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『全体性と無限――外部性についての試論』(ポリロゴス叢書)

Levinas, Emmanuel 1961 Totalite et Infini: Essai sur l'exteriorite, The Hague: Martinus Nijhoff, 284p.
=198903 合田 正人 訳,国文社,544p.


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Levinas, Emmanuel 1961 Totalite et Infini: Essai sur l'exteriorite, The Hague: Martinus Nijhoff, 284p. =198903 合田 正人 訳 『全体性と無限――外部性についての試論』(ポリロゴス叢書),国文社,544p. ISBN-10: 4772001018 ISBN-13: 978-4772001014 5040 [amazon][kinokuniya] ※ 0e/1

*文庫版:→200511 熊野 純彦 訳 『全体性と無限』(上),岩波文庫.
 →200601 熊野 純彦 訳 『全体性と無限』(下),岩波文庫.


■目次
序文
第一部 〈同〉と〈他〉
A 形而上学と超越◆B 分離と言説◆C 真理と正義◆D 分離と絶対者
第二部 内面性と家政
A 生としての分離◆B 享受と表象◆C 自我と依存◆D 住居◆E 諸現象の世界と表出
第三部 顔と外部性
A 顔と感受性◆B 顔と倫理◆C 倫理的関係と時間
第四部 顔の彼方へ
A 愛の両義性◆B エロスの現象学◆C 繁殖性◆D 〈エロス〉における主観性◆E 超越と繁殖性◆F 子であることと兄弟関係◆G 時間の無限
結論
原註
訳註
訳者あとがき
事項索引
人名索引


■言及
◆森岡正博, 20011110, 《生命学に何ができるか――脳死・フェミニズム・優生思想》勁草書房.
(pp81-82)
 すでにいないはずの人が、脳死の身体のただ中にいまありありと現われているとき、そこに到来しているものこそが「他者」である。
 「他者」という概念は、現代哲学のなかで様々に用いられてきたが、そのなかでも、生命論の視点からもっとも注目すべきは、エマニュエル・レヴィナスの他者概念であろう。レヴィナスは、「私」の対概念として「他者」を捉えることを拒否する。「私と他者」という図式によって、私が知的にとらえることのできるものは、すでに「他者」ではない。「他者」を他者たらしめているのは、その「他者性」であり、「他者性」とは、それを掴み取ろうとするわれわれの知の包囲を、どこまでもすり抜けていくところに存するからである。「私がもはや〈他者〉に対して何もなしえないのは、〈他者〉について私の抱きうる一切の観念から〈他者〉が絶対的にはみ出すからである(76)」。
 レヴィナスは、「他なるもの」と「他者」を完全に区別する。「他なるもの」は、私がそれを享受し、私の中へと取り込むことによって、私と統合される。だが、「他者」は絶対に私には統合され得ない。「他者」とは、私の意向とは無関係に、私の世界の外部から、一方的に私に向かって「到来する」何ものかである。それは、私という「自己の優位性を根源的な仕方で脅かす」何ものかである(77)。到来する他者こそが、私に倫理の次元を開示する。「他者」とは外部であり、絶対者のあらわれであり、無限であり、真の異邦人である。その無限の到来は、現われるはずのないものが、私の前に現われるという形式を取るのであり、その形式は「痕跡」と呼ばれる。
 脳死の身体のただ中に、他者が到来する。このとき、他者は、「すでにいないはずのひとが、脳死の身体のただ中にいまありありと現われている」という形をとって到来する。そしてこの到来の形のことを私は「現前」と呼んだ。「現前」とは、この世界が合理的に構成されているはずだと考えたいわれわれの知の欲望を裏切って、世界の裂け目から到来する他者の、その到来の形式のことである。私は「現前」と「他者」の関係を、このようなものとして把握したい。

(76)レヴィナス『全体性と無限』邦訳121頁[傍点原文]。熊野純彦『レヴィナス入門』、熊野純彦『レヴィナス』参照。
(77)デイヴィス『レヴィナス序説』邦訳84頁。


