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押切 真人さんへのインタビュー

2022/06/07 聞き手:田場 太基 場所:ZOOM

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last update: 20220610

■インタビュー概要

実施日:2022年6月7日火曜日 13:00-13:40. 於:Zoom
話し手:押切 真人(自立支援センター おおいた 職員)
聞き手: 田場 太基

■本文

田場
じゃあ、よろしくお願いします。

押切
はい、よろしくお願いします。

田場
まずひとつ、押切真人さんが、別府のCILに出会ったきっかけっていうのを教えて貰っても良いですか。

押切
わかりました。話すの、すげえ長くなるんですけど。

田場
はい、お願いします。

押切 
自分、プロフィールにも書いてた通り、出身が山形県なんですよ。山形県生まれで。高校まで山形県で、小中高で生活していてですね。大学ってなったときに、自分あの、頸髄損傷という障害で中途障害なんですよね。こうやって頸髄損傷になった理由が、スポーツの柔道ってあるじゃないですか。柔道で、試合中の事故で、頸髄損傷になりまして。それが大学1年生のときだったんで、東京だったんですよね。東京で受傷しまして。その後、大学の、医大の救急救命におったんで。その後、機関があったらどこ行くかってなったときに、今もあります福岡県の飯塚市っていうところに、「脊髄損傷センター」っていう。あの、脊髄の方が故障している方が集まる病院があったんですよね。そこで、まあ、治療とリハビリを、だいたい1年くらいしまして。その後に、
どうするかってなったときに、頸髄損傷に特化したリハビリ施設が、色々あるんですけど、大きいのが3つありまして。1つ目が別府の重度障害者センター、もうひとつが埼玉県にある国立のリハビリテーションセンター、あとは静岡県にあります伊東重度障害者センター。この3つが、けっこう、大きなリハビリ施設になっていて。(自分が)福岡の病院に来てたんで、「まあ、別府でいいじゃん」ということで、別府のリハに入ったんすよね。そこでは、結局、2年半くらいですかね、リハビリしまして。そっからどうするかっていう話になって。僕は、リハビリを終わったら、埼玉県にですね国立の職業訓練校、障害者の訓練校がありまして。そこに行く予定だったんですよね。そういった感じで、マンション探したりとか、(埼玉訓練校の)入学の手続きとかしてたんですけど。そこに(埼玉に)行くっていった夏の日にですね、別府、今はコロナでなかなかやれてないんですけど、別府の夏祭りがある、駅前を全部貸し切った夏祭りがあってですね。ヨイヨイ夏祭りとかっていって、花火とかも上がる祭りがありまして。祭りがあるっていったんで、リハビリの施設の友達と、5、6人で、宿泊届を出して、その祭りに行ったんですよ。そして、祭り楽しんだ後に飲みに行ったりしてて。気付いたら、2時とか回ってたんですよね、夜中の。僕、酒自体が強くなくて、もう泥酔状態やったんですけど。もうほんと何もできなくて。結局、お店の人に駅前まで(車椅子を)押して貰ったんですよね、(別府)駅前まで、その店から。そして、別府駅で泥酔状態になっていたら、たまたま、ふたりくらいに声掛けられたんですよ。「どうした?」みたいな感じで。でこう、「泥酔状態になっているんだけど、宿泊届も出してるし、施設に戻れんのですわ」っていう話をしよって。そしたら、「ちょっと泊まるとこあるからおいでよ」みたいな感じで言われて。ついて行った先が、CILだったんすよ。

田場
へええ、すごい面白いですね。

押切
そうそう。自立生活センターっていうのは基本的に、障害当事者の自立の支援、サポートをしてくっていうのが主な柱になってまして。なんで、各センターに体験室があるんですよ。自立生活をする前に、色々な体験をする。まあ、いってみたら、マンションみたいなのがありまして。紹介された宿泊先が体験室だったんですよね。体験室で1泊させていただいて。翌朝、(泥酔から)意識が戻ったのがありまして、色々話聞いてたら、(別府CIL)がこういった活動をしてるっていうのを聞いて。その中で、今も当事者でおるんですけど、あるひとりから、「ひとり暮らしとかしたら、結婚できるよ」とか言われまして。「ホンマですか」みたいな感じで。「じゃあ俺、ひとり暮らしするわ」って言って。(埼玉の)職リハに行くのを辞めて、こっち(別府に)残るっていうかたちがCILに出会ったきっかけになります、最初の。これが出会いですね。

田場
ありがとうございます。大変面白いお話だと思って。この別府重度障害者センターに2年半いたということなんですけど、どういったことを実際やられてたんですか。何か特徴的なものがあれば聞きたいです。

