last update: 20220907
■理念
・No Charity, But a Chance! (保護より、機会を!)
・世に心身障害者(児)はあっても仕事に障害はあり得ない。
・太陽の家の社員は被護者ではなく労働者であり後援者は投資者である。
太陽の家シンボルマーク「麦」・・・麦にはきびしさがあります。麦は踏まれてもぐんぐん成長します。太陽に向かってのびつづける麦の形には団結を意味します。
■人
◆秋山 ちえ子
◆井深 大
◆立石 一真
◆中村 裕
◆畑田 和男
◆ヘンリー・ビスカーディ
◆丸山 一郎
◆水上 勉
◆ルードウィヒ・グットマン
■あゆみ(年表)
1965(昭和40)年
- 5月10日 別府善意工場計画
- 9月11日 別府リハビリテーション設立発起人会(別府整肢園より独立)
- 9月28日 別府リハビリテーション設立準備委員会(太陽の家名称決定)
- 9月30日 小野田セメントより土地建設売買契約成立(小野田セメントの療養所)
- 10月5日 太陽の家開所式 (入所者15名でスタート)
1966(昭和41)年
- 1月 中旬 「太陽の家」東京事務所 開設(仕事の確保、資金集めを目的とする。寄付を募る相談場所でもあった。 協力者 水上 勉、秋山 ちえ子、伴 純三郎、橋本 ゆう子)
- 2月14日 社会福祉法人認可(厚生省)
- 3月8日 社会福祉法人太陽の家 登記(厚生省)
- 4月1日 身障者授産施設に指定(厚生省) (定員34名 授産科目:義肢、木工、竹工、縫製、印刷)
- 4月16日 自治組織”木の芽会”発足
- 5月1日 米国アビリティーズ社 ヘンリー・ビスカーディ氏 来訪
- 6月20日 パイプ椅子部品の生産開始
- 7月2日 NHKテレビ・時の話題「立ち上がる障害者」にとして放映される。
- 10月22日 天皇、皇后両陛下行幸啓
- 11月6日 皇太子ご夫妻行啓
- 12月1日 印刷科発足 協力企業:杉本印刷所
1967(昭和42)年
- 1月24日 入所者124名に増加
- 5月6日 広島若草園 岩崎貞徳氏の講演(障害者機能の方向づけについて、タワー法)が太陽の家で行われる。
- 5月19日 木工科(コタツヤグラ)協力企業:早川電機、クリーニング科(クリーニング)
協力企業:綿久寝具 創業
- 11月1日 金工科(レンズキャップ・圧板)協力企業:関西エバーブラック 創業
- 12月 パイプ椅子の生産は販売の失敗により廃止
(物を売ることはできないと判断して、これ機に、「物づくり」に特化する考えに至る。)
1968(昭和43)年
- 4月1日 身体障害者労働研究室 設置 (後の身体障害者職能開発センター)
- 4月25日〜29日 韓国大田市聖世再活院 南シ[言弁に"思"]均 院長と身障児童14名 来訪
- 6月1日 金工科(スチールメジャー組立作業)協力企業:京都度器 創業
- 6月18日 園田直 厚生大臣 来訪
- 6月19日 口スイッチによる木工用ドリル試作1号機の公開 (寝たきりの重度障害者向けた取り組み)
- 9月21日 労働大臣表彰状(身障者の雇用促進協力が評価される。)
1969(昭和44)年
- 2月20日 プラスチック科(巻尺ケース)協力企業:田島製作所 創業
- 9月 電器科発足(ボイスコイル巻き)協力企業:ウェストン音機株式会社
- 9月30日 義肢科 廃止
- 10月20日 NHKブックスによる「太陽の家の記録」出版
- 10月1日 入所者154名に増加
1970(昭和45)年
- 6月2日 第二プラスチック科(マネキン)協力企業:京屋工芸 創業
- 8月5日 関西エバーブラック(大阪)へ近藤秀樹氏 出向 (〜10月8日まで)
- 9月30日 金工科 協力企業:京都度器 閉鎖
- 10月1日 金工科(スチール・メジャー) 協力企業:田島製作所 創業
- 12月4日 四肢麻痺者用モデルハウス テトラエース 完工(あゆみ箱の寄附、東大 池辺陽教授、東工大 森 政弘教授、ナショナル住建の協力を得た。)
1971(昭和46)年
- 2月10日 太陽の家将来問題研究会を開く (大分県社会課と福祉工場についての打ち合わせ)
- 5月3日 韓国大田市聖世再活院(南シ [言弁に"思"] 均 院長)親善答礼訪問
- 5月18日 福祉工場検討会始まる(厚生省と大分県当局を含めて複数回の話し合い)
- 5月29日 中村裕理事長 「人間尊重に基づく70年代の障害者対策」についての講演(全国肢体不自由児父母の会連合会講師として参加)<.li>
- 6月1日 重度身体障害者授産施設(定員83名)指定
- 6月26日 グッドウィル・インダストリーズ・インターナショナルの代表者会議(アメリカ)にてグッドウィル・インダストリーズのアジア。リハビリテーションセンターの指定を受ける。
- 11月30日 木工科 協力企業:早川電機、クリーニング科 協力企業:綿久寝具 閉鎖
- 8月16日 福祉工場検討会の実施
- 8月20日 木工科(神棚制作)協力企業:サンアップ荒尾作業所 創業
- 9月19日 中村裕、秋山ちえ子 立石電機訪問(立石一真と会見し、福祉工場構想の実現化への協力を依頼する。)
- 10月15日 別府市より国民健康保険税完納表彰を受ける
- 12月1日 木工科(紫タン高級家具製作)協力企業:唐木作業所 創業
- 12月13日 株式会社オムロン太陽電機 創立発会式(翌春の福祉工場設立を見据えた準備訓練を開始する。)
1972(昭和47)年
- 1月24日 大分県リハビリ施設研究会 発足 (同日、大分県労働基準監督より監査を受け、障害者の残業問題について労働基準監督署から注意を受ける。)
- 2月 単調労働と作業ミスに関する研究実施
- 2月5日 株式会社オムロン太陽電機 登記 (資本金500万円、立石電機45%、太陽の家26%、立石電機関係者15%、資本金のうち70万円14%は障害者の持株会’太陽会’の出資、取締役社長には立石氏が就任)
- 2月18日 福祉工場従業員選抜試験実施
- 3月23日 福祉工場従業員選抜試験、職業安定所による面接 実施
- 4月1日 福祉工場(オムロン太陽電機)操業開始 (オムロン太陽電機社員5名、福祉工場従業員7名でスタート)
- 4月1日 応用資材科発足、電子部品組み立て作業 開始
- 5月10日 大分県下の障害者福祉施設連絡協議会 発足
- 5月17日 全国職業更生施設協議会総会及び研究会を太陽の家にて開催(100名前後出席)
- 10月31日 金工科 協力企業:関西エバーブラック 閉鎖
- 12月17日 フランスからパトリック・ローピン(Patrick Laupin)研修のために来訪
1973(昭和48)年
