「大久保製壜闘争の生起と展開――「福祉モデル工場」で何が起こったのか」
兵頭 卓磨(立命館大学大学院先端総合学術研究科) 2020/09/19
障害学会第17回大会報告 ※オンライン開催
last update: 20210807
■キーワード
大久保製壜闘争,障害のある労働者,労働争議,福祉モデル工場,虐待・差別事件
■報告レジュメ
はじめに
(1)問題の背景
大久保製壜闘争(1975-1997) は、障害のある労働者たちによる初めての本格的な労働争議として象徴的だが、その具体的な史実については、これまで学術的に明らかにされていない。障害のある労働者に関わる労働争議の歴史に関する先行研究には、例えば橋本宏子(2004)がある。橋本は、1996年5月15日、滋賀県神崎郡五個荘町(現滋賀県東近江市)の民間会社であるサン・グループが経営する肩パッド製造工場の社長であった和田繁太郎が、同社の従業員である知的障害者への虐待と障害基礎年金の横領を繰り返していた容疑で逮捕されたサン・グループ事件に着目した。その論考の中で、同事件をめぐる訴訟と行政による危険防止責任について明らかにした。こうした橋本の研究のように、社会福祉学や法律学の領域の視点から、障害のある労働者を雇用する企業で発覚した虐待・差別事件に端を発した労働争議を調査した研究や判例報告が存在する。
一方、大久保製壜闘争の場合も、就労現場での障害のある労働者への虐待・差別事件に関する古い歴史として知られている(野沢2009)。働き続けることを求めて闘争を生起させた障害のある労働者たちの主張には、障害者を排除してきたこれまでの就労現場や行政、障害者雇用政策の問題点を浮き彫りにし、それを変革していく重要な論点が含まれている。加えて、実際の争議行為には、彼らが心身障害者であるがゆえの困難を極めたと推測されるが、現在のところは、この点についての学術的な検証が十分に行われていない。そのため、一見それまで日本国内の就労現場で、主要なアクターとはみなされていなかった町工場で働く障害のある労働者たちにより、闘争が生起した背景には何があったのかを明らかにすることは、社会運動史研究上の意義として大変重要である。
(2)本報告の仮説と目的及び研究方法
本報告の仮説として、恐らくは株式会社大久保製壜所(以下、大久保製壜所)で当時多数雇用されていた障害のある労働者を取り巻く就労実態が、のちの闘争の生起に深く関連したと考えられる。
本報告の目的は、大久保製壜所で当時多数雇用されていた障害のある労働者を取り巻く就労実態が、のちの闘争の生起にどのように深く関連したのかを検証するために、同社の創業の経緯から辿り、実際の闘争の生起に至った要因を明らかにし、それらとの関連性を考察することである。
本報告では、大久保製壜所(1998)が発行した『50年のあゆみ』や大久保製壜闘争支援連帯会議(1985)が発行した組合誌、高杉晋吾(1977)の著書などを調査・検証し、テクスト分析を試みる。さらに、同闘争の当事者である杉田育男・長崎広(2017)へのインタビューの掲載記事も参考にして記述する。
第1章 大久保製壜所の成り立ち(1919年から1947年まで)
(1)大久保鐡蔵と大久保製壜所の創業
大久保鐡蔵(以下、鐡蔵)は、それまで続いた第1次世界大戦に乗じて、日本が未曾有の経済繁栄を実現していた1919年頃、「関東を代表する硝子会社であった神奈川硝子工業所(現株式会社野崎硝子製造所)に壜吹き工として勤め、社長の野崎愛之助にも目をかけられるほどに、その技術を高く評価されていた」(株式会社大久保製壜所1998:42-43)。ガラス壜自体の需要が高まる中、半人工の製壜機を新たに導入する会社が徐々に増加してきていた実態も当時としてはあったが、それでもなお人工吹きの技術を頼りにせざるを得ない状況であった。このときの「鐡蔵の並外れた肺活量は、人工吹きには天賦の素養であり、加えて彼の職人気質の集中力が、壜吹き工としての才能を一気に開花させていった」(株式会社大久保製壜所1998:43)。
のちに鐡蔵は、自身と同じく横浜生まれの土志田ミネ(以下、ミネ)との結婚の意思を両家の両親に伝えた。ところが、鐡蔵の母おきんは2人の結婚に反対し、周囲に説得されるたびに頑なな態度をとって、ついには土志田家の近所までわざわざ出掛けて、根も葉もない噂を流してしまった。それを見かねたミネの父亮平は、2人の結婚に対する意思が強く明確であることを確信すると、「この町にいたのでは、2人が所帯を持つことなど、とてもできない。大阪は放出(はなでん)の、外島東ガラスという会社に私の知り合いがいる。彼に頼めば、鐡蔵さん1人ぐらいはなんとかなるだろう。外島東ガラスにしても、鐡蔵さんのような人材は喉から手が出るほど欲しいにちがいない。大阪で所帯を持ってはどうか」(株式会社大久保製壜所1998:43)と提案を申し出た。亮平のこの申し出によって、2人は大阪への駆け落ちを決意した。鐡蔵23歳、ミネ16歳を迎えた春の出来事であった。
1925年6月、初めての子供を授かったミネは、経済的余裕が出てきたことを理由に自分たちの家を構えたいという鐡蔵に対して、「それは横浜に帰ってから会社を作るときの資金にとっておきましょう」(株式会社大久保製壜所1998:44)と語るのであった。年が明けて1926年1月、円満な新婚生活を送っていた鐡蔵夫婦は、ミネの父良平の死という突然の訃報に接して呆然となった。死因は脳溢血であった。この亮平の死がきっかけとなり、鐡蔵は独立への意志を固めた。さらに、この年の4月に長男の実が誕生したことによって、その意志はより強固なものになっていった。
1928年4月、「鐡蔵一家は東京に居を移した。向島の業平町に溝呂木(みぞろぎ)硝子という会社があった。鐡蔵はとりあえずそこに就職し、社宅に住むことになった。(中略)独立するなら横浜か東京と、鐡蔵は決めていた」(株式会社大久保製壜所1998:45)。これに対して、「今は時期尚早、もう少し様子をみたほうがいい」(株式会社大久保製壜所1998:45)と冷静に説得に当たったミネの主張との妥協点が、この結果であった。その頃、2歳を迎えていた長男の実は、鐡蔵の家にしばしば遊びに来ていたミネの弟の土志田末吉に大変可愛がられていた。そうして2年が経った1930年の春、「鐡蔵はいよいよ独立することになった」(株式会社大久保製壜所1998:46)のである。
