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Bauman, Zygmunt

ジグムント・バウマン


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■経歴
◇1925年生まれ。リーズ大学・ワルシャワ大学名誉教授

■著作など
◇1972, “Between Class and Elite: the Evolution of the British Labour Movement: A Sociological Study”, trans. by Sheila Patterson, Manchester University Press.
◇1973, “Culture as Praxis”, Routledge.
◇1976, “Socialism: the Active Utopia”, Allen and Unwin.
◇1976, “Towards a Critical Sociology: An Essay on Commonsense and Emancipation”, Routledge.
◇1978, “Hermeneutics and Social Science”, Columbia University Press.

◇1982, “Memories of Class: the Pre-history and After-life of Class”, Routledge.
◇1987, “Legislators and Interpreters: On Modernity, Post-modernity and Intellectuals”, Polity Press.
 (=向山恭一・萩原能久・木村光太郎・奈良和重訳1995『立法者と解釈者――モダニティ・ポストモダニティ・知識人』昭和堂)
◇1988, “Freedom”, Open University Press.
◇1989, “Modernity and the Holocaust”, Polity Press.
 (=森田典正訳2006『近代とホロコースト』大月書店)
◇1990, “Thinking Sociologically”, Blackwell.
 (=奥井智之訳1993『社会学の考え方――日常生活の成り立ちを探る』HBJ出版局)
◇1991, “Modernity and Ambivalence”, Polity Press.
◇1992, “Mortality, Immortality and Other Life Strategies”, Polity Press.
◇1992, “Intimations of Postmodernity”, Routledge.
◇1993, “Postmodern Ethics”, Blackwell.
◇1994, “Alone Again: Ethics after Certainty”, Demos.
◇1995, “Life in Fragments: Essays in Postmodern Morality”, Blackwell.
◇1997, “Postmodernity and its Discontents”, Polity Press.
 (=入江公康訳「消費時代のよそもの 福祉国家から監獄へ」『現代思想』1999年10月号,27−11, p.149〜159)
◇1998, “Work, Consumerism and the New Poor”, Open University Press.
 (=渋谷望訳「労働倫理から消費の美学へ ――新たな貧困とアイデンティティのゆくえ」『総力戦体制からグローバリゼーショ ンへ』平凡社,p.203〜234)
◇1998, “Globalization: the Human Consequences”, Columbia University Press.
◇1999, “In Search of Politics”, Polity Press.
 (=中道寿一訳2002『政治の発見』日本経済評論社)

◇2000, “Liquid Modernity”, Polity Press.
 (=森田典正訳2001『リキッド・モダニティ――液状化する社会』大月書店)
◇2000, “Community: Seeking Safety in an Insecure World”, Polity Press.
 (=奥井智之訳2008『コミュニティ――安全と自由の戦場』講談社)
◇2001, “The Individualized Society”, Polity Press.
◇2002, “Society under Siege”, Polity Press.
◇2003, “Liquid Love: On the Frailty of Human Bonds”, Polity Press.
◇2004, “Europe: An Unfinished Adventure”, Polity Press.
◇2004, “Identity: Conversations with Benedetto Vecchi”, Polity Press.
 (=伊藤茂訳2007『アイデンティティ』日本経済評論社)
◇2004, “Wasted Lives: Modernity and its Outcasts”, Polity Press.
 (=中島道男訳2007『廃棄された生』昭和堂)

■共著など
◇2001, “Conversations with Zygmunt Bauman, with Keith Tester”, Polity Press.
◇2001, “Thinking Sociologically, 2nd ed.”, with Tim May, Blackwell.

■その他論文など
◇2000 ‘Social Uses of Law and Order’, in Garland D. and Sparks R. eds., “Crimnology and social theory”, Oxford University Press.
 (=福本圭介訳「法と秩序の社会的効用」『現代思想』2001年6月号,29−7,p.84-103)

■バウマンについて書かれたもの
◇1992向山恭一「「解釈的理性」と「共同体」位相の主題化――Z.バウマンのポストモダン論と政治哲学の動向を中心に」
 『法学研究』慶応義塾大学法学研究会 65(3) 1992.3 p57〜76
◇向山恭一1998「リヴァイアサンへの鎮魂歌――ジグムント・バウマンの(近代性)批判をめぐって(I)」
 (鷲見誠一・蔭山宏編『近代国家の再検討』慶応義塾大学出版会 1998.10 p177〜)

