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秋風 千惠「称揚される物語とリアリティの狭間」
障害学会第6回大会・報告要旨 於:立命館大学
20090927
◆報告要旨
秋風 千惠(大阪市立大学大学院文学研究科)
「称揚される物語とリアリティの狭間」
先行する障害者研究は、その障害が可視的で機能的に「できない」障害者、いわゆる重度障害者を障害者一般として、そこに生じる問題を語ってきた嫌いがある。
70年代の障害者運動に起源をもち、イギリスやアメリカではじまった障害学は、障害を負うことは個人的悲劇であるとする従来の障害者観「障害の個人モデル」を否定し、障害が社会の問題であることを明快にうちだした。「障害の社会モデル」である。社会モデルは、障害の身体的な側面と社会的な側面、すなわち「インペアメント」と「ディスアビリティ」を明確に区別したうえで、後者が引き起こす社会的障壁に注目し、障害の社会的責任を問うた。しかし、当初の社会モデルは社会的障壁を強調するあまり、インペアメント自体によって揺るがされる障害当事者のアイデンティティの問題や、障害とジェンダー、障害とエスニシティといった問題を看過してきた。90年代になって、フェミニスト女性障害者の論者であるジェニー・モリス、リズ・クローらから社会モデルはインペアメントを軽視しすぎているという批判があがった。モリスらの批判にもあるように、それまでの社会モデルは、運動のなかで隠れてきた問題、インペアメント自体によって揺るがされるアイデンティティの問題や、エスニシティやジェンダーによってより周辺化された人々の問題に対して敏感ではなかった。インペアメント、ディスアビリティのどちらを看過しても障害者のリアリティはとらえられないのである。
ここに軽度障害者が浮上する基盤があった。筆者はインペアメントを再度研究の俎上にのせようという障害学の動向から軽度障害者の問題を浮上させ、軽度障害者の意味世界を考察した。同じ流れのなかにジェンダーの問題も位置している。次なる段階として、障害とジェンダーを考察したい。
この社会に生きる限り、障害者もまたドミナントなジェンダー観を内面化していると考えられる。そして、ジェンダーロールを果たそうとして、自身がどれほどドミナントなロールモデルから逸脱しているかを思い知らされ葛藤したり、自己呈示の戦略を練ったりするだろう。ここにうまれるアイデンティティコントロールや生活戦略から見えてくる障害とジェンダーの問題を、計16人の聞き取り調査から考察・分析する。
◆報告原稿
称揚される物語とリアリティの狭間
大阪市立大学大学院後期博士課程 社会学専修
秋風 千惠
図 1点
先行する障害者研究は、その障害が可視的で機能的に「できない」障害者、いわゆる重度障害者を障害者一般として、そこに生じる問題を語ってきた嫌いがある。
70年代の障害者運動に起源をもち、イギリスやアメリカではじまった障害学は、障害を負うことは個人的悲劇であるとする従来の障害者観「障害の個人モデル」を否定し、障害が社会の問題であることを明快にうちだした。「障害の社会モデル」である。社会モデルは、障害の身体的な側面と社会的な側面、すなわち「インペアメント」と「ディスアビリティ」を明確に区別したうえで、後者が引き起こす社会的障壁に注目し、障害の社会的責任を問うた。しかし、当初の社会モデルは社会的障壁を強調するあまり、インペアメント自体によって揺るがされる障害当事者のアイデンティティの問題や、障害とジェンダー、障害とエスニシティといった問題を看過してきた。90年代になって、フェミニスト女性障害者の論者であるジェニー・モリス、リズ・クローらから社会モデルはインペアメントを軽視しすぎているという批判があがった。モリスらの批判にもあるように、それまでの社会モデルは、運動のなかで隠れてきた問題、インペアメント自体によって揺るがされるアイデンティティの問題や、エスニシティやジェンダーによってより周辺化された人々の問題に対して敏感ではなかった。インペアメント、ディスアビリティのどちらを看過しても障害者のリアリティはとらえられないのである。ここに軽度障害者が浮上する基盤があった。筆者はインペアメントを再度研究の俎上にのせようという障害学の動向から軽度障害者の問題を浮上させ、軽度障害者の意味世界を考察してきた。
さらに考察を進めるに際し、下記図1で提示される障害者の位置が、問題を明確に示してくれるだろう。インペアメントとディスアビリティが交差するところ、つまり24時間介助を必要とするような重度障害者ではなく、健常者でもないというマージナルなところ、それが軽度障害者の位置するところである。
なお、インペアメントとディスアビリティについては、UPISの定義を採用する。
インペアメント:手足の一部あるいは全部の欠損、または手足の欠陥や身体の組織または機能の欠陥
