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「障害者運動の歴史と隘路」

渡辺 克典 2010/05/31
藤木秀朗・坪井秀人編『反乱する若者たち――1960年代の以降の運動・文化』日本近現代文化研究センター, 122p+vi. pp. 97-101

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last update: 20160218


0.はじめに

  障害者運動には長い歴史があります。たとえば、戦前期には盲唖学校設立運動を代表とする視覚・聴覚障害者による社会運動、戦後直後には、1946年からはじまるハンセン病療養所患者自治会の活動、1947年以降の視覚障害者による鍼灸術廃止運動などを挙げることができます(杉本[2008]など)。障害者の歴史は、障害者運動の歴史と切り離して理解することはできません。
  本報告では、障害者運動の歴史において、大学紛争の沈静化、すなわち「1968」後としての障害者解放運動に着目をしていきたいと思います(注1)。まず、現代の障害者運動の焦点について確認おこない、障害者運動の〈隘路〉の提示を試みます。次に、「1968」という地点の歴史的背景を確認し、代表的な障害者運動として「青い芝の会」神奈川県連合会を取りあげます。最後に、青い芝の会による活動の位置付けを、現代の障害者運動が陥る〈隘路〉との関係から考察していきたいと思います。

1.現代における障害者運動の焦点:DPIを中心に

1.1 DPIについて

  ダリアン・ドリージャーは、『国際的障害者運動の誕生』において、DPI(Disabled People’s International)による活動を「最後の市民運動」として位置づけています。

  障害者の多くは、障害者の権利運動を権利のための長い闘いの最後のものとみなしている。つまり労働者、黒人、植民地化された民族、貧しい民衆、女性そして今度は障害のある人なのである。……1980年代になってようやく世界中の障害者は他の市民と同様な参加と平等を求める闘いを開始したのである。(Driedger[1988=2000:23])

  ここで「最後の(last)」という言葉は、2つの意味をもっています。第1に、障害者の権利をめぐる活動が、黒人や難民、女性、子どもといった人びとと比べて遅れて問題化された議論であり、第2に、障害者の権利条約がまさに現代の=最新の問題である、という意味です。
  現代の障害者運動の代表的な一側面をあらわしているDPIにおいて、その特徴はようにまとめることができます。第1に、DPIは「当事者」による活動であることを強調します。たとえば、定款の目的には以下のように記されています。

  この法人は、国内外の障害者団体を通じ、障害者並びに障害者団体に対して、障害当事者の立場から障害者団体の育成、障害者に関する施策の研究と普及、並びに海外の障害者との協力活動等に関する事業を行い、障害者の権利擁護を図ることで個人の独立と尊厳等人権が守られる社会の実現に寄与することを目的とする。(定款第3条)(注2)

  また、当事者という言葉は、会員種別に関する規則おいても確認することができます。

  この法人の会員は、次の2種とし、正会員をもって特定非営利活動促進法(以下「法」という。)上の社員とする。
  1.正会員:障害者が執行機関の過半数を占める団体であって、この法人の目的に賛同し、活動に参加する意志を持って入会した団体
  2.賛助会員:この法人の目的に賛同して、協力を行う個人及び団体(定款第6条)

  第2に、DPIは積極的な政策提言を目指す組織として位置付けられています。これについては、上記定款の第3条の「障害者に対する施策の研究と普及」という一文からも確認することができます。具体的には、障害者の地域生活、障害者差別禁止法への取り組みなどがあげられています(注3)。とくに日本においては、「障害者の権利に関する条約」の締結をめぐって積極的な活動をおこなっています(注4)。
  以上のように、現在の障害者運動の特徴として、当事者性とそれにもとづく政策提言という特徴を挙げることができるかと思います。

1.2 障害者運動の隘路?

  では次に、現代のDPIから垣間見える障害者運動の隘路について考えてみたいと思います。そのために、当事者性と政策提言との両立について取り上げていきます。
  両者について検討するためには、社会運動が社会政策(または社会計画)にかかわることがもつ意味を考えなくてはなりません。たとえば、社会学では社会運動と社会政策は「社会変動(Social Change)」の2側面としてとらえられることがあります。社会学者・武川正吾は、社会運動が社会政策にかかわるときに(1)専門家の協力、(2)対抗エリートの形成、(3)社会運動の(対抗)権力化、(4)部分的利益志向からの脱却といった特徴があらわれると整理しました(武川[2009:68-70])。この枠組みを利用して、当事者性と政策提言の両立がもたらす〈隘路〉を次のように提示してみたいと思います。
  ひとつには、(1)から(3)までの関連として、当事者性と専門性との矛盾がありえます。このことは、たとえば障害者運動という営みが権力化の可能性をはらんでいることを意味します。つまり、障害者運動それ自体が権力化することや、障害者の中での権力関係などを想定することができます。ただし、こちらの問題はかなり複雑な事態となるため、ここでは指摘だけにとどめておきたいと思います。もうひとつ、とくに(4)に関わることとして、障害者の権利という部分的利益から、より公共的な利益を志向するようになっていく事態があります。
  このことを、DPIが取り組んでいる「人権条約」に関連付けると、次のようにまとめることができるかと思います。すなわち、国際的な取り決めとしての人権条約を担保とする政府への政策要求と、障害をもつという当事者性に立脚することの問題があります。前者は「普遍性」を志向するのに対して、後者は「個別性」を志向します。単純化していってしまえば、当事者性は社会計画の普遍性=公共性志向と矛盾する概念です。当事者という部分性と、政策提言という普遍性との両立の不可能性、このことを隘路のひとつとして考えてみたいと思います。
  では、この隘路を課題として定義するとき、「青い芝の会」の活動から見出せることとは何でしょうか。「青い芝の会」についてまとめたのちに、考察してみたいと思います。