◆中島道男, 2003, 「バウマンの社会理論――道徳と政治のあいだ」《奈良女子大学社会学論集》10:23-45.
(pp26-31)
 基礎的・基本的な「あるがままの事実」である道徳的衝動、道徳的責任、道徳的親密さをとらえるにあたって、バウマンが依拠するのはレヴィナスである。道徳的責任は「最初から」ないかぎり、いずれにせよわれわれ人間のあり方そのものに根ざしていないかぎり、どんなに高潔なあるいは高圧的な努力によっても、のちの段階でけっして呼び出されることはない、という先ほどの言明は、いかなる事態をさすものとして理解すべきであろうか。
 バウマンによれば、道徳は顔としての他者(the Other as Face)との出会いであるという。そして、この道徳的スタンスは、本質的に不平等な関係を生じさせる。「私/他者の」、この「バランスのとれていない」、したがってリバーシブルではない性格こそが、出会いを道徳的な事件にするのである(pp.48-9)。「他者とともにあること」と「他者のためにあること」との区別が語られるのも、こうした脈絡においてである。バウマンは、「とともにあること(being with)」は対称的であるという。これとは対照的に、ためにあること(being fbr)は、きわめて非対称的、すなわち、パートナーたちは平等ではなくなる、とされている。「ためにあること」が非対称的であるというのは、他者が私のためにあろうとなかろうと、私は他者のためにある、ということを意味している。他者への私の関係は、けっしてリバーシブルではないのである。道徳的な関係においては、考えられるすべての「義務」と「規則」は、私にだけ向けられ、私だけを縛り、私だけ、ひとりの「私」(an ‘I’)としての私だけを構成する。道徳的な関係においては、私と他者(the Other)とは交換可能ではないし、それゆえ、複数形の「われわれ」を形成するために合計されることもできない(p.50)。
 さて、ここで主張されているのは、責任=応答可能であることと道徳的主体の構成とが同時的であったという(前稿ですでに確認した)論点からもわかるように、「ためにあること」という次元こそ私の構成にかかわる次元だということではないだろうか。この見通しを肉づけしつつより確かなものにするためには、他者と呼ばれているものがいかなるものかがとらえられなければならない。そのために、バウマンの依拠するレヴィナスにまでさかのぼって、顔としての他者ということの意味をさぐることにしよう2)。
 斎藤慶典は、レヴィナスについて次のように述べている。責任=応答可能性とは、「私がその成立の〈起源〉において他者に不可避な仕方で応じてしまっていること――応じないことの不可能性――をこそ、何よりも名指している。したがって、私が私であるかぎり、つねに私は何らかの仕方で他者に応じているのだから、『責任』はそのかぎりで、決して『果たされる(完済される)』ということがない。他者への応答に、〈これで終わり〉ということはありえないのである。私が私であるかぎり、私はいつも他者への責任の下にあるのである――これを『無限責任』と呼ぶことができよう――」(斎藤 2000:155)、と。このように、斎藤のレヴィナス理解からうかがえるのも、責任=応答可能性と道徳的主体の構成ということの同時性だといってよかろう。さらに、斎藤は、l'ontique / l'ethique / le politiqueという三つの次元を区別したうえで、l'ethiqueを、「そこにおいて私が私として成立することになる次元」、「『個人(私)』の成立が問われ」る次元だととらえている(157頁)。このl'ethiqueの次元こそ、他者と私との非対称性によって特徴づけられる「他者のためにあること」という次元にほかならない3)。
 熊野純彦のレヴィナス理解も参照してみよう。熊野のレヴィナス理解も斎藤のそれと異なるものではないだろう。ただ、熊野を参照することによって、レヴィナスのいう他者というものがよりよく理解できるように思われる。熊野は次のように述べている。倫理とは、レヴィナスのみるところ、世界の外部から到来する他者との関係そのものなのだ。――他者を私が構成するのではない。逆である。到来する他者、私の世界の外部から到来する他者のみが、私の単独性を指定し、私を「この」私として、唯一の私として構成する。そうであるならば、そのような他者との関係にあってだけ、つまり〈倫理〉的な関係においてのみ、私は〈私〉でありうる、と考えることが可能であることになる、と(熊野 1999:146-7)。この解釈によって、他者についてもだいぶ明確になってきたのではないか。――他者とは、「世界の外部から到来する他者」だという。
