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個別性/普遍性・親密圏/公共性



→普遍/個別・距離 Global Justice/Paticularism、正義の倫理/ケアの倫理、公共圏/親密圏
 *このファイルの作成:安部 彰(立命館大学大学院先端総合学術研究科)※
  ※http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/aa01.htm

■文献

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■引用 *訳文には適宜変更、または〔 〕による補足を加えた

●身近であること/個別性
ローティにおいて連帯の実践的契機は、〈身近な〉他者への共感にもとめられる。より正確には、「残酷さの回避」という価値/信念を共有する「我々」を拡張 していくうえで、〈身近な〉他者が方法的/道具的に引き合いに出される。たとえば道徳教育者の使命は「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣をもつ、見 知らぬ他人のことを心配しなければならないのか」という、よくある問いに答えることであるとローティはいう。しかしローティによれば、こうした問いに対す る伝統的な答え(同じ種の一員であるという認識から生じる義務の強調)は、説得力をもったためしがない。というのも、その答えは、その質問が真に聞きたい と考えている論点、すなわち「単に同じ種の一員であるということが、本当により近しい親戚関係の代用になるのかという疑問」に対する何の応答にもなってい ないからである。したがって、むしろより妥当な答え方は、身近な他者を引き合いに出すこと、すなわち「彼女はあなたの義理の娘になる可能性もあるのだか ら」「彼女の母親が彼女のために嘆き悲しむだろうから」といった物語を語ることによって応じることである、と。ローティはここで、「我々は〈身近な〉他者 に共感しやすい」という経験則に、また「我々はとりあえず現時点で自らが受けいれ可能なものを出発点にしていくしかない」とする、彼の基底的認識―「自文 化中心主義ethnocentrism」、その「我々we/国家」の強調も以上に起因する―に拠っているのであろう。ただしそれは、「歴史的脈主義」の主 張として単純に回収されるべきではない。というのもそれは、「残酷さは避けられるべきである」という規範的な要請であるとともに、他者との経験的な距離 (感)の捨象にたいする疑念の表明―「我々」を構成するものとは、リベラルな伝統/文脈を分かちあう他者である以上に経験的に身近に感じられる他者のこと である―にほかならないのであるから。しかしながら私のこのような見解には異論があるかもしれない。ローティはたしかに「我々」をリベラルな(「残酷さの 回避」という)伝統/文脈を分かちあう者たちとみなしてもいるからだ。しかし先にみた、他者への倫理的義務の問い/懐疑にたいする彼の応接の奨めに鑑みる に、たとえば同じ民族や国民であること、あるいは同じ文化や伝統を共有していることをもって応じることは、同じ種をもってするのと同様に有効/妥当ではな いはずだと考えられる。(安部2006、ただし改変を加えた)

……多くの人にとっては他者への配慮が及ぶ範囲は―かなり広い場合であっても―自国の境界どまりだ、ということである。「慈善は身近なところから」とか、 もっとはっきりと、「他国の貧困に取り組む前に自国の貧困を解決すべきだ」といわれることがある。このようにいう人々が自明視しているのは、国境の内と外 では道徳的な違いがあり、自国の一市民が困っているのを放っておくことは同じ状態にある他国の一市民を放っておくことよりも悪い、ということである。…… 〔他方で〕我々の多くは、万人はさまざまな権利をもち、万人の生命は等しい価値をもつと謳いあげる宣言を疑うことなく支持している。自分たちと異なる人種 や国籍の人の生命は、自分たちと同じ人種や国籍の人のそれよりも重要でないという人々がいれば、我々は彼らを非難する。さて、こうした二つの態度は調停可 能だろうか。……「一つの世界」が国民国家を超越した道徳的基準になることは実際どこまで可能か―また、どこまでそうあるべきか。(Singer 2002=2005: 192-193)

「自分たちの仲間」をひいきすることが許される、あるいはむしろひいきすべきである、という一般に流布した考え方には、「自分たちの仲間」とは誰なのかに ついての大きな意見の不一致がひそんでいる。……自分の子ども、配偶者、恋人や友人、同国人といったより身近な人にたいして、我々は特別な義務を負ってい ると自明視している人が大勢いる。……〔私の考えでは〕この種の「自明性」が、ある見解を正しいと認める十分な理由になるという信念は覆されるはずであ る。我々が、より身近な人々―たとえば同国人―にたいして特別な義務を負うかどうかを決めるには、自明性とは別のテストが必要である。(Singer 2002=2005: 193-195)

