『日本労働問題研究』
氏原 正治郎 19661105 東京大学出版会,483p.
■氏原 正治郎 19661105 『日本労働問題研究』,東京大学出版会,483p. ASIN: B000JA9QE2 \6090 [amazon]/[kinokuniya]
■目次
序章 社会政策の社会理論のために
第一節 社会政策の社会=経済理論の提唱――服部教授の問題提起
第二節 社会政策の社会理論の欠如――大河内教授の服部教授にたいする回答
第三節 社会政策なき社会政策論――岸本助教授の大河内教授批判
第四節 結語
補論1 いわゆる「社会政策論争」におけるわからないこと
補論2 いわゆる「絶対的窮乏化法則」の社会政策学的解釈について
T 賃金
第一章 日本資本主義の賃金構造
第二章 わが国における賃金問題の所在――賃金率を中心として
第三章 賃金体系の一考察――生活給と能率給
第四章 労働時間・生活時間問題の所在
補論1 いわゆる「賃金体系」について――「電産型賃金」の歴史的意義
補論2 女子労働者の賃金問題
補論3 男女同一労働同一賃金
補論4 家庭内職の論理
U 社会保障
第一章 社会保障の理論と日本的条件
第二章 賃金と社会保障
第三章 国民生活と社会保障――わが国における国民生活の社会的性格
第四章 失業政策における「保険」と「救済」
補論 社会保障制度審議会勧告の意義と批判
V 労働市場
序章 労働市場解明の課題と方法
第一章 大工場労働者の性格
第二章 労働市場の模型
第三章 日本農村と労働市場
補論 常用工と臨時工
あとがき
■引用
「すなわち、資本制社会における労働者運動の必然性の第一は、人間の心理的生理的熟練的また意志的機能が物たる労働力として価値をもち、資本の一構成部分たる可変資本と相対立すること、この価値関係の一方の極たる労働力の販売者、社会販売者、社会的担当者が市民社会における商品所有者として市民権を有する労働者であり、他方の極たる可変資本の所有者、社会的担当者が同じく商品所有者として市民権を有する資本家であること、この平等の関係の設定、換言すれば等価交換のための対立がその第一である。第二に、購買された労働力は資本の所有であるが故に、それが生産した労働生産物または価値はすべて資本家の手に帰する。ところで、労働力の特殊性の故に、それが生産する価値はそれが購買される価値より大であり、その剰余たる価値は無償で資本家の手に帰する。この平等関係の上に成立する不平等関係の廃止の要求が、労資の対立の第二点であるとともに基本的である。この対立関係は、大河内教授の論理構造においては、もっぱらその肉体性=物質性のおいて把えらるべき労働力と階級的存在の意義、その闘争の歴史的意義を自覚した社会的要求の担当者として意識化された労働力との間の対立矛盾関係に解消されてしまう。かくて、大河内教授においては、労働運動の第一段階は、この矛盾が存在しないのであるから、少なくとも本格的労働運動ではない。第二段階において、はじめて矛盾が発生し深刻化するのである。」(pp.26-27)
「(…)このように、社会政策の主体としての国家は、資本制生産の発展に対応して形態を異にして現われるが、その本来の機能は、あくまで等価交換(労資の平等関係)と剰余価値生産(労資の不平等)の経済的社会的創出と維持と防衛である。ここに社会政策の経済的社会的限界があるのであり、危機における、すなわち価値法則の破壊が資本制生産の矛盾克服のために不可避になる段階の社会政策は、それ自体危機を深めると同時に、その対極として社会政策の主体転換とそれに伴う形態変化の問題を提起する。かかる意味で社会政策論は、すぐれて社会理論的であり、政治理論的である。」(pp.29-30)
「(…)かくて職業選択の自由を前提とする資本制労働市場においては、適正な労働配置の期待は、賃金率が労働について適正にきめられることによってみたされるといってよい。もしも、賃金率が労働についてではなしに人についてきめられるとするならば、自由な労働市場のこのような機能は失われるであろう。なぜなら、高い能力評価をうけた労働者にそれに応じる労働の機会が与えられるという保証は、資本制労働市場においては存しないらである。とくに勤続給のように定期昇給を固定化したものにおいては、勤続年数が能力評価の基準として不十分であると同時に、不当に労働力移動を阻止する結果になるであろう。労働者の生活が労働の価格たる賃金によって支えられることは、たとえそれが労働者の生活の実情と矛盾をきたそうと、また労働者の生活不安の原因になろうと、それは資本制労働市場の必要の悪であって資本制経済の法則によってしか解決されない。(…)」(p.114)
