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『東大闘争から地域医療へ――志の持続を求めて』

三浦 聡雄・増子 忠道 19950715 勁草書房,医療・福祉シリーズ,201p.

last update:20110715
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■三浦 聡雄・増子 忠道 19950715 『東大闘争から地域医療へ――志の持続を求めて』,勁草書房,医療・福祉シリーズ,201p. ISBN-10: 4326798963 ISBN-13: 978-4326798964 2205 [amazon][kinokuniya] ※ tu1968.

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・内容(「BOOK」データベースより)
東大闘争の発火点であった医学部で活動家として過ごした日々―その志を地域医療のなかでどう展開してきたのか。寝たきり老人問題への先駆的な取り組み、住民とともにつくりあげた病院や老人保健施設、そして、これからは何をめざしてゆくのか―。

・内容(「MARC」データベースより)
東大闘争の発火点であった医学部で活動家として過ごした日々。その志を地域医療のなかでどう展開してきたのか。寝たきり老人問題への先駆的な取り組み、住民とともにつくり上げた病院や施設、これからは何をめざしてゆくのか。*

■目次

東大闘争と私        三浦聡雄
医師像の確立と東大闘争   増子忠道
地域病院を舞台に      三浦聡雄
地域病院を選択して     増子忠道
実践の中で、医師として   三浦聡雄、増子忠道

■引用

◆三浦聡雄「東大闘争と私」

「〈医学部からはじまった東大闘争〉
 ―― 一九六八年の一月に東大闘争がはじまるわけですが時代的にはどんな感じだったか、どんな印象をもっていますか。
 三浦 東大闘争の背景としては、ベトナムの問題などで学生全体が政治的な問題に関心の深い時代でした。アメリカ人が、私たちと同じアジアの民衆の上に大量の爆弾を落としているのですから、実感として許せないという気持ちが学生のなかにありました。不屈のベトナム人民への共感、親近感もありました。
 また、水俣病などの公害問題も広く国民の関心を集めていました。クラスの仲間も、公害研究会に<0017<もよくとりくんで、東大闘争時の五月祭にも企画をだしていました。学生全体にも社会的にも、そういう雰囲気があったし、一方では一九六七年の美濃部革新都政誕生など、革新自治体も次々とでてくる時代ですから、政治的には非常に高揚していました。
 もう一方、一九六七年はいわゆる三派、革マル系にとっては、ちょうどゲバ棒、ヘルメットを登場させた年です。これは羽田闘争、佐世保闘争、三里塚闘争などのなかで登場してきました。彼らの全体の流れからいえば、いわゆる〈七〇年安保決戦〉をめざしていたのではないでしょうか。六〇年安保に次ぐ、戦後の大きな闘争の山を再びつくるのだ、しかもそれは〈実力闘争〉だという感じがでていました。そういう背景のなかで、一九六八年の東大闘争がはじまりました。
 ―― 東大ではどんな状況だったのですか、とくに医学部では……。
 三浦 東大闘争は直接的には医学部の闘争から始まったのです。当時、指導的な立場に豊川医学部長と上田病院長という人がいました。彼らは、前年の六一日ストライキ闘争を総括して、とにかく今度は徹底的に強硬路線でいこうという意志統一をしたのではないかと思うのです。二人は、スト突入後、もう話し合いはやらないという強硬な対応で、研修問題では登録医法案(あとで報告医ということになりますが)を推進してきました。

〈無期限ストに突入〉
 ―― 一九六八年の一月の二九日に医学部の学生と研修医で全学大会をひらいてスト決議をします<0018<ね。賛成二二九、反対二八、保留二八、棄権二で、過半数定数は一八〇いくつかだったと思います。ストをうつ理由はなんだったのですか。
 三浦 学生と研修医の側は、東大病院での研修希望者の全員受け入れ、登録医法案に反対、青医連を公認せよと、研修上の要求と、組織を認めろということで無期限ストに突入しました。
 このとき、私も共産党に復帰はしていたものの、まだ、青年医師運動にどう対応したらいいかは、頭のなかで充分まとまっていないのです。ストライキの位置づけのなかに永続的な国家試験ボイコットとか、非入局とか非合法医師集団をつくるのだとかいうおかしな論理が入っていました。一般学生や研修医の側からは、過渡的にその位のことをすれば要求がとおるのではないかと、要求実現の手段として受け取られていました。あとになってみると、それは〈実力闘争〉や、〈バリケードによる解放区〉をつくる方向につながっていくのです。一部の理論づけはおかしいと批判しつつ、具体的な要求内容とストライキで闘うことについては一致しているから基本的に賛成という、ファジイな方針で対応しました。学生・研修医は各世代一〇名からなる全学闘争委員会を結成しました。私たちもブント・社学同と一緒になって、その執行部を形成したという状況でした。
 一般学生の気分としては、自治会執行部への一定の信頼がありました。結構激しくやるけれど、極端な無茶はしないで、最後は去年みたいにうまく収拾するのではないかと、心配しつつも楽観していた。教授会の強硬姿勢はけしからんという不信感は強かった。
 また、日頃の詰め込み授業に対して、なんか飽き足りない不満感、現状に対する漠然とした不充足<0019<感があって、こういうものを脱皮して、なんかやりたいという、そういう時代の気分・雰囲気を学生が持っている、そういうものが背景にあったと考えています。

