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『文化としての他者』

Spivak, Gayatri C. 1987 In Other Worlds : Essays in Cultural Politics,Methuen
=199012(復刊版 200006) 鈴木 聡・大野 雅子・鵜飼 信光・片岡 信 訳,紀伊國屋書店,438p.


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Spivak, Gayatri C. 1987 In Other Worlds : Essays in Cultural Politics,Methuen
=199012(復刊版 200006) 鈴木 聡・大野 雅子・鵜飼 信光・片岡 信 訳 『文化としての他者』,紀伊國屋書店,438p. ISBN-10: 4314008687 ISBN-13: 978-4314008686 3885 〔amazon〕 ※ b

■内容(「BOOK」データベースより)
著者ガヤトリ・スピヴァックは、脱構築思想をマルクス主義と結合し、哲学や文学の問題だけでなく社会批判へと拡大してしまう類まれなラディカリズムによって、いまやアメリカを代表する批評家の一人と注目されている。第三世界出身の女性である著者は、アメリカ社会のなかでは、「異文化」を体現する存在にほかならない。アメリカという「他者」のなかで、この尖鋭な知性は何を考えたのだろうか?著者の本邦初訳である本書には、そうした思考の軌跡が映し出されている。ミクロなレヴェルでは、文学テクストや大学制度を、マクロなレヴェルでは、高度資本主義の世界システムを、本書は「他者」という視点で鋭敏に読み解いてゆく。

■目次
1 刃としての文字=手紙
2 フェミニズム的な読みの発見―ダンテ‐イェイツ
3 フェミニズムと批評理論
4 説明と文化―雑考
5 解釈の政治学
6 国際的枠組みにおけるフランス・フェミニズム
7 “価値”の問題をめぐる雑駁な考察
8 マハスウェータ・デヴィ作「ドラウパーディ」
9 マハスウェータ・デヴィ作「乳を与える女」
10 副次的なものの文学的表象―第三世界の女性のテクスト


■言及

Judith, Butler 1990 Gender Trouble : Feminism and the Subversion of Identity, Routledge(=19990401, 竹村和子訳『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』青土社).
(pp39-40)
 ジェンダーの非対称を再生産する基本構造については、ボーヴォワールとイリガライでは明らかに意見が異なっている。ボーヴォワールが注意を向けるのは、非対称的な項目間の弁証法では両者の相互作用をえることは不可能だという点であり、イリガライが主張するのは、その非対称的な弁証法そのものが、男中心の意味機構がおこなう一方的な説明だということである。イリガライはたしかに、男中心の意味機構がいかに認識論的、存在論的、論理的構造をなしているかをあばいてみせ、それによってフェミニズム批評の視野を拡大した。しかし彼女の分析の力は、分析の範囲をあまりにも広げてしまったために、弱まってしまった。いったい性差が生み出されるさまざまな文化的、歴史的文脈を横断して存在する、一方的で一枚岩的な男中心の意味機構を同定する(アイデンティファイ)ことなどできようか。ジェンダーの抑圧が作動するさいの個々の文化の個別性を認めないことは、一種の認識論的な帝国主義なのではないか。個々の文化の差異を、いかなる場合も同一である男根ロゴス中心主義の「例」として説明するだけでは、とうていそのような帝国主義を改めることにはならない。さまざまな《他者》の文化を、世界規模の男根ロゴス中心主義が多様に拡大したものとしてしか見ず、それに包括してしまうことは、そうでなければ全体化の概念に疑義をつきつけたかもしれないさまざまな差異を、同一性の記号のもとに植民地化することになる。したがってそれは、男根ロゴス中心主義の勢力拡大の身ぶりを、みずから反復してしまう危険性をもつ行為―あらゆるものを自分のなかに取り込もうとする占有行為―なのである(*23)。
(p265)
 (*23)ガヤトリ・スピヴァックは語気鋭く、この二元的な説明そのものが、周縁化という植民地主義の行為だと弾劾する。彼女は、「認識をおこなう超−歴史的自己を打ちだす自己提示」を批判し、哲学的なコギトという認識論的な帝国主義の特徴をなすものだと述べる。彼女は政治を知の生産として位置づけた。彼女によれば政治こそ、そのような主体の既存の知の体制の偶発的な理解可能性を、排除されることによって作りだすような周縁を捏造し、またそれを検閲するものである。「『政治』として存在しているものはすべて、その説明のために必要な周縁を禁止していくものだと思われる。この見方では、二分法の選択は〔…〕単なる知の戦略にとどまらない。それは個々のケースにおいて、中心化(適切な弁明)と、それに呼応する周縁化の可能性の条件なのである」。(Gayatri Chakravorty Spivak, “Explanation and Culture: Marginalia,” in In Other Worlds: Essays in Cultural Politics [New York: Routledge, 1987], p.113) 〔邦訳ガヤトリ・C・スピヴァック『文化としての他者』鈴木聡・大野雅子・鵜飼信光・片岡信訳、紀伊國屋書店、1990年〕.

◆草柳千早, 20040820, 『「曖昧な生きづらさ」と社会――クレイム申し立ての社会学』世界思想社.
(p220)
 まず受け手に目を向けるなら、その実践とは、他者の語りをいかに「クレイム」として受け取らないか、というものである。そのような実践は多様にありうるが、第一に、そもそも受け取ることを可能にする基本条件が欠如している場合、次に、その条件のもとにあってその上で行われる実践を考えることができる。まず、受け取りを可能にする基本条件とは、大雑把に言って、関心、能力、関係の三つであろう。われわれの注意は常に選択的なものであり、関心のない事柄に注意を向けることはない。また、受け取り能力を欠くものについては受け取ることが難しい。わかりやすい例は言語の壁で(*10)ある。身体的物理的な困難もあろう。第三に、相手との関係が欠如している場合、その相手から何かを受け取ることはできない。この場合、関係とは、「客観的」な関係の有無ではなく、当事者の関係認識の有無である。
(p235)
 (*10)すべての言語は貴重であるという考えに対して、各言語は、実際には同じように貴重とされないことに、スピヴァクは注意を喚起する(Spivak 1987 : 訳146)。


*作成:植村 要 追加者:
UP: 20080511 REV:
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