鐡蔵は、「向島からさほど遠くない東葛飾郡四ツ木町にある高瀬硝子の工場の一角を借りて、硝子壜の製造を始めたのである(中略)が、しかし残念ながら鐡蔵は経営者としての才覚に乏しかった」(株式会社大久保製壜所1998:46)。そのため鐡蔵は、前年の8月に来日したドイツの飛行船である「ツェッぺリン号を模した壜を作り、これにジュースを入れたら評判を呼ぶだろうと考えた。(中略)事実、このジュースは子供たちに好評で、問屋からの注文も殺到した」(株式会社大久保製壜所1998:46)のであった。しかし、「既にこのアイデアはほかの会社が意匠登録していた(中略)ためにわずか3カ月で製造中止を余儀なくされた揚げ句、賠償金まで取られる羽目になり、ついには工場閉鎖に追い込まれること(中略)となり、再び一介の壜吹き工にもどった」(株式会社大久保製壜所1998:46)。
1931年11月、「鐡蔵は本所の横川橋3丁目にある関岡硝子に就職し」(株式会社大久保製壜所1998:46)、「その2カ月前に、ミネの兄彦治が事故で亡くなった(中略)ことで、年老いた母を養う責務は末子の末吉にかかってきた」(株式会社大久保製壜所1998:46)。そこで、「鐡蔵に勧められて末吉もまた関岡硝子に就職することになった。これが、後の大久保製壜所の名番頭、土志田末吉が誕生するきっかけとなったのである」(株式会社大久保製壜所1998:47)。そうして「強力な片腕を得たことで、鐡蔵の中に、前にも増して、独立への旺盛な意欲がふくらみはじめた」(株式会社大久保製壜所1998:47)。
1934年2月、「鐡蔵は向島の吾嬬町西5の33(現中居堀国民銀行裏)にある松島タドン屋の住居付きの工場を借り、独立の準備に取り掛かった。そのころ、本所石原1丁目の岡田硝子に勤め先を移していた末吉も、鐡蔵の新たな事業に参じることになった」(株式会社大久保製壜所1998:47)。そして、同年2月12日、鐡蔵を創業者とする大久保製壜所が設立された。現在の大久保製壜所は、こうした小さな町工場から始まった。
(2)株式会社への改組
大久保製壜所はその後、順調に事業規模を拡大させた。1935年には従業員を8人に増員し、翌年には工場を移転し、従業員を10人に増やした。さらに1939年には、従業員が20人にまで増加した。その頃は「短期間に受注が増加し、(中略)半人工硝子業界で活躍している主立った人たちが集まっていた。まさに順風満帆の日々が続いていた」(株式会社大久保製壜所1998:50)。しかし、1931年9月に勃発した満州事変を皮切りに、当時の日本は戦争への道を突き進み、いよいよ臨戦態勢を取り始めると、1938年3月に、国家総動員法案が、第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出された。これに伴い、同年6月、日本硝子工業組合連合会が設立された。統制諸物資の統制団体となった硝子組合は、「板ガラスを除くガラス製品のすべての生産が一元的に統制を受けることになった。やがてそれは企業の整備統合へと急変し、同時に製品の規格統一、共同販売が強制されるようになるのである」(株式会社大久保製壜所1998:50-51)。
戦争の拡大は、たちまちにして国内物資の不足をもたらした。そして1943年、先の整備統合を通じて、東京では新たに6つの製壜会社が誕生した。このとき「大久保製壜所は、この中の東京興亜硝子壜工業の傘下に置かれ、同社向島工場の看板を掲げて、鐡蔵はその工場長の地位におさまった。しかし当時の混乱した社会情勢の中で壜の製造もままならなくなり、(中略)いくつかの工場を転々とし」た(株式会社大久保製壜所1998:52)。その頃、「けたたましく警戒警報が鳴り響くと、ほとんど同時に米軍のB29型爆撃機から落とされる焼夷弾の雨が東京を襲った」(株式会社大久保製壜所1998:52)。1945年3月10日未明のことであった。死者8万人、罹災者100万人超えを記録した東京大空襲により焼け出された大久保一家は、8人の子供を含む総勢10人で、その日の生活を送るのがやっとの状態であった。そのような中、福島県郡山にある末吉の妻の実家に疎開することになった。これに土志田一家も加わり、総勢16人という大所帯となったため、その苦労は計り知れなかった。
一方、長男の実は、1943年頃に、中学生の身で朝比奈鉄工所に学徒動員に駆り出されていたときに出会った更科京子(以下、京子)との結婚の意志を固めていった。そして、1946年5月、山梨の疎開先にいた京子を郡山に迎えて挙式に至った。「それをきっかけに大久保一家と土志田一家は、もう1度夢を実現すべく、焼け野原となった東京に舞い戻ってきた」(株式会社大久保製壜所1998:54)。同年8月、「鐡蔵は吾嬬町西4丁目の有限会社市瀬硝子工場(現墨田硝子工業有限会社)の一角を借りて30斤3本の窯を作り、壜の製造を開始した」(株式会社大久保製壜所1998:54)。このときの従業員は鐡蔵をはじめ、妻のミネ、長男の実、次女の大正(おせい)、二男の鞍之助、義弟の土志田末吉、そして職人1人の計7人であった。同年12月には、吾嬬町東六丁目の旧工場跡に工場を新設した。「だが、いくら工場を新設しても個人経営の域を脱しない。(中略)鐡蔵は相変わらず会社経営を苦手としていたし、ミネも新しい時代を乗り切るだけの才覚が自分にあるとは思っていなかった」(株式会社大久保製壜所1998:54-55)。そこで、長男の実に白羽の矢が立てられたのである。
大役を引き受けた実は、かねてからの夢であった医大進学を諦めた末に、「母校豊南商業高校の恩師、商業科の古宮先生に、会社設立の方法や経営の基礎を学び、新しい時代の経営知識を積極的に習得していった」(株式会社大久保製壜所1998:55)。こうして、翌1947年1月、大久保製壜所は、新たに株式会社として資本金50万円で改組され、弱冠21歳の実が主な経営を掌る代表取締役に就任したのである。(株式会社大久保製壜所1998:55)。
会社の新たな船出と大久保学園の設立(1947年から1972年まで)
(1)事業規模の拡大へ
大久保実を筆頭に、新生の第一歩を踏み出した大久保製壜所は、その後着実に資金力を高めていき、自社の事業規模を拡大させた。「年商17億円、関連会社8社(韓国、台湾にもある)を経営」するまでに成長を遂げ(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:3)、バラック建ての工場がたちまちのうちに近代的工場と化す中で(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:72)、「富を一手に独占して」いった(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:3)。しかし、そもそもこの会社が、いつ頃から障害者雇用に取り組み始め、いかにして心身障害者を労働者として供給するようになったのかという実態はここまで明らかになっていない。筆者は、この点を明らかにする手がかりが、千葉県船橋市の社会福祉法人大久保学園にあると考える。
