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「山田真に聞く」

2007/12/23 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜
山田 真・立岩 真也(聞き手)
主催:生存学創成拠点

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last update: 20160123

■■■山田真に聞く


2007/12/23 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館403.404 15:30〜
山田 真・立岩 真也(聞き手) 主催:生存学創成拠点

※このインタビューはたいへんに多い+長い注を付して以下の本に収録されました。どうぞ。
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀――アフリカと世界に向い我が邦の来し方を振り返り今後を考える二つの対話』,生活書院,272p. ISBN:10 490369030X ISBN:13 9784903690308 2310 [amazon][kinokuniya] ※,

『流儀』 (Ways)表紙

■忘れずにとどめておくという仕事

◆立岩:〔二〇〇七年〕十月に、東京で、尊厳死や治療停止の問題について、山田さんと盟友の本田勝紀さん★――脳死・臓器移植のことに関心がある人は名前を知っているはずですが――お二人の主催で、ちょっとした集会がありました★。僕も呼ばれて少しだけお話をしたんですが、その時、『現代思想』が「医療崩壊」というテーマで特集をするという話があって、集会に参加しながら考えていて、山田さんに話を聞いたらおもしろいのではないかと思いついた、今日はそういうことです。
 その思いつきが何なのかということあたりからなのですが、山田さんは一九四一年生まれで、僕は一九六〇年生まれです。今どきの院生はというと、八〇年に生まれても二七歳、八〇年を越して生まれた人も実際にたくさんいます。そうすると、僕と山田さんが二〇ぐらい違って、院生たちとも二〇ぐらい違って、だいたい四〇年ぐらいになる。
 僕はここ(立命館大学)の大学院で教えたりしていて、いま自己紹介してもらったように〔インタビューは公開で行われ、参加者の自己紹介があった〕、今日は山田さんだからそういった人の参加が多いというのもあるけれど、それだけではなくて、この研究科には、病気や障害に関係する研究をしたいという人が割合にたくさん来ていて、それ自体は歓迎なのですが、話したり、書いたりしたものを見ていると、「ああ、そうかこんなことも伝わっていないんだな」とか「知られていないんだ」といったことにけっこう頻繁に出くわすわけです。
 それが一〇〇年も二〇〇年も昔の遠いどこかのことであれば、それも当たり前かなとも思うわけですが、そうではなくて、この国に起こった、二〇年、三〇年、四〇年前の出来事であっても、やっぱり知らない。端的に知らない。知られていないことはいっぱいあるんだなということは、前からよく思うことなんですね。
 それでいいのだろうかと。もちろん、人間の記憶容量には限界があるし、世の中にあることみんなを覚えてはいられない。忘れてしまっていいこともたくさんあるに決まっている。でも、そうとばかりも言えないことも、やっぱりこの領域に関しては、この領域に関しても、あるだろうと思うわけです。
 そういったまずは非常にべたな意味で、「この間何があったのかしら」ということを記録にとどめておく仕事がやはり必要なのではないかということを痛感というか実感する部分があります。日本に限らず、この社会において何が起こって、それが今にどういう形で引き継がれたり、断絶したりしているのか、そういうことが気になる。それはそれとして押さえておきたい。ほうっておけばなくなってしまう、薄れてしまう。それでぼつぼつとそんな仕事を始めていて、ここの研究科が主体になって立ち上げたCOEでも、その仕事の一つとしてやっていこうとしている。
 いろんな人に話を聞いたりしていて、昨日も、数年前にやった横田弘さんとの対談★をひっぱりだしてきて少し直したりしまして、それもその一環なのですが、そうしたことがベースにあります。
 それと同時に、そういう蓄積のされ方とか歴史の経過そのものが、やはり日本には日本独特の流れがあって、他方、例えば米国では、一九五〇年代に人体実験をめぐる事件が起こり、それが倫理委員会のようなものの成立を促し、そこの中でバイオエシックスというある種の学問が成立し、教科書ができ、研究所ができ、辞典ができたりするという、オーソドックスな学問的な制度化・体系化が起こり、現在に至っています★。
 それは学問の世界の内部にありますから、例えば日本の学者、あるいは学者志望の院生たちが過去を紐解くとき、そしてその次を展望していくときに、持って来やすいのはむしろそちら側であったりする。するとその医療や医療の倫理をめぐる議論、社会的な動向について何をわれわれが語るかというと、そちらの方を語るというような状況になっています。
 もちろんそれはそれで非常に大切なことであり、必要なことであるのだけれども、ではこちら側の社会において、そういったことに対応することはなかったのかというとそうではない。ただその形がずいぶんと違う。
 昨日、「山田真に聞く」なる資料を作りまして、そこに、「障害の位置――その歴史のために」という文章――書かなくてはいけなくて今年(二〇〇七年)書いたのですが――そこからの引用を少し載せました。とくに内容があるわけではなくて、名前が列挙されているだけだけれども、様々を問題にしたその人たちは、アカデミシャンとして、自分の専門領域、例えば倫理学なら倫理学の専門家が専門的な主題として、学問的な場所において、本業としてそういう問題を語ってきたわけではない。山田さんにしても、あるいはもっと先輩にあたる毛利●子来●ルビ●たねき●さん★にしても、町医者として、在野、市井からものを言ってきた人たちであるわけです★。
 山田さんは小児科医で、今年だと毛利さんとの共著で『育育児典』(毛利・山田[2007])が十月に出て、順調に売れていると思います。僕は、山田さん、毛利さん、それから後でも出てきますが石川憲彦さんといった人たちの本が一定の読者を獲得していることは、この医療という陰鬱な業界において数少ない喜ばしいことの一つであろうと思っています。そして山田さんや毛利さんの本は学者なんぞを相手にしてはいない。それは表紙を見ただけでわかります。とくに毛利さんの本なんかは、表紙はパステルカラーで、赤ん坊の絵が書いてあって、まずは育児本以外のなにものでもない。そのようにしてやってこられたことに大きな意味があると思います。全体として厳しい中で、山田さんや毛利さんたちの本が読まれているのは、「たまにはわかってくれる人もいるんだわ、安心させてくれる人がいるんだわ」、みたいなね、いっときの癒しを求めてといったことがあるかもしれない。時々、山田さんみたいな人がいて、それから精神疾患の方だったら中井久夫さん★みたいな人がいて、認知症だったら小澤勲さん★みたいな人がいて、それぞれいい人で素敵というふうに話が流れていきもする。それはそれでかまわないんだけども、そういうことだけではないだろうと。書かれていること、取り出してこれるものがあるだろうと。
 最首悟さん★や、亡くなった宇井純さん★のように、大学に籍を置いていた人たちもいます。たしかに大学にはいたけれども、疎まれつつ居座って辞めないぞという感じでいたわけで、東京大学のその学問の中でああいう仕事をしてきたというよりは、例えば自主講座★といった別の形で活動を展開してきた。無職の人もいた。出版社に勤めていたり、小学校の先生であったりした人もいた。むしろ、日本で今記録されておくべきことを担ってきた人たちは、学問の領域にビルトインされた活動ではなく、むしろ在野の活動としてやってきたわけです。
 とすると、医療倫理の歴史の中で、それらをあらためてどう扱うかということになるなら、お定まりのように教科書を読み、学術論文を読み、というのでは間に合わない、捉えられない部分が出てくる。僕は、バイオエシックスが学問化され、制度化されたことに関して、向こうは進んでいるけれども、こちらはそういう学問的な体系化が遅れているとは捉えてはいません。プラスマイナス両方があったと考えています。というか、そもそもある基準をもってきて単純に比較するということにはならない。
 どう知って、どう捉えるのか、これからどういうふうに活かすのかということは、またちょっと別途に考えなければいけない。これはけっこう難しいことで、工夫のしがいがあると思います。
 もっと言えば、「障害の位置――その歴史のために」の中に名前を出したような人たちは、僕ら――六〇年の前後に生まれてだいたい八〇年前後に大学生であったりした人たちのその一部――にとっては、先輩というか先生というか、障害の問題にしても医療の問題にしても、なにか気に入らないことが直感的にあり、どう言おうかと考えたり思ったりした時に、誰のものを読んだかというと、ここに僕が名前を列挙したような人たちということになるわけです。
 僕が山田さんに実際にお目にかかったのは、二〇〇〇年をまたいでのことで、『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』というとてもいい雑誌★があって、山田さんは編集の中心を担っていらっしゃるのですが、その十周年記念の対談をというお話で★、今はない新宿の「談話室滝沢」でお会いしたのが初めてになります。
 ですから、生の山田さんを見るのは、僕が山田さんの本を読みだしてから、二〇年ぐらい経ってからになるわけですが、その人たちのもので育ってきたという思いは僕なり僕らの世代にはちょっとあったりします。
 これには、ちょっとアンビバレントなところもあって、一方では、先ほど触れたように、山田さんたちは先生で、僕らがものを考えるときの基礎をもらったという意識がある。しかし一方で、それをそのままリフレインしていけば次の話ができるのかといえば、たぶんそうではないだろうという意識もあるわけです。では、それに僕らの世代は何を加えていったらよいのだろうか、何を考え出したらよいのか。うまくいったかどうかわからないけれども、僕はそういう仕事をしてきたつもりです★。
 そんなことを思ってきて、やはり前のことを知っていて、今に至るまで活動してきた人と話ができたらなと考えまして、遠路はるばる、東京は西東京市から山田さんにおいでいただきました。
 山田さんの本はたくさんあるのですが、このあいだ山田さんにインタビューをさせていただいた、こちらの院生の生田★に勉強しておけと本を貸したら、そのままになっていて、この場にはこのぐらいしか残っていません。
 例えば、『闘う小児科医』っていう本(山田[2005])が出ていて、大体大学に入ってからのことが書いてあるのですが、結構面白い。山田さんにしても、さっき言った盟友の本田さんにしても、四一年生まれで、いわゆる団塊の世代の手前ですね。団塊の世代は四五年から五〇年ぐらいの間に生まれた人たちで、人文社会の領域だと、今、阪大の総長をしている鷲田清一さんだとか、東大にいる上野千鶴子さんであるとかが大体四八年生まれです★。ちょうど僕の一回り上なのですが、あの人たちが、一八、一九の頃が六八年六九年という時期で、いわゆる全共闘世代にあたるわけです。山田さんはもうちょっと上ですね。医学系は、もともと学校にいる時間が長いので、ずっと居座っているとその端っこのほうで、六八、九年が来ちゃったという感じでしょうか。それから、最首さんは病弱で小学校に九年かかったそうで、その分に大学に入いるのも遅くて、そして大学院にいた。人文社会系の全共闘学生の多くがまさに団塊の生まれであったとすると、山田さんたちはそれより少し上で、かすったというか、はまったというか、そういう時期だったと思います。とにかく六七、六八、六九年というあたりに引っかかってしまったという人たちです。
 もとはと言えば、医学生時代が終わって、医者や研究者になっていく者の身分保障、インターンならインターンをどうするかという辺りから闘争が始まっていきます。その学生が、これから自分の人生をどうやっていくんだ、あるいはその大学の教員との関係でどういう力関係でやっていくんだという、そういう意味で言えばわかる話ではあります。それが揉めて、いろいろな偶然的な事情も重なり、話が大きくなっていく。
 それがその当時起こっていた医療をめぐるいろいろな社会的動向と連接していくあり方、つまり、自分たちの医師としてのあるいは研究者としての身分保障、あるいは大学の機構改革とは違うところで起こっている水俣やスモンとの連続・非連続の関係がどのように起こってきたのかという辺りから伺っていきたいと思います。