- 3月 オムロン太陽電機株式会社、黒字決算を計上、以後黒字経営を続けている。
- 3月5日 太陽の家自治組織「むぎの会」発足(前身の「木の芽会」は発展的に解消)福祉工場発足とともに「木の芽」の有力メンバーの退会が著しく起こったため、運営が問題になっていたが、授産従業員、福祉工場従業員、事務局職員による新しい「むぎの会」が結成された。
- 5月1日 授産作業員にも社会保険の適用が認められた。後年、重度医療保障制度が出来て、その意義は薄くなった。
この頃はすでに重度の脳性麻痺者の問題が浮上していた。福祉工場の設置によって、ポリオや脊髄損傷者の社会復帰についてはその方向性を見出していたので、次の課題に取り組まねばならなかった。そのため、中村(理事長)は 翌月6月、早速、オーストラリア、センター・インダストリーに「脳性麻痺者の就労状況」について調査のため出張し、帰国後、次々と研究会を開いた。
- 7月29日 別府市 福祉モデル都市に指定(厚生省)
厚生省は別府市を含む全国6市を身体障害者福祉モデル都市に指定した。太陽の家ではむぎの会を中心に「福祉都市を促進する会」を発足させ、積極的な活動を行なった。
- 9月8日 オーストラリア センター・インダストリーズ理事長マクレオド市及び総支配人ヒューム氏 来訪
- 10月1日 園芸科(みかん園及び構内)直営 発足、創業
- 11月11日 「ハンディキャップ別府ガイド」を発行 (福祉都市を促進する会の編集)
- 11月18日 脳性麻痺治療法の権威者、米国グレン・ドーマン氏及び井深大 会長 来訪
1974(昭和49)年
- 1月12日 石油ショックによる材料不足などのための第二プラスチック科のマネキン人形製作を閉鎖する。
- 2月28日 むぎの会厚生分科会のなかに労働研究会を設置する。(労働条件の改善、生活条件のレベルアップを目指して研究することとなり、第1回会合では労働時間の短縮問題が検討された。)
- 5月29日 「太陽の家」東京事務所及びサン・インフォメーション・センター開設
このセンターは社会福祉法人身体障害者自立情報センター(秋山ちえ子 理事長)となって、障害者に必要な自助具の研究、開発、展示、指導、ニュースの発行、相談などを行なっている。
- 6月1日 特機科(ラジオ組立)協力企業:ソニー 創業 従業員17名でスタート(昭和53年 1978年には、会社設立まで漕ぎつける)
- 9月5日 川澄化学株式会社協力による医療機器科を廃止
- 10月17日 フェスピックに発展途上国を参加させる会が発足し、街頭募金活動などを開始
- 10月21日 特産科(椎茸包装)協力企業:株式会社OSK 創業
- 12月2日 工芸科(つげ細工)協力企業:有限会社釜我つげ工芸 創業
- 12月11日 韓国聖世再活院より研修生5名受入(1年間)
1975(昭和50)年
- 4月28日 太陽の家企画広報室長 吉永永治が別府市議員に当選(全国初の車いす議員の誕生)
- 6月1日 第1 回フェスピック大会開会式(大分市陸上競技場)
フェスピック(FESPIC)とは、The FAR EAST and SOUTH PACIFIC Games for the DISABLED を略してつくった。大分県などが主催した。
- 6月2日 工作科(電動車いす製造) 発足
- 2月12日 「ねむの木学園」創設者 宮城まり子園長 来所見学
- 7月1日 太陽二平株式会社 設立(シャープのヤグラゴタツを受注する会社として二平合板株式会社、瑞穂工事株式会社などの出資により設立された。)
■『太陽の家」の出来事
◆太陽の家 1975 『太陽の家10年の歴史』, 太陽の家身体障害者職能開発センター開発課
●創設由来と根本理念(pp.1-4)
昭和40年10月5日わずか15人の車椅子の身障者から発足した「太陽の家」も今日も別府最大の工場まで発展し、総勢400人を抱える大世帯となって、丸10年の記念日を迎えることになった。この10年間あらゆる困難や抵抗を押しきって。基礎を固め経営を安定させ、更に超スピード的な飛躍を続けて今日の「太陽の家」はでき上がった。(中略)
その頃の日本国内の福祉の考えは保護ないしは慈善の域を脱していなかった。単なる同情や保護だけでは身障者の本当の幸福はあり得ない。家庭や社会の厄介者でなく残存する機能を最大に活用して、自ら働き自ら稼ぎ自分の力で生活し、今までの税金の消費者の立場から納税者の立場に代り。堂々と胸を張って、一人前の社会人としての誇りをもてるようになってこそ初めて真の幸福が訪れるのである。これは本人のためにも国家のためにも素晴らしいことではないだろうか。この考えは保護慈善を主体と考えられていた当時の社会通念からは相当に飛躍したものであり、一部では夢ではないかとまで批判されることもあった。
わずか10年前のことであるが、身障者福祉の一般理念は政策・環境・国民意識共に驚くほどに幼稚で消極的なものだった。ここに「太陽の家」が誕生せねばならぬ必然性があったといえる。
こういう空気の中で発想から発足への準備は着々と進められた。当時発想者の中村(現)理事長も含めて誰もが今日の「太陽の家」にまで成長する成算をもてただろうか。恐らくは「無かった」といえよう。資金的にもわずか10数名の入所者を抱え、ある時にはその食事にすら事欠き当時の中村常務理事の差し入れやポケットマネーに依存せねばならぬ事態がしばしば起きた。ただ満ち溢れていたものは発想者とその周囲をとりまく補助者並びに心ある入所生の情熱だけであった。それらの苦境のすべてを承知の上で、あえて発足に踏み切って、今日の「太陽の家」を築きあげる動機を作った当事者の決断は高く評価されるべきであろう。また「太陽の家」の発足、ひいては飛躍の原動力となったものは何といっても中村(現)理事長のアイディアと情熱とこれに伴う畑田(現)常務理事の業績は明記しなければならない。
(中略)昭和40年5月作家水上勉氏などの積極的な支援協力のもとに、「別府整肢園」の付帯事業として「別府慈善工場」設立の運びになった。この構想はアメリカでかなりの業績を上げているグッドウィルインダストリーズの方式を取り入れ、当初は廃品回収・更生による工場が考えられた。実行に移されるや青少年赤十字団などの社会的協力もあり、別府だけではなく東京の日赤本部などにも市民提供の善意の山が築かれた。
ところが、集まったのは廃品というよりもガラクタの山であり、更生に手のつけられるものや加工しても販売かちのないものばかりで当事者は善意の山を前に絶句する有様であった。アメリカの場合には廃品といってもいわゆる不用品であって、そのままでも十分に使えるものや、更生価値のあるものが多いが日本の場合は本当のガラクタであり、ここにも国情の相違がはっきりと描き出された。この試みは完全に失敗であったが、これにより「日本の国情に適した事業が行わなければならない」という貴重な教訓を得た訳で、これによって新規製品を主体とした生産工場へと方向転換させられることになった。(中略)
