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『人種概念の普遍性を問う――西洋的パラダイムを超えて』

竹沢 泰子 編 20050220 人文書院,548p.


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■竹沢 泰子 編 20050220 『人種概念の普遍性を問う――西洋的パラダイムを超えて』,人文書院,548p. ISBN-10: 4409530305 ISBN-13: 978-4409530306  \3990 [amazon]  er 

■内容(「BOOK」データベースより)
新たな共通語としての人種概念をめぐり、その歴史的検証と包括的理解に向けて人文科学と自然科学の研究者が初めて協働した画期的成果。圧倒的な欧米ヘゲモニーがもたらす狭隘な人種理解にたいし日本、アジア、アフリカから、地域を超えた強烈なオルタナティヴを呈示する。

■内容(「MARC」データベースより)
人種概念をめぐり、その歴史的検証と包括的理解に向けて、人文科学と自然科学の研究者が協働。圧倒的な欧米ヘゲモニーがもたらす狭隘な人種理解に対し、日本、アジア、アフリカから、地域を超えた強烈なオルタナティヴを呈示。

■編者紹介

竹沢 泰子(たけざわ・やすこ)
ワシントン大学大学院人類学科博士課程修了。Ph.D.京都大学人文科学研究所助教授。文化人類学。『日系アメリカ人のエスニシティ』(東京大学出版会、1994、澁澤賞)、Breaking the Silence (Cornell University Press,2002)、『文化人類学のフロンティア』(共著、ミネルヴァ書房、2003)など。

■目次

T 総論
○人種概念の包括的理解に向けて……竹沢泰子
  第一節 人種概念を問い直す
  第二節 人種概念の起源をめぐる大論争とその陥穽
  第三節 人種概念の三つの位相
  第四節 「モンゴロイド」「コーカソイド」「ネグロイド」
  第五節 DNAからみる「アジア人」「ヨーロッパ人」「アフリカ人」
  第六節 分類という常套手段と暴力

U 「白色人種」「黒色人種」「黄色人種」
○19世紀ヨーロッパにおける人種と不平等――身体と歴史……ロバート・ムーア(五十嵐泰正訳)
○北米における人種イデオロギー……オードリー・スメドリー(山下淑美訳)
○中国史上の人種概念をめぐって……坂元ひろ子
 *近代人種主義の二つの系譜とその交錯――地域連鎖の世界史から人種を考える……田辺明生

V 近代日本における人種と人種主義
○人種・民族・日本人――戦前日本の人類学と人種概念……坂野徹
○「南島人」とは誰のことか……冨山一郎
○人種主義と部落差別……黒川みどり
 *近代天皇制と賤・穢……高木博志

W 植民地主義とその残影
○インドにおけるカースト・人種・植民地主義――社会通念と西洋科学の相互作用……サブハードラ・チャンナ(工藤正子/門田健一訳)
○人種主義的アフリカ観の残影――「セム」「ハム」と「ニグロ」……栗本英世
○人種的共同性の再構築のために――黒人性再想像運動の経験から……松田素二
 *調停される「帝国の視点」――双方向性のなかで人種概念を見直す……井野瀬久美惠

X ヒトの多様性と同一性――自然人類学からみる「人種」
○「人種」は生物学的に有効な概念ではない……C・ローリング・ブレイス/瀬口典子(瀬口典子訳)
○人種よさらば……斎藤成也
○日本人の生物学者にとって、「人種」とは何なのか?……片山一道
 *生物的概念としての人種……多賀谷昭

あとがき

■引用

T 総論 「人種概念の包括的理解に向けて」(竹沢泰子)

「 本書は、現代の人種差別問題を視野に収めつつ、人種概念を再検討すべく編まれているが、人種とは何かを解説するための手引きでもなければ、人種差別解消のための処方箋でもない。しかし現代の人種主義を考えるうえで、人種概念を歴史化し、ヒトの多様性を理解するという作業は、一見遠回りのようだが避けては通れぬ回路である。たしかに人種差別という現象がなければ人種概念は成立しえない。しかしながら、いったん確立した概念は今度は現象の認識および現象そのものを規定する力を及ぼす。いいかえれば、従来の学術的な人種概念自体が、その概念に収まらない現象を人種差別として認識することを妨げ、結果的にその現象を容認し、再生産しつづけてきたといえる。本書において、人種概念を学術的に洗い直そうとする意図も、ここにあるのである。」(p.10)

