官長兼宮内省参事官となる
7・5・15 5・15事件
8・8・24 木戸、宮内省宗秩寮総裁兼内大臣秘書官長
となる
11・2・26 2・26事件
12・1・29 宇垣内閣流産
12・6・4 第1次近衛内閣成立。木戸、文相のちに厚相を
兼ねる
12・7・7 盧溝橋事件
14・1・5 平沼内閣成立。木戸、内相
(〜14・8・28)
15・6・1 木戸、内大臣となる。天皇側近として、
国政の実権を握る
15・7・22 第2次近衛内閣成立
15・9・27 日独伊三国同盟調印
15・11・24 西園寺公望死去、91歳
16・4・13 日ソ中立条約調印
16・7・16 第2次近衛内閣総辞職、第3次近衛内閣成立
16・7・28 日本軍、南部仏印へ進駐
16・8・1 アメリカ、対日石油輸出を止める
16・9・6 御前会議、帝国国策遂行要領を決定
16・10・16 近衛内閣総辞職。木戸、拝謁(はいえつ)して
皇族内閣に反対の旨をいう
16・10・17 重臣会議。木戸、東条を次期首班にと主張、
反対なし
16・10・18 東条内閣成立。木戸、東条に「9月6日の
御前会議決定にとらわれずに」と天皇の意を
伝える
16・11・26 米、強硬な「ハル・ノート」を日本側に示す
16・12・1 御前会議。対米英蘭開戦を決定
16・12・8 太平洋戦争始まる
17・2・15 シンガポール陥落
17・6・5 ミッドウェー海戦で日本海軍大敗
18・2・1 日本軍、ガダルカナルから撤退始める
19・7・18 東条内閣総辞職
20・2・4 ヤルタ会談
20・4・1 米軍、沖縄本島に上陸
20・4・5 小磯内閣総辞職、7日鈴木内閣成立
20・5・7 ドイツ無条件降伏
20・5・14 最高戦争指導会議構成員会議、対ソ交渉方針
決定
20・6・8 御前会議。本土決戦の方針を決める
20・6・22 最高戦争指導会議構成員会議で天皇「戦争
終結の努力」を求める
20・7・10 最高戦争指導会議。ソ連に近衛を派遣する
ことをきめる
20・7・26 対日ポツダム宣言
20・7・28 鈴木首相「ポツダム宣言を黙殺」と発言
20・8・6 広島に原爆投下、9日長崎にも
20・8・8 ソ連参戦
20・8・10 9日深夜から御前会議。国体維持を条件に
ポツダム宣言受諾を決める
20・8・12 降伏条件について連合国の回答来る
20・8・14 ポツダム宣言受諾を決定、玉音放送の録音
20・8・15 玉音放送
20・8・15 鈴木内閣総辞職、17日東久邇内閣成立
20・9・11 東条ら戦犯39人に逮捕命令。東条自殺未遂
20・9・27 天皇、米大使館でマッカーサーと会見
20・10・4 近衛、マッカーサーから憲法改正について
激励される
20・10・5 東久邇内閣総辞職。9日幣原内閣成立
20・11・24 内大臣府廃止
20・12・6 近衛、木戸らの逮捕命令出る。16日近衛自殺
21・2・19 天皇、神奈川県下を巡幸、全国巡幸の始まり
21・5・3 極東国際軍事裁判始まる。23年11月木戸に
終身刑の判決
30・12・16 木戸、病気のため仮釈放
33・4・7 木戸、赦免。神奈川県大磯に隠棲(いんせい)
42・2・16 国会図書館で第1回談話録音、77歳
52・4・6 木戸幸一死去。87歳
1989年2月21日 夕刊 1総
◆「死刑宣告」に批判的な見解 「悪魔の詩」問題で外務省首脳
外務省首脳は21日、「悪魔の詩」問題について「それぞれの国の歴史、伝統、習慣を尊重しなければならない。(『悪魔の詩』の著者が)多少の配慮に欠けた、という人もいる」としながらも、「しかし、殺人の教唆も感心しない」と、イランのホメイニ師の「死刑宣告」に批判的な見解を示した。
ただ、同首脳は西欧諸国がイランに抗議し、駐イラン大使の召還を表明していることに関連しては、「日本としては駐イラン大使を召還することは考えていない」と述べ、大喪の礼参列のため来日するイランのミル・サリーム副大統領と宇野外相が会談する際も、日本側からこの問題を持ち出さない考えだ。
1989年2月21日 夕刊 1総
◆素粒子・21日
中曽根もの言わず、下おのずから疑惑を成す? 米テレビでしゃべり、こちらで貝ではね。
×
竹下「侵略」と言わず、イタリア紙おのずと批判を成す。第2次大戦の歴史ねじ曲げ、と。
×
桃李春風の候近いのに、国の目的は善く生きること(アリストテレス)の薄きを嘆くのみ。
×
イランで会った優しく親切な若者たちよ。『悪魔の詩』作者に死刑宣告の異常に何思うか。
×
月食、雲上にあり。山中に隠者を尋ね、雲深く居所わからずなんてつぶやいてあきらめた。
1989年2月21日 朝刊 1総
◆EC12ヵ国、駐イラン大使召還へ 「悪魔の詩」問題
【ブリュッセル20日=友清特派員】欧州共同体(EC)加盟12カ国の外相は20日ブリュッセルでの閣僚会議で、イランのホメイニ師が英国籍インド人作家S・ルシュディ氏の暗殺を呼びかけたことに抗議し、全加盟国の駐イラン大使が引き揚げるなどの声明を、満場一致で採択した。これによって「悪魔の詩」問題は、EC諸国とイランとの外交問題にまで発展、イラン側の反応が注目される。
合意内容について外相会議は、20日中に公式声明にまとめて発表する。
英国外務省スポークスマンによると、この声明は各国政府によってただちに実行に移され、ルシュディ氏への脅威がなくなるまで続けられるとしている。
