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「1937年の文献にみる2つの睾丸摘出事例と精神医療現場――「救治会」機関紙の座談会記録と『脳病院風景』にある「睾丸有柄移植事件」」

植木 是(大阪大谷大学/立命館大学大学院) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催

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last update: 20200825


質疑応答(本頁内↓)



■キーワード

1937年、精神医療、精神障害者への強制的な医学的介入、睾丸摘出


■報告レジュメ

1. はじめに

日本初の精神科児童病棟は、従来の通説では1952年に、松沢病院から派生した都立梅ヶ丘病院と国立国府台病院で設立された [1] 。しかし、1938年1月に松沢病院に児童病棟が設立されたとする記録がある(堀 1967: 882;清水・杉山 1996: 130) [2]
 1938年の松沢病院では死亡者が増加しているが、それは同年より電気ショックが「ひろく活用され」(岡田 1981 :533)始めていることと重なる。1938年前後の松沢病院の治療に関する資料を調べていくと、前年1937年より松沢病院では電気ショックが「普及し始め」(広瀬 1958: 1341)ており、「ロボトミーの発展が一時頓挫」(広瀬 1958: 1341)している。上にみたことは「本邦では、一九三九年新潟大学中田教授により、ロベクトミーが、つづいて一九四二年前頭葉ロボトミーが行われた」(藤倉 1995: 217)とされてきた従来の通説より以前のことを示す。ただし、1939年を最後に年報『東京府立松沢病院年表』は休刊しており、その年報では1938年前後の詳細は不明であり、その後の病院史でも同様である。
 これを手がかりにさらに精緻にその他資料を調べていくと、1937年の2つの文献、@「救治会」機関紙の「救治会々報 第五十六号」(救治会 [1937] 2016:9-35)、A杉村幹の『脳病院風景』に収録の「睾丸有柄移植事件」(杉村1937:166-169)に、戦前の精神病院では人権無視の加害的な医療行為が横行していたことを漏らす医師の証言が確認できる。東大系の松沢病院と慶大系の戸山脳病院の事例である。具体的には睾丸有柄移植事件のあった1925年以前から、先にみた精神医療の現場では睾丸摘出術が、本人に同意を得ることなく(杉村1937: 168)、外部に漏れることなく(救治会 [1937] 2016: 323)、進められてきたことを示す記述がみられる。
 本稿ではこれら2つの文献にみられる睾丸摘出術の事例に関して詳細をみていく。そして、2つの事例に共通するものを明らかにする。


2. 1937年「救治会」機関紙にみる座談会記録

1937年「救治会」機関紙にみる座談会記録は、東大系の松沢病院の事例を示すものである。

2.1. 「救治会」とは

救治会とは精神病者とその家族を支える慈善団体である。救治会は貧困不遇な精神病者の救治慰安を主な目的として設立された。救治会の設立には、日本の精神医療の父と呼ばれる呉秀三と松沢病院前身の巣鴨病院が大きくかかわっている。事務局は松沢病院に置かれ、理事長制導入にあたっては同院長(東大教授)が兼務してきた。日本の精神医療と松沢病院に詳しい松沢病院元医師の岡田靖男によれば、救治会設立の主意書の筆者名は残されていないが、呉は当時の精神病院における患者処遇の状況に心を痛めており、一般社会に精神病に関する知識を啓発し同情を喚起することを目指していた(岡田 1986: 3-7)。
 救治会の正式名称は、精神病者慈善救治会(1902年)→精神病者救治会(1921年)→救治会(1927年)→精神病者救治会(1929年)、というように変遷する。精神病者救治会は1943年に日本衛生協会、日本精神病院協会とともに精神厚生会に統合される。戦後は日本衛生協会、日本精神病院協会の2つが再興し、救治会のみ再興されていない。

2.2. 「救治会」の機関紙の概要

『精神障害者問題資料集成 戦前編 第10巻』(2016年)に現存する救治会機関誌が収録されており、この機関紙には論説や詩、事業計画・報告や雑報情報等が掲載されていたことが確認できる。なお機関紙第1号は現存しない『心疾患の救護』(1903年)で、最終号・第60号は『救治会々報』(1941年)である。岡田によれば、機関紙の発刊がなくなった1941年から1943年までの会の活動の詳細を知ることはできない(岡田 1986:29)。
 そのなかで、1937年『救治会々報 第五十六号』(救治会 [1937] 2016:315-325)に、座談会の記録「巢鴨時代を語る座談會」(救治会 [1937] 2016:321-325)がある。松沢病院元院長・呉の弟子筋たちによる自由放談である。その内容は、今日知られることがないが、2節1項でみた呉が救治会設立にこめた思い(岡田 1986: 3-7)とはかけ離れた非倫理的な内容である。そこでは患者に対する非倫理的な院内処遇の実態が笑い話として回顧されている。彼らは後に日本の精神医療の指導者として知られるようになる。次項で、その詳細をみていく。