 岩田靖夫は、この他者についてさらにわかりやすくしてくれている。他者とは、岩田に従えば、「現象的世界の存在者であると同時に、現象的世界の存在者ではない。『存在のかなた』が他者のうちに射し込んでいるのである。どういう仕方で。それは、『不在として』としか言いようがない」(岩田 2001:184)。「他者の顔はどこまでも現象である。穴の開くほど見つめても、徹底的に現象である。しかし、その現象の背後から、意味の余剰が意味するのである。それが余剰と言われるのは、それが現象ではないからである。その余剰は、形としては『無』であり、『不在』である、としか言いようがない」(187頁)、と。「『存在のかなた』が他者のうちに射し込んでいる」という言い方にも現れているように、他者とはいわゆる自己−他者関係にある他者であると同時に、そうした他者を超えたものでもある。バウマンにあって、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」との区別が揺らいでいたのもこうした厄介さが関わっていたに違いない。
 今や、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」の区別は明確になったのではないか。すなわち、「他者のためにあること」というのは「他者とともにあること」にたいして垂直に切り込んでいる次元だといえる。現象的世界の存在者としての他者と私との関係を示しているのが「他者とともにあること」であり、現象的世界の存在者ではないものとしての他者と私との関係が「他者のためにあること」ということができよう。後者によってこそ、道徳的主体としての私がはじめて構成される。もちろん、現象的世界の存在者としての他者と現象的世界の存在者ではないものとしての他者とは、まったく別ものというわけではない。「存在のかなた」は他者のうちに射し込んでいるのである。他人と他者とを区別して、他人(other)をとおしてその痕跡がみられる「存在のかなた」を意味しているのがthe Other=他者である、というと明確になるのではないか。ただし、バウマン自身は、この点について首尾一貫した区別をしているわけではない。いずれにせよ、「他者のためにあること」と「他者とともにあること」とを区別することによって、バウマンの思想ならびに彼のレヴィナス理解は深化したといってよかろう。
 いくつかのレヴィナス解釈を手がかりとしつつ、バウマンの言わんとするところを解きほぐそうとしてきたが、バウマンをいわば少し置いてけぼりにしたかもしれない。少し歩をゆるめて、バウマン自身の言葉をひろってみよう。バウマンによれば、道徳的人格(molal person)としては私はひとり(alone)であるが、しかし、社会的人格(social person)としては、私はつねに他者たちとともに(with others)あるという。道徳的人格と社会的人格は明確に区別されている。道徳的人格と社会的人格のこの区別は、「ためにあること」と「とともにあること」の区別に対応している。しかも、「とともにあること」と「ためにあること」の区別は、はっきりと、「他人たちとともにあること(being with others)」と「他者のためにあること(being for the Other)」の区別として語られているのである(Bauman l993:60)。(さきほど述べたように)othersとthe Otherの区別がバウマン自身によってどれほど一貫して意識的に用いられているかについては疑問が残るが、読み手であるわれわれはこの区別を重視すべきであろう。岩田に従えば、the Otherは不在としてotherに射し込んでいる。the Otherとの関連でみるか、otherとの関連でみるかによって、私は、道徳的人格としても、社会的人格としても、立ちあらわれることになるのである。これらの道具立てをとおしてバウマンが主張しようとしているのは、次のことである。――われわれは、社会のおかげで道徳的なのではない。われわれは、道徳的であるおかげで社会のなかに住んでいるし、社会なのである。社会性(sociality)の心臓部にあるのは、道徳的人格の孤独(loneliness)である。つまり、独居(solitude)が道徳的行為の始まりを刻印しているとすれば、共在やコミュニティが現れるのはそれが終わるときだということである(p.61)。この論点こそ、デュルケム道徳論の対極にあるバウマン道徳論の核心である。
 バウマンによれば、道徳は所与である。したがって、「とともにあること(being with)」という存在論的境遇から構築されるのは道徳ではない。道徳は存在論以前(befbre)にある。forはwithより前にあるのである(p.71)。これらのことが意味しているのは、道徳とは人間が生まれつき持ち合わせている身体的な衝動であるといったことではない。さきほど検討したことからすれば、他者=the Otherのためにあることによってはじめて私は道徳的主体として構成されるということこそ、バウマンの主張しようとしていることにほかならない。