ホメイニ師がルシュディ氏の著書「悪魔の詩」をイスラムへの冒とくとして同氏に死刑宣告したことを、声明は国々の平和共存と表現の自由に反すると非難し抗議の意思を表明するため、(1)全EC加盟国が駐イラン大使(大使を置いていない国は公館長)を本国に呼び戻す(2)各加盟国駐在のイラン大使の行動を首都の半径60キロ以内に制限する(3)政府高官の訪問禁止の3点でほぼ合意したと述べている。
1989年2月21日 朝刊 1総
◆EC、厳しい対イラン共同行動 「悪魔の詩」問題<解説>
インド人作家S・ルシュディ氏の「悪魔の詩」をめぐるホメイニ氏の暗殺呼びかけに抗議して駐イラン大使引き上げを決めたECの共同行動は具体的外交措置を伴う、厳しいものになっている。ホメイニ師の「悪魔の詩」著者に対する死刑宣告が余りに常識外れとしても、暗殺団の組織や、同氏への攻撃など具体的な行動が明らかになっていない段階では、極めて異例といえるだろう。
その背景としては、EC諸国の政府のみならず国民の反ホメイニ感情がある。レバノンでの西欧人誘拐、各地のテロは同師の影響下にある原理主義者の犯行といわれ、苦汁を飲まされ続けてきた各国の反応が、その分増幅されて大きくなったことは否めない。
しかし、これまで単に「言葉の上」だけだった互いの応酬が、緊迫感を増し、いつ本物のテロにかわってもおかしくない状況になってきたことは確かだ。
(ロンドン・吉田特派員)
1989年2月21日 朝刊 2外
◆イスラム教と国際常識 宗教については守りの姿勢(透視鏡)
外国で、自分の信じている宗教について聞かれると、無宗教だと答える日本人が多い。
しかし、日本ではふだんそう気にしない宗教の問題も、ここ中東では、何かにつけ意識させられる。イスラム教に原理主義が勢いよく広がったのは、この地域の人々が、イスラムに自分たちのアイデンティティーを見いだそうとし、かつ、西洋化でない近代化を模索する際の思想的な支柱にしている、という背景があると思われる。
そうした状況を理解し、他人の宗教を尊重しているつもりの立場からみても、疑問をはさみたくなる出来事が、イスラム革命の国イランで相次いでいる。
その1つは、1月末、イラン国営放送の番組で、最高指導者ホメイニ師が激怒し、番組責任者の処罰を求めた事件。教祖マホメッドの娘ファティマの誕生日を記念した「女性の日」の番組で「イスラム女性の象徴はだれか」と問う街頭インタビューに、ある女性がテレビドラマで人気の「おしん」の名をあげ、ファティマを「1400年も前の古い女性」と答えたのが大変な侮辱と受け止められた。ホメイニ師の手紙が同放送の総裁あてに出された翌日、関係者4人の解雇と禁固刑、ムチ打ちの判決が下り、反イスラムと見られたら、最高指導者の一言でたちまち処罰されるのかと、外国人たちは肝を冷やしたものだ。
これは、すぐ恩赦が出たし、国内問題で済んだ。しかし、今月14日、「イスラムを冒とくする書物」とされた小説「悪魔の詩」の著者と発行責任者に、ホメイニ師が死刑を宣告、世界中のイスラム教徒に2人の処刑を呼びかけた事件になると、国際問題である。さらに、イラン及びイスラムのイメージにもかかわってくる。
問題の小説の著者はイスラム教徒の家に育った。自分たちの宗教を裏切った人間には、死が与えられるのがイスラムの教えだ、とイラン人はいう。また、この事件の前のことだが、最高裁長官のアルデビリ師が「イスラムの厳罰主義は、イランの評判を落とすことにならないかと心配する人がいるが、予言者マホメッドは、自分の娘でさえ、悪いことをすれば手を切る。それは神の罰だから、といわれたではないか」と語っている。
それぞれの宗教には、それぞれの歴史や教義がある。しかし、イスラム教徒に国境はないとはいっても、今日の国際社会で、外国にいる人間に、その国の法手続きを踏まず、いきなり死刑を宣告したうえ、賞金をかけてまで処刑を進めるというのは、どう考えても行き過ぎではないだろうか。こんな疑問は、「国際常識を気にして、宗教の原則を曲げろというのか」と逆襲されるだろうか。
イランは革命後の1979年11月、米国の大使館を学生らが占拠し、館員を人質に取った事件で、国際的な印象を害し、孤立化へのきっかけをつくった。武器補給にまで苦しんだイラン・イラク戦争中の苦い経験を経て、昨年の国連停戦決議受け入れ後は、微笑外交を繰り広げ、孤立から抜け出すことに努めた。
次期最高指導者に指名されているモンタゼリ師も、革命10周年を迎えた今月11日、過激なスローガンは「世界中の人に、イラン人は人殺しを任務とこころえていると思わせ、イランを孤立させてしまった」と指摘し、急進主義を戒めた。今回の作家らに対する「死刑宣告」は、同じ歴史を繰り返すことにならないのだろうか。
戦後のイランでは、戦時下ではやむを得ない面があった言論の自主規制を廃して、自由な批判が必要だとする論調が高まってきた。その中で、イスラムについては、ことさらに守りの姿勢を固くしている印象がなくもない。宗教問題にうっかり触れると、どんな罰が下るかわからない、という恐れがついて回る。もちろん、ひとの宗教問題を興味本位で取り上げるべきではない。筆者も、一方的な判断でイスラム教を批判するつもりはないことを、イラン当局が理解してくれることを祈っている。
(テヘラン 村上宏一)
1989年2月21日 朝刊 1外
◆イラン孤立の事態も 西欧、原理主義を警戒 「悪魔の詩」問題
大使召還で新局面