〈春見医局長事件〉

 ―― そういうなかで〈春見医局長事件〉がおきるのですね。
 三浦 ストライキになったけれども、ストライキになると、すぐネ(寝)トライキ風になって、学生はでてこなくなるのです。執行部としては、とにかく何かして学生を引きつけ、ストライキをひっぱっていかなくちゃいけない。
 しかし、当局は交渉には応じない。「話し合いをしろ」と病院前で上田病院長を囲んでいたら、春見医局長が――この人は臨床医学者として立派な方ですが――教授をかばおうとなかにはいって、小競り合いになり、学生の眼鏡を割るという〈春見医局長事件〉がおこりました。学生の眼鏡をわったことに対する謝罪と、上田病院長が、あとで話し合うと約束したのに、逃げて出てこないことがけしからんということで、春見医局長を上田内科の教授室に徹夜でカンヅメにして自己批判しろとやるのですね。
 このへんもまた難しい。これはやりすぎだと思うのですが、そう批判して途中で抜けると「民青は裏切って闘争を売り渡そうとしている」というだろうし、一般学生からそういうふうに見られても困る。だけど、どこまでやる気かブントの腹の内も読み切れないし、これにズルズルとつきあっている<0020<のもとんでもないと、私も現場にいて困るのです。
 ただ、東大医学部の運動はかなり広範な学生たちが参加していたという面があるので、極端に過激にはなれない一定の限界があったのです。学生たちは医局で騒いでいるけれども、心配になって病室までスッといって、どの位うるさいか聞いてくるまじめなやつとか、いろいろなのがゴソゴソしていました。そういう点では、行き過ぎがあったことは間違いないと思いますが、めちゃくちゃにはなりにくいところがありました。こうした相対的にまともな傾向を、より純粋に過激な医科歯科大の仲間に追求された東大社学同は、後になって「大衆に引きずられて、本来の路線を貫徹できなかった」と自己批判しています。
 この〈春見医局長事件〉で、二月二七日に教授会がひらかれ、豊川医学部長からの報告で処分が検討・決定され、三月一二日に処分発表がありました。学生は退学四、停学二、譴責六、研修医は研修取消一、停止二、譴責一、そして研究生の退学一です。
 管理者の大学側としては、これで一挙に運動をつぶせるという判断をしたのではないかという気もするのですが、レッドパージ以来の大量処分ということで、かなり重い処分でした。学生側が協力しないので簡単ではないのですが、世間のルールからいけば、なんらかの事情聴取をしなくてはいけないのにしなかった。また決定的な失敗は、粒良君という私の同級生で、事件の夜、九州にいっていたものを間違って、処分した。これは当局にとっては大失態で、事実の調査もいい加減なとんでもない処分だということになりました。
<0021<

〈毅然として闘えた理由〉
 ―― そして卒業式阻止・入学式粉砕の動きがでてくるのですか。
 三浦 戦術をいろいろ考えるのですが、実際には、医学部の全学闘としても、手詰まりになってくるのです。学生はネトライキだし、打つ手がなくなってきて、そこで、卒業式粉砕、そこでぶつかって、世間にアピールしようということを考えるのです。三月二七日の夜、安田講堂前にすわりこみをして、二八日の卒業式を阻止しようとしました。例年通り安田講堂で全学統一の卒業式をやるだろうからと思っていたのです。でも、大学が「はい、各学部に分散します」というので、肩すかしを食らうのです。
 このとき、七者協といって、東大七者連絡協議会(東大職員連合、東院協、好仁会、自治会中央委、生協労組、生協理事会、東大寮連)が、銀杏並木集会をもつのです。たしか二〇〇〇名位の規模です。全学闘の方針と、共産党や民青の影響の強い七者協の方向が公然と対立した始まりといえるかもしれません。そして、ちょうどその日に、朝日新聞で粒良君誤認処分の件が報じられたのです。
 四月一二日の入学式も粉砕しようと、安田講堂前のすわりこみをしていたら、「不当処分撤回、社学同らの挑発を許すな」ということで、七者協が講堂のまわりをデモし大集会を開きました。医学部全学闘は相対的に少数で、何もできず手を封じられてしまいました。
 そうすると、社学同らも怒り狂って、民青は闘争の破壊者であるということで、私たち医学部のな<0022<かにいるものは、それこそめちゃくちゃに攻撃されました。
 「中央委員会や七者協は、我々の闘争に敵対している。おまえらは、彼らのスパイではないか」とか、いろいろツルシ上げられました。ただ、私が誇りに思うのは、このときに私も民青も毅然として闘うことができた。迷っていた私の頭も、この時点で非常にすっきりしてきたからです。それはどういうことかというと、この頃、私たちが、彼らの組織の内部文書などを拾ったのです。彼らもいい加減だから、すぐそういうものを落っことす。
 それを見ますと、「今までの全員加盟制のポツダム自治会的な、市民主義的な団結では、七〇年安保闘争は闘えないのだ。そういうものはもう否定して、革命的に闘える部分がどんどん闘っていかなければ……これからの闘いは非和解的な実力闘争であって、バリケードをやらなくては……」とか書いてある。何が挑発なのだろうと悩んで考え抜いた私からすると、「ああ、ここで出てきた。いままでみんなの要求実現という形でやっておきながら、この過激な七〇年安保実力闘争なるものに、ここで強引に流し込もうとしているんだな」というのが、実感としてピーンときた。自分の頭にすっきり鮮明にわかるようなものが、そこで出てきたのです。その点では強固な確信があったものだから、延々とツルシ上げられたり、「手足の一本位は折ってやる」とか、めちゃくちゃ恫喝されたりしましたが、そのへんでは大丈夫でした。ときには半端な妥協をしてしまったこともありますが、それでも全体としては、徹底的にツルシ上げられているなかで、民青の誰一人としてやめる者もなかった。逆にみんな確信を持ってやろうということになり、さらに新しい人が民青に入ってきたりして、そうい<0023<う点ではよくやったと思います。

