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『多文化時代の市民権――マイノリティの権利と自由主義』

Kymlicka, Will 1995 Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Oxford University Press=19981210 石山 文彦・山崎 康仁 監訳,『多文化時代の市民権──マイノリティの権利と自由主義』,晃明書房,428p.

last update: 20151017

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Kymlicka, Will 1995 Multicultural Citizenship: A Liberal Theory of Minority Rights, Oxford University Press=19981210 石山 文彦・山崎 康仁 監訳,『多文化時代の市民権──マイノリティの権利と自由主義』,晃明書房,428p. ISBN:4771010625 \5300 [amazon] ※ m01

■内容

本書は、移民や民族的マイノリティが有する固有の文化への様々な要求を、自由主義の立場に立ちつつ、「多文化市民権」として正当化するという、野心的な理論的試みである。
そして、その理論が、マイノリティがもたらす多文化をめぐる豊富な実践的知見に裏づけられているところに、キムリッカ理論の特徴があるとともに、最大の魅力の1つが存在する。

■目次

第1章 序論
 第1節 問題群
 第2節 本書の概要 
第2章 多文化主義の政治
 第1節 多民族国家と多数エスニック国家
 第2節 集団別権利の3つの形態
第3章 個人の権利と集団的権利
 第1節 体内的制約と対外的防衛
 第2節 「集団的権利」の曖昧さ
第4章 自由主義の伝統の再考
 第1節 民族的マイノリティに関する自由主義の見解の変遷
 第2節 マイノリティに関する諸条約の失敗
 第3節 アメリカ合衆国における人種隔離の廃止
 第4節 多数エスニシティとアメリカのエスニシティの復興
 第5節 社会主義の伝統におけるマイノリティの権利
第5章 自由と文化
 第1節 文化を定義すること
 第2節 自由主義と個人の自由
 第3節 選択の文脈としての社会構成的文化
 第4節 文化への帰属の重要性
 第5節 難解な事例
 第6節 文化の個別化
 第7節 結論
第6章 正義とマイノリティの権利
 第1節 平等の理念に基づく議論
 第2節 歴史的協定の役割
 第3節 文化的多様性の価値
 第4節 国家とのアナロジー
 第5節 結論
第7章 マイノリティの発言権の保証
 第1節 集団的代表のどこが新しいのか
 第2節 なぜ集団的代表なのか
 第3節 集団的代表の評価
 第4節 結論
第8章 寛容とその限界
 第1節 自由主義と寛容
 第2節 自由主義は党派的か
 第3節 非自由主義的マイノリティの包容
 第4節 結論
第9章 多文化をつなぐきずな
 第1節 市民権の重要性
 第2節 多数エスニシティと参入
 第3節 自治と分離主義
 第4節 多民族国家における社会的統一の基礎
 第5節 結論
第10章 結論