【ロンドン20日=吉田特派員】英国在住の作家に対するイラン・ホメイニ師の「死刑宣告」に対し、欧州共同体(EC)は20日、対イラン抗議で共同歩調をとることで基本的に合意した。宣告への共同非難声明とともに、駐テヘラン各国大使の一時召還など具体的な外交措置が盛り込まれる厳しいもので、「悪魔の詩」騒動は新しい局面にはいった。イラン側の反応はまだ出ていないが、イランが再び国際的に孤立する事態も考えられ、ペルシャ湾岸情勢は場合によっては再び不安定化する恐れもある。
20日、ECがテヘラン駐在大使の一時召還などで共同歩調をとることに基本的に合意した背景には、「言論の自由を守る」という西欧民主主義の基本擁護だけでなく、イスラム原理主義への共通した警戒感がある。例えばレバノンでの人質事件は、ほとんどがホメイニ師の影響下にあるヒズボラ(神の党)の行為と当地では受け取られている。イラン・イラク戦争終結後、イラン政府は穏健派が指導権を握って、対西欧融和を図りつつあるが、今回の事件が再び原理主義派を勢いづかせ、彼らが世界各地でテロに走るのではないかとの懸念だ。
スペイン、仏、伊など欧州各国では、問題の書「悪魔の詩」の翻訳が予定され、すでに一部出版されているが、ここ数日これらの翻訳者、出版社に脅迫が行われていることも、懸念に拍車をかけている。
20日の決定に先立ち、事件の最初の段階で、米、仏、西独など欧米各国はホメイニ師宣言に激しく抗議、欧州議会も抗議の決議を行った。西独は駐イラン代理大使を帰国させた。各国とも既に個々には対策をとっていた。
これに対し、ルシュディ氏の在住する一方の当事者、英国は、これまで、旧イラン大使館の増員計画は凍結したものの、それ以上の行動はとらず慎重な態度を続けてきた。この背景には、14日以来のイランとの交渉から、ホメイニ師は国内急進派に動かされているが、ラフサンジャニ議長やハメネイ大統領など政権内現実派は、ホメイニ発言に批判的だとの認識があり、イラン政府を追い込むことにちゅうちょしていた。
20日、ハウ英外相がEC外相会議で対イラン共同行動をとることを提案したのは、こうした認識にもかかわらず国内外の圧力に押されたためと言える。また、突出した単独行動をとることを避けたとも言える。
しかし、今回の共同行動が、イラン側から何らかの肯定的反応をもたらすという保証はない。その場合EC側がとれる行動は外交関係の断絶など限られたものになる。その場合再びイランを孤立化に追い込み、過激な行動に走らせる可能性がある。対イラン強硬行動はその意味で両刃の剣ともいえよう。
こうした欧州の対イラン強硬態度に比べ、イラン以外のイスラム諸国はイラン擁護、反イランいずれにしても、発言を抑え距離を置く姿勢を明確にしてきた。下手に論争に介入、国内の論戦に火を付けて、内に抱える原理主義グループを刺激するのを避けるためだ。特に湾岸諸国は国内にイランと同じシーア派住民が多くいるだけに慎重だ。
インド、パキスタン、マレーシアなどもすでに以前から「悪魔の詩」を発禁処分にしている。
しかし、西欧が今回、統一行動で合意したことで、イスラム諸国側も何らかの行動に出る可能性が出てきた。イスラム諸国会議の開催も一部で提案されており、その場合は、アラブ全体をも巻き込んだ論争に発展する可能性がある。
1989年2月22日 朝刊 1外
◆イランの対外強硬派勢いづく 「悪魔の詩」問題
【テヘラン21日=村上(宏)特派員】欧州共同体(EC)との間で双方が大使召還という事態を招いたことで、「悪魔の詩」問題はイランにとっても重大な外交問題に発展した。国際的な孤立から抜け出そうという目下の外交路線から大きくそれてしまったわけで、特に西欧諸国との関係悪化は、戦後の復興を遅らせることにもなりかねない事態となっている。
「悪魔の詩」の著者に対する最高指導者ホメイニ師による「死刑宣告」は、対外強硬派を力づける結果となっている。21日のイラン国営通信によると、宗教者組織「テヘランの戦う聖職者」は20日、英国との国交を即刻断つよう求める声明を出した。また19日の国会では数人の議員が、英国との関係改善を進めた外務省の方針を非難し、この本の出版を認めた英国に、もっと早く抗議すべきだったと批判した。
21日のイラン紙ジョムフリ・イスラムには「今回の問題は、イランにとってはイスラムの大義を守る戦いであり、西欧諸国はイデオロギー戦争を持ち込むべきではない」とするベシャラチ外務第1次官の寄稿文が載った。同次官はこの中で「米軍艦がイランの民間機を撃墜した時、彼らは何も言わなかったではないか」とも述べている。
対イラク戦争後のイランでは、借金も含め外国からの協力を得ながら復興を早めようという考えと、外国依存は独立を危うくするから、できる限り自力で復興を目指す対外強硬論とが対立してきた。最近では、借金は当面しないことで指導部の考えがほぼ一致したものの、西側先進国をはじめとする外国との経済協力まで否定するものではなかった。しかし、「悪魔の詩」問題は、経済協力の後退にまで及びかねない、と西側外交筋はみている。
もし、著者のサルマン・ルシュディ氏が実際に殺されでもすれば、イラン石油の輸入禁止を含む経済制裁も考えられる。イランの新聞には、イスラム諸国による石油輸出禁止戦略を提唱する論調も現れたが、アラブ諸国から同調する動きは出ていない。輸入禁止によるイランへの痛手が大きくなる可能性の方が、むしろ高い。ベシャラチ外務次官が、いみじくも「イデオロギー戦争」と呼んだ新たな戦争の影がイランを覆い始めた。
1989年2月23日 夕刊 2総
◆西独では共同出版へ 「悪魔の詩」
