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丸山 一郎

まるやま・いちろう
1943〜2008/03/02

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学歴
昭和41年3月 慶應義塾大学工学部卒業
昭和44年6月 米国サンフランシスコ大学卒業
職歴
昭和41年4月 (福)太陽の家
昭和45年6月 東京都心身障害者福祉センター
昭和47年4月 (福)東京コロニー福祉工場長
★昭和55年1月 厚生省社会局身体障害者福祉専門官
昭和55年3月 内閣総理大臣官房国際障害者年担当参事官補
平成2年7月 (社)全国社会福祉協議会障害福祉部長
平成4年4月 アジア太平洋障害者の十年推進NGO会議事務局長
平成8年4月 (財)日本障害者リハビリテーション協会企画研修部長兼国際部長
平成11年4月 埼玉県立大学保健医療福祉学部教授


 *以下は立岩のデータベースに入っていたものだけ。

◆2007 ヤマト福祉財団小倉昌男賞・受賞スピーチ,吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草(↓)
 https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3089
 https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3090
 https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3091

https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n321/n321019.html
 「昭和55年1月、私は、厚生省障害福祉専門官の辞令を丸山さんに渡した。思えばそれからの25年余、丸山さんの「共生の人生」は絶えず私との「二人三脚」ともいえる歩みであった。内閣官房国際障害者年担当室への転出、全国社会福祉協議会障害福祉部長への招へい、日本障害者リハビリテーション協会国際部長への就任。その間におけるアジア太平洋障害者の十年NGO会議事務局長、日本障害者協議会副代表等の兼職を通じて果たされた国内外の障害者団体およびリハビリテーション専門職団体等の「つなぎ役」「相談役」「エンジン役」等の超人的ともいえる活躍の数々。そして、平成9年、埼玉県立大学保健医療福祉学部への転身を決意されるに至る経緯も考えてみれば、丸山さんと私との絆から生まれたように思われる。
 丸山さんと私の年齢差は16歳。その年齢差を超えて、よきパートナー、同志ともいえる行動をとり得たゆえんのものは、何であったろうか。
 一つには、障害者問題への開眼の動機、原体験が同じ東京パラリンピックであったことかもしれない。
 二つには、国際障害者年の成功・外圧を活かして、遅れている日本の障害者施策の前進を、という共通の「志」が最大の理由ともいえよう。
 三つには、障害当事者およびリハビリテーション専門職の幅広い結集とそのエネルギーこそがすべての原動力という共通の確信を持っていたからだとも思う。」

https://mairi.me/-/1081320
 「1943 - 2008 埼玉県立大教授 障害者福祉論 長野県 65歳で亡くなりました。1943年に誕生、2008年03月02日に亡くなりました。」

◆中村裕伝刊行委員会 編 1988 『中村裕伝』,中村裕伝刊行委員会

 「のち『太陽の家』の職員として働く丸山一郎氏は、身障者問題や福祉の研究のためにアメリカへ勉強に行き、そこで『グッドウィル・インダストリー』社を見学し、詳しいレポートを書いて中村に送った。
 丸山氏と中村の間で、『グッドウィル』そっくりの慈善工場をやるために、丸山氏に『別府に来て、その仕事を推進してくれないか』という話はそれまで全くなされていなかった。にもかかわらず、中村は集まった人たちに向かって、『丸山さんが参りますので・・・・・』というふうに言ってしまうのだった。これが中村が用いた手法の一つであった。
 中村は身障者のためのリハビリテーションを広めることを考えた。しかし、『慈善工場』というアイデアが、40年6月頃から中村の内で具体化していたのである。 」(p.128)

 「丸山一郎氏は語った。
 『いまから比べたら、その頃、障害を持った人の状態は悲惨でしたね。働きたいという願いで家出同然の形で全国各地からやって来ました。正式な手続きなど取らないで、一方的に押しかけてやって来るわけです。脊髄損傷で排尿便のコントロールが出来ないから、2日間、飲まず食わずで、本当に這いずり廻ってやって来るんです。全身、泥だらけです。その意志や苦労は並大抵のものではないのですが・・・・・。玄関で何か変な声がしているので出て見たら、北海道から来た人でした。』 (pp.162-163)