 レヴィナスに依拠するバウマンの道徳論の基礎がだいぶ明確になってきたのではないだろうか。存在より前にある道徳の唯一の基礎は道徳的自我であった。道徳のチャンスを失うということはまた、自我のチャンスを失うことでもあるのである。そして、他者のための存在を自覚することが自我を自覚することであり、そのことは自我の誕生である。唯一のものとしての私自身を見いだす別の方法はない。ある意味で、道徳の心臓部にはアンビヴァレンスがある。というのは、私が自由であるのは私が人質であるかぎりでだし、私が私であるのは、私が他者のためにあるかぎりで、ということなのだから(pp.77-8)。
 バウマンのみるところ、レヴィナスの倫理学はポスト近代の倫理学である。近代は、いかなる道徳的近接(moral proximity)も存在しないような公的空間の創造をめざした。この近接こそ、親密性と道徳の領域である。近代は、この近接を除去し、自我と他人とのあいだには、法的規則によってのみ構造化される距離があるべきだとみなしたのである。このとき、個人は、他者の存在とその存在がひきおこす感情とを取り扱うことができなくなる。近代の倫理学においては、他者は、矛盾の具現であり、自我の完成への歩みにおける障害のうちでもっとも荘厳なものであった。これにたいして、ポスト近代の倫理学は、他者を隣人として、道徳的自我の中核のなかにふたたび認めるものである。近接のもつ自律的な道徳的意義の回復がめざされるのである(pp. 83-4)。他者のためにあることを道徳の心臓部とみなす立場がポスト近代的であることは、明らかであろう。
 ポスト近代の倫理学にとって、道徳の「基本的シーン」は、「顔対顔」の、「親密な社会(intimate society)」の、「道徳的パーティ」の領域である。これこそ、道徳的自我の揺りかごであり、ホームである。道徳が始まるところこそ、ここである。道徳はこれ以外の始まりをもたない(p.110)。
 「道徳的パーティ」は、外部から見られるときにのみ、「カップル」「ペア」「そこにいる彼ら(they out there)」に凝結する。外部の視線が道徳的パーティを「客観化」し、それをひとつの単位に、「あるがままに」描写され「操作され」うるものに変える。しかし、道徳的自我としての私の視点からは「われわれ」も、「カップル」も、「欲求」と「権利」をもった超個人的な実体も、存在しない。私の責任、私のケアをもった、私、それに、そうしたすべてを引き起こす顔(the Facc)があるだけである(p.111)。
 第三者の出現ですべては変わる。今や真の社会が現れる。このとき、ナイーヴな道徳的衝動――「道徳的パーティ」の必要十分条件である――ではもはや十分ではなくなる。厳密な意味での社会は、第三者とともに始まるのである。今や、共在について尋ねられるべきさまざまな質問が生じてくる。責任は、ぜひともその限界を求めることが必要となってくる。命令は、無条件であることをきっぱりと否定される(p.112)。
 問題は、第三者をどうとらえるかである――。第三者はまた他者(the Other)でもある。しかし、「基本的シーン」でわれわれが出会った他者ではない。第三者の他者性は完全に異なった種類のものである。二人の「他人(ohters)」は異なった世界に住む。二人の「他人」は互いに会話しない。それぞれは、もう一方が脇に退いているときのみくつろぎを感じることができる。第三者である他人に出会うことができるのは、道徳の領域を去り、正義に支配された社会秩序の領域(the realm of Social Order ruled by Justice)に入ったときにのみである。レヴィナスによれば、これは、国家、正義、政治の領域である。この点を、彼は次のように述べている。「私と他人との関係は、今度は、第三者に、ふたりの平等な者のあいだを決定する至高の判断者に、余地を残さなければならない」(p.113)、と。「道徳の基本シーン」においては本質的に不平等であった自己−他者関係が、第三者の出現によって平等な関係になり、この第三者が至高の判断者としてその関係を律するのである4)。
 ただ、バウマンが説明のためにここで持ちだしている“二人の「他人」”という言い方は、必ずしもわかりやすいものではない。というのは、「他者とともにあること」次元の他者と「他者のためにあること」次元の他者とを一括して他人としたうえで、それにたいするものとして第三者である他人が立てられているからである。「他者とともにあること」と「他者のためにあること」を区別したうえで、第三者との関係を明らかにできないだろうか。斎藤は、レヴィナスに関連して次のように述べている。「私が直面する複数の他者たちに対する私の責任をよりよく果たすために、『正義』という第三の審級を要請し、その実行機関として『国家』という力の主体を設立した」(斎藤 2000:165)、と。斎藤は、この点を説明するために、私と他者との関わりのふたつの次元をもちだす。