■「異議申し立て」と医学生運動

◆山田:僕は大学へ入ったのが六一年ですから、六〇年の大騒ぎは横目で見ていたくちです。六一年に大学へ入ったときの大学は何か荒涼とした状態だった。当時の安保ブントが負けて雌伏にかかった頃で、本当に何にもなくて、私はどちらかといえば民青系の運動のほうに近付いたりしていた。ただその六〇年に負けた連中の中で、「雌伏十年」でもう一度次の安保改定のときに革命を起こそう、みたいな部分が残っていて、それがいろいろな形で自分たちの後継を作ろうという動きをしていたのだと思う。その頃はあまり具体的にわからなかったけれど。
 だから、あの頃「インターン闘争」といってインターン制度に反対したというのは単に口実みたいなものであって、言ってみれば実際に不満があったとかいうよりも、われわれ医学生のレベルで言えば、とにかく何か言いたいことがいっぱいあって、何か言えるようになったから言おう、という感じだった。
 それ以前に社会保障制度に対する論争みたいなものがあって、「医学連」という組織★を中心にした政治的な運動とは別に「医学生ゼミナール」というのがあって、僕はやはりそれに大きな影響を受けたと思う。個人的に一番インパクトが強かったのは、大学四年のときの竹内芳郎さん★が来ていたゼミナールです。彼の話はもう全く難しくてわからなかったけれども、西村●豁通●ルビひろみち●さん★という同志社の教授が来て、今で言う福祉国家論みたいなものを喋っていた。日本の健康保障制度ももとはドイツの社会保障政策の上に連なるものだから、「飴と鞭」である、社会保障制度という飴を与えて、それで別の形で搾取していくのだ、と。これは何か非常に衝撃的だったという記憶はある。
 また具体的な運動ではないけれども、本郷の五月祭で保険制度・健康保険制度についての分析をやったりはしていたので、社会保障政策への関心が生まれたりしていた。
 インターン制度反対という運動は要するに身分の問題についての運動だった。医者も労働者だと規定して、「「労働者として働いているのに、研修だということで給料もくれないのはおかしい。これは労働収奪ではないか」と言っていたのだけれども、実際にはほとんどみんなバイトをやって、結構いいお金をもらったりしていたから、特別生活に困っているわけでもなかった。だからそれほど切実感のある運動ではなかったし、インターン制度について考えることから社会の矛盾に気づいていくというふうになりにくかった。
 実際に七〇年に何らかの形で蜂起しようと考えていた人たちはやっぱり革命を目指すわけだから、日本の社会のことを考え、世界情勢についても目を開いていったわけだけど、インターン制度反対と大学の機構改革というところまでしか考えなかった人は、それで終わりになってしまった。運動が終わったら、それ以上の展開がなかったし、普通の医者になってしまったように思う。
 しかしこうした医学生の運動が行われた後いろいろな運動が出てきたのは、市民があのときまで“抑圧される側が抑圧する側に対して公然と異議申し立てをする”という場面をあまり見たことがなかったのだけど、実際にそういう場面を見て“やってもいいんだ”ということになったからだと思う。例えば患者が医者に対して何かものを言ってもよい、学生が教授に対して「バカヤロー、お前何言ってんだ」という形でものを言ってもよいというのが見えた。今まで異議申し立てをしたいのだけどもできない、そういうことは日本ではしてはいけないのだ、と思い込んでいたのがここで崩れて、それで一斉に異議申し立てが行なわれるようになったのだと思う。
 ちょうど公害だとか、経済成長による矛盾みたいなものが一斉に出てくる時期でもあったし、やっぱり日本の一つの転換点だったと思う。森永ヒ素ミルク中毒★なんていうのはやっぱり転換点の事件であることは確かだと思うのだけれど、あれも学生の運動がなかったら、被害者の運動はああいう形にはならなかったかもしれない。
◆立岩:六〇年安保っていうのは確かに大きな体制に対する反体制運動ですよね。すごく大きいものとそれに対するアンチの運動があって、でも今おっしゃったのは、例えば大学なら大学という組織の中で、下の者が上の者になにか言ってもよいとか、医療という関係の中で患者が医師に対してなにか言ってもよいという、もうすこし小さいレヴェルでの話で、その二つの文句の言い方は若干違う感じがするんです。
 今の話でおもしろかったのは、バックにはそういう六〇年安保云々、社会をどうするかという流れがあって、様々な動きにもつながったという、そういうところですね。
 少し具体的な話なのですが、島成郎さん★は、視界に入っていたという記憶はあるのでしょうか?
◆山田:島さんは入っていない。島さんを継承する人たちはいて、具体的には我々の1年上に、斉藤さんという人がいて、オルガナイザーとしてやっていた。その後ろで島さんたちが何かをしていたかどうかは知らない。島さん自身はあんまりやっていなかったのではないかと思う。
◆立岩:六〇年にばっとやった後、表舞台からは退いていますよね。
◆山田:精神科の運動が始まってから、ときどきは顔を出していたけれども、それ以上のものではなかった。
◆立岩:バックに体制なり社会なりを、なんらかの形で問題にしようという動きがあったからこそという話はそうだと思うのですが、例えば大学、医局、医学部という組織の中で、下の者が上の者に、素人が素人ではない人に文句を言ってもよいというのは、どんな気分としてあるのでしょうか。安保反対とみんなで言って、国会を取り巻くのはうまくいかなかったにしても、そうではなくて、学校の先生に言ってしまおうといったことは、なんとなく、それはそれでありだな、という感じで出てきたのでしょうか。

■大学医学部のヒエラルキー

◆山田:医学部の世界は物凄いヒエラルキーだったし、『白い巨塔』に書かれている世界そのもので、悲しいかなそれは今もあまり変わっていない。もう教授の権限がものすごく強くて、例えば学生のときにもうすでにあいつは教授になるというのが決まっていて、結婚式で誰々の教授が晩酌をしたかしないかみたいなところで出世が決まってしまうという、そんな世界だった。医学部というのは一番出世からビリまで、非常にはっきりランク付けができてしまうような社会なんだよね。全員とにかく同じ職に就くというのは異常なことだと思うのだけれども、とにかく全員医者になる。しかも、大学に残って大学のプロフェッサーになるのが偉くて、開業医になるのはだいたい挫折したやつがなるというのがはっきりしている。ある時期までは最初に東大の教授になったやつが一番出世で、途中からはその順番が関係なくなって、要するに大きい科の教授であるか小さい科の教授であるかということになる。
 だからやっぱりいろいろな不満はあったわけだし、言うことはいっぱいあった。そういうものが、たまたまそのインターン制度反対運動みたいなことをやったらよく見えてきたから、それに対して一斉に声が上がったということはある。
◆立岩:でも、そういうヒエラルキーがうまく機能している分には、そういう仕組みだということをみんなわかりつつ、それがまさに円滑に作動していくということもあるわけじゃないですか。偶然的なこともいろいろあったのでしょうが、それに対してそうじゃない形が出てき得る、出てきてしまったというのは、どういうことなんでしょうか。
◆山田:とにかく全体としてはそういう非近代的な医学界の構造をどうするかというところに留まってしまったから、その後の発展がないのだけれど、でも運動のなかでいろいろ気づかされたことはある。
 一つ例を挙げると、これはあまり大した運動にはならなかったけれど、当時「学用患者」という人がいた。学用患者というのは、入院するときに学用患者としての誓約書みたいなものを書いて契約する。入院費はタダになるけれども、その代わりにいくら人体実験しても構いません、と。要するに入院費をタダにして何をやってもよいという話だから、例えばコレステロールが増えるかどうかを調べるために三〇日間ほとんどチーズだけ食べさせるとか、かなり酷い実験があって、しかもそういうことが平然と行われているという事態があった。
 ウェレサーエフというロシア革命のころの医者が書いている『医者の告白』という本があって★、医者が患者さんに行なっている人権侵害がいろいろ書かれていたけど、やっぱり「ああ、今も同じだよ」という感じがあった。医者たちはそうやって自分の権威性みたいなものをほとんど認識できない形で患者に接している。それがやっぱり授業の中でも日常の医療の中でもある。その辺でその問題性に気付いて、大学の中ではどうにもならないと思って出ていったのかもしれない。
◆立岩:その辺のコンテクストですが、医療倫理の薄い教科書ぐらいだとナチスの人体実験があって云々、という話になっています。ただ、ニュルンベルク裁判自体が医療界に具体的にインパクトを与えたかというとそうでもなく、それはあまり響かなかったというんです。例えば米国だと五〇年代に患者の同意を得ない形での人体実験があって、それを一部の医師が告発する。それも『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』といった権威のある学会誌を舞台にしてやっていって、それが社会的な関心を起こしていく。つまり、いったん大戦の話と切って、その国に固有の話として出てくる。そして学界のメディアが使われ、学界がある程度の対応を迫られる。
 日本の場合、どういうふうに、どういう場であったのか、というのはちょっと気になるところがあります。それは最初に私が申し上げた、この間の運動がどこを場として行われてきたのかということにも関係があると思います。
 七三一部隊のことがどれだけ眠っていて、いつ頃出てきたのだという話も一つありますよね。それも一つある。例えば中川米造さん★の、根っこの一つはその辺りだという話を間接的には聞いたことがあるんですね。では外国のことはどうか。例えば第二次大戦におけるドイツのT4作戦と言われているものについての本格的な研究書の日本語訳が出るのは、九〇年代なんです。それまでそういうものはなくて、例えばクレーという人の『第三帝国と安楽死――生きるに値しない生命の抹殺』という本が今出ていますが★、当時はなかった。その当時、ドイツにせよ何にせよ、そういったところにおける人体実験みたいなことも含めた情報・知識はどういうふうにどの程度伝わっていたのか。そうしたものに何かしらの影響を与えられたのか。その辺りはご記憶にある範囲内ではいかがですか。
◆山田:あまりなかったと思うね。九州大学では生体解剖をやって問題になっていたということだけれども★。だけど到底そこまではいかない。
 もっと身近なところでは、六八年ぐらいだったと思うのだけど、東大の中で高圧酸素タンクが爆発して、医者が一人と患者さんが一人亡くなったことがあるんです。台湾か中国から来た留学生だったと思うのだけれども、大体留学期間が決まっているから、その期間内に博士号を取って帰らなきゃいけなかったらしい。もう期限が迫っているのだけど、学位が取れない。それで教授に相談したら、どうやらたまたまその教授が高圧酸素タンクを使っての治療を自分の成果にしたかったらしい。やっぱりかなり怖ろしい方法だから、教授自身は手をつけなかったのだけれど、じゃあそれをやってみろということになって、高圧酸素タンクの中に入った。患者さんはほとんど治療の必要のない退院間際の人だったのだけれど、無理矢理説得してその中へ入ってもらった。タンクは金属製品を持って入ると爆発する危険があるのだけれど、眼底カメラを持って入ってしまって、それで爆発して四人が亡くなった★。
 これはいかにも当時の大学にありそうな事件で、普遍性を持っていたと思う。われわれが追及したのはその脳外科の教授だった。その教授は物凄く悪いやつだったから、脳外科の教授を攻撃するための材料にその事件を使ってしまった。実際に中へ入ってしまった医者だとか患者さんについて考えるということはなかったと思う。やらせた教授の問題ではなく、学位の問題とか、それからやっぱりそういうことのために患者さんを引っ張り込んでしまったことだとか、それからあるいは留学生に対する問題だとか、いろいろな視点があったはずなのだけれど、そういうものが出てこなかった。
 もう少しそこをきちんとやれば、別にその教授だけが悪いのではなくて、われわれだって同じように手を汚すのだというところへ行けたのだろうけど、それはついに行かないままで終わってしまった。だから告発者としての位置というか、告発者として自分の方へもう一回目を向けてみるということができなかったんだよね。それはあえて運動中心的にやっている人がさせなかったのかもしれない。そんなところでウジウジしているんじゃなくて、それをきっかけに一本釣りして革命家の方へ、というふうに一方では考えられていたわけだから。問題設定がそもそもできていなかったということはある。
◆立岩:今回の話の文脈そのものの中心というわけではないのですが、気にはなっていて、例えば、僕らがギリギリ読めたもので言えば、七三年ぐらいだと思いますけど大熊一夫さんが『ルポ精神病棟』という本を出して★、あれはかなり話題になったし、やっぱりあの時期それなりの影響力を持ったと思うんです。僕も読んでいて、また二〇年ぐらい経ってちょっと読み直してみたんですが、ナチに関する言及が少しある。元本が何なのかと思って見てみたら、ベルナダクというフランス人が書いたもので、六七年に原著が出て、六八年かな、翻訳が早川書房から出ている、その本★に言及している。基本的には人体実験のお話で、最後の章に、T4作戦という、言葉そのものは出てこないけれど、障害者の抹殺の話が出てくる。その部分の知識といったものが、当時どの範囲であったのか、当時を生きていた人たちに会ったら聞くことにしているのだけれど、やっぱりそんなにメジャーなことではなかったのかしら。
◆山田:ほとんどなかったと思う。
◆立岩:刑法学者の平野龍一さんとか、ああいう人の本にもちょろっとは出てくるのだけれど★、そのへんの世界史的な流れとの連続、非連続みたいなものがどの程度あったのか、少し気になるものですから、ちょっとお伺いしてみたんです。