2.3. 1937年『救治会々報 第五十六号』の概要

『救治会々報 第五十六号』は、内村祐之の「就任に際して」(救治会 [1937] 2016: 317)、三宅紘一の「辞任に際して」(救治会 [1937] 2016: 317)、啓発文「精神病による被害は何うしたら防ぐことが出来るか」(救治会 [1937] 2016: 336)等が掲載されている。表紙には「特輯 病的犯罪と其の対策/巣鴨時代を語る座談会……」(救治会 [1937] 2016: 315)とあり、題字「救治会々報」は呉によるものである。ここで筆者が注目するのは「巢鴨時代を語る座談會」(救治会 [1937] 2016: 321-325)の内容である。
 松沢病院の系譜は、東京府癲狂院(上野・養育院内)(1879年)→同(本郷東片町)(1881年)→同(巣鴨駕籠町)(1879年)→東京府巣鴨病院(1889年)→東京府松沢病院(1919年)→東京都立松沢病院(1944年)と辿ることができる。このことから「巣鴨時代」とは、1879年或は1889年〜1919年までを指すと考えられる。
 「巢鴨時代を語る座談會」という自由放談の座談会では、1925年以前から暴れる患者への睾丸摘出術・アキレス腱切除術を呉院長に隠れて実施していたことが暴露されている。
 問題の睾丸摘出の箇所までの座談会の流れは、次のとおりである。
 @呉院長の人道主義・理想主義追求による面倒くさい仕事/弟子たちが生真面目な呉院長を煙たがっていた話→A呉院長に隠れてしていた病院での出来事→B「花」「女」という隠語トーク→C「マラリア接種」という記録について→D睾丸摘出術・アキレス腱切除術が帰国後の呉院長にばれてしまったエピソード(救治会 [1937] 2016:321-324)。
 座談会の出席者・日時・場所は次のとおりである。なお、司会は齋藤となっているが、全体的に内村が質問・進行していく。


巢鴨時代を語る座談會(□括弧で囲い)/出席者/荒木直躬 磯田庄太郎 石橋ハヤ/内村祐之 氏家 信 金子準二/加藤普佐次郎 後藤城四郎 齋藤玉男/松村煙瘁@村松常雄 渡邊道雄/管 修 秋元波留夫 (本曾側)/昭和十一年十月十四日於軍人會館、齋藤玉男氏司會(救治会 [1937] 2016: 321)

上記の出席者のうち、下記でみる内村、氏家、金子、加藤、村松、管、秋元の7名は精神科医である。
 内村(1897年11月12日生 −1980年9月17日没)は、この座談会より2か月程前の1936年7月より松沢病院院長兼東大医学部長に就任しており1949年まで同院長を務める。医療界以外では後に日本プロ野球コミッショナーとなり没3年後に日本プロ野球殿堂入りしている。氏家は、(1882年3月31日生−1949年3月23日没)は、元巣鴨病院医局員、後に松沢病院副院長、座談会当時は東京医科大学教授を務めており、歌人としても有名である。金子準(本稿では後の注釈で「金子嗣郎」が出てくるため、このように記す)(1890年生−1979年没)は、1923年から1942年まで東京警視庁にて精神病院の監督に関わり、また日本精神科病院協会の創設者の中心人物として会長(1953年−1963年)を務め、戦後、精神衛生法(1950年)の制定にも深く関わる。加藤(1888年生−1968年没)は、松沢病院医員時代は呉院長のもとで本格的に精神病患者の作業療法・開放治療をすすめたことで知られ、1925年戸山脳病院長を経て1928年開業、1931年には賀川豊彦らと産業組合法による中野組合病院を創設した。
 村松(1900年4月12日生−1981年8月30日没)は、1950年名大教授、1935年医学部長、1945年には松沢病院梅ヶ丘分院院長となり、のち都立松沢病院副院長、国立精神衛生研究所長をつとめる。管(1901年生−1978年没)は、松沢病院医員(1927年−1931年)を経て芹香院(神奈川県)第二代院長(1931年−1958年)に就任、戦後同院に隣接する県立精神薄弱児施設ひばりが丘学園を開設し初代園長となり、その後国立重度精神薄弱児施設秩父学園(埼玉県)の初代園長、日本精神薄弱者福祉連盟初代会長となり、国立コロニーのぞみの園(群馬県)の開設に尽力した。秋元(1906年1月29日 - 2007年4月25日)は、1935年松沢病院医員、戦後、国立武蔵療養所名誉所長、東京都立松沢病院院長、日本精神衛生会会長、日本精神保健政策研究会会長、きょうされん理事長などをつとめる。このように、「巢鴨時代を語る座談會」(救治会 [1937] 2016: 321-325)は呉の弟子たちで戦前・戦後の精神医療の指導者によるものである。