このような経緯で創設することに踏みきられたもので、10年後の今日でもなお一貫されている「太陽の家」設立の根本理念をまとめてみると、次のようなものであろう。
1. 単なる同情や保護だけでは身障者の真の福祉はあり得ない。残存機能を十分に活かして自ら社会の生活に溶け込む意思力と実力を育てることが最も大切なことで、「慈善ではなく機会を与えよ」(No charity but a chance)という言葉が一貫した「太陽精神」の筋金になっている。
2. いつまでも法に基づく被保護者の立場に甘んずることなく、1日も早く自分の力で立ち上がる意思力と自信を養成する。言い換えれば税金の消費者である厄介者の立場から納税者の立場に持ってゆく。これが「太陽の家」設立根本趣旨である。
(注)このことは昭和47年4月福祉工場の設立により夢だと言われていた理想が実現されたことにより、約60余名の者が国の保護一切を返上し、自分自身の力で生活をし、またその収入に応じて納税の義務を賦課される納税者の立場に変わった。本人のためにも国家社会のためにも素晴らしいことである。
3. これからの目的を達成するためには導入する作業種目を務めて企業的に運営して、「太陽の家」自らの力で経営して行けるようになることを目標とする。
「太陽の家」創立のイメージは「工場」または「会社」である。いつまでも国や社会に頼ることなく、結局的には施設自体が社会に貢献できるようになることが理想である。
「太陽の家」組織自体も、また入所している身障者も常にこの気構えをもち続けてきたことが「太陽の家」の今日をもたらした原動力である。
(注)企業的という言葉は単なる収容授産を限度としている福祉法の範囲を免脱しているという法的解釈で監督官庁から終始嫌われてきたが、しかしその気構えはもち続けてきた。ある理想を達成するためには、方の精神に抵触せぬ範囲で法外の何物かが必要なのではないだろうか。
4. これらの理想を達成するためには、単に医学のみならず機械工学・建築学・経営学・心理学その他のあらゆる科学の力を総合して、これをフルに活用し、残された機能を十二分に発揮させる環境と機会を作ることが必要である。
(注)このためには創設直後から他に例を見ない労働研究所(室)設置の考案が巡らされていたが、やはり官公庁の法解釈の観点から正式の設置は認められなかった。しかし必要があるので、定員内職員を兼務させて研究は続けてきた。ようやく昭和46?7年頃必要性を認められ、47年現在の「機能開発センター」として日の目を見るようになり、「太陽の家」の花形としてフルに活用されている。(後略)
◆中村裕伝刊行委員会編 1988 『中村裕伝』, 中村裕伝刊行委員会
●別府慈善工場 趣意書(pp.126-127)
[目的]
全国の市民が廃棄した衣類、家具、器具等を集めて作りかえ、特約店で販売するとともに、新規製品の製造もおこなうことを目的とする。これは、利益のために組織されるものではない。収益は役員、会員、個人等いかなる者も個人的な利益のために役立たせるものでなく、その果す役割は多くの人びとの善意を基とし、身障者を職業訓練を通じて社会復帰させる社会福祉事業である。
[職業的評価]
身障者がどんな能力を失ったかが問題ではなく、どんな能力が残っているかが問題である。身障者に新しい希望を与える第一の大きな段階は、この人たちにもっと適した仕事を見つけてやることである。適性、心理的、職業的な各種テストによって、興味と技術の両方を加味し、職業訓練して社会復帰させる。
●「太陽の家」を名付ける (pp.133-134)
水上勉氏 「先生との思い出」
熱っぽく語られた夢は、日本で最初の重度障害者の自立工場建設にあった。何とかリハビリ・・・・・という片仮名の仮称だったと思う。病院よこに空地があり、小野田セメントの療養所が売りに出ていた。何とかしてあれを買いとって、根拠地にしたいが、お金がいる、という話である。私は当時、婦人公論に「くるま椅子の唄」を連載中で、先生をモデルにしていた。その原稿料を集めて100万だったか、と思う。
先生は先生で、自宅を抵当に入れて工面し、合わせた金300万円が小野田セメントへの手附金だったと記憶する。
「太陽の家」という名はどうですか、英語では一般にわかりにくいでしょう、と言ったら、畑田さんもそれがいい、賛成されて、草の生えていたセメント会社の療養所の入口に棒杭が建てられた。
●『週刊朝日』昭和40年10月22日号「太陽の家」入所希望者の声 (pp.133-134)
「中村先生。私はいま神様に何もかもおまかせするつもりでペンをとりました。私は背骨が曲って足がマヒしています。自分で生活できるように頑張りましたが、いまは生きる希望も夢も失うばかりです。父母は、おれたちが死んだらおまえはどうなるだろうか、と私の顔を見るたびに申します。手先の仕事ならできます。どうかは働かせて下さい・・・・・」
●昭和40年11月27日朝日新聞 「太陽の家」の様子(pp. 147-148)
木工部(1人)、義肢部(3人)、洋裁部(2人)、車椅子部(3人)、竹工部(5人)に事務1人、炊事係2人を含めて、現在17人いる。
朝6時起床、8時半、仕事開始。昼休み1時間と午後3時から20分の休み。5時半、仕事じまい。
『太陽の家』の雇用基準は、@心身障害者に限るA日常、生活動作が自分でできる方B自活の道を求める強力な意思の持ち主などとなっている。
採用は書類と面接の2本立てとなっているが、身障者であるためわざわざ出かけることが困難な人もいるため、書類選考に重点を置いている。応募者数はいまのところ300人を超えている。
義肢部は義足やコルセットづくりが主で、すでに各地の病院から注文がどっさりきてキリキリ舞いしている。
洋裁部は女性2人で、別府市内の洋裁店や個人からの注文がひっきりなしである。
車椅子部は和室向きの車椅子を試作の段階であるが、早くも1,000台の注文を受けている。
竹工部は、別府市内の竹細工店から竹細工の材料加工を下請けしているが、まだ技術指導を受けている段階である。
木工部は本棚や仏壇づくりをしているが、やがては幅広い生産に取組むことにしている。
給料は現在、1万5、6,000円。このうちから食費を引いて、手取り1万円くらい。いま全国の身障者の平均賃金は7、8,000円程度であるから、食費をとられると手取りは1,000円から2,000円である。給料30,000円にするのが夢で、身障者賃金のバロメーターの役割を果たしたい。