■森永ミルク中毒被害者の告発

◆立岩:話は前後するでしょうから順不同で聞きますと、要するに当時あったことで、わかってないこと、知られていない部分がいろいろある。今日、学校に来たら本が届いていて、『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』という和光大学で最首さんたちがやった講座の記録ですけれど★、開いてみたら、山田さんがまたでてきた。水俣に関しては、それでも足りないとしても、原田正純さん★とか、いろんな人がずっと長いこと追ってきて、本も出て、映画も撮られている。ただ、他を考えたときどうか。
 その当時、スモンやいろいろあって、その一部は取り上げられたけれど、知られていない部分もある。そして、六〇年代、七〇年代において起こったことには、その時点では語りにくいような出来事もあったりして、そのままずっと語られないことが、いくつもあった。
 例えば同じ告発する側の内部における意見の対立や齟齬は、裁判において原告の利にならないから、語りにくい。それは戦術として当然のことだと思います。ただいつまでもそうであってよいということはないわけで、その辺りはどうだったのか。
 森永ミルク事件の裁判でも、ずいぶんいろいろあったというお話をお聞きしたこともありますし、この山田さんの本の中でも一部分取り上げられている。社会科の教科書にそうした事件があったということは述べられている。しかし、事件の内実、内部で起こったことは明らかではない、五〇年代に始まって、いったん終息したようになってしまった後もう一度問題にされ、そしてある種の「解決」があったのは七〇年代で、その間二〇年弱の時間があった出来事だというリアリティが僕自身なかったんです。われわれの世代以降はその程度なんです。その当時に始まっていたのだけれどもなかなか中でいろいろあったりもした出来事の内実を、少し伺えればと思います。
◆山田:森永が最初だったんだろうね。安田講堂が落ち、その主力が捕まっちゃって、残っている部分でとにかく何か運動を続けていかなきゃと思った。いわゆる活動家、当時で言えば学生と労働者が引っ張って、という運動がもうできなくなっているから、これはもう市民運動に依拠するしかないだろうという感じになった。それで高橋●晄正●ルビこうせい●さん★をひっぱりだそうということになった。
 晄正さんが東大闘争の中に登場してきたのは、東大闘争のきっかけになった「春見事件」だね★。そのとき処分された学生の中に、現場にいなかったT君が現場にいたということにされて処分されてしまったということがあったのだけど、それを晄正さん流の科学的実証主義で、彼は確かにその日九州にいたということを精神科医の原田さんという人と二人で実地調査までして証拠を挙げた★。われわれはどうして高橋さんがあんなに一生懸命やっているのか、当初よくわからなかったのだけど、その後、これはいかにも高橋さんらしい行為だということがわかった。
 高橋さんは非常に誠実な学者で、たまたま自分が物療内科にいて、物療内科の教授から製薬会社のグロンサンの検討会へ行けと言われて、それで行ってみたら驚いた。そういう製薬会社の研究会に来ている医者はみんな提灯持ちで、効くという宣伝をしているにすぎない。論文や何かもいい加減なものがそのまま通る★。それがきっかけになって日本の医療に疑問を持つようになったし、医学者の不誠実にも怒りを覚えるようになった。
 高橋さんはよくいろいろなところへ行って発言したけれども、科学論争をやったら彼の正確さに誰もかなわない。みんないい加減なことやっていたんだよね。それで、「医者は腐敗している、薬の効果なんていうものはみんな捏造されたデータによって示されたインチキな効果である」ということを言い出して、独自に告発を始めて、それが大衆の支持を得ていた。本も物凄く売れたりしていたから★、われわれとしてはやっぱり高橋さんを広告塔として担ぎ出さない手はないという、今考えると高橋さんに大変失礼な発想で高橋さんを代表にして、市民運動として再生しようと考えた。
 ちょうどその頃に水俣だとか森永だとか、スモンはちょっと遅れるのだけれども、いろいろな運動が出てきた。それはもうサリドマイド★だとか、大腿四頭筋短縮症★だとか、未熟児網膜症★だとか、後から後から薬害を告発する動きが出てきた。今だって薬害や医療被害はあるけれど、みんな声を出して告発しないから出てこないだけだよね。
 一方われわれの運動の流れとしては、大学が悪いだけじゃなくて、学会だってよくないじゃないか、それなら改革しようということで、学会闘争を始めた。当時の小児科学会は乳業四社――森永・明治・雪印・和光堂――が全部仕切って、医者の面倒を見てくれるというシステムになっていた。だから、その四社と縁を切れみたいなところから運動が始まった。
 そんなとき、学会の会場へ森永ミルク中毒の被害者が来た。われわれは森永ミルク中毒という事件があったということもよく知らなかった。被害者の石川さんは「小児科学会の医者が自分たちの健康診断をやって『被害なし』と診断書を出したお陰で、長い間偽患者扱いされた」という話をした。先輩の医者たちがやったことではあってもわれわれにも責任がないとは言えないという意識は、そこで初めて出てきたのかもしれない。
 被害者本人が来て、告発をして、それで総体としても医者の責任を問われたということが、そういう場所で初めてあった。それまで医者が患者に責任を問われることなんてなかったから。“世の中には良い医者と悪い医者がいて、良い医者が悪い医者を告発する”という構図になっていたわけだから、“その告発しているお前らも同罪なんだぞ”というふうに言われる経験がずっとなかった。でも、われわれはその初めての場所に立ち会えた。
 小児科の医者で今も活動しているのが結構いるのは、やっぱりそこから始まったからだって思うんだよね。恐らく精神科と小児科以外は、そういう場所には立ち会えなかったと思う★。
◆立岩:突き上げをくらってない。
◆山田:うん、くらってない。
◆立岩:ご本には、そうやって患者が出てきたけど、学会員は大勢としてブーイングで、冷たかったと書いてありますね★。そんな感じだったんですか?
◆山田:それはそうだよね。
◆立岩:なんでこの人来たのというか。精神障害で言えば、その後は、もう勝手にやってきて壇上占拠といった形になりますよね。そもそも、この時、森永ミルク中毒の被害者の方が小児科学会にやってきた、そのいきさつは覚えていらっしゃいますか?
◆山田:学会が騒然となっていたことはわかった。最初のところはわからないけれど、岡山の被害者で高校生だった石川さんが来て、自分で告発したわけで、岡山では何かしら連絡があったんだろうね、きっと★。
◆立岩:その当時、すでに学会には内紛というか、ゴチャゴチャした状況になっていたんですか?
◆山田:そう。鳥取での学会を粉砕したといったことがあって、それこそ演壇占領してみたいなことはやっていた。
◆立岩:精神科と小児科に関してはそういうことが少なくとも一時期あったという話は聞きますけれども、他にはあまりそれは広がってないんですか?
◆山田:広がらなかったね。内科なんかが少しやったけれども、ほとんどなかった。
◆立岩:小児科学会の中が流動化している情勢の中に、石川さんがやってきて話して、大勢としてはブーイングだけれども、一理あるというか、言われるだけのことはあるというふうに山田さんは思ったということですか?
◆山田:それはもう、とにかく話を聞いただけで、これは先輩である小児科医たちが酷いことをやったんだなというのがわかるようなものではあったよね。それに何となく予備的に知識もあったような気はする。広島なんかで運動をやっていた青医連の医者たちは森永ミルク中毒のことをもう知っていたと思うし、彼らが最初は被害者と繋がっていったのだと思うのだけれども。

■被害者−支援者、裁判−直接行動

◆立岩:それ以降の山田さんたち、あるいはもうちょっと大きいところでもよいのですが、医療者の患者たちとの関係の仕方、繋がり方は、どんな経緯を辿るのですか。
◆山田:その後、森永に関して言えば、われわれは「森永告発」と言われる組織を作って、不買運動をやったりした。また一方では、被害者の健康診断をやったりした。だけどそれはもう副次的な話で、主に森永の会社に行って、糾弾して騒ぐということをずっとやっていたよね。
 実際に裁判になって、われわれ告発する側は裁判結審までやらせようと思っていたのだけれど、途中で和解したということがあった。告発する側は和解に反対するということだったから、そことは運動を一緒にやれなくなって、それで抜けたわけ。
 東京での森永ミルク中毒被害者運動の始まりについても触れておこうかな。一九七〇年当時東京には森永の被害者はいないということになっていたのだけれど、どうも東京にも被害者がいるらしいということで、僕ともう一人、黒部という小児科医と二人でいろいろなつてを辿って被害者の家を廻ったりもした。東京でも砒素入りのミルクを飲んだ被害者がいたんだ。こんな経緯で被害者組織を二人で組織したようなものだから、東京はちょっと他とは違うでき方をしたわけだ。他の地域はみんな被害者自身が作った組織だったのだけれども、東京はそういう組織だったし、それで非常に僕らと被害者との関係が深いということもあったから、森永告発が手を引いた後も、二人ともそのまま残って付き合うことにはなったわけ。
◆立岩:どこかで和解するのか結審までずっとやるのかという対立が起こる。常にどちらももっともなわけです。
 その両方もっともな、その間に、内部に、いろいろなことが起こるわけですね。例えば、法律家・弁護士と、支援する医療者がいて、本人がいて、家族がいて、少なくとも関係者が三者か四者かいる。そうすると、その目標設定が各々違ってくる。もちろん患者の中にも違いがある。その中でどこが主導権を持ってやるのか。それが結局どういう事態を起こすのか。そういうことは森永に限らず起こってきたし、今も起こっていますよね。
◆山田:医療裁判はやっぱり医者と弁護士が主導していて、被害者抜きになっていることが多い。だから、松下竜一さん★たちがかつて豊前火力発電所反対で運動したときのように、裁判を医者や弁護士なしで被害者だけでやったほうがすっきりしているし、よい裁判ができそうに思えたりもする。われわれが市民運動を始めようとしていた時期に、本田なんかが中心になって「日本の医療を告発する医者・弁護士の会」という支援する医者と弁護士の会の集まりみたいなものをやったことがあるのだけれども、僕はそういうのは好きじゃなかった。「被害者は医療のことはわからないし法律のこともわからないから」ということでほとんど弁護士と医者が主導して運動を進めてしまうことになりがちだから。
 水俣に関わっている後藤孝典さん★という弁護士は、「医者と弁護士の間でも裁判に対する姿勢が違う」と言っていた。「医者は負けても平気だから非常に困る」と。本当は医者というよりも、あの頃の活動家がそういう言い方をしていたというのがあるんだけど。「裁判には負けても究極的には負けてない」とか、「何度負けても最後に一回勝てばいい」とか、「負けても歴史的に意味がある」という言い方をしていた。
「やっぱり裁判は勝たなきゃしょうがいないのであって、負けたものに歴史的な意味はあまりない、と私は思うんだけど、医者の側はそういう言い分けをする。それで結局患者さんが時間をかけて、お金をかけて、最終的に一銭も取れない状態でも、『理念的に勝ったのだから意味がある』とか言うんだから、やっぱり医者は第三者で無責任だ」と後藤さんは言っていた。
 現実のこととしては一時、被害者がぼくたち医者のところへ被害を訴えて来ると、「やろう、やろう、裁判やろう」という感じで、みんなで煽って裁判をやらせるみたいな時期があった。ほとんど一件も勝てないという状態だったのだけれども、「たくさんやっているうちにはそのうち勝てるようになるかもしれない」みたいな話があったりしたんだよね。
 スモンの裁判を最後までやった古賀照男さん★という人がいて、彼がやった裁判は本当に被害者自身の裁判だったと思うけれど、そういうふうに被害者自身が方針を決めて進めていくという裁判は少なかった。弁護士が自分の利害も含めて、引くべきか進むべきか考えて、それでやめたり、進めたりしていたようなところがあったと思う。それはもう今も薬害C型肝炎訴訟でもなんとなく垣間見られるような気がするけど、考えすぎかな★。何か被害者の思いと弁護士の方針が少しすれ違っているような気がする。
◆立岩:一本気で、これが正しいと言えばいいんだという医者はいるでしょうね。弁護士は、落としどころというか、取るもん取らにゃ、と。そんなことはあると思います。医療サイドにしても法律サイドにしても、あるいは患者サイドが主導権を持つ場合と、裁判の闘い方の形態が変わってくるものなのだろうか。それはどうなのでしょう。
 本人としては、裁判を終わるのを待っていたら「俺死ぬかもしれない」というのがある。でも、適当なところで和解になったら悔しいというのもある。そう意味では本人自身が裂かれているというか、両方の望みがあると思うんですね。そうしたとき、本人の中でも和解でいくのか、最後までいくのか、分かれる部分がある。で、いろいろな人たちが引っ張っていく中で、どちらの方に傾きがちになるのか。
◆山田:僕が関わった範囲、例えば医療事故による個別の裁判で言えば、被害者は実際に賠償金を請求するという形でしか裁判ができないから、金を請求しているけど、金をいくらもらっても済む話ではない。要するに、手をついて謝ってほしいということで始まるわけだよね。でも示談である程度のお金が出ることはあっても、ほとんど手をついて謝ってもらえる光景には出会えない★。
 裁判なんて本当に悲惨なもので、被告なんてほとんど出てこない。全部代理人で、代理人同士が遣り取りすることで終わってしまって、それで、原告が出てきても被告にいっぺんも会えないままで終わってしまうとかということがよくあった。そうすると、例えば弁護士の利害から言えば、謝ってもらったってしょうがないというか、実質的に取るもの取らないとしょうがないわけだよね。確かにお金を払わないでただ謝るという形になることはあり得ないといえばあり得ないから、しょうがないのだけれども。とにかく患者さんの思いというものが裁判の早い段階で抑えられてしまって、裁判はこういうものだからこういうふうになるんだよ、と言われて、なんとなく納得できないままに裁判が終わるということが多かった感じはする。僕らが証人として出たりしてみてもそういうところがある。やっぱり食い足らないというか、もっと本質的に問わなければならない問題があるのに、そこを弁護士がきちんと掘り下げることをしない場合が少なくない。
 その点、水俣はかなり患者さんが前面に出られる運動だったと思う。患者さんたちが最初に東京へ出てきたとき、裁判が主たる運動ではなくて直接行動を一緒にするということにして、裁判を後ろにやったわけだから、そこから患者さんがある程度主導権を握って運動をやれるということになった。
◆立岩:近ごろ出ている話としては、裁判というのはそもそもそんなもので、いろいろ工夫してもそうでしかないから、裁判外のプロセスというか仕掛けを作りましょう、という話はボツボツとあります★。それもありかなと思いつつ、でも裁判は裁判でやらざるを得ず……。
◆山田:水俣ぐらいに強い直接行動をやれば、それと並行するかたちで裁判が意味を持つことはあると思う。だけど裁判だけということであれば、裁判よりも直接行動の方が意味を持つ場合もある。例えば酷い医者がいて医療ミスされたというのだったら、裁判をしても被告が出てこないからなんともないけど、病院の前で毎日ビラまきをしたりする方が有効だという感じだよね。

