『アイデンティティ』
Bauman, Zygmunt and Vecchi, Benedetto 2004 Identity(1st Edition),Polity Press Ltd.
=20070705 伊藤 茂 訳,日本経済評論社,163p.
■Bauman, Zygmunt 2004 Identity(1st Edition), Polity Press Ltd
=20070705 伊藤 茂 訳 『アイデンティティ』,日本経済評論社,163p. ISBN-10:
4818819417 ISBN-13: 978-4818819412 2520
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■目次
日本語版への序文 3
イントロダクション ベネデット・ヴェッキ 19
アイデンティティ 31
アイデンティティ問題との遭遇 33
アイデンティティ問題の浮上の背景 41
ジンメルを通してアイデンティティを考える 52
マルクス主義とアイデンティティ 63
市民権とアイデンティティ 75
リキッド・モダンのアイデンティティ形成のあり方 82
ナショナリズムの再登場とナショナル・アイデンティティ 92
愛情を基礎とする関係の変質をめぐって 101
リキッド・モダンにおける聖なるもののゆくえ 112
アイデンティティのパラドックス 119
移民国家とアイデンティティ 125
フェミニズムとアイデンティティ 128
原理主義の台頭とアイデンティティ 132
反グローバル化運動の持つ両義性 135
インターネット時代のアイデンティティ 137
ニューメディアとアイデンティティ 146
註 151
訳者あとがき 155
索引 163
■要約
<イントロダクション ベネデット・ヴェッキ>
「ジグムント・バウマンは、そのすべての著書の中で、私たちの基本的な信念に揺さぶりをかけており、アイデンティティの問題をめぐるインタビューをまとめた本書も例外ではない。インタビューはテープレコーダーを使用せずに行われ、インタビューする側とされる側が一度も顔を合わせなかった点で、いささか異例なものであった。対話の手段として電子メールが選ばれた結果、質疑応答のリズムは多少断続的なものとなった。対面的なやりとりにつきものの時間的な制約がないために、二人の間の長い距離を隔てた対話に、いくどかの熟考のための中断や、明確にして欲しいとの要望、当初予定していなかった問題への脱線などが伴ったのである。」(p21)
<アイデンティティ問題との遭遇>
アイデンティティを規定する実体である「コミュニティ」を、A)その成員が「永続的な愛着を抱きながら共生する」生と運命のコミュニティと、B)もっぱら理想や原則によって結び合うコミュニティの2種があるとする。私はA)を拒まれており、そのような場合B)に問題を生じる。しかし、それは、私において際立った形で示されたにすぎず、リキッド・モダンにおいては普遍ともなりつつある。この不快さに一息いれることは可能だが、継続的な境界侵犯は、人間の作為や創意をかぎだし、文化創造に加わる勇気を与える。
<アイデンティティ問題の浮上の背景>
「アイデンティティ」は、数十年前までは、哲学的内省の対象にすぎず、ヴェーバー、デュルケム、ジンメルに教示を頼むことが適切かは疑問である。では、「アイデンティティ」が、今日のように注目されるようになった背景は何か。人間の共生の全体が地域社会に等しい前近代においては自明だったが、輸送革命によって帰属の危機が生じてくると、アイデンティティが生じる場を明らかにすることが問題になった。そうした疑問を引き取った発生期の近代国家は、出生と国民を結びつけ、国家が国民の運命の実現と持続性を保証すると表明することで、臣民に服従を求めるフィクションを作り上げた。忠誠を要求しない他のアイデンティティと異なって、ナショナル・アイデンティティは、国家がその権限を握っている。
<ジンメルを通してアイデンティティを考える>
リキッド・モダンの時代において、その世界の住人は、アイデンティティのコミュナルな準拠対象を求めて移動する一方、その集団も移動する。アイデンティティを切望するのは、安全を求める欲望からだが、その一方で、アイデンティティを保って退却しないことは、不快な圧迫感をもたらす。手早く設置し、解体できる「クロークルーム・コミュニティ」は、寿命の短さとコミットメントの少なさはメリットだが、暖かい一体感のあるコミュニティとは違う。このように二つのあり方が共存するリキッド・モダンのアイデンティティは、リキッド・モダンの生活状況を具体化したものであり、これがアイデンティティが個人の関心の核心に居座る理由だろう。(?)