「互いに世界内に存在する存在者であるかぎりでの私と他人たちからなる『われわれ』の次元と、私が直面する他者の『顔』を介して世界の外部と接してしまう『他なるもの』の次元である。『私』がその存立の基盤をこの後者の次元――「倫理」の次元――にもっているとすれば、『国家』は前者――『われわれ』――の内にその存立の基盤をもっている」(167頁)。斎藤のこの理解は、バウマンにとって重要であったはずの、「他者とともにあること」と「他者のためにあること」の区別を踏まえることを可能にしている点で、バウマンによる説明よりもずっと説得的であるといえよう。第三者は、「他者のためにあること」にではなく、「他者とともにあること」に対応しているのである。「他者のためにあること」は、あくまでも、私の存立の基盤なのである。
 第三者をわれわれが道徳的出会い(moral encounter)において会った他者とは非常に異なったものにするのは、道徳的他者の近接性とは鋭く異なる、その第三者の距離である。第三者の有利な視点からのみ、「道徳的パーティ」は集団に凝結する。同時に、自我たちは比較可能になる。そして、第三者は審判者の位置に置かれる。道徳的自我の非合理的な推進力にたいして、第三者は今や利害と利点との「客観的基準」を設定するだろう。道徳的関係の非対称性はほとんどなくなり、パートナーたちは今や平等で、交換可能で、置き換え可能となる。彼らは、彼らがすることを説明しなければならないし、議論に直面し、自分自身のではない基準との関連で自らを正当化しなければならない。その場所は、規範、法、倫理的規則、正義の法廷のために開けておかなければならない。このように、第三者の贈り物である客観性は、道徳的パートナーたちを動かした愛情(affection)にたいして致命的な、少なくとも潜在的には末期的な一撃を加えたことになる。他者はその個性を喪失し、今やカテゴリー的ステレオタイプに分解された。かくして、私の、ために存在すること(my being-fbr)は、自己保存の課題と集団の保持への義務とに分けられたのである(Bauman l993:114-5)。バウマンは、この、道徳的自我から社会的自我への途上で、すなわち、ために存在すること(being-for)から「単に」ともに存在することへの途上で生じる事態を、屈服ということばで表現している(p.14)。
 他者が多数(the Many)に分解するとき、分解する最初のものは顔(the Face)である。他者(たち)は今や顔がなくなる(faceless)。彼らは人格(ペルソナ)であって、私は今や顔ではなく仮面をあつかっている。顔と人格・仮面は、すでに呈示された用語で言えば、それぞれ、道徳的人格と社会的人格の区別に対応するといえよう。今や、私が誰をあつかっているのか、私の反応はどうあるべきかを規定するのは、仮面である。仮面は顔と同じほどにはあてにできない。仮面は顕わにすると同じほど、隠しもする。道徳的動因の、イノセントで、希望に満ちた確信(confidence)は、不確実性(uncertainty)の、けっして抑えられることのない不安(anxiety)にとってかわられた。第三者の到来とともに、欺隔が出現した。私はこの不安とともに生きなければならない。好むと好まざるとにかかわらず、私は仮面を信頼しなければならない。他に道はない。信頼とは、不安を処理してしまう方法ではなく、不安とともに生きる方法である(p.115)。
 ここまで、バウマンの道徳論の基礎について、なるべく正確な理解をするよう努めてきた。たしかに、バウマン道徳論の基礎にはレヴィナスがある。そこにあるのはレヴィナスそのものだと言ってもいいかもしれない。とはいえ、レヴィナス思想それ自体がけっしてわかりやすいものとはいえない。じつにさまざまなレヴィナス理解がある。たとえば、高橋哲哉のそれをとりあげてみよう。わが国の戦争責任の問題について積極的に発言している高橋は、「レヴィナスの倫理は、つきつめれば、他者の死、他者の傷、他者の苦しみに『無関心ではありえないこと』だ」ととらえ、「こんな『恥ずべき』〈戦争の記憶〉についてはちゃんと恥じるべきだ」。という主張の論拠としている(高橋 1999:221-2)。非常に道徳主義的なレヴィナス像の呈示である。私自身は、こうしたレヴィナス理解が生産的なものだとは思わない。バウマンのレヴィナス理解の方こそ、より生産的だと思われるのである。とはいえ、私が関心をもっているのは、バウマンの社会理論である。私がバウマンの道徳論に関心をもつのも、それが社会理論の枠内に位置づけられたものだからである。この辺の事情は、すでに、第三者論が登場したことからもうかがえるところである。とはいえ、この“道徳と政治のあいだ”を見極めるためには、もう少し検討が必要である。そのまえに、これまで述べてきたバウマン道徳論の意義を、少し別の角度から照射しておこう。