(2)障害者雇用の始まり
大久保製壜所における障害者雇用は、1955年以降から本格的に取り組まれ始めた(株式会社大久保製壜所1998:74-75)。大久保製壜所は「もともと、鐡蔵の時代から障害者雇用には積極的で、何人かの障害者と家族同様の生活を営んでいた」(株式会社大久保製壜所1998:75)。その鐡蔵の影響を幼い時から受けていた「実は(中略)障害者の社会参加の重要性を認識していた。(中略)障害者が自立できる社会こそ、本当に平和で豊かな社会であるという信念があった」(株式会社大久保製壜所1998:75)。そして、「障害者のもっている能力を信じ、ていねいに指導すれば彼らはある部分については健常者に負けない能力を発揮する、彼らの真の能力を引き出し、彼らに光を当てることも企業の重要な役割である、という主張」(株式会社大久保製壜所1998:75)は譲らなかった。「当時、障害者、とりわけ知的障害者を労働力と認めない社会の中にあって当社〔大久保製壜所〕は、障害者雇用の先駆的な役割を果たすことになったのである。知的障害者の雇用は、まず生活指導からという信念のもと、1963年には寮を建設し、より安心して障害者が働けるような環境を整備した。1970年にはグループ全体の障害者の人数は150名を超えるようになり、全従業員の半数を占めるようにな」る(株式会社大久保製壜所1998:75)。こうした実績が認められた実は、1968年8月3日、「国際アメリカン学術協会から日本人として初めてアカデミー賞を受賞し」(株式会社大久保製壜所1998:75)、報道陣のインタビューに以下のように答えている。
すべての人が働く喜びを味わう権利をもっている。とすれば、心身障害者でも働く意欲さえあれば愛の手をさしのべ、援助するのが当然ではないですか。働く人の適性を見つけてやることが雇用主の責任です。(株式会社大久保製壜所1998:75-76)
このような言葉を述べた大久保実に対して、「多くの特殊学級、養護学校の教師からは卒業(園)後の貴重な就職先として口々に感謝され」た(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。そして、受賞から4年が経過した1972年2月、社会福祉法人大久保学園が設立された。実は、自らが2代目理事長に就任し、「知的障害者の保護・更生に尽力する決意を明らかにした」(株式会社大久保製壜所1998:76)のである。
(3)大久保学園の沿革と施設の概要
大久保学園は、「原則として18歳以上の精神薄弱者 [1] (先天的、後天的な原因による脳障害のため、脳機能の発達が遅滞している者)を入園させて、真の愛情をもってこの人達を保護するとともに、緻密な指導訓練を行い、1人の社会人として自立への道を作ること」(株式会社大久保製壜所1998:77)を学園の目的として設立された。施設の概要について見ると、同学園は船橋市の東北部、緑に囲まれた絶好の環境に位置する場所に建設された。敷地面積は9,935.78平方メートル、建物面積は3,521.49平方メートルである。また、機能訓練棟兼講堂は529.35平方メートルの面積を有する。ほかにも、あすなろ更生相談所「平井生活寮」や船橋グループホーム(園生約100名)が設置された。設立当初の定員規模は108名、ショートステイ4名、利用者を支援する職員は約50名であった。
同学園は、「大久保実が私財を投じ、1971年11月1日、厚生省〔現厚生労働省、以下略〕の認可を取得、1972年2月、社会福祉法人として設立、精神薄弱者更生施設として誕生。7月1日、県認可、入所を開始。初代理事長に布施充蔵、初代園長に大島三之助の両氏が就任した」(株式会社大久保製壜所1998:76)。その後は、「周囲の人達の強い要請があり、(中略)同年11月、大久保実が理事長に就任する。そして同月に開園式挙行。当日、常陸宮ご夫妻のご臨席を賜る。ここに名実共に社会福祉法人大久保学園が誕生する。以後は、実は、1984年1月に渡辺三郎氏(元船橋市市長)にバトンタッチするまで9年近く理事長として同学園の発展に尽くした」(株式会社大久保製壜所1998:76)。一方で、実が在任中の大久保学園では、「大久保製壜〔所の〕検査課と同じ仕事をさせて」(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:36)おり、「同学園で技能を身につけた障害者たち」(株式会社大久保製壜所1998:76)を、大久保製壜所に送り込んでいた。まさにこの学園は、大久保製壜所への労働者供給のための場と化していた。
第3章 「福祉モデル工場」の歴史とその仕組みから見えてくるもの
(1)「福祉モデル工場」の創設の経緯
大久保製壜所は、障害者雇用を開始して以降、「多い年で211名の従業員中129名もの心身障害者を雇用」(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:3)していたことから障害者雇用の実績が高く評価され、「福祉モデル工場(正式には心身障害者多数雇用事業所、以下略)」の認定を受けた。日本で福祉工場制度が初めて創設されたのは、1972年のことである。松井亮輔(2015)によると、この年に、身体障害者福祉法(1949年制定)に基づく身体障害者授産施設として身体障害者福祉工場が義務化・制度化された。同福祉工場については、「重度の身体障害者で作業能力はあるが、職場の設備・構造、通勤時の交通事情等のため一般企業に雇用されることの困難な者に職場を与える」ことなどを目的に義務化・制度化が実現した。その後は知的障害者福祉工場(1985年開始)や精神障害者福祉工場(1992年開始)が新たに建設されていった(鈴木2014:3)。現在、この福祉工場は、障害者自立支援法(現障害者総合支援法)の就労継続支援事業A型事業所に移行されている。
(2)「福祉モデル工場」の運営の仕組み