〈民青・ノンセクト連合の主張〉
 ―― この頃は医学部の四年になっているのですね。その後、医学部内での動きはどうだったのですか。
 三浦 ひとつの大きなカギとして、一般学生のなかの有志のフラクションができました。全学的な東大闘争でいえば、秋に、クラス連合とか有志連合が、駒場(教養学部)とかいろいろなところからでてきますが、医学部では有志のフラクションが、「この事態はなんとかしなくちゃいけない」と、春頃からできてきたのです。彼らは白山の富坂セミナーハウスというところを拠点にしていました。だから私たちは富坂派と呼んでいました。これがちょうど医学部の一年から四年までいるうちの二年、三年に強かったのです。
 そのグループのトップ幹部と会いました。最初は、そんな組織をつくるのは一般学生がやることではないから、ひょっとして、裏で何か黒幕が動いているのではないかとか、そんな懸念も持ちながら会ったのです。
 ところが、これがきわめてまともな人達でありまして、混迷のなかで、なんとかしなければというので、自然発生的に最も人望のある人がリーダーになっていました。そのなかには、いまの東大教授や、クリスチャンのボランティア団体で海外医療協力を熱心にやっている人もいます。彼らと話し合<0024<い、お互いに非常に信頼を深めて、その後、長い付き合いになりますが、一緒にやっていくことになります。彼らも、社学同らの〈エセ革命理論〉を批判するために、私たちが紹介した、レーニンの「共産主義における左翼小児病」、「民主主義革命における社会民主党の二つの戦術」、ディミトロフの「反ファシズム統一戦線」などをよく勉強して理論武装しました。
 この仲間、「民青・ノンセクト連合」の一番の確認は、「いろいろな目的・大義を言っても、運動内部の生き生きとした民主主義がなければいけない、運動内部の民主主義が何よりも大事である」という点で、これが私たちにとっては最初から最後まで東大闘争のテーマでした。
 それは、今日の日本や世界の革新的運動、コミュニズムやコミンテルンの総括をとっても最も重要なことじゃないかと思います。ある意味では、ソ連や東欧問題の一番の本質でもあると思いますが、運動内部の生きた民主主義・真の民主主義が非常に大切です。
 ようするに、医学部全学闘原則という変なものがありまして、いろいろな規則で反対意見を封じるとか、暴力的に恫喝するとかいうことが数多くあったが、そういうことは絶対にいけないのだということです。
 当時の三派、革マルは、よく〈反帝・反スタ〉(反帝国主義・反スターリニズム)といっていました。いまから考えると、日本共産党とかイタリア共産党まで敵視するのは間違いだけど、少なくともスターリン以後の共産党と社会主義国のほとんどについて、〈反スタ〉というのは正しかった。一連の社会主義国も資本主義・帝国主義国に劣らず打倒すべきひどい反人民的権力であったということが、最<0025<近は明らかになっています。そういう意味で、〈反帝・反スタ〉というスローガンはある面で正しかったのではないか。
 私たちは共産党内で、一九五七年の「モスクワ宣言」や、一九六〇年の「八一ヵ国共産党・労働者党代表者会議の声明」などを学習しました。そこで、社会主義はいまや単なる理想ではなく、世界の三分の一を占める現実の体制であると教えられた。そして、「社会主義国を帝国主義国と同一視してはいけない。ソ連にも東欧にも中国にもいろいろ問題があるが、社会主義国はやはり社会主義国なのだ。過渡期の誤りを正していく復元力があるはず……」といういい方をしましたが、それはかなり問題があったのかな。もちろん、歴史的に、ソ連誕生の果たした積極的役割、反ファシズム闘争や民族解放運動への貢献、とりわけベトナムの戦いなんかはちゃんと評価しなくちゃいけない。しかし、アプリオリに社会主義国だから守るべきだということではなかったということが明らかになったと思います。
 ただ、当時〈反帝・反スタ〉を叫んでいた三派、革マルが、彼らがスターリニストと呼んだ共産党、民青よりも、はるかに古典的なスターリニストであった。「革命的な戦い」を大義名分に、暴力で他人を恫喝しながら民主主義の破壊、挑発をやった――許せないことだ――というのは、いまでもまったく間違っていなかったと思います。

〈なぜ、時計台占拠か〉
<0026<
 ―― その後、時計台占拠という局面に入っていくのですね。一九六八年の六月が第一次占拠でしたか。
 三浦 ブントとしても、〈入学式粉砕〉が失敗し、次の手がなくてどうしようもないという状況になってきました。逆に、私たちのそこまでの粘り強い宣伝・包囲が効いたともいえます。彼らは局面を転換しよう、変えようということで、時計台占拠という方針を出しました。時計台というのは安田講堂と同じ意味です。
 その段階になって、私たちがいってきたことがみんなに理解されて、この挑発的方針は各クラスで否決されました。そして、私たちの「教授オルグをして、大衆団交で解決しよう」という方針がとおって、民青とノンセクトフラクションの連合が医学部の多数派になったのです。
 これでブント、社学同は完全に孤立してしまいました。そして、六月一五日未明に、医科歯科大学を中心とした社学同が数十人、イチかバチかという感じで、安田講堂に突入し占拠することになりました。
 私たちは、ただちに医学部四学年の合同クラス会を開いたのです。自治会は一種の機能停止で、全学闘というふうになっていましたが、そこの執行部は半分いないので、やり方としては、正規の機関では合同クラス会というものしかなかったのです。
 ここで、「時計台占拠は許せない。われわれは断固糾弾する。これは医学部学生の意志とはちがうのだからただちに自己批判して出てきなさい」と決議した。みんなでまわりをデモしながら「大学当<0027<局は機動隊を入れるな、われわれで自主解決しよう」と、全学に呼びかけたのです。けれども六月一七日、大学側は二〇〇〇名位の機動隊を導入しました。
 東大のなかには、機動隊はそれまでずっと入っていなかったし、しかも大量に機動隊が入ったので、学生にとってはものすごいショックでした。学生たちは激しく怒りまして、それを契機に東大のすべての学部でストライキ権が確立されていきます。そのなかで本郷から駒場へ、統一して闘おうという呼びかけをしました。
 多数派になったから、私もさっそく他学部の代表と一緒に駒場にも飛んで、全東大集会の打ち合わせをした。ところが、世の中はそんなに甘くはありませんでした。社学同の挑発的な方針にはついていけないけれども、民青系にズイズイ引っぱっていかれるのも困ると、そういうためらいもみんなに当然あるのです。政権が交代するときはつねにそうですが、たんに一回多数派になったといったって、十分執行する力はこっちはまだ持っていない。そんななかで、社学同系を罷免して、私たちを執行部にしたのだけれども、あまり動いてほしくないというのが私のクラスの意志なのです。私とすれば「じっとしていたって、政権とった意味もないし、やらなきゃならないことはいっぱいあるし」ということで、クラスのことは放って飛び回りました。
 「六月二〇日、時計台前で東大全学大集会」とみんなで段取りして帰ってきたら、「三浦はもうリコールだ、おまえは動きすぎだ」ということになりました。ストライキの初めは彼らと一緒に執行部中枢に入り、切られたり、また復活して執行部のトップになったと思ったら、三日天下でまたヒラにな<0028<ったり、非常に波瀾万丈でおもしろい体験でした。
 時計台前の大集会は、すべてのものがワーッと集まってきて、本当に本郷中が唸っているという雰囲気の大集会でした。
 ―― 〈東大全共闘〉は、このすぐあとにつくられていくのですね。
 三浦 六月二八日に三派、革マル、フロントなどで、〈東大全共闘〉をつくったのです。全共闘というのは、その後いろいろなところでつくられていきますが、基本的な考えは、先進的な活動家集団が、どんどん道を切り開いていくために全共闘という行動部隊をつくるのだということです。クラス会とか学生自治会とか、そういうもので正規の手続きを踏んで多数決をとれば、ゲバルト(暴力)闘争は難しくなりますからね。
 この頃はもうワーンという混乱と大騒動の雰囲気になっていたので、学生の広範な怒りに乗じて、七月二日夜に、東大全共闘と、大学院生らが主の全学闘争連合が中心になって安田講堂を再占拠しました。ここがアジトになって、全共闘がそれから活動する。それでなんとなく夏休みになって、みんながあちこちで小さなグループになり、ゴソゴソ話をしているという状況になっていました。