我々が「自分たちの仲間」に特別な義務を負っているかどうかをどのようにして知ることができるだろうか。また、もし義務を負っているとすれば、この文脈に おける「自分たちの仲間」とは誰のことか。これと対立する理想は、そもそも人種や民族によって人間の生命や経験の価値が決まることはないというものである が……この理想は、……道徳的営みの本性の基礎にある公平性の要素にもとづくものと考えられる。……R・M・ヘアによれば、ある判断が道徳判断とみなされ るためには、その判断は普遍化可能でなければならない。……ヘアの方法にしたがうならば、「自分たちの仲間」にたいする特別な義務があるかを決めるひとつ の方法は、このような特別な義務をもつという考えそのものが、公平な視点から正当化されうるかどうか尋ねてみることである。(Singer 2002=2005: 195-196)

〔私が助ける人が10ヤード先に住む隣人の子どもであっても、一万マイル離れたところに住む一生名を知ることもないベンガル人であっても、まったく道徳的 な違いはない、と私はかつて論じたことがあるが〕私の知るかぎり、距離そのもの―すなわち、10ヤードと一万マイルの違い―を問題にしてこの主張に意義を 唱えた者はいない。もちろん、援助が適切な人に届き、その人を本当に助けれるかどうかについて我々が抱きうる確信の程度は距離によって影響を受けるかもし れず、それによって我々が何をなすべきかは異なってくるかもしれないが、それはまた別の問題であり、自分たちが置かれている特定の状況に依存することであ る。しかし人々が実際に意義を唱えたのは、外国に住む見知らぬ人々を助ける義務は、自分の隣人や同国人を助ける義務と同じくらい重要であるという主張にた いしてである。彼らによれば、我々は明らかに、自分の隣人や同国人にたいして―または自分の家族や友人にたいして―負っている特別な義務を、外国に住む見 知らぬ人々にたいして負ってない。……公平主義にたいする現代の批判者たちにいわせると、公平の倫理を主張する者は良き親、恋人、配偶者、友人にはなれな い。というのは、そのような個人的な人間関係という考えじたいが、関係を結んだ相手を他の人よりも偏愛することを意味しているからである。これは……公平 の倫理の立場からすると不正であるように思われる。……ネル・ノディングスは、我々がもつケアの義務をなんらかの仕方で人間関係を結ぶことのできる人々に 限定している。彼女によれば、我々には「アフリカの飢えた子どもにたいするケアの義務はない」ことになる。……こうした反論にたいして公平の倫理は、人々 が生活のあらゆる場面で公平であることを要求するわけではないと応じてきた。……ウィリアム・ゴドウィンは、偏愛的感情を公平の倫理によって正当化する方 法を見出した。我々の時代では、ヘアの「二層」版の公利(功利)主義が同じ結論をだしている。ヘアによれば、……日常の行動について指針をえるためには、 あまり考えなくともわかっている一連の原則が必要となる。これらの原則が直観レベルの―すなわち日常レベルの―道徳を形成している。他方、より冷静な、あ るいはより哲学的なときには、我々は自らの道徳的直観の性質について反省し、正しい直観―すなわち、公平に考えて最大の善をもたらすような直観―をもって いるかどうか問うことができる。この反省をおこなうとき、我々は批判レベルの道徳に移行しているが、これは日常レベルにおいていかなる原則にしたがうべき かを考えるさいの特徴である。こうして批判レベルは道徳的直観をテストする場になるのである。(Singer 2002=2005: 200-203)

