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北村小夜さんインタビュー

20210316 於:東京・北村さん宅

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生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築
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北村 小夜 i2021 インタビュー 2021/03/16 聞き手:A竹村文子・B,東京・北村さん宅





【rmk02-1】210316-3_北村小夜さんインタビュー_216分


北村: この本*の中に、cさんの書いたところがあるでしょ。あのね、うーん、終わりのほうで。高校生っていうところがあって、高校生の最後…。うーんとね、この、Jさんの話、これは、これが例の突撃隊ね、208ページの、これがDのあのb君の突撃隊で、これはそれで中学生がここま…、まあ、Dだから当たり前と思うんだけど(笑)。でもなかなかいいよ。あの、「一緒に山へ登れても、高校の山は登られへん」っていうのが。でもこの子、違う学校に結局は入れちゃうんだけどね。で、こういう中学の取り組みっていうのは私はもう一つのことを知ってるわけ。それはどこにも書いてなくて。あの、劇の本だけ残ってます。で、
   
えっとねえ。
ちょっと持ってき…。あのね、ガリ版刷りのね、なんだその、わりとねえ、演劇の集会そのものはよかったんだけど。ないかな、ここらへんに。ぱっと見たら、あるとこにあったはずなんだけど。
…すぐわかんなくなって。まあどっちか言ったら、これ子どもたちが書いた本だよ。
その子はやっぱりね試験が…、女の子、6、7人が女の子で、その子たちが全部合格して、bちゃんも一緒に合格発表見に行くんだけど、落ちてるわけ。それでみんながこう、手続き、「合格の人は手続きして」って手続きのほう行くでしょ。するとbちゃんがそっちついて行こうとするのね。切ない。うん。そっちへついて行こうとする。でも「bちゃん、だめだよ」と言わなきゃ。でもみんなで行こうね行こうねっていう運動を高校に入ってからもするわけだけどね、うん。
 で、ここでね、そこまでその、bちゃんのところの次で、そこ飛ばして、それからね、うーん。あの、299、うーんと、が2つあると思うの。これ日教組教研(教育研究会の略)にね、私どうしてこんなにたくさん…。あの、その頃誰もこういう本作らないときにね、作れたっていうとね、日教組教研の助言者やってて、全国のレポートが全部読めたんですよ。教研にみんなが報告を出すわけね。そのレポートを全部読むことができた。読むことができるって言っても読むことができる、読む時間と忍耐っていうのは相当なもんなんだけどね(笑)。おもしろくないのがいっぱいあるわけ、大部分は。どっちかっていうと、その、特別支援教育推進派の人が圧倒的に多いわけだから。その中で、それを読みながら、「どっかにまともなものはないか」って探すの大変なんだけど。そういう中からのこう出会いで、うん、その、あべさんのそれが見つかるわけだけども。本当に。この、これは42次教研(1993年於秋田)とたぶん40次(1991年於東京)…、ああ、45次(1996年於大阪)だね、2つ入ってるはずなんだ。うーんとね、それからね。40…、ちょっと待ってね。
2つあって、うん。あの、42次と45…なんかね、こっちの、だから299と317っていうのは1年違いのものなんですよ。この1年のあいだにすごく変わってんだ。要するに、
42次っていうのが秋田教研かな、それ。60何年だろう。
42次、42次っていうのはね、これ秋田教研で1993年で。44次っていうのは、えーと長崎で1996年。で、あの、この前、これじゃないほうの進学ガイドのほうに、この子が高校に入るまでのことは、中学の支援者の人が書いてるんです。だからこの中にあの、やっぱりこうかなと思ったけど、ちゃんと「kくん」って書いてあると思う。だから地域の運動もあって、そこに入ってくるわけね。あの、かなりおしまいのほうだったけど。福岡の実践のとこ。
うん、そんなにおしまいじゃなかったかな。なんか私も…。福岡の。


北村: それ、それがcさん、これに繋がる。で、この子ねえ、ダウン症の子なんだけど、私が会ったときにはね、留年中。留年中で、留年がね、すごくこたえてんの、本人に。
それであの、ここがね、毛抜くの、自分で。でね、このへんまでこう腫れ上がってる。で、その彼を卒業させようって、cさんのがんばりの中でkがどんな思いしてるかと一生懸命考えるの。で、それと同時に、このcさんの実践で私はすごいと思うのは、二つの物差しを持たないっていうこと。彼、英語の先生なの。にもかかわらず、「障害児だからこのぐらいでいいや」っていうふうには思わない。同じことをその、まったく同じ教材で同じ評価をしながら、この子をどう評価するかっていうことを考えるわけ。で、ずーっとある中でやっぱりこの実践、一番すごいことだと思うの。あのまあ、選んで採る高校というところで、既に高校そのものに問題があるわけだけど、その中で、何とかして同じ物差しで子どもを、この子を見ようっていう見方。たぶん非常に難しいことだと思うのね。でも「障害児だからこれで卒業できたの」…、ああ、「卒業だからこれで良かったのよね。卒業できたから」「進級できたのよね」っていう、「障害児だからだよね」っていう言い方いっぱいあるわけじゃん、「障害児だからこう配慮した」って。だからさっきに来るときも言ったように、ねえ、「点数は悪いけどこのページを写したら単位あげるよ」みたいなことで始末しちゃうのか、もうちょっとがんばるのか。内容に迫りながら、自分の教えたい内容に迫りながら、どう学ばせ、どう評価するかって。これ一番大きな課題だと思うし、だいたい今の高校にこんなことしてる暇はないよっていうのが実態だろうと思うんだけどね。これをやったっていうのは、ずーっとたくさん、いろんな人の実践を見てるし、あれは、eが高校生になって卒業するまでのことのことを、ちょっと見方を変える先生が来て、それが卒業に繋がる実践があるんだけど、このcさんの実践はやっぱり私はすごいと思う。こういうことができれば。まあそれもいろんな言い方あるわけだけどね。その、農業高校であるとか、いろいろな言い方あるけどね、やっぱりできたんだ。できて卒業したさ。[00:16:25]
これ一番大事なことだし、
それがすごくその、まわり、まあ一番はじめにはまわりの教師を説得することっていうのはだいたいできないと思うよ。うん。それはすごく大変な。eの場合にはね、このlさんっていう人と、もう一人熱心な人がいて。その先生、数学の先生だったけど、数学だけはいっつも2であとは全部1ってのが続くわけだ(笑)。一番苦手な数学が2になってるわけ。でも彼に言わせると、ちゃんと2の値打ちがあるわけ。うん。
 そこの実践が大事なことと、それとね、もう一つあんのが、私の、かなり私の言ってることは理屈じゃなくて実践的な経験なんだけど、あの、障害児が…、障害児…、教える側はわからないって言うんだけど、どう、まああの、障害児の中にじっとしてる子もいるわけだ。動く子もいるけど。だから、置いとくぶんにはかまわないけれど、どう、何かしなきゃいけないと思ってるわけでしょ。あのね、えーと、これも今、水俣に関わって水俣の支援をしてる人なんだけど、その頃高校の教師になったばっかりで初めて、初めての学校が定時制だったわけね。で、私たちがこう送り込もうとしてる子どもがいる学校のわりと近くだったし、まあ定時制なら何とかなる、しかも彼がいれば何とかなるなって感じで、彼にこう、こういう声かけをして「やらないか」って話をしたときに、やっぱ、「僕にはできません」って言ったのね、はじめ。もともとは水俣の闘争なんかでずっと一緒にやってた人、彼は学者で、私は教師でって関係でやってた人なのに、「僕にはできません」って言うわけ、ずっと。で、しばらくその、入学を決意するまでのあいだ何回か話しているうちに、「この子が高校に行くっていうことは、高校で、まあ高校の制服着て高校生になることなんだけど、高校に行って何ができるようになるということでもないし、高校の卒業証書を持って何をしようっていうわけでもないの。今私がこの子をあなたの学校に入れようと思うことは、ともかく同じ年齢の子どもたちの中に安心していられればいいんだ」って言ったの。
「で、あの、そこまでじゃだめだよ。安心していられる状況、安心して…、とにかく引き受けて、安心していられる状況を作って、作ったら、それで定時制だから4年になるんだけど、で作って4年経ったら、また同じように引き受けてくれるところを探しなさい。そこへ送り込めばいいんだ」って。「安心してこの子が生きられる場所を、そりゃあ学べる大学だってもどこでも、作業所でも何でもいいけど、とにかく安心して子どもがいられる場所へつな…、送り込む。だから、安心していられる、同年代の子どもといられる場所として保障して、何ができて、何がそこでできなきゃいけないっていう要求をしないよ」って。「でも自然に何かを彼は獲得する。でそれを持って、安心してこの子がまたがんばれる場所を見つけなさい」って。って言ったら彼、「それならできる」って言うの。あの、「やってみる」って言うわけだな。で、そういう真面目な教師で、あの、「僕にはできません」って言う人の中には、そういう人がいると思うの。障害児教育、障害児がまったくわからないからどうしていいかわからないって。あの、悪気じゃなくて、そういう人もいると思うの。この人も定年迎えたから。でも彼にとってはそういうことだったわけ。うん。
それで、「引き受けたからにはそこでできる精一杯のことをして、みんなと同じに精一杯のことをして、放り出すんじゃなくて、安心して生きられる場所に繋げることを要求するんだ」って言ったら安心する。でもそういうふうに思えない。「何かをしなきゃいけない、ある程度点数を取らせなきゃいけない、わからせなきゃいけない、高校に来たんだからこれができるようにしなきゃいけない」みたいな、真面目な悩みを持っている人についても、要求していかなきゃいけないと思うね。で、その、もしかしたら真面目な要求に応えようとするために無理してる人だっているわけでしょ。無理をして強制したり、あるいは放り出したりしちゃう。無理なものを過大に背負っちゃうから、そうなっちゃう人がいると思ったけどな。
だから、はじめに言った「高校とは何をするところだ」っていうのを、それこそ教育基本法に書いてあること、学校教育法に書いてあることを読んでも、だいたいそれでいいわけなの、本当は。「何ができなきゃいけない」じゃなくて、中学卒業した段階、この年齢で、あの、その上に立った人間教育をするところだっていう程度のことになってるはずなの、本当は。それが実際には、学習指導要領でもって何だかだと出てくるから、こんな問題になってるわけでしょう。うん。
また用意した教材があるわけだからね。うん。
でもその、さっき言ったようにこう、子どもってね、思いがけないときに、あの、それこそジャンプしたり背伸びしたりするの。で、あるでしょう? 誰でも。あと、「え、こんなこと知ってんの?」「こんなことがわかるの?」って経験あるでしょう?

A:そう、お風呂入っているときに、湯気で曇ったドアに、学校で漢文を習ったから漢文調に自分の名前の順を変えて漢字で書いてみたりね。

北村:(笑)だから、そういうことがわかるわけでしょ。その、どう読むかじゃなくてね、漢文を読むときには返点っていう日本独特の手法があるってのがわかるわけでしょ。大したもんだよね(笑)。
そういう「大したこと」ってのはしょっちゅうあるよね、私たち、会ってると。なかなかそれを点数に変えられないんだけど(笑)。
わかります。そういうことってあるよね。うん。あの、難しい数学だってね、記号だけ覚えてんのね。「今日は」、何とか、「シグマもらった」とか。「何? シグマ」(笑)言ってんだけど、ちゃんと仕組みの中、そこで覚えて。「ああ、学んでんだなあ」と思うね。

A:その場にいるからわかることが、あるんですよね。

北村:そう。それで、その場にいるとその雰囲気に入れるのよね。その、全然違う次元のはずなのに、その場面に入れちゃうの。
この、kくんの最後のところにその、卒業のところがあるよね、あの。で子どもの、子どもの感想を彼、書いてるんだけどね。要するに最終的に点数は取れてないけど、その、kが卒業することはどうだってのをね、彼、まわりの子どもに書かせてんのね。そうするとね、それなりに言ってんのね。その、「まあいいじゃん、彼が卒業すんのは」って言ってる子もいるし、「いいよ」ってだいたいの子が賛成してるわけ。ただ、「あいつが卒業して俺ができないっていうんならやっぱり嫌だよね」(笑) そんな程度ね。おもしろいじゃん、そのね。「みんな一緒に卒業するならいいよ」って言うけど、でも「あいつが卒業して俺ができなきゃ」、そりゃ当然だよね(笑)。んなことを正直に書いてるなんかあって、で、そういう雰囲気をこう作り出してるわけだからね。いや、この子は本当に大したもんよ。なかなかね、そのあとの教研のレポート見てるけど、だんだん支援教育が広まるにつれてこういう実践なくなって、なんかほとんど出てこなくなってくる。

A:「bも一緒に学校、高校行かれへんのか」って、「勉強できへんかったり、障害を持ってるっていうことで切り捨てられるんか。差別そのものやんけ。くそったれ、俺はそんなんに負けとうないわ」という劇の最後のセリフが心に響くんですね。

北村:うん。やっぱそこのところは大事なことですよね。だから、中学生のときにこういう経験して、卒業していくっていうのはねえ。うん。
誰もね、誰もそんな、一緒にいることで損することないのに、なんであんなに排除するんだろうね。
だから私その、分けちゃいけない理由の、4つぐらいいっつも言ってるんだけど。その、いっつも言ってんのは、一つはあの、子どもが分けられたがってもいないし、分けたがってもいない。
子ども自身が、分けられたがってもいないし、分けるほうにしてもそうだけど、分ける、分けたがっても分けられたがってもいないっていうのが一つよね。誰もが望んでない。それとその、分けたところでできることには限度がある。
みんなと一緒じゃなきゃ、分けたところで一人でできるようになって何すんのよね。
その、支援学校の中でできたから、支援学級の中でできたからっていって、それがみんなの中でできるわけじゃないじゃない? だから、それと3番目ぐらいに、特別なところでできることっていうのは限りがあるよね。うん。使いものにならない。その、支援学校の中で「できた」っていって、先生が「できた」っていって通信簿に書いてくれるかもしれないけれど、それは使いものにならないわけ。みんなの中でできなきゃ。みんなの中でできれば、大したことじゃなくてもそれで通用するわけでしょう。うん。それと、大人がいくらがんばっても、友だちの代わりはできない。
大人がいくらがんばっても、やっぱりさ、子どもの対応も違うしね。大人がどんなにがんばっても、専門家が10人いても、友だちの代わりはできないし、1人でもできない。それはあの、えーと、あそこの、整肢療護院の児玉先生がおっしゃっていましたが、要するに自分たちがその、園の中で一生懸命そのリハビリやってるわけだ。で、架空の場所を想定するわけでしょ。ところがその子どもが普通学級に行くと、「はあ、この子は当然階段なんか登れない」っていうことになってる子なんだけれど、みんながぱっと階段を駆け上がんのを見てて、やっぱりその子が駆け上がろうとするっていうわけ、一歩こうやるってわけ。でこういうことっていうのは、いっくらその熱心にやってもリハビリでは見られないっていうわけ。これだけの、子どもがパーっと。でそのあと登れないくせにこうやってね、階段にこうよじ登ろうと。もうやっぱりそれ見て感動するってわけね、その。そういうことって友だちの代わりは、友だちだからこそできるの。友だちって言ったって、広ーい意味の友だちだよね、その友だち。があるからこそ、それをやろうとするわけだよね。
 それで最後に一番大きいのは、要するに「分けた側の不幸」ですよね。障害児に出会わないで大人になっちゃう子どもたちの不幸。今多いでしょ、そういう人たち。

