『世界』275(1968年10月号)沖縄特集
196810 岩波出版社.
last update:20110624
■196810 『世界』275(1968年10月号)沖縄特集,岩波出版社,
■目次
福木詮,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅰ沖縄・8・15の周辺」『世界』275: 151-155.
屋部義民,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅱシルバーダガー作戦の展開」『世界』275: 156-158.
吉田嗣弘,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅲ那覇港のコバルト60」『世界』275: 158-162.
石原和夫,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅳ2つの怪談――“海水浴炎”と奇形蛙」『世界』275: 163-164.
宮城正教,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅴ沖縄教育界と分裂策動」『世界』275: 165-168.
渡名喜正朝,196810,「キー・ストーンは石ころだった――全沖縄軍労組の闘争」『世界』275: 169-176.
新崎盛暉,196810,「復帰運動とその周辺」『世界』275: 201-209.
下地寛信,196810,「怨恨と恥辱との谷間で――沖縄問題の1つの側面」『世界』275: 210-212.
吉原公一郎,196810,「1968年の沖縄――「世替」への歴史のなかで」『世界』275: 213-220.
岡部伊都子,196810,「沖縄の道」『世界』275: 221-228.
宇都宮徳馬,196810,「転換する米アジア政策と日本」『世界』275: 229-241.
鶴見俊輔,196810,「日本とアメリカの対話――「反戦と変革に関する国際会議」の感想」『世界』275: 242-253.
■引用
▼福木詮,196810,「ルポ・沖縄・1968年8月 Ⅰ沖縄・8・15の周辺」『世界』275: 151-155.
「沖縄県の8月15日を意味づけた中心の行事は、日本社会党、総評系の原水爆禁止国民会議が、地元沖縄県原水爆禁止協議会(仲吉良新理事長)と、広島、長崎につづいて、はじめて沖縄県(那覇市)で開いた「被爆23周年原水爆禁止世界大会・沖縄国際会議」だった。」(151)
「沖縄大会にアクセントがついたのは、黒人代表の発言だった。ハービィ黒人反戦、反徴兵組織(スニック)代表は『米国人としてでなく、米帝に苦しめられている3000万人の黒人代表として、敵は1つであることを明らかにしたい』と前おきして『沖縄県民の人権と自治権を侵害している米帝は黒人と共通の敵だ』とのべ『泳げない海、入学を許されない学校』が米国にも、沖縄にもあることを例にひいて“差別政策”を受けているものへの説明ぬきの共感を表明した。それは、むしろ本土からやってきた代表団が10・21闘争やベトナム反戦運動を通じて、秋の主席、立法院議員、那覇市長の3大選挙にむけて本土でも沖縄支援の体制をつくるのだと決意表明を行なったのが、いささか公式めいて聞えたのにくらべると奇妙に実感のこもった連帯感を共有しうるひびきをもっていた。
そして、これは17日の『ベトナムに平和を! 市民連合』の沖縄講演会にやってきたR・アンソニー黒豹党広報副部長が約150人の若者を前に『沖縄は沖縄に返せ。日本に返すな。アンクル・トムの佐藤政府に返すな』とのべ、さいごに『Free Okinawa!』と結んだ時にも示された共感だった。この黒豹党の志士は、ベ平連の京都会議には入域許可を延引されて、沖縄へやってきたものだった。彼はアメリカ人であり、施政権者の米国人は60日間は許可なしに沖縄に滞在できるためであった。黒い志士が白人帝国主義をしきりに攻撃罵倒するので、集まっていた若者たちから『差別』が政策によるものであるのか、人種によるものなのか、分析が弱いと不満が出て『敵は白人なのか、帝国主義なのか』と質問を浴びた。黒い志士は『差別を自覚し、まず反抗せよ!戦闘的に戦え!』としきりにくり返した。話し合いの時間は少なかった。しかし、沖縄-黒人の対話が生れ、お互いの立場に理解をもち合ったことは、沖縄闘争の質を深めたものだった。」(151-152)