ディスアビリティ:現状の社会組織が身体的インペアメントのある人々のことをほとんど考慮しないために、社会活動のメインストリームへの参加から彼らを排除することによって引き起こされる活動の不利益や制約
イギリスの「隔離に反対する障害者連盟」UPISの定義による(長瀬1999:15)
【図1】説明始まり
横軸にimpairmentをとり、その線の左端を0とし右端を100とする。横軸の左端と垂直に交わるように、縦にdisabilityをとり、縦軸の上端を100とし下端を0とする。(ちょうど、大文字のLを90度回転したような形状を想像してください)。横軸の左端から縦軸の右下端に向かって斜めに直線を引き、それと交差するように横軸の右端から縦軸の左下端点に向かって斜めの直線を引く。この交差点を中心に、この中心とimpairment25・disability25の点を結ぶ線を半径とする円を描く。
円の内部に位置するのが軽度障害者である。円の外部である、横軸のimpairmentと縦軸のdisability双方が100に近い位置にいるのが重度障害者、横軸のimpairmentと縦軸のdisability双方が0に近い位置を健常者とする。【図1】説明終わり
インペアメントが重いからと言って必ずしもディスアビリティが高いとは限らない。またその逆も事実である。
以下、図に沿って説明する。
例えば視覚障害者の場合、一般に弱視が軽度、全盲が重度と考えられるかもしれない。しかしそれはインペアメントでしか判断していないのである。ひとりで歩くという行為に関しては、全盲の場合初めての場所には一度はガイドヘルパーに連れて行ってもらい、その後でなければひとりで歩いて目的の場所まで行けないという人が多いようである。(少なくとも報告者の調査ではそういう結果がでている。)その場面では全盲の人は、一度は介助がいるのであるからインペアメントは重度障害者に近く、ディスアビリティも重度障害者に近いといえるだろう。しかし、例えば本を読むという場面ではどうだろうか。全盲であってもパソコンを使って読む人はインペアメントに変化はなくとも、ディスアビリティについては困難度がぐんと低くなる。弱視で点字しか読めない人は点字翻訳まで待たなくてはならないが、墨字をスキャンしてパソコンに読ませることのできる人は、むしろ弱視の人よりディスアビリティが低くなるというケースも考えられるのである。インターフェイスが差異を吸収するケースも多々あるということである。
「外から見たら(聴覚障害があるということが)わからない」(48歳、女性、聴覚障害)という言葉にも見られるように、聴覚障害者が街を歩いているとき、彼/彼女はインペアメントが高くても、ディスアビリティは限りなくゼロに近い。外見からは健常者に見えるのではないだろうか。あるいは、ユニークフェイスの例を考えてみると、機能の欠陥ではないからとしてインペアメントは低いとみなされるが、ディスアビリティは非常に高いといえるのではないだろうか。
またインペアメントは同じでも、都市に住んでいるかそうでない場所に暮らしているかでディスアビリティの高さは異なってくるだろうし、あるいは経済力の違いもディスアビリティの高低に影響を与えるだろう。テクノロジーは都市の方が行き渡っており、インペアメントを軽減するツールは市場が限られているため価格が高いものも多いからである。
報告者は、軽度障害者を俎上に挙げようとし始めたときから、障害の重度/軽度は社会的相互作用の場面で変わるものであると主張してきた。「障害がある(orあるようである)」ということは、インペアメントを負う身体そのものに起こることではなく、他者との社会的相互作用のなかで発生する齟齬であると主張してきた。障害は社会的に生産されるものであることを、この図を通して再度確認しておきたい。
したがって、重度/軽度の区別を、例えば普通校であったか養護学校を出ているかといった生育・生活史のみに求める方法は有効ではないということがわかっていただけるのではないかと思う。
以上のようなインペアメントとディスアビリティの関連をふまえて、障害者に称揚されてきた物語を考えてみることとする。
名著『生の技法』のサブタイトルは「家と施設を出て暮らす障害者の社会学」である。この本が出版されたのが1990年であった。小山内美智子著『車椅子からウィンク』が1988年、安積遊歩著『癒しのセクシー・トリップ』が1993年である。「家と施設を出て暮らす障害者の社会学」というサブタイトルが示す通り、「障害があっても地域で暮らす、結婚もし、子どもも育てる」という物語が称揚された時期があったのではないだろうか。いや、現在でもその物語は健在であるようだ。2006年だったか、インタビューをしたある自立生活センターの女性(32歳、女性、肢体不自由)から「わたしらしく暮らす」という言葉を何度も聞いたことを思い出す。「わたしらしく」の意味するところが具体的にどういう暮らしなのか、2時間のインタビューで最後まで明確にはならなかったのだが、ひとつだけはっきりとした意思表示があった。それは「管理されないこと」が彼女にとっての一番の「わたしらしさ」であるのだろうということだった。