B:そうですよね。

北村:私ね、しばらくその、渋谷にあった、今なくなってるんだけど、あの、福祉関係の学校にちょっとだけ手伝ったことがあるんだけど。そこに入ってくるその、その頃だからだいぶ前ですよ、今から2、30年前の話だけど。少しずつ介護を仕事としてやる人が増えてきたけれど、一番はじめに介護を選ぶ人ってのはそういない。「ちょっと色々やってみたけど、何にもうまくいかないけど、うーん、福祉ならやれるかな」っていう感じで、まあ3番目くらいに選ぶ子がいるわけでしょ。そういう子たちが来てる学校なんだから、第1番目の希望じゃもちろんないわけよね。だけどそこに来てる生徒が、まあやむを得ずその福祉を選んだ生徒たちが、まったく障害児を知らないのね。
で、一番はじめ、「何…、もう何を言っていいか、この人たち」と思って、一番はじめに何か見なきゃと思って、あの、老人施設に連れて行ったわけだ。そしたら帰ってきて感想文が書いてあるんだけど、「初めて年寄り見て感動しました」って。
年寄りなんて私を含めてごろごろいるわけよ。だいたい昼間のね、図書館だのなんだ行ってごらん、だいたい年寄りしかいないんだ(笑)。だけど、自分の仕事の相手としてその、見たときに、年寄りだったわけでしょ。でそういう年寄りは初めて見たとかって感動した。その次に、その次に、知的障害者の作業所へ行ったんだけどね、やっぱり同じこと言うわけよね。でそれをはじめっからその、障害児とともに育ってきた子どもと同じ感覚で育てようと思ったら、全然こう入り方違うわけね。
それははじめっからやり直さなきゃいけないけれど、もうすでにその障害者差別感は固まってるわけですよね。とってもそれ、入らない。だからいったんは、何だかんだ考えても、まあ2番目3番目の希望として福祉になった人たちが作業所行って何してるかっつったら、しょっちゅういろんな事件起こしてんじゃん。あの相模原の事件だってそうでしょう。若干その、福祉の仕事があるとか、障害者がいるとか、若干知ってるんだよね、若干。でもそれは後付けで習ったことであってね。それで育ってきた子どもとはまったく違うんだよね。
だから不幸な子ども達だよ、そりゃ。不幸な子どもをいっぱい生んで、生み出してるわけだからさ、この制度っていうのは国のレベルとして不幸な話ですよ。国のレベルとしてその、そこを変えなきゃいけないと思う。
だから今、要するに分けられてるからさ、その、「共に」っていって知ったとしてもね、違う人として知り合うわけでしょ。いくら今知ってたって。あの、何でもないきょうだいだったり、何でもない友だちだったわけでしょ。それが障害者というレッテルをもって「この人と仲よくしなさい」って言われたって、全然違うじゃない。

B:そうですね。

北村:そういう、うん、そういうことを今、国がやらなきゃいけないことをやってないんだよね、ほんとに。
今、一番言ってんのは、要するにみんなが高校に、まあ高校までは当たり前ってことになった。で、当たり前のこととして要求してる、それは子どもの側からよね。それが高校に届いてないっていうのが一番問題よね。教育なんだからずっと続いてなきゃいけないのに、子どもがもっと学びたいと思ってんのが届かない。
どうなってるんだろね。いや、ダウン症ってわりとほら、なんかね昔ね、昔、障害持ってる子なかなか表に顔を出さなかった時期ね。私もかなりダウン症の人に初めて会ったの、わりと遅いわけなんだけどね。そのとき私の同じ学校の同僚のお子さんがダウン症だったのね。そのときにその教師が…、その、全然その人隠してないわけよ。だけどそのときにね、初めてその、私が新任行って、その人も…、その子普通学級行ってんだよ。そのときその教師が言ったのがね。あの、「うちの息子です」。「ダウン症です」って言ったとたんにね、いや、ダウン症って言う前に、「親に似てないでしょ、ダウン症です」って言ったの。
要するに、まだだいぶ前だからね。障害を持ってる子どもが生まれると、なんとなくこう母親のせいにされるようなことを避けるために、ダウン症の人たちっていうのは、「ダウン症です」って言うことによって「血筋じゃない」ってことを言ったの。でその人もそう言ってるわけよ。「私、親に似てないでしょ、ダウン症だから」って言うわけ。「私のせいじゃないよ」っていう言い方よね。なんかそういう時期があって。それでダウン症ってわかると「他の障害とは違うんだ」っていうのが、そりゃ障害者…、ダウン症の人たちの自負もあってだと思うけど、わりと早く組織はできてるよね。うん。

A:なかなか地域で住んでいくっていうのも難しいですよね。難しいけどやりたいと思っています。

北村:うん、難しいけど、それが一番大事なことだからね。
水俣病の胎児性患者たちは今ほとんど60歳過ぎたわけね、その胎児性と言われる子どもたちで、私が初めて水俣に行ったのは、71年だけど、mが、みんな「mちゃん、mちゃん」って言ってんの、mが中学一年だったのね。で、nさんは、やっぱ教育の問題考えてたから、「mに会ってくれ」って言って、mちゃんの家に行ったわけだ、nさんに連れられて。それでnさんが「東京からお客さん来たよ。北村先生、学校の先生だよ」って言ったのね。とたんにmが、「先生嫌い!」って言ったのね。で、やっぱりどきっとするわけだよ。で、それはわけがあったんだよ。ご存知かな? あの、水俣病のことで、ユージン・スミスが写真集を書いてるの、これ。これね、重大なことを書いてあるんだよ。その、ユージン・スミスの写真って、ほんとこれ、一番すごく大事な本で、今もう復刻版しかないと思うんだけどね。その、これにね、mのことを書いてんの。そんで私、この人ね、本もらってね、mここにいるんだけどね。これね、すごく大事なことが書いてあるんですよ。ていうのは、mは初めから問題もなく特殊学級にやらされてるわけだ。
そんで、あの、うーん、学区制を…、一応学区制ってのはまだあるわけですよ、「この地域の子どもはこの学校へ」。でかなりその学区制を外した自治体はあるんだけど、一応学区制ってのがあったときなわけね。だからこの学区に、この地域に住んでる子どもはうちの学校に来るはずだってことで就学時健診が行なわれるわけでしょう。だけどね、そうなってこれ、私そういう運動してってる中で、とりあえずはその、この学校に来るはずの子どもの名簿を点検するわけね。でそこから外されてる子どもをいちいち私たちは探して歩いたの。外されてるってのは、それ以前の教育相談なんかで、「とても普通学級行くの無理だから、こっち行きな」みたいなことで、もう教育に最初っから抜いてるわけだよ。でその抜いてんのを探し出して、私たちやっぱり「地域の学校へ行こうね」っていう運動を起こしてきたわけね。事実それでずいぶん今、普通に暮らしてる子いるわけだけど。あれで行ってたらどうなってたろうって子どももいるんだけど。ところが当時の水俣ではそれもやってないわけね。もうはじめっから、「mは障害児だから支援学級に行くだろう」って。で支援学級のある学校はこの地域の学校でなく、この学校だからってことで、mはそこへやらされてるわけだ。[01:05:35]
 でそのmが、ある日、その、弟が行く普通の学校に行ってみたいと思うわけだ。行くの。歩いてとぼとぼとぼとぼ。脚不自由なんだよ。行くわけなの。行くとね、その学校では、「変な子が来てる」ってことで学校大騒ぎになるわけよ。で、その中である先生が、「いやあれは今度1年生のあの男の子の姉ちゃんに違いない」っていうことになり、それでその弟を職員室に呼び出して、mはもう変な子が来たっていうんで職員室に連れられてるわけ。そこにその弟を呼んできて、弟に、「この人あなたのお姉さんですか?」って聞くわけだ。それで「はい」って言うわけだ。「じゃあ、わかった」って言って、車持ってる先生が、mを車に乗せて送り返してしまうわけ。だからmはほんの瞬間しかその学校にいられなかったっていうことなんだけど、もういろんなことで腹立つじゃん。第一その学校に本当は来るべき子なのに、支援学級に行ってるんだからってことぐらいは、地域の学校っていうところは頭に入れといてほしいなと思うんだよ。本当ならこの学区に来るべき子なのに、就学時健診もろくに受けないであそこに行ってやらされてしまっていることを。ところがその水俣っていう闘争の中で、確実にそこは分断されてるわけ。その時ね、その、本当に、ほんのちょっとしかいられないで送り返される時、それもしんどいけどその、呼び出された弟が「あなたのお姉さんですか?」って言われて「はい」って言わなきゃいけない。だから水俣だったら水俣病の被害、加害・被害の問題をごたごた言われるけど、そういう中で、こういうこともこう起こって。これコピーしてあるから読んで。

A:はい、ありがとうございます。

北村:私これ本当にね、情けない話で悔しい話なんだけどさ。これね、どうなってたっけ。これ繋げないとだめだと思うから。これと、あ、これとこれで繋がるんだ。これがあると。これが…、あげていい? これもう、あなたに。

B・A:ありがとうございます。

北村:なんかね、これはでもそのユージン・スミスがこうやって書いてくれてるから残ってるけど、こういう目に遭ってる子どもがいっぱいいるんだ、世の中に。今、養護学校行ってて、養護学校の施設が足りないとか言われてるけれど、こんなふうにして追い出されてる子がいっぱいいるっていうんだよね。
だからmが水俣病で、弟が普通の子で…、まあ普通の子と言っていいかどうか、で呼び出されるわけだ。職員室に呼び出されて、「あなたのお姉さんですか?」って言われるわけ。
 ここらへんいっぱい、ほら、「毎日mは街を越えて北の特殊学級までバスで行った。それは本当は障害児のクラスがある普通の公立学校だ。普通の子どもたちは歩いて南の学校に行けるのに。mが12の時、弟が小学校の1年になった時、弟だって友だちと一緒に毎朝学校へ歩いて行くのに」。で、「ある日しのぶは北の駅のバスで、バスを無視してとぼとぼ歩いて南へ行って、他の子どもたちと一緒にできるだけ歩いたが」っていう感じで行って、教室に行くわけですよ。それで追い出されるわけだよ。いっぺんぐらいその普通の学校へ行ってみたかったんだよね。[01:10:22]
だから私に会ったときmがねえ、「先生嫌い」って言ったの。うん。嫌われるの無理ないよね。「先生嫌い」って一喝して、「先生嫌い」。もう、nさんが、「学校の先生だよ」って言ったとたん、「先生嫌い!」って言ってこっちも向かないもんね。向かなかったもん。
 でもよく分けることだけは行き届いたもんだねえ。水俣病でいろいろ忙しいこともあるだろうに、こういうことには手抜きしてないね。
地域の学校が、本当は学区域の子ども、学区に来るべき子どもなんだけれど、やむを得ず向こうに行ってるっていうところを押さえていれば、mが来たときにね、「よく来たね」ぐらいは言ってやれなかったのかね。うん、切ないよ、本当に。いやあもう、mにしてみれば「先生嫌い」言ったくらいじゃ済まないよ。

B:石牟礼さんとか、道子さんとかはお会いになったことあるんですか? [01:15:10]

北村:昔ね、生きてるときは。彼女自身も、彼女、学校の教師だったし、お連れ合いも学校の教師だったから。お連れ合いはやっぱり言ってたね、私たちが初めて会った頃。水俣病が発生してくる頃ね、あのへん地域的にGっていう地域なんだけど、水俣病の胎児生の子どもがたくさんいるところなんだけど。そこの学校にその石牟礼さんのお連れ合いが転勤になったときに、「あー、Gかと思った」って言うのね。そのGっていう地域ってのは大変な地域。それで、水俣病って認定されない、こうなんとなく活気がないわけだ。そのときやっぱりね、その、「Gの子どもだもんな、と思った」って言うわけ。Gっていう地域、ちょっとあの、しんどい地域なわけね。で、子どもたちも大してこう元気がないわけだ。でそれを、うーん、「まあ、Gの子どもだもんな」ってもう、だから少々の水俣病的な症状が出たとしても、「『ああ、Gの子どもだもん』と思った」って言うわけ。やっぱりそれ、そういうことがかなり水俣病のその発見を遅らせたと思う、っていうふうに言ってたけど。確かに魚ばっかり食べるところ、獲れて食べるところだし、そのためにそんなに豊かではなかった地域。で、それは、これは変だと思うのにはやっぱりそれなりの、教師の叡智もあるしっていう、なきゃいけなかったと思うけどねえ。

A:やっぱり憲法との関係。 

北村:うん、だから憲法をどう使うかって。憲法と教育基本法ね。だから実働的には教育基本法とか学校教育法がいろいろ、実際には…。それからその先の通達ね。だから一番通達、その63年の通達が、その、某新聞の記事でもそれが一番効いてるだろうね。「みんな入れてもいいけど、点数の取れない障害者、卒業の見込みのないような障害者入れるんじゃないよ」っていうのはやっぱり効いてると思うのね。それがずっと忘れられないと思うの、教師としては。それでそのあとに出た、その、知的なとこも入れろとは書いてないけれど、障害者にはそれを受けやすい試験をして内容も考えろってことはそのあと、1997年頃の通達ではちゃんと出てるんだけれど、そんなの目に入らないわけ、やっぱり。「追い出せ」って言ったのだけは聞いてるわけ。で同時にその、選抜制度がやめないわけだからさ。やっぱり命懸けで高校の教師ががんばるの、やっぱりそこでしょう。その、どう選抜するか、なわけでしょう? で、選抜して入れる以上は…、うん。だから東京の場合で言えばその、例のようなややこしい特別措置でもって点数が取れない子を入れるわけでしょう。取った…、受験のときの学力の点数だけは取れるわけじゃん、あの措置をすれば。だけど実力ではないわけでしょ。でそういうのを片っぱしから落とそうとするわけでしょ。で、落とそうとするのに、「いやあ、入れたんだからちゃんとしろ」っていうのはだいたい一年中私たちがやってきたわけだ。「1年で落としちゃだめだ、落としちゃだめだ」と。うん。[01:20:25]
 でもそれやってるうちに、今度次の学年の入学が出てくるから、「じゃ、その子の入学はなんとかしなきゃ」って、もうだいたいそれに追われてて。丁寧に、高校の教師のそのcさんの実践みたいなものに付き合ってる暇なくてね。うん。で、探せばいい話いくらでもあるわけよね。あるけど、「卒業式のときよかった」「劇のときよかった」なんて、その行事のときにやるけれど、日常的な学習の面でなかなかできないでしょう? よかったって話にならないわけよ。その、たとえば、何かこう学校行事であるときに、どう楽しく過ごしたかみたいなことは、作ろうと思えば作れるわけだからねえ。