<マルクス主義とアイデンティティ>
「知的マルクス主義」は、その構想と、生活のプロセスが短期のプロジェクトの連続になった時代とのギャップの拡大によって、結末を迎えた。その後に社会的不満を引き継いだ1980年代の熱狂は、「よき社会」という発想を持たず、経済的不公正には沈黙した。社会的公正のための闘争は、承認のための闘争に取って代わられ、階層化の要因でもあるアイデンティフィケーションは、その境界線のさらに外側に捨て去られた「アンダークラス」と呼ばれるアイデンティティ不在の存在を作り出した。グローバル化によってこのような「不要な人間」の生産が地球規模に及び、「資本主義の問題」は、搾取から排除へとシフトしつつある。
<市民権とアイデンティティ>
戦後のイギリスは、対立を抑えて共生する最良の策として、全ての人のニーズを満たして市民の集合体に統合する共和国を目指した。しかし、その成功は、「満足したマジョリティ」に集団保障を撤回させた。その結果、国家は、市民権を裏打ちする機関を次第に撤廃していった。一方、自分の勤勉さに頼るよう言われてきたデニズンは、国家に信頼を託すことはしなくなる。こうして見捨てられた個人は、排除という亡霊にとりつかれ、人々の信頼は受託者を求めて漂流することになる。
<リキッド・モダンのアイデンティティ形成のあり方>
近代の到来による身分から階級への変化は、一つの解放をもたらした。それによるアイデンティの構築は、自分、他者、社会の三重の信頼を基盤に、その階級に属する証拠を自ら示さなければならなかったが、近代の大半にわたって、そうした証拠は、各階級で決まっていた。社会的枠組が「液状化」し、とらえどころがなくなった社会では、ドン・ジュアンの「今を楽しめ」な戦略で退所するのがよい。ジグソーパズルのように最終イメージが堅固に構築されたアイデンティティは、選択の自由への制約であり、リキッド・モダンのデニズンにできることは小片を組み合わせ続けることであって、最良の組み合わせを見つけることはしなくてよい。
<ナショナリズムの再登場とナショナル・アイデンティティ>
今日のコミュニティと承認を求める運動が、「ナショナリズムの再登場」と誤って解釈される背景には、国家主権の衰えがある。近代のパターンに沿った破壊は、国家が崩壊したことによって、異質な者が群集に紛れ込んでしまうために、明らかに異質なものとするために、暴力を必要とするという秩序構築作業なのである。「文化」は、人間的な特徴を意味する語彙として、「自然」の反意語として、二世紀前に入ってきたものであり、ネーションフッドの「市民的」「エスニック」モデルにおいて、後者は、今日「文化的」と呼ばれる言葉の「政治的な正しさ」の基準からは誤称とされる。安全をもたらすとともに監獄のビジョンでもある「コミュニティ」は、両義的なものであり、リキッド・モダンの世界のデニズンが直面する両義的な選択の中でも頻繁に遭遇するものである。
<愛情を基礎とする関係の変質をめぐって>
人々は、愛の作業が創造的であり、それゆえ終わりが定かではないというパラドックスの解決策をもたないため、愛の関係を消費主義モードに変換してしまう。消費主義モードでは、「入るのを認めること」と、「出て行くのを認めること」を両立させようとするが、そのような関係は、すべての関係が永久に不安に脅かされるということ、また、容易に抜け出せるという可能性自体が、愛の成就に対する障害になるという帰結をもたらす。長期的な絆への欲望とその危険という両義性の抜本的対策がないために、一時しのぎの策を探求し、動き続けることになる。濃密な関係を、大量の希薄な接触に置き換える携帯電話のチャットなどは、やりとりから同時性や持続性を排除し、移動の自由を得た。
<リキッド・モダンにおける聖なるもののゆくえ>
「聖なるもの」とは、人間と宇宙を比較したときに顕わになる無力さの経験の反映と言えるかもしれない。近代の精神は必ずしも無神論ではなく、人間の力を超える大問題を、人間が処理できる小さな作業に切り刻む戦略をとったが、それによって聖なるものの権威への関心が犠牲になった。液状化した環境で、永続性に関心を持とうとするなら、「永遠の教義」よりも、個々人の身体的な生活を延ばすことに関心を向けさせようというのであり、それが約束する満足感は、今、その場で消費されてしまった方がいいというのである。あらゆる文化が建設してきた、死すべき生命と永遠を結ぶ橋は、まわりくどく思われ、使用不能になっており、私たちは、そうした秘訣もなしに生きる最初の世代なのである。
<アイデンティティのパラドックス>
「アイデンティティ」は、飲み込もうとする意図とそれへの拒絶の戦場を住処とする。リベラリズムとコミュニタリアニズムは、両刃の剣である「アイデンティティ」を一枚刃に鍛え直すための正反対の試みと言える。しかし実際のアイデンティティ闘争は、包摂と排除の複合体であり、その例外として、すべてのアイデンティティを包含するアイデンティティとしてのカントの「人類」があるが、これが明確な強みを持っているようには見えない。この闘争の任務は、偏狭なアイデンティティを、包括的な別のアイデンティティによって置き換え、排除の境界線を後退させることである。