■医者はわかってくれない

◆立岩:すこし戻しますと、医療者たちの世界をどうこうしようという動きが出てきたとおっしゃった。例えば幾つかの学会がどこまでのことをしたのか、あるいはしなかったのかということを見ておく必要があるだろうと思いますが、他方、毛利さん、山田さん、石川さんたちは、この間専門化向けではない本をいっぱい書いてきている。私は、こうして出されたてきたものって、とてもよいものだと思うのですが、山田さんはこの間もう何十年も、専門家むけではない本をいっぱい書いてきたわけです。これはそうなっちゃったから、なっちゃったんだという答えで終わってしまうのかもしれないんだけれども、文体や装丁も含めて、毛利さんや山田さんは、こういうものの言い方とか伝え方をしていかなきゃいけない、していったほうがいいんだという、思いみたいなものはあるのですか。
◆山田:そうだね。お母さんたちに向けて書いたら、わかってくれるお母さんやお父さんがいると思うけど、仲間である医者に向けて書いても医者にはわかってもらえないという絶望がある。仲間は本当に読んでくれてないよね。松田道雄さん★なんて小児科医の間ではほとんど参考にした人はいなかったし、「松田道雄」という名を聞いただけでアレルギー反応を起こす小児科医が多いような状態で、同業者からは憎まれていた。それが現状だよね。
◆立岩:それは素朴に不思議な感じがします。ゴリゴリの科学者は小児科医と商売が違うから、互いに参考にならないし、生きている世界が違う。これはわかる。でも、勤務医にしても開業医にしても、小児科をやっているときにそこにいるのは子供じゃないですか。そうしたときに、僕ら素人眼で、松田さんの本★でも毛利さんの本でも読んだとき、納得できる部分はいっぱいある。そうすると、患者、子供を相手にしたときに、やっぱこういうものは臨床医の参考になるのではないか、役に立つのではないかと、僕は思ってしまう。でもそれが顧みられない、読まれない。これはどうしてでしょう。
◆山田:読んでなるほどとは思うかもしれないけれど、納得してしまって、自分が同じような医療をやってしまうと、集団の中から外れてしまって凄いヤバイことになるから、そういうものはなるべく見ないようにするというところがあると思う。
 医者の集団はやっぱり逸脱した側には与しないということがあって、「本当はこれが正しいのだけれども、それはやらないことになっているからこっちをやる」という具合なんだね。
 具体的に言うと、三種混合という予防注射はまず三回やって翌年に一回追加をするという四回方式なのだけど、大阪の小児科医の人たちが、二回やって翌年一回の三回方式でも十分免疫はつくというデータを出した。現実によくあることなのだけど、お母さんたちの中に「二回やったけど忘れちゃって三回目やらなかった、それで間が空いてしまったのだけどどうしたらいいか」ということで、例えば保健所や市役所に電話をかけると、予防接種担当は「そういう場合は二回でやめて翌年の一回をやればいいんです」と答えることになっている。そう答えるのだったら二回でよいではないか、ということで私も私の連れ合いも一年目に三回やらないで二回でやっていた。そうしたら、私の連れ合いはまだ開院してから間もなかったこともあって、医師会から呼び出されて、その地域で小児科のチーフをやっている人から、「僕も二回でやっていいというデータは知ってるし、それでいいと思うけれども、医師会では三回やることに決めていて、どの医者も三回やっているのにお宅だけ二回をやっているとトラブルが起こる。だから三回にしてくれないか」と言われた。
 非常に象徴的な言い方だよね。その小児科医が二回でいいというデータを知らなくて、私は絶対三回が正しいと思っているなら別だけど、データも知っていて、二回でよいと思っているけれども、でも……という。自分を逸脱した側に連れ込んでしまうような疫病神には触れたくないという態度がありありだよね。
 自分の同級生と会ったときにも感じるんだけど、運動していた頃にこういうことを言っていたのに、ちょっと、今言っていること、それあんまりじゃないということがあって。「昔あんなふうに言ってしまったんだから、やっぱりこれじゃあまずいんじゃないか」という引っかかりが少しでも残っていて、今、していることを振り返って考えてみてくれるとよいのだけれど、全く引っかからないというのが多い。引っかかってくれれば、長いことやってなくても、何かのときに頼めたりするという関係性が残ると思うんだけど。別の道を生きていくためには、引っかかったら逸脱してしまうから、引っかからないようにしようと努力するんだよね、きっと。そういうメカニズムが働いている。
 例えば、阪大教授だった中川米造さんは医者にも呼びかけていたんだけどね。医者向けの雑誌にもけっこう書いていたから。だけど医者は誰も中川さんの言っていることに耳を傾けなかったように思う。それで中川さんも諦めたのではないかな。そこは、阪大や滋賀医大の人に聞いてみたい。中川さんの考え方を継ぐ医者は、阪大や滋賀医大にはいるの? 他へ行っちゃったのかな?
◆Aさん:みんな出たと聞きました。中川先生を支持していて阪大を辞めた医師が言っていたのは、結局中川先生の授業に共感した学生たち、それが学生から医師になって、それで医局にいれなくなって、みんな出たってその医者たちは言っていました。
◆山田:出た人はどうしているんだろうね。
◆Aさん:そのお医者さんが言うには、地域のお医者さんとしてやっていると。

■「体制」を問題にするという構え

◆立岩:必ずしもはじかれたということではなくて、最初から地域のお医者さんにという人も一定いますよね。僕は信州大学にいたことがあるんですが、そういう学生はけっこういましたよ。東大や京大、阪大であれば違うんでしょうけど。
 その違う部分、中心の部分とされているところにどこまで届くかということはあるでしょうね。中川さんにしても、医療者の仲間に対して呼びかけるというスタンスはあったと思うんです。逆にそれが、今おっしゃったようなしがらみに近いような部分もひっくるめて、なかなか動かない。じゃあどこへ持ってくかということになる。
 医療をマシにするといったときに、いろんな方法があり得ます。例えば、ドイツの医師会は――これは同業者だと市野川〔容孝〕が得意な分野だけども――もう少し倫理的問題にセンシティブな医師会で、同業者組合がちゃんと具体的に動くそうです。それは過去の経験もあるのでしょう。あの国でさえも、戦時下の医療体制に対する批判や反省は、八〇年代の終わりぐらいにならないと出てこないのですが、それでもやっている。そういうドイツ型の同業者組合の倫理、内部ルールみたいなものでやっていこうと流れが一つのタイプとしてあると思います。
 ただ、日本じゃすくなくともこれまではだめだったというのがさきほどの話ですよね。内部には既得権やしがらみがある。だから、外部にルールを作って、ある意味抑え込むやり方があります。法律を作ったり、外部の人を入れた倫理委員会を作ったり、ルールを作っていくやり方をする。そして決定権を基本的に「本人」に渡す。米国流のやり方、と括るのも乱暴でしょうが、そういうやり方もあります。
 両方長短あると思いますが、日本の場合、どちらもしてないということがある。それは一つ、おっしゃったように、こまごまとしたことをなんとなくコントロールする地元の医師会みたいなものも含めて、いまある体制がなかなかに強固であり、そしてそれを変えるだけの外的な力が――医療費を巡る圧力を別とすれば――そう強くないということがあるんでしょう。
 ただ、問題は、内部でにせよ外部からによ、統制するっていった時の、その内容ですよね。統制すればいいってもんではない。専門職の倫理・内部統制であっても、消費者主義であっても、その中身が問題なんだろうと。
◆山田:俺、びっくりしたんだけど、今井みち■?■に会ったときにね、「山田さんみたいなことを言ったりなんかしてると、アメリカではもう医者を、医師会を除名されたり、医者をやめさせられたりするんだ」って言われて、「えぇ」て思ったの。そういう国なんだっていうか。実際は、いろいろしゃべられているようで、一定の枠の中でしゃべったりしてるわけだから。日本は、そういう意味ではいい加減な自由さみたいなものっていうのがあるんだね、きっと。
◆立岩:もう一つ、六〇年代・七〇年代に改革を志したある部分が、体制内変革――医師会をどうにかするとか、あるいは医師会は頼りにならないから法的なルールを作るとか、あるいは患者を組み込んだようなルールを作って医療を締めるというやり方――とは違う部分に、本来的な社会改革のあり方を設定したがゆえに、そういう方になかなか行きづらかったということはありえますか。つまり、究極的には社会をガラッと変えなきゃしょうがないじゃん、医師会がどうとか法律がどうとかって、それは所詮、みたいな。そういうこう部分というのはあったのでしょうか。それもあったのだけど、結局現にある体制自体が強固なものであって、ちょっとやそっとじゃ動かなかったという両面あった可能性もあると思うのですが、そこはどうですか。
◆山田:僕はずっとそうやってきて、しばらくして八王子へ行って診療所の医者になってしまったのだけれどもね。
 例えば、地域でシコシコやる型の運動というのは日和見だという感じがあったから。とにかく革命をすることで世の中を変えるしか方法はないと考えられていた。だからベ平連のような市民型の運動だって馬鹿にしていたと思う。最終的にはああいう運動が残って他はなくなってしまったのだけど。
 でも当時はベ平連なんて中年以上のもうラディカルに活動できなくなったやつがやる運動みたいな感じがあったし、若くしてそういう市民運動的な運動の方へ行ってしまったら堕落だと考えられるような時代だった。だから自分の内なる論理を問い直すみたいな作業へは行かなかったと思うよね。
◆立岩:僕はそういう構えが全面的に駄目だとは思ってはいないんです。さっきの言い方だとネガティヴに受け止めているみたいですけど、それだけではない。
 まず、その人たちにおいても改良は否定されてはいない。これは人により立場により様々で、温度差もありますが、医療や教育に関わる仕組みの改善、改革は様々に提起された。これはいくらか調べればわかることです。ですからさぼっていたわけではない。ただ、改革に対する「内部」の対立があったし、「急進的」な運動と「込み」で提起されたときに、多数派というか保守派に否定されやすかったということはあるんだろうとは思います。そして「改良」のための仕組みを作っていくということに、あまり本気になってはいけないみたいな感じはあったのだろうと思います。そうした制度改革・改良の動きは、おっしゃるように「市民運動」として、もっと後になって強まります。けれど、それにしてもその前の時期を引き継ぎ、その反省も含めて動き出したところはあるわけです。
 ただここで言いたいのはもう一つの方で、この人たちは、山田さんもそうだったかもしれませんけど、なんでも「体制」に還元するわけです。それは悲しくなるほどワン・パターンである。それはある程度の複雑さがあった方がよい――簡単なことを言って終わるなら学問する必要なさそうですから――学問としても願わしいことではない。しかし、では、そのワン・パターンな主張が、基本的に、間違っているかということです。むろん「体制」の定義にもよるし、その定義の仕方が単純すぎるという非難を受け入れてよい部分があるとも思います。しかし、基本的には間違ってないと思う★。そしてその主張は、たんに問題を人のせいにするというほど能天気なものでもない。例えば山田さんには「われらの内なる優生思想を問う」といった文章(山田[1988])がある。
 そしてそういう部分の基本的な構えを省いてしまったときの消費者主義というのは、やはり、まずいんだろうと思うんですね。それは、極端にいえば、社会がどうであろうと、本人が決めたものが良い、それでかまわない、終わり、ということになってしまうのですから。実際、そういうよろしくない方向に進んできている部分があると私は思います。ですから、ここは、やはり押さえておきたいと思うのですよ。ここの一番基本的なところについて言えば、私は、第一義的には「体制」が問題だと言った人たちが、「オートノミー」を話の初めにあるいは終わりにもってくる人たちより正しい、論理的にも正しいと思うのです。

■“治す”を疑う医療

◆立岩:ただですね、山田さんたちは一方で、ひどく単純なことを言いながら、同時にというか、いったんそう言ってしまったからかもしれませんが、だんだんとぐちゃぐちゃにもなってくる。その一つは、先ほどの悪い医者・良い医者の話です。高橋晄正さんのように科学的・統計学的に検証すれば、グロンサンにしてもアリナミンにしても効きやしないのだという、科学に対して科学を対置するタイプの議論は当然今でもあるし、今後もあり続けるべきだと思います。
 でも、医療の中での、あるいは科学の中での「より正しい科学」、「より正しい医療」だけでいけるのか、みたいな感じが、七〇年代を少し経ってからかもしれませんけど、出てきたような気がするんです。ここ(会場)にもそういう研究をしている人がいるけれども★、例えば、高橋さんの効かない薬があるという告発は、裏返せば、効く薬だったらよいわけですよね。ただ、もうちょっと後になってくると、精神障害者の人たちが、薬どうなの、効きゃいいってもんでもないよねといった医療批判をやっていく部分があると思うんです。
 そういう、間違った科学に正しい科学、間違った統計処理に正しい統計処理っていう図式と、そこからもちょっとはみでちゃうみたいなものが現われてくる、こんがらがってくる。そのあたりの感触というか、経験みたいなものはどうだったんでしょう?
 僕は山田さんの話を一応わかった上で次の話という感じで聞いてしまっているので、初めての人にとってみれば知らない話をうかがってないですね。この時期より少し後ですが、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)大会の第2回だから七七年ですか、明治大学での大会に、山田さんが森永ミルク中毒の人と一緒に行った話が本に書いてあるじゃないですか。連帯を呼びかけに行ったらすごい批判されて、という★。
 一方で「治りたい、体をもとに戻せ」と森永ミルクの被害者の人が言って、「そんなこと言うな」と言う人たちがいて。それって解ける話なのかどうかはわかりませんが、現実にそういう場に遭遇してしまう医師というのは、普通はあまりそういう所にいないわけですが、でも出来事はそういう所に起こったりもするわけですよね。そのことがこの本の中には書かれているけれども、同じことでもいいですし、その後のことも含めてプラスアルファで少し思い出せることがあれば、もう少し足してお伺いしようと思うんですけれども。
◆山田:全障連大会へ行ったときというのは、森永のミルク中毒の被害者に関わっていて、一方で障害者の運動にも多少関わっていた。だから、公害被害者運動と障害者の運動が別々でやっているのはおかしいから、なんとか一緒にやれるようにという、後に反差別共同戦線などと言われるようになったものを構想して、乗り込んでいったんだよね。
 障害者の運動はいわゆる障害者のことについては闘っているけど、公害の被害者のことなんか知らないじゃないか、そのことを僕が啓蒙しなければならない、みたいな気分もどっかにあったりした。
 その頃、森永の被害者たちが立てていたスローガンが「体をもとに戻せ」だった。それを全障連大会の会場で森永の被害者が言った途端、ものすごい糾弾の嵐になって、「もとに戻せとはどういうことだ」、「もとの体が良くて今の体は悪いっていうことか」と。それはもう全く僕の予想していない反応だった。そういう言われ方、糾弾は本当に初めて聞いたという感じだった。一緒に行った森永の被害者は、まだ高校生だったから、とてもその問いに答えられるような状況ではなかった。
 私もその日は一日中糾弾され続けた。「お前、医者がこれまで障害者に対してどういう悪いことをしてきたか知ってるか」って言われて。
 大会は二日連続であって、私はもう本当に辛かったけれど、これはもう一日行かないといけないと思って、翌日も行って、ようやく彼らが何を言おうとしているかがわかった。
◆立岩:これは、この後、幾度も現れる問題ですよね。チッソを糾弾することと障害者運動で言っていることと折り合いがつくのかとか、奇形児が産まれるから原発反対、でいいのかとか。私もこのことを少し引きずって、考えてみたことがあって、半分書いて途中になっていますけど★。
 それで、山田さんが、「言おうとしていることはわかった」という感じですけど。
◆山田:そのころ、ホームレスの人たちばっかりが来る診療所の医者をやっていたということがあったんだけど、彼らはべつに治してもらおうとは思っていない。彼らにとっては病院もシェルターみたいなものなんだよね。だから、暮れになると一斉に入院したいっていう人が出てくる。山谷の福祉事務所も正月は休みになって、それで仕事も何もなくて凍死するかもしれないから、お正月は病院へ避難してくる。診療の入り口の土間でものすごい苦しがっていて、「すぐ入院させないといけないんじゃないんですか」と看護婦さんが言うから、そりゃ大変だということで入院させてみると、「カツ丼が食べたい」とかなんとか言っている。もう仮病なんて当たり前で、入院したその日の夜に、病院のネーム入りの浴衣着て酒買いに行って、病室で飲んでいるとか。
 われわれも一旦入院と決めたんだからすぐに退院させるわけにもいかない。もうしょうがないというか、診療所のすぐ裏に福祉事務所の分室があって、そこへ「入院が必要」と届けると、大体正月いっぱいいられる。
 そういう医療をやっていたから、「医療というものは“治す”ということだけではない」と思っていたことがあって、それできっと「体をもとに戻すのがいいことなのか」ということとつながったんだよね。医者は患者さんを診たときに「治った」とか「改善された」という状態にすることを目標にする。それは医者が自分で勝手に決めるわけだ。最近になって、インフォームド・コンセントの時代になり、いくつかの道を患者さんに提示して一緒に選ぶというようになったのかもしれないけれど、当時は「治せれば医者にとって成功。医者にとっての成功は当然患者にとっても成功」と当たり前に考えられていた。「治せても成功とは言えない」とか、「治さないほうがよいこともある」なんて考えもしなかった。
 でも、例えば精神科の場合なら、幻聴は治らないほうがよい場合もあるというふうに言われたりする。幻聴なくなったら寂しくて生きてられないというようなことがある。それは精神科の問題だけではなくて、他の患者さんでも、症状をとってしまえばプラスではなくて、症状があるとよいこともあったりすると気づいた。でもそういう考え方は仲間の医者とはあまり共有できなかったし、今でも共有できないことが多い。
◆立岩:もとに戻すとか、治るとか治らないとか、もとのままでいいっていうことのいろんな意味合いみたいなものが実はある。それに対する意味のつけ方みたいなものが本人がという場合と医者がという場合の違いも含めて、いろんな違いがあって、そこのところをどうみるかという話だと思うんですよね。
 その際、ゴチャゴチャしたものに出会うという体験ですか。ゴチャゴチャしないままずっと行くというのもあるわけじゃないですか。そういう生き方というか人生というか。でもいつの間にやらゴチャゴチャしちゃったわけですよね。山田さんの場合にしてもね。
◆山田:ゴチャゴチャしたことを考えなければならない場面に出会っちゃったからね。出会っちゃっても、こんなゴチャゴチャしたことに足突っ込んだらヤバイと思って関わらなければそこでおしまいだったと思うけれども。なんか意地張って関わっていた。そういうゴチャゴチャしたことを考えるのが、嫌でもないんだ。
 最初にホームレスの人たちの診療所で仕事をするきっかけになったのは、大学卒業を前にストライキをやって無期停学になり、その間どこかに居場所を作らなきゃいけないことになった。「活動家のたまり場みたいな診療所があるから行ってみないか」というので行ってみて、最初はびっくりしたんだけど。でもね、その診療所は潰れたからやめたけど、潰れていなければずっとあそこにいたって言えるよ。嫌いじゃなかった。今でも一番好きな場所だったかもしれないと思う。