A:子どもの中には「楽しかった」っていうのは残っていますけどね。

北村:だから普通のその、あるんだよね、「理科の授業がおもしろかった」とかね。ほんとのことがわかってるかどうかはわかんないけど、楽しかったってね。その少し、何だろうね、実験なんておもしろいだろう。やっぱりちょっとそこにいろんな動作が伴うわけだからね。「ちょっとこっちへ来いよ」とか、「おーいうるさい」って、なんか普通の勉強とは違う楽しさ、とっても。ほいで「理科が好き」とか言ってるわけで。じゃあ理科がわかってるかったら、わかってるわけじゃない。

B・A:(笑)

北村:でもそれは楽しいからやっぱりやっていけるわけだしね。だからそういうことはどういうふうに…。いや私は、どっちかって言うと卒業してすぐね、就職した人がね、あの、なんだろう、配管やる工場に実習にまずは行ったわけだ。で、私その子がどういうふうにそこ過ごすか見に行ったんだよね。そしたらそこのおっさんが怒ってるわけ、おやじさんがね。「この子中学卒業するんでしょ?」って言うわけ。そうすると、それで、「中学卒業するのにねえ、この子ったら2分の1よりも3分の1が大きいって言うんだよ」って言うんだよ。もう真剣な顔しておやじさん、「中学卒業するんでしょう? するのにねえ、2分の1よりも3分の1が大きいって言うんですよ」って言うわけよ。で、でもそういうときね、こっちは慣れてんだよ、やっぱりそういうこと言われ続けてるから。「ああ、そうですか。でもそれはね、2より3が大きいってことはわかってるんですよ」って言って。そうしたらびっくりするわけ。「2より3が大きいってことでしょ?」って言ったら、びっくりするわけじゃん。だったら、「だったらおやじさん、2つに分けるより3つに分けるほうが大変だっていうのを教えてやってください」って言ったんだよ。したら教えてくれたんだよ、おやじさん。「2分の1っていうのは2つに分けること、3分の1っていうのは3つに分けることだよ」っていうの。だから実習の場だから覚えられたんだと。あれ、机の上ではね、言葉としては覚えてくれる子だったんだけど、実際にそれが実行的にはおぼえ…、入らなかったと思うの。でも彼はわかったの、それが。その場、実物を見るわけだから。
それで、2つに分けるより3つ。そのときに多い少ないっていうのは、分けることにも多い少ないがあるわけじゃん。多くに分ければ少なくなる。でそこで多い少ないの関連、ちょこっとわかるじゃん。それでおもしろかったのは、その時それ、それが彼に繋がったかどうかはわかんないけど、そこは小さな工場なもんだからね。こんな感じでいっつもお昼休みになるとおやつが出るわけね。あられが出たの、こういう、これのもっと細かいのが。で私がそこに行ったもんだから、私もこういう席に座れって言うわけだ。その子新米なもんだから、その子にそのおやつのあられを分ける仕事をさせてるわけだ。そしたらその子がね、「今日は多いですから少ないです」って言うの。「多いですから少ないです」。要するに、参加者が多いですから分け前は少ないですって。もう見事にその3分の1の話やってるでしょう。そのときに、彼それがわかったかどうかわかんないけど、「多いですから少ないです」って言うの。「今日は多いですから」っていうのは私が1人増えたから、その分みんなが減るんだぞって言ってるわけだ。おもしろかったなあ、あれは。おやじさん、おやじさんにこにこ笑ってたから、おやじさんあの時わかったかどうかが。[01:25:38]

A:わかっているんですよね。

北村:うん、わかってると思う。とにかくわかったんだよ、「多けりゃ少ない」って、うん。で分数ってのはそういうもんだっていうの、そこんところの入り口がわかったわけでしょう。だからみんなちょっと、ちょっと工夫してくれりゃあどうってことはないことなのにね。でも、それをどう、「2分の1が3分の1よりも大きいと思うんだよ。そんなばかだよ」って言って歩けば、それも通用するわけだよね。でもちゃんと、多けりゃ少なくなるっていうことがわかる賢い子どもでもあるわけだ。どっちかって言えば賢い子なんだ。

B:そうやって教えてくれる人がいてありがたかったですね。

北村:うん。教えてくれるっていうか、付き合ってくれる。教えてくれたら、ならないと思う。付き合ってくれるからなる。
うん。で、そこでこっちもこっちだよね、どう付き合うかよね。「ああ、そうですか。すみません、やっぱりこの子は頭悪くてそれ以上はわからないんです」って言ってもいいけど、やっぱり悔しいじゃん。でも咄嗟に出たんだよ。「少なくとも3より2が大きいってことがわかってんですね」って言えたもん、私ね。時々やっぱり自分でね、そういうのをちゃんと、「あ、これは自分の特典だ」と思ってんだけどね。おかげで覚えた。うん。「そうですか。それでもなんとか付き合ってください。就職させて、雇ってください」って言うか言わないかね。だから少しそっちに力を入れたという自負は少し、少しだよ。全面的にじゃないよ、そんなことできっこない。

A:先生の言葉がきっかけになって「あ、じゃあこいつはこういうことがわかるんだ」って、また付き合おうっていう気持ちが。

北村:うん、なってくれてね。だから、高校の教師だってそれはわかるはず。前にも話したその、5たす5がわかるけれど、5たす6はわからない子にどうやって教えるかっていうのはね、わかるけど、高校の教師も、少なくとも定時制高校が統廃合になる頃は、あのoくんが高校に行く頃っていうのは、みんな高校の先生もそういうことをすごく喜んでくれたけどね。「そうですか、こういう子が来ますか」って言うのね。うん。で私たちは、「やっぱりとりあえずその、他の子と同じように付き合ってください」って言うと、「うーん」って。でそのうちになんか、わかるんだよね。私の期待してるようなことはなかなかわかってくれないんでしょうけど、でもなんかねえ、うん、「世の中に出る力にはなれそうな気がしますよ」なんて、先生言ってくれるようになるしねえ。「ここへ来てることで、この定時制高校に来てることで学んでることはあるし。私もその力になれます」とか高校の教師が言って。やっぱ私、何人かの高校の教師にやっぱり会ってるわけだよね。
これ機関紙に書いてるのに、誰か返事くれた人があってコピーをくれたんだけど、やっぱり、一番初めのoくんの話をしたときのことを、やっぱりあれは大事な話だからいつもなんか書くときに書くんだけど、oくんのことを読んだらしくて、高校の教師が、教育を必要とする…、高校の教師が、こういう子が入って学んでる中でその意義を感じた教師が、「今まで自分たちは教育を必要とする順番から落としていたんですね」って高校の教師が言ってくれたことあるわけだ。この頃の教師は言ってくれないけどね、こんなこと。だけど、それ気がついたこと、すごくやっぱり嬉しいじゃん。[01:30:00]
 これは私が、もとはと言えば、何回もこれ使ってる言葉なんだけれど、埼玉の、fくんじゃなくて、pくんのほうの裁判のときに、養護学校から高校に行く子の話だったんだけどね、高校の教師が悪口書いたんだよ。ああ、高校の教師じゃない、養護学校の校長が。養護学校から出てほしくなかったわけだ。であの、まあその学校にしてみればいい子だったもんだから、高校にそのまま、養護学校の高等部にいてほしかった子なのね。それが定時制受けるって言うんで、校長反対して、「この子が入ったら大変だぞ」っていうようなことを内申書に書いたわけだ。で私は怒って、そのときの証言に立ったんだけど、裁判にね。でその裁判のときに、「高校っていうものが学問をする、教育をするところならば、教育を必要とする順番に入れるべきじゃないですか?」って言ったの。ね。高校行かなくてもわかってる子もいるわけでしょう。この子がここで学ぶしかほかに方法がないとしたら、この子が一番教育を必要とする子なわけよ、点数が一番悪くても。だから「高校が教育するところなら、必要順番に入れるべきじゃないですか」って言うと、裁判長はもう本当にうなずいたんだよ。負けたけどね、裁判は(笑)。だから、世の中の常識には通用しないけど、裁判長としてはね、うーんとうなずいたわけよ。みんながみんなそれ見てたんだよ。で、みんなも見てて、こう裁判長もうなずいたから。これはもう真理に近づいたと思って、だから私はそれをどこでも言ってんだけどね。本当ならば、教育をするところならば、教育を必要とする順番に入れるべき。一番教育を必要とする人から、すなわち一番遅れてる人から入れるべきだっていうわけね。うん。というのが教育なんだろうって思ってる。今普通にやってる教育っていうのはそうじゃないじゃん。できる子をもっとよくできるようにするんだ。あれ教育じゃないよね。何だろうね。
なんかの宣伝みたいなもんだよね。本当に教育っていうのは、必要とする順番、必要とするっていうのは、必死に何かを獲得しようとしてるできない子の話だよね。
だからまあまあ言ってみれば、まあ人権の問題だよね。憲法の問題だし、人権の問題だよね。で、障害者の権利条約なんてのも…、うん。だから権利条約を批准しなきゃいけない…、あ、権利条約を批准するために障害者差別禁止法なんて作ったけど、やっぱりかなり甘いじゃん。甘い。いいかげんだよ。分けること、支援教育みたいなものを認めてるわけでしょう。[01:35:35]
だいたい、だから、まあ条約だからね、必ずしもだけど、でもそれを批准するためにやっと差別禁止法を作ったわけだ…、やっとやっとあそこまで行ったっていう程度でしかないわけだからね。本当はもうちょっと踏み込んでもらいたいけどね。もうちょっと障害者はがんばった…、がんばったっていうか、言ったほうがいいと思うんだけどね。
だからそう、設備が整うたびに、かなりのその設備とか条例とかいろいろまあこう整ってくるときにね、整ってくるものの大半は障害者の要求であったりするわけよね。どちらかというと知的でない、身体不自由の人たちの要求にいきやすいように要求するわけじゃん。でそれは必ずしも知的な障害者の権利を拡大することにはならないときもあるじゃん。あそこに行ったほうがいいよってのは確実にあるわけで、そういう場所。その、肢体不自由の人なんかの場合にはね。そのときに「ただですむよ」っていうような法律がどんどんできればありがたいことじゃん。でそれは一方では、分けるほうに行っちゃうわけでしょう。でもこっちとしては、基本的には分けてほしくないわけでしょう。そこは本当は同じ派なのにやっぱりかなり違うよね。
 あの、水俣病にさえ障害者が文句言ったときあるの。私が水俣病の支援、応援してたらね、知的の障害のある子のお母さんなんだけど、「文句言うところがあっていいね」って言ったの。その、この企業、「チッソっていう企業のせいでこうなったんだから元へ戻せ」って言ってられるって言うわけよ。「本当はばかじゃないんだよ、うちの子は」って。「でも、うちの子本来的にばかだから、それを言うとこないから悔しい」って、お母さん言ったことあるけどね(笑)。全然違う話だけど、一見、そういうこともあったわけね。だから文句を言ったからっていってばかが治るわけじゃないじゃない? その、簡単な怪我ならそりゃ治るかもしれないけど、だいたい治らない、一生ついて回るものなわけだ。「それでも明らかに『こいつのせいだ』っていうのがあるっていうのはうらやましい」って言ったのよ。それもあるだろうなと思ったけどね。確かに、うん、あの、
その、言うことがなくて、自分で何か背負わなきゃいけないみたいなことは、うん。でもそこを考えたら運動できなくなるなって言ったけどね。あんまりそこんとこ私もはっきりしてないけど。でも責任があろうとなかろうと、やっぱり障害は障害なんだからね。誰のせいであろうと、せいでなかろうと。人の尊厳としてあるものであって。
私ね、埼玉によく行くの。埼玉の集会で発言したのを、障害者自身にはあんまりうまく取られてないんだけど、でもね、障害者にはその、差別の実態を告白するっていうか、正面に出してしゃべる責務があるって言ったわけだ。「こんなにひどい目に遭ってます、こんなに悔しいです」ってことを言う責務があるって。その「責務」にこだわられてね、「嫌なことを言えっていうのか」っていうんでずいぶん言われたんだけど、あの、力はそこにしかないと思うの、ほんと言うと。いくら親が思っても、そこには親の利害がちゃんと伴ってるわけだしね。「うちの子の場合はそうは言うけれど」っていうのがあったりするわけだし。で本人が、「やだ」って言えばそれはそれで力になるわけだ。でそれ言ったときに、今…、それのときに私に反論したのは、某新聞の、例の相模原事件でずっと私たちの味方になってくれてる某新聞の記者なんで、今も付き合ってますけど、「ひどいことを言うわね」って言われたんですよ。でも私たちがいくら言ってもそれは力になんない。障害者本人が言わない限りはだめだって今でも思ってて、あれは書かれて、ちょっと半分なんか批判的に書かれたんだけど、私は悪いこと言ったとも思ってません。障害者自身が言うしかないって。やっぱり言う、そのことによって変わるときがあるものね。[01:45:32]
 今、全国連にね、一人女の子で、もう女の子って言わないな、もうおばさんに近いけど、人がいるんだけど、一人暮らしして年金と、まあ障害者年金と生活保護で一人暮らしして、実家は近くにあるからときどき実家に行って甘えたりもしてるみたいで。だけどほとんどそういう自分でまかなってる人なんだけど。その子がね、千葉で今、表沙汰にならないで終わっちゃったんだけど、小学校の先生、とっても障害児に理解ある先生がいたのね。とってもいい人だったの。運動の面ではもういっつも有名で新聞にも載るし、何かあれば、「ああ、あのクラスだ。やっぱり違いない」っていうようなことがあった人なんだけれど。低学年が好きで、低学年ばかりを受け持ってたんだけど、度々女の子の体を触って。で、でも低学年、1年生や2年生の子で、あんまりそれを被害だと子どもも思ってなくて。ある日ひょっとそのうちの一人が気がつくわけよ。あれはきっとやっぱり性的虐待に違いないと思うわけね。でそれを告発しようとしたことがあったわけ。すると大勢のものわかりのいい大人たち、今も千葉で活動してる人でみんな有名な人いっぱいいるんだけど、みんなかばったわけ、かばったっていうか隠したわけね。でその人をね、逃したの。逃したって変だけど(笑)、なかったことにしちゃうわけよ。そのときね、そのさっき言った、一人暮らししてる女の子が猛然と怒ったわけね。やっぱりあれはね、身近に感じてたと思うのね、その子。あの、大人たちが自分たちに対してそうやって、そのことを認めるってことは、似たようなことを考えて…な部分が、今身近にいて、ものわかりよさそうにしてる大人がやっぱ持ってることがわかるんだと思うのね。で自分が言わなきゃしょうがないと思って、彼女が敢然とそれに反対して、制度に反対して、「私はそんな、それを認めるんだったら全国連絡会辞めます」って言って辞めちゃったんだけどね。ああいうのを見てるとやっぱりね、本人じゃなきゃ感じない。「まあここは隠してしまったほうが運動のためには役に…」、ここでね、ほんっとそれを新聞にばらしたら、千葉で行われてた障害者の共に学ぶって活動は打撃を受けたと思う。でも、だから私たちも黙ってた。結局黙らされたの。でそのときに、その一人だけがんばった。でその子に対して、まあようがんばり抜いたとは言ったものの、誰もなかなかほめたりはしなかったわけだけど。あれは大事なことだと思うし。本人は大事です、たしかに。