〈七項目要求と四項目要求〉
 ―― 七月にはいってすぐ時計台再占拠があり、七月一五日に全共闘は七項目要求をだしています。
一、医学部の処分撤回、二、機動隊導入自己批判、導入声明撤回、三、青医連の公認、四、文学部処<0029<分撤回、五、一切の捜査協力拒否、六、一月二九日以降の事態に関する一切の処分をしない、七、以上を大衆団交の場で確認し、責任者は引責辞任といった内容だと思います。このあとですね、大学側が動くのは。
 そして、八月の下旬には先生たちのグループは、闘争方針として七月にだした五項目要求を整理して、四項目要求をだしていますね。一、機動隊導入自己批判、再導入しないことの確約、二、医学部処分白紙撤回、再び自治会活動の弾圧をおこなわないこと、三、中央委、東院協、青医連を公認し、その交渉権を認めよ、四、学生、院生の自治権を認め、その参加による大学運営協議会を設置せよという内容でした。
 三浦 大学側は、八月一〇日に大河内総長告示をだし、医学部の処分にはミスがあったかもしれないので再審査委員会で再審査するという提案をしました。豊川医学部長と上田病院長も辞任しました。けれども、学生はそんな中途半端なものでは納得しないので、どうにもならないという事態でした。 こんななかで、私たちが連合していた医学部の一般学生のほうは、長期ストになりネトライキになると、また一部の過激派が勝手なことをやる、そして泥沼状態が続くのではないか、これでは展望ないのでストライキを終結収拾して、学内を正常な状態にしたほうがいいという判断をした。私たちが、そんなことしたら逆効果だよと必死に説得したのですが、もう待ち切れない。八月一〇日の告示は納得できるところもあるからと、一方的に、我々はストライキは収拾するという宣言をだしてしまった。「一一八名宣言」というものです。<0030<
 私たちとしても、これで困ったな、民青がほとんど裸で残っているだけなので展望ないな、しばらく冬の時代を耐えて、また時期がくるのを待たなくてはという雰囲気でした。

〈医学連の崩壊〉

 ―― この年、一九六八年の九月に医学連の一五回大会がありますね。医学連というのは、インターン生と医学生が連絡をとってインターン闘争をはじめた一九五〇年代にその芽があったと考えていいのでしょうか。一九五二年に一五自治会によって医大連合第一回大会がひらかれています。二年後の一九五四年に医学生の生活向上、医学生の自主的勉学の発展と学園自治擁護、内外医学生の交流などをかかげ、この医大連合は全日本医学生連合、つまり医学連にかわっていくわけです。あとでふれたいと思いますが、医学連は医ゼミをその後開催するなど、医学生の組織の中心であったともいえま
しょうか。一九六三年の医学連一〇回大会ではインターン制拒否決議をしていますね。
 三浦 九月に、その医学連の一五回大会がありました。これは本当は東京医科歯科大でやる予定だったのですが、バリケード封鎖している東大の安田講堂のなかでこれを開くという方針に、急遽変わり、一週間位前に通告してきました。
 私たちも対応を考えました。突然の変更自体もけしからんし、そんなところへいくのは辛いけれども、しかし、そんなに言うのだったら、これはこれで意志統一して乗り込んで断固闘おうと構えました。ただ、バラバラにいくと、何をされるかわからないから、意志統一して、隊列を組んでおしかけ<0031<ることになりました。
 そしたら、彼らは、バリケード封鎖に反対しているものは入れないといってきました。
 医学連大会は、それまでブントが主導していたのですが、従来の慣行は結構民主的というか、民青でもだれにでも発言させて、みんながガンガン議論するという大会ではあったのです。今度は、とにかくバリケード封鎖に反対するものは入れないというので、それはけしからんということで、押し合いへし合いしました。過半数を大きく上回る代議員がなかに入れなかったので、私たちは医学連は崩壊したという立場をとりました。その後は「医学連の正常な機能の回復を目指す医学系自治会の連絡会議」とか、新しい民主的な医学連の再建というふうにつながっていくことになります。
 ちょうどその頃、患者を盾に東大病院を封鎖するという動きがあって、東大全学の七者協などがデモを組んでこれを阻止してしまうということもありました。
 ―― この九月から一〇月にかけては四二青医連一一〇名全員が一〇月の国家試験を受験する決議をし、医学部の卒業試験を秘密の場所でやるという話がでたり、小林医学部長らをふくめて八時間以上の集会を持つ、全学部が無期限ストにはいる、大河内総長辞意表明と状況がどんどん動いていますね。
 三浦 九月から一〇月にかけては、全学部でワーッと学生大会が盛り上がり、どんどん開かれました。この頃、正直いって、民青は押され気味でした。当時よく流行った「平時の民青、戦時の三派」という言葉があります。だいたい、共産党・民青の人たちはお人好しで、赤旗とか民青新聞をコツコ<0032<ツと配って、粘り強くやることではいいのですが、学生が大勢で騒いだりしていると、その場でアジ演説し学生の気分に合った行動を機敏に提起できる人が少ないのです。内容がよくても生ぬるく聞こえて、「あんなんじゃ、とても大学なんか動かないよ」と学生が思うような雰囲気の演説しかできない人が多い。もともとは東大全学で多数派ですから、辛うじて半数近いところを確保したと思うけれども、やはり九月から一〇月にかけては、半分以上、向こうに押され気味であったと思います。