70年代の青い芝の頃に端を発し、その後自立生活ということが言われるようになってから障害者の間に膾炙されるようになっていった「管理されないこと」への憧憬と実践、それを体現したものとして小山内や安積の物語が称揚され、喧伝されてきたと言えるのではないだろうか。
しかし、報告者がインタビューしてきた、図1で言えばディスアビリティが低い方に分類される障害者の物語は、称揚されてきた「家と施設を出て暮らす障害者の」物語とは確実に違うのである。
石川によれば「誰もが苦もなくできること―たとえば見たり聞いたり走ったり、手を動かしたりするといった行為―が自分にはできないというのは、正直に考えてみればやはり残念なことです。目の前の甘いブドウに手が届かないキツネのように『できない』というのはとても悔しいことだと思うのです。障害者はその種の痛みをどのように乗り越えるのでしょうか。ふたつのことを試みると思います」として、そのふたつとは①方法を工夫すること②意味を創り出すことだと言う(石川、2000:30-32)。小山内や安積らの物語は、重度障害者による価値の創出であったと言えよう。インペアメントもディスアビリティも高い場所では、方法を工夫しても生活上の選択の余地はあまりないのが現実ではないだろうか。そういう場所に、それまでの否定的な価値観を返上し新しい価値観をもたらす物語は喜びをもって迎え入れられたのだった。
そして、その物語は価値観の逆転という意味とともに、60年代から70年代にかけて世界中にふきあれたコンフリクトの最後の権利闘争としての障害者運動にも繋がるものである。つまりここに示されるのは、「抵抗する物語」と言えるだろう。
一方、図1でディスアビリティが低い方に分類される障害者の語りを紹介しよう。
〔22歳のとき事故に遭って失明したが〕盲学校には中途失明の人で40代、50代の人もいてはる。〔そういう例を見れば〕三療の仕事はいつでも始められると思ったから、後回しにしようと思った。自分のやりたいことを先にやってみようと思った。(Aさん38歳、男性、視覚障害)
大学に行けって親は言った。でも絶対イヤやった。猫も杓子も大学か!? 大学を卒業して、わたしに何ができるんやろ? それよりマッサージも鍼灸も好きだから、そっちに行きたいと思った。(Bさん52歳、女性、視覚障害)
Aさんは現在全盲である。しかし、日常生活にほとんど介助はいらない。A市教育委員会に雇用され仕事をしている。Bさんは弱視であり、日常生活にはまったくと言っていいほど介助はいらない状態であり、企業のヘルスキーパーとして職を得ている。
他にも多くの事例があるのだが、ディスアビリティが低い方に分類される彼/彼女らに共通するのは、選択が可能であったということなのである。
市場に労働場所を得ているからといって、すなわち包摂されているとは限らないが、少なくとも社会はAさんやBさんに門戸を開いている。日常生活のなかで「特別扱い」を嫌い上司ともめることがあっても、それは大きな抵抗の物語には発展しない。「小さい要求から徐々に(障害のために)必要なことを理解していってもらう」という闘い、いわば「静かな闘い」である。保身のためというよりは、それほどの抵抗を試みる必要がないほどには包摂されているからである。それらを勘案すれば、ディスアビリティの低い障害者の語りは「生き延びる物語」とでも名づけられるだろう。
称揚される物語と書いた。抵抗の物語は力強く牽引する物語でもあるだろう。しかし、その物語が届いているのは障害者に関心をもつ人々、社会的にはごく一部の人々ではないだろうか。一般的には、日常的に遭遇するのは「生き延びる物語」を生きる人々の「静かな闘い」のなかに立ち現れる異化された人々であり、そこに垣間見える障害者の生活であるだろう。
異化された人々の統合を模索するのであれば、「生き延びる物語」にも目を向けていく必要があるだろう。一見包摂されているかのような生活のなかで、彼らが培い、放つ力、そういうものが異質な人々の存在を気づかせ、そのような人もこの社会の一員であるという認識の浸透に寄与することになるのではないだろうか。
参考文献
石川准, 2000,「平等派でもなく差異派でもなく」倉本智明・長瀬修編『障害学を語る』エンパワメント研究所28-42
Morris,J.1991,Pride Against Prejudice, London:The Women`s Press
長瀬修,1999,「障害学に向けて」石川准・長瀬修編『障害学への招待―社会、文化、ディスアビリティ』明石書店11-39
1990, 安積遊歩・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也著編『生の技法』藤原書店
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