北村:それは、いや、それから何かあれやったら…、介助がいないとか、そういう問題っていうのは一番大きい問題だと思うけど、うん。やっぱり友だちって欲しい…。いや友だちっていうのは、私はわりとね、友だちいっぱい、いっぱいいるっていうか、いてうるさくてしょうがないと思ってね、今はね。
うるさいの。よけいなことばっかり言うわけ。うるさくてしょうがないと思ってて。それとまあもう95歳でしょ、いつ死ぬがわかんないから、あんまり大勢の人とは付き合わない。もう特別な場合以外は名刺なんて絶対渡さないことにしてて、もうひっそり死のうと思ってんだけど。でも友だちってね、うん、友だち、友だち…、うん、いろいろいいけど、うるさいよ。よけいなことばっかり、よけいなことばっかり言ってうるさいでしょ。いらないものをくれたりして。だけど、その、何だろうね、友だちって。あの、金井康治、他の障害者もそう言うんだけど、よく言うのは、「高校行ってどうする?」って言うと、「友だち作る」って言うのね。で、友だち作る? 「友だちって作るもんじゃなくてできるもんだよ」って私は思ってるわけ。作るっていう、作る、人工的に作る、そんな、そんなの友だちと言うのか、というのが、私にはあるわけよ。うん。そうすっと金井くんのお母ちゃん、「うちのような重い障害者に作らなくていい。友だちなんてできるはずないじゃないか」って言うわけだ。そりゃあそうだよね。
作るって…。まあ、それならそれでいいけど、その作るって、その親、たとえば金井康治の親が、子どもに「友だちを作らなきゃね」っていうようなことを言うときに、作るっていうのは意図的に、意図的に関係を作ろうとする。で関係っていうのは、人間の関係っていうのは、作ったものは壊れるんだ。だから自然に何か惹き合うものがあって、できるのが友だちだと私は思っていたわけだ。だから、「えー、作った友だちなんて」って、「なんかわざとらしいな」と思うわけだよ。でそれを障害児の場合に、特に金井康治の場合には自分から友だちに声をかけることもできないわけだから、たしかに誰かが用意して、近くにいるあいだに親しくなっていくみたいなことは必要だなとは思ってたわけだ。でも今もあんまり思ってない。うん。

B・A:(笑)

北村:自然にできるほうがいいと思ってるし、本人がやっぱり働きかけをすれば…。あの、いろんな意味で抑圧されていると声が出ないじゃん、みんなの中で。その、「自分から声を発するべきだ」と言っていながら、案外障害児にものを言わせてない。あの、言わせて…、それは言わせてないのか、もう障害児のほうがおじけづいて、「言ったらろくなことはない」と思うから「もう黙ってるほうがいい」と思ってしまうのか。なんだか私、あの、制約してるからこそ言えないことはあるんで、本当は言うんではないかという。[01:55:35]

まあ私、せっかく何か書くんだって、一つはその、憲法の問題にちょっと。そのねえ、腹が立つのはその、さっきの断片をお渡ししたあの、教育基本法のほう、半ペラをお渡しした。さっき短い文章をあげたでしょ。もっと小っちゃいの。あの、うん、その、この、ここね。これちゃんと読んでみて、この1を、ここから。えーと「すべて、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えなければならず」、ここまでいいですよ。この先、「人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない」。「能力によっては差別してもよい」と読み取れるわけでしょ、これだと。ね。だってここに、「能力によって差別しない、していけない」とは書いてないでしょ。差別してはいけないのはこれとこれとこれとこれ…、「能力」ないでしょう。だから能力によって差別されるのは、しかたない、これだと。と、読み取れるでしょう。でそれをそう読み取られたくないから一生懸命憲法で、そこを埋めるためが教育だっていうふうなことをこう無理してこういうものなんかも言ってるわけだけれど、そうはならないでしょう。でやっぱり日本の法律の中にね、憲法で保証しているにもかかわらず、能力によって差別してもよいと読み取れる文章があるっていうのはとっても私は悔しいし悲しいし、うん、なんか与したくないわけよ。

A:それ、どうしたらいいんですか?

北村:そこを埋めることを考えて。(笑) それ、やっぱりそれ、障害者とか、障害者に一番身近にいる人。私なんかもずいぶん障害者の近くにいるつもりだけど、やっぱりね、やっぱり本人じゃないのは弱いよ。いや、なんかそこね、これだと能力によって差別されるのはしかたがないよね、これだと。こう読み取れるよね。まあ運動としてここに、能力に…、ここにこう書いてあるけど、「能力によって差別されない」ってことを書いてほしいんだよ。でそれが実現できないから、こんな目にあってるわけでしょう。だからさっきのCさんのようなやり方をどんどん広めていくことによって、できるじゃないかってことを見せていこうっていう実践を積み重ねたいなと思っています、実はね。で「やっぱりできるじゃないか」、能力によって差別してないってことが実証できるような実践をしたいなとは思ってるわけ。でも間に合わないよね、私は(笑)。うん。だからそれを、その、この人はこういう実践をしたわけだけど、これはたった一例やっただけの話で誰も真似をしないじゃない? その二つの物差しを持たないで、同じ価値観でもって価値観評価していくっていうことを「能力によって差別してはいけない」っていうふうに言えるというような見通しを持ってる論文を書いてほしいなあ。そこ、私一番期待してるの。なんか大学院行って勉強するって言ったから、そこで嬉しくなっちゃって。たぶん私はもう間に合わないとしても、あなたがそこをやってくれるかなあという期待を持っています(笑)。
まあcさんの場合にはそういうことをきちんと考えてやってるっていうとこで、一つ値打ちはね。で、eなんかは、ここに…、これ差し上げます、て書いてあるんだけれど。
これの中で言うと、まああの、lさんていう、lさんっていう人は、もともと高校の先生で、定時制高校にいたことあるけどあんまり真剣にもの考えなくて、eに会って初めて障害者問題考えた人で、まあ深くわかってるわけではないんだけれど。あの、まだちょっとこう及ばないところはあるし、そこまでは考えてないから、中身をあんまり…。ともかく何とかして卒業させることだけ、進級させて卒業させることだけしかできなかった。それだって大変なことなんだけどね。理解ないみんなの中で、そこを理解させるっていうのは大変なことだったけど、そこだけしかやらなかったでしょ。だから彼女にも…、まあ最近になって、そこらへんに少し話(はなし)してんだけど、何とかしてその、中身としてね、できないもんかっていうところを、やっぱりあなたがすべきじゃないの? っていうのは彼女には言ってるんだけど。もう彼女も定年迎えちゃったからできないけれど。そこは、うん。
 で、eさん、その両親にしても、中身を言う余裕はなかったわけだ。何とかして、少なくとも進級・卒業ってことをさせるかだけに、だけでもう使い果たしてしまったわけね。幸せだったのは、本人がわりとめげなかったのね。それ、なんて言っていいかな、鈍感ていうか、感じてるか我慢してるのか、たぶんあまり感じなかったんだと思うけど。また1年になったときに、他の子だったらしょげるわけでしょ。平気なんだ、この子。それはもともとその、地域でも親でもすごく大事にしていた、何でもこう大事にしてたもんだから、みんなから大事にされる、みんなからいじめられるとかばかにされるみたいな思いを知らないんだと思うのね。で新しい友だち、また1年になったら違う友だちなわけでしょ。平気で彼女はものが言えるわけ。勉強ができない、単位が取れないために、進級できなかったんだよ、まだ1年生だよ、みたいなことが、深刻に考えないですんでるわけね。それは、そこにつけ込んでずっと何回も留年させたっていうの本当に悔しい話なんだけどね。そりゃあ、そこんところはちょっと弱くてね。うーん。[02:14:44]

A:現実は厳しいですね。

北村:私はね、私もともとは、あんまりあの、たとえばHに、Hの学力保障みたいなのを軽視してるわけじゃなくて、それも一理あると思ってるところがあって。本気でこの子にこれを教え込もうと思って、「もう1年留年しようね」っていうのは、まあ教育のやり方としては当たり前だと思うのね。そのことを今あまりにもやっぱり、まあ「籍を置いとけば、何年か経ったら自然に卒業するよ」みたいなことよりはましだと思ってるし。私自身ね、中学で留年させた子がいるわけよ。どうしてももう1年勉強したいっていう子がいた。でそれは、親にしてみるとその子の場合には、「まあ学校に言ってるほうがましだ」って、「どっかに預けるところも今んところ見当つかないし」っていうのもあって、「もう1年学校に置いてもらえるととても助かる」っていうことあったし、私も「もう1年何かやりたいことがあるな」って思ってたんでやったの。ほんとに教育としてね、1年余分に時間かけるっていうのは悪いことじゃないと思ってるの、学校の制度としてそれがあるんならばね。で、今はそうじゃないじゃない? 「罰として、できない子は振り落とすぞ」っていうかたちなわけでしょ。もう、留年させたから何をするかっていうのは言わないわけでしょ。留年させた、そうすると、1年間こうやったけど何をもう1年やるのかって、この今落としたことをどういうふうにこう補っていくのかね、そのやり方みたいなことをちゃんと言わないわけでしょ。それを言って納得するんだったら、留年仕方がないと思うのね。本当の意味で、「ここまでやると立派な1年生を終えたことになるぞ」っていう自信を持って教師が言うんだったら、それはやってもいいと思うし。で、そういうふうに言うとしたら、教師のそもそもの付き合い方が違うと思うのね。そういうふうに思ってんだったらね。「何とかして自分がこの子に教えなきゃいけない」ってことをこう教えようとしてる。「あと一押しすればできるな」って思ったらやっぱり留年してほしいと思うとき、あると思うのね、それは教師にとっては。でそれは、制度として私は認める。だけど罰としてやるのは間違いだと思ってるね。学校の制度としてね、入ってきた子ども、希望して入ってきた子どもに対してね、自分が手に負えるだけの力を持っていないために点数を渡さない。でそれを、行く先考えないで「留年しろ」っていうだけっていうのは、留年して何するかを示さないわけだからね、そんな無責任なことはないよね、学校のやり方として。それはすごく悪いことだと思うのね。これはやめさせなきゃいけないよね。

A:特別支援学校に行ったらこんな悲しい思いはしないといわれました。

北村:そりゃ、うん、たしかに支援学校行ってれば留年しないだろうよね。

だけどその、悲しい思いなのかね、本当の意味で。だってその、cさんのところの留年したkなんか見てると、まあ一見いじめてるようにも見えるしね。思うけれど、もしかしたらね、本人にとってもね、普通の体験を2年かかってやってるっていうふうな自覚を持てるかもしれ…、その学校の対応によってよ。学校が、「もう1年やったら」「もう1年高校をやりたいんだ」ってふうに先生が思ってやってるとすれば、本人にも通じるよね、それは。本人も通じて、「だったら応えてやるか。1年のときさぼったけど、もうちょっと付き合ってやるか」と思うわけでしょ。そうな…、教育なんだったらそうならなきゃいけないと思うのね、留年っていうのは。で留年だって、「留年したからわかった」とか、「留年したからできた」とか、「留年したから友だちも倍に増えた」ってことだってありうるわけでしょ。1年のとき付き合っててその人たちともけんか別れしてるわけじゃないけど、「こういうわけでもう1年勉強するから、先行っててね」って言っただけの話であって、このとき一緒に、うん。またそこで…、本当いうと友だちが倍になんなきゃいけないわけよね。でそういう、子どものための校則であったり内規であるものが、実はこう罰として使われてる。本当は子どものためになるものであったら、留年することなんて子どもが損するはずはないはずなの。で、損する制度を作ってるっていうのは、これ罰なんだよね、やっぱり。で、学校で罰はあったらいけないんじゃない? たとえば学校へ来ないという子にこう罰。おかしいと思うの。だって来たくない理由があるから来ないわけだし、来るといじめられるからもあるわけでしょ。[02:21:02]
 私ここに越してくるときね、なんたってこの地域ってのはみんなが嫌がる地域だったんだけど、今それほどでもないけど、学校も大変荒れてる時期だったのね。でそれ、『新地平』っていう雑誌に書いてるんだけど。まあ世の中で言ったらまあ荒れてて、横浜で中学生が野宿の人を殺した事件なんかがあった年だけどね、すごい時期で。もう卒業式っていうと、生活指導主任は防弾チョッキ着て、登校するような時期だったのね。で、うん、私はわりとなじんでたの。でその頃の、今とこう部活の制度が違ったんだけど、一応部活っていうのがあって、それは授業の時数の中に入ってて、どれを選んでもいいんだったんだけど。私が何の部活をやろうと、学校中のツッパリが私のところに集まってくるわけ。「あそこだったら自由にできる」と思ってね(笑)。で、それでもいろんな。たとえば手話クラブをやって、手話やってみたり、郷土クラブ、この地域のこの成り立ちを調べて、いろんなことやるんだけど、何やってもね集まってくるわけ。それで学校中の教師たちがね、「北村先生が部活をやってるその1週間に1時間のその時間だけがJ中学校は安全です。」と、他はもうみんな危ないと言われた時期があるのね。で、そう言われるからには私、「何かしなきゃいけない」と思って思いついたのが、「地域に住んでみようか」と思ったわけだ。でちょうど私ほんとにもう身軽になってて、一人だけになってたんで、「じゃあやるか」っていう感じでちょうどこのマンションができたばっかりだったから、ここに住んだわけだ。で、住んでみるとね、まあそんなに住み心地悪くはない。物は安いし。だけどある日ね、ある晩、玄関叩くやつがいるわけ。で私はやっぱりね、「こういう人たちとどっかで仲良しになるような教師が一人地域にいないと、これはもう地域はもたないぞ」と、「警察沙汰に学校中がなってしまうな」と思ってたもんだから、誰かが住まなきゃ…と思ってここに住んだの。で玄関開けたらそのツッパリなわけよ。でその時期の学生たちっていうのは、中学生であっても「教師は敵だ」と思ってるわけよ。でしょっちゅう暴力事件、もうほんとに殺害事件も起こる。ひょっとしたら教師の代表としてブスッとやられるかもしれない。これはしょうがないと思ったの。ここに住む覚悟をしてここにこの子が現れるとしたら、今ブスッとやられてもしょうがないなって私一瞬思ったの。一瞬思ったんだけど、「どうしたね?」って言ったら、「毎晩遅いもんだから母ちゃんが入れてくれないの、泊めて」って言うんだよ。それで私びっくりして、「じゃあ、ここらへんに寝ようか」っていうんで、私向こうの部屋を自分の部屋に使ったんだよ。あの、お客さん来たときのための布団を出してきて、ここに敷いてやったわけね。で布団敷いて敷布を新しいの敷いたら、彼が「敷布汚れるからいいよ」って言うの。「何言ってんの、布団が汚れるから敷布敷くんだ」って(笑)、寝かしたのね。それで一瞬こう、変わってしまうんじゃないけどね、あの、ある、私が安心したわけだ。「ここは物騒なところだ」と思って来てるわけ。物騒なとこだと思ってるから物騒なことが起こるわけでしょう。物騒なところじゃないわけ、みんなが住んでて。で向こうもあの、どっか、学校の先生ってみんな遠くから来て、文句ばっかり言って、言ってしまったら帰ってしまうと思ってんのが、ここに住んでるっていう安心感があるでしょ。で、「ひょっとしたら母ちゃんよりも安全かもしれんな」と思って泊まって。で、やっぱ泊まったとたん、学校全体変わるわけにはすごい時間かかるけど、私と彼の関係が変わるわけだ。で変わったっていうのは、彼が変わったよりは、私が安心したほうが大きかったと思うのね。でそれ以来ずっとここに住んでんだけどね。うん。なんかあの、まあ昔ふうの教師の関係であって。それで日本の教育が解決すると思わないけれど、やっぱり何かね、人どうしだと通い合うものっていうのは人情だよね、やっぱり。その子あの、結局バイクで事故起こして死んじゃったけどね。でも、あとから聞くと、仲間がとても彼を慕ってたのもわかるしね。[02:26:35]
 だから日本の教師って、子どもをこう抱え込んでるみたいなことを批判的に言うけれど、なんかね、自分が受け持った子どもたちって、かなりのこう責任みたいなものをね、なんかやりたくなっちゃうみたいな、ものはこれからの教育じゃ要らないんだろうけれど、うん、ちょっと大事だなと思うしね。