Levinas, E., 1961, Totalite et Infini, La Haye: M. Nijhoff.(=1989, 合田正人訳『全体性と無限』国文社.)
――――, 1974, Autrement qu’etre ou au-dela L’essence, La Haye: M. Nijhoff(=1999, 合田正人訳『存在の彼方へ』講談社.)


◆橋本摂子, 20060331, 「空白の正義――「他者」をめぐる政治と倫理の不/可能性について」佐藤俊樹・友枝敏雄編《言説分析の可能性――社会学的方法の迷宮から》東信堂:123-152.
(pp138-141)
 意味の決定不可能性とは、表象と存在との完全な一致が究極的には不可能であること、換言すれば、存在を表象には還元されえない「無限」として措定したときにあらわれる。無限としての存在に対し、自己の認識は有限であり、その了解内にあらわれる表象もまた有限である。ゆえに、表象の存在への跳躍はつねに失敗し、両者は一致することがない。もちろんひとは表象を通じることによってしか存在を見出すことはできない。その意味で(われわれの)世界は認識をこえることがなく、認識が世界の全体性を規定している。しかし、つねに認識を溢れ出るものとして存在をとらえなおすことは、認識の「外部」を世界に組み込む|あるいは「外部」へと世界を接続する|ことで、この全体性を瓦解させる。
 自我による認識に抵抗するものとしての絶対的他性、これは言うまでもなくレヴィナス以降の認識転換であり、彼によってなされた一連の超越をめぐる形而上学に端を発している(Levinas, 1961=一九八九)。レヴィナスのいう〈他者〉とは、それまでの西欧哲学における伝統的な(存在論的な)「他者」、つまり同一者=主体との同一化が予定された、全体性の一部としてある「他者」に抗して立てられた根源的他性の概念である。すべてを理解し基礎づけようとする同一者にとっては、認識の外にあるものは存在しない。主体の優位性のもとでは、自我の了解に入らないものは存在できず、認識の地平に入った瞬間、他なるものの根源的他性は破壊される。「他者」は吸収されるため、あるいは排斥されるためにのみ認知され、自我を中心とする体系の統一性と優越性を確証する契機へと変容する。
 認識の対象を取りこんで己に同化する、他者の同一者へのこのような還元は、独我論に他ならない。レヴィナスは存在論的帝国主義を厳しく批判し、全体化のダイナミズムに先行するもの、認識の対象とはなりえない、つねに自己の把握をあふれ出る無限としての〈他者〉を再構築/脱構築した。
 レヴィナスの〈他者〉とはもともと全体性に抗して要請された概念であり、独裁論の閉塞性を認識の内側から破壊する契機としてある。ゆえに、不正義全体を包括する正義が、個別にあらわれたものすべてを統合し、それらに普遍的体系を与える仮象としての統制原理であるならば、あらわれをつねに越える無限としての正義とは、認識の消失点を定める限界概念といえるだろう。この二つの視座の妥当性は、証明も反証もできない。どちらが正しいとは言えない限りで、前者から後者への移動は存在論における(その手前での)極めて重大な倫理的転回点をなしている。そしてわれわれの文脈において重要なのは、このような全体性を拒絶する倫理こそが、言説分析の条件となっていることである。真の〈存在〉とは、現象の世界にけっして顕現することのない「不在」|あるいは「存在とは別の仕方」で在るもの|でしかない。存在を認識から切り離し、それ以上遡及不可能な「外部」とすることによって、存在と表象の間隙に構築された「自然」や「必然」を虚構として対象化することが可能になるのである。 この地点において、意味の決定不可能性は、〈他者〉の表象不可能性と重なっていく。そしてここから言説分析を理解するうえで欠くことのできない重要かつ困難な帰結が導かれる。
 その困難とは、決定不可能性によってひらかれたこの間隙が、政治的であると同時に倫理的地平としてあらわれることの二重性に依拠している。レヴィナスの〈他者〉概念にしたがえば、認識の領域に入った瞬間、つまり表象された瞬間に、他なるものとしての存在は真の他性を放棄する。ゆえに〈他者〉の根源的な他性が維持されるべきであるなら、けっしてそれを知識や経験、計算の対象にしてはならない。ゆえにこの倫理の地平において他者を〈他者〉|決して把捉しえないもの、自我のエゴイズムをつねに超越するもの|としてとらえるとき、あらゆる認識は、それ自体が〈他者〉の他性を奪う暴力となるのである。
 この帰結が言説分析にとっていかに破壊的であるかは、容易に看取できるだろう。〈他者〉の超越性は言説分析のもっとも重要な前提でありながら、同時にその射程を、正確にいえば表象の暴力が成立しうる条件そのものを抹消してしまうのである。もし認識それ自体がすでにして暴力であるならば、特定の認識内容に(作成者注 内容 に傍点)見出される力の布置を暴力として析出することに、どのような意義を見出せるだろうか。それらは副次的で派生的なものに過ぎず、より上位の暴力|「存在」のもつ、認識への被傷性|のうちに同収される。それによって言説分析は、あらかじめ暴力として措定されている力を、改めて暴力として見出し告発するというトートロジーに閉じこめられる。根源的他性の認識不可能性にもとづいて表象の暴力を可視化する言説分析は、自らの依拠する前提によって存在意義を喪失することとなるのである。