 座談会の記録には「巢鴨時代の想出/呉先生のことども」(救治会 [1937] 2016:322)という小見出しが付けられた部分がある。この小見出し箇所での発言者(【】内は発言回数)は発言順に、金子準【15】、後藤【4】、内村【12】、斎藤【3】、加藤【7】、秋元【1】、氏家【11】、荒木【5】、石橋【4】、村松【1】、である。なお、秋元、村松は質問・確認程度の発言である。「(笑聲)」がよくみられ、和やかな様子であるが、呉の弟子たちは一貫して呉をよく思っていない雰囲気である。それは、呉が厳格であり、またヒューマニズムを第一としたことが彼らにはうるさく感じられ、彼らなりに日常の医務・仕事を進めていくうえでは呉が目障りな存在でもあったからである。
 「睾丸を抜いた話」(救治会 [1937] 2016: 323-324)という小見出し箇所では、加藤が率先して早発性痴呆患者の睾丸を片っ端から抜いていこうとしていたところ、帰国した呉院長に強く叱責されたことを笑い話にして告白している。発言者(【】内は発言回数)は、順に加藤【4】、金子準【3】、斎藤【1】、内村【1】である。
 ここで重要なことは、帰国して来た呉に「引掛かつた」(加藤)理由が、「睾丸をとるのはいゝんですが、アキレス腱までとつたんだ」(金子準)、「睾丸を除つているうちは分からなかつたが、アキレス腱を除つたので問題になつた譯だね」(金子準)としていることである(救治会 [1937] 2016: 323)。


金子ママ ……呉先生が『君、加藤君が何か手術をしたでせう。足のアキレス腱を切つたらしい。どうふ積りで切つたか』「あの患者の狂暴さには家庭でも困つて居る」と僕がいつたら、先生が『何國かの學説で、艶_病學の方でそう云ふ事を認めて居るのですか』といふから、参つちやつた。あの時位君のお蔭で先生から責められたことはない。(救治会 [1937] 2016:323)

ここで金子は、入院患者の保護者をつとめる呉院長の質問に対して、アキレス腱切除術および睾丸摘出術の医学的根拠を示すことができず、そしてそれらが@治療行為ではなかったこと、つまりA暴れる患者をおとなしくさせるための加害的行為であったこと、を自ら認めているのである。
 加藤の睾丸摘出の根拠にあたる箇所は次のとおりである。「私はデゲネラントは七割の頭を持つものだから體で三割引けばよい。それが私の艶_病對策の根本艶_だ。僕としては松村さんの作業療法と同じことで、俯仰天地にぢずやつたんです」(救治会 [1937] 2016: 323)。またその経緯は加藤によれば、「名古屋の北林さんの仕事から、あの當時早發性痴呆の仕事は此方面から解決出来ると思つた」(救治会 [1937] 2016: 323)ということである。「北林」は北林貞道(精神科医。北林病院、名古屋大学医学部)のことで、その筋から早発性痴呆患者が松沢病院に送り込まれていたことがわかる。そして、松沢病院には「二三百人の早発性痴呆」(加藤)がいたから、「片つ端からとつてやらうと」(加藤)思っていたら、「まだ幾人もとつていないうちに判つちやつた」(加藤)というしだいで各発言の終わりには、「(笑聲)」(救治会 [1937] 2016: 323)とある。それに続いて、金子準が「慶大では早発性痴呆でない患者の睾丸を抜いて早発性痴呆の患者の腕に植え込み身体をくっつけるようなことを慶大外科部長・前田教授が実施していたが病院が揉めて外部に漏れ、事件化したが始末書で済んだ」(救治会 [1937] 2016: 323)と話す。そして、加藤が「慶大より松沢のほうが早いうちからしていた」、「前田氏が僕のセオリーを実行してくれた」と「(笑)」話にして打ち明けている(救治会 [1937] 2016: 323-324)。このような「睾丸を抜いた話」の最後は、睾丸摘出の根拠についての確認・質問で閉じられる。内村が「さうすると睾丸が除るのと、アキレス腱を除るので身體の三十%といふのですか」と尋ねると、加藤は「まあさうです」と一言のみ答えて閉めている(救治会 [1937] 2016: 324)。