福祉工場の中でも、「全従業員のうち障害者50%以上の心身障害者をやとい、しかもその心身障害者の人数が10人以上である中小企業」(高杉1977:47)を「福祉モデル工場」と呼んだ。この「福祉モデル工場」の運営に対しては、「事業所の建物や機械を新設したり増設するのに必要な資金の80パーセントまでを雇用促進事業団〔現独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構、以下略〕が融資する」(高杉1977:47)取り組みが1973年から始まった。また、「貸付制度は1億5000万円(特例2億円)」(高杉1977)であり、「その利率は心身障害者の雇用のための設備や施設への融資の場合、年4.6パーセントという金利。その他の設備でも年8.0パーセン〔ト〕。さらにひじょうに大きな税の優遇が受けられる」(高杉1977:47)仕組みとなっていた。
ここで、高杉晋吾(1977)の著書については次節以降も引き続き参照していくが、同著が出版された当時には全国に9カ所の「福祉モデル工場」が存在した。大久保製壜所以外の「福祉モデル工場」では、1975年9月に日本初の「福祉モデル工場」として開設された神奈川県の日本理化学工業所をはじめ、同県の大協製作所、静岡県の武歳野電子工業、岐阜県の打保屋商店、岡山県の新生電器、島根県の澤〔文字に丸印が付く〕ブロック工業所、広島県のひかり電機工業、愛媛県の松岡印刷が事業を展開していた(高杉1977:47)。これらの「福祉モデル工場」の中で、神奈川県の日本理化学工業所の例を見ると、同社は当時「1億8000万の総工費中1億2000万円の長期低利の融資をえ、しかも川崎の高津区久地に4000平方メートルに及ぶ土地を川崎市から提供されて」(高杉1977:47)、莫大な収益を上げていたのである。
(3)大久保製壜所から見える「福祉モデル工場」に対する融資制度の本質と障害者雇用政策の課題
大久保製壜所が「福祉モデル工場」の認定を受けて表彰されたのは、1963年7月26日である。会社の代表取締役を務めていた大久保実自身がこの日、「〔当時の大橋武夫〕労働大臣から(中略)表彰され」(高杉1977:30)、感謝状を受け取った。朝日新聞1988年1月12日朝刊によると、のちの1974年には、大久保製壜所も当時の労働省の「福祉モデル工場」の認定に基づき、雇用促進事業団から約1億円という巨額の融資を受けていたことが記されている。その大久保製壜所では、「夜も眠れないほどの、寮の下の工場の騒音や、卓球台など障害者福祉のための体育館として寮を作りながら、いつの間にか倉庫に化けてしまっている」 [2] (高杉1977:48)という事実に、精神薄弱者をはじめとする寮生たちの怒りがあった。そうした事実について、「この融資がいかに奇妙な性格をもっているかということを示している」[2] と考えた高杉は、この点の詳細を雇用促進事業団に問い合わせた。その際の同事業団の返事が以下のとおりである。
確かにそのままでは目的外使用になるので、すでに倉庫として使用している分については、繰り上げ返済してもらってある。だから問題ない。こうした例はほかにもある。不況などで中小企業は追いつめられていてやむを得ずこうしたことになるケースはあるが、目的外使用になるのでその分は一たん返済してもらっている(高杉 1977:48)
この件について、高杉が当時の大久保製壜所で総務部長を務めていた高田に尋ねたところ、以下のような事があった。
昨年から滞貨が多くなったため一時的に倉庫に利用したが、すぐ体育館にもどします(高杉1977:48)
こうしたやりとりから、高杉自身が「〔会社側は〕一時的に倉庫に利用した〔という〕が、すぐ体育館にもどすというのならば、繰り上げて返済してしまう理由などどこにもない」(高杉1977:48)と述べているように、その矛盾を指摘できる。さらに高杉は、「繰り上げて返済したのが事実ならば、そのまま倉庫に使っていても一応『合法』的なのだろうに、なぜ体育館にもどすのか? これは、批判にたいして相互に辻つまを合わせようと思いながら、辻つまを合わせそこなった茶番としか思えない」(高杉1977:48)と指摘している。
以上の点に、「福祉モデル工場」に対する融資制度の本質が浮かび上がる。まさしく「『身障福祉』はタテマエで、融資された後でそれを会社の利潤追求のための施設にしてしまっても労働省も雇用促進事業団も片眼をつぶって容認している、という事実」(高杉1977:48-49)を露呈させた。「その本質が身障者差別工場となってもなんの不思議もない」(高杉1977:49)という考えを巡らせる結果を招くものであった。当時の日本政府は、常に障害者を低賃金構造の重しとして利用し、一貫して障害者雇用政策を推進したのである。
一方、当時の日本政府による障害者政策を宣伝するために中心的な役割を果たした身体障害者雇用審議会(以下、審議会)は、「雇用を推進するかのごとく見せかけて雇用の上限をつくり、下限は違反しても何の罰も受けないという不可思議な『身体障害者雇用率』なるまやかし論議をはびこらせて、奇妙な幻想の中に民衆をたぶらかして」きた(高杉1977:51)。さらに、「1951年11月に厚生省がアドバルーン的に1パーセントの雇用率を目標に強制雇用させるという案を出した」(高杉1977:51)。しかしながら、「このアドバルーン的案さえ、たちまち労働省が『現在は法的規制の段階ではない。行政措置でよい』と自由党とともに反対して、アブクのように強制雇用法は消えてしまった」(高杉1977:51)。これは、「1959年3月、社会党が提出した身体障害者雇用法は審議さえされずに消え去った」(高杉1977:51)ことに関して具体的に説明したものである。そして、「1960年末にようやく『身体障害者雇用促進法』が制定された」(高杉1977:51)。
日本の障害者雇用率制度は、このときの身体障害者雇用促進法(現障害者雇用促進法、以下略)の制定を通じて初めて導入されたことがわかる。高杉は、「わざわざ『この雇用率は達成されなくても罰則はなくあくまで事業主の理解と協力をまって達成されるべきものだ』と注釈を加えて、雇用率を法律化したことを無意味化している」(高杉1977:51)と指摘している。しかし、「高度成長政策の中のてっていした労働力不足によって多少高まった雇用率も、大部分は零細企業に集中する障害者にとってはきわめて不安定なものでしかない」(高杉1977:51-52)現実が当時はあった。それは、次章でも取り上げる人物の中で、当時の大久保製壜検査課組合〔以下、検労組〕で執行委員長を務めていた杉田育男自身が、1971年8月のドルショックによる不況のあおりを受けて、「前の職場を障害者仲間4人とともにクビ切られ追い出された」(高杉1977:52)ことと同様であった。「大不況の中でまっ先にクビを切られるのが障害者であることは、障害者自身が体験の中で誰よりもよく知ってい」たのである(高杉1977:52)。