【ボン23日=雪山特派員】西独の出版業者団体は22日、著者サルマン・ルシュディ氏がイランから死刑宣告を受けて問題となっている小説「悪魔の詩」を、イランの言論抑圧への抗議の意思表示として多数の出版社による共同出版として出版する方針を決めた。すでにトーマス・マンなどの文芸書で知られるS・フィッシャー書店など14社が参加を明らかにしている。
1989年2月23日 夕刊 2総
◆米加で抗議強まる 「悪魔の詩」問題
【ニューヨーク22日=金丸特派員】イランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の作者サルマン・ルシュディ氏に死刑宣告したことに対し、ニューヨークでは22日、文学者らによる2つの抗議行動があった。問題の作品の朗読会とイラン国連代表部への抗議デモだ。一方、カナダでも同書の輸入を認めた国税大臣の身辺を警察当局が厳戒したり、外務省が駐イラン臨時大使の召還を決定するなど、やはり動きが目立ち始めている。
ニューヨークでは22日午後、米国ペンクラブなどの主催で「悪魔の詩」の朗読会が開かれ約400人が参加した。この日は同書の米国版が出版された日。朗読の一方で、有力作家らが次々にホメイニ師の死刑宣告を「文学への迫害」と非難、同書の発売を中止した大手チェーン書店の弱腰を批判した。
一方、カナダでは「悪魔の詩」の輸入を認めたジェリネック国税相に対して、暗殺脅迫があったと伝えられ、国家警察は22日から同相の身辺を厳戒態勢下においた。
また、カナダ外務省は21日夜、駐イラン臨時代理大使の召還を決定した、と発表した。クラーク外相によれば、この措置は「ホメイニ師の死刑宣告に対する拒絶の意を示すもの」だという。
1989年2月23日 朝刊 1外
◆経済関係で思惑に差 「悪魔の詩」問題への措置で欧米各国
【ロンドン22日=吉田特派員】「悪魔の詩」著者へのホメイニ師の「死刑宣告」問題で、欧米諸国は大使召還や抗議声明など足並みをそろえて対イラン措置をとっているが、イランとの経済関係をめぐる思惑はばらばらだ。
EC外相会議で最も強硬な主張をした西独は、「西独・イラン経済協力は大きな影響を受けるだろう」(西独産業貿易協会)と予測。英国は、イランが実際の行動に出るような場合は、経済制裁も含め、対イラン措置をさらにエスカレートする構えだ。
これに対し仏は、政経分離の方針を明確にし、現在進行中のイラン内でのガスタービン、自動車組み立て工場建設などの商談は積極的に進めている。また英連邦内のニュージーランドは「肉の輸出など経済に影響を与える事態は避けたい」(ロンギ首相)と、英国の呼びかけにもかかわらずECの大使召還にも同調していない。
1989年2月23日 朝刊 1外
◆米の大手書店が販売やめ、論争に発展 「悪魔の詩」問題
【ニューヨーク21日=金丸特派員】英国籍インド人作家サルマン・ルシュディ氏の著書「悪魔の詩」は米国でも大手書店の本棚から姿を消し、言論の自由と安全論争に発展している。21日にはニューヨーク・タイムズ紙上に、全米最大手書店の社長からの釈明文が掲載された。また、米国ペンクラブは21日、ニューヨークで22日に「悪魔の詩」の朗読会を開くと発表、国連本部ではデクエヤル事務総長が死刑宣告の撤回を求める意向であることが明らかにされた。
米国最大のチェーンストア書店ウォルデンブックス社は16日、同社所有の書店1200軒の店頭から「悪魔の詩」を引っ込める決定をした。同社では全体で1万部を購入、全米660市のチェーン店で売っていたという。
1989年2月23日 朝刊 1外
◆仏は共同出版の話 「譲歩だ」と批判も 「悪魔の詩」問題
【パリ22日=清水特派員】新聞・出版各社が合同で翻訳すべきだ、いや、それではイランの脅迫に屈することになる−−「悪魔の詩」の翻訳出版をめぐり、仏国内の世論が沸騰している。
フランスでは、ホメイニ師がルシュディ氏の死刑宣告をした直後、版権を持っている会社が出版延期を表明。これに対し、革新系の週刊誌エベヌマン・デュ・ジュディの呼びかけで、エクスプレス誌、フィガロ紙など20近い出版社、新聞・週刊誌が共同でフランス語訳を出版するため準備を始めた。
しかし出版者の1人アラン・モロー氏は「合同出版は不寛容に対する譲歩であり、勇気というより後退である。フランスには危険を賭(と)しても、個人で出版に挑む出版人がいることを示すべきだ」と指摘、社会党幹部もこれを支持した。
1989年2月23日 朝刊 1外
◆経済制裁受けても死刑宣告変えぬ 「悪魔の詩」でホメイニ師
【テヘラン22日=村上(宏)特派員】イランの最高指導者ホメイニ師は22日、宗教指導者らに当てた声明の中で、小説「悪魔の詩」の著者に対する「死刑宣告」について、「これは神の命令であり、たとえ経済制裁があろうとも変わることはない」と述べた。これは、欧州共同体(EC)諸国が駐イラン大使の召還という強い意思表示をした事態を受けても、イランは方針を変えない決意を改めて示したものだ。
イラン国営放送で読み上げられた長文の声明は、主に宗教的なもの。その中で、「後世、この死刑宣告がイランに対するEC諸国の強い反発を招いたことを理由に、間違っていたという人々が出てくるかもしれない」と指摘した上で、「どんな反響があろうと、たとえ経済制裁が行われても我々は妥協すべきでない」と述べている。
ホメイニ師は一方、イラン国内で革命10周年を機にでてきた、革命の成功していない部分を見直そうという論調に反撃。例えば現実的な外交政策を推進しようとする動きに対し、「今度の(『悪魔の詩』をめぐる)問題は、大国がいかにイスラムを敵視しているかを示した。現実的な外交という考えは、単純すぎる」と、批判的な考えを明らかにした。