3. 1937年『脳病院風景』に掲載された「睾丸有柄移植事件」

戸山脳病院経営者一族で、警察官僚関係者一族としても知られる杉村 [3] による『脳病院風景』(杉村 1937)に、「睾丸有柄移植事件」(杉村1937: 166-169)がある。大正15年(1926年)5月に手術先の戸山脳病院看護人による警察署への投書で発覚した、慶大外科部長・前田教授による大正14年(1925年)6月の出来事(杉村 1937: 166-167)である。先にみた慶大で「事件化」(救治会 [1937] 2016: 324)した出来事である。
 看護人が警察へ投書し事件化したということは、少なくとも人道上、加害的な身体侵襲を伴う治療行為は積極的には許されるべきことでないといういわば当然の良識が当時にも存在していたことを意味する。
 事件の経緯は次のとおりである。「慶應の前田博士が病院に来て……谷口院長立会曾の下に、公費患者……ABの兩人を一體に密着させて手術し、兩人を密着させ……身動きもならぬやうに縛りつけた。所が相手が狂人なのでジツトおとなしくして居る筈はない。三日目には、縄を咬み切つて、離ればなれになり……Aは死亡……Bも本年二月に死亡した」(杉村1937: 166-167)。
 前田の釈明によれば、Aは睾丸の内分泌が多いので精神病者となりBは睾丸の発育が悪い患者のため一挙両得のため結合させた [4] が、これが死の直接の原因ではない(杉村1937: 168-169)ということであった。
 この事件の責任をとり戸山脳病院谷口院長は辞職した。前田は「確かに相手が狂人で同意を得るのが困難であったが動物実験では成功しているし……AもBも一挙両徳である……このようなことが問題となるようなら、我々医学者は新しい手術には一切手出しができず、日本医学の発展はない」(杉村1937: 168-169)という主張で谷口、前田ともに不起訴 [5] となり、少なくとも2人・・・・・・・の患者が死亡したことに関する責任を負うことはなく事件は終焉を迎えた。ちなみに、谷口院長の辞職に伴い、先にみた松沢病院の加藤が院長に就任している。


4. 2つの病院に共通するもの

本節では、2および3でみた睾丸摘出術に共通するものを分析する。
 睾丸摘出術を睾丸有柄移植事件のあった1925年以前から率先して実施してきたと自負する加藤は、この類のことを「……あんなことで引掛るとは思はなかつた(笑聲)。私に言はせれば睾丸をとる位、これ程セオリーに適つたことはないといつて、論文を發表してやり出した」(救治会 [1937] 2016:323)といっている。しかし、加藤の業績及び発刊以来の『(精神)神経学雑誌』(前身含)他、医学会関連の機関紙を調べる限り、日本ではこの類の学会報告、論文発表は一切ない。前田に関してもこの類の学会報告、論文発表は一切ない。そして睾丸摘出術のみならず、睾丸移植術、アキレス腱切除術、についても同様である。
 加藤は「前田氏が僕のセオリーを実行してくれた」(救治会 [1937] 2016:323)と笑い話で打ち明けており、「慶大で事件化した」(救治会 [1937] 2016:323)こと(=「睾丸有柄移植事件」)とそれ以前から実施してきた松沢病院での睾丸摘出術を明確に関連づけている。そのセオリーについて、@慶大系の戸山脳病院の前田の場合は、「Aは睾丸の内分泌が多いので精神病者となりBは睾丸の発育が悪い患者のため一挙両得のため結合」(杉村1937:168)させたとしている。一方、A東大系の松沢病院の加藤の場合は、上司の金子準が「患者が暴れて扱いに困る」(救治会 [1937] 2016:323)からとしており、かつ加藤は「デゲネラントは七割の頭を持つものだから體で三割引けばよい、つまり睾丸とアキレス腱がその三割に当たるからそれを引けばよい」(救治会 [1937] 2016:323,324)からだとしている。
 こうした前田と加藤の考えからは、筆者のように医学・生理学を専攻としない者からみても、加藤のいうように、「加藤と前田が同じセオリー」(救治会 [1937] 2016: 323)であったとは到底汲み取れない。ただし、これら2つの睾丸摘出術に明確に共通しているとわかるのは、患者本位の治療ではなくむしろ患者が抵抗するなかで強制的に行われてきたこと、そして患者に対して加害的な行為であったことである。
 東大系の松沢病院と慶大系の戸山脳病院に重なることは睾丸摘出術とそれに詳しい加藤が関与していることであるが、いずれにせよ、これら2つの病院では患者に同意を得ることなく進められる加害的・身体侵襲を伴う医学的処置が1925年以前から1937年までの間に容認されてきたことは明確である。