●「太陽の家」東京事務所開設 募金活動(p.153)
水上は(1966年)1月半ばに東京渋谷に、『太陽の家』東京事務所を開いた。入所者の仕事を獲得したり、募金活動および広報やその他の連絡に便を計るためであった。
中村は寄付金を募るための相談会を東京事務所で開いた。集まってくれた人は、評論家の秋山ちえ子氏、伴淳三郎、橋本祐子(日赤青少年課長)、日本タッパーウェア社長のJ・W・ダートの各氏、それに水上である。伴淳三郎氏は「あゆみの箱」を進めていて、マスコミの話題を集めていた。
中村は1円でも多くの建設資金を集め、『太陽の家』の総合計画を進めねばならないことを強調して、いかにして募金活動を広げるかという方法を問うた。
日本タッパーウェアから800万円の寄付があり、匿名の老人が100万円、東洋工業からは軽乗用車3台が寄付された。3月の末には『般若苑』の経営者、畔上てるゐさん(有田八郎氏の前夫人)から300万円の寄付があり、これは全ての新聞の社会面に取り上げられて華々しく報じられた。
●昭和41年2月27日西日本新聞 匿名老人から「太陽の家」に寄付 (pp.154-155)
「最高にうれしいですね。アメリカで施設視察中の中村先生に電報を打って、喜ばせてやりたい・・・・・」
26日夕、作家の水上勉氏は、評論家・秋山ちえ子さんの差し出した小箱を手にして顔をほころばせた。なかみは匿名の老人が寄付した100万円の小切手――。(略)
熱心な募金キャンペーンにもかかわらず、施設拡張計画は不況の壁でピンチに見舞われている。
25日夜のことだった。秋山さんは受話器をとったまま、思わず息をのんだ。「うちのおじいちゃんね、27日で87才になるんだけど、なにか会社に残すために100万円カンパしたいっていうの。受け取ってくださらない・・・・・」
この20年間、秋山さんと親しく交際してきた―主婦(45)=東京都=からの電話である。
「もう私もそれほど長くなかろう」と、ことしになって財産整理をはじめていたおじいちゃんが「なにか社会のために匿名で寄付したい」「少しよくばりすぎるけれども、私の金がすぐ生きるような施設に・・・・・」の2つの条件つきで相続人の娘さんに頼んだのだという。「太陽の家がいいわよ、と思わずいっちゃったんですよ」と、相談を受けた秋山さんはいう。
身障者や精薄児たちのためにたち上がった水上さんの意気に感じ、常にマスコミを通じて同じキャンペーンをつづけてきた秋山さんのこと、収容数をいまの3倍の124人にふやし、クリーニング、印刷工場、盲人・身障者用のプールなど施設拡張計画をたて、5,000万円の募金運動を始めた水上さんや中村さんの顔をすぐに思い出したのだろう。
「身体障害者に働く機会を、太陽を!」と書いた太陽のいえの募金箱をつくって、いろんな店などに置いて貰うこともやった。この箱を置くことでは、また多くの人が協力した。
●「社会福祉法人」認可、新たな入所者(p.155)
(1966年)1月25日に社会福祉事業振興会から2千万円の借り入れが決まり、ついで2月3日に、国から2,000万円と県から1,000万円の補助交付が決まった。これで小野田セメントに土地建物代金2,500万円を支払った。そして、2月14日、『社会福祉法人』の認可がおりた。これにより別府整肢園とは離れ、独立した施設として出発することになった。
『太陽の家』の存在が知られていくに従い、各地から入所希望が殺到した。やがては140人にする構想を打ち出していたので、とりあえず、1月25日に『太陽の家』会議室で面接試験を行った。
すでに書類審査で通った者ばかり15人(男9人、女6人)が大分県をはじめ、大阪、島根、福井、福岡、佐賀などから集まった。この人たちは、小児マヒ、リウマチ、交通事故による脊髄損傷、炭坑事故による片腕切断者などである。
中村と畑田和男医師(別府整肢園副園長)が診察と障害度の機能検査をし、そのあと牟田事務長や竹工・木工などの各部長が面接を行なった。この日、面接に訪れた15名は全員合格とし、2月1日から入所することに決めた。
これで以前からの入所生と合わせて、34名に増えることになった。『太陽の家』開所以来、はじめての全国からの応募である。
●中村 アビリティーズ社 視察(p.156)
(1966年)2月末から3月にかけて、中村はアメリカのニューヨーク郊外のロングアイランドにあるアビリティーズ社を視察に行った。
アビリティーズ社は、ヘンリー・ビスカーディ氏ら身障者が4人でつくった会社で、4人の手足は全部で足が1本、腕が5本だった。1952年(昭和27年)に起こし、300万円弱の借金で、空いてるガレージを借りて始めた企業で、2年目には早くも利益で身障者に投資するための財団をつくり、10年で従業員480名で年商10億円以上の企業にしたのである。いうまでもなく、「太陽の家」の将来を設計するために、いろんな点を学び取ろうという意図からである。
アビリティーズ社は平屋建の工場で、主に電気器具の製作を行なっている従業員は神経系疾患110人、四肢?幹の変形126人、循環系疾患53人、感染性疾患20人、視聴覚言語障害40人などで、かなり重度の障害者でも身体条件にあうように組み合わされて働いている。給料は平均1時間2ドルで、能率給である。
●秋山 ちえ子「主婦の友」昭和41年4月号 太陽の家入所者の様子(p.162)
「右手首切断」の女性が義手をつけてじょうずに注文のセーラー服をぬっていた。美しい笑顔だった。車いすに乗って義肢を作っていた男性は、「ここの製品は日本一です」と誇らかだった。竹工をしていた青年は、仕事に打ちこむとケイレンがとまるとのことだった。車いす係は、これまでのものはサイズが同じものだったが、「太陽の家」では、その人の体に合わせて作り、たたみの上で使えるものであることを話した。約40人分の食事は、「右手指切断」と「小児マヒ」の若い女性2人で用意されていた。事務を扱っているのは、「パラリンピック」に出場した車いすの選手と、ことし大学を出た2人の障害をもつ女性であった。
保護される生活から脱皮して、自分で自分の生活を築くのだということは、「太陽の家」に彼らの生活をする者係りが1人もいないことからもうかがい知ることができる。そのために、「太陽の家」の中にはいろいろの配慮がされていた。
休憩時間は、みんなが太陽の光の降り注ぐ庭に出る。ピンポンをする人、キャッチボールをする人、ギターをひいて歌う人。とにかく下を向きがちだった顔が上を向くようになる。1度も持ったことのないピンポンのラケットを左手で持って、白い玉をカーンと打ちこんだときのうれしさ!