◇千葉一弥2001「ニーチェ哲学とバウマン――意志理論に関する一考察」
 『哲学』日本哲学会 52 2001.4 p122〜124
◇中島道男2002「バウマン道徳論の解釈をめぐって――批判的検討」
 『奈良女子大学文学部研究年報』奈良女子大学文学部 46 2002 p59〜71
◇向後剛2004「モダニティと暴力――ジグムント・バウマンのホロコースト論」
 『現代社会理論研究』人間の科学新社 14 2004 p1〜13
◇向後剛2004「モダニティの秩序とアンビヴァレンス――バウマンの社会理論」
 『境界を越えて』立教大学比較文明学会 4 2004.2 p47〜66




「消費時代のよそもの」


Bauman, Z., 1997 ‘The strangers of the consumer era’ in Bauman, “ Postmodernity and its Discontents” New York University Press.
=入江公康訳「消費時代のよそもの 福祉国家から監獄へ」『現代思想』1999年10月号,27−11,p.149〜159

◆「(…)“失業者”とは“労働予備軍”であった。健康状態、疾患、あるいは目下の経済的なトラブルといった理由から一時的に離職する場合、彼らは適当な 雇用があるときには、雇用に復帰するよう仕込まれる存在だった――そして彼らを鍛えることは、一般に政治権力の承認された課題であり、権力がなすべき、あ からさまな、あるいは暗黙の仕事だったのだ。
 このことは、今ではもう当てはまりはしない。選挙CMのノスタルジックで、ますます扇情的なコピーを除けば、仕事からあぶれた者は“労働予備軍”である ことをやめている。景気の好転は、もはや失業の終焉の兆しとはならない。“合理化”は、今や仕事を創り出すさない切り詰めを意味し、技術的・経営管理的な 進歩は、労働力を“減量”すること、係といった部門の閉鎖、人員削減によって測定される。ビジネスが運営される様式の刷新は、作業を“フレキシブル”にす ることにある。(…)」(p.150)

◆「他のどの国よりもなお、合州国――そこではレーガン主義者(レーガナイト)の乱痴気の歳月において消費市場の無条件ルールが達成された――以上に、そ うした連関が完璧に暴露された場所はない。福祉供給の規制緩和と除去の歳月はまた、上昇する犯罪の、そして成長する警察力と刑務所人口の歳月だった。また それらは、いっそう血泥で華々しく残酷な運命が、うわべだけ成功している消費者という“沈黙している(サイレント)”か、そう−静かではない−大多数(マ ジョリティ)の、その急速に拡大する恐怖、不安、ナーバスさ、不確実性、怒り、狂暴さと釣り合うように、犯罪者と宣告された者を蓄えておくことを必要とし た歳月であった。“内なるデーモン”が強力になるにつれ、“犯罪が処罰され”、“正義が分配され”るのを見たいという、マジョリティの欲望がいっそう貪欲 となる。リベラル派ビル・クリントンは、警官を増員し、新しい、より堅固な監獄を建設することを公約して大統領選に勝利したのだった。クリントンの勝利 が、精神遅滞者リッキー・レイ・レクター――彼がアーカンソー州知事時代に電気椅子送りを承認した――の広範に宣伝された処刑に負っていると考える観察者 もいる(その中には、The London Hanged(=ロンドンの絞首刑者)の著者、トレド、オハイオ大学のピーター・リーネバウがいる)。最近では、共和党急進右派に属する、クリントンの反 対派が議会選挙で圧勝したが、それは、クリントンが犯罪とじゅうぶんに闘わず、反対派だったらもっと強力にやるだろうと有権者に納得させていたのであ る。」(p.155〜156)

◆「死刑囚監房の収容者の圧倒的大多数は、いわゆる“アンダークラス”出身であり、それは巨大な成長する、貯蔵庫――消費社会の落伍者や拒絶者が貯えられ る――となっている。リーネバウが示唆するように、処刑のスペクタクルは「シニカルに、政治家らによって、成長するアンダークラスを威嚇するのに利用され る」。だが、アンダークラスの威嚇を強く要求することで、アメリカのサイレント・マジョリティは、自身の内なる恐怖を鎮圧しようとするのだ……。」 (p.156)

