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東大闘争:おもに医学部周辺



■関連項目・人

精神医学医療批判・改革
◆1969 第66回日本精神神経学会大会(金沢大会)
◆1969- 東大病院精神神経科病棟(通称赤レンガ)占拠・自主管理
全日本医学生連合(医学連)

秋元 波留夫
石川 清(精神科医,1942〜)
今井 澄
上田 敏
臺 弘/台 弘
最首 悟
島 成郎
高橋 晄正
富田 三樹生
本田 勝紀
森山 公夫
山田 真
山本 俊一

■本・等

◆立岩 真也 2013 『造反有理――精神を巡る身体の現代史・1』(仮),青土社 ※

流儀 (Ways) ◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30  『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』 ,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,
 ……
 「異議申し立て」と医学生運動
 大学医学部のヒエラルキー
 ……
 *まずこの本(の山田氏の語っている部分)をどうぞ。

◆田畑書店編集部 編 19690625 『私はこう考える――東大闘争・教官の発言』,田畑書店,316p. ASIN: B000J9N2RA 540 [amazon] ※ tu1968.

◆高橋 晄正 19700331 『現代医学 医療革命への指針』,筑摩書房,299p. ASIN:B000JA0MNQ \450 [amazon] ※ ms

◆台 弘(臺 弘) 19720415  『精神医学の思想――医療の方法を求めて』 ,筑摩書房,筑摩総合大学,274p. ASIN: B000JA0T3E 900 [amazon] ※ m. ut1968.
◆東大全学共闘会議 編  19910930 『果てしなき進撃 東大闘争反撃宣言』,三一書房,213p. ISBN-10:4380912310 ISBN-13:9784380912313 1800 [amazon][kinokuniya] ※

◆三浦 聡雄・増子 忠道 19950715 『東大闘争から地域医療へ――志の持続を求めて』,勁草書房,医療・福祉シリーズ,201p. ISBN-10: 4326798963 ISBN-13: 978-4326798964 2205 [amazon][kinokuniya] ※ tu1968.
 *長い引用あります。

◆富田 三樹生 20000130 『東大病院精神科病棟の30年――宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』,青弓社,295p. ISBN-10: 4787231685 ISBN-13: 978-4787231680 3000 [amazon][kinokuniya] ※ m. ut1968.

◆山本 俊一 20030720 『東京大学医学部紛争私観』,本の泉社,212p. ISBN-10: 4880238090 ISBN-13: 978-4880238098 [amazon] ※

◆山田 真 20050725 『闘う小児科医――ワハハ先生の青春』,ジャパンマシニスト社 ,216p.  ISBN-10: 4880491241 ISBN-13: 978-4880491240 1890 [amazon][kinokuniya] ※ ms. h01. tu1968.

◆市田 良彦・石井 暎禧 20101025 『聞書き〈ブント〉一代』,世界書院,388p. ISBN-10: 4792721083 ISBN-13: 978-4792721084 2940 [amazon][kinokuniya] ※

■引用

◆最首 悟 19690119 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」
 『朝日ジャーナル』(非常事態宣言下の東大・その2) 1969年1月19日:99-103 ISSN:05712378

 「「東大の学生であることは何を意味するだろうか」「大学院や助手にとっては研究者とは何を意味するか」「青医連にとっては医者になるとは何を意味するだろうか」。  このような問いは少なくとも六〇年安保関争においては発せられなかった。もう少し正確にいえば、学生にとって将来を展望した上での学生とは何かという問いがなかったといってもよい。
 六〇年当時、学生は、若き研究者は、理念として、観念として、自分の外にある問題にぶつかった。ぶつかったかぎりにおいて勇敢であったし、それは学生しかできない行動でもあった。しかしそのとき、大学は帰るべきところとしてあった。」(最首[1969:101-102])
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか
 では医者になることを拒否するのかといえば、そういう形で問題は立てられない。いわば否定の否定として二転三転して医者になろうとする。しかし同時に受身的な医者になることを拒否して闘争を続けたときに、結果として医者になれないかもしれない。<101<
 自分は医者になってもならなくてもよい。けれど、闘争はまさに続くんだ。その闘争は医療の分野でだ。そこから自分が抜けたら、だれがやるのか。自分たちこそ医者になるんだ。このようなねばりつく運動形態が、どんなにラジカルであろうと、それは革命的敗北主義からも玉砕主義からも抜け出た運動であることは自明なのだ。」(最首[1969:101-102])
 「理系闘争委員会は、現代社会において科学は、それが平和のためであれ、戦争のためであれ、すべて資本家の財産、私有物として存在していると考える。そして科学は一面、労働者人民を抑圧するとともに、他方において労働者人民が自己を含めた社会の矛盾を解明する武器となる両刃の剣であるといういわゆる「科学の二面性論」は、科学者が発明した論理にすぎないと、はげしく攻撃する。」(最首[1969:102])

・この文章の引用・言及
◇立岩 真也 2010/08/01 「「社会モデル」・序――連載 57」,『現代思想』38-10(2010-8): 資料

◆高橋 晄正 19690228 『社会のなかの医学』,東京大学出版会,UP選書,301p. ASIN: B000JA14RO ISBN:9784130050258 480 [amazon] ※ ms. d07. tu1968.

