HOME > Tateiwa >

希望について

立岩真也 20040901
『本』2004-9(講談社)


 *この文章は、新たに注を付した上で、同じ題名の著書『希望について』に収録されました。買っていただけたらうれしいです。

 学生の頃からだが、いつも負けている、負けが混んでいるという感じはずっとあって、それは嫌だなと思っていた。それから何かが良くなったかといえば、普通に世の中を見ればそんなことはなく、むしろこの間、ろくなことは起こっていない。ただそれでも私は、ただ暗いのに飽きたというだけかもしれず、それほどはっきりした根拠もないのだが、楽観しようと思えばできるはずで、問題はむしろ悲観している側にある、と思うようになってきた。
 この世に不満をもち、ましにならないかと思っている――そしてそれは正しい考えだと思っている――が、この世はそうなっていない場合、しかも形式的であれなんであれ民主制の政体がとられていて、皆が自分(たち)と同じなら世はもっとましになってよいはずなのにそうなっていない時、どう考えるか。その人(たち)の希望が実現しないことの困難を言う言い方は、一つではないが、そう多くはない。私は、まず以下の二つのタイプの暗さをそのまま受け入れないようにしようと思った。
 一つは、民衆はだまされているという理解である。本来その人たちは正しく、だから勝つはずなのだが、誰かにうまいこと言いくるめられているとするのである。これは広い支持を得ようと思う人たちの言い方であり、実際、選挙が気になる政党の人たちの言い方である。その人たちは、本来はみなさんは味方だと言わなくてはならないからだ。しかし第一に、(少なくとも日本の場合、かなり長い間)ずっとだまされてきたと言うのには無理があるように思える。第二に、見えてよいものが見えていないと言うのだから、民衆を持ち上げているようで同時に馬鹿にしているようでもある。第三に、そんなふうに多数派を持ち上げてよいのかということがある。その人たちも実は悪いかもしれないではないか。
 そこでもう一つは、もっと素直に考える。今の方向にもっといけばよいと思っている、あるいは今のままで行くしかないと思っている人たち、正しくない人たちの方が数が多く、力が強いのでこうなっているのだと考えるのである。もちろん権力があるところには抵抗がある、両者は同時に生起すると言われるのではあるが、権力でも体制でも多数派ても、どんな言葉でもよいのだが、初めから抵抗される側の方が強く、そちらにはいつも負けることになる。それでも抵抗する側に付く人はいる。それも辛いだろうと思うが、ずっとやっていると「アイデンティティ」がそこに形成されてしまうから、続けられる人もいるにはいる。その自虐かつ自尊の香りが好きになれない人には、それは鼻につく。(他に、以上の変種とも言えるもう少し手の込んだものがあるが、ここでは説明は略。拙著『自由の平等』第3章で簡単にだがふれている。)
 以上は、不快になる人にとっては不快な単純化、戯画化ではある。だが、まるで間違ってもいないと思う。一つ目のものは、結局、なんだかよい子ぶっていて同時に偉そうである。二つ目のものは昔あった言葉を使えば、敗北主義的で、それに居座っている感じがする。
 そんなこともあってか、現在の多数派と添い遂げることにし、ぺたっとくっついてしまう――とはいっても人は多様ではあるから、ある一部にくっつくことになるのだが――人たちもいる。煮えきらない話に飽きてしまって、かえってその方がすっきりしていると思うからかもしれない。しかしそれも嫌だと私は思う。
 それではいよいよ出口がないではないか。そんなことはない。
 ここで暗くならないためにまず大切なことの第一は、以上のいずれも暗い二つの話とまったく違う話などできはしないとわかることだ。なんだ、と思われるかもしれないが、多数がよいと言えば決まる社会であるなら、よい社会になっていないのは多数派が間違ってるから、そして/あるいは、悪いからだとしか言いようがない部分はある。それと全然別の話をしようと思うと、できないから、結局簡単で安直な転向しか残されていない。ある程度の面倒臭さ、辛気臭さにはつきあう覚悟をする。その方がかえってさっぱりする。
 第二に、こうしてそう決定的に晴れやかなことは言えないと思いなから、すこし別様に考えられるだけのことを考えてみることだ。私はそれを「ずらす」(とか「脱構築」とか)といった言葉が好きな人が言うような深い意味合いで言っているのではない。私がやってみようと思うのはもっと素朴な行いである。格別の技があるわけではない。しかしあまりにわかりやすすぎる図式で考えたところに希望のなさもあると思うから、とりあえず考えられることは、順序を追って、考えられるところまで考えてみようということである。
 第三に、人々の立場に自分の立場を重ね、自分が思うことなのか人々が思っている(ことになっている)ことなのか、よくわからないようなことを言うこと、そしてたんに自分が思うことを言うのに、多数派であれ少数派であれその人々におもねり、同時に利用することをしない方がよいと思う。とりあえず考えてみて、その上で、自分が考えてみたことと、人々が思っているらしいことがどう関わるのか、どのような回路でつながってくるのかを考えてみる。そういう順番を踏んだ方がよいと思う。
 以上まずは「心がけ」のようなことしか書かなかった。ただ私には、この社会になにか絶対的な限界があり、それによって閉塞感が引き起こされているとはとうてい思えないのだ。そんな限界は何もないと思う(であるのに、あるかのようなことを言う言説はそれとして分析する必要がある)。だから可能性はあり、当然、希望はある。(そしてこの可能性が本来あるということは、そのまま不全感をもたらすものでもある。可能であるのに実現されないから不幸な感じがするのである。)まずはたんに考えてみてもよいと私は思った。そうして考えてみると、じつはおおざっぱなことはいろいろと言われてきたし、基本的にはそれでよいと思うことは多々あるのだが、いくらかでも話を詰めようとすると、意外と不明瞭、不明朗であり、わかっていないことがたくさんあることに気がついてしまう。つまり、どの方向に行くのかは明確なのだが、人々がそれについてこないという事態があるのではなく、どの方向に行くのか自体がよくはわかっていないということなのである。