■オルタナティブの陥穽

◆立岩:例えば、松田道雄さんは正真正銘のインテリでもあったわけだし、いろんなことが見えてはいる。でも山谷なら山谷で、とりあえず正月の我が命を維持するっていうか、そういうリアリティみたいなものとまたちょっと違うところがある。ちょっと強引だけども。山田さんはたまたまそのころそういうあたりにいて、治るわけでもなく、それに自足できているわけでもないけれども、日々を生きている人がいると。そういうふうなことが、例えば全障連の大会に行って糾弾されつつこういう話もありかなっていうところにあったのかもしれないですね。
 松田さんという医者はある種の模範ではあったのだろうし、山田さんも高く評価する文章を書かれている★。それはそうでありながら、ご存知のように松田さんご自身も、その人生で一貫してとも言えるし、あるいは晩年においてとも言えるんだけれども、安楽死について肯定的な発言をなさっている。
◆山田:松田さんの場合、開業医になる前は結核の専門家として評価されていた人で、医学的にもやっぱり優れた人だという評価がベースにあったから、社会的に鋭い発言をされても説得力があった。毛利さんや僕などのように、学問的な面で仲間内から評価をされていない人間とは立場が少し違うと思う。それから松田さん自身の問題で言えば、あの人は診療室や書斎から出なかった人だから、例えば実際に障害を持った人の生活に接したことなどはなかっただろうと思う。
 あれだけ学識が広い人だから、被差別部落の人たちがどういう問題を抱えているかということはわかっていただろうけど、その人たちが実際にどういう生活をしてどういう生活感覚を持っているかというところまではご存じなかったと思う。松田さんが診ていた“庶民”というのも一定の階層以上の人がほとんどだったと思うし、ある程度医者として有名になると、さらにその名声で患者さんが集まってきちゃったりするわけだよね。そういう人たちは一定以上のレヴェルの知識を持った人だから、とんでもないことを言ってもあんまりびっくりしない。そうすると、すごく診療はやりやすいわけだけど、ゴチャゴチャした問題に直面することもなくなってしまう。特に晩年は臨床から退かれてしまったから、ゴチャゴチャした問題を考える必要もなく、だから安楽死・尊厳死のような問題で「尊厳死が法制化されたら殺される」と言っている遷延性脳障害の人たち★のことなど考えられなかった。
◆立岩:そうですね。彼自身が立派な市民であり、彼が相手にした人たちっていうのがまた立派な市民であるという、そういう制約はやはり松田さんに関してはあったんだろうなあというのはそうですよね。
◆山田:僕はそのホームレスの人たちのための診療所で仕事をしていたことなどのおかげで、イリッチなんかもすごく入りやすかった。イリッチにしても、あるいはパーソンズも言っているけれど、医者が持っている役割、患者が持っている役割があり、また医者が持っている権力はものすごく大きいものだという、自分では気がついていないけれども、もんすごく大きな権力を持っているというような論理は、すごく入りやすかった。
◆立岩:医者が威張りすぎというのはその通りで、それはなんなんだというところで、イリッチはいいこと言っていますよね。専門家批判したい人たちにずいぶん読まれました。ただ、けっこう厄介なところもあって。イリッチは医療批判のある種のスタンダードで、日本はともかく、けっこう大きな影響力があると思います。その中で、反専門主義・自然・患者の自律という話です。それぞれ三つともけっこうなことではあるのだけれども、それが今の流れで言うと、それこそ自律的な自然な環境のもとでの死の選択という話になってしまう。
◆山田:確かにイリッチなどの指摘・批判に対してエコロジー的なもの、自然と言われるものが、全体的に正しいものとして対峙されると、そこでおしまいというところがある。
 だからあの頃活動家の中で急に鍼灸師になる人がすごく多かったのだけど、それには中国の影響がすごくあった。われわれも「裸足の医者」と言っていて、「人民の中に入っていって素人的な医療をやる」というスタイルに憧れた。活動家が一斉に鍼灸師になったりしたから、それで視力障害の人たちから「職を奪われた」と文句を言われることになったりした。視力障害の人が職業を按摩・鍼灸に限定されているのは差別だとは思うけれども、でも今それで生活しているところへ健常な人間が割り込んでくるわけだから。しかも中国の鍼というのは電気を通したりする鍼だったから、目の見える人でないと危なくてできないところがあって、そういう人のところへ患者がみんな行ってしまったということがあって、それは視覚障害者の人たちにとってはひどい話だったのだけど。そういうことはあまり考えないでそっちの道へバッと行ってしまった。高橋さんなんかがほんとんどの近代医学が駄目だというふうに言ったら、みんな民間医療や漢方の方へ行ってしまったということがあって。
◆立岩:オルタナティブってよいのですけれども、ただAってものがよくないとなったとききに、その反対のものがよいってことにはならない、それでなかなかことは済まないわけですよね★。
◆山田:いずれにしても、とにかく健康を目指そうっていうふうになっちゃたら、どういうやり方をやっても同じっていうことだとは思うんだけどね。やっぱり健康がよいものと絶対視するところは変わらないというか、それを獲得する方法が違うだけであって、目指すものがそこだとすると、やっぱりかなり優生的なふうになってしまうっていうかな……。
◆立岩:そういう発想っていうか、アイディアっていうか、感覚みたいなものっていうのはね、例えば、六〇年代末の社会運動、今日の話だと六〇年代末といってもその準備っていうか、その背景みたいなのはもっと前からやっぱり脈々とあった中でとおっしゃった、そうかなって思ったんですけど。そういう土壌そのものから出てくるのか、もう一ひねりというか、何か加わらないとそういうふうにでてこないのか、そのへんはちょっと気にはなるんですよ。
 つまり、こういう医療があって、かくかくしかじかの浮き沈みの中でうまくいかないと、だから医科大は加害的であり、それに対して批判するいいものを対峙するという話と、今、山田さんがおっしゃった話はまたちょっと違う話だと思うんです。これはよしとした上で、その方法論なり、それを支えるシステムとしてAよりもBがいいとか、Aという体制よりBという体制がいいという話と、そのよしとしているものの場所を変えるというのはちょっと違っていて、そういうアイディアというか気分みたいなものは、六〇年代末から七〇年代前半のある種の体制批判ものから直に出てくるものなのか、そのへんの関係というんですかね、何なんだろうなっていう気がするんです。高橋さんたちの批判は非常に重要だったと思うし、今でもあの路線でいける話はいっぱいあると思うんですけど、でもそれだけじゃすまないわけじゃないですか。統計とってみたらグロンサン効かない、そりゃそうなんで、それでいける話もいっぱいある。でもそれだけじゃすまない話はあるわけで、高橋さん流の批判をすすめていってもでてくる話じゃないと思うんですね。またちょっと違う色が入らないとでてこないような気がする。
 結局、例えば、言ってみれば野にくだり、さまざまありつつ野にくだり、ちょっと生活の場所というか仕事の場所自体が変わる中で、なんとも定義し難い人々を仕事の相手にすることもあったのだろうし、最首さんであればそうやってブラブラしていたらこういう娘が生まれてみたいな、パーソナルヒストリーにいくわけじゃないですか。それはそれでその通りだとは思うんですけど、どうなんだろうなあと思って。
◆山田:どうなんだろうね。だから要するにゴチャゴチャしたままだよね、きっと。だからすっきりしないっていうか。
 理想の医療みたいなものって作ることができないと思うし、行ったり来たりだと思うよね。患者さんの側と医者の側とで行ったり来たり。だから、まあ、なんていうのかな、結局どういうものがいいかわからないから何にもやらないというわけにもいかないんで、とりあえず、とりあえずまあ、こんなところかなというふうに思ってやるけど、でも明日は変えなきゃいけないかもしれないとか……。
◆立岩:でもいろいろあり、とりあえず主義というのは、たぶんかなり正しくて、ひとつには、今日最初に話したことですが、例えば、命題として一、二、三、四となってというふうにならないから、じゃあこっちが物を書いていったり、考えているときに、文体とかも含めて、どういうものの言い方をしていくのかということは、やはり少し違うんですよ。違う言い方があったりする。じゃあもうそこは何も言わなくていいということになると、本当にズブズブの現場主義みたいなもので終始してしまって、最終的には個人に渡されてしまうわけじゃないですか。現場をいくらでもさぼれるという話になってしまう。そこをどうするかという話が結局残るわけですよね。じゃあ法律という話だけでもないだろうし、結局そこもひっくるめて考えていくという、当たり前といえば当たり前の話にしかならないんだとは思うんですけどね。