◆19771210 「障害者のホワイトハウス会議」
 『われら人間』003:12-13
◆19820331 「国内長期行動計画の在り方――障害者対策,10年の方向と目標」
 『リハビリテーション研究』39:8-12 ※COPY
◆19831001 「「共同ハウス」の実践に学ぶ――重度障害者が地域に住むための条件整備の進展を期して」
 『リハビリテーション』267(1983-10):10-13 ※COPY
◆19841215 「就労,ディ・サービス」
 仲村・板山編[1984:118-125]  ※
◆19880901 「自立生活を支える福祉制度」
 三ツ木編[1988:014-040]  ※
◆19910301 「障害者対策をめぐる国際的動向」
 『月刊福祉』74-03(1991-03):036-041 ※COPY(特集:社会福祉制度改革と障害者福祉対策)

◆Tatara Toshio(多々良 紀夫) 19800401 「米国の障害をもつ人々の公民権について――リハビリテーション法 504項の考察」
 『社会福祉研究』26:9-17 丸山一郎訳 ※COPY

 ※は生存学資料室にあり

■言及

◆安積 遊歩・立岩 真也 2022/**/** 『(題未定)』,生活書院

◆2007 ヤマト福祉財団小倉昌男賞・受賞スピーチ,吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
 https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3089

盟友というべきか、同志というべきか、
心から尊敬する畏友というべきか、
丸山一郎(マルイチ)くんが、
多年にわたる障害者福祉への学術的、
実践的貢献が評価され、このほど、
ヤマト福祉財団から
小倉昌男賞を授与された。

ともに、故・橋本祐子(さちこ)先生の弟子であり、
早稲田と慶応ではあったが、
学生時代の東京パラリンピック以来、
日赤語学奉仕団の活動を通じての仲間である。

マルイチは埼玉県立大学の創立に大きく貢献し、
初代の社会福祉学科長であり、
私は招かれてそこのヒラ教授であったこともある。

皇后陛下に二人でお招きを受け、
昼餐をいただいたこともある。

皇后様も今回の受賞を喜ばれ、
病状をさぞ、ご心配くださっていることと拝察する。

以下は、「余命いくばくもない」と自ら言う
大病を患う、私より何歳か若いわが友の、
自叙伝とも言うべき
あるいは遺言とも言うべき、
受賞スピーチである。

現代医療のすばらしさに期待し、かつまた
最後は奇跡を信じつつ、
この挨拶を永久保存し、
その目指した志を多少でも語り継ぎたい。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

本日はお越しくだされ誠にありがとうございます。
この4月に腫瘍が見つかり療養中でありまして、
ご覧のように栄養を中心静脈の点滴でしております。
この度のこと、私がしてきましたことが、
小倉昌男さんの賞に値するのか
お恥ずかしいとことがありますが、
本当に多くの皆様のご厚情に感謝し
あり難く頂くことにしました。

ことに大変な苦労をかけてきました妻や家族に
少しは報いることができるかと喜んでおります。
皆様誠にありがとう御座いました。

疲れで声が止まりますので、
息子にメモを代読させますことをお許しください。

約40年まえの1964年、私の学生のときです。

日本赤十字社の通訳ボランティアとして参加した
「東京パラリンピック」では、
外国人選手が目を見張る激しいスポーツをする傍らで、
日本の選手はすべて病人か患者として扱われ、
病院と収容施設から来ておりました。

働いている人は誰一人としていませんでした。
働けると思っている人もいませんでした。

一方、欧米の選手はすべてが普通の社会人で、
かなりの重い障害のある人でも、
さまざまな職業につき社会に参加していることが解りました。

欧米からの参加者は、
障害のある人びとを取り巻く日本の状況を、
彼らの社会からみて
少なくとも30年から50年は遅れていると言いました。

日本選手の解団式では、
人間賛歌の素晴らしい世界大会にでられた歓びの反面、
明日からまた全く希望のない生活に戻ることを想い、
皆泣いていました。

私は、彼我の社会的に大きなギャップと
日本人の惨めな状況に愕然としたのです。

パラリンピックの選手たちの就職支援を
ボランティアグループで取り組みながら、私は
卒業論文で「障害と生産性」をテーマにして、
雇用されない障害のある人々の働く状況を調べました。
                     (つづく)

https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3090

箱根の傷痍軍人の授産場、
東京・神奈川の数少ない授産施設での内職仕事では
人々は暗い表情で働いていました。 

東京コロニーでは、
国鉄払い下げの客車を区切って住み、
病院の残飯を食べ、
ベッドの上でガリ版印刷をしながら
職場を自分たちの力で作ろうとしている調一興さんたち
結核回復者の姿に特に衝撃を受けました。

さらに、欧米からの選手の実際の職場を訪ねることが出来、
リハビリテーションと雇用施策の違いと、
ともに生きる社会環境をつくることや、
根本的な障害に関する考え方を知るのです。