■引用

 第1章 第2節 「本章の概要」より
「現代社会がますます「多文化的」(multicultural)になりつつあるという文句は、すでに言い古されている。しかし、この曖昧な語はしばしば、重要な区別を見えにくくするのである。第2章の前半では、文化的多元性の様々な形態を考察する。とりわけ私は、「多民族国家」(multination state)(そこでは、文化的多様性が、かつて一定の地域にまとまりをもって存在して、自己統治を行っていた諸文化圏を、より大きな国家へ組み入れたことから生じている)と、「多数エスニック」(polyethic)国家(そこでは、文化的多様性が、個人あるいは家族でやってきた移民から生じている)とを区別する。私は、(多民族国家における)「民族的マイノリティ」と(多数エスニック国家における)「エスニック集団」との相違点を検討し、人種、エスニシティ、そして民族の間の関係を論じようと思う。
 第2章の後半では、エスニック集団や民族集団が要求する可能性のある、種々のマイノリティの権利について、その類型論を示したい。特に、私は以下のものを区別する。
(1)自治権(しばしば何らかの形態の連邦制を通じてなされる、民族的マイノリティへの権限委譲)
(2)エスニック文化権(polyethinic rights)(特定のエスニック集団や宗教的集団と結びついた一定の活動への財政援助および法的保護)
(3)特別代表権(エスニック集団や民族集団に対する、国家の中央機関における議席の保証)
私は、各々の例をいろいろな国から取り、その制度的実現と憲法上の保護という観点から、これらの例の間のいくつかの重要な相違点を検討しようと思う。
この三形態の集団別権利は、しばしば「集団的権利」(collective rights)と呼ばれている。第3章では、集団的権利と個人の権利との関係を吟味する。集団的権利とは、その本性上、個人の権利と衝突するものであると、多くの自由主義者は考えている。私は、「集団的」権利の2つの意味を区別する必要があると論じたい。集団的権利は、1つには、集団の連帯あるいは文化の純潔性の名の下に、ある集団がその個々の成員の自由を制約する権利(「体内的制約」)を意味することがある。またそれは、あるマイノリティ集団の依存している資源や制度が多数派の決定によって決して侵されることのないようにするため、その集団が主流社会の行使してくる経済的・政治的権限を制約する権利(「対外的防御」)を意味することもある。後者は必ずしも個人の自由と矛盾しないということを、私は主張するつもりである。実際、マイノリティの権利に関する自由主義的理論を他の理論から区別しているものは、まさに、それがエスニック集団や民族的マイノリティのための一定の対外的防御は受容するが、体内制約に対しては極めて懐疑的だという点にあるのである。
 第4章で私は、自由主義とマイノリティの権利との歴史的関係をたどる。19世紀および両世界大戦間には、自由主義者の間に、マイノリティの権利への広範な支持が存在していた。戦後の自由主義理論が支持を変えた理由は込み入っている。そこで、そのいくつかを整理してみる。この変化を説明するものの中には、まず、大英帝国の凋落と国際連盟の失敗とが含まれている。もう1つの重要な要因としては、エスニシティを問わない政治体制というアメリカ的観念が、世界中に強い影響を及ぼすようになったということがある。このアメリカ的観念を形成してきたのは、必ずしも他の諸国には当てはまらないようなアメリカに特有の事情(たとえば人種隔離の廃止、移民の規模)であったということを、私は主張したい。実は、エスニシティを問わない政治体制というアメリカ的信念は、アメリカ合衆国にすら妥当しない、と私は主張する。なぜなら、この信念は、アメリカ・インディアンやプエルトリコ人などのもっている特別な地位をないがしろにしているからである
 第5章では、自由・民主主義理論の中で文化が果たす役割を探求する。まず私は、選択の自由と個人の自律(の一形態)とへの信奉に基礎を置いた、自由主義の1つの構想を擁護する。それから、この自由主義の構想が、文化への帰属に対する配慮と両立するばかりか、こうした配慮を要求さえするのは、なぜであるのかを説明しよう。個人の選択は、言語と歴史によって規定される社会構成的文化(societal culture)の存在に依存しているということ、そして、大多数の人が自分自身の文化との間にきわめて強いきずなを持っているということを、私は主張するつもりである。