■「間違った科学」「正しい科学」

◆山田:間違った科学に対して正しい科学を対峙するという姿勢運動をしていれば、もう少し私もいろいろな人と付き合えたろうし、楽に進められたと思う。「間違った科学に正しい科学を対峙するというやり方ではよくない」と主張しても、それに同感してくれる人はあまりいないんだよね。
 それは高橋さんにも限界があった。例えば今エビデンス・ベイスト・メディシンなどというのが流行っているけど、エビデンスという言葉も嫌な感じがする。これがエビデンスだということで参照される文献だって、やっぱりバイアスがかかっているわけで、そんなにニュートラルなものではないと思う。それこそ欧米流の「正しい科学」みたいなものがあるけど、その「正しさ」はそれぞれの国の社会のあり方を反映していたりする。そのことを無視して、欧米の文献はエビデンスとして価値があると信奉してよいのかと思ってしまう。
 薬を告発している人たちの中にも、自分たちの正しさを疑ってみる態度が欠けている場合がある。こっちに間違ったものがあって、それを告発している私たちは正しい、という。この「正しい」と言っている自分は本当に正しいのかと疑って戻ることは今でもしない。
 精神科の領域で、神田橋條治さんたちの『精神科薬物治療を語ろう』と『精神科のくすりを語ろう』という二冊組みの新しい本が出ているね★。精神科の薬の使い方みたいな本で、何と言うか、科学ではないんだね。でも、とても面白い。
 例えば薬の効能が科学的に解明されるのは後で、経験的に使われてきて、どうして効くかわからないけど効いちゃってる、ということがある。それを科学的ではないから駄目だ、と切り捨ててしまうのも危険だと思う。
 その辺の危うさは、高橋さん以来ずっとそのままになっている。薬はやっぱり人によって違う。九九人に対しては効かないけれども、一人の人に対しては効いちゃったりすることがあるわけだし、それは薬の効能だとか、動物実験のデータだとか、人間の統計的なデータだとか、そういうものとは別次元の「効き目」があるはずだし、そういう意味では飲み具合ということももっと考えていい。
 だから最近の話で言えば、リタリンに問題あるというと一斉にリタリンを使わせなくしてしまうようなことがある。乱用されたことは確かだけど、乱用を防ぐ方法の検討もしないで、一挙にやめてしまうというようなやり方もちょっとどうかと思うよね。薬について告発してキャンペーンして啓蒙してきたのはずっと医者の側であって、患者の側から「あなたはAという薬について告発しているけど、私は飲んでみて救われたんだ」と反論がなされることはほとんどなかったし、医者の側が薬と患者さんの相性を考えてみようとする作業は足りなかったように思う。飲み心地みたいなものを問題にしたのは、「官能的治療」と掲げたあの本で初めて見たような気がする。
 例えば、高血圧のような患者さんでは、薬は効いたかどうかで評価が終わってしまうところがある。本当はそれだけではなく、薬の飲み心地、薬がQOLに及ぼす影響なども考慮しなくてはいけないのだけれど、それはされずに終わっている。でも精神科の患者さんだと、「誰が何と言おうと、他の人が全員使わなくても、この薬しか私にはないんだ」みたいな言われ方がされることがある。そこをどうするか。「そんなこと言ったって、お前、効かないことがわかったんだから」といって、強引に薬を切ってしまってよいのか、疑問が残る。そういう点で、患者さんの薬に対する発言力は弱くて、結局医者に処方を決められてしまっている。何か科学では割り切れない部分を患者さんは発言しているのだろうけれども、それを医者の側が受け止めようという姿勢は弱い。
◆立岩:説明しようとしてもできないような個人個人の差みたいなものが常にあって、それをどうこうしてもわからないところはあるということは押さえておこうという。では実際にどうするんだという話は難しいにしても、それはそれでわかります。
 医療の内部改革として始まって、より良い精神医療をみたいな動きがあって、そこからもこぼれていくような動きが現れますよね。で、ずいぶんと思いきったことを言う。それは患者・障害者の方が先に言ったのかもしれない。例えば、精神の領域にはそういうことがあったと思うんです。患者のサイドと、いわゆる青医連★の人たちとか、改革的な精神医療者って言われていた人たちの間の微妙な関係って、やっぱり一〇年、二〇年続いたと思うんですよ。全国「精神病」者集団の山本さん★なんか、東大の赤レンガの連中についてそんないいことは言わない。結局やつらは医者で、みたいな。聞くとなるほどと思うとこはあったりします。
 本人たちは本人たちでかなりはっきりしたことを言う。他方で、その当人たちには当人たちの今現在のまた目先の苦しみとかありますから、そうそう割り切った話もできない。そこはかえって医療者の方が割り切ってしまえるというか。結果として手を抜いてしまえるというか。医療を基本的なところから問題化するという「ラディカル」な流れであっても、その発想でよかったの、すくなくともその内実はどうなの、という疑義が障害者・患者の側から示されもします。医療改革派・批判派の射程、できたことできなかったことについて、思うことはありますか。
◆山田:精神医療が抱えるゴチャゴチャした問題が「反精神医学」という形で変にすっきり“解決”してしまったのが残念だね。障害についてもそうだけれども、「障害なんてものはないんだ、こんなものは社会的に作られた概念しかない」と言い切ってしまうと、大体そこで議論も運動も終わりになってしまう。でも実際には障害があることで不利を被ったり、苦しんだりしている人がいるのだから、障害というものがあるということの上に立って、運動を進めていくしかない。
 精神科の患者さんも苦しく辛い思いをしている人が多いのだけれど、その苦しく辛い部分に、ちゃんと寄り添う医療を十分にしない人が医者の中にも多かったような気がする。
 私は昔から中井久夫さんと神田橋條治さんのファンだけど、やっぱりあの二人から得られるものは凄く大きい。ほとんどどの科の医者が読んでも、自分の診療に役に立つようなことを彼らは言ってくれている。それは彼らが患者さんを診ているからだと思う。とてもよく診ている。それに比べると、運動しているお医者さんたちの中には、それほど診ていなかった人もいたように思う。患者さんたちが発言したり運動できたりするときというのは、あまり苦しくないときだから、そういうところにだけ付き合って、凄い辛い思いや苦しい思いをしているところで付き合いきれてなかったのではないか。
◆立岩:そうですね。ちょっと別の用事で、中井久夫さんのものをほとんど初めてに近く読んで、よい書き手でありよい本だと思いました。さっき名前を出した山本さんも神田橋さんの本はいいと言うんですよ。わりといろんなことに対して否定的、批判的な人だけれど。そのリアリティはわかる気がします。
 バイオエシックスならバイオエシックスというのは、医療内部の論理とはまた違うレヴェルだけれども、倫理のプリンシプルを立てて、それによって物事を整理し、その事態をなにがしか前進させようとしてきた。そうすると、そのプリンシプルは字で書いてあるから、それを発展させたり、その命題に批判的に別のものを対峙するとか、そういう学問的にありがちな話はたんたんたんと行く。簡単です。ところがそういうふうにしていくと、実際にはいろいろなことが起こる。それはまずい。そうすると、結局は個別性にどこまで付き合えるのかというのは大切だよね、となる。
 それはまったくその通りだと思います。抽象的な原理を立てて、それで話が済むものではないというのはわかりつつ、山田さんみたいな、名医かなにかわかりませんが、人がいて、精神だったら中井さんがいて、認知症で京都だったら小澤さんがいて、経験で割り切るというか押し通すという手もありかなと思いつつ、でも経験知だけ言っていてもちょっと厳しいかなと★。
 じゃあその代わりはといっても、プリンシプルを立てるというのはどうか。これからどう物事を言っていくのかやっていくのか、そういうやっかいさがあるような気がする。科学主義に対して現場主義を対峙する。現場が大切なことはもっともなのだけれど、いろんな現場があって、個人技もその他もろもろもありという中で、ズルズルッといってしまうようなこともあると思うんですけど。それはどう考えたらいいのか? 困るかもしれないですが……。
◆山田:中井さんや神田橋さんに、社会的な運動をやってほしいって要求してもちょっとそれはね。
◆立岩:それはそれでいいと思うんです。それはいいんです。
◆山田:だからむしろ運動をやっていた部分が、運動をやりながら、世の中変えるということを目指しながら、同時に患者さんに寄り添うことはできたはずなんだ。イギリスへ留学した私の一年下の精神科医の話を聞くと、やっぱりイギリスで反精神医学をやった連中は、その後物凄く苦労して、試行錯誤で、いろいろな実践をやったらしい。一旦は反精神医学的に割り切ったけれども、それだけでは済まないというところへもう一回戻って、そこで苦悩して新しいところを切り開こうとする努力をした。その部分が日本では欠けていると思う。そこをやってほしかった。やろうとしたけど、もうそこには運動がなくなっていて、できなくなってしまったという。だから石川憲彦なんかはいわゆる活動家ではないけど、やっぱり何かやらなければいけないと思い続けて実践していると思うのだけれど。
◆立岩:石川憲彦さんの著作が与えたものは大きかったです。『治療という幻想――障害の治療からみえること』が重かったです。一九八八年の刊行ですね★。雑誌『季刊福祉労働』★の連載がもとになっていますから、まず連載の方を読んだのかもしれませんけど。もっと以前に出た本のような気がしていました。ずっと東大病院で小児科医してらして。「医療と教育を考える会」というのをやっていましたよね。いっしょに『生の技法』を書いた仲間の岡原正幸がそこに出入りしていたと思います。
 石川さんは一九四六年生まれだから、山田さんより若いんですね。このごろもいろいろと書物を出しておられる。岐阜大学の高岡健さんと対談した『心の病いはこうしてつくられる――児童青年精神医学の深渕から』(石川・高岡[2006]○)はとてもよい本だと思いました★。それから、『ちいさい・おおきい…』の連載を集めた『こども、こころ学――寄添う人になれるはず』(石川[2005])もじつは硬派な本ですが、その本でも、石川さんが障害者の運動から受け取ったものが大きかったことを語っておられます★。

■医療者の被害者意識

◆立岩:僕、いったんひっこみます。どなたでどうぞ。
◆栗原:今回、〔『現代思想』二〇〇八年二月号の〕特集に「医療崩壊」ってつけようかなと思ってるんです〔栗原さんは青土社『現代思想』の編集者〕。
 山田さんなり中川さんなりっていうのが、医者から医者への呼びかけっていうのがあんまり通じないとか、むしろ市民というか患者さんというかお母さんというか、に通じる話をしてきた。他方、まさに『医療崩壊』っていう名前のタイトルのついた、虎の門病院の小松さんっていう方の本、あれは医者同士の中のものすごく受けたはずです。これまでの患者の権利運動の蓄積をまったく顧みないかたちで患者不在で議論が進んでいる。崩壊の原因はクレーマー患者だという話にもなってる。そういう最近の情況を、まずどうご覧になってるかをすこししお伺いしたいんですけども。
◆山田:僕の同級生に、小松秀樹さんほど有名じゃないけど、医療立国論を書いているのがいて、彼も医師会に呼ばれて話をすることになって忙しくなったと言っているんだけど、ようするに被害者意識だよね。こんなに一生懸命今までやってきたのに、なにも評価をしてくれなくて、こういう状況になって騒いでいる。知らないよ、と。
 基本的に、僕は何も困っていないし、このことで怒っているわけでもないけれども、少し仲間内で話はしていて、茨城県にある国立病院の話なんだけども、全然採算が立たなくなって、四〇〇床ぐらいの入院ベッドで今もう三二〇ぐらいしか入らない。かつてはベッドが埋まってないっていえば、無理やり入れたりしていたから、ちゃんと埋まっていたんだけど、このごろそういうことができなくなったから赤字になったと言っている。
 たしかに入院しなくてもいいような人が入院していたというようなことはあって、すごく過剰な医療がされていた。一方で不足した医療が歴然とあって、それは最初に話した学用患者なんていう極端なことではなくても、例えば生活保護者や外国人などのマイノリティの人に対する医療はものすごいことになっている。病院で六人部屋なんて外国では考えられないというか、プライバシーもへったくれもないあんなところへ病気なのに押し込められてという感じだけれども。そういうひどい状況がありながら、一方ではものすごく過剰な医療がされてきた。
 格差があるから、病院の勤務医はたいした給料じゃなかったし、そんなに儲けてはいなかった。でも彼らだっていったん開業すればいくらでも儲かるという可能性を持っていたわけだよね。いま金を持っているかどうかだけではなくて、欲しいと思えばいくらでも稼げるような時代にずっと生きてきた。それが、そういう過剰な医療を大目にみるような余裕が国になくなってしまって、新自由主義的に改革されたときに、今までの既得権益が一挙になくなってしまうわけで、そのことで騒いでいる。
 それを患者さんが大変だという話にしている。こういうことになってしまっていることについては、医者の側の責任はものすごく大きいと思うし、それは医学教育にしてもそう。例えば地方に医者が行かないというのも、一番大きい原因は子供の進学ができないことだという。だから、何千万あげるから村の医者になってくれと言っても、そんなところへ行ったら息子が医者になれないから行かない、それが一番大きいと言われているんだよね。、だいたい医師会なんかの話題は、子供の進学のことと二代目をどうするか、嫁さん探し、婿さん探し、もうほとんどその話しかない。特に開業医は、そうやってほとんど世襲制みたいにしてやっている、世襲制にするのはやはり生活が安定している、いい生活できるからということがあって、やってきた。
 そういうツケが、今全部一挙に来たっていうことで、過剰な部分をへこまして平坦化すればいいものを、過剰な部分だけじゃなくて、不足していた部分もなお不足した状態にするというようなことをしている。それは問題が大きいけれども。少なくとも過剰な部分を平坦化してここまで持ってくるということについては、文句は言えないはずだし、率先して医者がやらなきゃいけなかったことだと思う。
 医師会も日本の医者は自浄作用がないと言われていて、自分たちの中でお互いに批判し合ってどうこうすることができない。例えば臓器移植が全然進まないのは医者が信用されていないからだというのも医者はわかっていて、要するにああいうやつにこういうことをやらせると何するかわかんないっていう一般の感情みたいなね。一般の人が医者に好きなようにさせるとなにするかわからないっていう感情を持ったというのは、医者としては決定的にまずいことだと思うんだけれども、そこに対して何にも言ってこなかった。だから本当に被害者意識しか残っていないという状態だよね。
 医療ミスの話でも、あれはひどい、あんなミスをされたら、誰だって医者に行かなくなっちゃうというようなことを、皆、一斉に言うんだけど、本当に医療ミスはなかったのか、死ななきゃいけなかったのかといった患者側のことを言う医者はほとんどいない。それはすごく怖ろしいこと。医者の被害者意識を共有するときは、すぐにまとまるくせに、そういうときに患者側に立って考える人がほとんどいない。
◆立岩:勤務医でいうと、昔はわりと随時開業医に乗り換えられる状況があったのが、それがなくなって、なおかつ、かなり労働条件やその他を考えると不平のひとつも言いたくなるという状況はたしかに生まれていて、それはそれでなんとかしないとまずいだろうと。それはその通りだと思うんです。ただその労働条件全般をどうするかという話と、その鬱積のやり場を誰に対して持っていくという話とは、別の話で、それはお門違いだってことは多々あると。
◆栗原:今日新幹線で来るとき、ニュースで流れたのは、富山の射水は殺人ではないというか、二四時間内に延命中止したけれども、どっちみち二四時間内に亡くなることがわかっていたから事件性はないとか、立件しないとか。ちょっとダイジェスト版でみたからわかんないんですけど。医療事故、医療過誤に対する司法の介入に対して、医者の側がそれはないよって言う。だから法律を変えてくれとか。これってどうお考えですか?
◆山田:日本は法医学者がほとんどいない。法医学の専門家がものすごくいなくて、大学でもなり手がなくて、例えば、衛生学だとか公衆衛生学は日本ではものすごく人気がない。だから、我々のころは運動していて何も勉強しなかったやつは公衆衛生か精神科にいくというふうになっていたりして、保健所の医者なんかはものすごく下に見られているというのがあったりした。もともと、実際に我々なんかが亡くなった人のところへ往診して鑑定していたといった状態なんだよね。
 法医学そのものがきちんと成立していないし、そういう人気のない科は収入が少ない。法医学じゃ開業できないし。きちんと誰かが養成するというシステムがないから、希望者が希望する科の医者になっている状態だからね、もともと。
 だから、司法の手でやるか、医者の手でやるかという話よりも先に、法医学的な知識を持っている人があんまりいないというあたりからどうするか。
◆立岩:一方ではガイドラインなり法というかたちで、こういうことやってもいいんだっていうお墨付きはもらいたいわけじゃないですか。そういう意味ではある部分では法の介入を歓迎しているわけですよ。でありながら、ある部分は立ち入らないでくれと使い分けている、今やっていることは法律で認めてもらわないとちょっと危ないからというのと、あんまり口を出さんでくれというのは、本人たちの中では両立している。それに対して、どういうところでルールが必要で、どういうところでいらないという話を、その利害、心情は大変よくわかりつつ、別途立てないとぐじゃぐじゃになってしまう。



