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『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』

池田 祥子 19900415 明石書店,226p.


池田 祥子 19900415 『[女][母]それぞれの神話──子産み・子育て・家族の場から』,明石書店,226p. ISBN:4750302961 [boople][bk1]

【目次】

第1部 子どもを産むこと・育てること――〈女の思想〉〈母の思想〉を問う
 「子どもを産む」ということ
  1 〈性〉的存在としての人間
  2 男と女にとって「子どもを産む」ということ
 子どもを産むこと・堕すこと
  1 「産む・産まないは女の自由」からの出発
  2 「子どもはわたしの分身」からの訣別
  3 「生命操作」から視えてくるもの
 彷徨いの〈女の思想〉〈母の思想〉
  1 「つくられた女」と「つくられた男」
  2 さまざまな澱みへの攪拌
 保育所制度の根底としての「母性思想」批判
  1 戦後保育所制度の矛盾
  2 現代社会における「保護者の養育責任」および「母性」の歪曲
  3 女性の就労が提起するもの
 「子育て」論議をめぐる問題――『現代子育て考』論議から「アグネス論争」まで
  1 「アグネス論争」をどう読むか
  2 保育所制度の拡充を支えた「育児社会化論」批判の問題点
  3 専業主婦礼賛説への逆行
  4 「家族」「母性主義」批判の視点
第2部 家族と学校――それぞれの場での幻想批判
 近代の男女平等論と女性差別――「母性」「家族」イデオロギー批判
  1 はじめに
  2 近代の男女平等論と「母性」「家族」イデオロギー
  3 「母性」イデオロギーの陥穽
 学校と家族――「家族」の制度・神話を揺るがすために
  序
  1 幻想としての「家族」
  2 制度としての「家庭教育」
  3 抽出される「母子関係」
  4 「性愛世界」「人間の共同性」の復権とは
 公教育のなかの男女平等――近代の「男女共学」論と性差別
  1 「男女共学」論と性差別の構造
  2 なぜ「女=産む性」「女は家事・育児」なのか
 戦後主婦論争の理論課題――「性別役割分業」「家族」のイデオロギーとその構造
  1 はじめに
  2 「性別役割分業」と「家族」のイデオロギー
  3 第一次主婦論争
  4 第二次主婦論争
  5 第三次主婦論争
あとがき
初出一覧


戦後主婦論争の理論課題――「性別役割分業」「家族」のイデオロギーとその構造
* 初出:198703『東京文化女子短期大学紀要』07

■[1 はじめに]

☆「確かに、戦前の『母性保護論争』に端を発する戦後のいわゆる『主婦論争』は、『女の自立』をめぐって、〈外〉に働きに出るべきか、〈内〉に留まるべきか、『主婦』という立場は奴隷的であるのか、より『人間』的、『解放』的であるのか、等々をめぐって、就労している女と『専業主婦』との間で、『不毛』とも見える意見の違いがすれ違いのままに繰り返されてきた。問題は、〈男女平等〉が理念としては確立されたはずの近代資本主義社会において、なぜ今なお〈男〉と〈女〉の性差別が構造化されているのか、なぜ女の生き難さが克服されないのか、等々を見極めることであるにもかかわらず、〈女〉同士が分断されたまま互いに他を非難し蔑み、時には中傷すらしあってきた」(p.191)

「しかし、わたしには、これらの『論争』が決して『不毛』であったとも『もう不必要である』とも思えない。これらの論争の過程で、歴史の推移や状況の変化とあいまって、やはり見えなかったものの多くが見えてきたし、問題の所在がよりはっきりしてきたことは事実である。(…)〈男〉と〈女〉をめぐる状況は確実に変化している」(pp.191-192)

■[2 「性別役割分業」と「家族」のイデオロギー]

「『主婦論争』の決定的な盲点は、『主婦』そのものを問う視点が完全に欠落していたという点であろう」(p.193)

主婦:近代の産業社会成立に伴って顕著になってきた生産労働の場=〈外〉と家庭=〈内〉との分離および核家族化現象の中で、〈男は外、女は内〉の性別役割分業が構造的に顕わになり、その結果創出された〈内〉を司どる女=家事・育児を担う女

☆「したがって、『主婦』という規定性それ自身、どこまでも制度としての『結婚』を前提とし、かつ性別役割分業イデオロギーに支えられ絶えずそれを補強し続けるものに外ならない」(p.193)

上野千鶴子の「家庭擁護論対家庭解体論」という単純な対立軸は成立しうるのか
上野の家族についての理論的分析(「産業社会とは、資本主義と家父長制との妥協の産物である」)への批判:
「少なくともここでは『家父長制』があまりに拡大解釈され過大評価されている。しかも、資本主義は決して家族を私的領域のままに、『ブラックボックス』として放置しておきはしない。『性別役割分業』や近代の〈男〉と〈女〉の対としての『恋愛結婚』イデオロギーを貪欲に活用して、『家族』を近代的に制度化し、そこでの人間関係(男女・親子)を悉く利用する。 / したがって、これまでの『主婦論争』で問題にされたのも、以上のような『家族』の近代資本主義的編成のあり様と実態に対してであり、それの『解体』か『擁護』かという単純な問題ではなかったはずである」(p.197)

■[3 第一次主婦論争]

「石垣綾子の論文は、戦後10年、一層の近代化促進の社会において、なぜか〈女〉の『労働権』拡張の方向は進まず、〈男〉と〈女〉の〈外〉と〈内〉への分離、すなわち『性別役割分業』体制がますます進められ、しかも、それを〈女〉自らが荷担していることに対して、彼女自身の憤りをぶっつけ、〈女〉たちに警告を発したものである。具体的には、〈女〉の『家庭と職場の両立論』を勧めるものである」(p.199)