「以上のごとく、労働と無関係に従業員個々人の生涯の生活を配慮し、その労働に報いる制度は、従業員から無制限の労働と忠誠を期待することができたかぎりにおいて合理的であった。ところで、かかる効果が期待されるためには、次のごとき条件が充たされなければならないことは忘れてはならない。すなわち、かかる賃金は、企業が従業員に一方的に与える恩恵であって労働者の権利でないということである。従業員は、かかる恩恵をうけるかぎりにおいて企業に忠誠を誓う理由があった。企業は、この忠誠によって従業員の労働を無制限に支配することができた。もしもこの関係が破れ、かかる賃金が権利として従業員によって主張されるならば、企業は従業員の労働を支配する保証を何ら与えられない。不定量の労働は、逆に最小量の労働に転化するかも知れないのである。かかる事態は、労働組合による「生活給」の要求によって現実化した。おそらく労働組合は、かかる含意に気づかずに、生活の窮迫と団体的賃金交渉のさし迫った必要から従来の賃金慣行を定式化したのであろう。ところが、初任給と定期昇給率が、年齢給表、勤続給表に客観化され、企業の自由裁量の余地がなくなったときには戦前の生活給思想が本来もっていた支配と従属、恩恵と忠誠の労使関係は崩壊せざるをえない。この意味で、戦後の生活給思想は、想わざる結果として、戦前の労使関係の革命をなしとげたといってよい。しかし、同時に、それは、先に分析したような矛盾を内包していた。この克服は労働者の権利にたいする企業の権利の対決によってなしとげられようとしているごとくみえる。」(p.119)
「(…)これらの労働力は、前近代的経営が、他律的に商品経済に捲きこまれるのと対応しながら、縁故や募集の細い糸をたどって、労働市場に引きこまれる。ところで、これらの労働者は、自らもっている技能の面からも、生活的環境の面からも、近代的賃金労働者としては白紙である。彼らは、その経済的必然性から賃労働市場に押し出されてきたにすぎない。彼らは、その運命を甘受する以外に方法はないのである。しかし、われわれは、かかる労働者意識が、かかる経済基礎に規定されているとしても、逆に日本の労働者の職業的階級的固定性の成立を妨げ、日本的労使関係の再生産の主体的要因をなしている反作用をも認めないわけにはゆかない(4)。」(p.366)
(4)この点については、松島静雄氏のすぐれた研究『労働社会学序説』(一九五一年、福村書店)がある。
「以上のごとく、労務者の階層的秩序は、一方では、深く労務者の一般的性格に根をおろしているが、他方では個別企業との特殊な関連性なしには存在しえない。一般に、近代的賃金労働者が、まず社会的に評価づけられ、それによって生活する以外に方法のない労務者の職業的熟練に、その超企業的階級的連帯性の基礎を求めてきたとすれば、日本の労務者は、かかる意味での階級の中にではなしに、いっそう深く個別企業の階層的秩序のなかに足をふみ入れているようである。この性格は、「階級」という用語の代わりに「従業員」という用語をもって表示する方が適当にみえる(3)。」
(3)日本の労務者の従業員的性格については、本書V補論「常用工と臨時工」参照。
「戦後の労働組合運動は戦前に蓄積された労使関係から必然的に、またそれに規定されて発展した。労働組合運動の発展は、その「身分制度撤廃」「経営民主化」などの要求にみられるように、たしかに直接にこのような日本的労使関係の解体を目標としていた。そして、その解体をいっそう促進したようにみえる。しかし、それは完全に解体したのではない。それは、われわれがながながと分析してきたように、労働組合を秩序維持の一環として組み入れながら、いっそうの発展と再編成の過程を示しているのである。労働組合組織もそれが体制内組織であるかぎり、日本の産業構造に規定されながら、それ自体の発展の途しかたどらないであろう。
以上は、特殊事例研究からの仮説としては、大胆すぎる暫定的仮説である。当然に今後の歴史的実証的研究によって批評再検討されるべきものである。」(pp.399-400)