・はしがき
 「はからずも、東大闘争のなかで一人の若い生物学者がおこなった厳しい解析のなかに、わたしたちは医療矛盾の鋭い集約をみる。
 「医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか」(最首悟氏)
 この問いにたいして、わたくしたちはいま、誠実に答えなければならない。
 目を広く社会に向けて見ひらくとき、わが国はほんとうに国民の生命を守ることのできるような近代的な医療制度を持っていないことに気づかなければならない。医療が自由業であり、営利業である状況のもとでは、国民はサイエンティフィック・ミニマムの医療さえ保障されえないのだ。医療の倫理性も、それに科学性さえも、医療の営利性の前には影をひそめざるをえないのである。
 いま、医学生や青年医師たちは、わが国の医療矛盾の実態を厳しく見つめ、その本質を鋭く突きはじめている。それらを医療技術の問題に解消することは、もはや許されないだろう。それらは、
・むすびに代えて――東大闘争で問われたもの
 「その頃、事件の真相はわたくしたち医局員にもよくわからなかった。しかし、事件の当日、九州でオルグ活動をしていたという医学部三年生の粒良君が、事件の直接参加者として処分を受けているという噂、それに続く同君のアリバイ発表と不当処分にたいする抗議の集会は、わたくしに強い衝撃を与えた。
 わたくしには、当然のこととして大学当局が調査活動にのり出すべきもののように思われた。しかし[…]」(高橋[1969:285])

◆臺 弘 19690615 「大学紛争と精神科医」(Editorial),『精神医学』11-6:2-3(418-419) ※全文掲載

◆台 弘(臺 弘) 19720415 『精神医学の思想――医療の方法を求めて』,筑摩書房,筑摩総合大学,274p. ASIN: B000JA0T3E 900 [amazon] ※ m. ut1968.

 あとがき
 「この本は東大紛争の経過を通じて、特にまた長期間にわたって続けられている精神科医内部の意見の対立の背景のもとに書かれた。精神医療における個人と社会、精神の健康と病気、治療や研究における精神主義と生物主義などの諸問題が、どれも造反は結びついて激しく揺れ動いた。私はこの本を読者のために書きながら、同時にたえず自分自身のために書いている思いがした。
 本書の内容からおわかりのように、私は揺れ動く対立的意見の中ではっきりと折衷主義的な立場をとる。私のいう折衷とは、どちらも結構ですというようなあいまいな態度ではない。対立的意見を越えて、精神医学はまず科学でなければならないことを主張しながら、れが患者のために生かされることを求めるのである。精神医学と医療は一筋縄では取り組めぬ相手である。いや、一筋縄であってはならないのだ。私は、精神主義をふりかざす相手には生物主義を、個人至上主義を主張する相手には社会を説き、生物主義をふりかざす相手には精神主義を、社会優先を説く相手には個人の尊重を主張せずにいられない。また、精神医学と精神医療のかかえている問題は、精神科医がひとりで引受けることなど出来るものではない。医療・保健・福祉の当事者はもちろん、社会全体で取組まなければ到底解決出来ないことである。」(臺[1972:263])

高橋 晄正 19730815 「こんな教育がつくるこんな医師」,朝日新聞社編[19730815:167-220]*
*朝日新聞社 編 19730815 『医療を支える人びと』,朝日新聞社,朝日市民教室・日本の医療3,257p. ASIN: B000J9NO00 500 [amazon] ※

 「6医療の社会性と人間の生存基盤
   胸につきつけられるメス
 臨床医としての私の狭隘な視野を社会に向けて切り開いてくれたのは、東大闘争のなかで一つの生物学者が『朝日ジャーナル』誌のなかで投じた次の一石であった。<0198<
 ――医者は患者を待ちかまえているだけでよいのか。患者は公害とか労災とかでむしばまれるかも知れない。その患者を治療して、再び労働力を搾取しようとする元の社会に帰さざるを得ないのであれば、医者という存在は、全く資本主義の矛盾を隠蔽し、ゆがみの部分を担って本質をかくす役割をになっているだけではないか――(最首悟
 私はこの短い文章を前にして必死に抵抗しようと試みている自分を意識した。出欠多量で死に瀕している何人かの人びとを私は助けたことがあったはずだ。だから、医師は決して資本主義の矛盾の隠蔽だけをしているのではない、といま一人の自分は反論する。それにもかかわらず、助かった患者たちは助けた私に感謝するだけで、自分たちを傷つけた社会矛盾の摘発にのり出さないとしたら、最首氏の批判はやはり真実性をもつといわなければならない……。」(高橋[19730815:198-199])
 →言及:20071223 「山田真に聞く」

 8医師の卒後教育と大学闘争
 「処分された学生のなかに、その日は久留米大学にオルグに行っていたという者が出てきた。それは医学部三年生の粒良君だった。私たち古い医局員たちは迷った。いったいどちらが真実なのか、と。私は旧革新的教授グループが現地調査を医共闘に申入れる橋渡しをし、彼らがそれを受入れたあとでその教授グループが不当にも調査を断ったところで、おせっかいにも精神科の原田講師(現・信州大学教授)をさそって久留米へ出掛けた、ということなのである。
 結局は、奇跡でも起らないかぎり、粒良君の主張を反論することは不可能であった。それは、「高橋・原田レポート」に詳細に書いてあるとおりである。」(高橋[19730815:217])
 →言及:20071223 「山田真に聞く」