〈東大民主化行動委員会の誕生〉

 ―― そういう状態の時にできたのが東大民主化行動委員会ですか。
 三浦 医学部はほとんど崩壊状態で、私なども有志の集まりや民青の会議にでたり、他学部に医学部の話をしにいくとか、そういうレベルで、あとはほとんど全学の民青系のたまり場にいて、いろいろな学部の学生大会などをのぞいたりしていました。民青の全学トップ幹部もいるので、期待して見ているのですがうまくやれません。なかにはよくやる人もいますが、多くの場合、はっきりいって戦時の状況に対応できないのです。
 これをなんとかしなければというので、自然に東大民主化行動委員会というのはできてきたのです。私たちは、正規のクラス会や自治会を尊重してやるべきだというのだけど、片方が勝手にやっているときに、そればかりいっていたら何もできないのです。だから自分らも、全共闘じゃないけど、活動家集団をつくって行動していく、ただあくまでもクラス会、自治会、学生大会で決めていくというル<0033<ールを基本にしながらつくることになった。
 これは上からの指示ではなくて、実質的には自然発生的にできた。「なんとかしなくちゃ」ということで、私とか教育学部、法学部、理・工学部などの元気のいいのが集まっているうちに、自然に新しい事実上の大衆運動の執行部が形成されていった。最初はO君が民主化行動委員会の議長で、途中から私がなります。
 九月の末ぐらいの段階で見ると、私としては、このまま全共闘がうまくみんなを惹きつけたまま、適当に収拾されたら、ちょっと立ち直れないなと思ったのですが……それがおもしろい展開をはじめました。
 彼らは最初は、青医連の公認とか、研修問題とか、処分の撤回とか、機動隊導入の自己批判とか、七項目要求を貫徹するためにいろいろ先鋭な行動をとるというかたちを、学生に印象づけているのですが、そのうち、それはマヌーバー(策略)であったということがわかってくるのです。大学当局に七項目が認められそうになると、七項目それ自体が目的ではないのだ、東大解体が目的なのだとか、全学バリケード封鎖も、それはたんなる要求実現の手段ではなくて、全学バリケード封鎖自体が目的なのだといいだす。東京大学の現状、日常そのものを、自分が学生、院生であること自体を自己否定せよとか、こういう感じになってくる。ようするに、大学というのは資本主義の論理が貫徹した体制の役に立つ道具なのだ、こういうものは破壊しなくちゃいけない、こういう論理になっていくのです。結局、武装闘争みたいなものをやろう、それに流し込んでいこうということが本音にあるので、これ<0034<がだんだんでてくるのです。
 私が〈全共闘指導部〉の立場であったら、急進主義がいきすぎると、結局孤立するからまずいと考えて、途中で止めると思う。しかし、これがおもしろいところで、彼らのいろいろなセクトが激しい議論を始めると、必ずいちばん過激なやつが勝つ傾向があります。
 彼らの集団は、いつもあおることばかりやっていますから、あおって突き進むという体質になっている。どこかで妥協しようとか、力関係で、これはまずいから、今回はこのへんで手を打って力をたくわえようとか、こんな議論はまず人気がありません。そんなことを言おうものなら、「おまえヒヨルのか!」といわれる。この言葉に彼らは弱いのです。殺し文句です……「おまえヒヨルのか!」「展望があるかないかの問題じゃない、最後までやり抜くんだ」というと、それがいちばん偉いのです。本当におもしろいものですね。
もっと低いレベルの段階だったら適当に収拾したかもしれないが、七〇年決戦の決定的局面で、ここまできたら、引っ込みがつかない。だからどんどん先鋭化していった。

〈学生の自治組織再建の方向〉
 ―― 東大民主化行動委員会は学生たちにどんなよびかけをしたのですか。
 三浦 私たちがよく使ったリンカーンの言葉があります。K君の演説を聞いて、なかなかカッコいいので、私も気に入って、それからずっと真似して使っているんです。<0035<
 「一人の人を長いあいだだますことはできる。大勢の人を短期間だますこともできる。しかし、大勢の人を長いあいだだまし続けることはできない」。
 大変いい言葉です。これはぴったりそのとおりです。やはり大勢の人を長いあいだだまし続けることはできないのです。
 たとえば、一〇・二一国際反戦デーの政治闘争の日には、医学部系のブントなども、防衛庁に二〇〜三〇名でゲバ棒・ヘルメットで突っ込んだり、まったく常識的に頭を冷やして考えれば、茶番でしかないようなことをみんなそれぞれが競ってやるのです。こうなってくると、だんだん一般の学生にも見えてくる。
 私たちもプチブル学生には変わりないですから、ひところは「民青は生ぬるくて学生の人気を失った。私たちも彼らに負けずに激しく戦闘的にやらなくちゃ」と思ったことがあります。看板なども「数十万のデモで文部省を包囲せよ」とか書いて、向こうのシンパから、「最近は民青もカッコいい」なんていわれ、戦術自体もちょっとそういうふうになりかけたことがあった。しかし、これはまずい、戦術の激しさで彼らと競い合ってはいけないというので軌道修正しました。文学部の革マルによる林文学部長のカンヅメ事件もこの頃です。
 そうこうするうちに、大学側のほうも、医学部では、この頃から白木医学部長、臺病院長という新体制となり、全学的にもあの加藤一郎学長代行、これはなかなか胆のすわった有能な方ですが、加藤代表を選んで大衆団交とか代表団の交渉を進め、解決していこうという路線をはっきりだしていきまさんが出てきまして、正面から学生に対応していこうという話がでてきたのです。<0036< そこで、私たちとしても、ガタガタになっている学生の自治組織を再建して要求をまとめ、正規の代表を選んで大衆団交とか代表団の交渉を進め、解決していこうという路線をはっきりだしていきます。
 しかし、一方で、彼らはどんどん全学バリケード封鎖へというふうに〈東大解体〉、エセ革命理論にもとづく〈解放区〉をつくるという路線で突っ走っていきました。