2.戦後史における障害者運動

2.1 福祉国家体制への道

  はじめに、戦後史における障害者運動について概観します。国家が障害者(または病者)にかかわる過程には、次の2つの契機がありました。まず、日露戦争から第二次世界大戦にかけての、「全体戦争」との関連があります。この時期においては、徴兵制という仕組みと、戦争による傷病兵(軍人遺家族)をあげることができます。1917年の軍事救護法を代表とする関わり合いは、まさに「全体戦争」という背景の中で生まれてきたものです。
  次に、連合国における福祉国家体制があります。すなわち、ナチスの戦争国家(Warfare State)への対抗としての福祉国家(Welfare State)体制です。これは、1942年のイギリスにおけるベヴァリッジ報告を端緒とするもので、この体制は戦後において社会主義国家に対する修正資本主義体制へと引き継がれていくことになりました。
  このような福祉国家体制は、日本においては憲法第25条において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明文化されました。戦後の国民健康保険法(1958年)、国民年金法(1959年)、老齢・母子・障害者への福祉年金(1960年)、「厚生行政長期計画基本構想」(1961年、生活保護基準の値上げ、年金制度の改善、医療保険の給付内容の充実)、児童扶養手当法(1962年)といったものは、福祉国家としての「最低限度の生活」保障への取り組みでした。
  こういった制度的な編成を背景として、障害者運動は、保障されていない状態の問題化をその出発点とすることになります。言い換えれば、1960年代はその後の障害者運動の方向性を決める政治的な機会を形成していたといえるます。

2.2 「青い芝の会」神奈川県連合会の活動

  福祉国家体制を形成する1960年代の後、1970年に「青い芝の会」を有名にする出来事が起こりました。それが1970年の障害児殺し事件に対する厳正な裁判要求です。これは、横浜市で起きた障害児殺害事件に対して、施設充実を訴えるマスコミ、減刑要望運動をおこなう一般市民に対しての抗議活動でした。1965年に結成された脳性マヒ者による団体「青い芝の会」神奈川県連合会(注5)は、マスコミや市民に対して厳正裁判要求をおこないました。「青い芝の会」はこの要求以後も、ドキュメンタリー映画『さようならCP』、優生保護法改正案への抗議活動などをおこない、当時の障害者運動を代表する団体となっていきました。そのことは、1976年に結成された全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の代表幹事に「青い芝の会」の横塚晃一氏が選出されたことからもわかります。

別表 「青い芝の会」神奈川県連合会 略歴
年代 おもな活動など
1969年 「青い芝の会」神奈川連合会
1970年 横浜市で母親による障害児殺し事件 → 減刑運動に反対=厳正裁判要求
1972年 『さようならCP』上映
1972年〜 優生保護法 改定案への反対活動 ⇒ 重度障害児の中絶容認について(女性団体との対立)
※1974年5月廃案 厚生相「障害者団体が反対しているので削ってもよい」(『あゆみ』1974年7月)
1974年 「弱者救済」を掲げる春闘に参加
1976年 全障連(全国障害者解放運動連絡会議)結成、代表幹事に横塚氏
1977年 車椅子バス乗車拒否に対する乗り込み行動

  では、おもに神奈川県連合会によっておこなわれた「青い芝の会」の活動の特徴はどこにあったのでしょうか。ここには、先ほどの生活保障との関連から次の2点を述べることができます。第1に、それは脳性マヒ者の保障をめぐる主張でした。これは、脳性マヒ者という部分集団のための争いであり、脳性マヒ者の処遇や社会環境に焦点をあてたものです。すなわち、再発防止策としての施設拡充への批判や、減刑嘆願運動を支える構造(差別)への着目があります。
  しかし、「青い芝の会」が残した足跡はそれだけではありませんでした。そこには、生活保障を超えた主張とよべるような特徴もありました。それは、殺す側と殺される側を分割する論理や、それにもとづいた「殺される側」「あってはならない存在」としての自己認識をあげることができます(田中[2005]、倉本[2007]などを参照)。横塚氏の言葉を引用しておきましょう。