<移民国家とアイデンティティ>
アメリカなどの「入植者の」地では、政治的国家がアイデンティティという「コテージ産業」に無関心であり、文化的選択の相対的価値に関する判断を下したり、共通の連帯感のモデルを促したりするのを控えているために、社会を束ねる共通の価値はごくわずかである。社会統合には、それによって文化的な嗜好などの対立を増すことへの脅威がある。深刻な不安ははけ口を求めるため、共通の敵というオルタナティヴへの需要が常に存在し、これが「統合の支えとなるのである。「憲法を基軸にする」愛国主義は、共通の恐怖心によって補強される必要があり、それは暴力沙汰になる可能性がある。
<フェミニズムとアイデンティティ>
アイデンティティの一時的性格は、フェミニズムの発見ではない。近代の歴史は、人間の欲望にあったものに「改良」する限界を押し広げる取り組みの歴史だった。人間の遺伝子構造の操作についても、身体の大きさや形態や性がアイデンティティのもっとも頑強な側面であっても、いつまでも、すべてを包含しようとする近代の流れに抵抗する例外にとどまっていたなら、それこそ不可解なことである。問題は、どの代替的アイデンティティを選択するか、選択したら、どの程度の期間、手放さないでおくかである。人の肉体の性的な備品も、他の資源同様、すべての目的のために使用でき、自分で自由に処分できる資源の一つに他ならない。
<原理主義の台頭とアイデンティティ>
今日の宗教的原理主義は、部分的に関連があり、部分的に独立した二つの展開が結びついた結果と推測できる。一つは「中核的なもの」、つまり信者を束ねていた堅固な正典の衰退である。もう一つは、制御不能な社会状況における選択者の生活は、不安定で、信用という価値が欠けており、原理主義は、そうした価値を提示している。人間の尊厳を剥奪された人々にとって、原理主義の集会は、社会国家が放棄した義務を拾い上げ、外部から課せられたスティグマ化を伴う「アイデンティティ」に非難を投げ返して負債を資産に変えることを約束してくれる。原理主義は、その強さを多くの源泉から調達しており、単なる宗教現象ではない。
<反グローバル化運動の持つ両義性>
「グローバル化に反対」においては、統合を「解体する」ことではなく、グローバリゼーションのプロセスを飼い慣らすことが問題である。地域社会のゲートを閉めることで、グローバリゼーションからの救いを求めることは、無法な条件を長引かせるだけであり、グローバルに生み出された困難に対するローカルな解決策などない。私たちが持っている唯一の選択肢は、お互いの弱さを確認して共通の安全を保障しあうことであり、こうして、すべての人の個人的利害と相互の尊重が、同じ方向を向くのは、人類史上初めてのことである。そうしなければ、グローバルな無秩序の下で、強力な人が享受している利益が、多数の人の尊厳を犠牲にしながら享受され続けることになる。
<インターネット時代のアイデンティティ>
リキッド・モダンにおける関係はあいまいであり、仲間づきあいが自律の放棄を代償とするという両義性の焦点になりつつある。パートナーシップを築く過程においても、スピードと、廃棄物処理施設が念頭に置かれる。電子テクノロジーによる「簡単に行われる接触」からネットワークについて語ろうとするのは、かつて親族や友人のネットワークが提供してくれていたセーフティネットを欠いているためであり、このように幻のコミュニティが広がるほど、本当のコミュニティを縫い合わせてまとめる作業は困難になる。消費可能な代替物が、「現物」に優越することを承認することによって、親密な絆からやがて求められることになる自己犠牲を免れることが約束される。消費可能なものは、選択の無限性と使い捨て可能性を体現しているが、重要なことは、それが、私たちをその統制下に置くことである。
<ニューメディアとアイデンティティ>
「多文化主義」は、ある人にとっては肉であり、他の大半の人にとっては毒である。「多文化時代」の表明は、判断を下すことへの拒絶の意思表明であり、また、消費のための商品に加えようという、グローバル・エリートの新たな「文化的雑食性」を示している。しかし、これは、多数派である出生地に固定され、他の地に移ろうとしても国境に足止めされる人にはとれない態度である。メディアは、多くの人が同じ映画スターを見て賞賛するといったことによって、物理的に移動することを許されていない多数派の人に対して、地上から、ひとときの間、精神的に離陸する「バーチャルな越境」を提供する。しかし、その幸福は、長い苦痛の間に点在するだけである。私たちは、アイデンティティに対する欲求と、いったんアイデンティティが得られてしまうと、「退却しようにも橋」がないことがわかることへの恐怖心の間で引き裂かれるだろう。
*作成:植村 要 追加者: