現代の日本における多言語化・多文化化の進行には論を待たない。2019年6月末の日本における在留外国人の人口は282万9,416人(法務省出入国在留管理庁 2019)となり、過去最高を記録した。また、障害者が多文化化の一構成員である可能性にも着目する必要がある。さらに、障害のある外国人がいわば「複合したマイノリティ性」をもって日本において生活していることも考慮する必要性が生じている。
そうした状況においては、心身機能の制約としてのインペアメントについても、医学的な側面のみならず文化的な側面に着目(松岡 2018; 宮崎・松岡 2020)すると、文化の多様性に着目してきたダイバーシティにかかる研究の対象となりうる。松岡克尚は、障害当事者がインペアメントと環境の交互作用により紡ぎだす生存戦略によって構成されるものを「インペアメント文化」と称した(松岡 2018)。この点を踏まえると、民族や社会階級、そしてジェンダーなどに着目してきた「ダイバーシティ研究」と障害学の接点を、より積極的に模索する必要性も考えうるのではないだろうか。その場合、ダイバーシティ研究における比較的「新しい概念」の、インペアメントにかかる問題への適用の可否を批判的に論ずる必要性も生じるのではないだろうか。
以上の背景と問題意識を踏まえた本報告の目的は、現代の世界における情報化とグローバル化による多様性の複雑化を指した概念であるsuper-diversity(註1)(Vertovec 2007; 2019)が日本の障害者をめぐる課題にかかる議論へ貢献する可能性を検討することである。
本報告においては、まずsuper-diversityの概念の背景と定義を述べる。続いて、研究の方法を述べる。次いで、文献研究の結果として、欧州における議論と日本における議論から、super-diversityとインペアメントの関係性について述べる。そして、super-diversity概念の障害当事者にかかる問題に対する応用の可能性を検討し、これを「考察」とする。最後に、議論の総括と積み残された課題を示し、これを「結論」とする。
社会人類学者のSteven Vertovecは、英国を主な念頭に置き、移民の出身国の多様化と様々な変数の増加により、従来の移民研究のフレームワークでは説明できない状況が発生していることを指摘した (Vertovec 2007) (註2)。また、単一の変数に基づく比較による研究の限界を示唆し、新たなる方法論の確立の必要性に言及した(Ibid.)。そして、こうした現象を説明すべくsuper-diversityという用語を提唱した。
移民の言語使用の研究にこの概念を採用している研究者として、言語学者のJan Bloommaert (2010; 2013) が挙げられる。Bloommaert (2013: 6) は、「これがsuperdiversityである。それは3つのキーワードで示される:移動性、複雑性、そして予測不可能性である。」(Blommaert, 2013: 6) (註3)と述べた。例えばベルギーにおいては、冷戦前、冷戦後、そして現在と、移民の出所が多様化し (Blommaert, 2013: 4-5)、情報通信技術(インターネットやWeb2.0など)がこの傾向を加速させている (Ibid.)という。移民が家庭内の会話においては母語を用いつつ、衛星放送を通じて英語のメディア(BBC WorldやMTVなど)に触れている(Blommaert 2010: 6-12)、という現状がある。
ここまで述べてきたsuperdiversityの概念において、インペアメントが変数として言及されたことは管見の限りにおいてはない。ここでいうdiversityの変数は、第一に民族ないし国民性であり、そこに言語が付随するものと考えられる。そもそも、インペアメントがダイバーシティの範疇に含まれるか否かという議論が成立しうるわけで、この点を注視せずにして語頭に「スーパー」が付されるダイバーシティにおけるインペアメントの注目可否を論ずることは困難である。しかし本論では、日本におけるダイバーシティの言説に障害当事者が含まれている現状を踏まえて、以下の議論を進める。
「1 研究の背景と目的」に示された問題意識に基づいて既往文献をもとに論点を整理すべく、文献研究を実施した。具体的には、super-diversity概念を学術論文としては最初に提唱した論文であるVertovec (2007)を起点とし、この概念をソーシャルワークに応用したBoccagni (2015) およびVan Robaeys et al. (2018) や、英国における障害学を代表する雑誌であるDisability & Society誌に掲載されたsuper-diversity関連論文の Burns (2017) およびDuda-Mikulin et al (2019)を精読した (註4)。
さらに、日本における研究動向を把握すべく、CiNiiにおいて’superdiversity’ 、「超多様性」、そして「スーパーダイバーシティ」の検索語により検出された文献(註5)の中から、Vertovecが提唱した概念としてのsuper-diversityに言及している文献を参照した。具体的には加納(2016)や三宅(2016)、そして坂本・湯川(2017)である。
以上の文献研究により、欧米における議論と日本における議論の比較および論点の結合を試みた。