1989年2月24日 朝刊 3総
◆英外相、日本政府に支持求める 「悪魔の詩」問題
大喪参列のため訪日したハウ英外相は23日、英国大使公邸で記者会見し、小説「悪魔の詩」をめぐるイランとの対立で「経済制裁などの措置は考えておらず、外交ルートを通じて解決を図りたい」としたうえで、「それには各国の支持が不可欠。日本にも共同歩調をとるよう要請したい」と、24日に予定している宇野外相との会談で、欧米各国の対応に支持を求めることを明らかにした。
ハウ外相はホメイニ師の「死刑宣告」を「言論と出版の自由に対する挑戦」として改めて批判し、「日本政府からはまだいかなる意思表示もなく、我々への支持を要請したい」と述べた。
1989年2月24日 朝刊 5面
◆「悪魔の詩」は謝罪と寛容で(声)
東京都 安倍 治夫(コンサルタント 68歳)
イランの最高指導者ホメイニ師が、「悪魔の詩」という小説を涜神的として激怒し、著者に“死刑宣告”した心情は、日本のイスラム教徒の1人として原理主義の立場から理解できないでもない。
しかし、表現の自由や国際法の立場からはいかがなものであろうか。他国の文学者の言論が自国の宗教の原理を侵すからといって、もし一国の元首が一々死刑を宣告し、国境を越えて他国に刺客を送ることがゆるされるなら、主権も人権も平和も保たれまい。
この方式をおしすすめると、名作「神曲」の地獄編の中で、預言者マホメットと女婿のアリーを無残な八つ裂きの刑に処して見せた、詩人ダンテなども、さしあたり罪万死に値し、これを傑作とたたえるイタリア国民は死刑を免れまい。それではいかにもおかしい。
もともとイスラム教は寛容の宗教であり、同一の真理を求める限り、他宗教との平和的共存を否定しない。コーランでは、「あなたの宗教はあなたのもの、私の宗教は私のもの」という言葉で、1300年も前に、信仰の自由を宣言している。
ルシュディ氏の謝罪とホメイニ師の寛容によって、この1件が平穏に落着することを祈りたい。
1989年2月25日 朝刊 解説
◆天皇そして昭和(テーマ談話室)
●現行憲法第1世代のつとめ
昭和天皇の死去に続く一連の事態から、私はいま、われわれ現行憲法下で生まれた第1世代の政治的な力量不足を思い知らされると同時に、より若い世代のために取り組むべき課題の重大さを痛感している。
現行憲法下で最初の、新たな手続きで営まれるべき昭和天皇の葬送と新天皇の誕生が、明治憲法下の天皇制の魔力に酔い続けている世代とその陣営で政治的影響力を獲得した人々によって支配され、明治憲法下の儀式が、実質的に復活しつつある。
現行憲法上の天皇の地位は、天皇家の伝統に正統性の根拠を持つものでなく、すべての儀式は新たな原理に基づくべきであって、小渕官房長官は「憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重する」と述べているが、国事行為について必要なのは「憲法の趣旨」だけである。
昭和天皇の戦争責任はマスコミをあげてのキャンペーンによって、死去後の2日間で少なくとも国内的には否定されてしまった。しかし、戦争責任の核心は、他国への軍事的侵略に対する政治的責任であり、軍隊の統帥は国家唯一の主権者たる天皇の専権だったのである。統制の対象であるはずの軍人に押し切られたとか、ミスリードされたとかいう議論は、統帥の誤りを認めるものであって、そこから生じた結果への責任を否定するものではなく、むしろ加重するものであろう。
戦後も、被害国に対して真に責任を負う気持ちがあったならば、退位の契機はいくらでもありえたのではないか。占領軍を始めとする周囲の意向に従ってとどまっただけだという議論は、時々の権力に寄り添う道を選んできたということを認めるに等しいのではないか。
いま、このような想定をする不穏当さを承知のうえでいえば現行憲法に合致した天皇交代手続きを含む天皇制の創造は、30年ほど待たねばならないことになった。そのころ、われわれの世代は社会の第一線から退きつつあるはずである。それではわれわれに何ができるか。それは、あとの世代のために現行憲法の否定、弱体化をめざす政治に抵抗し、天皇をめぐる伝統的要素の払拭(ふっしょく)に努めることであろう。
新天皇の神格性、カリスマ性の欠如を理由に楽観的予想をする論調が多いが、私は必ずしも同意しない。むしろ、疑わしい過去からの切断が「象徴」としての尊厳の強要を初めて可能にするかも知れないのだ。しかも日本の「象徴」は穏やかな老人、よき父親、誠実な若者という、それ自体としては批判が困難な具体的人格を伴って目の前にある。一見健全に見える多くの人々の無関心さは、同時に歴史的・批判的関心の欠如をも意味する以上、「象徴」の政治的利用にとって不都合な土壌ではないのである。(神戸市 宮沢 節生 41 大学教授)
●異国にさらされた遺骨
過日、公民館で「きけわだつみの声」を見ました。39年前につくられた映画で、学徒兵の遺稿を集めて出版された同名の本をもとにした作品です。
戦場はビルマのジャングルの中で雨期、戦況は不利。敵弾に当たり最期をとげる者、上官の手でだまし討ちされる者、手投げ弾を与えられ自殺を求められる者、病に侵され薬も食べ物もなく望郷の思いを胸に死んでいく者、現実はもっと悲惨だったはずです。私も中国に従軍し、わが人生は20歳で終わりかと思った時は、目を閉じると身内の顔や故郷の一木位置草までやみに見え、望郷の思いにさいなまれた経験があります。胸を締めつけられる思いでした。