 第6章では、この自由主義の構想に依拠して、エスニック集団や民族的マイノリティのための集団別権利を擁護する、3つの重要な議論を検討する。とりわけ、私は以下のものを区別したい。まず、自由の理念に基づく議論だが、これは、マイノリティがある種の不公正な不利益を被っており、集団別権利の不利益を矯正できる、ということを示そうとするものである。次に歴史に基づく種主の議論だが、これは、マイノリティには、集団別権利を正当に要求できる歴史的理由があり、それは、彼らがかつて有していた主権とか、条約とか、あるいはその他の歴史的な先例ないし協定とかに基礎を置いている、ということを示そうとするものである。私はさらに、文化的多様性の内在的価値に訴えかける議論をも考察し、そして、この議論が、平等の理念に基づく議論と歴史に基づく議論の双方といかなる関係にあるのかを考察するつもりである。
 第7章は、政治的代表の問題、それともとりわけ、一定のエスニック集団や民族的集団の成員に、中央の議会における議席を保証しようという提案に焦点を当てる。私は、このような提案によって浮上した実際上及び理論上の難問のいくつかについて論じ、政治的意思決定にマイノリティの声を確実に反映させるためにとりうるいくつかの方法について考察しようと思う。さらに私は、(権限が中央政府からマイノリティ共同体に委譲されることを要求する)自治権と、(中央政府にマイノリティの代表が必ず参加できるようにすることを要求する)特別代表権との間の緊張関係についても、論ずるつもりである。
 第8章では、マイノリティが自らの成員の基本的な市民的・政治的自由を制限する権利を求める場合に、自由主義者はいかに対処すべきかを論ずる。私はすでに、マイノリティの権利についての自由主義的理論は、このような「体内的制約」を正当化することはできないと述べた。すなわち、この理論においては、ある集団が、集団の連帯、宗教上の正統性、あるいは文化の純潔性という名の下に、自らの成員を抑圧したとき、それを道徳的に正当なこととする考え方は容認できないのである。とはいえ、マイノリティの中には、こうした体内的制約を望んでいて、自立を信奉する自由主義は共有していない、というものがあることは明らかである。すると、自由主義国家は反自由主義マイノリティに対して、自由主義的規範を押し付けるべきだということになるだろうか。これは、寛容の意味とその限界に関する厄介な問題を提起している。私は、自由主義理論の内部において寛容という価値と個人の自律という価値がいかなる関係にあるのかを論じ、そして、自由主義的諸価値を反自由主義的マイノリティに押し付けることが正当かどうかを判断する際に斟酌する必要のある要素のいくつかについて、その概略を述べることにする。
 第9章では、マイノリティ文化の集団別権利が、安定した社会秩序に必要な、共有されたアイデンティティの伸長を妨げるのではないかと、という観念をとりあげる。集団別の市民権によって、諸集団が、互いに共有する目的よりも、相互の差異の方に関心を集中させるよう促されるのではないかと、多くの人が懸念している。市民権とは統合的機能を果たすものとされているが、もし市民権が、法的・政治的アイデンティティとして人々に共通のものではないとすれば、このことは可能だろうか。私は、特別代表権とエスニック代表権については、それは諸々のマイノリティ集団を統合することと両立するし、実際、この統合の助けにさえなりうると主張したい。他方で自治権は、たしかに、社会の統一に対する深刻な脅威となるものである。なぜなら、自治権によって民族的マイノリティは、自らを、自己統治への固有の権利を有する独立した民族とみなすよう促されているからである。しかしながら、自治権を否定しても、今度は分離独立を後押しすることになってしまうので、やはり社会の統一は脅かされるのである。私は、何が多民族国家における社会的統一の基礎となるのかを突き止めるということが、今日の自由主義者たちに突きつけられた最も差し迫った課題の1つだと思っている。
 最終章では、多文化にまたがる市民権の将来について、いくつかの推測を行って、本書の結びとする。多くの人は、その政治的傾向にかかわりなく、エスニック・アイデンティティや民族的アイデンティティというものが、人類史における一時的な現象であるよう願ってきたし、また、実際にそうであろうとも思ってきた。世界が経済的にも政治的にもますます統合されるにつれて、このような偏狭な忠誠心は消え去っていくものと考えられた。しかし現実には、「グローバリゼーション」は、マイノリティが独自のアイデンティティと集団独自の生活を維持する余地を、しばしば拡大してきた。グローバリゼーションは、文化的に均質な国家という神話をよりいっそう非現実的なものにし、各国の多数派に多元性と多様性をもっと受け入れるよう強いてきたのである。エスニック・アイデンティティと民族的アイデンティティは、自由貿易と地球規模のコミュニケーションの進む中で、その性質を変化させつつある。しかし、多文化主義の突きつける課題は依然として残っているのである(pp8-13)。」