「沖縄県の核禁止運動の組織が、本土の組織の分裂のあおりをうけて二分していることも県民にとって不幸を二重にし、もり上がりを欠く原因になっていた。ともに、原水爆禁止沖縄県協議会の名称をもち、同じ行動をとりながら牽制しあい、対立しあっていた。沖縄県民の立場からみれば、この分裂、対立はまったく意味がなかった。なぜならば人民党、民青系の原水禁(芦沢弘明理事長)といい、仲良原水禁の主力である県労協、全沖労連などは秋の3大選挙に向けては、ともに革新共闘に加盟し、同一綱領で戦っていたからである。」(153)
「沖縄県民の土地や権利を守る戦いとの結合が不十分なままに、スケジュールを消化した原水禁大会の参加者有志は翌16日、B52が常駐している嘉手納空軍基地の第1ゲート前での反基地、B52撤去要求のために、午前9時半ごろから集りはじめた。
夏の沖縄にしばしば見舞う激しい、はげしいにわか雨が降った。ゲートといっても、扉があるわけではない。検問所の小屋があるだけである。その前に警戒に出ていた空軍警備員やAP(Air Police)は、急いでゲートわきの警備小屋に雨をさけるためかけこんだ。路上に一団をなしていたベ平連の学生らも、ゲート脇の大きなガジュマルの木の下にかけこみ、座った。すると、警備員約15人がとび出してきて『この地域内は軍施設になっており、立ち入り禁止地域だ。ただちに立ち去れ』と警告し、一行のもっていた旗を米憲兵がとり上げた。そこで、一行が立ちあがると、米憲兵隊が一斉にとり囲み、道路に押し出し、ちょうどウサギを逆さにつるすように、彼らの両足をもちあげて、つぎつぎに逮捕しトラックに収容した。
その芝生のきれいなガジュマルの木の下はいつもはゲートから出てくる米兵を待ちうけしているタクシーの運転手らが、日除けにしている公認の待ち合い所であった。」(153-154)
「逮捕された27人の釈放を要求して、琉球大学学生、本土からの帰省学生、本土各地区のベ平連、革マル全学連、自治会共闘、沖縄の官公労、新聞の労組員らは午後1時すぎからコザ署前で座りこんでいた。井岡大治社会党国民運動局長、仲吉沖縄原水禁理事長らは逮捕者らに黙秘解除を説得し、コザ署に対しては身柄釈放を要求した。[…]16日午後10時すぎ釈放された。学生らは『布令で逮捕されこわかった』といった。中には『興南が勝った恩赦かなと冗談をいうものもいた。そして、『アンポ』『フンサイ』と勢いよくとび出してきた。警官隊に何度も追われながら、遠まきにしていた市民は拍手した。しかし、外の釈放要求の学生たちは怒声をあびせた。
『おまえ達は、無条件で釈放されたのか』
『無条件降伏したのでないか』『あすから弾圧がくるぞ』『官僚的とりひき反対』
社会党の幹部は慌てて座りこみ部隊と、釈放グループを引き離しバスにのせた。社党幹部は、しきりに総括集会を要求する座りこみの学生に『おまえ達に何の責任がもてるのか』と怒鳴り返した。
たしかに、逮捕事件は不当であるにせよ『雨宿り中につかまえた』といって怒り、捕まると身分を全部明らかにするような原水禁側が説得し、戦わずに早く退去することを約束した無条件降伏だった。琉球政府側が、起訴猶予の措置をとると米民政府はすぐさま退去命令で追いうちをかけた。不徹底な戦いのために県民側の怒りと結びつかず、大部分は船で去り、その一部は不徹底な入域手続拒否闘争によりまた那覇港に戻ってきた。しかしそのような甘いような闘争ですら一種の衝撃力と、矛盾暴露の戦術にはなりえていた。けれども、嘉手納村で交わされている兄妹たちの切実さには及んでいなかった。」(155)
◆福木氏の評価: 「沖縄県民の土地や権利を守る戦いとの結合が不十分」な戦いであった。社会党と学生との温度差の確認。学生のいうように「戦わずに早く退去することを約束した無条件降伏だった」との評価。しかし、「一種の衝撃力と、矛盾暴露の戦術にはなりえていた」という全体評価。
■新崎盛暉,196810,「復帰運動とその周辺」『世界』275: 201-209.