押切 
えっとですね、基本的に、自分がいたときの重度障害者センターっていうのは、一言でリハビリっていっても、細かく分かれてるんですよね。おおきく分けて4つあるんですよ。1つ目がPTですよね、もうひとつがOT、あと、職業訓練。っていうのがあって、職業訓練も3つに分かれていまして。1つ目がパソコン、2つ目がトールペイントってつって絵を描くんですよね。絵を描くやつと、さをり(織り)、いってみたら、機織りみたいな感じですよね。けっこう、重度障害者センターを出たら個人的に、トールペイントの展示会を開いたりとか、さをりとかでカバンとかマフラーとか作って販売しているからもいらっしゃいます。それが3つ目の職業訓練になって。4つ目がスポーツですね。授業でいう体育。体育みたいなのがあって。それでは、外をぐるぐる回ったりだとか、車椅子上で50メートル走とか。そういった体力向上のための授業というか、リハビリがスポーツの訓練になりましたね。理学療法、作業療法、職業訓練、スポーツの4つプラス、あとは週2回、SLっていう時間があって。自由時間ですよね、何しても良いという。基本はフリーで。

田場
ありがとうございます。だいたいこの入所した方って、重度障害者センターに。そこから、修業年限というか、タイムリミットってあったりしますか。

押切
それも、人それぞれありまして。いうてみたら、障害、頸髄損傷って言っても、重度・中度・軽度というこの3つの区分に分けられると思うんですけど。逆に軽度の人ってリハビリが半年とかなんですよ。軽度っていうのは、手がバリバリ動く、車椅子マラソンとかをしてる人であれば、やっぱり期間が短いです。何でかってつったら、スピードが速いんですよね、訓練の進むスピードが。そういった方が半年くらいの期間になります。逆に最重度すぎる、首から下が動かない人がいらっしゃると思うんですけど、その人も意外に期間が短いんですよね。やっぱりやることが限られてるっていうのがあって。訓練内容の幅も狭いんですよね。例えば、衣服の着脱とか入浴とか、そういった訓練とかが全くできないんで。車椅子に乗ることがリハビリと考えている方もいらっしゃるんで、その人も半年から1年くらいになるんですわ。一番長いのが、中度。僕とか。言い方悪いかもしれないんですけど、中途半端というか、中途半端のレベルが一番やることもあるし。ただ、やることあるけど、進むスピードが遅いっていうのがあるんで。そういった方々は、2 年くらい。2年から3年くらいっていうのが、平均的な入所期間になっていて。ただ、2、30年昔は、7年とか8年とかおった人もいらっしゃるということも聞きましたね。今は、だいたい1年から2年が平均的にそれくらいじゃないかなと思います。

田場
ありがとうございます。国立重度障害者センターを出た後って3つのルート(所沢、在宅、施設)があると伺ったんですけれども。どういった割合で選択する人がいるんですか。

押切
割合的に一番多いのは、在宅ですね。多分、90%から95%は在宅になります。あとは、国立の職業訓練に行く方っていうのは、まあ、4、5%だと思うんですよね。逆に、高齢な方もいらっしゃるんですよ。高齢な方だったら、家族介護が難しいという理由で施設から施設。リハビリ施設から老人ホームというか。そういった施設に行く方もいらっしゃいましたね。その、ひとり暮らしっていうのも割合的には少ないと思いますね。


田場
ありがとうございます。別府でひとり暮らしをするっていう選択肢もあると思うんですけど。別府と他の地域との住みやすさの違いとかあったりしますか。

押切
先ほどの続きになるんですけど、僕が施設出てCILに入ってですね。2年くらい経ったときですかね。僕が大学生、怪我して頸損にならんで(ならないで)そのままスムーズに生活してれば卒業シーズンですよね。大学4年とか3年くらいになったときに。いうてみたら、僕の大学にの柔道の同期がみんな就職するんですよ。僕らの大学の就職ルートとしては、警察官とか自衛隊とか消防士とかっていうルートが一番多かったんですけど。一般的な企業とか公務員とか、合格した、道決まったとか聞くんですよ。聞いたときに僕は、CILの活動をしてて。僕も普通の一般企業、企業に入りたいと思ったんですよね。CIL2年間やったあとに、僕仕事辞めたんすよ、CIL。で、国立のリハビリ職業センターに行ったんですよ、僕。所沢ですね。所沢に行って、親と生活してたんです。2年、1年半くらい。でもやっぱり、所沢っていうところも国リハの施設とか職業の施設とかあったから、それなりに環境的には整ってたんですよね。駅の公共交通機関とか、お店のバリアフリーとか、道とかも含めて。所沢自体は、それほどバリアがあるとは感じなかったです。ただ、職リハ終わって就職するつったときに、僕地元、山形の在宅でできる仕事があったから、そこに面接して合格したんですけど。障害者になってはじめて山形に帰ったんですよね、そのときが。たまに、正月、盆とかで1泊2日帰ってたんだけど。長期というか生活するってなったのが、障害者になって初めてて。帰ったのはいいんだけど、あまりにも田舎すぎて、山形自体がですね。所沢と真逆ですよね。いうてみたら、道なんかも全部、農道で。もちろんその、障害者の方が出会うきっかけもなかったし。やけん、周りからの視線も偏見的な目で見られるちゅうのが、山形で。3ヶ月くらいですかね、生活して感じて。それに、別府に慣れてたから、所沢でも障害者の生活が慣れてのに、そういう田舎での生活を体験したら、嫌になったんすよね、もう。「外も出たくねえし、何もしたくねえし」みたいになったときに、CIL。今の自立支援センターおおいたのFacebookとか、ホームページとかを見てたら、「やっぱり、戻りてえな」っていうので、こっち(別府)に戻って来たんすよね。また。今、僕5年くらいになるんですけど。