 「全国の新革新派学生は全共闘の占拠した安田行動に結集し、東大闘争は全国大学闘争の中核部分となったかにみえた。しかし、大学闘争には、日大闘争にみられるように別な中心もあったことからもわかるように、東大闘争の発火点となった医学部問題もまた、日本の社会がかかえている社会矛盾にたいするラジカルな追及の一つの現れであって、それらが全共闘的エネルギーのもとに一気に噴出したのが大学闘争であったのだ。
 だから、医学部内部においても、やがて医局内部の教授を頂点とする封建的体制、学位論文目あてであって社会とあまりかかわりのない研究の空虚さ、講座制にみられる学問体系の硬直性のもつ矛盾、講座制の延長上にある学閥の弊害などが、容易に動こうとしない古い医局員たちに鋭いメスとなって突きつけられた。だが、医局内部は小児科や精神科という少数の領域を除いてほとんど動かなかった。」(高橋[19730815:218])
 →言及:20071223 「山田真に聞く」

◆上田 敏 19830615 『リハビリテーションを考える――障害者の全人間的復権』,青木書店,障害者問題双書,327p. ISBN-10: 4250830187 ISBN-13: 978-4250830181 2000 [amazon][kinokuniya] ※ r02.

 「ここで、やや旧聞に属するが、一〇数年前の学園紛争の時代にしばしば学園を風靡した「労働力修理工場論」について一言触れておきたい。これは学園紛争が医学部からはじまったこともあって、医学・医療への根源的な批判として、当時の「新左翼」の論客たちが展開した議論であって、リハビリテーション界の一部にもかなりの影響を与えたものである。それは医療はすべて、そしてなかでもリハビリテーションはとくに、もっぱら資本家の利益のために、傷ついた労働力を修理し使えるようにし、ふたたび資本家によって搾取されるために社会に送りかえすものだ。したがって、それは権力への加担であり、犯罪的であるとの主張である。今聞くとまるで嘘のように幼稚な議論であるが、当時は若い医学生、リハビリテーション関係職種の学生の心を少なからずゆるがせたものである。当時私はこれについて、小文を発表したことがあるが(14)、その一部をここに再録しておきたい。

 「「労働力修理工場論」を非常識な幼稚な議論として一笑に付すことは易しいが、私はむしろこれを軽視せず、真正面からこれと対決することによって、リハビリテーション、あるいは医療全般の、真に正しい社会科学的な分析と位置づけを発展させていく必要があるように思う。<0038<
 この種の議論にたいする批判の第一は、それがまさに資本家側の医療にたいする見方に立って、それを絶対視した議論ではないかという点である。
 資本家の利害だけから見れば、たしかに、医療の水準は国民を「生かさぬよう、殺さぬよう」に保つのがよいといえるのかもしれない。あるいは低廉な労働力の適当な供給が保障される範囲内に保てば十分だと考えられるかもしれない。
 たしかにわが政府をして「低医療費政策」(とくにリハビリテーションにおいてほど、この政策が顕著なところは他にない)を固執せしめているモチベーションのひとつには、これがあるであろう。
 しかし、問題は、医療を決定する力はこれしかないのかということである。
 そこで第二の批判点になるが、彼らの議論は、医療の水準を支え、それをたえず高め、かつ広めようとしている根本的な力の存在を見落としているということである。
 それは何よりも、よりよい生活を求め、より健康な生活を求め、健康の破壊を許さないとする国民全体の要求であり、次に、それにこたえるべく、医療の理論と技術をたえずたかめ、普及しようと努力しているわれわれ医療技術者の活動である。
 第三の批判点は、彼らの議論には、医療の現実をこの二つの力、すなわち、医療を発展させようとする下からの、そして科学的な力と、それにあまり多額の費用はかけないで、労働力の供給維持程度におさえようとする上からの力とのダイナミックなぶつかり合いとして見ていこうとする立場がないということである。上からの力の一方的な貫徹として、つまり、元気のよい言葉はともかくとして、基本的にはきわめてペシミスティックな見方で、スタティックにとらえることしかできていない点にある。<0039<
 以上は、医療全般に共通の議論であるが、リハビリテーションに限っていえば、これはまさに新しい医療の可能性の拡大であり、医療の任務を全人間的な復権、より意義のある人生の実現にまで拡大したという点で、医療の水準についての考え方を質的に一段高い段階に高めるものである。
 国民の基本的要求に奉仕するための医療の科学・技術のひとつの先端にあるものとして肯定的にとらえるべきものなのである。

 以上いささか「喧嘩すぎての棒ちぎり」といったおもむきがないでもない、若かしころの議論であるが、現在の障害者運動やリハビリテーション論のなかにも、表面にはあらわれないまでも、ひとつの底流としてこれに類するペシミスティックな、あるいはニヒリスティックな思想が流れているとはいえないので、またこのような議論がいつ復活してこないものでもないので、あえて御紹介したしだいである。
 実はこの「労働力修理工場論」批判は、医療(リハビリテーションを含む)の位置づけというだけでなく、本節のテーマである労働の意義についての考察とも深い結びつきをもつものである。すなわち、十数年前の論文では触れなかったが、このような「新左翼」的な議論の根底には「労働は苦役である」という思想があり、実はそれが最大の問題なのである。労働が苦役であればこそ、障害者を労働に送りかえそうとするリハビリテーションが犯罪的なのである。そしてこう言い換えてみれば、現在の障害者運動の一部にもあきらかにこの「労働苦役論」は底流として存在しており、「苦役から労働を解放5しようとするのではなく、「労働からの解放」こそが障害者運動の目的であるかのような議論も聞かれるのである。」(上田[1983:38-40])