◆「死刑の復活は、おそらく最もドラスティックな事態であるが、しかし、犯罪の役割が変化していることの唯一の兆候なのではない。それは、それが運ぶシン ボリックなメッセージが変化したということでもあるのだ。汗ではなく、血が、“アンダークラス”の監禁された部分から抜き取られる傾向にある。“デッドマ ン・ウォーキング”で、死刑制度反対委員会の委員長、シスター・ヘレン・プレジャンは、アンゴラ刑務所により運営される“血漿工場(プラズマ・プラン ト)”を描写するのだが、そこでは血の“寄付”が集められ、一九九四年三月までは、寄付ごとに現物で一二ドルであったものを四ドルにまで支払いを引き下げ たのだった。そのあいだにも、Dr.ジャック・キヴォーキアン――安楽死を主張する最前線――が、執行手続きにおける臓器“寄付”の強制を含むキャンペー ンを展開する。これら事実は、貧困者の新訂版たる“アンダークラス”、あるいは“諸階級を越えた階級”にあって、その新たな配役を予告することはほとんど ない。すでにそれは“労働予備軍”ではなく、十全かつ真の意味で“余剰(余った)人口”である。それは何に役に立つというのか? 他の人間の身体を修理す る部品(スペア)の供給者だとでもいうのだろうか?」(p.156〜157)

◆「(…)貧困であることは、ますます犯罪と見做される。つまり貧困になることとは、犯罪性向、あるいは犯罪意志――アルコール中毒、ギャンブル、ドラッ グ、サボりや放浪癖といった――の結果と見做される。貧困者が保護や補助に値するはずもなく、まさしく罪の具現そのものとして、憎悪や非難の対象となる。 (…)」(p.157)

◆「(…)一方では、新たな議会多数派が、年若いシングル・マザーから月三七七ドルの給付を奪い、彼女の子供たちが孤児院へと送られるのを渇望し――それ は犯罪と母親たちの社会的不適応をシンボリックに追認するものだろう――、その他方では、銀行活動に付帯する最終制限の撤廃、公害防止法への“フレキシビ リティ”の導入、企業行動への対抗アッピールの更なる困難化といった法改革の事案が目白押しとなっているのである。人間の運命のラディカルな民営化が、産 業や金融のラディカルな規制緩和に寄り添い、肩を並べて進行する。」(p.157)

◆「(…)バークレイのイブラヒム・ワルデは、最近、“エコノミカリー・コレクト(経済的に正しい)”の専制が進行していると書いた(ル・モンド・ディプ ロマティーク、一九九五年五月)。徐々にではあるが、冷酷に、それは――経済的に“意味があれ”ば、それが何であろうと、それ以外のいかなる意味にも支え られずともよく、また他のいっさいの意味にも支えられずともよく、また他のいっさいの意味の(つまり、政治的、社会的人間、もしくは人間それそのものの) 不在を弁明せずともよいという――公の言説の公理に、事実なっている。主権的行為者が、すでに民主的にコントロールされる国民国家ではなく、特に選ばれた わけでもない、足枷を外され、そして囲いを解かれて剥き出しになった金融複合体(コングロマリット)である世界では、大営利・大競争という問題は、人が問 うべき時間と意志を持つその傍から、それ以外のいかなる問題をも無効にし、不当なものとしてゆく……。(…)」(p.158)

◆「(2)ニルス・クリスティは言っている。「他の産業と比較して、犯罪コントロール産業は特権的な位置にある。生材料に事欠かず、犯罪は無限に供給され る。サービスの需要は無限であり、セキュリティと見做したものに対する支払いの準備もまた無限である」(Nils Christie, 1994, Crime Control as Industry, Second ed. Routledge)。このようにクライム・コントロールは今や――それによって儲けのある、各産業分野にわたった、視野の広い――資本であり、一大産業 部門を形成している。」(p.158〜159)




「労働倫理から消費の美学へ」


渋谷望訳「労働倫理から消費の美学へ ――新たな貧困とアイデンティティのゆくえ」
(山之内靖・酒井直樹編20030124『総力戦体制からグローバリゼーションへ』平凡社,p.203〜234)

