『私はどうして私なのか』
大庭 健 20030230 講談社,229p.
last update:20110108
■大庭 健 20030230 『私はどうして私なのか』,講談社,229p. ISBN-10: 4061496514 ISBN-13: 978-4061496514 \735 [amazon]/[kinokuniya] p04 ※
■内容
出版社/著者からの内容紹介
自分はたしかにいる。
では鳥や魚、赤ちゃんにも自分はあるのか? 私とは何?
「あなたがいて私がいる」ことを検証する鮮やかな分析哲学。
自分がいる、ということ
自分がいる。この事実は、否定できない。
私が、こう書きとめたとき、私は、書いているのは自分だ、と意識している。自分でも知らないうちに指が動き続けて、日本語の文字らしい模様がディスプレイに生じた、というのではない。私は、自分が書いている、と自覚しながら、指を動かしていた。
そのようにして、私は、自分でありえている(哲学あるいは心理学の用語で言えば、「自己」・「自我」(セルフ)でありえている、と言ってもいいが、この本では「自分」という、もっとも日常的な語を用いる)。
では、魚や鳥、あるいは人間の新生児は、どうなのだろう。彼らにおいても「自分」が成立しているのだろうか?
もう少し正確に問い直そう。いまの私においては、自分というものが成り立っている。それと同じような仕方で、自分がいるという事態が、鳥や魚や赤ちゃんにおいても、成り立っているのだろうか?――(本書より)
内容(「BOOK」データベースより)
自分はたしかにいる。では鳥や魚、赤ちゃんにも自分はあるのか?私とは何?「あなたがいて私がいる」ことを検証する鮮やかな分析哲学。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
大庭 健
1946年さいたま(旧浦和)市生まれ。東京大学大学院博士課程修了。現在、専修大学文学部教授。専攻は倫理学、分析哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
はじめに
Ⅰ 自分がいる、ということ
1 自分の存在と、自己意識
2 意識のない自分……
3 レフレクション―対象意識から自己意識へ
4 ハッと我に返る……
Ⅱ 他人との関わりと、自己意識
1 鏡像段階
2 鏡を前にした困惑
3 見えないのに、ある……?
4 見られて―いる
5 見えているのは、自分の顔だ!
6 無造作な飛躍、その複雑さ
Ⅲ 言語――ないものについての考え
1 他人への、世界の現れ
2 指示対象と意味―動物の記号と人間の言語
3 言語能力―ないことについての考え
4 非在の現前
5 他人の経験と自分の死―非在の極北
Ⅳ 「自称語」の意味と指示対象
1 自分の名
2 固有名と、「私」という語
3 固有名、他人が呼びかけてくる名
Ⅴ 指示対象の与えられ方
1 指示対象と意味―フレーゲの基本的着想
2 文の意味と、語の指示対象
3 語の意義(センス)
4 固有名の意義(センス)
Ⅵ 「私」という指標語
1 文によって表された考え
2 指標語の意義(センス)の特質―実践的含意
3 指し違いへの免疫
4 対象の同定の不要性
5 訂正不能な現前
Ⅶ 内的な自己…?
1 我思う、ゆえに我あり
2 身体とも人物とも独立の、思考実体……
3 秘私的な「これ」
4 同じ対象の、異なる与えられ方
5 デカルトへの反論
6 私は、いま・ここにいる
Ⅷ 私は大庭健である、という事実の特別さ…?
1 全事実の完全な記録
2 ここはどこ?私は誰?
3 地図をよむ―指標語と固有名の対応づけ
4 もし私が、大庭健でなかったら……
5 二種類の反事実的な条件文
6 他人になった私……?
Ⅸ 意義(センス)と指示対象、そのスリかえ
1 私は貝になりたい―自己同一性
2 「私」という語の意義の水膨れ
3 意義の違いと、指示対象の違い
Ⅹ 「私が思うに」――聞き手へのコミットメント
1 あなたの言う「あなた」とは、私のことだ
2 思考についてのメタな思考……
3 「私が思うに」
4 推論のコミットメントからの離脱、もしくは内観
5 反射的脱自、次の態度・行為の選択
6 行為の理由(わけ)―推論あっての理由
終章 私の特権化=自閉を超えて
1 原点の切り離し……
2 あなたの言う「あなた」、呼応、引受け
3 一人称・現在ゆえの、ズレ?
4 見られることなき視点への縮退、もしくは『箱男』
5 僕という実体……?
6 実態ではない。が、リアル
7 横領としての私有化
8 私有化という自己窒息を超えて―「呼応可能=責任」という概念のほうへ
あとがき
■引用
■書評・紹介
■言及
*作成:竹川 慎吾 更新:樋口 也寸志