Levinas, Emmanuel, 1961, Totalite et Infini: Essai sur l'exteriorite, The Hague: Martinus Nijhoff.=一九八九年、 合田正人訳『全体性と無限|外部性についての試論』国文社。


◆遠藤徹, 20061129, 「「気持ちのいい身体」の行方」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:171-196.
(pp179-180)
触れることはすでにある程度自分にとって親密なものを完全に自分になじんだ(familiarな)ものにしようとする行為なのだと言えばわかりやすいだろうか。そのもっとも明白なかたちがおそらく、抱き合うこと、いちゃいちゃすることであり、キスを交わすことであり、セックスすることなのだろう。抱擁と愛撫とが、触れることの「気持ちよさ」の代名詞たりうるのはそれゆえなのである。
 既知のものが未知のものとして立ち現れる
 けれども、レヴィナスやボーヴォワールは、そこにそれ以上の意味があることを示唆してくれる。彼らによれば、抱擁や愛撫、さらには触れることが「気持ちいい」のは、それが単に「親しみのあるものをより親密にする」行為だからだけではない。抱擁や愛撫においては、「親しみのあるものがより親密になる」と同時に、親しみのあるものが「未知のもの」として新たに立ち現れ、あるいは未知の側面を開示し、それがもたらす驚きがぼくたちをも更新してくれるというのだ。それは、自己を拡大する行為であると同時に、自己を作り変える契機ともなる。
 抱擁の理論家と呼ばれるエマニュエル・レヴィナスは、「愛撫を求めることはなにを求めているのかがわからないことを本質とする。この「わからない」こと、この無秩序こそ本質的なものである」(Levinas 1969,p.258)と述べている。レヴィナスによれば、親密な触覚的抱擁としての知覚は、モノをむ行為としてではなく、愛撫する行為として行われる。何を求めてする行為であるのかが「わからない」がゆえに、愛撫は、意識的な感覚を超えた、世界への親密な参与を可能にするというのである。レヴィナス風にいえば、世界は親密に触れられるがゆえに存在するのであり、触覚は単なる感覚を超えた経験世界全体を包み込む感覚なのである。触覚はすべての感覚体験の基礎にあるとレヴィナスは言う。「人はあたかも触れるかのように見、そして聞く」のである、と。