それにも増して、彼らに勇気と自信を与えたのは、働いた賃金を受け取るときである。自動車事故で車いす族になった人はいった。「ここへ来るまでは、世の中がまっ暗でした。妻が働いてお金をもらってきました。やさしくされればされるで情けなくなるし、ちょっとした言葉もバカにしているとハラが立つし・・・・・、男は働いていないとだめになります」
●丸山 一郎 「太陽の家」にやってくる人のこと (pp.162-163)
いまから比べたら、その頃、障害を持った人の状態は悲惨でしたね。働きたいという願いで家出同然の形で全国各地からやって来ました。正式な手続きなど取らないで、一方的に押しかけてやって来るわけです。脊髄損傷で排尿便のコントロールが出来ないから、2日間、飲まず食わずで、本当に這いずり廻ってやって来るんです。全身、泥だらけです。その意志や苦労は並大抵のものではないのですが・・・・・。玄関で何か変な声がしているので出て見たら、北海道から来た人でした。
●木工科 協力企業:早川電機 創業、丸山 一郎 シャープからの仕事 (p.182)
(昭和)42年1月から具体的に細かい交渉が始められた。「太陽の家」が工場・機械・作業員を出し、早川は1日最低500円の賃金を保証し、電気ゴタツを製作するということになったが、「太陽の家」は機械を購入する資金が無かった。代金後払いでも、機械を入れて設備を整えることができたのも、中村の手腕であり、建物だけでも次々とできていく「太陽の家」の急成長が1つの信用を与えることになった。この代金及び設備費1,625万円は、43年7月に日本自転車振興会からの1,200万円の補助金で払っている。
丸山一郎氏は、語る。
大企業が来るためには、生産管理ができないと駄目です。シャープ(早川)が来たというのは、大分にある材木を大阪で組み立てるという事情があったので、それなら大分で組み立てた方がいいということと、生産管理ができるということからでした。ためしに、仕事を太陽の家に出して見ようということになり、機械も全部こっち持ちでした。シャープが仕事を出してくれたのが、大きく発展する因になりました。あれが無かったら、今ごろ「太陽の家」は無いかも知れません。シャープが来たことで大転換しました。
●『キャリアガイダンス』昭和59年、2・3月合併号 中村 裕 手仕事では食えない(p.185)
"仕事をもちたい”という7人の患者と一緒に、私の家を事務所にして別府みやげの竹細工から始めた。つまり、リハビリテーションというのは医者の治療だけでストップしたのでは何にもならない、ということで竹細工の下請けをやったんです。
ところがいくら働いても、竹細工のような手仕事じゃ食っていけない。そこで私は考えた。もともと根っから機械好きだったせいもあるが、身障者には手仕事よりも近代的な工場のほうがむいている、と思ったんです。で、私が企業や工場を回って、ぜひ身障者に労働の機会を与えてほしいと説いて回ったんですが、最初はまるで理解してもらえなかった。
太陽の家に本格的なモーターの音が響いたのは、昭和42年からですよ。早川電機の下請けで電気ゴタツのヤグラづくり、それから病院用シーツ業者の下請けでクリーニング工場ができました。その時はじめて、身障者が『労働者』になったんです。
水上 勉 「太陽の家」ヤグラゴタツ工場 (p.185)
ぼくもその頃からヤグラゴタツ工場を見に行ったことがある。気の毒に、工員さんらは、みなタオルでマスクをしながらやってた。とても入ってゆけないぐらいノコギリ屑が舞ってる。健常者ならともかく、くるま椅子の人でしょう。なんとかゴミが無ければと思って先生にきくと、集塵機をとりつける金がない、といわれる。当時で、100万円以上したかな。その金がなかった。それで、東京事務所で献金運動をやったりしました。とにかく機械化といっても、初期は辛い労働だった。
あの日を思いだすと、先生がのちにソニーや立石さんの、ホコリの出ない工作にきりかえられてゆく夢がよくわかります。障害者工場はやはり障害者が労働してゆくのだから、仕事によっては過酷な一面もあったとふりかえり思いますね。しかし、それでもシャープのあの仕事はうれしかったのですから・・・・
●染川 通(田島製作所別府工場長) 働く厳しさ (pp.185-187)
・・・前略・・・(中村)先生は人を褒めない人でしたから、どんなに頑張っても、やっぱりお前らは駄目だと、必ずそう言われるので、こん畜生と思って働かざるを得なかったです。
病院に居て、毎日ベッドの上で寝て過ごすのがいいか、なんでもいいから一生懸命でやれるものが与えられたがよいか。やはり思いきりやれる場所を与えて貰ったということで、みな感謝の気持を抱いたのです。
今まで仕事したことのない連中がいっぱい集まっていましたから、自分勝手に振舞うわけです。仕事中にパンを食ったり、コーラを飲んだり、遊んだり、いつの間にか居なくなってパチンコに行く者もいた。やくざみたいなのが居て、喧嘩はするしね。そんな連中ばっかりだったので仕事にならないのです。組織がどうのとか、管理がどうのといったって、何も判らない。そんな連中ばかり集めて、仕事をはじめさせるというのは容易なことではなかったと思います。統轄していくために、生き方とか人生観とか、外国の障害者はこうやってるんだから、君たちも自覚してやらなかったら駄目だ、健常者を当てにしていたらいけない、と絶えず言われました。
厳しかったけど、とてもやさしい面もあったですね。病気で入院したりしますと、家に呼んで「飯を食え」と言ったり、工場長会などをやると、みんな中村病院に呼んで、お前は寝巻のままでいいから来て坐っておれ、などと言って、気遣いをされました。
病院から出て来た時は、親から金を出して貰ったりした後で苦しかったですから、なんでもいいから仕事をしたいです。しかし、「太陽の家」に来た時は給料はとても安かったです。働いているうちに人より5円安いとか、10円安いとかいうことが気になり出して、いかにして金を取れるようになるか、それを真剣に考えるようになりました。・・・中略・・・・残業しても手当なんかありません。祭日に出勤しても、振り替え休日などはありません。滅茶苦茶でしたね。ルールなんてないし、労働法の決まりも何も関係ないわけです。職員は給料が国から出ますけど、障害者は働かないと貰えません。みな働きに来たという感じで、がむしゃらでした。寮の掃除も、トイレの掃除も、働いてる障害者がやりました。日曜日に庭の草取りをしたり、周りをきれいにしたり、盆や正月にはガラス窓をふいたりしました。
ボーナスを先生のポケットマネーで貰ったことがあります。最初に貰ったのは500円でした。食堂で、先生のボーナスを持ってきて符を切られた。5,000円貰った人もいました。授産所でボーナス出ないんだけど、ナントカだと言って貰ったんです。
しかし、賃金は安いし、仕事ばかりして休みはない。どうしても不満が出て来るわけです。別府は”地獄めぐり”が有名でしょう。だから、「太陽の家」は”地獄の1丁目”だという者もいました。
●丸山 一郎 仕事の入れ替えは大変なこと 昭和42年から45年ごろ (pp.189-190)
仕事の入れ替えは大変なことでした。その度に人は去るし、摩擦は沢山ありました。それでも(中村)先生には、そういうことのできる強さがありました。
全体を良くしなければ、個人は良くならない、というのが先生の考えでした。「近代的な工場をつくるべきだ」という点では、私たちも同じ考えでした。先生は論争することが大嫌いなんです。こちらは先生のやり方に感心している訳なんですけど、時に議論をぶっかけたりしますと、「君は面白いね」なんて言って、他人の言うことは絶対聞かないようなところがありました。