5. 厚生省1939年度予算「優生断種制度調査費」に関して

1938年1月に陸軍指導のもと設置された厚生省の政策動向を厚生省資料から要約すると以下のとおりである。

  昭和13年(1938年)は厚生省により「健兵健民」政策が推し進められた(厚生省五十年史編集委員会 1988:344)。また同年以降、厚生省により「民族優生制度」政策が推進されていく(厚生省五十年史編集委員会 1988:457)

厚生省1939年度予算に「優生断種制度調査費」(厚生省五十年史編集委員会 1988:457)とあるが、当時から精神医療のナショナルセンター機能を担っていた東大系の松沢病院との直接的な関係性は不明である。1939年を最後に年報『東京府立松沢病院年表』は休刊しており、また『厚生省50年史』(記述編,資料編)或いは後の松沢病院の病院史・年報にはこの調査の詳細は記されていない。これに関して、松原洋子の論文「戦後期日本の断種政策」によれば、1939年度に「優生断種制度調査費」2万円により、各種精神病家系調査、精神薄弱者の調査、一定地域別の全住民の精神健康調査が実施されたことが明らかにされている(松原 1998:97)。
 岡田は当時について「断種法が大きくとりあげられる時代になっても、確固とした臨床・・・・・・・遺伝学的研究は日本にはまだなかった」(岡田 1997:289)(傍点、筆者)としている。
 しかし、岡田のいうように「確固とした臨床・・・・・・・遺伝学的研究」と到底呼べるものではなく、また断種法ではなく去勢法に相当するものではなくとも、精神病院で行われてきた睾丸摘出術は「確固とした臨床・・・・・・・」の痕跡である。先にみた東大系の松沢病院では加藤、慶大系の戸山脳病院では前田の事例である。
 松沢病院・加藤の場合は、@慶大での同様のようなこと、すなわち前田の1925年の事件「睾丸有柄移植事件」が、1937年に事件のあった戸山脳病院の経営者一族かつ警察官僚の杉村の『脳病院風景』で世間一般に公開される流れにあったこと、そして5節でみたようにA1938年以降、厚生省により「健兵健民」政策、「民族優生制度」政策が推進されていく流れがあったこと、の2点を背景にして、救治会の1936年座談会「巢鴨時代を語る座談會」が、1937年『救治会々報 第五十六号』で公開され、明らかにされたものと思われる。
 1節および2節でみた1937年の2つの文献からは、東大系の松沢病院と慶大系の戸山脳病院の精神医療に共通する医学的処置として、@本人(及び保護者)の同意を得ずして進められる加害的・懲罰的な意味合いをもつ「睾丸摘出」があったこと、A加藤の証言から少なくとも睾丸有柄移植事件の1925年以前から松沢病院では「睾丸摘出」が実施されていたこと、の2点がわかる。