「訳者注記
 本論文はZygmunt Bauman, 1998, Work, Consumerism and the New Poor, Open University Press第二章からの翻訳である。ただし翻訳はThe Bauman Reader(2001, Perte Beiharz ed., Blackwell)の再録版に依拠し、原注は省略した。」(p.234)

◆「パノプティコン的制度が得意とするような教練(ドリル)は、消費者を訓練することにはほとんど適さない。これらの諸制度は、お決まりの単調な行動のな かで人々を訓練することに秀でており、選択することを制限したり、選択を完全に抹消することを通じてこの効果を発揮してきたのであった。しかし、単調な ルーティンの欠如、絶え間なき選択の状態こそが、消費者の美徳(それどころか「必要不可欠の役割」)なのである。パノプティコン的教練は、脱−工業的、脱 −兵役的な世界では減少したばかりか、消費社会のニーズとも調和しない。パノプティコン的教練によって効果的に創り出されうる気質や生活態度は、理想的消 費者を生産することにおいては逆効果となる。」(p.205〜206)

◆「(…)理想としては、消費者は何も確固としたものを信奉すべきではない。どんなものも永遠なるコミットメントを命令すべきではない。どのようなニーズ も十全に満足させられるべきではない。いかなる欲望も究極的なものとみなされるべきではないのだ。いかなる忠誠の誓いやコミットメントにも、「とりあえ ず」という但し書きが書き添えられるべきなのだ。重要なのは移ろいやすさであり、すべての没頭行為に本来的に備わっている暫定性である。それは没頭行為そ のものより重要なのである。つまり、欲望の対処を消費するのに要する時間(あるいはその対象の価値が減退していくのに要する時間)よりも長く、没頭を持続 させてはならないのだ。」(p.206)

◆「消費市場は顧客を誘惑するとよく言われている。しかしそうするためには、誘惑に対して準備万端の、あるいは進んで誘惑されたがっている顧客を必要とす る(それは、労働者に命令するために、工場のボスが、しっかり確立した、規律訓練と命令遵守の習慣をもった従業員を必要としたのとまったく同じである)。 順調に動いている消費社会において、消費者は能動的に誘惑されようとする。彼らは魅惑から魅惑へ、誘惑から誘惑へ渡り歩き、餌にとびつくやいなや別の餌を 捜し求める生き方をする。新たな魅惑、誘惑、餌は、それぞれどこか違っており、おそらく先行するものよりも強力なのだ。それはちょうど、かつて彼らの親に あたる生産者たちが、ベルト・コンベアの回転のごとき、まったく変化のない人生をいきていたことと対応している。」(p.207〜208)

◆「(…)自己アイデンティティ、社会におけるふさわしい場所、そして意味ある生活として認知された生活様式。こうしたものすべてを獲得するためには、毎 日かかさず市場(マーケット・プレイス)を訪れる必要があるのだ。
 近代の工業化の段階では、誰もがまず何よりも最初に生産者であるはずだという事実は問われる必要はなかった。「近代の第二段階(モダニティ・マーク・ ツー)」、つまり消費者の近代において、問われることのない赤裸々な事実とは、人は特定の何かになろうと考えつくよりも前に、まず最初に消費者となる必要 があるということである。」(p.208)

◆「(…)おそらく「アイデンティティ」という用語さえもその有効性を喪失してしまったのだ。つまり、必要なときに解消するにはあまりにも強い、そうした 硬直的なアイデンティフィケーションへの恐怖が、ますます社会配置への関心の中心を占めているのである。アイデンティティへの欲望と、この欲望を満たすこ とに対する恐れ――アイデンティティという考えが引き起こす魅力と不安――。この両者は混じり合い、ブレンドされ、解決不可能な両義性と混乱の化合物を生 み出している。」(p.212)

◆「あらゆる実践的意図と目的にとって重要なのは手段であって結果ではない。消費者の天職の成就とは、より多くの選択を意味している――それが結果として より多くの消費をともなっていようといまいと――。消費者の感性(モダリティ)を身につけることは、何よりも選択という行為に夢中になることである。そし て副次的にかろうじて、しかも不可欠でさえないのだが、それはより多くを消費するということを意味する。」(p.214)