審議会自身も、1974年8月現在、全国に107カ所存在した身体障害者授産施設が、「不況の中で収入がガタ減りとなり、障害者解雇の例が激増して」いたことを認めていた(高杉1977:52)。そして、同審議会は1975年12月11日、「現行の身障者雇用率を引き上げたうえ、これを守れない企業から罰金をとる」(高杉1977:52)という仕組み、すなわち「『生産性の低い身体障害者を雇うよりはカネでカタをつけた方が安上り』という考え方を企業に誘導する答申」(高杉1977:52)を出した。これらのことから、身体障害者雇用促進法が制定されて以降の日本では、福祉に積極的に取り組んでいるように宣伝しておきながら、実際にはその宣伝用の目玉商品として障害者が利用されてきたことがわかる(高杉1977)。その典型的な例が、いわゆる「福祉モデル工場」であった。このようにして、大久保実が「『福祉社長』という美名を利用し、社会に宣伝し会社の発展へ結びつけ」たことで(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:3)、当時の大久保製壜所が脚光を浴びることになった。しかし、その後は同社で当時多数雇用されていた障害のある労働者たちにより、闘争が生起することとなる。筆者は、その闘争の生起に至った要因として、彼らを取り巻く就労実態が深く関連していると考える。次章では、その就労実態の全容とそれに起因したであろう闘争の生起について明らかにしていく。
第4章 大久保製壜所における就労実態と闘争の生起
(1)高杉晋吾への告訴と検労組
高杉晋吾(1933-)の著書の1つである『障害者解放と労働運動』は、「資本家が作り出す差別、労働者が汚染される差別意識の恐ろしさ」(高杉1977:30)を背景にしている。この著書は、「その差別にもっとも抑圧され苦しめられてきた身体障害者、さらに『闘えない』『主体的意思すら定かではない』と言われ侮辱されつづけてきた精神薄弱者と言われた人びとが、自らを苦しめる者に立ち向かい解放をかけて」(高杉1977:30)闘う過程を記録したルポルタージュの全文である。
その高杉は、大久保製壜所から1977年2月16日、同著が「会社を中傷誹謗し、名誉と信用を故なく毀損するものであるから、その回復のため謝罪広告を読売新聞に掲載せよ」として訴訟をおこされた(高杉1977:54)。しかし、彼への告訴はのちに会社側から放棄され、検労組が一歩前進を勝ち取った。1976年10月21日に地域で結成された同会議を後ろ楯に、当時の銅像反対闘争に専念した。その後、「『大久保実』銅像反対闘争勝利報告集会を開き、しめくくった」(大久保製壜闘争支援連帯会議1985:37)。
(2)障害のある労働者の主な業務内容と賃金の格差
高杉は1975年12月8日、前述の杉田から闘争経過を聞いた。それによれば、当時の大久保製壜所で、従業員として雇用されていた106人の障害のある労働者のうち、身体障害者は41人、精神薄弱者は65人であった(高杉1977:31)。その彼らが所属していた検査課での主な業務内容は、不良製品を取り除き製造されたビンをダンボールに箱詰めする作業であった(高杉1977:31)。これらの作業の分担として、身体障害者が不良製品を取り除く部分を担当し、一方の精神薄弱者が製品のダンボール詰めの仕事を行っていた(高杉1977:31)。65人の課員のうち、健常者はわずかに6人で、残りの59人は身体障害者と精神薄弱者で構成されていた(高杉1977:31)。
こうした状況とともに、1975年夏のボーナスの支給額には、健常者が2カ月、身体障害者が1.7カ月、精神薄弱者が1.0カ月という差が設定されていた。この差は極端な基本給の差の上に、さらにつけられた差であった(高杉1977:31)。また、基本給の昇給幅についても、職制健常者男女、身体障害者男女、精薄者というランクがもともと設定されていた。その体系は決して明確なものではなかったが、少なくとも、精神薄弱者が最低のランクに位置づけられていたことは紛れもない事実であった(高杉1977:32)。さらに、月4万円足らずの給与から健康保険や失業保険、厚生年金、食費が会社側から差し引かれ、そのうえ、有無を言わさず社内貯金まで強制されて、手元に残ったわずか8000円ほどの金額が、平均的な精神薄弱者の給与となっていた(高杉1977:32)。
以上見てきたように、高度成長期以降の日本では、「この極端な差別の上にさらにボーナスにまでひどい開きをつけられていることに対して、1975年11月の後半から検査課の障害者を中心にして『せめてボーナスの乗率だけは一律2カ月にしてほしい』と求めて話し合いを要求していた」(高杉1977:32)事実が存在した。「経済効率のワクに組みこまれた心身障害者の処遇」(高杉1977:49)の一端を顕在化させていたのである。
(3)勤務体制の内実
大久保製壜所で当時雇用されていた日向(身体障害者)は、夜の10時から朝の7時までの9時間働き続けるという深夜労働を強いられていた。1974年1月には20日間も深夜労働で働かされていた。そのような彼の勤務の実態は、「休憩時間は20分で3回しか与えられない。もちろん仮眠時間などない。そして7日間ないし6日間ぶっつづけで働く」というものであった(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。さらには、「たまに1日その間に休日をもらえればその労働者は仲間からうらやましがられ」た(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。ところが、「1カ月の4回の休日の中には、深夜労働1週間が終わったその日もふくまれ」ていた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。つまり、「深夜1週間ぶっつづけで働き、最後の日の朝7時まで働いたその日が休日」となるため(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)、実際には「この日は寝るしかない。代替休日など与えない。だから1カ月丸々休みなしと同じ」という勤務体制のもとで働いていたのである(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。