「ティーチ・インにおいて従来の復帰運動を批判するという立場から、活発にその主張を展開したのは、本土革共同革マル派と親近性をもつ沖縄マルクス主義者同盟(沖縄マル同)の影響かにある学生や労働者であった。彼らの復帰運動批判は、とくに運動の基調をなすナショナリズムに対して向けられる。1人の労働者の発言からその主張を要約してみるとおよそつぎのようになる。
『第二次大戦による日本のための犠牲、23年間にわたる本土・沖縄の分断と米軍支配による精神的、物質的苦悩は、たしかに民衆の間にナショナルな感情を生み出したが、これを拡大再生産しながら、民族主義イデオロギーに転化させていったのは、祖国の幻想を描いてきた復帰運動と教職員会の民族主義的教育である。復帰運動は、民衆の心情を民族意識の枠のなかに閉じこめつつ、右翼的部分では日の丸運動として、左翼的部分ではヤンキー・ゴーホームを叫ぶ反米民族主義運動として展開してきた。このような民族主義的復帰運動は、第1に階級関係をあいまいにし、第2にインターナショナルな連帯を妨げている。すなわち、アメリカ帝国主義と日本帝国主義による沖縄支配の現実と、これに対する戦いの方向は、運動方針のうえでも、スローガンのうえでもまったく示されておらず、また、ヤンキー・ゴーホームという叫びからは、アメリカ国内における反戦運動との連帯という方向などは生れようもない。
[…]
今年の復帰協定期総会では、「基地撤去」という運動方針をかかげられない団体も加盟しているという理由で、統一と団結を守るという立場から、人民党までも含めて、基地撤去についてはほとんど論議すらされずに「基地反対」という方針が決定された。
また、支配階級の明確な意図に貫かれて打ち出された一体化政策との対決もあいまいで、現状固定化のための一体化政策には反対だが、復帰をすすめるための一体化には賛成だなどといっている。さらにB52撤去問題で上京した原水協の代表団が佐藤首相と握手しながらB52の撤去に協力するようお願いしていることからもわかるように、佐藤政権打倒どころか、いぜんとして復帰運動を中心とする運動は日本政府への請願運動にとどまっているのだ。』
60年代初期の琉球大学マルクス主義研究会(琉大マル研)やマル研の流れをくむ現在の沖縄マル同の一貫したナショナリズム批判は、沖縄マル同の思想的影響かにある3大学(琉球大学、沖縄大学、国際大学)反戦学生会議の行動的ラジカリズムとあいまって、マンネリズムに陥りがちな復帰運動にあきたりない感じをもつかなりの人びとの共感をよんでいる。もっともその共感は、理論的なものというよりもむしろ心情的なものである。
というのも、彼らの主張は従来の運動に対する批判としてはきわめて鋭いものをもちながらも、従来の運動にかわるべき運動の積極的な提起にまではいたっていないからである。たとえば、請願運動に対する批判は正しいとして、では沖縄の地において、いかなるかたちの対政府(日本)闘争が可能であり、有効であるのかという問いにも答える必要があろう。
また復帰運動内部の心情的要素をナショナリズムとしてのみ裁断してしまってよいものかどうかという点にも若干の問題が残るし、ナショナリズム批判そのものがそれなりに完結してしまって、ステレオタイプ化してきた傾向も見受けられる。」(206-206)
「ところで、この8月には、嘉手納基地ゲート前で本土からの渡航者27人が米空軍警察(AP)に逮捕されたり、晴海埠頭で帰省学生を中心とする10数名が渡航手続きを拒否し、パスポート(身分証明書)を焼き捨てて下船を強行するなど、いくつかの実力行動があらわれた。では基地撤去や渡航制限撤廃に関するこのような直接行動は、具体的にはどのようなかたちで行なわれ、どのような意味をもっているのだろうか。