「 人種をめぐる問題がきわめて複雑であることを考えれば、文脈(ルビ:コンテクスト)のなかに位置づけながら丹念に追っていく作業が、学問的常道である。あるひとつの事象さえも、時代や状況、また他との関係性に応じてその意味を変化させるのであり、その性格を単純化して把握できないことはいうまでもない。ジェンダーや階級との交錯を含め個々の歴史的社会的状況のなかで差別も重層的に決定されるのであり、分節化(ルビ:アーティキュレート)しながら理解することの重要性をもはや強調する必要もないだろう。エスノグラフィ(民族誌)はそのためにあるのである。しかしK・マーリックが『人種の意味』において警鐘を鳴らしているように(Malik 1996)、誰もが人種について共通の言語で語るすべを探そうともせず、差異のみを叫ぶのであれば(そのような研究は、さらに望まれるとはいえ、無数に存在する)、われわれは>11>現在起こりつつある現象やこれから生じるかもしれないと予感される事象について、これが、歴史に照らして何らかの兆候であるのか否か、それをさぐる手だてさえ失いかねない。」(pp.11-12)

「 人種にせよ集団(population)にせよ、そこにはらまれる最大の問題は、そもそも分類という行為自体が内在的にもちうる矛盾と暴力である。分類とは人間の業であり、回避不可能である、そしてその分類を「人種」のように目に見える外見上の違いにもとづいて行うのは人間にとって自然の帰結である、という考え方がある。人種概念を否定したところで、白人と黒人とのあいだに明らかな身体的な違いがある以上、分類の欲望という人間の本性から自由になれるわけではない、という主張である。しかし本当にそうであろうか。ここでアプリオリとされているのは、視覚的認知が分類に先行するという発想であるが、そうではなくて、分類があってそのレンズをとおして認知している、という考え方も成り立つはずである。本章で言及した色のシンボリズムや自己/他者認識の指標に関する非欧米社会の事例などは、外見上の違いの認識自体を相対化させてくれるものであろう。
 それでは人間の分類を回避することははたして可能なのだろうか。これにはしばしばふたつの思考方法が提案されてきた。ひとつは人間としての共通性を強調し、ホモ・サピエンス、人類という最大カテゴリーのみを有効とする考え方である。しかし鷲田(2003)が指摘するように、共通性の追及の先に究極的に存在するのは、同時に他者を認識する行為でもあるのである。『反人種』を著したギルロイも、宇宙人の侵略とそれによる人類の団結という想定でもって人種の解消を唱えなければならなかった(Gilroy 2000)。もうひとつはその逆で、個々の人間がそれぞれにもっている個性の差を強調することによって、それぞれを変異と捉えて、分類から自由になろうとする思考方法であ>77>る。しかしこれは、現実的ではない。人間は森羅万象を分類せずして認知できない。これは社会心理学ですでに確立された公理である。「人間」というボックスのなかで、個々の人間はそれぞれの個性をもつ、ということでは、既知の人と新たに遭遇した人を認知上整理することは不可能である。既知の人が誰であるかを想起する場合、ボックスを順々に開け情報を引き出すプロセスを辿るし、新しく出会った人についても、その風貌や出会った場所、時間、社会的脈絡などを既存のボックスのなかに整理することにより、理解可能な対象となるからである。そしていずれのボックスにも収まらない場合、それは理解不可能な、したがって不気味な存在として認識され、それを排除しようとする力が働く。
 分類が人間の認知能力にとって必要不可欠であるならば、以上のいずれでもない思考方法はありうるだろうか。ここでは次のふたつの考え方を提示してみたい。通常分類とは、今日でも継承される博物学や生物分類学のように、ひとつの次元で類似や差異を見いだし、範疇化する作業をともなう。……前述のように、ヒトとチンパンジーとゴリラとの関係でもみたように、一般にヒトとチンパンジーの類似性のみが注目される。しかしそれは重要な真実であることに違いないが、真実の一部にすぎない。じつは多くの別の遺伝子座においては、ヒトはチンパンジーよりもゴリラに類似しており、さらに異なる多くの遺伝子座ではゴリラとチンパンジーとが近縁になる。これは遺伝子レベルの話で、進化も絡む話ではあるが、分類を考えるうえではきわめて示唆的である。つまり、分類の根拠となる共通性、類似性をつねに多元的に模索すること、換言するならば、境界線を固定化させず、攪乱させること、それがつねに見る側の角度や次元によって揺れ動くものであると意識化すること――そこに分類が内在的にもつ暴力に抗うひとつの鍵が隠されているように思えるのである。
 もうひとつは、個々の人間の多面性と他者とをつなぐことにより、分類思考を解体する可能性である。J・クリステヴァは、フロイトの「無気味なもの」を援用して、「外国人を検討するには自分自身を検討すればよい。自らの厄介な他者性を解明すること。…奇異は自分の中にある。我々は皆外人なのだ」(クリステヴァ 1990[1988]:233)と述べている。…>78>…デカルト的な統一された自己を認識するのではなく、また自己と他者という対峙的な分類に束縛されるのでもなく、じつは表象化された「他者」は、人間個々人が内側に秘める断片の化身にすぎないものなのだと理解することによって、自己の部分部分が他者へと開かれていきはしないであろうか。」(pp.77-79)