 例えば「グローバリゼーション」と言われているものがある。これはある人たちにとっては止められない趨勢であり、ある人々にとっては呪咀の対象である。そしてこの文章で言うところの不満な人たちはおおむね後者の人たちである。私はその後者の人たちの主張の多くが当たっていると思う。しかし同時に、人やものの流通が開かれていることについては基本的に賛成したいと思う。反グローバリゼーションの人たちにも、少なくともある部分について、そう思う人は多いだろう。例えば、人が国境を越えて移り住むこと全般には反対しないだろう。とすると、それはグローバリゼーションを肯定していることと違うだろうか。違うはずだが、それをどう言うか。例えばそんな単純な問いについてもよくは考えられていないことがわかる。人々がわかっていないと嘆く前に、自分がわかっていないということである。だからそんなことを考えることである。これが最初に書いた一つ目に対応する。正しいことは既に明らかなのだが、人々はそれがわかっていないのではなく、どういう方向がよいのか自体が定かでないのである。
 もう一つは、同時に、今起こっていることがもっともなことであることを理解しながら、その次を考えることである。もし、このグローバリゼーションの趨勢が必然であると言うしかないのであれば、たしかに、国際競争力を維持し強めようとするこの社会の動き、あるいはそれを積極的にあるいはしぶしぶ支持している人たちの動きはかなり合理的であり、ある程度賢明である。限られた範囲、例えば日本という国の中の人にとっては、有益である。例えば「先端医療技術」の開発に巨額の予算が使われる。むろんそれには誇大宣伝がある。しかしすべてが嘘ではない。そしてそれが「自由市場」に反し国家が主体になって積極的に推進されるものでも受け入れる。また同時に、人が足りないと思えばある部分に限定して外国人労働者を受け入れながら、同時に制限し、不都合なことがあれば放逐するといった、やはり「開放」という基準からは矛盾することを支持することになる。そして、これを立場が一貫していないと指摘しても仕方のないところがある。一定の条件を所与として、その上で利益を確保するという意味ではその立場は一貫しているとも言える。
 これは、最初に書いたことで言えば、第二番目の契機、ある範囲をとれば多数派が得をするような方向にたしかに現実は作られているという事態である。むろん当人たちが理詰めで考えているわけではないのだが、考えてみると、人々はかなり合理的に振る舞っている。その意味では、その人たちの方が賢い。
 ではそれで仕方がない、現状追認ということで引き下がるか。あるいは排除され被害を被る少数派の側からの告発を続けていくか。前者については否と答えよう。まずは直感として、現状の延長線上にはあまり楽しいものが見えない。後者については、それに相乗りしながら、しかし、もう少し多数派に受けそうな筋の話を考えてみようと思う。つまり、この前提に乗れば現状肯定派の選択は合理的だが、前提を変えることができるなら、すべての人にとってではないがかなり多くの人にとって、もっと合理的な解があり、そして前提を変えることはしかじかの理由でできないことではないというような言い方をしてみようとするのである。
 例えばそんな道筋を考えてみることが私は可能だと思う。易しいことだとは思っていないが、どうしようもなく難しいことだとも思えない。結局は、人々の観念と人々の行いがこの状態を作っている。その作られた状態はしかじかの事情で相当に堅固なものだとしても、所詮は作られたものではあるから、変えることはできる。
 ともかく、私はそんな仕事をしようとしている。国境のことについては、別に本に書こうと思う。まだまだその手前の仕事をしていて、今年のはじめに『自由の平等――簡単で別な姿の世界』(岩波書店)という本を出してもらった。
 もちろん、お前のような者が、だらだらと、またくねくねした文章を書いてもどうにもならないとは言われる。それはわかっている。しかし、述べたように、確定的なことを言えるなら別のやり方を考えるが、しかしまだつかめないからしようがない。そして少しでも見晴らしをよくしようとする試みは、私にとって楽しくもある。
 もっと役に立つものをと言われても困るし、それは私がしなければならないことでもないと開き直る。どうしても私が譲れないことについては悠長なことは言わない。それについては勝てなくとも負けないために、できることを私はしよう。しかしそれ以外については、基本的には各自で考えてもらったらよい。あなたが望んでいるのなら、それは叶えられる。私が書くことの中に使えるものがあったら使ってもらったらよい。望んでいないなら、このままでよいはずだから、どうこう言うことはない。乱暴だがそう言う。だから私は私で、わりあい悠長に、どれほどの人が読んでくれるかわからないけれど、考えられるところまで考えを進めていこうと思う。


UP:20040731 REV:20060622
立岩 真也
TOP HOME (http://www.arsvi.com)