「このように遺伝子検査の普及は予防医療の充実の点では望ましい面もありますが、予防できない病気の場合は患者の人権問題にまで発展することがあります。
たとえば、ハンチントン病(単一遺伝子疾患)。この病気は中年期に発病、からだの一部が自分の意思とは関係なく動いてしまうので「舞踏病」とも呼ばれ、知的障害と感情障害も伴います。両親のうちどちらかが患者である場合は五〇%の確立で子どもに遺伝する病気であり、この原因遺伝子は四番>038>染色体上にあることが確認されていますが、現在のところ治療法はありません。そこで、次のような倫理的問題が発生してきます。
(1) 治療法のない病気の発病リスクを調べることにどのような意義があるか、という問題。その時点では健康に暮らしている人に対して無理やり遺伝子検査を受けさせ、「あなたはやがてハンチントン病になるでしょう」と宣告したところで、治療法がないわけですから、本人は悲嘆にくれるばかりです。」
(2) 差別の問題。就職や保険加入などにさいして該当者に遺伝子検査を義務づけ、異常がなければ就職や保険加入を許可するけれども、もし異常があれば不許可になることが考えられます。そこで、本人の「知りたくない権利」を認めるかどうかという倫理的問題が発生してきます。」(pp.38-39)
「遺伝子治療については倫理面からも問題点が指摘されています。第一はインフォームド・コンセントの問題です。がんの遺伝子治療は患者側からは「救世主」のように思われていますが、その安全性や効果は実験段階にとどまっていること、治療の副作用や将来起こりうる不都合な症状に関しても未知の部分が多いことなどを十分に説明して患者の了承を得たうえで治療に踏み切ることが必要でしょ>040>う。実際、遺伝子治療は華々しいマスコミ報道のわりには臨床面での実績が不足しています。
第二は患者のプライバシー保持の問題です。医学の発展のためには治療内容はある程度公開する必要がありますが、そのさい患者のプライバシー侵害という倫理的問題が発生する危険性があります。
第三は医療の公正の問題です。特定の患者の治療のために莫大な国家予算を使ってもいいのか、ということです(これは最先端医療に常に伴ってくる問題)。」(pp.40-41)
「以上のように説明すると、ES細胞を用いた再生医療は「ばら色」のように見えます。ちょうど車>044>の「スペアタイヤ」の交換と同じように人体のある臓器が壊れたときには「スペア臓器」と交換すればいいわけですが、この医療にも次のような問題点があります。
(1) 胚を子宮に戻して成長させれば胎児となり人間が生まれる。立派な生命になりうる胚細胞を人工的に操作することが許されるのかという問題。
(2) ES細胞を作るために受精卵をおカネで取引するようなことが横行しないか。つまり、臓器移植に常につきまとっている臓器売買のようなことが起こらないかという危惧。
(3) 生体組織を人工的に作り出して利用するという行為そのものが、生命の冒涜にならないかという問題。
(4) 再生医療を受けた患者に、将来、予期しなかったような身体的ダメージが発生しないかという危惧。たとえば、ES細胞の培養過程において、患者本人のタンパク質とは別のタンパク質が混入すると、それによって新しい病気は発生する危険性があります。このほかにも予想もしなかった組織に成長してしまう可能性も否定できません。なにしろ、この医療の歴史は非常に浅く、一九九八年一一月に米ウィスコンシン大学の研究グループが世界で初めてES細胞からヒトの細胞を取り出すことに成功したばかりなのです。
(5) 膨大な研究費。再生医療研究には億単位の研究費がかかります。膨大な研究費をかけて実際にどれだけの人々が恩恵をこうむるのかという費用対効果の問題があります。」(pp.44-45)
○新聞記事「『幹細胞』でスペア臓器」
「病気で心臓や肝臓が働かなくなったら、自分の骨髄からスペア臓器を作って交換。こんな夢の治療法が現実味を帯びてきた。それを可能にするのが骨髄にごく微量含まれ、様々な組織や臓器に育つ能力を備えた「幹細胞」だ。今、世界中の研究者が目の色を変えて幹細胞探しと、それを使った臓器作りに取り組んでいる。」(p.46)