〈東大闘争の関ヶ原〉
 ―― 局面が大きく変わったと三浦先生が思われるのはいつですか。
 三浦 東大闘争をいわゆる"戦争"という意味で見ると、決定的な関ヶ原というのは、知っている人はみんな知っていますが、一一月一二日と一一月一四日です。これが東大闘争の関ヶ原です。ようするに、私たち民青・ノンセクト連合が完壁に全共闘を打ち破った決定的な段階なのです。
 これはどういうことかというと、それまで私たちはゲバ棒というと、おっかなくて、経験もないし、困っていたのです。でも、民青系も全学連や都学連レベルでは、すでにいろいろ場数を踏んでおりました。そういうリーダーから、簡単に暴力に屈伏して逃げ回っていてはだめだ、正当防衛の立場で闘わなくちやいけないんだといろいろ教わりました。
 全共闘が、学生多数の意志に反して全学バリケード封鎖をするという動きがありました。本郷の全学バリケード封鎖では、中央図書館というのは象徴的な建物だったのです。これを一一月一二日彼ら<0037<が封鎖するというので、私たちは都学連などの応援もえて、前面にはもちろん私たち東大の学生が先に立って、初めてヘルメットをかぶって、ちょっと一メートル位の竹ん棒とかそういうものを持って、座り込んで、とにかく「どかないぞ!」という封鎖反対の構えをしました。
 彼らはそこに長いゲバ棒を持って突っ込んでくるので、ドキドキしてました。私も立場上、後の方にはいられないので、覚悟を決めて前の方にいった。そこで、私の頬っぺたを棒でつっ突かれました。たいした傷ではなかったのですが、血がでたものですから、みんなが「後に回れ」といってくれて、楽でした。あとは後でアジ演説していました。
 ただ、その段階では、彼らも本格的なお手合わせは最初だったので、民青はすぐ逃げると考えていたと思うのです。ところが、こちらも意外と根性をすえてぜんぜん退かない。そしてまわりで見ている一般学生にも、かなり事態は明らかになりました。全学封鎖というのは、一般学生とかクラス会とか学生大会ではどこでも反対され、それに賛成しているほうが少ない、ほとんどないのです。それでも、彼らが長い角材などで暴力で突っ込んでくる、そこに私たちが最小限の装備で構えて防禦している。どっちに非があるかははっきりしていますから、彼らも押し切れなかったのです。
 彼らの立場からすれば、そこは強引にでも突破するしかなかったのだと思いますが、一般学生も見ているし、そこまで彼らも押し切れなかった。結局、押し合いへし合い、多少つっ突き合いをしたけれども、きょうのところは引き揚げようというので、彼らは引き揚げたのです。これでとにかく彼らの無法は通らないのだ、それを阻止できるんだという、そういう雰囲気ができてしまった。これが大<0038<きかった。
 そのつぎ、一一月一四日に、彼らは駒場の封鎖にいったのですが、教養学部の学生は、本郷よりもっと若くて元気ですから、これを阻止しようということになったのです。こんどは、一般学生からも、とにかく全共闘と民青の衝突には反対だ、もちろん封鎖も反対だという声があがりました。衝突させてはいけないというので、間に入り込むような、なかなか勇敢な一般学生もいました。教官なども結構、体を張るような人がいた。
 そんな雰囲気の中で、こっちとしても、駒場のときにはゲバ棒は持ちませんでした。ヘルメットもたぶん脱いでハチ巻きにしたような気がします。普通の学生がみんなそんな状態で、封鎖に反対と座り込んでいる。そこのところにゲバ棒で突っ込んでくるのですから、これは本郷の図書館のときよりも、もっと〈全共闘〉の非ははっきりしていました。
 しかも、こんどは見ていた人もいっぱいでした。彼らが、ちょっとためらいながらも、ワーッと突っ込んできた。そうしたら、その突っ込んできたとたんに、みんな怒って、とにかく一般学生までふくめると数は圧倒的ですから、まわりをワーッと取り囲んだのです。
 ワーッとみんなが取り囲むと、ゲバ棒はもうほとんど用をなしません。体が密着していますから、ゲバ棒なんてどうしようもない。数が多いほうが勝ちですから、みんなゲバ棒を取り上げて蹴散らす、ヘルメットもはぎとっちゃうという、全共闘一派にとってはさんざんな〈武装解除〉パターンになりました。ここから急速に彼らの孤立化が進むのです。矛盾を深めた全共闘は、彼ら内部で革マルと社<0039<青同解放派が内ゲバを始めるといったお粗末ぶりでした。だから基本的には、このへんが東大闘争の大きなわかれめでありました。

〈一二月二四日の医学科学生大会〉
 ―― 力の対決はそういう状況だとして、学生大会のほうはどうなっていくのでしょうか。
 三浦 ここから先は、学生大会とか団交とか、こちら民青・ノンセクト有志連合の側が積極的な方針を提起していくわけで、彼らはそれを「粉砕、粉砕」というしかなくなります。「粉砕、粉砕」といってきても、多数の学生がいるので、石を投げられたり蹴散らされたりして、スゴスゴ引き揚げるというのが基本的なパターンになってきます。
 そんな中で、各学部でつぎつぎと学生大会が開かれて、全共闘がリコールされて、統一代表団というものが選出されていきます。最終的には、医学部をのぞいて、七学部の代表団ができます。医学部は自治会が再建できないで、医学科学生大会という形で執行委員会を再建して、オブザーバーとして全学大衆団交に参加する形をとります。
 そして、七学部プラス医学部の代表が正式に選出されて、大学側と交渉し、「十項目確認書」という歴史的な協定を団交で勝ちとっていくことになります。
 この医学科学生大会は一二月二四日にひらきました。このとき全共闘と我が方の大会防衛隊の間でいちばん激しい衝突があった。全医学科生は四〇〇人位でしたが、このときは理学部二号館に二〇〇<0040<人位が集まり成功しました。これは二四日なものですから、東大闘争が終わってからも、毎年一二月二四日には "血のクリスマスイブ" と称して、かつての民青とノンセクト連合の仲間が集まっていました。医学の話、近況報告とともに、天下の政治情勢はどうだ、最近の自治会活動はどうなっているかとか語り合う同窓会、戦友会をしておりました。東大若手医師医学医療研究会という名前で、一〇年位続いたと思います。
 一二月のこういう経過をへて、七学部学生代表が申し入れをして、一九六九年一月一〇日秩父宮ラクビー場で全学集会がひらかれ、「十項目確認書」がだされるのです。それを妨害しようと、一月九日夜には、私たちが本拠にしていた教育学部の建物に、全共闘一派の襲撃、それも日大全共闘などが中心で武器をエスカレートした激しい襲撃があり、このとき第二次機動隊導入がありました。でも、東大の学生のなかでは、彼らの影響力はもう弱まってくるので、私たちも彼らが封鎖していた医学部の本館とかの封鎖を解除する、私たちがそこをコントロールしていくということになっていきます。

〈安田講堂の死守劇〉
 ―― このあとですね、マスコミなどで東大闘争の象徴のようにあつかわれる安田講堂の攻防があるのは。とすると、すでに方向はみえていた時期になりますね。
 三浦 一月一八日から一九日の安田講堂の死守劇のときは、基本的には、東大の学生のなかでは、全共闘は完全に少数派として孤立していたといえます。そんななかで、他大学の全共闘も含めて、最<0041<後の見せ場をつくったのが、この安田講堂の攻防劇で、そのことは、一月二〇日の入試中止の決定につながったのです。
 全共闘が「入試粉砕」というと、文部省や政府も「入試中止」となり、全共闘が「東大解体」というと、文部省・権力のほうも「東大を閉鎖しちゃえ、大学院大学としろ」というので、「奇妙な一致」が見られました。この本質を、私たちは「全共闘、マスコミ、国家権力の三位一体の高等戦術である」といっていました。彼らが暴力的にワーッと騒ぐと、マスコミがそれを大々的にとりあげる。そうすると、政府や自民党は、大学は自治能力が無いではないかということで、大学法をやるとか、権力が管理する方向にもっていくということがあったと思います。
 実際、よく言われるように、日共対策上、三派系は泳がせておいたほうがいいとか、あまり取り締まらないほうがいいとか、そういうことを保利茂など政府自民党の人間、幹部がいろいろいっていました。暴力学生があばれると、反射的に、国民の支持が自民党にまわるといったのは中曽根です。
 ―― 医学部の闘争も終結していくのですが、そのときのことは……。
 三浦 一月二六日に本館大講堂で、医学部学生と教授の集会がひらかれ、二八日には学生代表と医学部長が「医学部合意書」をかわしました。このなかには、処分の撤回とか機動隊導入の自己批判とか、学生や研修医の権利を認めて、医学部のなかの問題も病院での研修の間題も、学生や研修医と一緒に協議会で話し合っていくことなどが合意されています。これを基礎にして、そのあとの東大医学部の改革が進んでいきます。二月三日に二一四人が参加して医学科学生大会が開かれ、一年六ヵ月ぶ<0042<りに無期限スト解除となりました。