田場
これって、2000何年みたいなことって覚えていますか。

押切
えっとですね、多分こっち戻って、CILで再び仕事をしだしたのが5年くらいになるんで。2017年くらいに戻って来てるんですよね。在宅で、2016年くらいから1年くらい。在宅で生活してたから、そんくらいですかね。所沢1年半、山形半年、こっちきて5年くらいですね。



田場
ありがとうございます。別府に来て、別府の環境で「ああ、ここが違うよな」ということってあったりしますか。

押切
環境面としてはそれなりに、障害者の人口っていうのが、他の市町村、都道府県に比べたら多いと思うんです。それはやっぱり、国立重度障害者センターがあるとか、太陽の家があるとかっていうのは一番大きいと思うんですわ。割合が多いということは、まちなかで障害がある人と出会うきっかけも多いやろうし。そういった機会があるということで、それが当たり前になってきてそういった偏見がなくなるというか、あると思うんですよね。ハード面もそうかもしれないんですけど、人のソフト面の部分ですよね。「偏見とかない」っていうのが、一番思ってます。制度に関してもけっこう、比較的、条例であったりインクルーシブ防災であったり。障害当事者が活躍できる場っていうのは多いんじゃないかというのは、思いますね。発展できたものじゃなくて、昔から障害者運動をされてた先輩方がいたからこそ、自分たちがこうやって生きやすいような社会になってると思うんですけど。(障害者が外に)出ていくという環境が適しているんじゃないかと思うし。CILって言っても、全国に120とかあると思うんですけど、上手い具合活動している団体と活動いていないという団体がけっこう、差が激しくて。してないところだったら、名前だけみたいな感じだと思うんですけど。こうやって、別府のCILっていうのは、うまい具合にその地域と連携しながら活動してるっていうのが、福祉が向上していくきっかけにもなっているんじゃないかなと思いますね。

田場
ありがとうございます。あと、温泉と障害者に結びついたものって何かしら聞いたり、見たりしたことってあったりしますか。押切さんの中で。

押切
僕が入所してた重度障害者センターがあるじゃないですか。あれっていうのは、戦争の怪我されていた方が療養されるような施設やったと思うんです。そっから、障害があってっていう流れで、今の(重度障害者)センターがあって。温泉に関しても即効的なものはないと思うんですけど、身体温めたり、血行良くなるとかそういったところがあるんじゃないかなと思っていて。僕がいたときはそうではなかったんですけど。昔その「介助浴」とかあるじゃないですか。リハビリの中で介助で入浴する温泉。ヘルパーさんが看護師が入れてくれる温泉っていうのも、温泉の源泉を使っていたんですよ。本物の100%温泉でそういったことをしてたんですけども。今その、機械とかが壊れちゃうらしいんすよ。今は、沸かし湯でやってるんですけど。そういったかたちでリハビリと温泉っていうのは、戦後の兵隊さんたちが療養していたということらしいんで。それなりの健康ちゅうか障害とかには、良いか悪いかと言えば、良い方だと思いますね。