ツッパリって言われてる子ってのはわりとみんな人情味あるんだよね。だから、ちょっと車いすの人なんかがいて、ぱっと押してってるの見ると、そのツッパリの親分だったやつが、やっぱりみんなが、そういうことにも勇気がいるじゃない? 今まで付き合ったことのない人の車いすを押すとか、杖をどうする…。そういうときにさっと行くのはやっぱりああいう子たちなんだよね。ぱっと行ってね。どっかにその、苦労してるだけに世の中の機微もわかるし、人の気持ちもわかるし。あるってんのは、やっぱりわかってほしいってのが届かないからやっぱりそうなんだろうね。[02:30:42]

A:先生お忙しいのにありがとうございます。

北村:いや。またこう、ちょっと時間置いて角度を変えて話すとまた違うことわかるかもしれない。あの、今日はなんとなくこう、今までの高校のあり方、なかなかその、高校に…。高校ってのが当たり前の存在なのにかかわらず、高校に行きたい子が行けないっていうことね。その、入れないってことと、それから高校そのものが受け入れるつもりがちょっと見えない。[02:32:21]
 ときどきそういうね、いい先生、いい先生って変だけど、現れるんだけど。現れてもすぐ消えちゃうし。子どもが、その子が卒業すると終わりになっちゃうしね。なんとなくその学校の雰囲気としてなっていかない。

A:やっぱ高校問題やろうと思ったら中学が大事なのですか?

北村:中学大事ですよね。まあほんと言えば、もともと言えば制度そのものですよね。高校って何するところだっていうのを実際にその学習指導要領で、「あれとこれと教えなさい」みたいなことを勝手に決めて言うわけでしょ。でもだから、一つはやっぱりその憲法に言われてる「保障する」っていうのは、保障するかしないかは、本人が納得しなきゃ保障したと言えないわけでしょ。「これとこれとしてあげましたよ」って言ったって、「高校無償化しましたよ」ったって、高校に入れない子には何の無償化が保障したことになんのよね。一番必要な、高校に行けない子と、高校落とされた子ども、何にも保障がないですよね。で、入れなくて教えてもらえないどころか保障ももらえないとか、一番不幸な子どもに行き届いてない。だから人権としてそこをどう考えるのか?っていうことでしょうね。

A:障害を持っている子が、「支援学校があるでしょ」って言われたときの反論はどうしたらいいんですか?

北村:「分けられたくない」。分けたところでは、なりたたない。とにかく分けないのが前提、すべての前提として、分けられたところで、子どもを分けるってことは一番悪いことだよね。差別でしょ。うん。で、交流と分けないのは明らかに違うわけでしょ。交流ってのいいことのように言ってるけれど、分けたから、分けたのをちょっとごまかすために作ってるものでしょ。交流にごまかされちゃ。だいたい、「支援学級へ行っても交流はありますよ」って。何言ってんの。1時間だけなんか行って、それもわざわざ連れてってね、障害児が…、「何の障害あってこういう子なんですけれど、お友だちですよ、仲良ししましょう」って。ねえ。あんなごまかし、やっぱり学校教育の中ですべきじゃないと思うの。まだね、「できないならあっち行け」って言ってるぶんにはよくわかるからいいけど、子どもによってはそれ、その本質を悟るのに時間かかることだってあるわけでしょ。「あそこに行くと丁寧にしてくれるんだ」と思い込まされちゃうわけ。ね。[02:35:25]
 だから、で支援教育もね、今、雇用率が増えたわけでしょう、障害者の。雇用率が増えたから雇用をしなきゃいけないですよね。だけど雇用は、企業はしたくない。それはもう一貫して変わらないわけでしょ。それで企業はどうするかっていうと、全部、子会社作ったわけでしょう。一緒じゃないですよ。だって雇用促進法っていうのは障害者と健常者が一緒に働くために、言ってみればその、普通の職場に障害者をどう入れるかっていうことで作ったものなのに、絶対に、ね、たとえば某銀行にもちゃんとあるんですよ、そういう場が。だけど立派に働ける、立派な、足がちょっと不自由だ、ちょっと耳が、そういう人たちがいて、立派な仕事をしてるんだけど、そこには私たちの言うような障害者は一人もいませんよね。そうしたり、本当に大変な障害者だと、どうでしょう? 京都あたりでもありませんか? 今、子会社が盛んで。特にここんとこ盛んなのは、あの、まあ名古屋のかたなんか、かなり評価してらっしゃるんやけど、「企業向け貸農園」です。
 一つ見たのは、千葉で大きな、まあ今ね、空き地がたくさんあるんで、あそこで電気のパネルを作るか、農業をやるかってことになってるだろう、どっちかみたいですねえ、今。その、何? 電気パネルをぱーっと作るのと、農業でビニールハウス作るのと同じぐらいの速度で進んでるらしい。農園は人材派遣会社の子会社が2011年ごろから千葉県で始め、企業に区画が貸し出され、利用企業は農園で作業する障害者と雇用関係を結ぶことで法定雇用率を達成できる。自ら障害者を集め、ともに働く環境を整える必要がない。そこに行ってる、行くことになった子どもの話をお母さんから聞いたんだけど。表向きは何は企業に就職しました。でも職場に行くにはどこどこのバスが、そこにバスが来ますからこのバスに乗ってください。バスに乗っていくと、大ーきなビニールハウスに着くわけね。で、その会社は「このビニールハウスのこの列がその会社のもので、お水やるよ」って。難しい仕事はさせてもらえませんね。それでそのお母さんが言うのには、その、「うちの会社は小さな会社だから、そのビニールハウスの大きな一列しかないけど、隣にはね、某企業があるんだ」って。某企業ってあの、本や映画作ってる、あの。大きな会社だと思うんだけどね。4列ぐらいこうあるんですって。でそこはみんな某企業の社員になったつもりで入ってくる障害者が実は、水やりしてるわけだ(笑)。でそこは、うん、「最低賃金を保障します」、それから「休暇もあります。なんだったら宿舎もあります。退職金もあります」、何もある、全部あるわけだ。それ聞いたら、親によっては迷うでしょ、これだけ将来保障されて。でそれほとんどが支援学校の高等部卒業生。その高等部っていうのはいろいろあるからすべての高等部じゃないですよ。ある高等部のそこに入れる。それでそこに入ればコースは決まってて、そこに宿舎があり賃金もらえて、もう退職後のことまで保障されてるわけですよ。「こんなにいいことない」と思っちゃうわけですよ。[02:38:52]
 ここんとこほら、愛知の卒業生、何人かそういうところに行ってますよね。「行ってよかった」っていうようなことを書いてらっしゃるけれど、はっきりそこではもう分断されてるわけでしょう。でそれ心配してるよ、A新聞の記者がすごくそれ心配してね。「これ以上その、職場が分断されたら大変だ」って。世の中から分断されてるわけですよね。だから雇用率を増やすたびにそういうことが起こって、分断がひどくなってくるわけでしょ。本質的な問題だと思うんです。雇用率を増やすとその、みんな、だから政策が整えば整うほど分断はひどくなっていく、みたいな。その中ではもうどうしても障害者がね、「分けられるのは嫌だ、みんなと一緒にいたいんだ、働くんだ、何でも一緒だ」っていうのを言ってないことには、もうどうしょうもないと。
 で今盛んなの、その、空き地があるからか、千葉や愛知、神奈川、埼玉あたりもすごいみたいですね。うん。だからかたちの上ではすごい優遇されてるわけですよね、すべての制度があるから。私が関わったJ学園という高等部だけの養護学校、元都立J高校で高校進学が増えた時期にみんなで作った学校です。そこ廃校になって。そのまま校舎を使って、養護学校の高等部にしてるわけよ。それ一流の高等部なんで、そこの校長先生は、「うちの学校を卒業した子には全員就職できます」って言ってるわけ。本当なんだよ、その全員就職。でもそれ全部特例子会社なわけよ。子会社そこに行ったこと。でそもそもそこは試験を受けて、養護学校だけど試験が難しいわけ。うん。で普通学級行ってた子もかなりそこへ行きました。そんで行ったら、その子の場合には宿舎もあるし、もちろん労働基準法は守られていて休暇もあれば年休もあるし、何もかもそろってるわけですよ。で、私が付き合ったその子っていうのは何してるかっていうとね、もう、えーと某マンモス企業の子会社なの。でね、某マンモス企業の子会社で何を作ってって、私、恨みがましくこの…、うーんとね、ちょっと前だけど、これを作ってるわけ。

A:飴?

北村:これ。うん、それ。あ、いや、全部。あの、これを作ってるっていうか、これは作られた、この袋もこれもこれも作られてるわけ。組み合わせて入れるだけの仕事。もう本当はその子は、私は都立高校にがんばって入れようと思って、もう本人もそのことで準備してたけど、中学の先生が支援学校、「J学園という新しくできた高等部だけの支援学校に行くと、就職も安全だからそこはどうですか?」と誘われて、私たちが言う「都立高校に普通に行こう」っていうのをやめて、そこへ行った子なのね。で、行った先で何やってるかというと、これなわけよ。これを配られる。でそこは何十人かいて、指導してる人ははっきり某マンモス企業の職員。福祉の仕事の人じゃない。まあそうじゃなきゃいけないわけだけど。それでその、ばらばらに配られたものを、言われた通りにこの3つ揃えて袋に入れなきゃいけないんだ。ところがね、彼女は能率よくできるのに言われた通りにしなきゃいけないわけだ。まずはこの袋を先に配って、「袋、大丈夫ですよね。何も入ってません」って。でそれからその、この、これね、ちょっとほら、保険なんかで待たせる人に「これお持ちください」とかいうときにさ、これをまず入れる。それから、「これを入れる」とか、この「これを貼る」とかね。で言われた通りに一つずつこうしなきゃいけないわけだ。ところが彼女はわかるもんだからね、ぱぱぱっとまとめてやっちゃうわけだ。そうすると怒られるわけ。その、能率よく、彼女なりに能率よくはやるわけだけど、その監督してる人の言う通りになるのがいい話なんだからね。ここで利益を上げる必要ないわけだ。上でやってる某マンモス企業グループ内の別企業がちゃんとやればいいわけだからね。とうとう嫌になって、今、夜逃げしてる最中。

A:特例子会社が増えているみたいですね。

北村:増えてますよね。
でもそれはもう法律の趣旨にも反してるわけですよ。普通のその、K銀行でやってる業務の中に障害者がどうやって働くかっていうための法律なはずなのに、全然別のとこに囲ってしまって。少なくとも外部からは見えないですよね。障害者があの、K銀行の中でどこで働いてるかってのは見えないわけでしょ。いや、見えるところに入れなきゃおもしろくないじゃないね。「あ、自分もK銀行で働こう」と思うような目標には絶対ならないわけだからね。

A:それ共生社会じゃないですね。

北村:しない、絶対にしない。
だから雇用率が増えるたびにそれが増えるだけでしょ。だから分離が増えるだけですよね。

A:中学の先生から「支援学校行ったほうが100パーセント就職だから」って勧められると聞いたことがあります。

北村:みんなそれで勧められてるわけ。そうやって分離をどんどんどんどん進めてるわけですよねえ。
本当はねえ、障害者の人たちは、言う人たちいますよね、「税金を納める障害者になりたい」っていう。みんなそうなってほしいよね。でも障害、税金を食うほうでみんな安心してるわけでしょう。国のためにも不幸なことだと思いますよ。これやらされるんだよって。これで給料。それは一時的にはいいだろうなと思うけれど、うーん。これ、やりますか? これ(笑)。
もたないよね。

A:もたない。

北村:あの、精神侵されるよね、こっちが。うん。

A:何年も同じことずっとやりつづけることはできないですね。

北村:うん。で、その子の場合には、親の希望で寮に入ったんだよ。まあ自由に外出できるけれど、やっぱりいろんなこと制限されるわけ。「どこ行ってたの?」「よかったね」とか言われてるわけ。でそれをやめて家出してみたら、まあ世の中にこんなおもしろいことがあるもんだという感じで今ね、あらゆるところを駆け巡ってるわけね。まあやるだけのことはやったほうがいいと思ってんだけどね。うーん。[02:50:24]

A:自分で駆け巡ってはるんですか? 一人で?