6. 本人同意のないまま強制される医学的管理――強制実施された睾丸摘出術

救治会座談会で松沢病院の場合は「呉にばれて・・・しまった」、慶大の場合は「病院側と揉めて外部に漏れて・・・・・・・・・しまった」と漏らしているように(救治会 [1937] 2016:323-324)、これらの医学的処置は実際に医師の権威により進められてきたものの、「ばれないように」或いは「漏れないように」進めざるを得ないうしろめたさがその医師には確かにあった。それは、金子準の「あの患者の狂暴さには家庭でも困つて居る」(救治会 [1937] 2016:323)という呉に対する苦しい弁明からも明らかである。また、前田が狂人を相手に同意を得られないことから「徳義上・・・、責任を感ずる」(杉村1937: 168-169)(傍点筆者)と漏らしていることからも明らかである。たとえ建前上・・・ではあっても本人の同意を得ることは求められていたのである。
 加藤及び前田による強制的な睾丸摘出のような事件を惹き起こした動機の背景として、古来からの刑罰・懲罰的な意味合いのほか、当時の性ホルモン分泌腺が精神や行動の変容と関係しているという動物実験仮説の影響も考えられる。しかしながら、世間一般には精神病院入院患者に対して本人同意のないまま睾丸摘出術が進められていたことは、1937年の2つの文献が世に出るまで知らされないままであった。当時、慶大・前田による「睾丸有柄移植事件」は、新聞紙では取り上げられていない。繰り返すが日本の医学会(日本神経学会等)においても、この種の睾丸摘出術に関する研究報告は今日に至るまでにない [6] 。しかしながら、確かに松沢病院の金子準の苦しい弁明にもあるように、暴れる患者をおとなしくさせるために強制的に、加害的かつ懲罰的な意味合いをもって実施されてきた睾丸摘出術の事実が確認できるのである。


7. まとめ

1937年の2つの文献(救治会 [1937] 2016; 杉村1937)では、日本において睾丸摘出術は少なくとも睾丸有柄移植事件があった1925年以前から、もっといえば──救治会座談会にある「巣鴨時代」とは2節3項でみたように1879年或は1889年〜1919年までを指すため──1919年以前から外部に知られることなく実施されてきたことが明らかである。それは去勢のためであれホルモン分泌異常を正常化するためであれ、あるいは断種のためであれ、1937年に世間一般に公開された過去(=1925年以前、1919年以前)の出来事であった。そして、それらは先にみたように本人・保護者の同意を得ることなく強制的に処置されてきたが、睾丸有柄移植事件を転機に、より一層、暗黙の了解事項として精神障害者への強制的な医学的介入が不問とされる流れがあったため、1937年に2つの文献が公開されることになったと考えられる。つまり、「救治会」機関紙と『脳病院風景』の公刊の背景には、外部に公然として知られてはまずい事実をそろそろ公開してもよい気運にあるという学界の判断があったと考えられる。同年に『脳病院風景』を出版した杉村が睾丸有柄移植事件のあった戸山脳病院経営者一族かつ警察官僚であったことも、何らかの影響を与えていた可能性がある。
 このように戦前1930年代以前から、本人・保護者の同意を得ることなく進められてきた大きな身体侵襲を伴う院内処遇は、1938年厚生省設置を背景にした医学的管理体制の一環として、引き続き黙認・容認されていく流れにあった [7] 。しかしながら、この種の医学的管理は、やはり患者本位の治療とは到底いえない。現在でいえば当然に大きな人権侵害事件であり、施設内虐待事例に相当する。
 睾丸摘出術及び子宮摘出術に関して、1940年国民優生法、そして戦後の精神病院のみならず障害児者施設でも行われてきたこととの関連など、それら詳細及びその後の流れの検討については今後の課題とする。そして本稿冒頭でふれた、1938年松沢病院に児童病棟が開設された頃の病院精神医療との関連などについても同様に今後の課題としたい。



文献




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■質疑応答

※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。

◆立岩真也 2020/08/26

以下は会員としての立岩の植木さんへの質問です。

記述され公開されるべきできごとについて書かれており、価値あるものと思います。それで、ですが、
「3. 1937年『脳病院風景』に掲載された「睾丸有柄移植事件」のその手術なるものがにおいていったい何がなされたのか、「兩人を密着させ」とあったりするのですが、よくわかりません。説明可能であればしていただけるとありがたいです。

 なお9月19日付の版が報告ということになります。1)質疑応答の部分にやりとりは記載したうえで、報告本文に説明を付加していただいても、2)報告はそのままで、質疑応答に説明を記載するだけ、でもどちらでもかまわないと思います。

 ※会員宛メールは会員が誰でも発信・配信できるという設定にはなっておりません。そのことには一定の合理性があります。そこで植木さんによる返信は(今回は偶々質問者でもある)このメールの発信者で大会HPを管理している立岩にお願いすることになります。それを私のほうでHPの
http://www.arsvi.com/2020/20200919un.htm#qa
に掲載します。