また、「月4回の休日は会社の(職制の)一方的な指定であり、(中略)前日になるまで本当に休めるのかどうかまずわからない」のに加え(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)、「前日の『明日出ろ』。この職制の一言で」自分の労働日が決められていた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。こうした状況に常に晒されていた中で、そこで働く仲間のほとんどは寮生活を送り、決して「拒否などできない」というのが実態であった(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。
そのうえ、夜勤労働日は強制的に増やされた。彼らは入社当時から「A班、B班、C班に分かれて3交代勤務」で働いていた(高杉1977:31)。つまり、「24時間操業を1部(朝7時から昼3時)、2部(昼3時〜夜10時)、深夜労働(夜10時〜朝7時)の3組に分け、これを1週間ずつ交替で」行っていた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。そのため通常、「深夜労働は1カ月に1週間の場合と、2週間の場合があ」り(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)、「どんなに少なくても7日間か14日間」が夜勤労働日として妥当な日数であったのだが、これも1年中必要以上にやらされていた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:73)。
また、「14時間、15時間の通し勤務(1部2部・2部3部)や3週間に2回は全員で必ずやる12時間労働(夕方7時から翌朝の7時までと朝7時から夕方の7時まで)の日があり、これを<出会い>と言った」(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:74)。大久保製壜所で働いていた障害のある労働者は、「まさに世間の何倍もの酷使をこれでもかこれでもかと強いられていた」(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:74)。
(4)日常的行為としての虐待・差別の実態と大久保実の摘発
大久保製壜闘所における職制による日常的な虐待・差別の実態については、前述の杉田、そして彼と同じく闘争の当事者である長崎広へのインタビューの掲載記事に詳しい。2017年6月16日発刊の『週刊金曜日』1140号に、「争議全面解決20年『大久保製壜闘争』を語る」と題して掲載されたこのインタビューでは、争議に至ったきっかけなどが詳細に語られている。杉田によると、「知的障害を持っていた若い男性労働者の箱詰めの仕方が悪いと、職制が殴る蹴るなどの暴力を振るい、工場の床を引きずり回した」(杉田・長崎2017:32)ことが最初のきっかけであったという。自身も脳性マヒの障害がある杉田は、1971年に大久保製壜所に入社したが、「それまでも日常的に障害者への暴力、虐待、差別があり(中略)私たちは人間扱いされていなかった。バカ、パップ、生きたロボット、子ども、肩輪≠ネどと呼ばれていました」(杉田・長崎2017:32)と語っている。一方の長崎は、明治学院大学社会福祉学科を卒業後、1975年に大久保製壜所に入社した。彼が入社して驚いたのは、「健常者の男性職制が社内で知的障害を持つ女性の服の中に手を突っ込み身体を触っている。周りは何も言わない。当時の大久保実社長自身が平気で暴力を振るっていましたから、職制たちも何かにつけて暴力や虐待を繰り返して」いたという実態であった(杉田・長崎2017:32)。
さらに、「福祉奴隷工場」(高杉1977,野沢2009)と称された会社の経営を掌った社長の大久保実は、「向島労基署〔以下、労基署〕から1966年、1969年労基法第62条違反、『未成年、婦女子への深夜労働の強制』で2回も摘発され、書類送検、罰金刑をくっていた」(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:75)。「1977年の最賃法違反での摘発や80年には28名もの仲間を最賃以下でこき使っていたことがわかり再び摘発」されたこともあった(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:75)。「労基法第37条違反(1977年)、割まし賃金のごまかし、同24条違反(1976年)、違法な賃金からの社内貯金の差しひき、同108条違反、賃金台帳の不備など次々と摘発され」ていた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:75)。この頃に最賃法違反で摘発された大久保実は「最低賃金制除外申請」に目をつけ、「『精薄』労働者の多くを最賃制から除外すべく労基署に申請」していた(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:75)。これを受けて労基署は、1980年に彼らの闘いによって阻止されるまで「1966年以来多い年で36名も許可してきた」のである(東京東部労組・大久保製壜支部(検労組)1981:75)。
(5)そして闘争が始まる
