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「“アシュリー療法”論争 続報」

児玉 真美 200707 介護保険情報 2007年7月号

last update: 20110517


“アシュリー療法”論争 続報

シアトル在住の重症障害児に行われた、ホルモン大量投与による成長抑制と子宮摘出、乳房芽の切除をめぐる“アシュリー療法”論争について、3月号の当欄で取り上げた。このほど大きな動きがあったので、続報として紹介する。

こども病院、違法性を認める
 シアトル子ども病院は5月8日、本件を1月から調査してきた障害者の人権擁護団体Washington Protection & Advocacy System (当時。6月1日からDisability Rights Washington に改名)と共同で記者会見を開き、アシュリーに行われた子宮摘出手術について、裁判所の判断を仰がずに行われた点で違法であったことを認めた。
 ワシントン州の州法では発達障害のある未成年の不妊手術には裁判所の命令を必要とする。また、本人の利害のみを代理する法廷代理人が、熱心に敵対的審理を尽くすことが必要との判例もある。
 病院側の説明によると、アシュリーへの手術を承認した倫理委員会はこうした手順を踏むよう両親に勧告したが、両親の弁護士が「不妊が目的ではないため不要」との判断を示したことから、担当医らが手術に踏み切った。病院は、倫理委と担当医の間の意思疎通の齟齬が原因だったと釈明し、WPASとの間で以下の合意に至ったことを発表した。@成長抑制を目的とした医療介入について方針と手続きを定め、今後このようなことが起こらぬよう改善策を講じる。A倫理委のメンバーに障害者の権利擁護の視点を持った人を加え、さらに今後5年間は、同様の処置の検討が申請された場合にはWPASに通知する。

調査権限もつ人権擁護NPO
 WPASとは「発達障害支援および権利章典法」その他の法律に基づき、ワシントン州において障害者の保護と権利擁護サービスを提供する民間NPO。設置は連邦政府により各州・テリトリーに義務付けられており、全国で57のP&Aシステムがある。連邦政府が活動資金を提供し、発達障害者への虐待やネグレクトが疑われる場合には調査を行う法的権限を与えられている。WPASが5月8日付で発表した調査報告書によると、1月3日からの報道を受けて、8日には担当医らが所属するワシントン大学に対して調査開始を通告する迅速さだ。それから5月の共同記者会見まで、さぞ丁々発止のやり取りがあったろうことは調査報告からも伺われる。調査権限を持つ監視団体があるというのはこんなにも頼もしいものなのか、と思わせられる出来事だった。

シンポでなお「手続き上のミス」
 とはいえ、病院も全面的に降伏したわけではない。5月16日、ワシントン大学において本件を議論するシンポジウムが開かれ、会場の様子はWebcastを通じて世界中にリアルタイムで配信された。論文執筆者の1人Diekema医師(注)や倫理委の委員長だったWoodrum医師をはじめとする病院関係者、WPASの他、障害者の人権擁護団体、哲学、倫理、法律、障害学など、多彩な分野からパネリストが登場し、午前・午後に渡って激しい議論が展開された。障害当事者やその家族が多数詰め掛けており、会場からも発言や質問が相次いだ。またアシュリーと同じような処置を我が子に望む親からの、悲痛ともいえる訴えも数多く聞かれた。病院側はいずれの場面でも、「あくまで手続き上のミスに過ぎず、判断そのものは正しかった」との主張を崩さなかった。
 なお当日はオレゴン州在住の日本人で非営利法人インターセックスイニシアチブ代表の小山エミ氏が傍聴、会場から発言もした。小山氏は自らのHPで同シンポの詳細な報告を公開している。http://macska.org/
介護者の正当なニーズ、認知を
 シンポの議論では、ノースウエスタン大学の医療倫理学者Alice Dreger 氏の発言の中に、先月号でとりあげた「介護者支援」と関連する興味深い指摘があった。
 介護者、特に障害児の親は、社会から「自分を捨てて我が子のために尽くす」美しいモデルを押し付けられて、本来は正当な自分自身のニーズであるものを無意識のうちに抑圧してしまっているのではないか。介護者にも介護者自身のニーズがあることを社会が認め受け入れることによって、介護者がアシュリーの親のような選択へと追い詰められる事態は回避できるのではないか。
 同氏は本件が大きく報道された直後の1月18日にもブログで「アシュリーと無私の親という危険な神話」と題するエッセイ(注2)を発表し、自らの子育て・介護体験をもとに同様の主張を行っている。「介護者にも正当なニーズがあることを認めるべき」というDreger氏の提案は、そのまま先月号で紹介した英国の介護者アセスメントの理念でもあろう。

  追い詰められる介護者
 “アシュリー療法”が世界中で論争になっていた1月末、広島では家族の介護放棄による死者が出た。昨年9月に大阪で起こった介護放棄による同様の事件の続報(介護放棄の夫ら不起訴)も1月から3月にかけて続いた。
 このような事件が起こると、社会は「どうして支援が間に合わなかったのか」と介護専門職や福祉行政の責任を問い、「助けの手も借りられたはずなのに」と、介護を抱え込んだ家族をいぶかる。しかし、その一方で障害児・者や高齢者を介護する家族に「献身的な母の姿」や「美しい家族愛」を重ねて賛美し、暗に「介護が苦にならないのも愛情があればこそ」とのメッセージを送るのもまた、メディアであり社会である。アシュリーのケースでも「そうまでして家でケアしようという親の愛情」や「生涯わが子のケアを引き受ける覚悟」に感動し、その決断を是認する人は驚くほど多い。
 こうした社会のダブル・スタンダードは、「もっとしてあげたい」という思いと、「でも、そこまで頑張れない」現実の自分との相克に苦しむ介護者から、助けを求める声を奪い、さらに頑張り続けるしかないところへと彼らを追い詰めていく。介護者をこのような閉塞状態から解放するためには、Dreger氏が言うように、介護者自身にも正当なニーズがあることを、まず社会が認めなければならないだろう。
 介護の社会化をうたって介護保険が作られた。しかし施設入所から地域での在宅生活支援へと制度の軸足が移っていく現在も、介護者の負担は依然として大きい。介護は、その役割を担う人への肉体的、精神的、社会生活上の負担を伴う日々の営みである。個々人の愛情や努力や能力・資質に帰するのではなく、避けがたい負担が存在することを前提に、介護者自身への支援が制度の中に位置づけられることも必要ではないだろうか。

 去る4月7日、アメリカの45の家族介護支援団体で作る National Alliance for Caregiving (米国介護連合)から会長以下が来日し、東京都内で開かれたシンポジウムにおいて、日本の介護者支援団体にも国際的な介護者支援ネットワークへの参加を呼びかけたそうだ。シンポ事務局を勤めた高齢社会をよくする女性の会の樋口恵子代表は、全国介護者組織の実現と国際的な“介護の日”の制定を訴えている。
介護者自身への支援を求める声が、日本でも上がり始めたようだ。

(注)3月号の当欄でDiekema医師の名前を「ダイケーマ」と表記しました。正しくは「ディークマ」でした。お詫びして訂正いたします。
(注2)http://www.bioethicsforum.org/Ashley-treatment-parental-responsibility.asp


*作成:堀田 義太郎
UP:20100212 REV: 20110517
全文掲載  ◇児玉 真美
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