◆植木是 2020/08/26

⇒立岩様、ご質問ありがとうございます。わかる範囲で、お伝えさせていただきます。

@ご指摘いただきました「兩人を密着させ」の前後がわかる杉村(1937)の引用は、下記のとおりです。よろしくご参照ください。
「一、看護人より所轄警察署への申立、(原文ママ)/ 大正十四年六月、慶應の前田博士が病院に来て、谷口院長立会曾の下に、公費患者、ABの兩人を一體に密着させて手術をした。すなわち、Aの腰部に、Bの右腕を縛りつけ、Aの陰嚢を切開して、肉體から脱離せずに、睾丸に煙nのついたまゝ、Bの右腕を切開して、その中に睾丸を移植し、兩人を密着させて、身動きもならぬやうに縛りつけ、十日間を經過させようとした。所が相手が狂人なので、注文通りに、ジツトおとなしくして居る筈はない。三日目には、縄を咬み切つて、離れ?になり、Aは死亡した。Bも本年二月に死亡した。Bの死體は、腦漿の一部と睾丸とを摘出して、引取人に渡した」(杉村 1937: 166-167)(下線部、筆者)

Aちなみに、上記@後半にあるように「Bの死體は、腦漿の一部と睾丸とを摘出して、引取人に渡した」(杉村 1937: 167)とあります。気になるところですが、?遺体から脳漿の一部と睾丸を摘出する理由、そして?引取人への説明責任、については、杉村(1937)には一切記載がありません。

Bこの事件について、当時の新聞記者も黙ってはいられなかった様子がわかります。以下の杉村(1937)の引用をご参照ください。
「検事局に於て取調の結果、前田谷口両氏とも、不起訴に了つた。/ この事件の起つた當時、某大新聞の記者は、私に面會を求めて、/「院主としての責任を如何するか。」/と見幕鋭く詰寄つた」(杉村 1937: 169)(下線部、筆者)

 しかしながら、某大新聞の記者は院主の杉村=警察権力からの報道圧力にあっており、結果的に、新聞報道はできなかったという経緯がわかります。次のとおりです。
 「私は醫療の事は一切わからぬ。又院長がさうした事を醫者でもない私に相談すべき筋合でもない。従つて此事件のあつた事も、今度はじめて聞いた譯だ。これ以上の御答へは出来ない」/ 私は斯く答へただけであつた」(杉村 1937: 169-170)(下線部、筆者)

以上、よろしくお願い申し上げます。

◆本多創史 2020/08/27

 玉稿を拝読いたしました。大変興味深い内容で勉強になりました。
 二点、確認させてください。

「しかし、岡田のいうように「確固とした臨床遺伝学的研究」と到底呼べるもの
ではなく、また断種法ではなく去勢法に相当するものではなくとも、精神病院で
行われてきた睾丸摘出術は「確固とした臨牀」の痕跡である。先にみた東大系の
松沢病院では加藤、慶大系の戸山脳病院では前田の事例である。」

 とありますが、ここで「去勢法に相当するものではなくとも」とはどのような
意味でしょうか。文脈における意味をご教示願えれば幸いです。
 また、去勢と睾丸摘出は一般に同義だと思いますが、それであっておりますで
しょうか。

 どうぞよろしくお願いいたします。

◆植木是 2020/08/27

ご質問ありがとうございます。ご指導ご鞭撻ありがとうございます。
下記、よろしくお願いいたします。

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@>>ここで「去勢法に相当するものではなくとも」とはどのような
意味でしょうか。文脈における意味をご教示願えれば幸いです。

・すみません、おかしなことばづかいでわかりにくくて、失礼いたしました。
・筆者が言いたかったのは、この種の睾丸摘出は「去勢法に相当するものでも、もはやなく」という意味合いでした。
このようにして病院がやってきた睾丸摘出は、実際には、患者をおとなしくさせる、いうことをきかせるための手段であったのではないか、刑罰的・懲罰的な加害行為としてしかとらえることのできないものであったのではないか、そういったものも含まれていたのではないか、
ということが、筆者は言いたかった、ということでよろしいでしょうか。


?>>また、去勢と睾丸摘出は一般に同義だと思いますが、それであっておりますで
しょうか。

・はい、仰せのとおりと存じます。



*頁作成:岩ア 弘泰
UP: 20200825  REV: 20200826, 27, 29
障害学会第17回大会・2020  ◇障害学会  ◇障害学  ◇『障害学研究』  ◇全文掲載
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