1975年11月30日、大久保製壜所における運営の仕組みや就労実態についに憤慨した障害のある労働者たちは、まず工場で座り込み、そこを追い出されて日本基督教団堀切教会に籠城した。同教会の牧師であった斎藤宏が長崎ら健常者3人を含む36人を快く受け入れ、「東京東部労働組合や近隣のキリスト者、障害福祉団体など200人ほどが食事や衣類を差し入れて」くれた(杉田・長崎2017:33)。会社にはもともと労働組合が結成されていたが、心身障害者を組合員として認めず、労働者のために闘うことのない、あくまで会社のための御用組合であった。そこで、前述の杉田が「もう自分たちが立ち上がるしかない」(杉田・長崎2017:32)と、1975年12月3日に検労組を結成し、自らが執行委員長となったのである。「@差別と闘う、A仲間を大事にする、B生活の向上、C労働条件の改善」(高杉1977:35)を組合設置の目的に謳い、ボーナスに関して健常者の従業員との一律支給を要求することを決定して会社との交渉に臨んだ。支援団体の数は30数団体以上に増加していた。そして、結成から5日が経過した12月8日、「@基本給の一律2カ月支給、A争議の責任は追及しない、B職場復帰後の組合員の安全保証、C組合活動の自由の保証」(高杉1977:37)を会社に認めさせる最終的協定を結び、検労組の勝利の一歩が築かれた。この結果、闘争を生起させた36人の職場復帰が実現した。
おわりに
(1)結論と考察
本報告では、1975年11月30日に始まった大久保製壜闘争を調査対象として取り上げ、一見それまで日本国内の就労現場で、主要なアクターとはみなされていなかった町工場で働く障害のある労働者たちにより、闘争が生起した背景には何があったのかを明らかにした。当時の大久保製壜所では、従業員として多数雇用されていた障害のある労働者の側からボーナスの一律支給を要求し、障害者差別に強く反対する主張がなされたことが見出された。そこでは極端な基本給の差の上に、さらにつけられたボーナスの格差に対して異議を唱える声が上がり、資本主義社会下における心身障害者の処遇の一端が如実に現れていたこと、大久保実社長を中心とした職制による虐待・差別が日常的に繰り返されていたことがわかった。まさしく、身障者雇用促進で名声を世に顕した功績とは裏腹に、心身障害者を超低賃金で酷使し、虐待・差別の限りを尽くすという差別分断支配をもって莫大な利益を上げて、自社の「利潤追求がすべてを律する生産秩序のみが優先」(高杉1977:46)されていた。こうした障害のある労働者を取り巻く就労実態が、のちの闘争の生起に深く関連したのである。
本報告で提示された論点は、以下の各項である。
@大久保製壜所における障害者雇用の始まり
A大久保製壜所への労働者供給
B闘うことができないとみなされ、主体的な意思決定能力が不明確な存在であるとして烙印を押され、長らく差別に苦しんできた障害のある労働者たちが、仲間と一致団結して奮起したこと
@の論点については、1955年以降から本格的に取り組まれ始めたが、1963年には知的障害者を雇用するために寮が建設され、その後のグループ全体の障害者の人数が増加していった。
Aの論点を明らかにする手がかりとして、本報告では、1972年2月に精神薄弱者更生施設として設立された大久保学園に着目した。大久保実が在任中の大久保学園では、実際に入所する障害者に対して、大久保製壜所の検査課と同様の仕事に取り組ませることで技能を習得させた後、大久保製壜所で働く従業員として雇用する体制が整えられていた。
Bの論点に関していえば、障害のある労働者たちは、会社の切り崩し [2] や親の説得にも決して応じず抵抗を続け、ただ「差別と闘うために組合とともにあること」(高杉1977:54)を選び、「会社の抑圧 [2] にたいして誰よりも鋭い怒りを表明し、闘いの行動」(高杉1977:54)を起こした。まさに検労組の結成が、「会社の唯一の切り札であった『健全者が身障者を煽動し、意志のない精薄者をオトリにしている』という論拠」(高杉1977:33)を完全に崩壊させ、町工場で働く障害のある労働者が主要なアクターとして大きな一歩を踏み出す結果をもたらしたのである。
大久保製壜闘争は、町工場で働く障害のある労働者におけるボーナスの一律支給と障害者差別反対をめぐる本格的な労働争議の最も初期のものであり、労働者の解放が障害者差別との闘いなしには決して実現できないことを証明した。また一方で、障害者差別からの解放も労働者の解放への闘いなしにはあり得ないこと、そして、仲間と共闘すれば必ず勝利できることを明らかにした。したがって、労働者と障害者、ひいてはあらゆる被差別大衆が1つの強い団結のもとに闘うことこそが、確かな勝利を切り開くのだということを社会に提示したものであった。
(2)今後の課題
本報告では、障害のある労働者たちの労働争議をめぐって大久保製壜闘争の生起までを考察の対象範囲としたが、本報告で明らかにすることができなかった多くの論点がある。特に、1955年以降から本格的に取り組まれ始めた大久保製壜所における障害者雇用に関しては、のちの1960年末に制定された身体障害者雇用促進法に基づいて、障害者雇用率制度が具体的にどのように適用されていったのかという点が解明されていない。また、創業者である父鐡蔵の影響を受けて、初めは心身障害者の多数雇用に積極的であり、社会から賞賛されていた大久保実の彼らに対する見方や態度が、いつ頃から、何を契機として変容していったのかについても、本報告では明らかになっていない。そのため、今後はこれらの考察を丁寧に進めていくことが課題となる。
大久保製壜闘争が初めて生起して以降も、会社側による本格的な組合弾圧といった反撃が度々繰り返され、闘いはさらなる展開を見せていく。したがって、本報告で取り上げた障害のある労働者たちの主張の根幹にある「福祉モデル工場」に対する融資制度の本質、さらに障害者雇用政策の課題を再考することも踏まえて、その具体的な展開過程については別稿で明らかにすることとしたい。本学会における報告ならびに質疑討論を通して、新たな知見を得ることができれば幸いである。
注
- [1]浅井浩著・藤島岳監修(1999)の『知的障害と「教育」「福祉」』によると、「精神薄弱」が、行政用語として使用されるようになったのは大正時代である。また、法文上では、1941年に「小学校令」が「国民学校令」に改正されるにあたって公布された国民学校令施行規則で、「精神薄弱」が初めて明記された。その後は、それまで長い間使用されてきた「精神薄弱」が不適切な用語であるとして、1999年4月から「知的障害」に改められた。本報告では、大久保製壜闘争が生起した当時の時代背景を踏まえて、「精神薄弱」を使用して表記している。
- [2]本報告における傍線部は、1977年2月16日、大久保製壜所が高杉晋吾に対して訴訟をおこした際、会社側の主張する「誹謗中傷であり、名誉と信用を毀損した」という該当箇所の一部を示す。
文献
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浅井浩著・藤島岳監修,1999,『知的障害と「教育」「福祉」』田研出版.
