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『フランス科学認識論の系譜――カンギレム・ダゴニェ・フーコー』

金森 修 19940630 勁草書房,321p


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金森 修19940630 『フランス科学認識論の系譜――カンギレム・ダゴニェ・フーコー』,勁草書房,321p. ISBN-10:4326252958 \3000[amazon][kinokuniya] ※ c0202

■目次

序章

T ジョルジュ・カンギレムの技術論
第1章 カンギレムにおける生命と機械
第2章 カンギレムにおける生命論的技術論
第3章 生命と美的創造理論との交錯――カンギレムとアラン

U 生命科学の哲学 
第4章 主体性の環境理論とその倫理的射程
第5章 擬人主義の認識論
第6章 記憶と遺伝――概念の奇形学のために
V フランソワ・ダゴニェの概念的滑走
第7章 固定と俯瞰――ダゴニェにおける〈風景〉
第8章 粘稠なる浮動性――薬の認識論
W ミシェル・フーコーの社会統制論
第9章 フーコーのトポグラフィ
第10章 危険人物と社会統制
解説 エピステモロジーの系譜
あとがき
人名索引
初出一覧
■引用

「「機械と有機体」という論文は、自らの技術論や創造論を潜在的な背景とした上でのカンギレムが、動物機械論という射程の大きな問題に何らかの回答を与えるために構想されたものだといえよう。・・・有機体と機械を同一視することにはどんな意味があるのだろうか。そもそも機械とはなんだろうか。機械とは、その本質的機能がメカニズムに依存している人工的構築物である。そしてメカニズムとは、運動している固体の形態であり、その際そのん同がその形態を壊さ>21>ないという条件を満足させている。メカニズムとは歪曲可能な部分のアサンブラージュであり、その際、部分間の同一の関係が定期的に復元されるようなアサンブラージュである。アサンブラージュは、ある一定の遊びを含む結合システムによって成立している。すべての機械において運動はアサンブラージュの関数であり、メカニズムは形態の関数である。機械が惹起する運動は幾何学的で測定可能な移動である。一方メカニズムは運動を調節し、変換するが、それ自身では動因ではない。では、なぜ人々は機械の中に、有機体の構造や機能を理解するためのモデルを見出そうとしたのであろうか。」(「カンギレムにおける生命と機械」 p20−21)
「機械はある目的を得るために、ある効果を生むかたちで、人間によって、かつ人間のために作成される。一般的にいって、目的性の成功を確固たるものにするためには、メカニズムが必要である。そしてすべてのメカニズムの集合は偶然の集合ではない以上、一定の意味や方向を持たなければならない。だから、機械論と目的論とを対比的に把握することは的はずれであるといわなければならない」
(「カンギレムにおける生命と機械」 p24)
「カンギレムが注目するのは、・・・あまり明確には知らないままになにかを作ってしまう場合のことである。そして彼は製作過程におけるその認識上の亀裂に、生命特性を重ね合わせる。・・・すべての技術は、その成立過程を完全には合理化できない生命的な独自性を持っている。」(「カンギレムにおける生命と機械」 p24)
「要するにこの論文は、技術を単に人間の知的な操作としてだけではなく、普遍的な生物的現象としてとあえることによって、まず芸術や手仕事の創造的自律性を認めるようにし、ついで機械的なものを有機的なものの中に刻み込むようにするために書かれたものであるといっていい。〈技術の生物学的哲学〉を素描する際、彼はルロワ=グーランの言葉を引用する。ルロワ=グーランは、食物を前にしたときのアメーバの脚の運動を道具製作一般と類比的に把握するのである。もしいまその考えを延長してみるならば、腎臓は有機体が正常に活動した際に出てくる廃棄物を処理するために誂えられたどうぐであるということになり、肺は細胞呼吸システムの外部とのインターフェイス系ということになる。人工臓器の人工性>29>を云々する前に、現在我々の肉体の内部にあるとされている様々な装置(内臓)が実は命名活動がない時間かけて序々に完成させてきた道具・技術系の成果であるということになる。」(「カンギレムにおける生命と機械」p29−30)

「自然に対して調和的な存在であるといいがたい人間は、自然の条件おなかに自分とはそぐわないものを見て、それを抵抗態とみなす。すべての創造が最初にきをもむのは、自らに抵抗するものに対してである。だが、逆に言えば、・・・抵抗するものがあるから子を創造性はわきたつ。ものに邪魔されたとき、認識は揺らめき立つ。」(「カンギレムにおける生命論的技術論」p40)
「最終的な作品は、可能態としての固体的構想の自発的な展開では全くなく、流動的な構想と、製作過程におけるものとの間の不断の対話から生れた可塑的な練磨である・・・>42>構想は、可能態のままにとどまっている限りは凡庸で、とるにたらないものである。それが実際に実現される過程における揺動のなかにこそ、製作行為の本質があり、その本質は同時に創造性の秘密に肉薄しているものなのだ。」(「カンギレムにおける生命論的技術論」p41−42)