北村:一人で。でもときどきお金が足りなくなったときにはうち寄ったりして。それで親じゃなくて、まわりの人たちに救われてますけどね。
いやみんなね、やっぱり驚くべき…。私たち、私たちもやっぱり新宿の街なんて怖くて歩けないでしょ。でもやっぱり行ってみたいから行くわけでしょ。でそれなりにやっぱおもしろいことがあるらしくてね。危ないなと思う、まあ危機一髪のところもありますけどね。でも、もうおよそのことは見当ついてるみたいでね。もともと賢い子なんだから(笑)。

A:都立高校へ行っていたら、もっと人生違ったでしょうね。

北村:全然違うことになったって思うんですよ。うん。だから本当は都立高校行ってほしかったし。で、その子の場合ね、お母さんがあの、親としてかたちの上でやっぱり責任を果たしたいのがあるわけですね。だから、そういうところに入ることによって、こう責任を果たす。でその分よけい子どもは離れていくわけだけどね。その、「苦楽を共にしよう」っていうよりは、まあこのかたちの上でその子を安全にしたいっていうのが親にあったからだと思うんですけどね。だからあんまり今、親、うちに寄り付いてないんでね。昔付き合った介助の人、一番親しい人と付き合ってて、それは大丈夫だと思ってんですけどね。まあすごい世の中になってきましたよ。

A:一番親しい介助の人がおられたらいいですよね。

北村:そうなの。そういう友だちがほしいよね。うん。
でも普通に働いて、苦労して働いてる子ってねえ、やっぱりいいですよ。うん。他の子と同じように。やっぱり「コロナになって給料が下がった」とか嘆いてる子いるじゃない(笑)。もともと半分は親に頼ってるくせにね、人並みのこと言って。うん。でもいいなと思いますよ。

その、「障害者を雇用しません」なんてみたいなことっていうのは、まあ表向きにはちょっと言えない言葉ですよね、今の世の中。「障害者だから雇わない」ってことは。やっぱり本当にそれを思ったっていえば、障害者差別禁止法に触れますよね。その、「障害者だから雇わない」って。まあいろんな障害者いたわけで。だからそれがないためにいろんな制度があるわけでしょ、「障害者雇えば、こんなん、こんなんです」って。それ目当てに雇う企業もあるわけだけどね(笑)。だから「そりゃどうしてですか?」って聞かなきゃいけないだろうし。それから、なんだったら聞いた上でその、どっかにそのことは言って指導してもらうみたいなことは本当はしなきゃいけないでしょうねえ。

A:保護者が。

北村:めんどくさいけどやっぱり、それは気がついたらやらなきゃ…。障害者を雇わないってことは、「こういうわけだから雇わない」っていう納得できるのがあればいいけどね。「障害者は雇用しません」っていうのは、何も当てはまるものがないわけでしょ、「障害者だから」だけでは。

A:スイミングの体験に行ったら、「うちはダウン症はお断りしてますから」と言われたこともあります。

北村:「ダウン症」ってわざわざ言うわけ?
でもそのときにやっぱり、「どうして?」っていうのは聞いてくださらないと。「どうしてですか?」って言われたときに、
それはその人なわけで、そうであれば、たとえば、「健康診断をしてほしい」とかって言うんならまだ別ですよね。そりゃあ企業なりその習い事するところで、その条件として健康であるかどうかっての知りたいっていうのは、それはあるかもしれないから。それだし、「健康診断書が欲しいです」とか、あるいはうちの、うちのその企業の専門の医者がいるわけでしょ。それを経てほしいとか言われることはあったってしょうがないけど、はじめっから「ダウン症は断る」っていうのは、それはやっぱり差別ですよねえ。うーん。まあダウン症を障害者の代表みたいに思ってる人いますからね。で反対に、「ダウン症ならいいよね、かわいくて」って言う人もいるけどね。ダウン症だから雇わない。ダウン症だから入れない。うん、なんかついでに聞いちゃうよね、聞いてみたいですね。「他にもいますか?」ってのは、そういう、何と何がお断りか(笑)。

A:「嫌がってるところに無理やり入ってもいいことはない」という人もいます。

北村:うん。そう言われればそうだけどね。でもそういう言い方したら、なかなか高校行く道開けないでしょう。高校はどこだって嫌がってんだから。嫌がってるから新しく開く値打ちがあるわけだからねえ。嫌がってるところに「どうしてですか?」とか。

A:そうですね。嫌がられてるからって引っ込んでいたら道は開けないですね。

北村:なんかそれは、やっぱり障害者自身がもの言わないと。「僕も働きたいです」とか言わなきゃねえ。
うーん。やっぱりそれ、それでもやっぱりしゃべらなきゃいけないんじゃない? もちろんそりゃ、一人じゃなくて、こう大勢仲間でいれば、うん。うーん、その、せっかくしゃべってることと、つなぐ言葉が必要なわけでしょう。「どういうこと、それは?」ともう一回聞いてみるとかね。「そりゃよかったの?」とか。「あ、それがいいことなの?」、なんかもう一回言わせること言ってくれなきゃね、誰かが。せっかくもの言ったんだから、「何か場違いなこと言ってんな」と思っても、「それ言いたくて来たんだよね」とか、何か続きを言えることを言ってくれればいいわけでしょう。んで、反応があるっていうのは、すごく言う意欲をわかせると思うんですね。だから、「何言ってんだ、こいつは」ったって誰ももの言わないと言わなくなっちゃうわけでしょう。だからもう一回言わせるためには、それを掻き立てなきゃならない。でもたぶん言いたいこといっぱいあるんじゃないですかね、本当は。

B:そうですね。

北村:うん。でそれはその都度、「ふーん」とか、「何か妙なこと言ったな」ってみんなが無視すればね、それ以上の発展ないけれど、そこに何か、「だったらどうしたの?」とか、何かひっかけて言うと…。もともと、だってダウン症のお子さんって今うちにqさんとかときどき来ますけどね、まあしゃべるわしゃべるわね。でも「しゃべるな」とか言われて、みんなに。言われたりね、いろいろあるよ。人ね、いろんなこと言います。だからうちのことを、「qちゃんの行く家でしょ」とか言う人いるんです。いたんです、今その子いないけど。その、何て言うんでしょね、わざわざこの、「障害者の行くとこだ」みたいな言い方をする。そうやって言ったりするわけね。とかね、変な子も、はじめは変なことある。この頃もうだいぶこっちも落ちついてるから言わないけど。おもしろいですよ、そりゃ。

A:ここは安心して来れる家なんですね。

北村:来てそこに座って、私がいないと座ってね、こうやって待ってたりするんですよね。でもそれをね、悪口言う人もいるわけよ。でその悪口には、ちゃんと彼は聞いてますね。

A:その人はそういうのわかるんですね。

北村:その悪口言う人とか、言う人ね、だんだんわかってくるわけね。「あの人が言ってる」とか、「ああいう時間だと、どうもあいつがあそこにいるらしいから、あそこはやめとこう」みたいな。「いいからおいで」って言うんだけど、それはなんかだめらしくてね。うん。まあ本当に、qちゃんっていうのは元気のいいところが…。すぐそこにね、もうちょっと行ったところに銭湯が、あの、黒湯なん…、ここらへん黒湯、掘ると黒湯が出るんで、黒い温泉が出るんで黒湯があるんで。で大抵はその浴場、午後1時ぐらいしか他んとこやらないけど、そだけ11時からやる。彼11時に行ってね、昼までそこでしゃべったり踊ったりするんだよ。でそれを、それを楽しみに行くじいさんもいるんだけど、それがうるさいっていう人もいて。ときどき文句言われるときと、「いやあ、おもしろかったよ」って言う人もいるしね。なんか、なんかこう、地域の人にはなってますね。だからいつも親しい仲間がいるってわけじゃないよね。[03:05:15]

A:でもそうやって見て、「ああ、おもしろかった」って言ってくれる人がいるから、本人も満足ですよね。

北村:うん、本人はね、かなり満足、満足してるみたいでね。でもね、だんだん年取ってくると心配もあるよ。もうだって50ぐらい、50、もうすぐ50でしょ。

A:その人はダウン症じゃないですよね?

北村:その子ダウン症。でもなんか、でもねえ、私が受け持ったダウン症では、えーと数年前に60歳で亡くなった子がいますけれど、まだダウン症の子で私が受け持った子どもで亡くなった子どもはその60歳の子が初めてなの。だから60歳近くでもないけど、40歳、40何歳ぐらいでまだ元気な人いっぱいいますよ。昔よく言われたでしょ、「二十歳まで生きない」とかね。
ねえ。だからその60歳で亡くなった人も、私もちょっと安心したわけね。その、もうちょっと私がうまく付き合えばよかったの…、長生きしたかもしれないけど、その支援学級を卒業して、いろんなところで働いたけど、かわいらしいの。みんなから大事にされるんだけど、何ていうんだろうね、まあとってもわりと…、このへん、だから小さな、小さな企業が多いから、そこで働いてんのにわりとその地域のおばさんが多いわけね。で、おばさんの中に一人だけ彼が男の子、あの、いっつもね、おばさんのお尻を触るわけね。で嫌がられる、おばさんたちから。で、そうするとそれが、「お尻ちょっと触るくらいどうってことないじゃないの」って言っても、だんだん積もってときどきやめさせられて。やめさせられると、やめた時間だけお母ちゃんから500円もらって、「それでお昼食べてこい。どっか遊んでこい」と言われると、しょうがないから、まだ私が現職のときは学校へ来て、学校の給食を分けてもらって食べて、500円は他のことに使おうと思う上手な子なの(笑)。まったく、本当にね、だから、もう直前、給食の直前に来て食べて帰るような子だったんだけど。仕事変わるたんびにね、また、もうこっちも嫌になってね、「また先生の顔、汚したんでしょ」ったら、「うん、また汚したよ」って来るようなね。もう来るたんびに、「また汚したよ」って来るような人だったんだけど。家庭の都合でKに転居、東京のLってわりとあの、福祉の整ってるところ、古い自転車を改造するような仕事をしてるその、障害者のグループがあるんだ、そこへ行ったわけね。でそこはL市が応援してるんで、もうあの、まあ永久就職みたいな感じだったわけね。その人が平気で、「もう先生心配しなくていいよ。俺ね、要するに首にならないところ行ったんだから、心配しなくていいよ」っていうような時期があったわけ。「よかったね、それは」って言ってたんだけど。なんかね、それを機会に彼だんだん年取っていきました。その、おばさんのお尻触って怒られて、昼飯どこで食おうかって考えてるときのほうが元気でしたね。もうね、「首にならないよ」って思ったときは、本人もやっぱりちょっと、とたんに怠惰になったとは思わないけど、やっぱり「ずっといてもいいよ」って言われたところの緊張感っていうのは(笑)、つまんないんじゃないんですかね。しかもそこ障害者のためでしょ。で、要するによそから言えばLのそのリサイクルの場所っていうのは、まあどこの障害者の施設でもその頃でしてみれば、見学に一回全国から来るようないいとこだったわけよ。で、いいところに行ったんだし、親の家がすぐ近くになったし、何もかれもよかったねっていう感じだったけれど、「もう心配ないよ」って来たとたん、「うん、よかったね。もう心配しないよ」って私言ったんだけど、本当に私も心配しなかったわけよ。しなかったあいだに本当に急速に年取りましたね。だから40歳になったときに後ろ姿見て、うん、「もう心配しなくていいよ」って言う後ろ姿見たときにね、「いやあ、老けたな」っていう感じしたんです、40歳で。まああの時期その、「心配しなくていいよ」って言った時期から彼が安心した、つまらなくなったんじゃないかしら。だって、いつ首になるかわかんないっていうのはいいことじゃないけど、なんかそのたびに職場が変わったり人が変わったり、いろんな状況が。もう娑婆がいっぱいあるわけでしょう。そこでこう揉みくちゃになってて。それが、本人が楽しかったとは言えないけど、それはよかったと思うんですよ。で、「ずーっとここにいてもいいよ」って言われたとたん、私はその後ろ姿を見たときにね、「もう心配しなくていいよ」って言ったとたん、後ろ姿見て年取ったな、と思ったところからどんどん年取ったような気がするの。やっぱり、[03:12:15]
そんな障害者が安心していられる、しかもいつまででもいられる、親は心配ないって。そういうところって、障害者だからそういう場所があるのかもしれないけど、普通の人だったらたいていこう心配は続くわけでしょ、それが世の中っていうもの。それがそれなりの刺激を持って人が生きてんだろうに、「安心して死ぬまでいれるよ」って言われたらつまんないんじゃないかな。しかもそれが、障害者の施設っていう温かい場所。だからそうじゃなくて「そこ行かないで、ずっといなよ、友だちもいるんだから」って言ってて、この地域にいて、相変わらずその、私の面汚ししてくれてたら、もうちょっと長生きしたかな(笑)。うん。だからそうすると、「ダウン症の子は何歳まで生きれるよ」ってな記録をもっと伸ばせたのになって思ってるのね(笑)。いいとこっていうのはやっぱりいいところじゃないですよね。いいとこっていうのはそういうとこなの。いいとこと思ったとたんよくない。だから、ずいぶん苦労した、苦労もしたけど、いいことも経験したんじゃないんですか。

A:「何を実践して、何を主張してきたか」って本に書いてありますね。

北村:うん、わりと書いてありますね、はい。でも似たようなことしてる人世の中いっぱいいるわけだしね。
高校はわりとこう限られてますよね。どうしてか高校の場合は、

A:やっぱり義務教育じゃないからですか?

北村:どうしてでしょうね、高校。小学校の場合には小学校をそのみんなの行ける場所にしようって運動は、その子が大人になってもだいたいやってる人が多いんだけど、高校の場合は終わったらもう終わりになるんですよね、なぜか。続かないんですよ。[03:15:02]
 だから、まあ大阪で言えば、rさんたちの高校の運動はわりとこの頃始めたわけでしょう。ずっと昔はその、まだまあDもあったし、兵庫もいろんな人がいたし、それからそのそういうEなんかの実践もたくさんあったしね。それと、rさんが高校の入口のとこを問題にし始めたのは、例の、大阪が枠を作り始めたときあたりからじゃないですか。それまで私はあんまり、rさんのことも知らなかったし。
 それから、その時期知ってる人たちっていうのは、まあ高校、大阪で高校問題って言えばやっぱりどうしても高校の問題があったでしょう。でMはあまりにも有名だった。Mっていうのは、まああそこも差別問題から発してるわけだ。で大阪の場合はねえ、あれねえ、だから、うーんと、全国の交流集会を開いたのはこの94年、これが第1回なのね。それまでずーっと私やってたんだけど、誰も相手にしてくれないときに、「全国交流集会やろう」っていうのは私言い始めて。このとき、だから第1回目のときがsさんとこのeちゃんが問題だったんで、sさんと連絡でこう…し、だからさっきの石川憲彦さんが金井くんの闘争に関わった続きで「高校問題やろう」って言い出して、この集会を…、高校進学ガイドを作ることができたし、これを開くことができたわけですよね。で、本を作ったら、本を作るまで全国に連絡のしようがなかったのが、日教組教研のレポートをだいたい見当がつくようになった。それ開いたら、だったら直に会おうってことで、全国交流集会を開いた。でそれが、ここに集まったわけ。で集まったんだけど、「来年どうするか」っていうときに、どうにもならないときに、fのお父さんが、「やりましょうよ」って言うから、うーんと、埼玉でやったわけですよ。そしたらね、うーんと、大阪の実践として準高生。準高生って制度、ご存知ですか?