特に、一般雇用されることの困難な
重い障害のある人々の多くが、
米国グッドウィルインダストリーやアビリティーズで楽しく
働く姿を見、
ヨーロッパの選手の多くが
英国のレンプロイのような、
特別支援の雇用政策の下で働いているのを知り
勇気づけられました。

日本の遅れは絶望的に思えましたが、
他面、欧米で進められたことは
日本でも実現できるはずだとも考えました。

パラリンピックの団長であった中村裕先生に、
欧米での状況を報告し、
内職や零細作業所でなく近代的な工場を作るべきと提言し、
後の「太陽の家(別府)」の建設募金運動に参加しました。

“家”と当時の障害のある人への想いから
水上勉さんがつけたのですが、
英文名はJapan Sun “Industries”としたのです。 

卒業後、
工場計画や品質管理、動作研究を勉強したことが
役立つかも知れないとも思い、
九州・別府に飛び込んでゆきました、
無我夢中であったようです。

竹細工から始めながら、
三年目にシャープに部品納入を実現できたときは
大歓声を上げました。

現在の「太陽の家」は、
伊方博義さんのような優れた実務家や
全国から集まった障害のある人の頑張りにより、
他には類のない、
オムロン、ソニー、ホンダ、三菱商事、デンソー、富士通などの
大企業と提携した1100人を超える
障害のある人の雇用就労を継続しています。

東京パラリンピックから43年がたちますが、
私は、調一興、小川孟、板山賢治さんなどの
先輩である良き師に指導をうけ、
頼もしい仲間を全国にまた世界各国に得て、
職業リハビリテーションと雇用就労の促進、
福祉工場の経営と多様な就労方式の開発、
環境改善運動、障害者施策の促進、
アジアの働く場づくりと人材養成などに係わる機会を
与えられました。

本日一緒に受賞するという嬉しいことになった
山田昭義さんとも生活圏拡大運動からの古いお付き合いです。

特に国内の多くの障害関係団体の活動をつなぐ役、
国際的な協力すすめる役割を少しは果たせたのではないかと
思っております。

障害のある人々との運動体験を基本にして、
国際障害者年のPR担当福祉専門官として
様々な施策の提案ができたことも大きな歓びでした。

この間に確かに多くの前進がありました。

私が係わることが出来た、情報提供などを通しての
障害問題の理解促進、政治的関心の喚起、
当事者運動との調整などの成果として、
基礎年金制度・特別障害者手当が創設され、
障害のある人々の所得保障が改善され、
多くの障害のある人々の生活が一変したことは
大きな喜びでした。

ともに生きるということにむけて、
日本社会が必要な費用を国民全体が負担することを了承した
大きな前進だと誇りに思ったものです。

アジアへの日本の具体的貢献ができたとも思いました。

これらを徹底して、
もう一歩を進める事が出来れば解決できそうだと
期待がもてました。

国連は障害問題のテーマを
「完全参加と平等」から「総ての人の社会」へと進めましたが、
50年の遅れは縮まったのではと思えたのです。
                          (つづく)

https://blog.canpan.info/fukiura/archive/3091

しかし、
障害問題が社会全体をよくすることの基本であるとの
共生社会への理解は、
財政危機にともなう社会保障削減の動きのなかで
進展がとまりました。

今や逆行しているとさえ思えます。
社会保障全体の論議に、
最も生活に困難を抱える人々の問題への取り組みが
回避されています。共生社会の根本が決断されていません。

重度障害のある人々が
当たり前の社会生活が出来るところに目標をおけば、
総ての人の利益につながることを、
社会の総ての分野が根本的に理解することを
もう一度努力できればと願うものです。

障害基礎年金を誕生させた国民全体の動きを再現したいのです。

雇用に関しても、本当に職業的に障害のある人々、
生産性低い人々は、
福祉施策の対象とされ雇用政策から排除されたままです。

このことは50年以上も前に
ILOが勧告をしていることなのです。

この度行ったILOへの申し立ては、
企業、労働組合、社会福祉事業者、
そして政府など社会全体への問題提起です。

これ以上見過ごしてはなりません。

余命は短いのですが、
問題解決への協力体制づくりの働きかけを続けて、
次に引継いで貰いたいと存じます。

今回の受賞は小倉さんが
最後までしっかりやれとハッパをかけてくださったのでありましょう。

皆様に心から御礼申し上げます、
本当にありがとうございました。
                       (完)


REV:20220715, 0903
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇WHO 
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