Vertovec (2019)はsuper-diversityに関する325件の論文に対してレビューを実施し、多様な学術分野がこの概念を取り扱っていることに言及した。報告者がこの結果を解釈するところでは、地理学、移民研究、そして社会言語学においてはsuper-diversityが相対的には盛んに議論されている。その一方で、障害学との関連性が強い社会政策・公衆衛生においては研究の蓄積があるものの、障害学との親和性をいくらか有しているソーシャルワークにおいては手薄である。以下、主な論点を概略する。
ソーシャルワークにおいてsuper-diversityが一切議論されていないわけではない。例えば、Boccagni (2015) はエスニックマイノリティへを対象としたソーシャルワークを念頭において、ダイバーシティがディスアビリティを含む様々な変数への注目を促す概念である (Boccgani 2015: 610) ことを指摘した。ただし、super-diversityについては、必ずしも顕在化しているわけではなく、地域差がある(Boccgani 2015: 618)。また、Bea Van Robaeys et al. (2018)は、ベルギーのゲント市における福祉施設を対象としたエスノグラフィーを実施した。この施設におけるクライエントの国籍はきわめて多様である。多文化が進行する都市においては、クライエントも多様化していることから、super-diversityの概念はソーシャルワーカーが直面する課題の顕在化に有用であるという (Van Robaeys et al. 2018: 284)。ただし、これらの文献が積極的にインペアメントに着目しているわけではなく、むしろ多文化化・多民族化の最中にあるクライエントとソーシャルワーカーの関係に焦点をあてている。
英国における障害学を代表する雑誌であるDisability & Society誌にはsuper-diversityを取り扱った論文が、管見の限りにおいては2本刊行されている(本稿執筆当時)。Burns (2017) は、移民研究(migration studies)と障害学の交差を、ヘルスケアを例とした市民権へのアクセスの問題に求めた。また、国際機関における障害のある移民への認識は各々の機関によって濃淡があるという。Duda-Mikulin et al. (2019)は、移民研究と障害学は、移民も障害者もサービスへのアクセスが制限されている点において、相互対話が可能であると考えた。移民も障害者も、統計化が困難(Duda-Mikulin et al. 2019: 10)であり、また、新自由主義的レトリックにおいては最も周縁化された存在(Duda-Mikulin et al. 2019: 17)である。
以上の論点を整理すると、「現象の多様化」と「権利へのアクセス」という二つのキーワードに集約できる。つまり、個々の移民を構成する変数が多様化し、障害者においても同様なのである。そして、障害者と移民は権利へのアクセスにおける不利益を共有しており、そのことがダイバーシティの複雑化―つまりsuper-diversityの進行―によって浮き彫りになったといえる。
Super-diversityの応用範囲は幅広いが、日本においては社会言語学における動向の一部として紹介される傾向が強い。そして、インペアメントに着目した議論はsuper-diversityの文脈においては管見の限りなされていない。この背景には、加納(2016)や三宅(2016)、そして坂本・湯川(2017)が、super-diversityの概念を、「3.Super-diversityの概念」にて述べたように移民による言語使用の分析に応用したBlommaert (2010; 2013)の引用により紹介している事実があることが考えられる。よって、以下の議論は社会言語学および言語教育の文脈に依拠する面が多いという点を先に断っておく。
三宅和子は、super-diversityの進行による人間のアイデンティティ形成への影響に言及している。そして、次のように述べている。
また、加納(2016)はコミュニケーションにおけるマルチモーダル化(コミュニケーションのモードの多様化)の進行による、バイリンガリズム研究における「『国境』という制約に縛られないコミュニケーションの劇的な増加に伴い、コミュニケーションにおける言語及び記号システムの混用が世界的に増大するなかで、『国民国家』と密接に結びついた『個別の言語』や『国語』という伝統的な概念を疑問視する研究が増加」(加納2016:6)しているという動向に言及している。このことを障害当事者の世界に当てはめると、手話や点字を巡る状況を注視せざるを得ない。日本手話の母語話者としての日本のろう者の言語使用についても、複数の手話を用いるろう者や、文字言語を複数用いるろう者などが存在する。いわゆる視覚障害者についても、点字を用いる者とそうでない者がおり、音声言語への活用の度合いも多様であるといわれる。視覚と聴覚を用いたコミュニケーションのあり方は個人によっても異なり、インペアメントがそれを左右していると考えれば、障害当事者の言語コミュニケーションはsuper-diversityの文脈において検証されうるともいえる。
坂本・湯川(2017:68-9)において坂本光代は、super-diversityのキーワードを「共愉」(Conviviality)と「一様化」(Entropy)に設定している。前者は「色々な多様性が同時に発生して、同じ社会の中にうまく協調している」(坂本・湯川 2017:68)状態であり、後者は「多様性の中にもやはり共通項、共通しているパターンというもの」(坂本・湯川 2017:70)である。この考え方は、障害学の文脈に当てはめれば、障害者と非障害者の現実上のコンフリクトに目を向けづらくなるという点で、一種ユートピア的な考え方とも言える。しかし、「共生」というキーワードの実現に向けて一種の着地点を見出すために、カテゴライズされた多様性を一旦尊重しよう、と考えるのならば、思考様式としては現実的かもしれない。