「技術的制作活動の起動因は、純理論的な概念構成の場においてではなく、生命としての人間がこの世界の中で何らかの居心地の悪さを感じて、それを克服しようとする欲求ないしは〈食欲〉の中にこそ探されるべきである、というのがカンギレムの考え方である。・・・・・・その意味では、技術的総合にはかならず生命的な要素が入り込み、そのためそこには生命に固有な予見不可能性が入り込む。・・・〉47〉生命一般を技術と根本的に連結したものとして把握すべきである。」(「カンギレムにおける生命論的技術論」p46)

「人は自分の規範以外にも、素材がそれに固有な世界として持つ一連の抵抗性によって世界に拘束される。大理石には大理石の〈論理〉があり、それを無視して自分の規範を無理に実現しようとするだけでは、彫刻は刻めない。」(「生命と美的創造理論との交錯――カンギレムとアラン」)p65
「何らかの芸術作品が生み出されるためには、本来なんら物的な起動点をもたない〈形象具現の意志〉が作動するためには、何らかの基礎的〈形態〉が自分以外のところに既に存在していなければならない。」(「生命と美的創造理論との交錯――カンギレムとアラン」)p71

「カンギレムは科学の性質を次のようにまとめてみせる。(「生物とその環境」『生命の認識』所収)科学は固有の環境を構成している対象の質を貶下し、非人間的な実在の環境の一般理論を提示するという本質機能を持つ。その場合、感覚的所与は貶下され、量化され、同一化される。評価は測定に変わり、習慣は法則に変わり、ヒエラルキーは因果性に変わり、主観的なものは客観的なものに変わる。ところで、この科学者の宇宙は、人間に固有な環境に、他の生物たちにとて固有な環境と比べた際の一種の特権を与える。人間は、自分と科学者との関係から、他の西部突っ立ちの環境よりも自分自身の環境のほうを、より実在的で価値があるものとして把握するという無意識の傲慢さを受け取るのである。」(「主体性の環境理論とその倫理的射程」)p99

「記憶説は、学説構成時における複数の科学館の交流、干渉、饗応の具体例としての地位を持つ。遺伝学心理学、遺伝学と物理学は多くの逸脱を孕みながらも記憶説の中で複雑に交錯した。・・・そもそも認識とは、適度な孤立度>164>をもった概念群を、それまでとは違った形で連結し、分離し、組み直すという営為そのものではなかろうか。」(「記憶と遺伝――概念の奇形学のために」p163−164)

「ダゴニェは、薬のなかに本性的に組み込まれている示唆的要素の確認、臨床における薬の作用過程に介在する魔術的または人間学的暈囲の存在確認を行った。それによって、薬効の客観的確定を目指す薬理学に潜在する、固定的で実体主義的な存在論を放棄することの必要性が力説された。薬の存在論は不動性を付与されたのである。・・・>216>・・・治療の全体性と薬理学的実在論が仮に解体したとしても、曖昧で偶発論的な哲学に直ちに移行するべきではない。・・・それがもつ不動性のために、薬理学の哲学は、より安定でより単純な要素の基づく物理学的一般性の哲学とは異なる性質を持つ。薬はさまざまな事件や状況を超越した実体ではない。その存在はその効能によって規定される。だから必要なのは薬を複数の関係にまたがる一種の網として、あるいは依然として条件の関数として把握することである。」(「粘稠なる浮動性――薬の認識論」p215−216)
「臨床医学が決して完全には基礎医学に還元されないように、以下に合理的整備をされた薬理学的物質生成を背景にしても、薬が端的に化学物質と同一視されるにいたることはありえない。」(「粘稠なる浮動性――薬の認識論」p227)

「〈場所〉の例さんは、量よりも価値が高いとしされがちな質に対して、量自体の生産性を検討する〈数〉の弁神論と一体となっている。大量のものが存在するとき、それは単に、ある個別者の単調で無意味>254>な反復を示すに過ぎないのだろうか。いや、そうではない。量はそれ自体の大きさによって、新たなものを作り出す。それは単なる堆積ではない。またダゴニェは、データ集積のための情報工学的技術や、人々が集い、語り合い、交錯しあう都市空間などの持つ価値にも注目する。データを巧みに集めることは、それ自体が、ある知の配置換えを表すだけではなく、知そのものの構成部分をなしている。」(「フーコーのトポグラフィ」p253−254)

「ある複雑な社会体系があったとして、そのシステムを何とか機能させようとすれば、何ら>>299>かの次元で規範に頼らざるを得ないというのは自明のことではないのか。要するに、なぜ反抗であって、尊守ではないのか。この問いが立てられたとき、フーコーは、感性的にではなく、理論的にそれに答えることができたのであろうか。こと規範に関する限り、その技術の総体を記述することは実に巧みであったフーコーではあったが、その存立基盤自体を存在論的に検討することに、彼は若干無頓着であったように思われてならない。」(「危険人物と社会統制」p298−299)


*作成:近藤 宏
 
UP:20080930
サイボーグミシェル・フーコー  ◇身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
 
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