信念を持って居られましたね。そんなことでは、生きているうちにできっこないと、しばしば口にされました。あのエネルギーは凄いですよ。「太陽の家」と自分の病院を一緒につくちゃったのですから。・・・中略・・・
次から次へと借金して建設していきますね。その計画を出す度に、県や厚生省が、「ちょっと待て」と止めるような状態です。借金の返済は、企業から寄付を受け、それを当てた訳です。目的は「太陽の家」全体の建設ですから、大義名分はあったのです。
先生は堅実経営で、その点はしっかりしたものでした。これだけの利益が上がっているのだから、給料としてこれだけ払うべきだと言っても、ガンとして聞き容れないのです。・・・中略・・・考えは不思議な位によく変わりました。どこを見ているのか、ゴールはどこなのか判らないわけです。急に変わりますから。一定のゴールが見えていたのなら、そうころころ変ることは無かったでしょうが、やはり模索しておられたのでしょう。
●パイプ椅子生産 停止 (p.160; p.188)
(昭和)41年に、大分の菅製作所からパイプ椅子製作の仕事をもらい、一方、エレファックス印刷機を購入して杉本印刷所に委託し、印刷部をスタートさせた。パイプ椅子の生産とともに洋裁科を縫製科とし、パイプ椅子の背もたれとシート部分に張るビニール・レザーを機械的に縫うようになり、この縫製がパイプの溶接と共に行なわれるようになる。(p.160)
42年春、パイプ椅子は販売の失敗から廃止と決まった。せっかく身障者たちが汗水流して造った椅子が大量に残り、これまでの労力が水の泡になった。これに携わっていた者たちは経営に批判の声を上げた。関係した職員の1人は責任を取って退いた。このあと大阪から来たH氏も、内部で意見の衝突をきたして去った。
計画性が無さすぎる、はっきりした経営方針を持っていない、身障者を実験台にしている、もともと医者には無理だから過ぎたことをすべきではない、等の批判の声が出た。(p.188)
●金工科 関西エバーブラック 創業 (pp.191-192)
パイプ椅子生産をやめたあと、ミノルタカメラの部品を作っていた関西エバーブラックを誘致した。入ったのは(昭和)42年11月である。関西エバーが必要な工具、材料、備品、機械などを無償で貸し、作業者の仕事上の指示も行ってくれることになった。
カメラのレンズキャップと厚板の製作で10名(1級4名、2級4名、3級2名)がこの仕事に携わった。
はじめの3ヶ月は日給を平均400円、その後の3ヶ月は500円に上げ、さらにその後の2ヶ月で600円にするという約束で出発した。また年平均5%以上の昇給と年2回のボーナスの支給も契約の中に入っていた。
その他、作業に必要な電気、水道などの経費を太陽の家に毎月、寄付するとか、工具や現金なども寄付するよう努力するなどのことが取り交わされた。翌年の44年の生産量はかなり伸び、10名でレンズキャップの日産が1,500個、厚板が1,900枚に達した。
●木元忠晴氏(元太陽の家職員) 中村先生との思い出 (pp.200-201)
不安とか、先ゆきのことを考えているより、とにかくぶつかってやろうじゃないか、という雰囲気でした。中村先生は一種の信頼感を与えました。この人と一緒にやったら、やり甲斐あるな、というものを与えたです。・・・中略・・・仕事を探しに出張し、各会社を訪ねます。担当の人は会ってはくれますね。こちらが説明すると、「それはいいことですね。何か生産性を示すデータはないですか」と訊ねられる。「いや、これからですから、ありません」と言うと、「じゃ、それが出来てから、また来られますか」と追い帰される。これの繰り返しでした。
その頃の給料は26,000円で、一般の3分の1よりもっと少なかったでしょう。変わったところで、女房が当直するのに金が要るんですか、と言ったものです。夜ね、障害者も職員も一緒にラーメンをつくって、分けて食べたりしました。・・・後略・・・」
●「キャリアガイダンス」昭和59年 中村 裕 これからの障害者の働き方を変えたい (pp.203-204)
これまで身障者の仕事というと、竹細工、洋裁、編物といった手仕事が中心だった。しかも中小企業の下請けがほとんどでした。だから雇用が不安定で、生産性も低かった。私が思うに、障害者の場合、本当はマスプロ生 たとえば、下半身麻痺の人は筋肉の持久力がオリンピック選手以上に強い。盲人は音響に対するカンが鋭い。耳のきこえない者は雑音に強く、集中力がある。そうした彼らの特性を生かしながら、それをうまく使って流れ作業を組み立てれば、健常者なみの生産性をあげることができます。そして、どうしてもできないところを現代科学のメカニズムで補っていく。実際、コンピューターやロボットを導入して、手足が麻痺した人のためには呼吸で動かす自動工作機など、障害にあわせて機械を改良しました。その意味で、機能分化がはっきりしている大企業の生産ラインで働くほうが、身障者には向いているのです。だから私は、どんな能力を失ったかを嘆くよりも、どんな能力が残っているかを考えよ、といつもいう。
まあ、そんなことばかりいうもんだから、厚生省からは異端児扱いされ、授産施設のワクを超えるといって、しょっちゅうケンカばかりしていました。
私にいわせると、国の授産科目というのが世の中から10年以上遅れている。時計修理だ、縫製だというけど、時計なんか今や使い捨ての時代でしょう。世の中は今、ロボットの時代ですからね。そうなったら、こっちのほうロボット時代にあわせて、生活環境や作業環境を変えていかねばならないんです。
●「大分合同新聞」昭和47年2月 中村 裕 プラスチック科 24時間稼働への批判に対する回答 (pp.204-205)
一般には身障者に残業は過酷のように見えるが、当方では社会復帰を目指すためには、ある程度の残業にも耐え得る体力や精神力をつける意味もあり、残業を締め出してはいない。
その他労働条件も、施設内にある身障者機能開発センターで科学的に研究したうえで決めており、そう無理な作業はさせていない。現実には商業ベースに乗らねばならないし、入所者の働く意欲を盛り立てるためにも能率給はやむを得ない。ただ、こうした事でいたずらに身障者に同情するより、前向きに理解して欲しい。残業問題はだれよりも私が一番心配している。
●福祉工場を見据えて施設拡充を! しかし、批判される 昭和44年 (pp.206-207)
すでに「太陽の家」は日本のどの施設よりも群を抜いていた。にもかかわらず、この上に更に重ねて大構想を打ち出し、これをやろうと主張する中村に、殆んどの者は呆れ返ってしまった。厚生省などは 6階建ビルの中に入る諸施設を見ただけで、「ぜいたくすぎて、話にならない。日本の他の施設を見てみなさい」と言って、取り合おうとしなかった。
中村の身近にいる者も、「建物の拡大にはもうこの位でいいのではないですか、それよりも内部の充実を計ることです。先生は次々と新しいことにばかり考えが行くようですけど、それは単に先生の夢であり、欲望です。もうこれ位で、いちおう止めるべきです。現状でももう相当のところまで来ているのですから、先生も満足すべきです」と言って、燃えさかる拡大への意欲に水をさし、抑えようとする者ばかりであった。
この時、すでに建物は約7,000平方メートルあり、入所者は143名いた。借金は社会福祉事業振興会に4,000万円、年金事業団に2,830万円、合わせて6,830万円あった。しかし、日本自転車振興会(競輪益金)などからの補助の話がついていて、返済の見通しはできていた。賃金のことを全く考えずに次の構想が出せる筈はないし、中村なりに期するものがあったからのことだろう。
