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ジレンマの解決に向けて

倫理学的視点から

野崎 泰伸 20070916
障害学会第4回大会 於:立命館大学

last update: 20151224

大阪府立大学OD
野崎 泰伸

◆要旨
◆報告原稿

■要旨

「究極の選択」と言われる。ある状況において、何か行為を選択すること、その選択の正当性の倫理をこれまでの倫理学は追求してきたように思われる。そして、それは生命倫理学においても同様なように思える。たとえば、「意思のなくなった時点における治療停止」のために、リビング・ウィルが言われ、自己決定が言われる。自己決定が大切であることは認めるにしても、生命の究極的な場面においてそれが「正当な」倫理であるとなぜ言えるのか。指針が必要にせよ、その指針はなぜ「倫理的」であると言えるのか。本発表では、(1)「究極の選択」をしなければならない状況において、ある決定が倫理的であるということは「道徳的詐術」であると述べ、(2)しかしながら「選択しなければならない現実」の位置取りをし、(3)その上で「真に倫理的な問題はどこにあるか」について考える。
 たとえば、いわゆる「救命ボート問題」がある。マーティン・コーエン『倫理問題101問』では、「ジレンマ」として、次のように問われている(p.24)。
「魚雷が戦艦「北方精神」のエンジン室を破壊。戦艦は瞬く間に沈み始めた。「船を捨てて逃げろ!」と冷酷無常なフリントハート船長が叫ぶ。だが、もうこれ以上、救命ボートは残されていない。仕方なく大勢の船員を詰めこんだボートは、舳先に船長を乗せて、沈んでゆく船から何とか離れようとしている。大西洋の冷たい灰色の海は、助けを求める悲壮な叫び声であふれている。これ以上の船員を乗せれば、この小さなボートが転覆して、すでに乗っている人間の生命まで危うくしてしまう……。その危険に直面したとき、さらに1人でも多くの船員を救い上げるべきだろうか」
 これはまさに「究極の選択」の場面であろう。そしてコーエンは、「船員を見捨てる」「1人自ら冷たい海中へ飛び込む」「船長を突き落とす」などの「倫理的答え」を模索しようとしている。だが、これは本当に倫理を探求していることにはならない、と本報告は主張する。
 そのような「究極の選択」に追い込まれたときにせざるを得ない「決定」とは、「処世術」なのであって、「倫理」ではない。そのような場面において、倫理は何ら効果を発揮しない。倫理はもっと手前において思考されるべきものなのである。そのような場面においては、ただ淡々と処世術を実行してしまうに過ぎない。そのような場面でとってしまう/とらざるを得ない行為を倫理と呼び正当化しようとするのは、道徳的詐術である。追い込まれた状況であっても、「選択しなければならない現実」はある。しかしその選択が、倫理的に正当化されるからそのように行為すべしというのは、端的に言ってごまかしなのである。「選択しなければならない現実」を前にしては、あらゆる倫理は諦念せざるを得ない。
 それでは、倫理は現実に対して無力なのであろうか。ある意味においてはそうであり、しかしまたある意味においては違う。倫理は「いま、ここにある」現実を変えることに関しては無力である。けれども、倫理は「未来のあるべき社会に向けて」現実を変えていこうという方向性を与えるものではある。救命ボート問題における倫理的回答とは、「救命ボート状態をなくしていくこと」である。ボートをもう1隻用意することこそ、倫理が命じるところなのである。定員不足のところで倫理が問われること自体が問題なのである。
 本報告では、こうした論理を医療や介護の現場で考えることによって、私たちが真に考えるべき倫理とは何かを提示する。
 その一例として、障害者自立支援法下で作業所やデイケアセンター、あるいは介護事業所の予算が苦しい中で、介助者は無償で介助に入らざるを得なかったりする。また、そもそも介助者不足の中で、介助が必要な障害者や介助者が苦しむ中で、日々を生きざるを得ず、また無償で介助に入らざるを得ないこともある。そして、本報告ではそのような中で選択される行為というのは、生の「技法」なのであって、決して「倫理」ではない、と主張する。そうした現場から、倫理は現場ではなく、社会全体でこそ考えるべきであることを本報告は主張する。「処世術=技法」と、「倫理」の水準を混乱しないことこそ、現場から思考をスタートするということなのであり、障害学と倫理学との結節点なのであると私は考える。(1760字)