◆「消費社会を統合するために布陣を敷き、その指針となり、それを何度も危機から救い出すのは、美学であって倫理ではない。倫理が善き行いという義務に至 高の価値を付与するとすれば、美学は崇高な経験を重視する。(…)」(p.217)

◆「労働――正確には、職務――が保っていた地位は、現在、審美的な判断の基準が優勢となるにつれ、根底から打撃を受けざるをえなかった。すでに見てきた ように、労働はその特権的地位、つまり自己形成とアイデンティティの構築などのすべての試みの中心としての地位を失ったのである。しかし労働はまた、道徳 的向上、悔悟、罪の贖いの特権的な手段であることを通じて、とくに強い倫理的意識の中心であることにも終止符が打たれた。他の生活活動と同様、いまや労働 がさらされているのは、何よりも審美的な吟味である。その価値は、快楽の経験を生み出すその能力によって判断される。このような能力を欠いた労働――「内 在的な満足」を提供しない労働――は、価値を欠いた労働でもある。他の判断基準(そして、道徳を高めるとされた影響力)は、ことごとく敗退してしまった。 それゆえ、それ以外の判断基準をもってしては、審美的価値志向の興奮追求者にとって労働は無益であり恥でさえあるという糾弾に打ち勝つことは困難であ る。」(p.219)

◆「第一のカテゴリーの職業は「面白い」ものであり、第二のカテゴリーの職業は「退屈」である。これら二つの簡潔な判断評価は、それらに実質を与える複雑 な審美的基準を内包している。「どんな正当化もいらない」とか「どんなアピールも不要」というその素気なさは、労働の領分――かつては倫理の支配地であっ た――をいまや美学が支配していることの間接的な証拠である。欲望の対象になろうとする場合、分別をわきまえていれば、その仕事も「面白く」あらねばなら ない。変化に富み、心躍るような、冒険の余地があり、ある程度のリスクを含み(過剰にではなく)、絶えず新たな興奮を引き起こすものでなければならないの だ。単調で、反復的で、ルーティンで、冒険的ではない仕事――そしていかなるイニシアティブもなく、機転をきかせるいかなる挑戦も、あるいは自己を試した り自己主張をするいかなるチャンスも約束されない職業――は、「退屈」である。一人前の消費者であれば誰であろうと、選択の余地のない状況にないかぎり (すなわち、消費者としての、自由な選択遂行者としての彼/彼女のアイデンティティがすでに剥奪され、抹消され、あるいは否定されていないかぎり)、自ら の意志でこれらの職業を引き受けることに同意するとは思えない。このような職業は、審美的価値を欠いており、それゆえ、経験収集家(エクスペリエンス・コ レクター)の社会においては天職となる可能性はほとんどないのだ。」(p.220〜221)

◆「すでに消費主義に改宗した人々を審美テストに合格しない仕事に向かわしめるために必要なのは、選択の余地のない状態、強制や原初的な生存競争の状態を 人為的に再創出することである。だがこの場合は、道徳的な高貴さといった救いさえないのだ。」(p.221〜222)

◆「喜びの経験に富んだ労働、自己達成(self-fulfillment)としての労働、生活の意味としての労働、価値あるものすべての中心としての、 プライド、自尊心、名誉と敬意、あるいは有名になることの源泉としての労働。このような天職としての労働は少数者の特権になってしまった。」 (p.222)

◆「(…)選ばれた少数者以外の大多数の人々にとって、今日のフレキシブルな労働市場において自分の労働を天職として受け入れることは、大きなリスクを背 負うことであり、心理的、感情的な破滅の原因でもある。」(p.222〜223)

◆「(…)上司たちは、自分たちが本気で言っているのだと従業員が信じることを本当は期待していない。このゲームが本気で行われていると、どちらの側も信 じるふりをし、それに合わせて振舞うことしか彼らは望んでいない。上司たちの観点からは、天職型の見せかけを、従業員の雇用にまで本気で広げるように説得 することは、トラブルを招くことを意味している。」(p.223)

◆「(…)非労働人口部門はおそらく、かろうじて労働倫理が生き残る最後の避難所であり、最後のチャンスであった。貧困者の悲惨さを労働意欲の欠如のせい にし、こうして彼らに道徳的堕落の責を負わせ、貧困を罪業に対する罰として呈示することは、労働倫理がこの新しい消費社会で果たすことのできる最後の役割 であったのである。」(p.226)