「福祉工場」は、建設と設備費を国が負担し、運営を法人の「太陽の家」が行ない、社会復帰する前の施設内社会復帰をする場とするという考えである。
理事会においてもみんなが躊躇し、中村の構想を引きとめにかかった。現実に余りに理想論ばかり振り回しても厚生省などが納得してくれなかったら、どうにも前進できない。6階建の建設予算は、数億円にのぼる。
ゆくゆくは6階建にすることにして、とりあえずは4階建として着手したとしても、2億円の予算がいる。これまで「太陽の家」は他の施設よりもはるかに多額の補助を受けてきた。
やはり計画案を縮小して、3階建として申請することになった。これは2階建(工費、約8,680万円)にさらに縮めて許可され、補助金5,900万円が内定した。2階建として着工したのは翌45年夏であるが、基礎工事は将来6階建に増築することを予定して、しっかりしたものがつくられた。
●45年の夏「京屋工芸」創業 (p.219)
45年夏、「京屋工芸」が入って第2プラスチック科として、マネキン製作を始めた。マネキン1体2万円のコストであったのを、「太陽の家」では1万6,000円でつくったので、順調に伸びていった。
●田嶌製作所会長 田島宏一の回想 中村裕の勢いに圧倒(p.221)
シャープの早川徳次さんとは戦前からの知り合いでしたからね。早川さんは、”太陽”にヤグラゴダツを出して居られたので、ある時、早川さんから話がありました。”太陽”に巻尺メーカーが入っていたけど、何か理由があって出ることになって困ってるらしい、ということなんです。早川さんからそういう下話があって、中村先生を紹介しようということになりました。
その直後に中村先生から電話を貰いました。実は急に巻尺の工場が出て行くことになって、何人もの人間が遊ぶような状態になり困っているので、ぜひ工場を出してくれ、という話です。
電話なんですけど、先生の気合いは伝わって来まして、ぐんぐん押して来られるような感じでした。身障者問題に関しては関心がありましたから、じゃ、工場を出しましょうと、電話で決めたんです。するとね、2ヶ月位しか待てないから、その間に工場を出す準備をしてくれと、えらく急いでるんです。これについてもOKを出しました。
それから別府に行って、はじめて先生に会い、話をうかがいました。「慈善ではない」ということを、先生はしきりに口にされました。最初の段階は赤字になるかも知れないけど、それは初期投資であると考えました。身障者の自立をたすけるんだ、それで両立させなきゃいけないんだという考えで、中村先生と一致しました。
わたしは、それより10年位前からうちの工場で身障者を使っていましたからね、収入の点でも健常者とハンデをつけないわけです。肉体的な機能のハンデを補ってやらねばならないけど、仕事をやるからには1人前扱いにしようということでやってきました。そういう点でも中村先生とまったく意見が一致しました。
ずっと後になってからのことですが、太陽の家としては苦労が多い時に、即座に工場を出してくれて、実に救かったんだと言われました。わたしは早川さんの後を追っかけたようなものですけど、中村先生の考えておられたのはスケールの大きいことでしたね。身障者対策だけでなく、他の問題でも、伺っていて迫力を感じましたし、共鳴しました。
●太陽新聞 昭和50年10月 中村裕 手仕事からコンベア式の近代産業へ (p.227)
熟練した身障者を一般社会に就職させようと努力し、昭和41 年?42年の2年間に関係者の努力により、46名が就職していった。
しかし、結果は惨敗であった。あれだけ太陽の家の中では優秀であった車イス労働者も、就職に当たって慎重に打ち合わせしたのにもかかわらず、褥創をつくって帰ってきた。
私はその痛手から立ち直るために、身障者の社会復帰よりも太陽の家自身の授産場の高賃金の工場とし、従来の手仕事をやめ、コンベア方式の近代産業を誘致することを決意した。
●福祉工場への期待 朝日新聞、昭和46年4月26日 (pp.230-232)
厚生省は10月18日になって、重度身障者のための「福祉工場」を大分、静岡、広島の3県に新設することを決めた。これは前年末から厚生大臣の諮問機関である身体障害者福祉審議会が「福祉工場」建設促進の答申を出したことが直接のきっかけとなったものである。
大分県は別府の「太陽の家」、静岡県は天竜市渡ヶ島の社会福祉法人「天竜厚生会」、広島県は高田郡吉田町の社会福祉法人「清国会」にそれぞれ建設されることになり、社会福祉施設整備費補助金の分配を決めた。これにより、「太陽の家」に46年度には、国が約4,000万円、県が約2,000万円、合計6,000万円が出されることになった。
「朝日新聞」はこれより前の、4月の時点で厚生省などが「福祉工場」建設の協議をしている段階で、この問題を「社説」に取り上げ、”「太陽の家」は「福祉工場」のモデルである”と、その存在意義を高らかに記している。
‘生きがいを与える身障者福祉工場を’
身体障害者のために新しい型の施設をつくろうとして、厚生・大蔵の両者が協議をつづけている。重度の身体障害者が健康管理などの日常生活の世話をうけながら働ける「福祉工場」が、それである。46年度の社会福祉施設整備費の一部で建設される予定だが、設置されるところは、とりあえず広島など2、3ヶ所にしぼられるようだ。
18歳以上の身体障害者は、全国で約105万人と推定されているが、就業者は約40万人、そのうち常時雇用されている者は28%にすぎない。なかには働きたくても働けない人達もいるが、働く能力と意志があっても働けない人達が少なくない。車いす、松葉づえなどを常用している重度の身体障害者の場合は、なおさらである。障害が重いと、絶えず医学的管理を受けなければならない。工場でも、建設や機械に特別の設備がなければ働けないし、改造するには多額のカネがかかる。重度身障者に仕事を与え、自活させることをねらいとした授産施設はあっても、ここでは内職程度しかできない。こうした事情で、各種のリハビリテーションを受け、社会復帰できる状態にあるにもかかわらず、適当な職場を持てない人達が大勢いるのである。
「身体障害者は、すべての面で独立した人間として、積極的に社会生活に参加しなければなりません」――別府市にある社会福祉法人「太陽の家」には、このような掲示がある。5年前、身体障害者に職業的、医学的、心理・社会サービスをおこない、十分な経済的基盤を与えることを目的として設立されたこの施設は、理事長の熱意と多くの人達の善意によって、大きく発展した。現在では約200人の大世帯となり、能性まひ、せき髄損傷などによる身障者がヤグラゴタツ、スチール・メジャー、プラスチック・モデル、注射針などをつくっている。
ここで最近、新しい6階建の住宅づき工場が完成した。車いすのままでも出入できるドア、上下できるスロープがある。下半身まひ者のために足踏み式の工作機械が手動式に替えられ、手が不自由な人のためには口の吸引力でスイッチが入るようになっている。この新館落成式で、入所者代表が「真心のこもった製品をつくりたい」とあいさつしたが、その表情には暗さが全くなかった。太陽の家は「福祉工場」のモデルである。
身体障害者の残存機能を生かし、できるだけすみやかに社会復帰させるには、働きやすく、生活しやすい環境を与えることが必要である。わが国の社会福祉事業は、あまりに過保護だ。身体障害者に対する同情や過保護は、かえって身障者の自立心をそこなうものである。「福祉工場」は、身障者に生きがいをもたせる施設としなければならない。
しかし、国の新しい施設として制度化する以上、政府が基盤を十分整備すべきである。一部の民間「福祉工場」が軌道にのりはじめたといっても、その力には限界がある。少なくとも、工場設備の建設費用、入所者の健康管理などの日常生活の世話をする費用については、国および地方公共団体が必要な財政措置をとる必要があろう。住居についても、特別の配慮をすることが望ましい。
また、この施設の運営は、他の社会福祉施設よりもむずかしい。工場部門で、堅実な運営が行われないと、成立たないからだ。重度の身体障害者が作業できる仕事は少なくない。好況の時に、人手不足の深刻な業種と委託加工契約を結ぶことはできるだろう。だが、不況になるとすぐ打切られる恐れがある。事業種目決定、受注などについて慎重でなければならない。社会福祉だけでなく、経営面にも能力をもつ人を、どうして確保するかが問題である。
「福祉工場」は、単なる思いつきであわてて設置すべきものではない。身体障害者はこのところ、先天的障害よりも、疾病、交通事故、業務上の災害などによるものがふえる傾向にある。これらの人達の福祉をはかるのは国の責務だ。政府は、問題点をよく整理したうえ、この施設を実際に身障者の福祉に役立つものとするために、必要な対策をとるべきである。民間企業の協力も不可欠だ。産業界がその目的を理解して、積極的に協力することを望みたい。
●立石 一真の回想 中村裕と出会った日(p.236)
中村先生とわたしの出会いは、昭和46年9月19日、橋本登美三郎先生の紹介で、秋山ちえ子さんと2人で御室の本社に来訪のときであった。そのとき先生は、福祉工場の建設計画を熱っぽく語って、その工場に入居し、55人の重度身障者をつかって近代産業方式を植えつけてくれと懇願した。
ずいぶん突然の事であったが、わたしはこの仕事はわが社の社憲にも添う事なので、その事業に協力することにした。
●秋山 ちえ子の回想 京都御室に行く (pp.236-237)
なんとしても新しい工場をつくりたい。ソニーなんかちょっと話しても、剣もほろろで駄目なのよね。立石社長ならいいだろうと橋本先生がおっしゃったので、大阪空港で中村先生と落ち合って、京都の御室に行ったのよ。・・・中略・・・朝9時半から立石社長に会って、縷々説明して、今日は”うん”と言って頂かなかったら、帰りません、と言ったの。夜の8時頃になって、一緒に夕食しましょうよということになって、とうとう返事を頂いたんです。
●オムロン太陽電機 設立決定 (p. 237)
この結果、太陽の家に新会社「オムロン太陽電機株式会社」が設立されることになった。
資本金は、500万円で、立石電機が300万円出資し、200万円を「太陽の家」と新従業員が出資することになった。株は、1口500円で「太陽の家」側の200万円のうち、130万円を中村と畑田和男、秋山ちえ子、橋本登美三郎夫妻が分けて持ち、残り70万円を身障者の新従業員で『太陽会』を結成し、代表が株式引き受けの責任者となり、集団で株を持つ形をとった。個人出資による混乱やトラブルをさけるためである。
身障者が株主になり、「太陽の家」と民間企業が共同出資して「福祉工場」が発足したのは初めてのことで各方面から注目を浴びた。造るものは電磁コイルや継電器である。
この新会社が操業を始めたのは、翌47年の4月8日からである。
●昭和46年12月11日、大分合同新聞 中村裕 オムロン太陽電機設立の思いを語る (p.238)
身障者を経営に参加させ、完全な自立をはかるという理想を掲げて、2年ほど前から計画を進めていた。企業の協力が必要で、その選定や協力要請には苦労したが、新会社の事業内容に、@公害がないA身障者の仕事として向いているB経営がしっかりした一流企業という点を考えて、多くの人の協力を求めて実現した。会社が軌道に乗れば、増資などのさい身障者にできるだけ多くの株を持たせて、身障者の経営する会社として育てて行きたい。
●中村 裕 健康者に負けない生産を目指すために (pp.238-239)
社会福祉の発達の歴史をたどってみると、キリスト教や仏教などのあわれなものをいつくしむ宗教的な慈愛にもとを発している。全く神や仏にすがる他力本願である。最近のエレクトロニクスを中心とした工学の進歩は、まさに革命であり、世の中のしくみが過去には考えられないスピードで激変しつつある。
月に人間が行ける時代である。身障者に編物、時計やテレビの修理などの手仕事を授産過程で教える時代ではない。一時的にうまく就職しても身障者と家庭婦人は、予備労働力と考えている不心得の事業家が多く不景気になると切られた事例が少なくない。結局、多くの身障者をあまねく救うには、単なる仕事ではなく流れ作業のコンベアーの上で如何にすれば健康者に負けない生産を あげ得るかにかかっている。(『大分社会福祉』――社会福祉にサイエンスを――昭和46年1月10日)
●染川 通 (田島製作所別府工場長)会社として認めてほしいと伝える (pp.240-241)
労災年金を受けてる者は豊かでしたが、労災年金を受けていない者は苦しかったです。どうにもやれない位でした。授産場でやっていたのではとても駄目です。そこで自分たちで「会社」を造ろうという話をしたんです。10人くらいでしたかねえ。
中村先生に社長になって貰い、田島製作所で巻尺をつくってるのを、独立採算制でぼくらにやらせて下さいと言ったんです。収益を上げて太陽の家に家賃を払うから、「会社」として認めて下さい、と言ったわけです。
中村先生に書類をつくって出しました。そしたら、「お前たち、首になったり、病気にかかったりしたら、どうするんだ」と言われる。「食えなかったら、食わんでやります」と苦しまぎれに言ったんですが、「お前らは甘すぎるぞ」と怒られました。これは福祉工場が生まれる前です。先生は、内部から燃え上がって来るものをうまく掴まれたのだと思います。従業員に株を持たせるのなども、無関係ではありません。
●オムロン電機太陽 滑り出し順調 (pp.242-243)
「オムロン太陽電機」は従業員50人でスタートし、立石社長は2年や3年は赤字は覚悟していたが、初年度から黒字で、従業員の賃金も年末には月3万円から6万円にアップし、平均35,000円になり、独身者なら食費と住宅費を差し引いて約2万円が残るほどになった。12月15日には月給の2、3倍のボーナスが支給され、平均7万円を渡すことができた。
中村は、語っている。
「立石電機は工場をつくるとき、冷暖房をいれなさい、といってきた。わたしは儲かるか儲からぬかわからぬ会社にそんなものはいらない、と答えた。立石電機は週休2日だろうが、わたしたちは土曜日も働いた。従業員は始業30分前、7時半には仕事を始め、立石さんの冒険心に応えようとした。太陽の家の身障者が働く工場は、他の一般企業よりも生産効率がいいといわれている。身障者は健康な人間よりも忍耐力があり、持久力がある。流れ作業にはめっぽう強い。肉体的機能の欠けているところを機具を改善したり、ロボットをいれたり、マイクロエレクトロニクスの技術の力を借りて補えば、いい工場ができる」
10年後の58年3月期の売上高は11億2,500万円に伸び、税引後利益766万円、配当15%の成績を上げるまでになった。
中村は従業員たちに、「貯金をせよ。遊ぶことより、まず貯金を心がけ、それから結婚を考えよ」と言った。
●職業厚生研究会 「太陽の家」にて (p.244)
5月17日の18日に、全国の重度障害者授産施設代表(全国身障者授産施設協議会、会長 高木政信)が60人ほど、「太陽の家」に集まって職業厚生研究会を開いた。
分科会は3つに分かれて行なわれ、@福祉工場では最低賃金制や定年制を設けるべきだA工場運営は施設独自で行うべきか B入所選考の方法 C脳性マヒや脳卒中による障害者の職業適性や重度身体障害者の増加にともなう保護施設の充実、などについて話し合いを行った。