 
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■報告原稿

はじめに

 「究極の選択」と言われる。ある状況において、何か行為を選択すること、その選択の正当性の倫理をこれまでの倫理学は追求してきたように思われる。そして、それは生命倫理学においても同様なように思える。たとえば、「意思のなくなった時点における治療停止」のために、リビング・ウィルが言われ、自己決定が言われる。自己決定が大切であることは認めるにしても、生命の究極的な場面においてそれが「正当な」倫理であるとなぜ言えるのか。指針が必要にせよ、その指針はなぜ「倫理的」であると言えるのか。本発表では、(1)「究極の選択」をしなければならない状況において、ある決定が倫理的であるということは「道徳的詐術」であると述べ、(2)しかしながら「選択しなければならない現実」の位置取りをし、(3)その上で「真に倫理的な問題はどこにあるか」について考える。
 たとえば、いわゆる「救命ボート問題」がある。マーティン・コーエン『倫理問題101問』では、「ジレンマ」として、次のように問われている(p.24)。

 「魚雷が戦艦「北方精神」のエンジン室を破壊。戦艦は瞬く間に沈み始めた。「船を捨てて逃げろ!」と冷酷無常なフリントハート船長が叫ぶ。だが、もうこれ以上、救命ボートは残されていない。仕方なく大勢の船員を詰めこんだボートは、舳先に船長を乗せて、沈んでゆく船から何とか離れようとしている。大西洋の冷たい灰色の海は、助けを求める悲壮な叫び声であふれている。これ以上の船員を乗せれば、この小さなボートが転覆して、すでに乗っている人間の生命まで危うくしてしまう……。その危険に直面したとき、さらに1人でも多くの船員を救い上げるべきだろうか」

 これはまさに「究極の選択」の場面であろう。そしてコーエンは、「船員を見捨てる」「1人自ら冷たい海中へ飛び込む」「船長を突き落とす」などの「倫理的答え」を模索しようとしている。だが、これは本当に倫理を探求していることにはならない、と本報告は主張する。
 そのような「究極の選択」に追い込まれたときにせざるを得ない「決定」とは、「処世術」なのであって、「倫理」ではない。そのような場面において、倫理は何ら効果を発揮しない。倫理はもっと手前において思考されるべきものなのである。そのような場面においては、ただ淡々と処世術を実行してしまうに過ぎない。そのような場面でとってしまう/とらざるを得ない行為を倫理と呼び正当化しようとするのは、道徳的詐術である。追い込まれた状況であっても、「選択しなければならない現実」はある。しかしその選択が、倫理的に正当化されるからそのように行為すべしというのは、端的に言ってごまかしなのである。「選択しなければならない現実」を前にしては、あらゆる倫理は諦念せざるを得ない。
 それでは、倫理は現実に対して無力なのであろうか。ある意味においてはそうであり、しかしまたある意味においては違う。倫理は「いま、ここにある」現実を変えることに関しては無力である。けれども、倫理は「未来のあるべき社会に向けて」現実を変えていこうという方向性を与えるものではある。救命ボート問題における倫理的回答とは、「救命ボート状態をなくしていくこと」である。ボートをもう1隻用意することこそ、倫理が命じるところなのである。定員不足のところで倫理が問われること自体が問題なのである。
 本報告では、こうした論理を医療や介護の現場で考えることによって、私たちが真に考えるべき倫理とは何かを提示する。

1 「究極の選択」と倫理

 ひとは「どうしようもない、いかんともしがたい状況」に直面する、あるいは直面せざるを得ない。そのような状況において、本当は「しかたなく取った行動」であるが、それをあたかも「倫理的行為」として「詐称」することがある。たとえば、以下の鷲田清一の議論を見てみよう。