「多文化主義」あるいは「多数エスニック主義」を基本的価値として受容するのは移民をそもそも統合するのかではなく、どのようにして移民を支配的文化に統合するかという問題の枠内での態度の転換である(p115)。」


「しかも、自由主義者の伝統の中にいる理論家たちの大部分は、暗黙のうちにこのことに同意してきたのである。自由主義の主要な理論家のうち、国境の開放を擁護している者はほとんどいないし、それについて真剣に考察しているものさえほとんどいない。彼らは、人々にとって最も重要な種類の自由と平等とは、自らの社会構成的文化の内部における自由と平等であるということを一般に受け入れてきた――実は、単に当然のこととしてきただけである――。ロールズと同じく彼らも、「人は自分が生まれた」のと同一の「社会及び文化」の中で「全生涯を送るものと考えられている」のであり、これによって、人々が自由かつ平等でなければならない領域の範囲が規定されるのだと、想定している(p140)。」



「悲しむべきことに、実際には、難民の有する権利は、まず第1に、彼らの母国に対する権利である。その政府が彼らの有する民族の権利を侵害したとしても、それ以外のどの国がその不正を強制すべきかを決定する仕組みは、1つも存在しない。さらに、もしも、難民を自発的に受け入れた以上は彼らを民族的マイノリティとして取り扱わなければならない、ということになったならば、不幸なことに、難民を受け入れる国はほとんどなくなってしまいそうである。そのうえ、難民集団は典型的には、移民集団の場合以上に小規模で分散しており、そのため、自治を行う共同体へと再編成することができないのである。
 難民が現実的に期待できるのは、せいぜい、移民として取り扱われて、移民と同様のエスニック文化圏を持ちながら、できるだけ早く母国に帰るのを待ち望むことでしかない。このことは、長期にわたる難民は、その正当な利益を侵害されるということを意味する。なぜなら、彼らは自らの有する民族の権利を自発的に放棄したわけではないからである。しかし、この不正は彼らの母国の政府が犯したものであるから、現実的に見て、われわれが受入国の政府にその埋め合わせを求めることができるかどうかは定かではない(p149)。」