無念の死を遂げた多くの将兵の遺骨はいまも異国の野山にさらされています。一方、犠牲になった将兵に「死は鴻毛(こうもう)より軽しと思え」とその名のもとに命じた天皇は、いま24億円という巨費をかけて墓に祭られようとしています。遺骨を野山にさらされている将兵の胸中はどんなでしょう。祖国の安泰と繁栄を願って命をささげた人々には手を差しのべていない。これでは死んだ将兵は浮かばれない。
黒字大国という繁栄の世を享受している我々は、困難は多いにしても異国に眠る将兵の遺骨収集を、何十年でも続けるのが犠牲者に対する義務だと思うのですが。(船橋市 秋葉 行雄 63 無職)
●若き未亡人の死
日中戦争が本格化して間もなく、僕の住んでいた村にも中国大陸での戦死者が相次いだ。英霊(遺骨)が郷里に無言のがいせんをする日、僕たち学童も多くの村民とともに駅頭まで出迎えた。大日本帝国と天皇陛下のために生命をささげた名誉ある英霊は、厳粛な雰囲気に包まれながら故郷に帰ってきた。
小学校の講堂で盛大に葬儀が営まれ、遺族たちは父や兄や夫が国家のために名誉の戦死を遂げたことを誇りに思うとあいさつを述べた。肉親を失った悲痛の気持ちを表情に表すことの許されない時代だった。遺族の中に幼児の手を引いた若い未亡人がいた。駅前通りで小さなお店を夫婦で営んでいたが、夫を兵隊にとられたあと、しっかりと店を守っていた美しい人である。幼児を抱えてこれから先、大変だろうなあ、子供心にも気掛かりでひそひそ話し合った。
葬儀がすみ2、3日してからこの人の家で夜中に異様な叫び声がした。近所の人が何事かとのぞいてみると、家の中で幼児と若い未亡人が死んでいた。生きる支柱を失った若妻が、子供とともに自らの生命を絶って恋しい夫のもとに旅立っていった姿だった。これを伝え聞いた村人のだれもが涙にくれた。ローカル紙の片隅に、軍人の妻の美談として小さく載った。
戦争末期、僕の兄も南方洋上の孤島で散ったが、遺骨の帰ってきた日、常日ごろ無口だった父がふだんにもまして無念の感情に耐えながら押し黙っていた姿を、今でも忘れることが出来ない。(横浜市 杉茂 慶三 61 自由業)
●反乱将校の万歳
戦前から戦後まで毎日新聞の宮内庁詰記者として皇室報道に尽力した藤樫準二さんが、あるとき私どもの事務室へ来てこんな話をしてくれた。
2・26の反乱将校たちが軍法会議によって銃殺に処せられた時、侍従武官が昭和天皇に、みな立派に陛下の万歳を唱えて刑に服したむね報告した。天皇は、その者たちの万歳は朕(ちん)に向けての万歳ではなかろう、と言われたそうだが、陛下の怒りは大変なもので、死刑にされても許されなかったらしい。不義、不誠実を極度に嫌われる陛下だからそうであったであろう、と。
このように藤樫さんがもらしてくれたのをいま静かに思いおこしている。藤樫さんが当時の侍従武官から戦後に聞き出したものなのか、あるいはまた聞きが側近から藤樫さんに伝わったものなのか。当の藤樫さんは数年前に故人となったので、聞きなおせないのが残念である。藤樫さんが日記に残してあればよいのだが。(小平市 宮下 矩雄 65 元宮内庁職員)
1989年2月25日 朝刊 6面
◆「悪魔の詩」、英などの対応に理解示す 対英会談で宇野外相
宇野外相は24日午後、来日中のハウ英外相と外務省飯倉公館で約30分会談した。ハウ外相はイランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の作者サルマン・ルシュディ氏に「死刑宣告」をしたことに触れ「イラン首脳がこの小説に懸念を持つのは理解するが、殺人を教唆するのは理解できない。表現の自由を守り、殺人教唆を許さないということを、日本も支持してほしい」と、英国などの対応に支持を求めた。これに対し、宇野外相は「表現の自由が侵害されてはならない。一国の指導者が殺人を教唆することは今日の国際社会では受け入れられない」との立場を表明したが、西欧諸国が共同歩調をとり始めた駐イラン大使の召還は日本としては考えていないことを伝えた。
1989年2月26日 朝刊 時評
◆週間報告(2月18日〜24日)
●政治
首相見解で波紋 竹下首相は衆院予算委員会の質疑で、第2次大戦の認識について「侵略行為はありえてもこの戦争全体を侵略戦争だと学問的に定義づけるのは難しい。後世の史家が判断すべき問題だ」と答弁した(18日)。これに対し、中国・新華社通信が「前任者よりも大幅に後退」と報じるなど中国、韓国、イタリア、ソ連で国際的批判が相次いだ。
地方選で自民不振 鹿児島県知事選、徳島市長選、大分市議選でリクルート疑惑、消費税導入を追及した野党が予想を上回る善戦、とくに大分市議選では自民党が現職3人を落とし13人に後退したのに対し、社会党は15人全員が当選、第1党に躍り出た(19日)
愛知氏、宮城知事選出馬を辞退 27日告示の宮城県知事選に自民党推薦で立候補を予定していた愛知和男代議士=自民党竹下派=が、リクルート社からの政治献金問題が争点となる選挙戦を戦うのは困難、として、出馬を辞退した(22日)
「北方領土」平行線 竹下首相は来日したソ連のルキヤノフ最高会議幹部会第1副議長と会談、北方領土問題の早期解決を求めたが、副議長は「この問題を両国の壁とするのは妥当でない」と答え、進展がなかった(22日)
民社・永末体制発足 民社党の第34回定期全国大会で永末英一委員長、米沢隆書記長はじめ新役員が無投票で選出され、塚本前委員長のリクルート疑惑関与で傷ついた党のイメージ回復と党再生を目指して再出発した。永末氏は就任のあいさつで、竹下内閣に総辞職か衆院解散−総選挙を迫って対決すると述べ、「社公民」共闘重視の構えを示した(23日)