◆「退屈を和らげるためにはお金がかかる。(…)
それゆえ退屈とは、消費社会に特有の他のさまざまな社会階層化のファクター――選択の自由と選択肢の豊富さ、移動する自由、空間を克服し時間を構造化する 能力――とは切っても切り離せない心理学的特徴なのである。(…)退屈から抜け出そう、あるいは退屈を緩和しようという絶望的な欲望は彼らの主要な動機で ある。」(p.229〜230)

◆「人格をもった英雄として万人にあがめられるべきとされていた金持ちが、かつては「独力で身を立てた人」であったり、彼らの人生は厳格かつ根気強く忠実 に守られた労働倫理のたまものであったことを思い出してみよう。こうしたことはもはやありえない。崇拝の対象は、いまや富それ自体である――最も気まぐれ で、最も浪費的な生活様式を保証するものとしての富なのである――。重要なのは、人は何ができるのかであって、何をなすべきか、あるいは何をなしたのか、 ではない。」(p.231)

◆「(…)すなわち、これらすべての「成長要因」の開拓者であり、その最も熱心な擁護者、そして西側世界で最も驚異的な「経済的成功」として広く賞賛を浴 びている国、サッチャー以降の英国こそが、地球上の豊かな国々のなかで、貧困の現場が最も悲惨であるという事実である。国連開発計画の最新の『人間開発報 告書』は、イギリスの貧困者が、西側のあるいは新たに西側に加わったどんな国よりも貧困であることをつきとめている。」(p.232)




「法と秩序の社会的効用」


Bauman, Z., 2000 ‘Social Uses of Law and Order’, in Garland D. and Sparks R. eds., “Crimnology and social theory”, Oxford University Press.
=福本圭介訳「法と秩序の社会的効用」『現代思想』2001年6月号,29−7,p.84-103

◆「「秩序」は、直接的に排除という任務を遂行する。排除されるべき人々に特殊な制度を強制することによって。つまり、人々を特殊な制度に従属させること によって排除する。「規範」は、間接的に作用する。規範は、排除を自己周縁化(セルフ・マージナリゼーション)に見せかけるという役割を果たすのだ。最初 に、「秩序に背いた」人々が排除、追放される。次に、「規範に適していない」人々がそれに続く。どちらの場合も、排除の罪を非難されるのは、排除された人 々自身である。秩序と規範の見方では、責任と非難の問題はアプリオリに解決されたことになっており、責任は前もって排除される人々にあったということにな る。排除という苦境を人々に招いた原因は、彼ら自身の行動――間違った行動――にあったのだと。」(p.85-85)

◆「ピエール・ブルデューによると、カリフォルニア州――ヨーロッパでは社会学者によって自由の天国として賛美されることもある――では、全ての高等教育 機関に割り当てている資金の総額をはるかに超える予算を刑務所の建築と施設運用費にさいているという。投獄/監禁(インプリスメント)は、政府が行う処置 のなかで最も過激な究極の形態であり、現代の時/空間圧縮の最前線にいる政治的エリートによって運営されている。」(p.87)

◆「(…)ペリカンベイ刑務所は、二〇世紀末までに住民の一〇〇〇人に八人が囚人になることを計画しているのだ。一九九〇年五月一日付けのロサンゼルス・ タイムズで報道された熱意ある報告によると、ペリカンベイ刑務所は、「完全に自動化されていて、収容者が看守たちや他の収容者たちと直接接触しなくてすむ ようにデザインされている」。収容者たちは大部分の時間を「堅固なコンクリート・ブロックとステンレスでできた窓のない独房」で過ごし、「彼らが刑務所内 で働くことはない。彼らはレクリエーションの機会を持たず、他の収容者たちと一緒になることもない」。看守でさえ「ガラスばりのコントロール・ブースのな かにいて、囚人たちとはスピーカー・システムを通じて連絡をとる」。それゆえ、看守が囚人たちと出会うことはめったにない。看守たちに残された唯一の仕事 は、囚人たちが独房の中にいることを確認することである。囚人たちは、見ることも見られることもなく、他と連絡を断たれて独房に入れられているのだ。食事 をとり排便することを除けば、その独房はまるで棺おけである。」(p.88-89)

