*立岩真也『自由の平等――簡単で別の姿の社会』,2004年1月,岩波書店,349+41p.,3100円+税155
「もう一つの世界は可能だ」という言葉を時々耳にする。私はその通りに思っている。ただ、まったく別の世界としてそれは現われるのでなく、むしろ多くの人々においては既にそれは存在しているのだと思う。私のする仕事は、その姿を私なりに明確にする仕事だと考えている。(「あとがき」より)
その仕事の全体については、まだ見えていないところも多々あるのだが、序章の第3節で予告した。次のような構成になっている。分配する最小国家?/不足・枯渇という虚言/生産の政治の拒否/労働の分割/生産・生産財の分配/持続させ拒んでいるもの/国境が制約する/分配されないもののための分配。
さてこの本は全体の始まりの部分に位置する。人の存在とその自由のための分配を主張する。つまり「働ける人が働き、必要な人がとる」というまったく単純な主張を行なう。
まずそのようには言わない主張を検討する。自由を尊重すると言い、国家による税の徴収とそれを用いた再分配を不当な介入だと批判する人たちがいる。しかしその批判は自らを堀り崩す。同じ根拠から彼らの主張を否定することができる(第1章)。
次に羨望や嫉妬やルサンチマンといった語を使ってなされる社会的分配に対する非難がある。他の人の不幸を望み喜ぶことが望ましくないことに同意しよう。自らが得られないものの価値を引き下げるのも暗い行いではあろう。しかし社会的分配についてはその批判は当たらない。むしろ怨恨を持ち出して分配を批判する側の方が怨恨の圏域に内属している(第2章)。
そして、私がただ私であるというだけで存在していられることを望むなら、また、人が人であるだけで存在していることはよいことだと思うなら、その双方が存在と存在の自由のための分配の規則を支持する(第3章)。
第4章から第6章は自らの論をより明確なものにする試みであるとともに、社会改良派のリベラリズムの考察にあてられる。その立場は、一人一人がよいとするものを尊重しゆえにそれに立ち入らず、自らは無色だと言う。しかしそれは望ましいことでなく、不可能なことでもある。このように言うことと、私たちもまた人々の多様性を尊重すべきだと考えることとは矛盾しない。むしろ私たちの考えでは、存在の多様性を尊重しようとすれば、特定の立場に加担せざるをえないのである。
人は欲し、生産し、そして取得する。まず第一のもの、人の欲求・価値がどのように捉えられるのかを検討し、批判し、自らの立場を対置する(第4章)。次に、リベラリズムは、私たちのように単純に生産と取得とを別に考えようとは言わない。生産する能力を等しくすることによって平等の側へ行こうとする。しかしこれはうまくいかないことを説明する(第5章)。そして、世界にあるものの何がその人のもとに置かれるかについて、つまり所有権の付与のあり方について、リベラリズムが間違ってしまうことを言い、別の基準があることを確認する(第6章)。