●経済
消費税転嫁で議論 鈴木東京都知事は、水道・下水道料金について、合理化努力で3%の消費税分を吸収、値上げとならないようにする方針を明らかにした(20日)。澄田日銀総裁も、物価安定の観点から画一的に消費者価格を上げるのでなく、企業がコストを削って吸収することも必要、との考えを示し(22日)、政府は地方自治体が公共料金を引き下げて消費者に税を負担させないようにする時は、恒常的な財源措置が必要、との統一見解を出した(23日)
NTT株下落 リクルート事件の進展で嫌気されたNTT株は一時、上場の初値と並ぶ最安値160万円をつけた(22日)
米・公定歩合0.5%上げ 米連邦準備制度理事会(FRB)はインフレ懸念が強まったため、公定歩合を現行の年率6.5%から0.5%引き上げて7.0%にすると発表した(24日)
●社会
リクルート疑惑で逮捕、聴取 東京地検特捜部は、リクルートコスモス株譲渡の実務担当者、リクルート社経営企画室付部長小野敏広(38)を証券取引法違反の疑いで逮捕(18日)。「文部省ルート」で高石邦男・前文部事務次官(58)から初めて事情聴取をした(21日)のに続き、NTTの真藤恒前会長(78)からも事情を聴いた(23日)
新幹線の台車に亀裂 東海道・山陽新幹線を走る旧型車両(0系)の台車の一部に亀裂が見つかり、JR東海、西日本両社のまとめで欠陥台車数は合わせて32台とわかった(22日)。新型2階建て車両の台車1台にも同様亀裂が見つかった(23日)
昭和天皇の大喪の礼 故陛下の大喪の礼が東京・新宿御苑を中心に行われ、163カ国・28国際機関の代表ら約9800人が参列した。早朝、皇居内で皇室行事の「斂葬(れんそう)当日殯宮(ひんきゅう)祭の儀」「轜車(じしゃ)発引の儀」が行われた後国の行事に移り、午前9時半すぎ、ひつぎを運ぶ車列が皇居正門を出発、御苑に到着後、皇室行事の「葬場殿の儀」があった。続いて正午前、国の儀式「大喪の礼」が1時間余にわたって行われ、ひつぎは再び車列で八王子市の武蔵陵墓地に。最後に、皇室行事として、ひつぎを埋葬する「陵所の儀」が夜まで続いた(24日)
●国際
シェワルナゼ・ソ連外相が新提案 中東歴訪でシリアを訪れたソ連のシェワルナゼ外相は、中東和平国際会議実現のため国連の仲介を前面に押し出した3項目の新和平提案を明らかにした(18日)
「悪魔の詩」問題で対立激化 著者のサルマン・ルシュディ氏に対するイランのホメイニ師の「死刑宣告」に抗議し、欧州共同体(EC)が対イラン抗議で共同歩調をとることに合意し、駐イラン大使の一時召還を決めた(20日)。これに対抗してイランもEC諸国駐在のイラン大使召還を発表(21日)
「カンボジア」継続協議 カンボジア問題政治解決のための第2回ジャカルタ非公式協議が紛争4派、ベトナム、ラオス、東南アジア諸国連合(ASEAN)の関係当事国が参加して3日間行われたが、ベトナム、ヘン・サムリン政権側と反ベトナム3派が「暫定政権」をめぐって対立、暗礁に乗り上げた。インドネシアのアラタス外相は「いったん休会して4カ月以内に再開する」と発表(21日)
大喪外交で中国、インドネシアが関係正常化に合意 大喪の礼に参列するため来日したインドネシアのスハルト大統領と中国の銭其シン外相^が会談。1967年以来、事実上断絶していた両国関係を平和共存5原則と「バンドン10原則」に基づいて正常化を図ることで基本的に合意した(23日)
タワー次期国防長官の指名承認を否決 米上院軍事委員会は、タワー次期国防長官の指名承認を11対9で否決。民主党議員が同氏の飲酒癖などを「職務に不適格」として反対に回ったため(23日)
1989年2月26日 朝刊 2外
◆「悪魔の詩」問題でデクエヤル氏、西欧を支持 弔問外交
大喪の礼のため訪日したデクエヤル国連事務総長は25日夜、都内のホテルでハウ英外相と会談し、イランと英国をはじめとする西欧各国との厳しい対立に発展している小説「悪魔の詩」の問題で、作者のインド系英国人作家サルマン・ルシュディ氏の「人命と人権に対する脅威は取り除かれるべきだ」と基本的に西欧諸国を支持する意向を示した。
イランの最高指導者ホメイニ師は同書が「イスラム教を冒とくした」としてルシュディ氏に「死刑宣告」、これに反発する欧州共同体(EC)諸国などが大使引き揚げを決めるなどの事態に発展している。ハウ外相は来日以来、各国首脳との会談で英国の見解を説明、協同歩調を取るよう求めており、デクエヤル事務総長にも支持を訴えた。
これに対し同事務総長は、「宗教の自由はすべての人々に認められており尊敬されるべきだ」としたうえで、ルシュディ氏の「人命と人権に対する脅威」がすみやかに取り除かれるべきであることを強調した。
このため、デクエヤル事務総長を中心とした国連が、イランと英国を中心とした西欧各国の間で、何らかの具体的な和解策を探る可能性も出ているが、英国側は時期や手段を含め、慎重な動きを要請した模様だ。
1989年2月26日 朝刊 読書
◆真夜中の子どもたち(上・下) サルマン・ラシュディ著(書評)
縦横無尽な綺想小説
世の中には“綺想小説”というものがある。幻想小説とも綺譚(きたん)とも違って、誇張、グロテスク、戯画化、ホラ話、風刺、パロディーといった要素を縦横無尽に使いこなした、リアリズムと超リアリズムのゴッタ煮の文学。「ガリバー」のスウィフト、「トリストラム・シャンディ」のスターンなどを源流として、ブルガーコフやグラス、カルヴィーノやマルケスに至る現代小説の最も肥沃な土壌をなすのが、この綺想小説(マジック・リアリズムともいう)の系譜なのである。