田場
そうですよね。ありがとうございます。あと、実際今でも西別府病院に入られてる方で、どれくらい自立生活を希望されている方っているんですか。

押切
そうですね。今、西別府病院から自立生活をしたいっていう方がいらっしゃって1名。その人の支援に携わらせていただいて。その人は、今年の10月に病院を出ようと準備をしています。それ以外の人に関しては、やっぱりまだまだ、医療ケアや人工呼吸器、気管切開とか胃ろうとか。医療ケアを受けながら、地域生活ができるっていうような選択肢がないんですよね。できないと思い込んじゃっている方もいるんで。その点、そういった選択肢を広げていくために、病院には行こうかなと思っているんですけど。実際、コロナちゅうところで、家族ですら面会できない。ましてや、第三者、訳もわからない俺がこう行ったところで、面会ができないということがひとつあって。今の課題としては、そういった人たちに選択肢を届けたいっていう気持ちはあるんだけど、なかなか、選択肢を届けられないというのが課題ではありますね。ただ、これからコロナが落ち着いてきたなかで、昔、精度が変わって、入院中でも、重度訪問介護の外出とか使える部分があるんで。その制度をうまく利用しながら、ひとり暮らしっていうのはけっこう、ハードルが高いと思うんで。そういった、まずは外出からスタートとして、ヘルパーさんとの関係性づくりとかをしていって。「外で楽しむ喜び」っていうのを外出支援を通して、知っていただいて。そこから、もし「ひとり暮らしを深くやっていきたい」という声が上がれば、本当は良いことではあるんですけど。かといって、「ひとり暮らし素晴らしいね」ってなって、一気に20人出てきますってなったときに、出んのは良いけど、それをサポートするヘルパーもいないんですね。そうそう。ましてや、西別府病院の人とかって、呼吸器付けてる状態の方が多いので。

田場
ありがとうございます。この自立生活を支援する上で、他の施設というか個人というか、そうい
った場面で他にあったりしますか。

押切27:47
今は、在宅の方が多くて。在宅で親元と生活している方がいちばん多いですね。親亡き後の問題とかですよね。そういったところで、ひとり暮らしっていうのが多くて。支援に携わっているのは、西別府病院の方抜かすと、3名いらっしゃって。3名とも24時間(のサポート)が必要な人で。今その人たちは、在宅ですね。2人が親と生活してて。もう1人が、県外の方なんです。熊本の方で。その人は今、ひとり暮らししているんですよ。熊本で。ただ、仕事の関係とかで、仕事を辞める、店を閉めなくちゃいけないということで。店を閉まったらやっぱり、生き甲斐がないちゅうんで、家に引きこもってしまうっていうんで、別府に移住したいという相談を受けて。その人は来年の2月に、別府に引っ越してきて。こっちで」暮らす予定にはしてます。
田場30:07
そうなんですね。ありがとうございます。この別府のCILで活動してきたと思うんですけど、挫折というか葛藤というか、押切さんが仕事に携わる上で、仕事外のことでも。そういったものってあったりしましたか。

押切
僕、そこまで挫折することはないんですけど。ただ、ひとつだけ挫折したかなあと思ったのが、山形出身っていうこともあって。ここの当事者スタッフって県内の方いらっしゃらないんですよ。みんな県外で。九州県内の人が多いんですよね。僕の場合、山形だから知り合いがいないというのが挫折しましたね。なんかあったときにすぐに駆けつけてくれる人がいないっていうところ。友達もみんな山形とかにいるし、家族も親戚もそうです。最初(別府に)来たとき、海外みたいな感じですよね。知り合いが誰もいなかったちゅうのが、周りに誰もいないっていうのが不安ではありますね。あと、怪我して、普通の病院に行って、救急救命に行って。福岡の脊髄の病院に行かないで、一般の病院に行ってたら、周りに頸損の人がいなかったらというんで、多分、挫折した部分もあると思うんですけど。僕の場合、周りに同じ脊損・頸損の方がいらっしゃるという病院の環境にいたっていうのは、落ち込まなかった理由のひとつかなと思います。専門的な病院とか別府重度障害者センターとか、同じ境遇の人がいらっしゃるということは支えになったと思うし。

田場
そうなんですね。ありがとうございます。あと、太陽の家に対する印象ってあったりしますか。

押切 
あの実は、太陽の家、僕面接受けてるんですよ。落ちたんすよ。埼玉の職リハ行ってたときに、太陽のホンダR&D ってあって。日出に。そこ受けに行って、落ちたんすわ。太陽の家ってやっぱ、生産性・効率性を求められるんですよ、やっぱ。物作って、工場の流れ作業であったり。CADとかプログラミングとか。生産性を求められるっていう部分があって。同じ障害者でも、(太陽の家は)軽度の方がいらっしゃるイメージが多いっていうのがありますよね。ただ、障害が重度になってくると、太陽の業務っていうのがついて行けない方もいらしゃって。同じ車椅子でも脊損の方が多いと思いますし。同じ 障害者を雇用している面でも、重度障害者の方には重いんじゃないかということだと思いますね。

田場
そうですか。ありがとうございます。今日は、こういったところで止めさせていただきます。はい。

UP:20220610
生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇病者障害者運動史研究 
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