〔ヘンリー・シジウィックはヴィクトリア朝イギリスの常識的な道徳感覚によって示唆される特別な義務の一覧を記したが〕その一覧には、親、配偶者、子ど も、その他の親族、自分に親切にしてくれた人々、友人、隣人、同国人、「自分と同じ人種の人と……一般的にいえば自分に類似している度合が高い人々」にた いする義務があった。果たしてこれらの義務は、公平な視点からの正当化の要求に耐えることができるだろうか。……シジウィックが言及した選好のうちの一組 目―家族、友人、自分に親切にしてくれた人々―は、かなりこの要求に耐えうる。……〔親子の絆という〕人間本性の不可避の制約と、愛情ある家庭で子どもを 育てることの重要性とを考慮するなら、親が自分の子どもにたいして一定の偏愛を示すことを前提にした社会的慣習を是認することには公平にみて正当な理由が ある。/愛情と友情を認めるための公平な理由をみつけることはもっと簡単である。愛情にもとづく関係や友情にもとづく関係が偏愛的にならざるをえないとし ても、ほとんどの人にとって、それは善き生と呼びうる人生の中心をなす。特定の他者に愛着をもたずに幸福で充実した生を送る人はめったにいない。これらの 偏愛的な感情を抑圧することは、……公平な視点から正当化することはできない。……〔では、こうした偏愛は〕いったいどの程度まで認めてよいのか。大まか にいえば、うえで述べられたような善を促進するのに必要なだけであり、それ以上ではない。(Singer 2002=2005: 203-208)

……自国の同国人を外国人よりも優先する、どのような公平な理由がありうるだろうか。〔マイケル・ウォルツァーにみられるような〕国家についての一部の見 解によると、同一の国家の成員であることは、拡大された親族の一員であるようなものとみなされる。……〔しかし〕我々が自分の属する人種の成員、または 「自分と血を同じくする」人々を優先するという考えを否定するなら、自国民を優先すべきであるという直観を、「国民はすべて同一の民族あるいは人種である から、国民を一種の拡大された親族とみなす」という仕方で擁護するのは難しい。……誰が同国人なのかという考えから、人種差別的要素をすべて抜き取ったと したらどうだろうか。〔イーモン・カランやウォルター・ファインバーグのように〕同国人にたいして特別な義務を負うのは、我々がみな、ある種の集団的活動 〔助け合い〕に参加しているからである、と考えることができるかもしれない。……他国民よりも同国人を優先して助ける義務―共同体の規模が大きかったり、 共同体の他の成員と直接に接することがなかったり、場合によってはお互いの存在すら知らなかったり、することによって弱められるものではあるものの―を助 け合いの義務と理解することが可能である。しかしこれは、はるかに差し迫った困難に見舞われている他国の国民よりも同国人を優先すべき十分な理由といえる だろうか。たいていの人々は国家のなかに生まれるが、その多くは国家の価値観や伝統にはほとんど注意を払わない。それらを拒絶する人さえいるかもしれな い。……〔翻って〕「もし我々が彼ら〔難民〕の入国を認めたら、彼らはこの国で生まれた国民に比べて、共同体から受け取った利益にたいしてお返しする心積 りが少ないだろう」と考える理由はまったくない。……〔よって〕彼らは我々の共同体の成員ではなく、我々とは何の互恵的関係も有していないと主張して、誰 を助けるか決めるさいに彼らに背を向けて差別するのは公平とは思えない。(Singer 2002=2005: 213-215)

 ●想像力と距離
我々が同国人にたいして他の誰にたいしてよりもずっと強い義務を負っている理由を示すのに助け合い(互恵性)だけでは十分ではないとすると、ベネディク ト・アンダーソンの「想像の政治的共同体」という考えを用いて、この考えを補強しようとする人がいるかもしれない。アンダーソンによれば、……国民は国家 の成員のほとんどとは一度も会うことがないが、彼らは共通の制度や価値観―たとえば憲法や民主的手続きや寛容の原理や宗教と国家の分離や法の支配といった もの―にたいする忠誠を共有するものとして自己を理解する。この想像の共同体によって、個人的な絆や、より具体的な助け合いの義務が存在するような現実の 顔のみえる共同体の不在が補償される。またこれにより、国家のほかの成員にたいする特別な義務を認めることは、この想像の共同体を形成し、維持するために 必要な事柄の一部として理解されうることになる。……〔このような〕アンダーソンのナショナリズム理解は、国家に属するという考えがどのように近代世界で 定着したかの説明〔記述〕であり、……〔したがって〕彼がいうところの想像の共同体を維持することが重要であるという道徳的議論〔規範〕の根拠になること はできない。とはいえ、これは啓発的な説明ではある。というのは、まさにこの説明のうちに、我々が国家という共同体にたいして特別な義務を負っているとい う考えは、我々の自己理解の仕方と独立に存在する共同体にもとづくわけではない、ということが示されているからである。……今日、グローバリゼーションと 呼ばれる複合的な発展によって我々が国境に付与している道徳的重要性の再考が迫られている……長い目でみたとき、国民国家として知られる想像の共同体に住 み続けた方がよいのか、あるいは世界という想像の共同体の成員として自己理解をもちはじめた方がよいのか、我々は考えてみる必要がある。(Singer 2002=2005: 215-216)