〈全学確認書・医学部合意書の実質化をめざす〉
 ―― スト終結のあとはどうしたのでしょうか。
 三浦 「全学確認書・医学部合意書の実質化」の運動とよぶものをやりました。確認書は紙切れにすぎないとか、いろいろいわれますが、それはそのとおりなのです。これは憲法と同じで、それがあることが武器になるわけで、それを使いながら、どう中身のある本当の改革を進めていくか、そのための力をどうつくっていくかが大事であるというのが私たちの立場でした。あれから、自治会活動も発展し、全国的な医学生ゼミナールとか、そういうものを再建していきます。
 あの頃の東大医学部の自治会活動は本当に活発で、ああいうものはもう二度とできないのではないかと思うぐらいです。何かあると、すぐパッと二〇〇名位集まって学生大会なども成立しちゃうのです。いつも、数十人の学生がワッサワッサ、ワッサワッサ動いて自治会活動をしていました。
 単に政治的に騒いでいるだけではなくて、私たちはどういう医者になるかというときに、医学教育の中身の問題が大事だと議論しました。そして、学生が実際にいろいろ企画してやる自主講座、これを学校の正式の講義として認定するよう求めました。それには、たとえば、公害であれば、患者さんの代表とか、実際に町の現場でいろいろな運動をやっている人とか、臨床や基礎の教授であるとか、研究者であるとか、いろいろな人を呼び、多面的な総合講義をやるというようなことをどんどん企画<0043<しました。
 画期的だと思ったのは、フリークォーターという制度がみんなの知恵でできたことです。医学部の学生が、なんでも自由に一定期間の企画をする。沖縄でハブの研究をしたいとか、他の大学の研究室にいきたいとか、いろいろな企画をして、教授会当局に正規の授業として認定してもらい援助を受ける。そういうフリークォーターという新しい制度ができた。
 自治会のカリキュラム委員会が、当時の耳鼻科助教授と一緒に、医学教育改革の本をだして、それが医学書として売られるような例もありました。『変革の課題とその原点』という医学部改革の理論書を出したり、本やパンフをつくって教授とかみんなに売りまくったので、財政も潤沢で、かなり強力な自治会活動でした。
 あとは、全学連の中の拠点校として、大学法の問題などでストライキをやろうというと、中心になってストライキを打つような強力な自治会になりました。

〈運動を創りあげていく実感〉
 三浦 〈生きた民主主義〉というか、本当の統一戦線というものが大事なのだ、そういうものを自分たちでつくっていくのだとよくいっていました。また、自分たちは将来どういう医者になるかを語り合い、医学・医療を民衆の手に取りもどすこと、世の中を民主的に変革していくことが大事だという議論をよくやっておりました。<0044<
 私がその頃考えたのは、ずっと前から常々感じていたことですが、民青系の運動は、たとえば、何月何日に統一行動があるとすると、まず共産党の支部で戦術など細かいことまでいろいろきめられ、それが民青に下りてくる形をとるのです。そうすると、民青でまた議論して、それがこんど自治会でこういうふうにしましょうとなるのです。そういうものは、いってもいわなくても、細かい事実を知らなくても、一般の学生はみんな感じるのです。だからそういう押しつけでは絶対に本気で動かない。
 だから私がそこで考えたのは、どういう要求やどういう方向でやるかという大きなことはちゃんと考えて、これは共産党や民青もそれなりの方針を持つのですが、実際にどういうことをやるかというのは、クラス会とか自治会で、最初から本当に議論する、みんないわゆるセクトや活動家でない人たちも含めて、大事な人たちと一生懸命相談する。そこで、ストライキをやるとかやらないとかギャンギャン議論して、その場の議論の雰囲気でこうしようとか決める、そういうやり方をしたのです。そうすると、みんな本当に相談されている、本当に自分の意見でものが決まるということがわかれば、ものすごい力を発揮するのです。そういうことは、この東大闘争の全体の過程のなかでも学んだし、このあとの自治会活動のなかでもうんと生かされて、たくさんの人がワッサワッサ動くような自治会をつくったと思います。
 私は、東大闘争の報告などということで全国にいろいろいきました。徳島、鳥取、北海道とか、今までいったこともないところまで、飛行機なんか乗ったことがなかったのですが、はじめて飛行機にも乗らせていただきまして、長野とか福岡とかもいって、東大闘争の報告をしてきました。<0045<

〈人間としてのあり方を学んだ時期〉
 ―― ほかに何か活動のなかで印象に残っていることはありますか。
 三浦 思い出としてあるのは、自治会の役員会で活動の困難をどうやっていくかを話しているとき、いま東大の教授をやっているH君に、真正面から私の学生運動ボス的な言動を批判されたことです。
 私もその頃は東大闘争のリーダーで、医学部のなかでも、事実、中心的な存在だったのです。なんとなく、自分がそんな立場にあるという意識がどこかにあったのでしょうね。
 もうひとつは、本来いつも真剣に授業に出ている優秀な学生たち、みんなに人望もあるような人たち、そんな人たちがこの自治会活動の役員とか自治会の書記長になっている。そういう人たち、いわばアマチュアが必死にやっているのを、運動のプロとしては、ちょっとからかってみたい気分があるのです。自分たちは医学の勉強などでは彼らにはかなわないので、その彼らが一生懸命に慣れない自治会活動をやっているというと、ちょっとからかってみたくなる。それで「もうちょっとやらなくちゃだめじゃないの」とか、少しからかうのです。そうしたら、H君に真正面から批判されて、「三浦さんなんかは、はじめからそういう立場でやっているんだから気楽なんだ。我々や他の人たちがこういうことをやるのはもっと大変で厳しいことなんだ」とガーンといわれて、本当に恥じ入りました。申し訳なかったと深刻に反省しました。そういうことをふくめて、〈人間としてのあり方〉を問われ、成長できる、おもしろい中身のある時期だったと思います。<0046<
 東大闘争の全過程を通じて、思想信条はちがっても、非常に良質で、自分というものをしっかり持っていて、ものを見て自分の意見がパッと言えるような、そういう優れた仲間たちと本気でぶつかった。同じ釜の飯を食い、毛布一枚で、寒いコンクリートの教室に寝ながら語り合えたということは、大変よかった。いろんな場面、個人、集団を観察し、多くのものを学んだし、私のその後の生き方におおきな影響を及ぼしていると思います。
 もうひとつのエピソードは、一二月か一月でした。赤門そばの教育学部が我が方の陣地で、全学連の部隊がいました。近くの医学部本館にいる全共闘一派と投石などこぜりあいがあったりという状況でしたが、夜に中井医学部長が私を訪ねてこられました。「医学部本館に石を投げさせないようにしてもらえないか、医学部本館には君も知っているように解剖実習のため献体された多くの御遺体がある、遺族の気持ちを思うとしのびない」という要請でした。もっともなお話なので、「そのように指示します」と約束し、相手方の自重も要請するようにお願いしました。ちょっと印象に残った出来事です。