Levinas, Emmanuel, 1969, Totality and Infinity : An Essay on Exteriority, trans. A.


◆鷲田清一, 20061129, 「〈顔〉、この所有しえないもの」鷲田清一編《夢みる身体 (身体をめぐるレッスン1)》岩波書店:221-248.
(pp231-232)
 この裸のまなざしの接触は、真正面からは起こらない。一方がまなざしを向けるやいなや他方が消え入るか、一方が他方を押しのけるというかたちでしか起こらない。ときに、双方が眼を伏せた瞬間に、その瞬間にのみ、〈顔〉のかりそめの深い接触が奇蹟のように起こるということも、たぶんある。
 他者の顔はわたしに切迫してくる。こちらに眼を向けよと、わたしのまなざしを、いや、わたしの〈顔〉を召喚しにくる。それほどの強度を〈顔〉の現われはもつ。〈顔〉は執拗なものだ。眼を伏せても追いかけてくる。
 けれども、〈顔〉はまた儚いものである。すぐに消え入るような脆いもの、傷つきやすいものである。E・レヴィナスの言葉を引けば、それはむしろ「羞じらい」としてある。
 顔は切迫してくる(simposer)が、それを見つめる視線を前にしてすぐに身を退ける。これをレヴィナスは〈顔〉の撤退(retrait)と呼んだ。それは対象となることを拒む。〈顔〉は壊れやすいものだからだ。視線が、見返す眼が、〈顔〉を壊し、歪める。顔面として現われているときに〈顔〉は消失する。かぎりなく近くにありながら、まさにそのときにもっとも遠ざかり、もっとも隔てられているというこのもどかしさを経験したことのないひとなど、たぶんいまい。とすれば、レヴィナスのいう「羞じらい」としての〈顔〉とは、消え入ることそのことで現われるものだということになるのだろうか。あるいは、消え入ることそのことの現われだということになるのだろうか。
 そのレヴィナスに、〈顔〉について書かれたある決定的な言葉がある。「顔は内容となることを拒むことで現前する。この意味において、顔は了解し内包することのできないものである」(レヴィナス 一九八九)。〈顔〉は何かとして理解しうるものではほんらいないというのである。わたしが何かとして理解するようなものではそれはなく、むしろわたしではない何かが、その存在を押しつけてくる、あるいは切迫してくる、その〈外〉の経験そのものが〈顔〉だというのである。
 「隣人の顔は表象から逃れる。隣人の顔は現象性の欠損にほかならない。とはいえ、隣人の顔が現われないのは、隣人の顔があまりにも不意に、あまりにも乱暴に到来するからではない。ある意味では、現われることさえできないほど薄弱な非現象であるがゆえに、現象「以下」のものであるがゆえに、隣人の顔は、現われることなき現象性の欠損にほかならないのだ。」(レヴィナス 一九九〇)
 「〈顔〉は肖像のような形あるものではまったくありません。〈顔〉との連関は、絶対的に弱きものとの連関であると同時に、絶対的な仕方で外に曝されたものとの連関です。」(レヴィナス 一九九三)
 〈顔〉は、見える形、読まれる形という媒介なしに、それの彼方からみずからを突きつけてくる。が、その突きつけてくるものはあまりに薄弱なものである。いいかえると、それは現われすらしない。現われかけては撤退してしまうものである。それは、はすかいに、ちらちら、ほの見えるしかない。じっとまなざすことのできないものなのだ。

レヴィナス、エマニュエル、一九八九年『全体性と無限 ― 外部性についての試論』合田正人訳、国文社。


*作成:植村要 追加者:
UP: 20080516 REV: 20081115,20090730
Levinas, Emmanuel  ◇哲学/政治哲学(political philosophy)/倫理学  ◇身体×世界:関連書籍 1980'  ◇BOOK
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