第10章「結論」より
「20世紀の後半は「移民の時代」であると言われてきた。大量の人間が国境を越えて移動しており、そのため、ほぼ全ての国はいっそう多数エスニック的な構成をとるようになっている。この時代はまた「ナショナリズムの時代」であるとも言われてきた。というのも、世界のいたるところで多くの民族集団が、自らのアイデンティティを動員し、またそれを強く主張しているからである。その結果、現在では多くの国で、政治的領域におけるに関するルールとして確立していたものが新たな「文化的差異の政治」による挑戦を受けているところである。実際、冷戦の終焉と共に、エスニック集団や民族集団の様々な要求が、国内的にも国際的にも政治の現実の中心を占めるようになってきた。
多くの人々はこの新しい「差異の政治」を、自由・民主主義に対する脅威とみなしている。しかし私は本書で、より楽観的な見解を示してきた。すなわち、私は、エスニック集団や民族集団の要求の(すべてというわけではないが)多くは、個人の自由と社会的正義と言う自由主義の原理と両立する、といういことを示そうそしてきた。ただし私は、こうした問題が、何らかの意味で最終的に「解決」できるとまで言うつもりはない。問題は、「解決」するにはあまりにも複雑すぎるのである。しかし、何らかのレベルの誠意というものが存在すれば、この問題に対して平和的かつ公正な形で「うまく処理する」ことは可能である。もちろん、世界の多くの地域において、諸集団を動機付けているものは、正義ではなく憎悪や不寛容であるし、また、彼らは他の集団を誠意をもって取り扱うことにはまったく関心がない。このような状況では、エスニック集団や民族集団が自らの権利や権限を乱用する可能性は極めて高いのである。エスニシティや民族の差異という名において犯されてきた不正義には、人種隔離や宗教的大虐殺から民族浄化や民族大量殺戮にいたる様々なものがあるが、ユーゴスラビアやルワンダは、こうした不正義を想起させる最も新しい事例にすぎないのである。
 このような乱用の可能性が存在するため、多くの人は、マイノリティの権利の問題を脇へすっかり押しやってしまいたい、という強い衝動を感じている。彼らは次のように問うのである。すなわち、なぜ私たちは、人々のエスニシティ・アイデンティティや民族的アイデンティティを考慮せず、単に「人々を個人として取り扱う」ようにしてはいけないのだろうか、また、なぜ、私たちを区別立てするものではなく、私たちが人間として共有しているものに関心を集中してはいけないのだろうか、というのである。私は、大部分の人は、新しくて複雑な「差異の政治」に対処していく過程において、いずれかの時点では、このような反応をしたことがあるのではないかと思う。
 しかしながら、この反応は誤ったものである。問題なのは、その反応があまりにも「個人主義的」すぎるということではない。世界の多くの地域で、集団に基づいた紛争は、適度な個人主義が存在したならば、ありがたいことに一休みするであろう。問題は個人主義なのではなく、その反応が、端的に言って一貫性を欠いているということである。私が本書を通じて示そうとしたように、政治という営みは、政治単位の境界線の線引きとか権限の分配とかにおいてであれ、学校や裁判所や官僚組織での使用言語の決定においてであれ、また、公休日の選定においてであれ、何らかの民族的次元を持たざるを得ないのである。そのうえ、政治と言う営みのもつ効した不可逆的な側面のために、多数は民族の成員がきわめて有利な立場におかれているのである。
 われわれはこのことを知っておく必要があるし、また、それがどのようにして多数派以外の人々を疎外したり不利な立場に置いたりするのかを認識しておく必要があるし、また、そうしたことからいかなる不正義が生じることもないようにするための手段をとる必要がある。この手段としては、エスニック集団やその他の不利な立場に置かれた集団を各々の民族集団の内部に抱擁するための、エスニック文化権や特別代表権が含まれるかもしれないし、また、民族的マイノリティが多数は民族と並んで自己統治を行えるようにするための自治権も含まれるかもしれない。このような方策を抜きにして「人々を個人として取り扱う」ことについて語るのは、それ自体、エスニシティや民族に関する不正義の隠れ蓑にすぎないのである。
 これらの権利の限界を強調するも、また、等しく重要なことである。とりわけ私は、それらの権利は次の2つの制約を尊重しなければならない、と論じてきた。その第1は、マイノリティの権利は、ある集団が他の集団を支配することを許容すべきではない、ということであり、第2は、その権利によって、ある集団が自らの成員を抑圧することが可能となるべきではない、ということである。言い換えれば、自由主義者が勤めるべきことは、集団間の平等、および、集団内の自由と平等が確実なものとなるようにすることなのである。これらの制約の下で、マイノリティの権利は、より広い自由主義的な正義の理論の中で貴重な役割を果たすことができる。実際、自由主義が、現実との関連性を欠くという避難を世界の多くの地域で受けるべきでないとすれば、マイノリティの権利は何らかの役割を果たさなければならないのである。
 自由主義理論の伝統的発祥地――イギリス、フランス、そしてアメリカ合衆国――において、マイノリティの権利は無視されてきたか、あるいは、単に奇異なものないし異例なものとしてしか取り扱われてこなかった。このことは特に、先住民族の様々な主張について当てはまる。しかし、マイノリティの権利は、全世界における自由主義の伝統の行く末にとって最も重要であるということがますます明らかになってきている。東欧やアフリカやアジアの信仰民主主義諸国を含む世界の多くの国々において、差し迫った問題であるかもしれない。
 これらの国の人々は、西欧の自由主義の著作を頼りにして、多民族国家における自由主義的な立憲主義の諸原理に関する指針を得ようとしている。しかし、自由主義の伝統はこの問題に対して、混乱と矛盾に満ちた助言しか提供していない。マイノリティの権利についての自由主義的思考は、あまりにもしばしば、自民族中心主義的な前提に立っているとか、特定の事例を過度に一般化しているとか、状況に左右された政治的戦略を永続的な道徳原理へと融合させているとかの誤りを犯してきた。自由主義国家が歴史的に、エスニック集団や民族集団に関して広範な政策――すなわち、強制的同化から強制的隔離にいたる諸々の政策、また、征服や植民地化から連邦制や自治にいたる諸々の政策――をとってきたのは、このことを反映したものなのである。
 その結果、西洋の多くの民主主義において、エスニック・マイノリティや民族的マイノリティに対して、しばしば重大な不正義がもたらされてきた。しかし、マイノリティの権利に関して、原理に基づいた一貫性のあるアプローチを展開することができなければ、新興民主主義諸国はこれよりはるかに大きな犠牲を払うことになるかもしれない。現在のところ、世界中のエスニック集団と民族集団の運命は、外国人嫌いの民主主義者や宗教上の過激主義者や軍事的な独裁者の手に握られている。自由主義は、これらの国を制する可能性をいくらかでも手にしようとするのであれば、エスニック・マイノリティや民族的マイノリティのニーズや強い願望に対して、明確に取り組まなければならないのである。(pp291-294)」

■書評・紹介


■言及


*作成:本岡 大和
UP:20081008 REV:20151017
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