〈勉強して医者の道へ〉
 ―― 一九六九年の二月にストは終結しますが、その年の三月の卒業生はいませんね。つまり、医学部の〈東大四四卒〉はいないということです。三浦先生は本当なら四五卒になるはずだと思うのですが。<0047<
 三浦 私はスト解除後、すぐに医学連の再建にむけていろいろやり、全学連の中央執行委員も一年間やりました。もともとは四四で、一年以上ストライキをしましたから、東大の医学部には昭和四四年卒業はなくなり、みんな四五卒になって、私も四五卒で出る予定だったのですが、全学連の中執をやったので、ほとんど勉強していなかったのです。
 医学部の担当は「いまからでも卒業できますよ」といったのですが、もっと勉強して医者にならないと申しわけないと思ったのです。津山教育委員長のところへ自分からいって「このへんで下の学年に下ろしてください、もう少し真面目に勉強してから卒業したいのです」といったら、「よろしい」といわれ、ちょうど四五年の一月に下のクラスにいった。
 四五卒は私たち民青が強くて、三派系と拮抗していたのですが、四六卒は民青が弱くて、ノンセクト有志連合の富坂派が主流でした。それだけに団結が強くて、なんかあるとワーッと三〇人位動くような活発なクラスでした。私はそのクラスに、一月の最初の授業のときにいきまして、「戦闘的民主主義者の集団として有名なこのクラスの一員になれて、大変光栄です」とあいさつをしたら、みんなが拍手して迎えてくれました。
 しかし、それからが大変で、これだけ運動中心の生活を長くすると、きちんと授業にでて規則正しい生活をするのは、これでなかなか抵抗があります。朝遅くまで寝ているような生活の習慣・体質が身についていました。ところが、非常に温かい同級生が「三浦さん、起きてくださいよ」と電話してくれました。おかげで早く立ち直り、よく勉強して、翌年三月に卒業することができました。そうい<0048<う意味ではありがたい人たちがいたと思います。
 ―― 卒業後の行き先についてはどういうふうに考えられたのですか。
 三浦 その後、増子先生と一緒に東京民医連の柳原病院へいくことになりますが、進路についてはいろいろ迷いました。
 チェ・ゲバラの「第二、第三のベトナムを」なんて聞いて、世界の労働運動とか革命運動も見てみたいとか、また、共産党の専従になって革命家になるのもいいのじゃないかとか、一時ちょっとぐらいは考えた世代です。しかし、共産党の幹部で、その頃いちばん指導してもらった人にも相談したら、「そんな馬鹿なことはやめたほうがいい、せっかく医者になれるのだから、医者に、人民の役に立つ医者になりなさい」といわれました。
 その医者になるにしても、どうするか迷いました。普通の臨床医になるのか、精神科がおもしろいのではないかと考えてみたり……先輩の医者として非常に尊敬していた名古屋大学の白ロウ病の山田信也先生を訪ねて、社会医学、公衆衛生はどうかと話を聞いたり、ウロウロしましたが、やっぱり町医者が肌に合うのではということになったのです。

〈全国青年医師の集いと医ゼミの活動〉
 ―― 病院にいってからの医学部闘争世代とのつながりは……。
 三浦 その頃の仲間が民医連の中で、全国的にたくさん活躍しています。いま、全国の民医連の拠<0049<点病院などの院長クラスは、ほとんどその頃の活動家仲間です。
 病院にはいってすぐ、増子先生にせっつかれ、仙台の田野(武裕)君や名古屋の青木(毅)君たちと語らって、柳原病院を事務局にして、「全国青年医師の集い」を組織しました。民医連とか大学とか、市中病院などでそれぞれの問題意識でやっている仲間が集まって、いろいろ交流しつつやっていこうということでした。
 ―― 先ほど、医学連の話がありましたが、ここで医ゼミについて話して下さい。第一回の全国医ゼミは一九五五(昭和三〇)年です。翌年には「医学生として取り組むべき問題を検討し、医学連の活動の方向を決定するうえに一定に寄与すべきもの」という意義規定がくわえられ、一九五七(昭和三二)年の第三回では医学連主催を明確にしています。その後、毎年、ひらかれたのですが、東大闘争の頃、中断があります。一九六九(昭和四四)年三月に東大でおこなったのが再建の第一歩ですか。「国民は大学病院、医学部に何を期待しているか」を巨摩共立病院の中野勝先生、「民主化闘争の意義」を、当時、名大講師の山田信也先生が話していますね。 三浦 医ゼミも、いま見てもなかなかいい内容でやっています。一九七〇年には川端治さんという当時人気のあった理論家に、七〇年代安保問題について、「七〇年代をどう生きるか」を話してもらいました。川上武先生には「医療運動の歴史」の講演をたのみました。このときの分科会テーマは「大学民主化の闘い」「医学教育の改革」「大学病院の変革」「現代に生きる医師・医学者」「フィールド活動」などでした。一九七一(昭和四六)年には「開業医の実情を考える」「現代日本医療の恥部<0050<を衝く」「医大新設をめぐる問題点」「科学技術史からみた医学医療」などをやっています。いま、柳原病院の医師の川人(明)先生は七二(昭和四七)年に実行委員長をやっていますが、そのときの記念講演は川喜田愛郎先生の「現代医学研究の課題」となっています。医ゼミは年々充実し、いま、みさと健和病院で一緒の上林(茂暢)先生、増子先生、そして私も時々でています。」(三浦[1995:17-51])


UP:20110715 REV:
増子 忠道  ◇東大闘争:おもに医学部周辺  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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