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「ベーシックインカムと豊かな社会――「必要は変化する」認識を」

斎藤 拓 2010/05/21
『京都新聞』2010-5-21:14
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last update:.20100607

ベーシックインカムと豊かな社会――「必要は変化する」認識を
立命館大グローバルCOEプログラムリサーチアシスタント 斎藤 拓

 その国の合法的居住者すべてに対して無条件に一定額の所得を定期的に給付する、そんな「ベーシックインカム」(以下BI)という制度構想が真剣に論じられている。この構想が一定の支持を受けつつある背景に、所得を得るために労働は強いられてもよいという意識の希薄化があるのは確かだろう。とはいえ、人類はこれまでにも、自分たちは既に苦役としての労働を必要としない「豊かさ」を手に入れたのだと考えた。技術進歩と人材配置の効率化によって「社会的に必要な活動」は社会の一部の人が担えば足りるので、「必要な労働」の総量は各人が自発的にしたいと思う活動に従事する結果として満たされうるのだ、と。だが、歴史的に見れば、BI的な構想を求める声の盛り上がりはこれまでに幾度か(特に不況期に)あった。そして現在BIは実現していない。今のBIブームも、豊かさに関するありがちな楽観とこれまでの歴史とを繰り返しているだけという可能性がある。それでも、「豊かさ」や「必要」に関する楽観の否定はBI否定の決定的な根拠ではない。以下、「豊かさ」と「必要」をキーワードとして今なぜBIが求められるのかを述べておく。

無用な努力を強いる

 BIにはさまざまに批判が加えられている。まず、現代のわれわれが享受している「豊かさ」とは、倉庫に蓄えられた財貨のようなものではなく、モノやサービスの循環のことであり、多くの人が労働市場に参加することによってこの豊かさは支えられているのだ、との異論があろう。そして、その「豊かさ」は一握りの頭脳労働者が多数の肉体労働者を効率的に使う合理的な生産体制が可能にしているのであり、言われるままに働く労働者たちは依然として必要であり、労働による自己実現をすべての人が享受することはありえない、との異論が続く。私は、後者の異論については、反論も否定もするつもりもなく、労働による自己実現はすべてではない、としか言えない。だが前者に対しては、そもそもBIの主目的はモノやサービスを市場で円滑に循環させることにある。現在の不況の主因は人々が「頑張っていない」ことではなく、むしろカネ回りが悪いせいでその循環が妨げられていることにある。この状況に対処するために個々人を頑張らせるというのは無用な努力を強いてわれわれを追い込むだけだ。
 次に「必要」について。第一に、われわれが「必要」とする財・サービスのうちで市場で満たせるものはごく一部であり多く(家事やケア労働など)は家庭内で賄われる。これらの家庭内サービスが十全に行われるためには各人に十分な時間が必要であり、BIは所得の分配を通じて時間を分配しているのである。家庭内サービスも今以上に市場化されるべきだが、それにも限界がある。多くの人は「自分のこと」は自分でやりたいと考えているはずであり、家庭内サービスを押し売りするべきではない。第二に、社会が豊かになればなるほど「必要」なモノやサービスは変化するわけだが、この「必要は変化する」という認識こそが現代のBI論を駆動している。

「後期近代」の生き方

 社会科学では現代の先進国のような社会を後期近代とか「再帰的近代」と呼ぶ、それは、「自然」や「伝統」といった社会成員たちにかつて自明であったはずのものがわれわれの選択の結果である(再帰的なものである)ことを人々が自覚するようになった社会だ。そこでは、人々が自分たちの生き方をある程度自律的に選択しながらその社会にとっての「必要」とそれについてのコンセンサスを形成してゆく。このような社会では賃労働が当り前の人生コースではなくなり、若者たちは「四の五の言わずにとにかく働け」という年配者たちの叱責には説得されない。彼らには単に「働く」ことだけでなくその働きの方向性が社会や世界にとって望ましいものであることまでも要求されているからだ。そんな状況において、人々はより良い社会のために自分が提供すべき「必要な労働」に関して熟慮したいと考える。BIはそのように熟慮するために時間をも分配するのである。



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UP: 20100524 REV: 20100602(誤字訂正) 0607
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