「(14)上田敏「リハビリテーション医学の諸問題」『新しい医師』一九七一年三月一日号。」(上田[1983:51])

◆秋元 波留夫 19850523 『迷彩の道標――評伝/日本の精神医療』,NOVA出版,290p. ISBN-10: 4930914191 ISBN-13: 978-4930914194 \2940 [amazon][kinokuniya] ※ m. ut1968.(増補)

 「昭和四十四年は東大安田講堂占拠事件が発火点となって大学紛争の火の手が全国に広がった年である。東大精神科ではこの年九月、精神科医師連合のなかの一部の者によって病棟及び研究室が占拠され、教授が教授室から追いだされてにげだすという醜態が演ぜられる始末であった。分裂病は神話である、などという馬鹿馬鹿しい幻想にとり憑かれた連中は精神疾患の生物学的研究を敵視して、攻撃を加えた。」(秋元[1985])

◆浜田 晋 20010101 『私の精神分裂病論』,医学書院,244p. ISBN-10: 4260118528 ISBN-13: 978-4260118521 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「こうして振り返ってみると、私の歴史には、ふたつの屈曲点がある。第1の屈曲点は東大闘争の中から生まれた。初めは精神病院の中で分裂病者と関わった。それは「精神分裂病」という疾病(一枚岩)への挑戦の日々であった。とくに分裂病集団との関わりの中で、「一般的に治療と呼ばれているものは何か」という課題であった。その中で私は「どこかおかしい…これが果たして治療といえるものか」と考えつづけた。答えは出ない。
 そして東大闘争。それが伏線となった。たまたまとびこんだ「地域」。そこでひとりひとりの分裂病者の暮らしにじかにふれたことで、私は強い衝撃をうけた。」(浜田[2001:vi]
U.東大闘争前後のこと 35-44

 昭和44年1月19日安田講堂落城の日、私は危篤患者をかかえて東大赤レンガ病棟にいた。マスコミのヘリコプターの轟音の中、患者は息を引き取った。歴史的な瞬間、私は医師としての日常性の中にあった。
 「終わった!」という想いと虚脱感しかなかった。
 精神科医が人の死に遭うことはむしろ稀である。感傷的にもなっていたのであろう。
 当時赤レンガ病棟(精神科病棟)は東大闘争の重要な拠点であり、全共闘の諸君は勿論のこと、患者さえもが、その意味もわからぬまま闘争に駆り出されていった。病棟は重症患者も含めわずか10数名の患者と、2〜3人の医師しかいなかった。私と岡田靖雄ともうひとりくらいの医師で、交代に宿直を繰り返し、連夜の○○会議に私は疲れ果てていた。

 私は理は学生、全共闘側にあると終始思っていた。「東京大学とは社会の中でいかなる存在であるのか」「わが国家権力の中枢にあるのは東京大学卒のエリートたちでないか」「その自己批判から始まらない限り東大闘争は無意味である」、そして「医療の権力機構、封建制度への根底的打倒」には共感を感じていた。
 何度か対話集会なるものに出てみたが、権力側の対応は全く体をなしていなかった。「私には責任がない。私は権力者でない。私はそんなこと言っていない」と逃げの一手と形式論理、場あたり的な答えでしかなかった。
 東大闘争の時の「進歩的」教授たちの関わりを象徴しているのが、昭和43年12月23日全共闘が法学部研究室を封鎖した時の丸山眞男の言葉であろう。「君たちを憎んだりはしない。軽蔑するだけだ。軍国主義者もしなかった。ナチもしなかった。そんな暴挙だ」14)と、歴史に残る名言を吐いた。
 「学問の自由」とは何かが根底から問われている時に、彼はそれに一言も答えていない。その狼狽ぶりが滑稽でさえあった。
 少なくとも京大闘争の時、高橋和巳が「私は全存在をかけてここに来ています」「学生たちがもっとも激しく渇望していたものは、優れた対峙者の存在であった」15)と言ったというが、東京大学には高橋和巳がいなかった。<0037<自ら問われている本質を理解できず、ただおろおろするばかりで、結局は機動隊の力を借りて事態は「収拾」された。
 私がこの闘いから得たものは「患者にとって医療とは何か?そして医師は時として敵となりうる。その時、私はいさぎよくありたい」ということであった。
 私は人間の弱さを知っている。東大全共闘の諸君や一般学生(東大闘争をもり立てた)が、数年を経て次々と転向していったことを責めることはできない。「泰山鳴動して鼠一匹」も出ぬのみか、それを期に「大学」という組織がほぼ完全に解体し形骸化したことに対して、怒りもない。
 もともと私は「組織親和性」に乏しく、「権力」というものの正体に幻想を持ち合わせていない。戦前戦後を通じて、私の血となり肉となっているものだから、今さら変わりようもない。それが深いところで、社会から疎外され続ける「精神分裂病者たち」への共感につながっているのであろうか。
 東大闘争を経て「東京大学」は変わったか。「医療の世界」は変わったか。「日本国家」は変わったか。「日本人のありよう」は変わったか。「ノン」である。16)
 しかし私自身は変わったと思っている。鼠が1匹東大から逃げ出し、東京下町に住み着き、チョロチョロしている。少なくとも私があのまま松沢病院に居続けたら、今日の私はなかったことだけは確かである。そして「精神科診療所」が今日のような姿では存在しなかったであろうという自負だけは持っている。それが私のアイデンティティといえば言い過ぎであろうか。
 私を東京下町と出会わせてくれたのは、ひとつは東大闘争である。そして東大闘争の内包する思想性(志と言うべきか)の延長線上に、今の私の活動があると思っている。これもまた幻想なのだろうか。
 その頃、私が学んだふたつのことを付け加えておこう。