A:ああ、書いてありましたね。「じゅん」って準備の「準」ですね。

北村:準備の「準」ね。準高生。「高校生にはなれないけど、準高生だ」って制度を作ったわけです。で、それ自慢するわけ。「今年で23年目です。準高生をずっとやってます」って言うわけ。で神奈川のあの、8年かかって高校に入ったtさん。tさんって8年かかって入って、8年間ずーっと受け通しなの。でtさんがびっくりするわけですよ。入れないんでやっとがんばって…。「最初の年が準高生だったら、次の年は高校生にならなきゃ」って。「毎年毎年大阪ってのは、準高生っていうその半端なね、入れないけど高校生に入りたいなっていう、そういう思いをさせた子どもで20何年間も続けて、何だそれは!」っていって大騒ぎになったんですよ。で私それ、すごくおもしろく聞いたんですよね。[03:20:18]
 でも、うーん、わかんない。大阪の人は、「こんないいことをしてるんだ」と思ってるわけです。高校に入れない子どもを準高生として、うーん。でもそのときは毎日学校来てないですよね、そういうときの準高生ってのは。Mのその、教育そのもの、なんとかの家、なんかすごい話がいっぱいあるわけ、資料ありますけど。だけどクラブとか特別なことしか入りづらいし、教室にも入れてなかったの。だから私たちが見学に行くと、校庭のまわりをほうきで掃いたり、うろうろうろうろしてるだけだったわけ。でそれが長いことかかって、私たちががんがんがんがん文句言うわけ。「なんで準高生だ、準高生なんだよ」って言ってるうちに、「え? 制服も着られない」。「せめて制服ぐらい」って言ったら、何年か経って、そう20年以上経ってかな、制服は着られるようになった。それから教室に入れるように。でも準高生で部屋の一隅だけを、ここだけをその準高生のためのって。もうよくそういう屈辱に耐えられるなと思う時代があったのね。でも関東の者はそれはもう絶対に納得できないから。tさんもそうだし、fさんもそのときはものすごくがんばったんですよ。そのときの大阪の資料ちゃんとありますよ。20何年間それをがんばったっていう、ずらーっとそれ、書いてあるわ。
***(03:21:08)ないけど、そのときのMの人たちとしてみれば、それは、それでいいことだったんです。一緒にするなんてことは考えられない。だって違うんだもん。学力はないし。だから明らかに違うから、その子のために確実にその、その子に必要なことをしてるわけです、もう20何年も。でその子のために、たしかにその、こういうことをしてんねん。いったいどういう病気だって、どういうふうにしてっていうの。で、そこでやっぱり、同一学年、同一教材、同一空間をやろう、貫こうねってのができたわけです。その次の年、3年目にね、大阪へはじめて行ったんです。でこれは大阪に行ったときに、何で大阪でって、一つはfの弟がいたから。学生だったけど。
そこでやってくれたわけね。大阪の人はもちろんやってくれましたけど、教職員組合の人たちがやってくれて、大阪でこういう集会そのとき成り立ったわけ。で、大阪のことをいろいろ見て、「やっぱ大阪って同じじゃないな」って(笑)、「東京は東京でやろうや、関東は関東でやろうや」っていうのがこう***(03:22:44)てったわけですけど。交流ができたってのは非常によかったと思うんです。「こういう運動がある」。
 で、そのときにはたぶん、少し障害者に対する理解が文科省のほうのも増えてたと思うんです。だいぶ変わってきたような気がします。それで全国交流集会の…、で全国交流集会を進める中でどんどん運動が進むだろうと思ってたのに、進まないんですよ。高校の、高校の教師たちに届かない。

A:どうしてですか?

北村:だから、障害者が高校へ行きたいっていう思いが届かない。だから行きたい意欲はわーっと全国的に起こるわけね。でも「なんで高校に来るか」「なんで引き受けなきゃいけないか」っていうのは高校には届かない。それは制度として一つ遮断してるわけでしょう。制度が「選抜制度をやっていい」って言ってるわけだから。でその中で、不思議だと思う人がずーっと「なんとか行きましょう、なんとか行きましょう」、運動を続けて。でもその運動が切れちゃうでしょう。だからcさんがkくんとこれだけ付き合ったんだから、それはその、八女高校の伝統として続けばいいわけだけど、続いてないでしょう。第一同じ思いをして来る生徒がいないでしょう。
tさんていうのは8年間がんばったわけだけど、えーと、何年目か、2年目かに、何年目か、もうちょっと先かな、に受験するために、あの子受験の方法とか受験の場所とかそういうようなことを学校がやってくれなかったんだ、そのときはね。だからお母さんが一緒に連番で受けるわけ。uくん、何番、お母さんその次の番号、で受験票を出して、お母さん一緒に受ける。ところが、お母さん名前を書かないで出してんのに、「自分は受からなくてもけっこうだ」っていうんで名前も書かずに出したにもかかわらず、お母さんだけ合格するわけ。で、お母さん決心するわけだ。「私が高校生になろう。uを連れて行く。保護者として連れて行く」っていうの。でuを連れて毎日行く中で、「もうしょうがない」と思ったのか、とうとう合格するわけ。合格してからもずっといろいろあるんですけどね。
 で今、uの運動の中で、神奈川の闘争が生みだしたのは、中学が、進路指導が高校に行くことを実現するのが高校…、中学の進路指導であると同様に、高校の進路指導っていうのは進路先を見つけるのはやっぱりそれは仕事だっていうの。で「進路先を保障しろ」っていうのを、もう10何年経つけどやってます。でそのときは大船高校っていう違う学校で、そこの清掃をするっていうことを、そのときの教育庁と取るわけだ。それでそれに期限がなかったんで、「本当に就職できるまで」っていうんで、今も続いてやってます。その、絶対進路を保障させる、高校に進路を。でそれも、高校に障害児をやるってことのうちの大事な仕事でしょう、進路を保障されるってのは。仕事なんだから。高校は、進路を保障するところは高校の仕事なの。進路を保障させるっていうの。で、県立高校だから、なんか県として保障しろっていうのはまだ言い続けてるの。で、それは大変ですよ、ものすごく大変(笑)。その、受け入れている高校のほうが全然、その、きちんとした役割を県から言われているわけではないけれど、その場所をでも毎日使われてるわけでね。嫌がられながら行ってますよ、毎日。だから進路保障は高校の仕事なのね。だから高校に入ることと、入って中見て何をする、何をしたら、進路保障をどうするか。

いや、そのがんばりの違いっていうのはもう世の中の今変わりようで、今のお母さんにそれ期待するのは無理だと思うけれど、その、fさんのお母ちゃんにしても誰にしてもね、やっぱりすさまじい闘争してますよ。よーくこんなことが人間としてできるなって。わが子、わが子のためと思うから。あー、いっくらわが子のためだってね、よくこんなことできるな。あらゆることをね、お母さんさっと教師辞めてこれに専念するわけでしょう。でもfの、弟が、うん、「お母ちゃん立派だった」と今でもやっぱり言い続けてるしね。で、「しんどいぞ」と思っただろうけれど、fを中心にしたNの動きをちゃんと彼はやってて、それ企業として成り立ってますからね。で、ものすごくいろんな障害者がそこに働く場所は得てて、いわゆるさっきのビニールハウスじゃない、本当にあの、ねぎの種を植えたらねぎが穫れる。それがどう売れてどこでどう使われるかってことをちゃんとやってるしね。[03:30:12]
 だから農業っていいなって思うのは、そういうことを直に自分がこう経験できるってのはなんかあるのかな。売るところも食べるところもね、種を播くところもね。ほんとにあれはなかなか、うん。だから、私がfのお父さんに言ったことっていうのは、その頃言ったのは、もうやっぱりね、普通学級に入れたからには、その障害児の居場所を保障するってのが必要だっていうことが起こってくるわけで。その中でその、いいとこ作りが起こるんですよ、障害者が安心して働ける場所。で私そのときに、今それの、ある意味たとえば名古屋の、わっぱ あの、うんうん、すばらしいと思いますよ、ほんとに。障害者がほんとに実力を持って働けるし、それが企業としても成り立ってて、どんどん大きくしてますよね。私がそのときに言ったのは、「障害者のためのものは作らない」って言ったのよ。私、絶対そういうのには与しないと。なんかね、「共に働く」とかなんとか格好のいいことを言うやつに一人ずつこの障害者を押し付けていく。あんた言うんだったらやってみなよ、この子採って。それがいいんでしょ、それが理想でしょって。一つはたとえば保育園の私の友だちが経営してた保育園に、vちゃんていうのを預ける。そうするときちんとやってくれました、それは。言葉もよくしゃべれない、体も不自由、体にもあの、何、ハンディがある子なんだけれど、一人の保育者としてちゃんと給料もちゃんとやって働ける、vちゃん。
なんかどっかにあるはずです。その、あそこに、柳川に行く子もいるけど、今言ってるのはvちゃんの話で。『一緒がいいなら』*のほうに載ってたかと思うんだけど。
    

A:こっちですか?