沖縄において、直接基地に向けた行動が行なわれるようになったのは、今年にはいってから、とくにB52飛来以降のことである。2月には嘉手納村で沖縄原水協を主体とする1万人規模の抗議集会がもたれ、基地に向けてのデモンストレーションが行なわれた。こうした行動は、選挙戦の本格化とともに下火になったが、そのようななかで、5月2日に本土ベ平連のメンバーによる嘉手納基地第1ゲート前のすわり込みが行なわれた。この行動は、これを排除するために武装APが出動したこともあって、かなり大きくとりあげられたが、思いつき的、一発主義的傾向がないとはいえなかった。もっともこのときには、沖縄原水協や琉大反戦学生会議などの部分的支持と参加をえており、沖縄側の運動とも一応のつながりを保っていた。
しかし、8月16日に同じ場所で行なわれた行動は、ほとんど沖縄側の運動とは切れていた。この日、沖縄原水協と本土原水禁代表団は、沖縄ではじめて開かれた原水禁世界大会沖縄国際会議に参加した本土代表や外国代表を含めて「B52と核基地に抗議する集会」を嘉手納基地第1ゲート前で開き、革新共闘推薦嘉手納村長候補平安常慶氏の選挙事務所前までデモ行進を行なう予定であった。
ところが、予定より1時間早く到着したベ平連会員を中心とする27人が、米軍側の退去命令を無視してゲート前の芝生[…]にすわり込んでいて逮捕されたのである。」(206-207)
「APは、逮捕した27人の身柄を琉球警察のコザ署に移した。突発的な逮捕事件にあわてた本土原水禁代表団と沖縄原水協は、早急に問題を収拾するため、事件を偶発的なものとして処理しようとした。こうしてこの行動は「事情をよく知らない本土側の人びとがゲートわきの木の下で雨やどりしていたときに逮捕された」ということになり、逮捕された27人は、「滞在中その行動を慎む」など、いくつかの条件つきで約13時間後に釈放された。一方コザ署前には、27人の無条件釈放を要求して反戦学生会議や一部労組員などが断続する雨の中を10時間近くもすわり込んでいたが、これらの人びとが、このような問題の処理に対してきびしい批判を加えたのは当然であった。
しかも釈放された人びとの多くは、コザ署前にすわり込んでいた人びとの総括集会にも参加せず、原水協さしまわしのバスでその場を立ち去ってしまった。」(207)
「27人のうち4人は退島命令に異議を申立てたものの19日になって、旅費や船便の都合を口実にした政治的主張のまったくない滞在延期の嘆願書を米民政府に提出した。おまけに、この嘆願の模様を伝えた新聞記事が正確でないとして新聞社に抗議する一幕もあったが、この記事を書いた新聞記者は逮捕された人びとの無条件釈放を要求してコザ署前にすわり込んでいた1人であったために「権力の前ではビクビクしながら、ブル新呼ばわりは片腹痛い」と憤慨するという付録までついた。」(207)
「いずれにせよこの行動は、嘉手納村民やコザ市民はおろか、沖縄人民のいかなる部分とも連帯することなく、またおそらくは連帯の可能性すら求めようとしないで行なわれた行動であった。晴海埠頭における実力下船に参加した原水禁代表の1人が巧みに表現していたように、この行動は「沖縄から本土に向かって手をふっているような行動」であった。
もとより、本土の組織や個人が沖縄現地において直接的な基地撤去行動を行なうことそれ自体は、なんら否定されるべきではない。だが、そのような行動を行なう場合には、沖縄における運動の一環としてその行動を明確に位置づけ、その行動に対する個人的、組織的責任を十分に認識したうえで、基地労働者や基地周辺住民をはじめとする沖縄人民との連帯を確立する方向において行なわなければならないであろう。さらにまた、本土の組織や個人の本来的任務が、沖縄現地ではとりくみにくい対政府(日本)闘争を、本土において協力に展開することにあるということも忘れてはなるまい。原水禁大会の分散会などで、大会運営者の側が「沖縄の実態を本土代表が実感として十分把握することの意義」をくりかえし強調していたのに対し、「沖縄に来なければ沖縄闘争は闘えないのか」という反撥がかなり強かったことも見落とせない。」(207-208)
「さて最後に、8月23日に晴海に着いたひめゆり丸船上における渡航制限撤廃運動についてふれておこう。
これまで、本土と沖縄の人的交流を直接的に妨げてきたのは、米民政府の出入域許可というかたちの渡航制限である。[…]また実際には渡航を拒否されたことのない一般移民や学生などの間でも、渡航拒否をおそれて、その行動を自己規制することが多く、渡航制限は、直接間接、沖縄と本土の連帯を断ち、政治行動を抑制する大きな力をもっていた。