「この記事で取り上げられているのは「体性幹細胞を用いた再生医療」です。この再生医療は「ES細胞を用いた再生治療」とは違っています。最も違っている点は「受精卵」ではなく患者本人の「体細胞」から幹細胞を採取する点です。具体的には、骨髄細胞から採取される場合が最も多く、最近では筋肉・胎児を包む羊膜・赤ちゃんのへその緒などというように採取対象がだんだん広がっています。いずれにしても、この再生医療においては患者自身の細胞から幹細胞が採取されるので受精卵不足や拒絶反応の問題は起こりません。核移植の必要もありません。」(p.46)
「デザイナー・ベビーとは、あらかじめ親たちの理想の子どもになるようにデザインされて産まれてきたベビーのことです(ドナー・ベビーもデザイナー・ベビーの一種とも考えられる)。
親たちは、やがて生まれてくる自分たちの子どもに対して「ああいう子どもであってほしい」「こういう子どもならいいな」という夢をもっていますが、実際には期待通りの子どもは生まれてきません。そこで人工的に理想の子どもを手に入れようというわけです。たとえば、頭のいい子・顔立ちの整った子・背の高い子というように。「こんな子が欲しい」「あんな子が欲しい」とデザイン(立案)して生み出されるので「デザイナー・ベビー」です。」(p.58)
「このようになると、「子どもは天からの授かりもの」ではなくて「親の作品」になってしまいますが、ドナー・ベビーのように医療目的のデザインが許されるのならば趣味的デザインも許されていいのではないか、という人々は確実に増加しているようです。」(p.58)
○ターミナルケアについて 某がんセンター勤務の看護師Kさん
「私は死が怖い、理屈抜きに。理由なんてない。どんなに勉強しても、その気持ちは変わらない。死にゆく人を看るには死生観をしっかりもっていなければならないと言われる。うその理想の死生観ならきちんとある。いろいろな教科書に出ている。うまく死を受容できた人の事例がたくさん載っている。その理想を追うことが必要なのだとずっと思っていた。しかし、それは私にとっては無理があった。私は自分の死を受容できるような立派な人間にはなれない。立派な死へと導く仕事は私にはできない。
今の病院で働くようになって「自分ががんを宣告されたら」と考えることが多くなった。私なら治療を受けて闘う死を選ぶような気がする。もしかしたら奇跡が起きるかもしれないと思いながら、いろいろな治療にチャレンジするような気がする。奇跡を起こすためにも、私にとっては形だけでも良いから治療が必要なのだ。このような考え方は好ましくないこと。「死」を避けていることになる。しかし、私にとっては自然だった。
でも、今回、死を宣告されながらも生きなくてはならないとき、「代替療法」という選択肢があることを知った。宗教のない日本人にとって「支えになるもの」と見出すことは難しい。代替療法はその支えになることを発見した。そのような生き方は私の理想である。(T大学大学院 K・Yさん)」(p. 161)
「代替医療には「これ以上は治療法なし」という明確な境界線がありません。現代医学のように科学的ではないからです。本人がその治療に希望をつないでいる限り、それは有効なのです。「それはプラシーボ効果だ」という人もいます。実際、それはプラシーボ効果にすぎないのかもしれない。でも、たとえプラシーボ効果であったとしても、人間にとって「ひょっとしたら治るかもしれない」という希望は自然治癒力の強化につながります。さらに、その場合の「希望」は現代医学的治療に希望>162>を託す場合とは少し違っています。後者の場合は、Kさんもいっているように「形だけの治療だ」と分かっている場合が多いのですが、前者ではもっと前向きな希望をもつことができるからです。
ただし、あくまでも、それは希望にすぎないので不確実なものです。でも、人間は希望によって生かされている存在でもあります。そして、「何か支えになるもの」を見つけた人間は心身ともに強くなれるのです。」(pp.162-163)