『真夜中の子供たち』は、明らかにこうした“綺想小説”の流れに属している。時は20世紀前半から現代まで。舞台はインド、パキスタン、バングラデシュ。1947年のインド独立の日の真夜中に、ボンベイのイスラム教徒(ムスリム)の家系に生まれたサリーム・シナイが、この物語の語り手であり、主人公だ。もっとも上巻の半分以上は、主人公の生まれる以前の祖父母、父母のエピソードであり、この作品は実質的にはインドからパキスタンに移り住んだムスリム3代の“100年の苦難”を描いている。
いや、さらにいえば、この小説は20世紀のインド半島の現代史そのものを描き出そうとしたものだ。インド独立の日に生まれた“真夜中の子供たち”は、やがて印・パ分離戦争、中印国境紛争、バングラ独立といった嵐のような戦争、政変、政治抗争に巻き込まれる。そうした現代史のビビッドな話題を、語り手のサリームは、パドマという“愛人”を聞き手に、千夜一夜のシェラザードよろしく、予言者や魔女、魔術使いを登場させながら、赤ん坊のすりかえ譚、奇病、ロマンス、クーデターなど、現実と空想、事実と妄想の区別もつかない挿話をちりばめ、延々と語り続けるのだ。
“母なるインド”(バーラット・マーター)から生まれた子供たち。その意味では、この小説はまさに女中心の物語だ。サリームの祖母、母、叔母、乳母、妹、愛人、妻たちは、男たちよりはるかに生彩があり、家の中や社会でも大きな力を持っている。インド的な永遠、インド的な多様性と豊穣な混沌とを支えているのは、女の力であり、母性そのものなのだ。しかし、それは一方では鬼子母神のような血生臭い“女性神”をも生みだす……作中の〈未亡人〉(インドの国母だった)のような。
母なるヒンズーの国で、発禁処分を受けた著者ラシュディ(インド風読みではルシュディ)は、今度は父なるイスラムの国から、死刑宣告を受けた。“綺想小説”以上のグロテスクなブラック・ユーモアが現実の世界にはある。文学の道は多難だ。=川村湊=
(寺門泰彦訳、早川書房・上291ページ、下283ページ・各1,800円)
1989年2月27日 朝刊 2総
◆「悪魔の詩」処刑指令撤回を要請 宇野外相、イラン副大統領に
宇野外相は26日のイランのミル・サリーム副大統領との会談で、イランの最高指導者ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の著者に「死刑宣告」をし西欧諸国の強い反発を受けていることに関連して「表現の自由が奪われてはならない。処刑指令が撤回され、イランの対外関係が改善されることを望んでいる」と述べた。日本がイラン政府関係者に公式に処刑指令の撤回を要請したのは初めて。副大統領は「これは表現の自由の問題ではない。西側世界はイスラム教徒の感情を十分理解していない」と処刑指令の正当性を主張し、撤回を拒否した。
外相は「悪魔の詩」の問題について「宗教的な国民感情には配慮が払われるべきだ」としながらも「その配慮を理由に表現の自由が奪われてはならない。我々は現状に重大な懸念を有している」と、強調した。
1989年2月28日 朝刊 3総
◆ロンドンに隠れ家 「悪魔の詩」作者のルシュディ氏語る
小説「悪魔の詩」の作者でイランのホメイニ師から「死刑宣告」を受けたインド系英国人サルマン・ルシュディ氏(41)がこのほど、スペインの高級紙エルパイス紙との単独インタビューに応じ、小説を書いた動機や現在の心境などを語った。
米ニューヨーク・タイムズの特配網が27日伝えた同紙のインタビューによると、ルシュディ氏は現在、ブラッドフォードから70キロ離れたロンドン北部の粗末な一軒家に身を隠しており、警察の24時間監視のもとにある。インタビューは、インドの芸術品や装飾品に埋まったこの隠れ家で行われた。会見中、ルシュディ氏は絶えず手をこすり合わせ、神経質そうに語った。
ルシュディ氏は「特別に自衛手段はとっていない。ときどきは外出するが、その前にちょっと窓から外をみるぐらいだ。私の本に対する反応は、地球の自転をモチーフのひとつとして小説を書いたイタリアのウンベルト・エコに対して、バチカンがとったものと似ている」と語った。さらに「殺してやるという脅迫については話したくない。それが実行に移される可能性を大きくしたくないからだ」と語った。
ルシュディ氏は「悪魔の詩」を書くにいたった経緯について、「初期の作品では、インドのイスラム社会について書いたが、後期は『悪魔の詩』も含めて、英国のイスラム社会について書いた」と語った。
ルシュディ氏は騒ぎについて、「私には全く意外だった」という。
非妥協的な人々からある種の反発はあっても、こんな騒ぎが起きるとは予想していなかった。「それに、私はインドで知ったイスラム文化を信頼していた。私が暮らした地域には、ものごとをただし、疑念を表明するのを受け入れる寛容の傾向があった。そして、それこそが、私の本に関して原理主義者たちが最も嫌っているところだ」と語る。
ルシュディ氏はしばらくの間、電話にも出なかった。留守番電話には、次のような支援メッセージが録音されていた。
「私はイタロ・カルビーノ(イタリアの作家)の未亡人です。私はあなたと話したい」。同業者たちは彼の名誉のために団体を組織した。しかし、何も助けにならなかった。イスラム教徒の怒りは手がつけられないほどになり、彼の2人目のアメリカ人の妻と9歳の息子はロンドンを離れた。