したがって、渡航制限撤廃の戦いは、復帰運動内部におけるもっとも重要な個別的闘争(部分的改良要求実現のための闘い)として認識されており、事実いくつかの出入域の不許可に対する抗議行動が行なわれている。とくに、琉球大学に招聘された永積安明神戸大学教授に対する渡航拒否事件は、琉球大学の全学生を結集する抗議行動を生み出しており、それのもつ意義は軽視できない。
しかしややもすると、渡航制限撤廃の闘いは、つねに新しい闘争形態を追及していくというよりも、「渡航制限撤廃」のスローガンをかかげてことたれりとする傾向に陥りがちであった。
このようななかで、去る3月10日に4人の学生によって那覇港で行なわれた入域手続きの拒否は、渡航制限撤廃闘争のなかにまったく新しい行動形態を導入することになった[…]。「日本人が日本の中を往来するのにパスポートはいらないはずだ」というきわめて常識的な主張を行動かしたという点でも、また、渡航手続きの拒否を切離された行動として行なったのではなく、船内における討論集会や署名運動と結び付けたという点からもこの行動は多くの支持をえた。」(208)
「渡航制限撤廃闘争を、本土と沖縄の闘いを結合させるためのもっとも重要な闘いと考える沖縄出身学生たちによって組織されていったのが全国沖縄闘争学生委員会(沖縄委)である。8月23日、晴海において渡航手続きを拒否して実力下船を行なったのは、この沖闘委と、沖縄における原水禁世界大会に参加した本土原水禁代表、反戦青年委員会などの有志である。また沖闘委は3月の那覇における行動が、一般大衆の支持はえながらも組織の支持はほとんどうることができなかったという体験から、沖縄闘争にとりくむ民主団体や個人に渡航制限撤廃共闘会議とでもいうべき組織を結成することをよびかけた。こうしてつくられたのが8月沖縄闘争実行委員会であり、このメンバーがひめゆり丸の直接行動グループを晴海に出迎えたのである。
さて、8月21日、那覇港で、琉大反戦学生会議や沖縄ベ平連などとともに渡航制限撤廃要求の集会を開いてひめゆり丸に乗船した沖闘委を中心とする直接行動グループは、翌22日から、渡航制限問題に関する討論集会や署名運動、そして膝をまじえての話合いなどをはじめた。署名運動では、681名の乗船客のうち432名の署名が集められ、40数ドルのカンパが寄せられた。討論集会では、渡航制限が不当であることは認めながらも、直接行動グループに参加しえない条件下にある者に何ができるか、ということが話題になった。[…]一部の乗船客が、ありあわせの荷札に、思い思いに「渡航制限撤廃」の意志を明らかにした文句を書いて胸にさげはじめた。せめて意思表示だけでも行なうべきだというわけである。
リボン闘争ならぬ荷札闘争の発生は、直接行動グループをひどく喜ばせた。大急ぎで荷札書きがはじまり、それが乗船客に手渡されていった。そして翌23日の昼ごろまでには、少なくとも乗船客の半数以上が「渡航制限撤廃」の荷札を着け、そのままパスポートの確認を受けて下船していった。
沖闘委の学生たちが、生硬な特殊用語を意識的に避けて、平易な言葉で集会や話合いを行なったことも、一般乗船客と学生の間のコミュニケーションを円滑にした。」(208-209)
「直接行動グループが、最終段階ではかなりもたつきと混乱をおこしながらも、実力下船に成功したのは、支援グループの出迎えがあったからでもあるが、それ以上に乗船客の直接間接の支持があったからである。
こうしたことからも明らかなように、今後、技術的にはますます困難さを加えるであろうこうした直接行動が、渡航制限そのものを無意味なものとするところまで発展するか否かは、渡航制限問題にはとくに敏感な反応を示す、また示さざるをえない乗船客との連帯をどのようにして確立するかという点にかかっているといえよう。」(209)
■下地寛信,196810,「怨恨と恥辱との谷間で――沖縄問題の1つの側面」『世界』275: 210-212.