  われわれは自らがCP (=脳性マヒ)者であることを自覚する。/われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をおかなければならないと信じ、且つ行動する。(横塚[1974=2007:110])

  横塚氏による主張をさきほどの〈隘路〉との関連でまとめるならば、この主張は(1)普遍性ではなく、分割(=個別化)に立脚し、(2)両者を比較した上で「より劣った存在」として自己定義をする、と考えることができます。では、最後に、このような側面をもつ「1968」後の障害者運動について考えていきたいと思います。

3.「青い芝の会」再考:隘路を超えて

  1968年後の世界に起きたのは、1973年のオイルショックでした。オイルショックは福祉国家に対する見方を変えました。これまで経済発展が福祉国家体制にいきつくという収斂理論(Wilensky[1973=2004])から、各国の状況によって異なる福祉体制が営まれる「収斂の終焉」(ゴールドソープ)をむかえることになります。
  おりしも、同年の1973年は、日本にとっては「福祉元年」とよばれる年となります。それは、1971年参議院選挙、1972年衆議院選挙の両選挙における55年体制の揺らぎであり、1974年移行の経済のマイナス成長期でした(武川[2009:179-180])。日本においても、1970年代から福祉体制の見直しがすすめられていきました。
  こういった1970年代において、障害者運動は労組と協働することになります(注6)。この協働は最終的には障害者運動側にとっては「失意」の経験としておわるのですが、重要なことは、ここで「協働」が可能であったという点にあります。すなわち、障害者運動は部分的利益を追求しながら、1970年代以降の福祉政策を推し進める背景となった高度経済成長の「被害者」たちとの共通性をもつことがありえました。これは現代において「人権」として提示されるような普遍性とは別の回路による連帯でした。ここにこそ、現在の政策志向の障害者運動とは異なる側面をもつ(もっていた)「青い芝の会」の位置づけを再考するひとつのカギがあるのではないかと思います。
  ノリーナ・ハーツは、2001年にジェノバでおこなわれたG8会議に集った人びとの特徴として、「互いに利害が異なり、対立点も多いというのに、参加者の間にコミュニティ意識が感じられたこと」をあげています(Hertz[2001=2003:8])。互いに共通する目標を設定しなくても形成される連帯は、現代の社会においてこそ考察されるべき課題なのかもしれません。「青い芝の会」は、その主張の強烈さや「車椅子バス乗車拒否に対する闘争」(1977年)によって有名になりました。しかし、そういった過激な活動のみに目を向けるのではなく、1970年代へといたる歴史的な背景と、部分的な利益を求めながら他の社会運動団体とも連帯を形成した活動の系譜として、いまなお再考すべきものだといえるのではないでしょうか。



◆注

(1)1968年直後の障害者運動は、大学紛争後の「受け皿」のひとつであったともいわれています。
(2)定款はウェブサイトで確認することができます。http://www.dpi-japan.org/dpi/teikan.html
(3)http://www.dpi-japan.org/problem/
(4)長瀬・東・川島編[2008]など参照。
(5)「青い芝の会」の設立は1957年です。「青い芝の会」の歴史については、荒川・鈴木[1997]、立岩[1995]、廣野[2007]などを参照。
(6)詳細は、荒川・鈴木[1997]を参照。

◆関連文献

荒川章二・鈴木雅子,1997,「1970年代告発型障害者運動の展開」『静岡大学教育学部研究報告(人文・社会科学篇)』第47号.
Driedger, Diane, 1988, The Last Civil Rights Movement: Disabled Peoples' International, C Hurst & Co.(=2000,長瀬修編訳『国際的障害者運動の誕生――障害者インターナショナル・DPI』エンパワメント研究所.)
Hertz, Noreena, 2001, The Silent Takeover, Arrow.(=2003,『巨大企業が民主主義を滅ぼす』早川書房.)
廣野俊輔,2007,「「青い芝の会」の発足と初期の活動に関する検討」『同志社社会福祉学』第21号.
倉本智明,2007,「未完の<障害者文化>」『社会問題研究』第47巻1号.
長瀬修・東俊裕・川島聡編,2008,『障害者の権利条約と日本――概要と展望』生活書院.
杉本章,2008,『障害者はどう生きてきたか――戦前・戦後障害者運動史』現代書館.
武川正吾,2009,『社会政策の社会学――ネオリベラリズムの彼方へ』東京大学出版会.
田中耕一郎,2005,『障害者運動と価値形成――日英の比較から』現代書館.
立岩真也,1995,「はやく・ゆっくり」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店.
Wilensky, Harold L., 1973, The Welfare State and Equality: Structural and Ideological Roots of Public Expenditures, University of California Press.(=2004,下平好博訳『福祉国家と平等――公共支出の構造的・イデオロギー的起源』木鐸社.)
横塚晃一,1974=2007,『母よ!殺すな』生活書院.

◆謝辞

本研究は科学研究費補助金(研究課題番号:21730410)の助成を受けたものである。


UP:20110412 REV: 20160218
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