 医師という存在とは何か
 昭和43年11月から45年4月まで、上田敏先生の要請を受けて私は東大リハビリテーションセンターで精神科的相談に応じてきた。それは週1回<0038<半日わずかふたりの患者を主に診察室場面で診るという限られた経験であった。しかし東大闘争のさなかでもあり、ヘリコプターの騒音を耳にしながら、私は戸惑いとある種の気負いを胸に、今まで経験したことのない新しい状況下で診察を行った。そこは上田敏先生を中心に、PT(理学療法士)、OT(作業療法士)、ケースワーカーたちが新しい医療を目ざして熱心に活動をしていた(それは東京大学の各科の診察依頼にこたえ病室を訪れた時のうさんくさい視線とは対照的であった)。それにリハビリテーション医学の理念に私は共感するものがあった。コメディカル・スタッフとの交流も初めてであり、新鮮であり刺激的であった。
 精神科医は従来ともすれば精神病の殻に閉じこもってはいたが、もっと身体医学の中に足を踏み込み、さらには極度に専門化した身体医学のかかえる諸矛盾に対しても積極的に発言せねばならないことを学んだ。各科から集まってくる患者たちから「東大病院の病理」を知ることもできた。それをここで述べるつもりはない。ただひとり私の忘れられない患者の話だけにしておこう。私の診察態度そのものに関わるからである。

 36歳、女。31歳頃から心弁膜症で加療中であった。35歳の時、軽い頭痛とともに、はいていたサンダルが脱げ、体が右に倒れた。やがて意識を失い、すぐ東大病院○○内科入院となる。意識が回復してからも右片マヒと口がきけなかったという。1年半後リハビリテーションセンターに通いだし、理学療法が始められた。ところが意欲に乏しくやる気を示さず、2か月後に精神科受診となったものである(精神科医に診てもらうことが患者には了承をとられていなかったらしいし、私も精神科医であることを名乗ることなく、すべては曖昧な中で診察は開始された)。
 彼女は礼容保たれ、表情も自然で、笑顔も見せる。ただ素っ気ない印象はあるものの、身体的診察には素直に応じた。その時の反応から痴呆は前景になかった。問われていたのは、やる気のなさに対する心理的背景、病気に対する構え、巣症状の有無である。それなりの問診が必要である。私は不用意に物品呼称を調べようと懐中電灯の名前を問うた。彼女の表情が<0039<変わった。しばらくの間があり、「知りません!あたし、そんなもの初めて見ました!」と、切り口上となった。それでも私はさらにセロテープの名を問うたところ、彼女は切れた。「先生!私、記憶なんか確かなんです。全然どこも悪くありません。そんなの知りません!」と叫んだ。「そんなことで私をテストなさろうとするんですか!」と言ったままうなだれてしまった。
 私は狼狽しつつ、しどろもどろに「あなたの心を傷つけたこと」を詫び、(よせばいいのに)医学的にその必要性を説明したものの、彼女は沈黙したまま、やがて大粒の涙を流し約3分、急に頭をあげ「もう大丈夫です。すみませんでした…」と笑顔を作って見せた。私はほうほうの体で問診を打ち切り、彼女をそのまま帰してしまった(その時点でこそ彼女への接近の新しいチャンスがあったはずなのに!)。
 その時の私の病歴には「抑制に乏しく、感情易変、強情でプライドが高く、自己中心的、医療への期待と依存性に乏しい。生来性の性格特徴か、器質性の関与があるのか。家族を呼んで確かめるか」と記載されている。
 1週間後、彼女は私の面接をすっぽかした。

 その時私は初めて、私自身が彼女にとって加害者であることを知った。私の技術の未熟さでもあり、医の奢りである。
 学生たちが私たちに問うていることはこのことではないのか――と初めて気がついた。
 東大闘争で問われたことは、私自らの中にあった。「なぜ彼女が私に対して、ああいう態度をとったのか」を考える余裕が私の中になかった。医者が心ならずも日常的に加害者となりうることはあろう。それに対する自己洞察とアフターケア(フォロウアップ)なしには「医」は死ぬ。彼女を傷つけてしまったことと、その後処理をしなかったことへの反省が東大時代私が得た貴重な臨床的収穫といえよう。
 分裂病者とばかり関わっていると、「そのこと」に気づくことは稀である。彼らは彼女のように医者を攻撃せず、ただ黙って我慢するからである。<0040<より深く傷ついていながら。」(浜田[2001:37-41])

 「昭和45年3月、私は東京大学精神神経科教室を後にする。私にとっては「医療改革」という政治運動よりも日々の医療――患者さんと向き合った仕事が大事と思えたからである。とはいうものの、「転向」にはいつも苦い感慨が伴うものである。「逃げた」と言われても頭を垂れるのみである。新しい職場にも初めから幻想は持っていなかった。
 その時1冊の本を手にして私は大学(精神病院も)を去った。
 高橋和巳『わが解体』。15)そして闇。」(浜田[2001:44]
15)高橋和巳『わが解体』河出書房新社, 1971.