◆「パノプティコンのプロジェクトが素描されていた時代、労働者不足は、社会的な発展を拒んでいる主要な障害として広く認識されていた。初期の企業家たち は、労働者になりうる人々が工場労働のリズムに抵抗を感じて身をゆだねたがらないということを嘆いていたのだ。このような状況下で「矯正」が意味したの は、そのような抵抗を克服し、工場労働に身をゆだねることをもっともらしく見せることだった。
 要約すれば、その他の直接的な目的が何であれ、パノプティコン的な形態をもつあらゆる監禁施設は、何よりもまず、規律訓練の工場だったのであり、もっと 正確に言えば、訓練された労働者を生産する工場だった。しかも、それらの監禁施設は、多くの場合、最終的な課題に対するてっとりばやい解決法でもあった。 つまり、収容者たちをすぐに働かせたのである。特に、「自由な労働者たち」が最も嫌悪し、どんなにその報酬が魅力的であったとしても自分の意思ではとうて いやりたがらないような仕事をやらせたのだ。表向きに宣言された長期的な目的が何であれ、大部分のパノプティコン的施設は、直ちに収容作業施設(ワーク・ ハウス)だったのである。」(p.89-90)

◆「今日の社会的圧力とは、定職に就いて一生涯フルタイムで働くという習慣を解体しようとする圧力であり、労働倫理の命令とあからさまに対立している。流 行の「フレキシブルな労働」というスローガンが意味しているのは、まさにこのことである。今日推奨されている戦略とは、近代産業の上昇期に労働者たちに教 え込んだ労働倫理を(「学ばせる」のではなく)忘れさせることなのである。」(p.91)

◆「IMFと世界銀行の管理者たちは、一九九七年九月に香港で開催された年次会議で、失業者を減らそうと努力するドイツとフランスの政策を厳しく批判し た。そのような努力は「労働市場の融通性」とは相容れないと。彼らの考えでは、「労働市場の融通性」を確保するために必要なのは、労働基準と賃金基準を保 護している「あまりに好意的な」法律を廃止すること、純粋な競争を阻外しているあらゆる「歪み」を解体すること、既得の「特権」(Marti 1997)や雇用と賃金の安定性を保護している規約を手放そうとしない労働者の抵抗を粉砕することである。」(p.91)

◆「(…)ペリカンベイ刑務所は、規律訓練の工場や訓練された労働者を生産する工場として設計されたのではない。それは、排除の工場、つまり排除されてい るという状態に慣れた人々を生産する工場として設計されたのだ。時/空間が圧縮された時代における排除された人々の特徴は、強いられた移動不可能性 (immobility)である。ペリカンベイ刑務所が完成に近づけたもの、それは移動不可能性の技術にほかならない。」(p.92)

◆「今日の実生活上の機会と選択は、グローバルなものとローカルなものという階層制のなかにある。グローバルな移動の自由は、社会的昇進、出世、成功の証 拠だが、他方、移動の不自由には、敗北、失敗した人生、「取り残されていること」に特有の嫌な匂いがしている。グローバル性とローカル性は、ますます正反 対の価値を獲得しつつある。一方は、激しく切望され、他方は、激しく嫌悪される。この両極化した価値が、人々の人生の夢と悪夢と闘争の中心に位置付けられ ているのだ。人生の野心は、しばしば世界を旅行し体験していることを思い描きながら、移動の自由、自由な場所の選択といった言葉で表現される。それに対し て、人生の恐怖は、他の人々が容易く往来し楽しんでいる場所から自分が疎外されている状況を思い描きながら、ある場所への幽閉、変化の欠如といった言葉で 表現される。「いい人生」とは移動の人生であり、さらに正確に言えば、留まり続けることが不満になった場合にはどこか別の場所へ移動できると確信できてい ることの安心感である。自由は何よりもまず選択の自由を意味し、選択は著しく空間的な次元を獲得したのである。」(p.97)

◆「これら全ての要素はある一つの共通の効果に集約される。犯罪を「最下層階級」(常に地域的な)と同一視すること。あるいは、結局は同じことだが、貧困 を犯罪とみなすこと。」(p.100)


*作成:橋口 昌治
UP:20051114 REV:20080426, 0505, 20090212
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