以上、少数ではあるが日本におけるsuper-diversityを巡る議論を概観した。
ここまで、欧州と日本におけるsuper-diversityの議論を整理した。従来的なダイバーシティの度合いでいうと、日本は「移民国家」を多く抱える欧州に比べれば「低い」度合いに入るかもしれない。しかし、身体の多様性を変数として加えれば、日本も元来からダイバーシティの存在する国であった、と考えられなくもない。その鍵は、「言語使用」―つまりコミュニケーション手法の差異である。
その変数は限定的であったが、交通や情報通信技術の発展がそこにある種の風穴を開け、それまでアクセスが困難であった情報や価値観への接触が可能となった。そのこと自体が、日本の障害当事者をsuper-diversityに取り込みつつあるかもしれない。
日本に限った問題ではないが、super-diversityを促進した因子をグローバリゼーションや情報通信技術の発展などに求めるならば、障害当事者がそれらの恩恵からかつて排除されてきた歴史的な背景を無視するわけにはいかない。そして、障害当事者の、ヒト・モノ・カネ・情報の移動への参加の制約が一部分であるにせよ継続している以上は、障害当事者がsuper-diversityに包摂される度合いも限定的であると考えることもできる。その一方で、前述の通り、インペアメントを変数のひとつとして考慮することが可能になれば、super-diversityにおける包摂はすでに一定なされているともいえる。
日本は『障害者の権利に関する条約』を2014年に批准し、いわゆる『障害者差別解消法』により障害者の社会参加の、従来に比べれば強い法的根拠を定めた。それにより、super-diversityへの参加が促進されると考えることもできる。
しかし、それにはアクセシビリティの強化が前提となる。この点について障害当事者・非障害者の双方が日本におけるアクセシビリティの歴史と現状を踏まえることで、super-diversityの潮流における日本の障害者の立ち位置を相対的に見直すことが可能となるであろう。
以上を踏まえれば、super-diversityという概念の「輸入」は、いわゆる「日本人」といわゆる「外国人」の双方を含む日本の障害者・非障害者に対して「アクセシビリティの批判的検討」という課題を改めて突きつけているともいえる。
また、super-diversityの状況における障害学のあり方については、実態把握や方法論の整理にかかる課題を無視するわけにはいかない。三宅和子はsuper-diversityが社会言語学の方法論に投げかける課題を指摘した。つまり、「スローガンが先行し、整理されるべきことや、地道で精緻な研究や、研究方法の相互研鑽がそれに追いついていないのではないかという危惧」(三宅 2016: 103)である。障害学は、これまでその轍を踏んでこなかっただろうか。社会モデルを巡る議論の混迷(e.g. 杉野 2007)もそのひとつと言えよう。こうした自省を込めつつ、多様性の複雑化における障害当事者の立ち位置を論じる必要がある。
折しも、2020年においては新型コロナウイルス感染症の影響により、障害学会を含む多くの知的コミュニケーション機会が、世界的にオンライン化を余儀なくされている。これは、ある側面においては、知的交流が国境を超えやすくなったともいえる。日本在住の研究者が、日本にいながらにして国際学会に参加するという状況が発生している。この実態は、障害当事者にとってもマルチモーダルな国際交流をある面では容易にしている。しかし、オンライン交信システムのアクセシビリティには様々な課題があることから、交流を困難にしている側面も見逃せない。
本報告においては、super-diversity概念の障害当事者への応用の可能性を論じることによって、日本の障害者に対する情報通信技術や多言語・多文化化へのアクセシビリティの強化の必要性を明らかにした。つまり、表題の「Super-diversity(超多様性)は日本の障害当事者を包摂するか」について現時点における回答を述べるとすれば、「合理的配慮によるアクセシビリティの促進によって可能となる」となる。尤も、ダイバーシティ研究がインペアメントに関心を払わなかったのか、障害当事者コミュニティがダイバーシティに含まれることを拒否してきたのか、という問いは残る。この点については歴史的な検証も必要になるであろう。
そして、ここまで述べた論点の問い直しと、「ダイバーシティ」概念の更なる多角化によって、障害学とダイバーシティ研究の双方が、現実社会における諸現象を分析するにあたっての方法論と理論の深化を図らなければならないであろう。Super-diversityはその問題提起への一つの契機となりうる。
本報告にかかる研究は、「日本社会学会倫理綱領にもとづく研究指針」、「日本社会福祉学会研究倫理指針」、そして、報告者が所属する大学における倫理規程の遵守のもとに実施された。とくに、文献引用については自説と他説を峻別し、著作権およびプライバシーの保護には最大限の注意を払った。なお、開示すべき外部研究資金の所在および利益相反(COI)に関する情報はない。