■書評

野林 厚志(200609,『文化人類学』71(2):276-280)

「人種概念が普遍的であるか否かという問いかけに対して、編者は検証すべき人種概念を3つの位相に分けて整理している。それが第一部の総論で提起された、小文字のrace、大文字のRace、抵抗の人種(Race as Resistance)である。小文字のraceとは、社会の中で分化した集団の差異が世代を超えて固定化し、その差異が明瞭な優劣関係や排除をもって表出していくものと説明されている。これに対し、大文字のRaceはいわば固有名詞化された人種ととらえることができるだろう。固有名詞化が行われてきた典型的な例は言うまでもなく欧米の人種観であり、皮膚の色や髪の毛の形状といった形質的差異によって区別されてきた五大人種にはじまり、それらはやがて欧米の外に流通しただけでなく、それぞれの地域において認められていた小文字のraceに影響を与えながら拡がっていったとされる。外的な区分けやアイデンティティによる境界もふくめた民族、そしてそれをうらづける意味でのエスニシティも実はRaceを構成する要素となってきたと言えるのだろう。大文字のRaceの反動として構築された抵抗の人種については、新しい人種概念をまたぞろ作り出したのかというのが率直な感想である。第3の位相を肯定的にとらえることはたやすいが、大文字のRaceの存在がなければ、生み出されることのない抵抗のRaceが数多く存在することにも留意しておかなければならない。」(p.276)

「 編者が最初に設定した人種の3つの位相は、あくまで編者のこれまでの調査や共同研究等を通して導きだされたものであり、その定義に異を唱えることはたやすいが、本書の第四部までに収められた各論文は、これら3つの位相が重なりをもって存在していることを理解するうえでいずれもその役割を十分に果たしている。したがって、これらの3つの位相をもって人種概念の普遍性を問う作業を行うことは合理的であると言える。すなわち、普遍的という言葉が適切かどうかは別として、人間を差異化し、それを固定していく手段としての人種ならびにそれを規定する概念は、どうやら世界にはおおむね存在しているようである。また欧米がつくりあげたRaceがその後、世界の各地域でどのような影響を与えてきたか、またそれぞれの地域におけるraceが欧米からのRaceと交錯しながら固有名詞化していく過程や、それぞれの地域の中で固定化していく事例も、人種が、いずれの社会の中でも容易に入り込み固定化されていくということを物語っている。
 では、普遍的な人種概念が存在するか否かという設問についてはどのような回答が可能となるのだろうか。この問題は先の問題に比べてはるか具体的である。もっとはっきりと言ってしまえば、皮膚の色をはじめとする形質上の特徴や、最近ではDNAによる人間集団の識別が、人種として有効であるかどうかという問いかけである。この問題の扱いを左右するのが第五部である。そして、評者が冒頭に述べた期待はずれの部分とはまさにここなのである。>278>  評者が本書の構成を最初に見て期待したのは学問領域における人種の整理であり、とりわけ、「文化」と「自然」との間で、人種の概念についてどのような新たな視野が拡がっていくのだろうかという点に非常に関心をもっていた。残念ながら、第五部を読んだかぎりでは議論の歩み寄りは両者の間ではあまり生まれなかったようである。むしろ、見事に文化人類学者や歴史学者と自然人類学者との乖離が露呈したといわざるを得ない。もし、編者が文化人類学者と自然人類学者とが協働して人種の問題に取り組んでいける、取り組むべきだと考えていたのであるならば、協働のための仕掛けにあまりも戦略性が感じられなかった。第一部の総論を読む限り、編者の自然人類学に関する知識は相当なものがあることは誰もが認めるところである。しかしながら、それらが人種の問題に取り組んでいくうえでどのような意味をもつのかが、自然人類学者にはまったくといってよいほど伝わっていないように思われる。」(pp.278-279)


■言及



*作成:石田 智恵
UP:20080725 REV:
民族・エスニシティ・人種(race)  ◇BOOK  ◇身体×世界:関連書籍
 
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