「以上のように、「常用工」の賃金率決定の方法を分析していくると、次のようにいえる。第一に、「常用工」の賃金は、彼らが実際に行なっている労働の評価にもとづいて決定されていない。第二には、「常用工」の能力が考慮されていないわけではないが、それよりも従業員の生活の必要にたいする配慮と企業にたいする功労報償を制度的に保証している面が強い。換言すれば、「常用工」には、労働にたいして賃金率がきめられていないという意味で、不貞の労働量の提供と、勤続年数が企業にたいする功労の尺度に使われているという意味で、原則として定年退職までの長期の雇用期間の間の企業にたいする忠誠が期待され要請されている。それにたいして、企業は、常用工が提供する労働とは一応無関係に、その生活の保証と功労の報償を与えているようにみえる。
ところが、いわゆる「臨時工」の場合には、このような賃金の観念は存在していない。元来、短期契約の被用者である「臨時工」の場合には、年齢や勤続年数による賃金率の決定は、技術的にも煩雑であり困難である。勢い賃金率の決定は、彼が遂行している職務の難易、それを遂行する能力を基準とする単純なものたらざるをえない。この意味では、「臨時工」の賃金は、労働の質と量に応ずるところの賃金であるといえる。しかし、ここでも次の問題は残される。「臨時工」の職務と能力の評価が、企業と労働組合との間の団体取引によって行なわれていない、その意味で客観的社会的評価をうけていず、企業の主観的評価にもとづいて行なわれる場合には、その賃金率は、競争と個別取引によって、一般水準より低くされる可能性が大きいことである。」(p.463)
「一般に、特定の職業の労働者は、一応、相対的に独立した労働市場を形成し、それぞれ異なった賃金の法則に支配されることが指摘されてきた。それ故、年齢、勤続年数、経験年数など、どの労働者にも共通した属性は、労働の内容を異にしたそれぞれの労働者群において異なった意味をもつはずである。ところが、わが国ではこれらが一応等しい労働評価の基準とされている。しかも、重要なことは、これらの要素をどの程度に評価するかは、企業によって異なっており社会的基準が存在しない。とくに、勤続年数にいたっては、個別企業をはなれては存在しえないのである。以上のように、わが国で、まず労働者一般が意識されるという意味は、実は個別企業との関係における労働者である。このような労働者の存在形態は、まず何よりも、個別企業の重要印であろう。わが国では、極端にいえば、それぞれの企業の従業員と従業員でない労働者は存在するが、労働の性質による連帯性にもとづいた職業社会は存在しないようである。同じ労働にたいしても、企業によって異なった職名が用いられ、また同じ職名で呼ばれていても実際の労働は異なっていることは、この間の事情をよく示している。このような職名の混乱は、実は、職務、労働力の格付けの混乱である。このような混乱は、政府の政策的保護のもとに、特殊な独占を早くからもち、不均衡な発達をとげ、労働力の供給を不断に小農業を中心とした自営業からうけている日本産業の特殊性に根ざしているようにみえる。なぜなら、このような条件のもとでは、技術の跛行性と必要とされる熟練の跛行性、労働条件の不均衡を免れることはできないからである。「臨時工」の問題は、casual laborの問題ではなく、実は、このような日本産業の特殊性に深く根ざしているようにみえる。」(p.470-471)
■書評・紹介
■言及
◆中村 真人 199408 「野村正實著『熟練と分業――日本企業とテイラー主義』」『大原社会問題研究所雑誌』第429号
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/shohyo/nakamura.html
◆野村 正實 200007 「労働市場」『大原社会問題研究所雑誌』第500号,pp.19-21
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/500/500-3.pdf
◆野村 正實 20061226 「労働研究の今日的課題」『公共研究』Vol.3 no.3,pp.25-46
http://mitizane.ll.chiba-u.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?cd=00034488
*作成:橋口 昌治