「沖縄の人びとが、過去における差別を、そして過去の歴史の延長としての現在について、うらみつらみを並べたてても、本土の人びとは、ただ“恥じ入る”ばかりで、制度的なまたは心的状態としての“差別”を克服するための、沖縄の人びととの共同作業に加わることをサボっている実情ではないか。」(211)
「いま本土と沖縄との間に最も必要なのは、歴史的事実、つまり差別したものと差別されたものとが、相互の傷口を再切開しての、真摯な対話であり、その対話の成果を踏まえて、未来への展望を開く努力を、共同で行なうことである。」(212)
「本土の人びとは「沖縄にたいしては恥じ入るばかりである」と言い、あとは絶句するばかりである。問題は、恥じ入るが、しかし……と展開されなければならないが、いきりたつ沖縄の人びとの見幕に押されて、本土と沖縄との対話は序章の部分で途切れてしまうのである。」(212)
■岡部伊都子,196810,「沖縄の道」『世界』275: 221-228.
「主権在民、人権平等の憲法はある。沖縄の人びとはこの憲法に守られたくて復帰の熱願をこめている。だが果して本土(やむを得ずやはり本土を使う。いわゆる本土)に、憲法は十分生かされているだろうか。まだまだ、部落差別も、階級差別も、職業差別も根強い。そしてさらに沖縄差別、朝鮮差別が執拗にのこっている。」(224)
「このすさまじい巨大な基地を、返還する気などあるまい。この8月16日の朝日の紙面によると、学生やベ平連会員の22人が嘉手納基地の第1ゲート付近で逮捕されている。木の下で雨宿りをしていたところへ、空軍警察の米兵数10人が駆けつけていきなり逮捕したということだ。
この5月2日、はじめて行なわれたゲートでの市民の坐りこみのニュースに感動したのは、生ぬるい中間市民層の集団だといわれていたベ平連が、その生ぬるさゆえの力で、他の政党が当然なすべくしてなし得ていないことを、行動でもって実行したからである。
そして、全軍労の10割休暇闘争や、伊江島の住民、教職員組合の抵抗など、各地に根強く前進している住民闘争に、刻々に目ざめてゆく住民がふえている。」(225)
「『停車、立つこと、徐行を禁ず』と、軍用道路の標の立っている1号線は、アメリカの都合で、いつも閉鎖される道である。ビラをまくことも、労働運動することもできない規則になっていることを知っていると、ゲート前での坐りこみや、脱走呼びかけのビラ渡しが、どんなに大きな行動であるかがわかる。」(226)
「日章旗はここでは抵抗のしるしである。本土では逆コースに利用されるおそれのある日章旗である。たった1枚の日章旗が、混同しようもない意味のちがいをみせるそこに、分断の事実があるのだ。」(227)
「沖縄は他国の占領から独立し、本土の差別を許さぬ沖縄自身の沖縄をつくってほしい。それは人間共通の解放、世界各地ですすめられている人間解放そのものであり、世界人類への愛と連帯なのだ。」(228)
■書評・紹介
■言及
*作成:大野 光明