 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況で、未だ「人の生命」でないものでなく現に「人の生命」であるものを選ぶということはある。が、現に「人の生命」である側の「恩恵」が、やがて「人の生命」となりうるものの生命を奪ってまで実現されてよいかどうかは、「倫理」の問題である。ここで「倫理」ということで絶対的な原則を言っているのではない。やむをえずどちらかの生命を選ばなければならない状況で、それぞれの重さをどう判断するかというその「落としどころ」の決め方を言っているのである」(『思考のエシックス』、2007、ナカニシヤ出版、p.259)

 鷲田は、ES細胞や中絶胎児を難病研究に使ってもよいかに関する議論の中で、このように述べている。もちろん、「落としどころ」はどこかで決めなければならないし、よりよい「落としどころ」であった方がよい。しかし、それを「倫理」と述べるのは、いかがであろうか。
 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」は、どうしようもなく現存してしまう。しかし、その枠の中で最善の方法を選ぶ、というのは、エコノミーの問題に過ぎない。なるほど、エコノミーは重要であることを私は認めよう。けれども、どの位置において重要であるかは、問われるべきである。たとえば、病院内や研究室内において、そのような指針は必要であるだろう。だとしても、なぜ重要なのか。それはいちいちその現場で考えていては、救われる者も救われないからこそ必要なのではないのか。そうだとすれば、そうした指針は「現場において思考を停止する」ための「処方箋」としてこそ、重要になってくるのではないのか。言い換えれば、エコノミーの問題――「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」という枠組みの中における最適解の問題――は、それじたい倫理ではあり得ないということである。
 まとめよう。このように、「落としどころ」は単に「落としどころ」でしかない。それ以上でもないし、それ以下でもない。ましてやそれは「倫理」ではない。「落としどころ」とは、「現存する枠の中」で物事を考え、引き出した答えに過ぎない。それでは、「落としどころ」が「倫理」ではないとすれば、この二者の関係はどうなっているのか、あるいはどうあるべきなのか。それを考える前に、「現実」の置かれる場所について、もう少し見ておこう。

2 現実は選択しなければならないところに置かれる

 私たちが現実を生きるということは、その都度行為を選択しなければならないということでもある。そうした行為は社会的に構築され得たとしても、また、進んでやる気が起こらなかったとしても、行為を選択し決定し実際に行動することは、生きている限りすることを宿命づけられている。純粋に何事も決定しないなら、生存は保てなくなり、死ぬよりほかない(ここではいわゆる「遷延性意識障害」や「重度認知症者」などのことは、とりあえず措く)。
 私たちは事情がどうあれ、まずは生きていくために、決定しなければならない。貧しいからといって、何も食べないわけにはいかないのだ。いや、もう少し正確に言おう。貧しいなら、なけなしのお金を出してとりあえず飢えをしのぐか、はたまた生き倒れるかどちらかであり、言葉の純粋な意味として「決定されなければならない」。
 ところで、飢えた人がその生をつなごうとするとき、現行の法を破ること、すなわち違法行為を行うことも考えられる。具体的には、盗みに入ったりすることが考えられる。盗んで生きるか、盗まずに死ぬかというまさに「究極の選択」のただ中にひとがいるとき、当然「盗んで生きる」ことを選ぶひともいるだろう。このとき、私たち――法を順守しながらとりあえずは生存を保てる人間――は、「盗人」を「倫理的でない」と指弾できるのだろうか。
 法を守ることじたいが、それとして中立ではない。なぜなら法にはある内容が書き込まれているからである。それゆえまた、法を守ること自身、それだけで正しいとも不正であるとも言えない。そもそも、法外に捨て置かれている者――サバルタンなり、ホモ・サケルなり言われたりする――を「法によって裁く」ことなど、論理的に矛盾しているはずである。飢えた「盗人」を「倫理的ではない」と指弾する輩は、法の位相と倫理の位相とを取り違えているのである。
 実際には、すべての飢えた民が「盗人」である/になるわけではない。むしろ、多くの飢えた民は餓死する。あるいは餓死を強いられる。法の中にいる人たちは時としてそれを「良い死」であると称賛してみたりもする。
 確かに、死んでくれたほうが、「死を選んで」くれたほうが、法に守られた人たちはありがたい。だが単に、それだけのことである。法に守られた人は、「死を選んだ」人をありがたく思う。だが、死を選ばずに、法の境界を破って、法の中に襲い掛かる人たちもいるだろう。生存を賭けた襲いである。法の中にいる人たちも、自分がやられまいと、応戦する。ただそれだけのことである。「正しい」から、あるいは「倫理的である」から、襲ったり襲わなかったり、応戦したりしなかったりするのではないはずである。「究極の選択」においては、もうすでに倫理が問えない状況になっているのである。
 現実における「究極の選択」とは、このように、倫理の彼方にある。この場所において、倫理は無力であり、その意味において倫理は諦念しなければならない。だとしても、倫理を問うことに意味はないことは帰結されない。問題は、倫理と現実との位置にこそあるのだ。