◆D:今、新しい医師会を作ろうって言ってますよね。勤務医で。よくあつさん■?■とか今いっぱい呼びかけてますよね。
◆山田:勤務医師会を作ろうって言っている。
◆立岩:目はあるんですかね?
◆山田:できないと思う。そういう団結力がもうないし。医師会の権威がものすごく落ちてきたから。
◆立岩:勤務医、病院に勤めている医者たちが、まともな文句を言う回路のようなものをきちんと作るということの方が正常だと思うんですけどね。
◆山田:例えば産婦人科だって、僕は割合、助産師さんたちの集まりに呼ばれたりすることがあるんだけど、とにかく産婦人科医が助産師に対して協力しないというか、面倒くさいのだけ押し付ける。助産師の側としては、異常出産の時などはすぐ受け入れてくれるようなところがないといけないんだけど、「ずっと検診にも来ていないで、そんなときに来るようなケースはやりたくない」とか言われて、協力する体制が医者の側にないんだよね。
 そういう意味で、日本ではそれぞれのパラメディカルと言われている部分の職種のチームプレイみたいなものがなくて、お互いに自分の権益を主張しているだけ。例えば医療行為をもっといろんな人ができて、介護福祉士も医療行為がある程度できるようにしなきゃといった話をすると、一番反対するのは看護師協会で、看護婦の仕事をとるなという話になっちゃうとかね★。ものすごくせまい世界の中でやっていて、協力関係なんかもない。
 もっと助産師さんを活用すればいいのにね。今、病院よりも助産師さんのところで産みたいっていうお母さんがすごく増えている。病院では、予定された時間に合わせて産まれる時間を調節するような医療が、今まで当たり前でやられてきて、おかしいっていうふうに思い始めて、なるべく自然なお産をしてくれるところに人気がある。でも助産師さん自体はどんどんやっていけなくなって、もう人が減る一方だよね。そういうところに対する関心が医者の側に全くない。
 小児科医だと、米国はだいたい一日に三〇人か四〇人ぐらいの子供しかみないというふうになっていて、ほとんど予約でやっている。それだけですませるには、こういう場合は病院へ来なくても家でみればいいんだよという患者教育みたいなものを一方でちゃんとしないといけないわけで、一応そういうことをやっているということがある。
 だけど、日本では、医師会にせよ勤務医にせよ、患者教育みたいなものは一切やっていない。だから、僕らが書いてきたのは結局そういうことなんだよね。本来、医者は自分の患者さんに対して、こういう時は来て、こういう時は自分でみていいし、自分でみている時にはどういう注意をしたらいいのかということを、普段話していなきゃいけない。我々の本がある程度売れてしまうのは、そういう話をほとんどされていないから。病院で一応説明を聞いたけれど何もわかんなかったから、家へ帰ってきて本のその項をひいて調べてやっとわかったなんていうことが日常行われている。
 こういう状況が何によって生まれたのか、その中には自分たちの責任もあるわけだから、その部分はまず何とかしていかなきゃいけない。行政に求めるものは行政に求めるとしても、自分たちの方にこそある。でもかなり被害者意識があって、今の親たちがわけわかんないからなんでもかんでも病院へ来るとか、なんでもかんでも文句を言うとかという、被害者意識になっているんだけど、親が不安になっていたりするのも医者が不安にさせるような検討をしてきたからそうなったわけで、最初からそうだったんじゃなかろうと。

■合理的なことをきちんとやる

◆立岩:山田さんたちって、ほぼ九五パーセントぐらい、すごく普通の、普通のというか、当たり前に考えればそうだろうということを言ってきたんだろうと思うんですよ。
◆山田:そうだよね。
◆立岩:だからこそ読まれもしたし、受け入れもしたと思うんです。それは普通に合理的なことをちゃんとやりましょうということだったと思うんですよね。そこはけっこう大切なことで、つまり、仕事が多すぎるって文句を言っているわけでしょ、今人々は、医療者たちは。だけど仕事は減らせるということですよね。
 産科に関して言えば、助産師さんたちでほぼやっていけるのに、そういうシステムになっていないから、助産師さんたちに仕事が任せられないという状況が産科にはある。小児科は今おっしゃった通りだと思うんですよ。だからそのへんを普通に合理的に考えていけばいいわけで、あんたら仕事が多すぎて困るって言っているんでしょ、だったら合理的に仕事を減らすような状況をきちんと作っていくのが正解でしょ、という話をしていく以外ないですよね。それがそういうふうに話がいかないまま、余計な奴が来やがるっていう繰言を言ってというところでグルグルまわっているのが今の状況ですから。
 そういう意味で言えば、それだけでは言えないようなことを山田さんたちは言ってきた部分ある。でも、同時に非常に当たり前のことを言ってきたわけで、それをやっぱり引き取るっていうんですかね、それはできることでもあるじゃないですか。それはそれで、本当はリアル、非常に現実的な解のある話だと思っているんですけどね。
◆E:仕事が多すぎるってことを立岩先生がおっしゃいましたよね。他方で自分たちの権益を主張するっていう。このへんはどういう関係になってるんですか?
◆立岩:仕事が多すぎるって言いながら、でも仕事が減ることを嫌がってるってことがある。忙しい、忙しいって言うから、もっと時間を作ってあげるよって言われると、実は軸足はそっちではなくて、今ある確かに忙しいかもしれない仕事を守ることの方を実際は大切にしてるんだってこともある。
◆E:それは仕事が減ると収入が減るから?
◆立岩:収入もまぁ。
◆F:日本の保健医療制度って出来高払いなわけだよね。病院の場合は。たとえば、非常に専門的な人が手術をしても研修医の一年目が手術をしても、同じ値段なんですよね。保健診療なら。アメリカの場合はコンサルタントとかになると、もうそれでかなりフィーがとれるし、イギリスの場合もコンサルタントになると、自分のプライベートの患者いくらでもみれる。で、質問なんですけど、医者の社会的な価値っていうのがやっぱり日本ってそんなに偉くはないんじゃないかと思うんです。偉くなったのはごく最近で、アメリカとかイギリスとかと比べると、社会的に日本の医者って、そんなに戦前とかすごい偉い存在じゃなかったように思うんですけど。
◆山田:要するに集団としての医者というのは、大して尊敬されていないけど、主治医は尊敬されているという。アンケートを採って医者総体としていいか悪いかと言われると、支持率はすごく少ないんだけど、自分が診てもらっている医者はよいっていうみたいなね。それで安心しちゃっているというか、世間には悪い医者もいるかもしれないけど私はいいっていうふうに、自分への問い返しがあまりないというところはあると思う。
◆F:イギリスってロイヤル・カレッジ・オブ・フィジシャンのメンバーになるならないってすごい大きいじゃないですか。それはすごい歴史があって、そのメンバーになったっていうだけでステータスも全部ついてくる。たぶんアメリカも。日本の場合は、たとえばどっかの学会の専門医になったからといって、それだけでステータスがまったく変わっちゃうっていうのはなくて、むしろ今まで大学の教授になるとすごかったのがもうだんだん崩壊してるから、教授がなんぼのもんやっていう時代に今なってきてますよね。
◆山田:そうだよね。要するに、今まで実力じゃなくて肩書きみたいなもので見られていたのが、アメリカ型の実力でっていうね。だいたい今までね、ものすごくできるやつってだいたい変わり者が多くて、日本では集団の中にいられなくて外へ出てるんだよね。私の一年下の福島っていう脳外科の神の手だと言われる医者だとかね、
 要するに、今まで実力ではなくて肩書きみたいなもので見られていたのが、米国型の実力というね。神の手みたいな奴、ものすごくできる奴ってだいたい変わり者が多くて、日本の集団の中にはいられなくて外へ出ている。私の一年下の福島という脳外科の、「神の手」とか言われる医者だとかね、南口という循環器の医者だとか。付き合いたくない奴でもあいつにしか出来ない手術みたいなものがあると、頼まなきゃしょうがない。日本では、すごくできるやつは大学から追い出されていて、野に出ているんだけど、評価はないというか、一般の医者と同じ目で見られていた。それが変わってきている。むしろ野の方にいるらしいと。雑誌が評価をすると、普通なら京都であれば京大がトップになるはずなんだけど、京都日赤の方が上だったり、ランクが違う目で見られるようになった。だから過渡期だろうね、今。
◆F:医者が自分たちの職業に対して、この職業をやっていくためには絶対守らなくちゃいけないというようなコードっていうか、そういうのが非常に日本の医者の場合は私は弱い気がしていて・・・
◆山田:武見太郎という医師会長がいてね★、彼はやっぱり医者の権威を守る。ただね、彼がおもしろかったのは、例えば患者さんは意見なんか言わなくていい、医者が言ったことを患者さんが聞いてればいいという感じだったんだけど、ただそういうふうにする上ではね、医者は絶対に間違ったことをしてはいけないと言う。
 だから医者はもう不乱に勉強をしてね、自分の技に磨きをかけてね、ちゃんと信頼されるような医者になっているということがまず条件としてあって、その上で、患者さんはもう何にも考えないで全部お任せしとけばいいっていうふうに彼は言っていた。ところがその頃でも医師会の多くは自分を磨くことはしないでお任せ主義で、最終的には、武見は失意の中で死んでいった。彼なんかは、かつてあった権威が落ちていくということは見据えていたと思う。医は仁術、貧しい人からはお金はとらない医者が世の中にはたくさんいるといったイメージが、ある時期まではあった。今、そんなことを思っている人はほとんどいなくなって、仁術だという概念はなくなっている。武見はその仁術を守ろうとした最後ぐらいの人かもしれない。
◆F:武見太郎の息子も選挙落ちましたからね。医師会が応援したけどもダメだったですもんね、今回。

■この道も、この道も同様に間違っている

◆立岩:武見さんってたしかにね、徹底して自らの権益を守る側にいるとともにある種のモラリストというか、何をすべきかは自分たちで考えてやるんだと言う、言いたがる部分はあったとは思うんですよ。すると、いまの現実はそこから後退してるようにも見えると。それに対して例えば、今日話の最初に出た松田さんとかね、それはまた全然違うスタンスというか、場所、ポジションですよね。一方は日医の会長であり、一方は京都の町医者。でもメディア的には知られていて、患者の権利を言う。ほぼそれは当たりで、たいへんもっともなことであったと思うんだけれども、例えば終末期医療の議論の中で言うと、じゃあそのモラリズムなり専門家主義に対して、松田さんの線でいけるのかという話がやっぱりあるわけです。
 従来どおりの仁術専門化主義、モラリズムでいくっていっても、そうはなかなかいかん、現実にはいかないだろうと。それに対して、患者のある種の消費者主義と権利で押してきたときに、まるまるオッケー、なんでもオッケーみたいな話になってきて、それの方がある意味で医者は楽じゃないですか。「患者様の言われた通りにやるだけです私」、みたいなね。
 どちらに行っても、それでいいのと思える。そこをどう考えるかという話ですよね。
 そういうどうしたものかわからない場面について一つなされる話は、そこにいる人を診ろ、付き合えという話で、それはその通りだと思いつつ、でもそれは言ってみれば一人ひとりの医師のある種の心意気のようなものに委ねられている部分もあるわけで。さぼろうと思えばさぼれるわけですよね。付き合うやつは付き合うかもしれないけれど、付き合わなくたって世の中の医療者の仕事は進んでいく。そういう意味で言えば、本人をきちんと診る、というのは正解ではありつつも、二つの方向に対する代案、システムとしての代案にはなりにくい。
 というようなやっかいな状況にあるんだと思うんだけれども、どうなんでしょう?
◆山田:そっから先の代案でないからね。
◆立岩:そうかな。たとえば、小児科で言えばね、日本の戦後、読まれたのは松田さんであり、それがまた十年ぐらい経った後で今、『育育児典』だと思うんですよ。そういう中で、たとえば松田さんみたいなね、先達というか、みたいなものをどう評価してどこを受け継ぐっていうのはありますか?
◆山田:松田さんはやっぱり基本的には結核の専門家であって、そういう意味では、もうそういうことを知らない人たちの時代だったら尊敬はされなかったかもしれないけれども、一定といえばやっぱり尊敬はされたっていうか。
 こういうことっていうのはほんとに、医者の世界みたいなのはさ、なんか嫌なやつでもやっぱり学歴が上のやつには一応敬意を表さなきゃいけないみたいなものってあるから、大学の格差みたいなものがあって、それは毛利さんなんかも言うんだけど、毛利さんと私の間でもやっぱり医者の間だと評価が違うところがあるんだよね。毛利はむちゃくちゃだけど、山田はまだ少しましとか言われたことがあって、どうもそれはね、卒業大学だとかなんかの問題みたいなんだよ。そういうとこって残るんだよね、どうしても。やっぱり松田さんは京大出て、それで結核の専門家であって、そういう人が一介の町医者になったっていうのがあるから。
◆立岩:立派な知識人でもあったんですよね。ロシア語バリバリ読んで、みたいなね。
◆山田:そう。だから医学的にもやっぱり優れた人だっていう評価があった上でのことで、それで、だから我々とは評価のされ方が少し違うと思うし、松田さん自身の問題で言えば、あの人書斎の人だから、だから実際に、たとえば障害を持った人だとかなんかの生活に接したとかなんかっていうことはなかっただろうと。
 それはあれだけ学識広い人だから、被差別部落の人たちがどういう人たちだとかなんかっていうのはわかってたとは思うけど、やっぱりその人たちがどういう生活をしてどういう生活環境を持ってるかっていうことろまでは、分け入っていなかったと思うし、そのことがやっぱり最終的に、実際そういう抑圧された人っていうか、だから、松田さんがやっぱり見てたのは、一定のレベルの人たちであるわけだし、しかもある程度医者として有名になったりすると、有名になったなりにそういう患者さんが集まってきちゃったりするわけだよね。すごくものわかりのいい、ある程度、ものわかりがいいのが、いいのか悪いのかわかんないけど、ある程度のレベルの知識を持ったりなんかしてる人だから、あんまりとんでもないことを言ってもびっくりしないとかね。そうするとなんかすごくやりやすいわけだけど、そういうところっていうのはどうもあって、特にやっぱりもう後年は自分で臨床もやらなくなってしまったから、だから理論的にはいろいろわかっても、要するにごちゃごちゃした部分っていうところへいくと限界があったんじゃないかなっていうふうに思うよね。
◆立岩:そうですね。彼自身が立派な市民であり、彼が相手にした人たちっていうのがまた立派な市民でありっていう、そういう制約っていうのはやっぱり松田さんに関してはすごくあったんだろうなぁっていうのはそうですよね。
 みなさんどうでしょう。三時間もやってますから、さすがにそろそろですが。