「このように、主婦の不甲斐なさを石垣綾子が嘆くのは、その背景として、ますます近代化され核家族化され、生産の場から離れた消費単位としての「家庭」の社会的変遷を追認するからであり、『主婦労働=家事労働』の空間的・物理的縮小化に注目するからである」(p.200)

「この石垣綾子の『主婦という第二職業論』は、もちろん『女→結婚→主婦』という結婚制度や性別役割分業を何疑うことなく前提にしている論ではあるが、『主婦』という存在が、経済的には〈男〉に扶養される非自立性を免れえないこと、『家庭』という場がますます生産ではなく『消費』の場に狭められてきたこと、性別役割分業が、〈女〉を『家庭』という私的空間に隔離してしまう状況等々を、鋭く衝いたものとして決して誤りではない。いまなお、その論の一面の真実は評価されてよいと思う」(p.201)

・欠点
◇「主婦」の置かれた状況を、より社会的・客観的に分析するというよりは、〈女〉自身の愚かさの指摘や、心構え論を強調することに終始してしまった。
…ので、…
◇なぜ〈女〉は「主婦」なのか、「主婦」はなぜ十分に自立しえないのか、なぜ「主婦労働=家事・育児労働」なのか、などの点を科学的に深め合っていくための問題提起として受けとめられることが少なく、多くは、「主婦」礼賛の立場からの反発を招くことになってしまった。
◇〈男〉の側の問題をも見据える視点は皆無 / 「職場」すなわち「賃労働」への批判的視点はゼロ、過大評価

福田恆存「誤れる女性解放論」の注目点
「〈男〉と〈女〉の非常に個人的な『愛』の関係世界や、『家族』という『直接的なエロス』の関係世界と、社会的な〈男〉と〈女〉の問題、そこにおける社会的不平等=差別の問題とをどのような関わりの下で考えていくのか、これらは今に引き継がれている大きなテーマではある。しかし当時は、『女よ、職場でも頑張れ』『いや、女よ、家庭に、愛の巣にもどれ』というあまりにも単純な図式に還元されてしまった」(pp.206-207)

平塚・丸岡・大熊の影響力・責任
「石垣綾子の論自体、『主婦』という枠を決して越え出てはいないが、問題意識としては『主婦』とは何か、『主婦』をはみ出していくためには……を抱えもっていた。しかし、以上のような『論争』の過程で、『主婦論争』はその名称通り『主婦』の世界に押し戻されてしまったのである」(p.208)

■[4 第二次主婦論争]

磯野「婦人解放論の混迷」で、「主婦」の「社会的有用性」の公認が求められる

「〈外〉と〈内〉に〈男〉と〈女〉がそれぞれ振り分けられ、〈内〉なる『家族』の場で、〈女〉たちが当然のように『家事・育児』に勤む構図は、まさしく社会的に鳥瞰すれば〈女〉の『愛』による『自主的』な無償行為(労働)が、『無償』ゆえに徹底的に社会(資本主義社会および国家)に搾取されていることになる」(p.210)

「『主婦』による家事労働の『社会的価値』の公認を求めようと躍起になることも、水田珠枝のように『主婦』に『年金制度』を提案することも、結局は『主婦』という社会的あり様を問い返していくというよりは、その前提的土俵の上で『主婦』を認め価値づけることになるのは否めない」(p.212)

「残念ながらまたもや論争は、『主婦』と『働く婦人(主婦)との対立図式の中に矮小化されてしまった。『家族』とは何か、『主婦』とは何か、を問いかける貴重な問題提起も散見されながら、ついに第二次『主婦論争』もまた『主婦』を越え出ていくことはできなかった」(p.212)

■[5 第三次主婦論争]

・武田「主婦こそ解放された人間像」 ウーマン・リブの運動の影響
◇あまりに単純な「生産」と「生活」の二分化
◇武田自身、「社会的生産労働」の価値に逆に囚われている
「戦後の『主婦論争』の過程でも、当時のウーマン・リブの運動の中でも、単純に『外で働く』ことつまり賃労働に就くことそのことが社会的な価値があり、人間の自立や解放にそのままつながる、などと考える発想はすでに多くの人たちから批判されていたことである。しかも同時に、以上のような現存の資本主義的な価値意識を、構造を変えることなく、観念的に逆転させることもまた無意味であることはすでに指摘されている」(pp.215-216)
→問題は、「家庭」の〈内〉と〈外〉とを同時に問うこと

「まさしく現存の価値意識をどこまでも相対化しつつ、〈外〉での〈男〉のあり様と〈内〉なる〈女〉のあり様との相補関係を、構造的に捉え批判していく必要があったであろう。その意味では、この第三次の『主婦論争』は、第一次、第二次の論争の教訓を十分に生かしえていない『不毛』なものであったと言えるかもしれない」(p.216)

「〈外〉と〈内〉の世界に分けられ、〈効率・契約〉の世界と〈愛〉の世界に分けられながら、その実、『無償』のまま『現代版良妻賢母』として〈夫〉や〈子ども〉を〈外〉に送り続ける〈女〉たち。この〈女〉や〈男〉の問題を読み解く際に、『家族』や『主婦』という囲い込みのあり様こそ対象化されるべきであって、その囲い込みそれ自身になおわたし達が拘泥する必要性はいささかもありはしないだろう」(p.217)

※下線部は、原文の傍点部にあたる

*作成:村上 潔(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050722 Rev: 
身体×世界:関連書籍 1990'  ◇BOOK
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