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朝日新聞朝刊,1988,「社長が指揮した覚せい剤のワナ(ニュース三面鏡)」『朝日新聞』1988年1月12日掲載.
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大久保製壜闘争支援連帯会議,1985,『大久保製壜闘争――その十年』.
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株式会社大久保製壜所,1998,『50年のあゆみ』.
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杉田育男・長崎広,2017,「争議全面解決20年『大久保製壜闘争』を語る」『週刊金曜日』1140号:32-34.
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鈴木清覚,2014,「日本版保護雇用制度を求めてきた30 年史」『障害者の働く権利を確立するための社会支援雇用制度創設に向けての提言(案) 資料編』:3.
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高杉晋吾,1977,『障害者解放と労働運動』(株)社会評論社.
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東京東部労組・大久保製壜支部(検労組),1981,「悪らつな『障害者』虐待に抗して」『新地平 月刊労働者総合誌』夏季臨時増刊号:72-77.
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野沢和弘,2009,「第5章 雇用現場での虐待とその対策」『障害者虐待防止マニュアル 行政・支援者が障害者虐待に適切に対応するために』PandA-J.
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橋本宏子,2004,「サン・グループ事件訴訟と行政の危険防止責任」『神奈川法学』36巻3号:911-959.
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松井亮輔,2015,「労働行政サイドによる重度障害者雇用への取組みの推移」『障害者の働く権利を確立するための社会支援雇用制度創設に向けての提言(案) 資料編』:9.
■質疑応答
※報告掲載次第、9月19日まで、本報告に対する質疑応答をここで行ないます。質問・意見ある人はtae01303@nifty.ne.jp(立岩)までメールしてください→報告者に知らせます→報告者は応答してください。宛先は同じくtae01303@nifty.ne.jpとします。いただいたものをここに貼りつけていきます。
※質疑は基本障害学会の会員によるものとします。学会入会手続き中の人は可能です。→http://jsds-org.sakura.ne.jp/category/入会方法 名前は特段の事情ない限り知らせていただきます(記載します)。所属等をここに記す人はメールに記載してください。
◆2020/09/09 竹田恵子
「福祉モデル工場」に関して、たいへん勉強になるご報告をありがとうございました。資本家による労働力の搾取と差別の創出には、社会制度の後押しも絡んでいくことがよくわかりました。
質問が2つありますので、ご回答をよろしくお願いします。
大久保製壜所における障害者雇用は、1955年以降から本格的に取り組まれ始めたとのことですが、当時の大久保製壜所における障害者の雇い入れ方(リクルート方法)が気になりました。大久保学園で技能を身につけた障害者たちが、大久保製壜所へ送り出されるときの障害者採用基準のようなものはあったのでしょうか。作業の的確さのほかに、長期に渡る重労働への従順さ、無関心な家族といった条件もあるような気がしてしまいました。現時点でわかっていることがあればご教示ください。
また、同社に雇用された障害者の家族は、同社の雇用条件や就業環境をどのようにみていたのでしょうか。こちらも関連資料がお手元にあるようでしたら教えてください。
◆2020/09/09
まず、大久保製壜所における障害者の雇われ方につきましては、文中で述べましたように、本報告では明らかにできませんでしたので、今後の課題としたいと考えております。しかしながら、のちの1960年には身体障害者雇用促進法(現障害者雇用促進法)が制定され障害者雇用率制度がはじめて導入されましたので、この制度が当時の大久保製壜所でどのように適用されていたのかは注目すべきだと考えております。
一方、当時の大久保製壜所で従業員として雇用されていた障害のある労働者の家族につきましては、同社で働く我が子を地元に連れ戻そうとする家族(父母)がいたようです。しかし、長らく、闘えない、主体的意思すら定かでない存在とみなされてきた中で、説得にもけっして応じず抵抗を続け闘う我が子の姿を見て応援の立場をとるようになるなど、家族(父母)の態度の変容が起こったことがわかっております。
いずれの点も、今後さらに詳しく調査を進めてまいります。
◆2020/09/09 竹田恵子
(回答への返事)
大久保製壜所で従業員として雇用されていた障害のある労働者の家族についての情報をありがとうございました。
今回のご報告では、身体障害者雇用促進法(現障害者雇用促進法)に焦点を合わせておられますが、社会制度による障害者の抑圧の構造を明らかにする取り組みであると拝察いたします。
今後のご研究の発展を心待ちにしております。
*頁作成:岩ア 弘泰