そのようなあり方はどこまで届くか。その人との距離が遠いなら無理なのだろうか。そんなこともないはずだ。もちろんその一つは、距離は物理的な距離と等し くないということ、知ったり交信したりする媒体の変容も関わりながら、一方で私たちはとても遠いものに現実感を感じることが実際あるということだ。それで もたしかに知らない人のことなので実感できないことがある。ただ、もしその人が実際に近いところにいれば、同じように感じるだろうことは知っている。…… たしかにこれは、一つに想像を条件とする。しかしそのくらいの想像は無理なくできる。もう一つの条件は、これは類推であるから、類推のもとになる経験が必 要で、その経験は近くに求められるということになる。ただその拡張はそう難しくはない。そしてそれぐらいで十分なのではないか。たしかに私は近くで他者が いることを知るのだが、しかしそれは、そう無理せずもっと遠くに及んでいく。実感できないけれども、そして実感できないことを安易にできるとするべきでは ないけれども、しかしその関係が私がいる場所とは別のところにあることを知ることはできる。にもかかわらず、距離の遠さを持ち出して遠いとされるものを 切ってしまうなら、それはそういうことにしたいからではないかと疑ってよい。様々に都合のいいことが言われていないか。例えば可能な範囲としてしばしば国 家がもってこられるのだが、国家という単位も十分に大きい。(立岩2004: 142-143)


 ●国家の効率性/機能
ロバート・グッデンは、同国人にたいする特別な義務を有するシステムを、「我々の一般的な義務をより効率的に処理するための行政装置」として擁護してい る。彼によれば、……ある領域内のすべての個人の利益を保護し、促進することにたいして明確な責任をもつ国家が存在するのが最善である。……〔だがグッデ ン自身も認めるように〕ある集団の内部における行政上の効率と、集団間の資源の分配は別の問題である。……国家が自国の市民を世話することは、他の事情が 同じならばより効率的でありうるが、富がひじょうに不平等に配分されており、そのためある国の典型的な裕福なカップルが観劇にいくためのお金の方が、他の 国々の大勢の人々が丸一年生活するのに使うお金よりも多いような場合には、……効率という観点からの議論―これは利用可能な1ドル毎にたいして最大の効用 をえるという意味で理解される―は、同国人にたいする特別な義務を擁護する理由になるどころか、そのような義務は他国にたいして我々がなしうるはるかに大 きな善によって圧倒されると考えるべき根拠を与える。(Singer 2002=2005: 217-218)

具体的な課題として社会的な分配を考えたときに、社会の構成員、少なくとも十分な数の構成員に、選好の関数の形状として自発的な贈与とかの契機が見込めた り、起こりうるフリーライドの可能性とかも含めて、取り決めというか強制的なルールを仕掛けなくてもうまく回るということは、最初の条件の設定の仕方に よってはありうるでしょう。……この場合に国家は積極的には要らないことになる。だけど……強制の存在する域は存続するのだろうなとは思うんです。/た だ、そこで一つの問題は、単に一人一人の行為の集積としては実現しないようなもの、実現しないから強制力を介して仕掛けられるものを、なぜ自発性の水準で は積極的ではないかもしれない人たちが承認するのかということです。このことについて……一つ、分配については自発的な贈与でない方がかえってよいという ことが実は言えるのではないか……また一つ、贈与にかかわるフリーライドがよくない結果をもたらすこと、また不正と考えることができること……。(稲葉・ 立岩2006: 229-230)

●国家内/国家間の正義

 ……


UP:20070521 REV:20080220,20080716, 1204
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