◆G:私は出会っちゃったから、そこにそういう人たちがいるのに、会っちゃったらごちゃごちゃしようが何でも引き受けなきゃいけないっておっしゃってたじゃないですか。こないだ原田〔正純〕さんのお話を〔日本保健医療社会〕学会で聞いたんです。原田さんも同じように、水俣の人たちが、水俣病って診断がつけば法的な救済があるけれど、そうじゃないと僕たちはなにも知らないというような行政がいて、そこで実際に困ってる人たちに出会ってしまったので、原田さんの場合は、山田さんとは違って、開業医として在野に帰るのではなくて大学にずっと残って、その死んだ、出会って見てしまったからやらなくちゃいけないって思ったっていう。たとえば出会ってる医者はいっぱいいるんだけど、だけどそこで引き受けない医者もいっぱいいる。私だとそこが何なのかなってちょっとすごい気になっているんですけど。ちょっとぜんぜん、今日の話とは・・・
◆山田:そこがどうなんだろうね。
◆G:そうなっちゃう人とそうなっちゃわない人の違いというか、そうなっちゃう人はなんでそうなっちゃうんだろうというか。なんかうまく言えないんですけど・・・
◆H:最首さんが内発的義務みたいな話してますよね。
◆I:なんか仕方がなかったみたいな感覚ってありますか? 出会ってしまった。で、面倒くさいなぁとか、たとえば、いわゆる正義感みたいなんだけじゃなくて、発するっていうんですかね。その・・・
◆山田:嫌でもないんだもんね、だから。
◆I:むしろそうですか。
◆山田:うん、嫌でもないんだもんね。一番最初にホームレスの人たちの診療所へ行った時っていうのは、結局大学で騒いで無期停学になって、どっかに居場所を作らなきゃいけないっていうのがあって、そういう活動家のたまり場みたいな診療所があるからっていうので行って、最初はびっくりしたんだけども、でもね、それは、つぶれたからやめたけど、あれつぶれてなければずっとあそこにいたって言えるよ。だから嫌いじゃなかった。今でも一番好きな場所だったかもしれないって思うよね。だから、原田さんなんかでも「しょうがなくてやったんだ」みたいなことを言うんだと思うけれども、だいたいそういう言い方をするんだと思うんだけど、やっぱりでもそうではないと思うよね。
◆J:だからそこの引き受けねばというかね、引き受けてやっていこうって、たとえばもっとたくさんの医者が思っていれば、今までいろいろあったようないろんなことっていうのはやっぱり、もうちょっと違った景色になったのかなって思っちゃうんですよね。医療過誤の問題にしても、薬害にしても。
◆K:引き受けるっていうことにもやっぱりいろんなあり方っていうか、あり方っていうより、いろんな道行きがやっぱあるんじゃないのかなっていうのを、今の話聞いてて僕も思った。だからいわゆる義務みたいなんに走って、まさにそういうのから、人が仕方ないとか、ある種の底辺じゃないですけど、とか、今山田先生がおっしゃったみたいな、なんていうか、好きって言ったら変ですけど、なんかそういう、その人の出会いはもちろん含めてっていうか、なんていうか、なんかやっぱりそこはもう一筋縄じゃないっていうか、説明できないですよね。だから、還元できないなぁ。
◆山田:なんていうかな、たとえば、自分の同級生やなんかと会ったときにも、やっぱり運動やってたころに、こういうことを言ってたのに、ちょっと今言ってること、それあんまりじゃないっていう、っていう、そこらへんのとこで、なんかああ言ってしまったんだから、やっぱりこれじゃあなぁっていう引っかかりみたいなものがね、ちょっとでも残っててくれればっていうふうに思うんだけど、まったく何かひっかからないっていうのが多いのが残念だよね。だから引っかかってくれればね、長いことやってなくても、なんかのときに頼めたりなんかするっていう関係性があるんだと思うんだけど。だから別の道を生きていくためには、引っかかっちゃダメだから、もう引っかからないように努力するんだよね、きっと。そういうことをちょっと思い出しちゃったりするとやばいから。そういうメガニズムが働いているかも。
◆L:そうやって、引っかかって外に行って、逆に中央が見本にするようなシステムを作ったりしてるといっていいところもあるのかな、そのへん詳しくはないんですけど。
◆山田:あれは、やっぱりね、いい医療をやると目指して、いい医療をやったと思ってるからよくないんだよね。田舎ってすごくやりやすいんだよね。医者がいい医療をやろうっていうふうに目標たてたらね、みんな協力してくれるし、やりやすいの。だからある意味ではね、それはいい医療をやることによって全総管理されているようなもんなんだよね。
 だから「健康日本21」みたいなああいう発想っていうのは、ああいうところからでてきてるわけで。
 地方の過疎のところへ行って、そこへ来てくれる医者は神様みたいに思われてる地域へ行って、医者が理想的な医療をやってしまうということは、それで満足したらやばいなぁっていう。そしてそれがモデルとして使われてしまう。今の健康政策みたいなものは予防医学という線だよね。どこがお手本になってるかっていうと、そのへんの地域医療がお手本になって、それを全国化するっていう。
◆L:男性の平均寿命が長野県で一番長いのは、そういうその地域、そういったところが非常に進んでるからだっていうような言い方をしますよね。それを目指せみたいになりますよね。
◆山田:「ぴんぴんころり」は佐久市の三浦さんが言い出したことだけれども。だから、なんていうか、革新的なところから安楽死的な発想っていうのが出てくるようになるというか。紙一重なんだよね、すごく。その紙一重の怖さみたいなものっていうのがなかなかわかんなかったわけだし。
◆M:過剰な医療、やっても仕方がないことを医者のほうでやってくのはよくないっていうのは、わりと医者はみんな共有して持ってると思うんですよね。その一方で、やらないとなったらほんとに徹底的にやらないのオッケーで、今実際現場で起きてることって本当に医療が引いちゃってるんですよね。
◆山田:学校で不登校の子供たちにやったことと同じようなところがあってね。最初のうちは医者もそうだし、先生たちもそうだけれども、登校刺激をして学校へ来させることがいいことだっていうの、だから一生懸命がんばっていたわけだよね。それがあるときそういうことがよくないっていうか、来なくてもいいと言った方がいいっていうことを覚えたらね、すごく楽なんだよね。それがいいと正当化されたら、やっぱりその線でやるのが楽で、しかも正しいんだからっていうことになっちゃった。
 刺激はしなくてもいいけど気にはしておいてほしいとか、せめてそういう子がいることは忘れないでほしいと思うんだけど、無視するとか、そういう特別な子は触れないようにするのがいいとかということにすぐなってしまう。医療なんかでも、パターナリズムなのかそうじゃないのか、おせっかいなのか親切なのかっていう、そのわからないところでごちゃごちゃしながらやっていると思うんだけども、それをすっきりさせて、おせっかいはしないとかね、おせっかいはしないと言う途端にお世話もしないというところへいってしまう。ごちゃごちゃするのが好きじゃないから。
◆N:今、延命治療が極端にそうだと思うので、一時もうほんとにすごいもうマジってぐらいやっていたのが、やらない方がいいんだってなったら、今もうほんとにやらないですから。
◆山田:ガイドライン主義みたいなのがあるんだよね。
◆N:ガイドラインの中にいさえすれば、それで訴えられることもないし、ガイドラインで外せるとか言えば、外して。呼吸器つけると管理もむっちゃくちゃ大変じゃないですか。
◆立岩:今、病院の倫理委員っていうのやってるんですが、聞くと、ほんとにそうなんですよね。かつてはやってた、もうやんなくていいことになっちゃった。やらなくていいことになってしまうと、そっちのほうが楽だったわっていう話になっていく。
 不登校児に関わらない方が楽:来い来いっていうふうに引っ張るよりほっといた方が楽なんですよね。それとほとんどパラレルのことが実際、医療現場に起こっていて。
 昨日も新聞のインタビューでそういう話をしたんですけど★、まさにそうなんです。じゃあそれで、どちらでもないんだっていう話を、現実にどこに持ってくのか。かしかにそれは言いにくいんですけど、でもこういう道もこういう道も根っこは同じで同様に間違ってるっていうのは、これは論理的にいえることだと思うのね。
 たぶん、学問みたいなものができることというのは、具体的なこのケースに関して、明確な処方箋が出せるかといえばたぶん出せない、考えればそういうことになるのかもしれないけれど、この道もこの道も同様に同じく間違ってるっていうようこと、これは理詰めで言える話だと思うんですよ。それはそれでやっぱりやんなきゃいけない。
 なんていうんだろうな、そういう道筋が、学問には残されているというか、必要なんだろうなと。どっちの極端に行っても、それは楽かもしれないけれども、それは違う、どういうふうに違うのかということを言いながら、じゃあそこのところをどうしようかというようなやりとりをする。そういう現場と、現場にいない人の仕事の仕方というのは、僕はたぶんあるんだろうなと思うんですけどね。
◆山田:こっちもダメ、こっちもダメっていうと、じゃあこれだというのを出してくれなきゃダメじゃないかと言われるから、それできついんだよね。私らの雑誌なんかもやっぱり評判悪いのもそこで、どっちもダメって言った上で、じゃあこれっていうのを言ってくれないじゃないかと。そこはもうこっちもゴチャゴチャだから、みんなも考えてよっていうふうに投げ出すわけだけど。
 松田さんなんかはやっぱり断定的に書く人で、これは正しいというふうに書く人だったんだけど、やっぱりそれが書けないっていうか、どっちが正しいというふうには言えない。今は、こっちをとらざるを得ないだろうというような感じで言うとすごく評判悪いよね。
◆立岩:ええ、評判が悪いのはわかります。僕が評判悪いのにも似たところがあるかもしれません。
 けれども、それは、実は、立場がはっきりしていない、曖昧だということではないと思うんですよね。僕は、山田さんや石川さんが書かれてきたそういった本に書かれていることって、「この世のことはなんでもいちがいには言えないよね」というだけではないと思うんです。医療者のパターナリズムってものがあって、それがいけないということに、いつのまにやらなって、振り子は反対の方に振れている。でもそこにあるのは、かつてあったよろしくないものとそう違うものなのか、と。たしかに威張る度合は減ったかもしれないけれども、その代わりに仕事を放棄し人を放置して楽をしているのは医療者じゃないか。そういうことを書かれている。
 これは先に申し上げたことだけれども、どっちへ行っても良くない二者択一のどちらかを選べというのはやはり間違っているのであって、どうするかはその後で考えるとして、その間違いを指摘することは、論理として正しいわけですし、そして、まずは人を立ち止まらせる効果があるわけですから、現実的な有用性もあるわけです。そういうものを代案と思う人と思わない人とがいると思いますけれど、意味はあるんだと思います。一定の条件下では解がない、あるいは解が一つに定まらないことが証明できることはありますし、その証明には意味があることがある。ちょっと見方を間違えると、ずぶずぶの現場主義に見えるんだけれども、必ずしもそうではない。そういうことをきちんと示していくというのも仕事なのかなと思います★。
 そして
 基本ははっきりしている。その子ならその子が生きられたらよく、よく生きられた方がよいと。その上で、この薬がどうかということは、かくかくしかじかの理由で、素晴らしいとも絶対にだめだとも言えない。山田さんたちは、そのように書かれるわけですよね。だから、はっきりはしているんだと思います。
 そして先の話を結びつけるならば、ある「体制」において、つまり私たちの社会において、人は余計なことをされたり、意思を尊重された結果放置されたり、といったことが起こり、同じく良くないことがそこに起こるのだと、このことを示すこともできるのだし、実際、私が読んできた書きものに、それが簡潔な言い方によってではあるとしても、示されていると思います。そこのところをもう少しこまごまと書いていくというということも、学問がやることなのではないと思うわけです。これは論理と論理の対決というか、相互の揚げ足取りというか、学がそういうものである限りは仕方がなくせねばならない仕事でもあるのだろうと。


UP 20091017 REV: 20160123
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