3 倫理の位置

 「究極の選択」とは、限られた選択肢の中から選択し決定しなければならないということだ。たとえば、現在の医療福祉制度のもとにおいて、ある状況における患者の「選択」が、「苦痛な生か尊厳ある死」のどちらかの選択肢によってしか与えられないことがある。そして、倫理はこうした現実のただ中にいる当事者にとっては、ほとんど無力であることを見た。
 しかし、これをもって倫理を放棄するわけにはいかない。倫理とは、現実のただ中における、言い換えれば、現実を準拠枠とする中において、正しい指針を与えるようなものではないのだ。それは、現実そのものの変革を意味するべきものである。つまり、現実の準拠枠を広げる、もっと言えば、現在の枠を壊し新たに作り直すことこそを倫理は意味すべきだと私は考えるのである。ただ、それだけでは何も言っていることにはならない。現実の枠を、正義の方向にもっていくことこそが、倫理なのである。
 その一例として、障害者自立支援法下で作業所やデイケアセンター、あるいは介護事業所の予算が苦しい中で、介助者は無償で介助に入らざるを得なかったりする。また、そもそも介助者不足の中で、介助が必要な障害者や介助者が苦しむ中で、日々を生きざるを得ず、また無償で介助に入らざるを得ないこともある。そのような中で選択される行為というのは、生の「技法」なのであって、決して「倫理」ではない、と主張する。そうした現場から、倫理は現場ではなく、社会全体でこそ考えるべきなのである。
 予算が足りなくて介助者に介助料が支払えないなら、端的に言って障害者が介助を受けないか、介助者が無償で介助するしかない。すなわち、現状の不正な状態においては、どちらかが我慢するしかないのである。その中において行為の倫理性は問い得ない、ということなのである。
 倫理とは、この不正な現状を問題にし、「どちらかが我慢しなければならない社会は、不正な社会である」という突きつけを行うものである。その意味において、倫理はいつでも現実に諦念せざるを得ない。倫理はいまここで我慢に苦しむ人たちを直接に助けるものではない。だとしても、「我慢に苦しむ人がいる」ことを明らかにし、開示していくことにとって、現状を変えようとする、そういうものである。いま苦しんでいる人たちが突きつける責任は全くない。むしろ倫理は、当座苦しまない人たちに課せられていると言えよう。
 「処世術=技法」と、「倫理」の水準を混乱しないことこそ、現場から思考をスタートするということなのであり、障害学と倫理学との結節点なのであると私は考える。障害学における倫理学的考察は、それが政策分析へと直につながり得るからこそ、非常に大切なものなのである。

文献

野崎泰伸 2005 「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』、第14号、75-90、大阪府立大学大学院人間文化学研究科)
―――― 2007a 「「生の無条件の肯定」に関する哲学的考察――障害者の生に即して」(大阪府立大学博士学位論文)
―――― 2007b 「どのように<倫理>は問われるべきか」(Web評論誌『コーラ』第2号、http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html
―――― 2007c 「私と生命学――他者、正義、暴力、歓待、責任、そして倫理」(未公刊)


UP:20070807 REV:20070830
障害学会第4回大会  ◇全文掲載

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