北村:うん、それには載ってないと思う。『一緒がいいなら』に載ってたと思う。別のところに、いっしょ…、うーん、それにも載ってないですね、きっと。
うん、それはあの、vじゃなくて、wっていう子なんで、それは九州で亡くなったんだけど。それはそれ、それなので、それも、だから無名塾がそれ見事に…。やっぱり受け入れてくれたけど、結果としては亡くなったんです。その人ではなくて今も働いてるvちゃんっていうのは、この近くの保育園っていうとこに就職したわけで。それは当時と今はちょっと事情が変わってんですけど、当時園長をやってたかとうまさこ。まあ区議会議員なんかやった人です。彼女は当時のこととして、まあ当時だからできたんでしょうね、無認可を一つは目指したわけ。あの「やたらな干渉を受けない」っていう意味で、無認可の保育園を始めたわけ。で誰も免許を取らない。取らないことを建前にした。今は取ってます。取らないともう制度にそえず、補助金もらえないし、どうしようもないから今、何人かは取ってて、何人かは取らない方針を取っていますけどね。それで無認可を目指して。しかも給料は、あの、わが所帯をみんな出し合えるようなことだった。だから「うちはなんとか、うん、その商売やってるからそれで賄えるから、もうほぼ給料いらない」とか、「うちはやっぱりこれだけもらわないと食えないから」とか言うとか、まあいろんなことで、自分の実態を出し合って給料を決める。vもその中の一人としてこう扱われるわけね。とたんにね、vはなんでもできる…、できるようになったって変だけど(笑)、うん。私がvを怒ってたことを全部子どもに言うわけだ。「パンツ履くときに、ほら、後ろに白い印がついてんのは後ろって言ったでしょ」って、同じことをね、小さい子に言ってるわけだ(笑)、自分が言われたことをね。「前と後ろをちゃんと見分けなさい」とか言って。って言いながら、とたんにね、人の名前とかろくに覚えないし字も書けなかったのに、いつのまにかね、子どもの名前だけは覚えちゃうわけだ。毎日うちへ帰ったらお母さんが言うのにね、子どもの名前、誰ちゃん誰ちゃん誰ちゃんって言うよっていうわけだ。子どもは全部覚えてしまう。で、でも覚えるまで相当大変でしたね。まずは、字の書けないこと。ひらがな書けるんだけど、書けないもんだから見破られたくないわけだ。保育することは、自分より小さい子どもを自分は保育するって思ってるわけですよ。で子どもにはね、すごいやついるでしょ。あいつ、あのお姉ちゃん字が読めないとわかったら、そればかにしようとする子どもだっているわけだ(笑)。それを見破られまいとして必死にやっぱり彼女も名前を覚えるわけ。覚えるし、そのうちに、その子たちの名前だけはだんだんこう、少なくとも、書けなくても読めるまでにはなるわけね。そういうことをこう見事にやっていくわけだ。なんか言ってることが、あの、その、園長やってたかとうまさこに、「あんた言ったでしょ、vちゃんに。vちゃんそのとおり言ってるよ」ってまた言われるんだけどね(笑)。で、子どもたちからはこう慕われるのと、やっぱり「頼りないんじゃないか、あの人は」っていうような思いもさせられるわけよ。わかると、vはね、赤ちゃんばっかりのほうへ寄るわけだ。ばかにされたくないもんだから、必死よ。で、小ちゃい子小ちゃい子を抱こうとする。で小ちゃい子を抱くことが多いもんだからね、そのうちになんか腱鞘炎かになるわけだ。で、腱鞘炎で「痛い痛い」って言いながらね、行ってみると子どもを抱いてるわけだ。で子どももね、もう痛いからって下ろすと子どもは泣く。vちゃんはもっと抱きたいから、泣く子どもを抱いてくれって泣くみたいなの、もうおもしろくてね(笑)。[03:38:18]
 そういうのを続けてね、要するに定年過ぎましたけど、今は、まあ来てもいいよっていう感じで。安い給料にもうなって、本当に電車賃ぐらいしかもう出なくなってるけれど、もう60過ぎて行ってます、まだ。うん、それはなかなかいいもんですよ。その、保母といえば保母なのよ。でそれはそのときにその、わっぱの彼と、xさんとで話したことがあるよ。私が、やっぱりその、「vちゃんは資格持ってないけど、保母さんだよ」って言うわけだ。「そうは行くもんか」って彼は言うわけ。で同じことが私の学校で、そういうふうにしていろいろ行くとこ探すんだけど、わかってるやつに押し付けるっていうことを言ったんだけど、それがなかなかできないときあるわけよ。で、一番困ったのはその、yちゃんっていう子が、片半身麻痺が、えっと、左半身からの麻痺がある子なんだ。で、知恵遅れって言われる。ほんとは知恵遅れじゃなかったんじゃないかなって思うくらいなんだけど、まあ知恵遅れと診断されてて、しかも半身麻痺があるって子だったんだけど、どっこも卒業して行くところがないわけだ。で、そのときにいろんなことしたんだよ。いろんなことをやってみた。もうとうとう、「私が引き受けたからには、私が一緒に働くしかないな」と思った時期があるんですよ。どういうことならいいのかな。よだれはたらすしなあ。どうしようかな? なんかもう、食だよね、食べもの屋できるよな、自分らの日常としてできるなと思ったわけだよ。だけどなあ、よだれはたらすしなあ。焼き芋かな。焼き芋屋でもやっぱりたらすのは嫌だろうなと思うわけよ。でもひょっとしたら立派な、それこそ山中塗の立派なお盆に、それこそ有田のきれいなお皿を載せてお料理を載せて、「これ運んで」って言われたら、あ、こういうの見たら、ひょっとしたらよだれたらさないんじゃないか? それこそ「たらしてもいい」と思うから、たらすかもしれない。いろんなことを考えるわけ。でいろいろ考えたけどなかなかうまくいかなくて、その食べもの屋はやめて、教員辞めてやろうと思った食べもの屋やめて、結局うちの学校で働かせてみようって決心するわけだ。学校に障害者がいないのはおかしい。世の中にはどんなところであっても、生まれた割合で、生まれ育った割合で障害者がいなきゃいけない。それが大学であろうと、その、上野の森であろうと、どんなとこであろうとその割合でいなきゃいけないっていうのは、一つ目標を立てたわけだよ。で学校には圧倒的に少ない。で学校っていうところが、まあ、yちゃんがねえ、教員免許取るっていうこと考えたら、これはたぶん定年まで行ってもな、とてもできそうもないわけよ。でも学校にはいろんな職種がある。まあとりあえずどっかないかな? でもいろいろ考えてもなかなかなくて、結局うちの学校にしようと決めたわけだ、私が。それで教員、職員会議で、「yちゃんの今、働くとこないから、とりあえずうちの学校で働いてと思うけど、どうだ」って言ったわけだ。そしたらとたんにねえ、みんなが今まで私のことをほめちぎってたんだよ。「まあ、卒業して2年も経つのによくお世話なさるわねえ」って。それがとたんに、「学校にあの子いたら困る」学校の職員の職種は、あの、まあ事務室の補助の補助みたいなもんで、O区の場合は、O区がお金を出して半年契約で雇うっていう非常に簡単な仕事だったわけだよ。ところがその簡単な仕事っていうのはね、いろいろ使いでがあるじゃない、簡単なほど。決まってるところしかできない、これしかできないけれど。今までいた人は元銀行で働いていた、子どもの、地域の学校の親で、まあ何でもおできになるかたで、しかも何でもわかってる人なわけよ。だから、ちょっとここ、「ああそうですか」っていうかたちでやってくれるような人だったわけだ。でもその人、半年契約で辞めてもらわなきゃいけなかったわけだ。「あそこだな」と思ったわけだ。「そこにしよう」と思ったら、みんな嫌がるわけだ。だってあれはできないし、これできないし、これできないし、これできない。もうできないことしかないんだから。でも私それ決心したんだ。でそれは、最終的に校長の裁量がいい判断したらいいから校長を説き伏せて、校長は組合運動一緒にやった人だからだいたいわかっててね、で、オーケーしてくれたわけだ。その次に了解してくれたのはね、事務室で働く事務主事、そこの主事がわかってくれたの。こないだ亡くなって、ほんとに惜しい人なんだけどね、わかってくれたの。ああ、とたんに彼、「ああ、私たちにできることがあるでしょう」っていう感じで、「何をしていただこうか」っていう感じになったわけね。何もしなくても置いとくなんて失礼な話だからね。一生懸命考えてくれたの。でも、用務主事さんが言い出したのはね、トイレットペーパーを取り替えることを言い出したわけだ。ところがその事務主事、反対してくれたのよ。やっぱり、「そういう仕事を考えるべきじゃないじゃないか」っていうのを言ってくれたの。いい人でしょ? だいたい障害者の仕事ってのはね、人がやりたがらない仕事を押し付けてるわけじゃん、今。でしかもそれをなんか「清らかな仕事やってる」みたいな讃えたりするでしょう。「トイレの仕事を熱心にやってます、障害の人が」なんてほめちぎったりするわけじゃん。今、道徳の教科書にもあの、清掃をしてる人で帰国子女の人をほめたたえた記事が載ってるけれど、素直にほめらんないわけじゃない、その境地に陥れてるくせにね。でそのとき事務主事反対してくれたんだ。「やっぱり、あれは難しいよ」って。まあもちろん半身麻痺があるから、手の仕事非常に難しいこともあるんだけれど、彼、とっさにその、仕事のランクをつけるわけじゃないけれど、「そういう順番じゃやるべきじゃないじゃないか」って言ってくれたわけだ。私はとってもありがたかったんだけどね。でとりあえず事務服に、事務服を着せて、まあその頃みんな事務服を羽織ってた。とりあえず事務服を着せて事務室にいてもらおうって言ったの、彼が。私そのとき嬉しくってね。それをこう、その、わっぱの斎藤さんに言ってるんだけど。「あのね、事務服を着て事務室にいたら事務員なんだよ」って言ったの、私は。でxさんは、「そうはならないよ。白い服着て帽子被せてパン屋さんに置いてても、パン屋さんにならないんだよ」って言う彼は。私は「事務服着て事務室にいたらそれは事務員だ」って言うけど、「その服装を着て窯の前に立ってもパン屋さんにはならないんだよ」って彼は言うんだよね。で、彼の言うにも一理あるよね、たしかに。でもやっぱり事務服を着て事務室に置いたら事務員だよ。でもとたんにね、問題が起こるわけだ。事務服、事務員だと思って、外から人が声かけてくると、とんちんかんでわからないわけだ。[03:46:05]
 で、まずは、そのね、「電話を取らないでほしい」ってのが、うーん、まあある人たちには思惑はあるわけだ。でそんなことは言わないでおこうと思うわけね。そうすると彼女は、電話は取ることはできるもの、取るわけじゃない? 取ると、私が乱暴な言葉で、相手が来たとき乱暴な言葉で言うようなことを同じことで、「え、どうしてそん…」って。「やっぱり辞めてもらったほうがいいじゃない」。で、その校長とはもともと仲良かったから、平気で文句言ったりしてるって、同じこと言って、「校長さん早くして」とか言ってね、もう人並みに生意気な言葉言うわけだ(笑)。でも全部それは私たちがやってることでしょうがないじゃない? でそのうちに事務主事が考えてくれたことが、「電話取らないでください」とは言わないけれど、あのね、役所から来た書類の受払簿がある。でそれ校務じゃないから、置いとけば。学校の記録として、「今日、なんとかなんとか高校の進学について」とかって書類が来るわけです。で「書類のここに書いてあることを、この帳面のこの段落があるから、ここに写しなさい」って言うわけだ。難しいけれど、この字をここに書けばいいわけだよ。あの、急がない。それで教頭が、教頭さんがね、こういうものだったら、ここを書きなさいったら赤線でまとめてくれるわけだ。ここをここに書きなさいって。彼女必死でそれ書くわけだ。字覚えたよ。ひらがなしか、ひらがなろくにも書けなかった子がね、漢字書けるようになんの。少なくとも学校に関する、教育とか学校に関することは覚えちゃったの、ほんとに。すさまじい勢いでやっぱり、字が書けるようになって覚えた。もうそれは大変なものよね。教育の教なんていうのはね、もうこういって4つぐらいに分かれてこのへんに書いてあるわけだよ。それだんだんだんだん字になっていくわけね。それを毎日やってもらったのと。やってもらってつってうか、要するにそこにいてもらって、その人がいてもらうっていうことが、まあ事務主事の人は本当にいい人だったから、事務主事はそれやってることを、まあ非常に、それやりながら事務室を保っていく、その事務室やっぱ他に人もいるわけ。うん、よくやってくれたなと思うんだけどね。[03:49:50]
 それと、もう一つは郵便。郵便切手とか葉書の出し入れ。たとえば転校した子どもの書類を転校先に送るみたいなことをこうやってもらうわけだ。でそれを今までだと、たんにその自分の事務作業の封筒に入れてちゃんと行先書いて、それでぽいと置いとけばやってくれたわけだ。ところが彼女はそういうことまではできないから、できない、その仕事をやってもらうためにはその、担任の先生が自分でここまでこうやってきて、「ここに何円切手を貼ってください」っていうのを言わなきゃいけない。はじめ評判悪いんだよ、「大変なんだよ、あの子に仕事してもらうの。自分でやったほうがよっぽど早いよ」っていうようなことを言うわけなんだけれど。そのうちね、その頃切手っていうのはシールは少なくて大変、のりで貼らなきゃいけない。こう貼るわけでしょう。しょうがない、その切手をもらって貼るんだけど、貼ると糊がつく。そうするとね、彼女がね、あの、ティッシュペーパーをこう差し出すわけ、そこに。ティッシュペーパーといらない紙。で障害者をいつもばかにしてる先生なもんで、それだけで感激してるわけだ。私にね、その糊のついた手を拭く紙をくれたって言うわけ。すごく損してるわけよ、その人。でもね、それ、yちゃんにそこまでしてくれたってのが嬉しくて、それ職員会議で報告するわけ。「yちゃんがね、こうやってくれた」って。話としては「まあなんで煩わしいことになったんだろう」って世の中なんだけれど、嬉しい話になっちゃうわけでしょう。いい話になっちゃうわけだ。ほんで、それだけじゃあすまないわけだ。本当はその切手貼るのに「今日どこの学校宛に何を発送した」って書かなきゃいけないの。書けないじゃん。その次には、書くことだけは覚えたもんだ、その帳面出して、それも書けって言うわけだ。で書かされるとあれ、嫌じゃなくなるのね、みんな教員たちが。うん。ほんとにねえ、「そっか」って、「僕らができることがある」っていうか、そのできることのおこぼれにあずかったことが嬉しいみたいでね、やってくれたの。で、すごく、だから損したけど得してるわけだ、みんな。
 で、半年経ったときに、半年経ったらもう別の学校行かなければならない。配置換え。で別の学校を選ぶときに嫌がったの、相手の学校が。もううちの学校は、区がくれる余分な人員であってもうちはもうその人はいりませんって言いたいくらい嫌がったんだけど、行ってみたらやっぱりいろいろおもしろいことがあって、だいたいあの、喜ばれて。結果的にね、あの、何年も働いて、彼女は結婚する話があって、「やっぱこの子にも結婚させたい」っていう親が言って結局それで辞めたけれど、今でも年金は貰えてるわけよ、そのあいだも。公務員になれて年金になれたわけだ。で、うん、最近お母さんにもなった。
 で、それはもう、おもしろかったよ。もうそれがね、一番初めに給料もらったときね、あれたぶん7万円だったと思うのね、7万円て給料をもらってね。とにかくお金をもらうってことがなかったわけ、もらって嬉しくてしょうがないわけだ。で「お金どうすんの?」って聞いたら、「お母さんに何かあげる」って言うわけ。母親だけの家庭でしたから。で駅ビルに行って、もう駅ビルずーっと探して、お母さんに何か買うことを決めて行ったんだよ、本当は。だけど、たいていのね、駅の西口も行ってわかるけど、行くとすぐあるのはね、化粧品売り場なのよ。でもうなんかこう、うろうろしてるところ見て捕まちゃったわけだ。ほいで見てるわけだ、口紅などを見てるうちに、「これを塗るときれいになりますよ。こうでああで」、言われるまんまにどんどんどんどんどんやってて、で結局7万円全部そこで使っちゃったわけだ。それで、そこまでならまだいいけど翌日、それを自分で塗りたくって来るわけだ。ね、たぬきみたいな顔して。それで来たときに、他の先生がみんな私に言うわけだ。「ああ、ちょっとあれはやめさせたほうがいい。何とかなんないの」って私に言う。で私はそれ、言いたいんだけど言えないんだよ。もう、やっぱり嬉しい、半分嬉しいわけだ。せいぜい言えたのが、「yちゃん、yちゃんはね、素顔が一番かわいいよ」っていうのがもう私精一杯に言った言葉なの。本当は、うん、もうちょっとはっきり言いたいんだけど。でも「素顔が一番きれいだよ」って言ったら、もうわかりそうだけど、もう自分は夢中になってるから全然わかってくれないわけだ。でも彼女は、その7万円のお金の使い方っていうのを、「そうか、そうするとこうやってなくなるんだ」っていうのがわかるわけでしょ。次の月になって、やっとお母さんに何かお礼を買ってあげたけれど、最初はそういうことで。おもしろいね(笑)。[03:54:43]
 だからそういう事例をね、あとまだ今も働いてくれてるんだけど、男の子でまったく耳の聞こえない子なんだけど、とか何人か事務にその、区の職員にしました。でみんなやっぱりね、「公務員になれた」っていうんで「よかったね」って言うの、みんな。やっぱり公務員っていうのはありがたいよね。その一応の保障があって。だからそういうふうに見れば、そうやって押し付けてきて、やっぱりもののわかるやつのところに押し付けるっていうので、少し広げる。口でわかる、頭でわかってることが実践できてない人に、実物を押し付けるっていうのは意味のあることだと思います。ちょっとでも話のわかるやつに、「だったら、この人と一緒にやってくれないか」というようなことは意味があると思うの。で、本当はそれがどんどん広まっていって、もうわっぱなんてのはいらなくなるはずだったんだけど、ならない。私もそうやってそうやって、わっぱのxさんに言ってきて。xさんらはそれで何百人のもう障害者とこう付き合って、いろんな人と。私のほうが数えると、あの子とあの子とあの子としか、数でいったら絶対私のほうがもうどうにもなんないほど少ないけれど。うん、でも今でもやっぱり私、私の言うほうが正しいと思ってます(笑)。っていうことばっかり、してました。

A:やっぱりがんばらないといけないですね。

北村:だからがんばる、そのがんばるってのは、がんばらなきゃいけないからがんばるだけじゃなくてね、がんばる張り合いがないとね。張り合いを感じないと。

A:張り合い? 

北村:うん。なんかね、うん、私がその、半分はそれから、何だろうね、自分がやってること間違いないと思ったらやっぱり認めさせたいと思うから、そこは力入れないとしょうがないじゃん。少々のこと我慢して。で、教師たちがやっぱり、他の教師たちが、だからここの地域に住んだなんてことも、相当やっぱり他の教師たちには若干の圧力にはなったわけよね(笑)。だって、そうは言うけどね、ここらへん昔は労働争議の一番盛んなP・エレベーターの跡地だったんだけど、労働争議がしょっちゅうあったとこなんだけどね。あの、子どもが、学校荒れてるときに、もう先生たちはその、あれをなくそうと思うもんだから、服装から何からいろいろ注意したりするじゃない? 髪の毛が長いだのなんだの。そういうときだって、やっぱり地域に住んでると、わりとわかるよ。先生が一所懸命「この髪の毛なんとかしろ」って言ってるときに中に割っていって、「そうだよなあ、君んとこのお父ちゃん、あの今、労働争議やってんだから、ストライキやってるからね、うん、もうすぐボーナス出るよ」って、「ボーナス出たら床屋行くよね」って、わざとその担任が怒ってる前で言ったりできるじゃない。そうするとほら、やっぱり地域に住んでるものとして力をなんか感じるわけだ。怒らないですむわけだ。でその生徒は、本当はそんなこと思ってないんだよ。「給料が出たら髪切ろう」なんて思ってないけれど、言われた手前、ちょっとやってみてくれたりするじゃん。私の顔を立ててくれたりするじゃん。そういうおもしろいことがあった、できた時代ですね。今なかなかそれ、やりにくいよね。うん。

A:中学校入学して間もない時、上級生が先生から叱られている場面で、横を通りすがりに「あかんで」と言ったことがあったんです。先生も生徒もびっくりして、先生は上級生にいじめられないかとても心配されたそうです。でも、上級生が叱られるには原因があって、「あかんで」というのは的を得ている部分もあって、子どもたちの中ではそういうキャラクターとして受け入れられていく。

北村:そういうのやっぱりあるよね。あの、なんだろうね。さっき言ったその、あそこ、Lへ行ってしまった子とかも、あのダウン症の子なんかもね、ほんとに平気でそういうことが、普通のことが言えるんだよ。「何あんた、生徒の分際でそういうことが言える?」みたいなことをね、平気で言うんだよ。それで教師がはっとすることってのは、案外大人がはっとするってことはあるんだよね。普通のことなのに、よけいな忖度をしないもんだから、相手に通じて。しかも、だから、障害児が言うんだから、なんかばかにしていいかげんに聞き流す人もいるけれど、そこでどきっとする人が必ずいるんだよね。なんか素直なかたちで表現してくれるでしょ。


UP:20210621 REV:20220304
北村 小夜  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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