 「東大闘争とは何であったのか
 〔1971年〕12月11日(土)
 東大で一緒に働いてきた岡田靖雄と久しぶりに会う。彼も来年3月東大をやめるという。それにしても東大闘争とは何だったんだろう。「医療」という立場からみて新しい医療改革の動きが生まれたか?「彼らは闘争のための闘争しかしなかったんですよ」と岡田。「しかし今は利敵行為になるから何とも言えない」と。
 私が東大闘争で学んだことはただひとつ。「東大とは社会の中で何であったのか。結局日本の支配機構(政・官・財・学問)と直結し、民衆を支配し続けた。それに対する自己批判ではなかったのか…そして私はあの時東大にいなかったら、今の私の地域活動はなかっただろう。ぬくぬくと松沢病院にいてどこかの大学教授にでもなっていたか。しかし今は患者にとって医療とはなんだったのかを現場に立って凝視する視点を追求したい…」と私は言う。
 岡田は冷笑的に「あなたは切替えが早い。変わり身が早い。ぼくは不器用な人間だから…2〜3か月浪人するよ…」と。
 (でも彼はその後私が関わっていた下町のH診療所に勤務して継いでくれることとなった。)」(浜田[2001:182])

◆秋元 波留夫/上田 敏 構成 20050916 『99歳精神科医の挑戦――好奇心と正義感』,岩波書店,246p. ISBN-10: 400022543X ISBN-13: 978-4000225434 1995 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「東京大学を去った三年後の一九六九年九月に、予想もしなかった「東大精神科赤煉瓦病棟占拠事件」が起こった。それが全国の大学に波及し日本精神神経学会も紛糾した。この騒動が収束に向かったのは一九八〇年代に入ってからで、東大の事件が最も長引いた。この事件の意味や、この事件<0183<に対するわたしの考えは後述する。ここでは、肝心な精神障害者をそっちのけにした精神科医の独善的な論争であり、コップのなかの嵐であったというだけにしておく。強いてそのポジティブな面をあげれば「精神医学はいかにあるべきか」、「精神医学とは何か」についてあらためて考えるための反面教師の役割を演じたことだろう。」(秋元[2005:183-184])

