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「「辺境」の定義と「日本」の発話の位置」

松田 有紀子 20090918 「歴史社会学の方法論――福間良明氏の仕事を/から学ぶ」 指定質問 於:立命館大学衣笠キャンパス諒友館842教室


 私は、ご著書『辺境に映る日本――ナショナリティの融解と再構築』を拝読して、この本全体を貫くテーマである、「辺境」という有り様の本質は、語りの主体性を欠いていることにあるのではないかと受け取りました。そこで「ラフカディオ・ハーン研究言説における『西洋』『日本』『辺境』の表象とナショナリティ」(2002)および、「民族社会学のナショナリティ――高田保馬・小山栄三の民族認識を手がかりにして」(2003)から、「辺境」の定義とその機能について質問させていただきたいと思います。
 私は、前者の論文において福間先生が、「西洋」、「日本」、「辺境」という三者関係を軸に、ハーン研究者たちがその仕事のなかでいかに日本を位置づけたか、という問題を設定しておられたと解釈していますが、こうした「西洋」に対して「日本」がもつ空間性についてのメンタリティへの関心は、素材が異なってはいますが、後者の論文にも受け継がれていると感じました。後者の文中では、「西洋」を意識する「日本」と、その「日本」が「西洋」に対抗するために形成した「東亜」協同体という三者構造が存在し(ただし「日本」が「東亜」内部に入れ子構造に存在しており、この場合の三者は同一平面上にはない)、さらに「東亜」内部では日本を頂点とする位階構造があると指摘されています。
 こうした点から「東亜」内部における「満州、支那、南洋」などの植民地のあり方は、前者の論文でいう「辺境」概念を用いることができると感じたのですが、後者の論文には「辺境」という表現は用いられていません。こちらで「辺境」という表現を用いなかったことには、何か意識的な理由があったのでしょうか。また福間先生は「民族社会学のナショナリティ」の中で、日本の「発話の位置」の優位性がもたらす暴力性を指摘されていたと思います。しかし、「ラフカディオ・ハーン研究言説における『西洋』『日本』『辺境』の表象とナショナリティ」では、脚注の「辺境」定義には、この「発話の位置」という要素についてはあまり指摘しておられないと感じました。この点はどのように関連しているのでしょか。

■参考文献
福間 良明 200212「ラフカディオ・ハーン研究言説における『西洋』『日本』『辺境』の表象とナショナリティ」『社会学評論』53-3:329-347
福間 良明 200302 「民族社会学のナショナリティ――高田保馬・小山栄三の民族認識を手がかりにして」,『ソシオロジ』47-3:19-36


*作成:櫻井 悟史
UP:20090922 REV:
全文掲載  ◇歴史社会学研究会
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