 「東大精神科病棟自主管理事件
 大学紛争と関連して、東京大学精神科医師連合(東大精医連)の病棟自主管理事件がおきた。安田講室が落城して、東大キャンパスもそろそろ落ち着きを取り戻そうとしていた矢先のことであった。一九六九(昭和四十四)年九月、医学部付属病院精神科の赤レンガ病棟研究室が占拠された。この事件を起こしたのは東大精医連の一部の諸君であった。精医連というのはインターン制度など当時の不十分<0225<な医学教育のあり方の改革を求める組織として、全国の多くの大学病院精神科に発足した。東大精神科では、一九六八(昭和四十三年十月二十一日設立総会を開き、設立宣言を出している。その要旨は次のような なものであった。[…]<0226<
 <0227<
 この設立宣言を読んでわかることは、東大精医連が「医局講座制解体」、「精神医療の改革」だけでなく、東大医学部教授会を国家権力の手先ときめっけ、その支配を拒絶して、自立することを主張していることだ。この主張の当然の結果として、教室の主任教授を不信任することになる。このような主張に同調できない教室員との間に確執が起きたのもまた当然の帰結であった。教室は教授を支持する教室員と教授不信任の精医連とのにらみ合いという不幸な状況が続いた。当時、わたしは、東京大学を定年退職(一九六六年三月)して、四月から国立武蔵療養所に移っていた。わたしの教授時代には予想もしなかったことであり、精神科教室のそんな状態を傍観するに忍びない心境であった。
 一九六九(昭和四十四)年六月二十七日夜のことであった。精医連発足当時の指導者で、わたしの教授時代の医局長でもあり、親しくしていた石川清君(故人)たち三人の諸君に自宅に来てもらった。早期解決を説得しているさなか、わたしは、なんとクモ膜下出血に襲われ意識不明となってしまった。虎の門病院に緊急入院した。沖中重雄院長(東大名誉教授)のお世話になり、半年ほどの入院で全快で<0228<きた。ところが、わたしの入院中、東大精神科では最悪の事態が持ちあがっていた。
 安田講堂陥落以後の医学部の授業再開をめぐって、これに絶対反対の精医連の諸君が赤レンガ精神科病棟を占拠封鎖し、これに抵抗する教授、教室員を暴力的に追い出してしまった。一九六九(昭和四十四)年九月のことであった。教授以下常勤医の諸君は病棟に入ることができず、外来棟での外来診療しかできない状態となった。精神科病棟、研究室を占拠した精医連の諸君は「自主管理」と称して自分勝手な入院診療を始めた。一九六九年九月以降、東大精神科は教授ら正規職員による外来組と、精医連の病棟乗っ取り組の二派に分裂する異常事態が続くことになった。この異常事態が終息するのに三十年近い長い歳月がかかった。精神医学教室の紛争はほかの大学でも起きたが、こんなに長くだらだら続いたのは東大だけであった。
 いま、考えてみると、東大で精神科病棟乗つ取りがこんなに長く続いたのは、東大病院当局、おそらくは東大当局が、この問題を精神医学教室の内紛としてかたづけようとしたからだ。乗っ取り組の診療を公認し、看護婦を配置し、乗っ取り医師を正規の助手、講師に任命する方策を続けた<0229<結果にほかならない。わたしは東京大学新聞から頼まれて書いた「東大精神科”病棟自主管理”について」(ニ〇三三号およびニ〇三四号、一九七二年一〇月二日および一〇月九日号)で、この問題に対する医学部の対応を批判して「東大医学部の正義いずこにあるやの感慨を禁じえない」と感想を述べた。
 東大当局の対応の裏を返すと、精医連結成の理念であるはずの「医局講座制解体」、「教授会不信任」は空文と化し、「病棟自主管理」は完全に崩壊して、病院長管理下の「他主管理」に転落したことになる。そして、「他主管理」以後の精医連の一部の諸君の闘争の矛先は東大当局ではなく、たまたまおきた一私立病院のスキャンダル追及、保安処分反対、日本精神神経学会撹乱などの外部の問題に介入するようになっていく。しかし、一九九〇年代に入ると、精神保健法の成立、保安処分の再検討(「心神喪失者等の医療観察法」の成立)、日本精神神経学会の正常化など、精医連の一部の諸君の介入の余地のない状況が実現する。すでに事実上壊滅していた「病棟自主管理」とともに、このような状況の変化がおそまきながら、精医連の終末を結果した。
 一九九六年六月、精医連は「診療統合」と称しているが、占拠していた赤レンガの病棟、研究室から撤退するとともに、人事面でも占拠組は、全面的に総退陣ということになった。事実上、東大精医連と「病棟自主管理」の消滅であった。わたしに言わせれば、統合などというごまかしではなく、過去三十年を総括して、一九六八年の「東京大学精神科医師連合設立宣言」に匹敵する「終結宣亘言」を遺すべきであったと思う。
 このような反体制運動が東大だけでなく全国の多くの大学で起きたのにはそれなりの理由があった。<0230<当時のわが国の精神衛生法のもとでの精神保健体制の不備、欠陥(悪徳精神病院の不祥事件)、これを放置する国の無策に対する不満、憤りが若い世代の精神科医にあったからだ。もちろん、原因はそれだけではなく、欧米の反精神医学の教祖たち、たとえば、イギリスのレインR. D. Raing 、クーパー David Cooper、イタリアのバザーリア Franco Basaglia、アメリカのサズ Thomas S. Szasz などの翻訳本の影響、さらには一九六〇年代の時代的背景(安保闘争、安田講堂事件に象徴される大学紛争)など、多くの原因がある。問題はこの憤感、憤りをその原因の解決に結びっける手段である。
 東大精医連はその手段に誤りがあった。だから精医連に後継者が育たなかったのである。団塊の世代で消滅してしまったのもその一つの証拠であちう。病棟乗っ取りの諸君のなかには、今では精医連が目の敵にした私立精神病院の雇われ院長に納まっている人たちがいる。
 東大精医連による乗っ取り事件の解決には大変長い時間がかかったが、いま東京大学精神医学教室は完全に復活している。精医連の占拠時代には、研究無用の主張のもとで使う人もなく、壌にまみれ、荒れ果てた研究室も復活、整備された。ニ〇〇一年九月八日、加藤進昌教授の依頼で「第一〇回関東地区研修医合同研修会」で講義をしたおり、一九六九年の封鎖以来足をふみいれたことのない、赤レンガ教室を訪れた。加藤教授の案内で、昔八年問をすごした教授室、病棟、研究室に入ることができた。教授室も昔のままで、タイムトンネルを抜けて昔にもどった想いであった。ことに嬉しかったのは、研究室がすっかり整備され、海馬などの実験的研究が活発に行われていることだった。来年、ニ〇〇六年は榊俶、呉秀三によって創立された東京大学精神医学教室の百二十周年を迎える。二十一世<0231<紀精神医学の前進に役立つ記念行事となることを願っている。

 大学紛争の総括
 一九六〇年代後半から一九八〇年代にかけて日本のみならず、世界を震撼させた大学を中心とする学生運動の意味を、思いつくままに総括しておきたい。
 一番目は戦後の大学と大学生の激増がある。
 大学紛争の主体であった学生諸君は、戦後数年の間、いわゆるべビーブームの時期に生まれた。戦後、粗製濫造といわれるくらい全国に国立、公立、私立の大学、短期大学が作られた。駅弁又学と揶揄された。学生数が激増したことも、スチューデントパワーを生み出す一因であった。一九六五年当時、東京都の学生数は約五十三万、都民二十人に一人は大学生という割合であった。戦前、わたしの学生時代には、学生はいわぱ特権階級の「学生さん」であった。ところが団塊の世代は、大部分の若者たちが大学に入った。その多くは奨学金やアルバイトで学費を得なければならず、学生大衆の「プロレタリア化」とでもいうべき状況が出現した。大学当局による授業料値上げが大学紛争の呼び水となった。
 二番目は、この時代――と言っても、いまでも大した改善は見られないが――粗製濫造の、全国の大学の管理運営に、学生が不満を持つような、さまざまな問題が出てきた。例えば、学生を十把一絡にして、何百人もの学生にマイクで講義するといったマスプロ教育が一般化した。そこには、人間<0232<と人間との血の通った個人指導がない等々、学生の問で不満が山積していった。これに対する異議申したてが大学紛争の発端となった。
 三つ目は、青年に特有な正義感、冒険心、ロマンチシズムが、この時代の高度成長社会の抱える非人間的矛盾に敏感に反応して、大学内闘争から国家権力に向けての反体制闘争に転化したことが考えられる。全国の大学で一斉に燃えあがった全共闘の反乱は、この青年期心理の現れでもあった。
 四つ目は、一九六〇年代初頭からのアメリカによるべトナム戦争(一九七五年四月三十日、米軍敗北、撤退)をめぐる世界情勢の影響があげられる。強力な軍事力をもったアメリカ軍が、ナパーム弾でジヤングルを焼き尽くし、枯葉剤作戦を敢行した。そして、なによりも、貧しい裸足の「べトコン」(べトナム戦争における南べトナムの反政府ゲリラ)を皆殺ししようとすることに対して、世界中で市民、学生が自然発生的に闘いに立ち上がった。フランス、西ドイツなど欧州諸国はもちろんのこと、アメリカでさえ学生や市民のべトナム戦争反対運動が熾烈になってきた。パリでは、学生街「力ルチェ・ラタン」で車を焼いたりする激しいべトナム反戦闘争も行われた。沖縄、厚木などの基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、日本はアメリカ軍の強い味方であった。一九六五年四月には、小田実さんたちの「べ平連」(べトナムに平和を!市民文化団体連合)が結成され、アメリカ支援の政府に抗議するデモなど抗議運動が全国に広がっていった。ここには学生も多数参加した。「べ平連」と全共闘とは直接の繋がりはない。しかし「べ平連」の市民個人の自由な連帯という発想は、学生個人の自由な連帯を掲げる全共闘の発想に通じるところがあった。「べ平連」の運動は全<0233<共闘の運動に対して多分に影響を与えたようにわたしには思われる。
 現在、イラク戦争に反対する運動が全国各地で起きているが、そのほとんどが「べ平連」式の市民運動となっている。将来のことはわからないが、当分は「べ平連」式の市民運動が、戦争に反対し、平和と民主主義をまもる運動の主流となるだろう。

 全共闘の真髄
 最後に、精神科医としてのわたしの所感を書いておきたい。
 いま思うことは、全共闘の闘争は、わたしが大学を離れてからのことであったが、彼らが攻撃の目標にしたのはわたしの次の世代の教授諸君であった。あの闘いは、わたしも含めてだが、戦前世代に対する戦後世代の反乱だった。団塊という便利な言葉を使うならば、大学紛争は団塊の世代の若者たちが、彼らをとりまくさまざまな社会的・政治的欠陥――その多くは戦前の遺物――に対して、それを大学と教授団のせいにして攻撃の矛先を向けたものであった。彼らが叫んだ「大学解体」は学生であることの否定であり、「自己否定」にほかならない。「大学解体」闘争に勝ち目がないことはあきらかであるのに、それでもなお、ゲバ棒を手に機動隊と対時したのはなぜか。無謀な戦いに挑んだのはなぜか。フロイトの無意識のエディプス・コンプレックスでも持ち出さなければ説明はつかないが、それはさておいて、全共闘の闘士であった諸君の多くが、その後、大学に復帰し、あるいは、社会的市民として活躍ししていることからも、全共闘は団塊の世代の青春の一こまと言えるのではないだろう<0234<か。
 東大全共闘の中核部隊として「大学解体」を叫び、ストライキを続けてきた東大医学部全共闘の学生諸君のほとんどは、安田講堂が落城すると、その年の九月、収監中の学生にたいする東京拘置所の特別なはからいで、それまでボイコットしてきた卒業試験と医師国家試験を受験することができ、医師になっている。一九六九年の安田講堂攻防戦で東大全共闘防衛隊長として指揮をとり、逮捕された医学部学生今井澄さんは、翌七〇年医学部を卒業、国家試験にも合格し医師となった。一九七四年、つぶれかかっていた長野県茅野市の諏訪中央病院の院長となり、建て直し、地域医療に尽□された。一九九二年には、旧社会党から参議院議員に当選し、後は民主党の議負として活躍されていたが、二〇〇三年亡くなられた。彼の医師、国会議員としての後半生には、全共闘の真髄であるヒューマニズムと、不条理と闘う情熱が変わることなく息づいていた。
 今、わたしが不思議に思うのは、団塊の世代の次の世代、バブル後の若い世代に、団塊の世代の青春時代のような、活気がみられないことだ。これはわたしの偏見だろうか。全共闘の轍を踏むことなく、ヒューマニズムに根ざした、現代にふさわしい民主的な市民運動がもっと盛り上がって欲しいと願っている。学生諸君の運動も孤立することなく、市民運動と連帯することが望まれる。いまこそ憲法九条を守る広範な市民運動が求められているからだ。<0235<」(秋元[2005:225-235])


UP:20110715 REV:20110807, 20130516, 0814
医療/病・障害と社会  ◇歴史 
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