「精神保健福祉システムの変容と精神障害者家族研究(1)」
南山 浩二 1999/07/30 静岡大学人文学部人文論集第50号の1 pp1-19
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精神保健福祉システムの変容と精神障害者家族研究(1)
南山 浩二
1999年7月30日 静岡大学人文学部人文論集第50号の1 pp1-19
1.なぜ家族なのか
障害者基本法において精神障害が、身体障害・知的障害と同様に、社会福祉の対象であることが明示された。このことをうけて、精神保健法が精神保健福祉法に改正され、精神障害者の「社会復帰」「社会参加」が基本命題となった。収容治療中心の施策から、「医療と福祉」を両輪とする施策への転換は、「病院から地域へ」という流れを急速に形成し始めている。ここ近年の展開は、長期在院者の入院医療費問題を根源的理由としつつも、精神障害者の人権擁護やコミュニティケアが重要であるとの認識の高まりなど、精神医療に内在する諸問題を解決すべきとの主張が混在しながら押し進められている。
確かに「病院から地域へ」という流れは、入院期間を短縮し、病院を生活の場としない思想を精神医療内部に定着させたかにみえる。しかし、あまりにも未熟なコミュニティケアシステムや社会資源の実状を反映し、社会的入院とされる患者数に顕著な減少傾向が見られず、退院してもまもなく再入院となる事例-いわゆる「回転ドア現象」-も増加しているとの指摘もある(氏家,1997)。そして、未だ地域での精神障害者者の生活の場の中心は家族なのであり、依然として「病院か家族か」という二者択一的な状況から完全には脱しえていない(2)。
では、日本の精神保健福祉システムが急速に変容しつつある今日、どのような問いをたてることができ、そしてまた、たてることが必要なのか(3)。その問いの一つとして家族をとりあげることにしよう。
なぜ、今あらためて家族なのか。その理由を次のようにいうことができよう。時代、時代の精神障害の社会的位置の変遷に伴いながら、その時々の方法によって精神障害者と家族は結びつけられてきたのであり、近代という歴史に限っても、精神障害者への社会的対応の諸相において、家族は重要な位置にあり続けた(石原,1988:16)のである。「コミュニティケア」「社会復帰」「社会参加」がキーワードとして浮上している今日においても、主要な回路である法制度、精神医療や福祉システムなどによって家族はその範囲と役割を定義され期待され、精神障害者と結びつけられているのだ。すなわち、その結びつけられ方、そして実際の障害者・家族の営みに着眼し、浸透しつつあるコミュニティケアの理念・実態との関連や整合性を検討することが、これまでの精神医療を中心とした排除の機制を相対化しうるものであるかどうかを問うことの一部をなすと思われるからである。
本論では、まず、近代日本における精神障害の社会的位置と家族責任の変遷を確認した上で、今なお様々な回路によって水路付けられている家族の今日的位置を浮き彫りにする。そして、主として1980年代前後からなされた家族社会学における諸研究のレビューを通じて、これまで精神障害者と家族がどのように捉えられてきたかを整理することとしたい。最後に、以上の2つの作業の結果をつきあわせることによって、精神障害者家族研究の課題を呈示することとしよう。つまり、地域へという流れにおいて家族をどう捉え直すかということである。
では、まずはじめに、精神障害の社会的位置の変遷をたどりながら、家族にどのような責任が課されてきたかをふれる。そして、過去の軌跡をふまえながら、今日、どのような局面を迎えているのか考えておこう。
2.精神障害の社会的位置と家族責任の変遷
さきに述べたように、精神障害が知的障害・身体障害と同じく「障害」であるとみなされ社会福祉の対象として捉えられたのは、ごく最近のことであり、しかも医療の対象であることが明確化され始めたのも第二次世界大戦後になってからのことであった。近代日本において、久しく精神病者は、治安維持を目的とした隔離・拘禁の対象であったのであり、「反社会的存在」としての位置を付与されていたのである。
精神病者への対応のあり方を定めた日本最初の法律「精神病者監護法」(1900年)や、この法律の運用綱領(4)の内容からも明らかなように、精神病者は、当初から警察の管理下にあった。精神病者は「監護」、つまり拘禁の対象であり、「監護義務者」である「家」の成員が、警察の許可をうけたうえで私宅内に拘禁すること(私宅監置)が主たる対応であったのである(5)。その後、「精神病院法」(1919:大正8年)により、国家責任の一部が明確化され、都道府県が精神病院を設置することなどを定めたものの、病院設立は進まず、実に、第二次世界大戦後に至るまで、私宅監置が主要な対応であり続けたのであった。
つまり、医学の未発達、未熟な医療・生活保障システムの実状などを背景に、「家」は、「反社会的存在」とみなされた精神病者を隔離・拘禁する位置、もう少しすすめて言えば、「国家の支配構造の最末端の担い手として、社会の治安・秩序維持をはかる機構」(石原,1988:19)としての位置にあったということができる。
こうした精神病者の位置とそれにもとづく対応のあり方が大きく変わるのは、戦後の「精神衛生法」(1950年)の制定まで待たなねばならなかった。私宅監置が廃止され(6)、患者の精神病院以外への収容が禁止となり、ようやく精神病は他の身体的疾患と同じく医学的に治療または治癒が可能な「病気」としてみなされることになったのである。しかしながら、この法の多くの部分が、事実上、患者本人の意思によらない強制入院を規定するものであったことからも、戦後においても、なお、精神病は隔離・拘禁の対象という姿勢が、基本的には踏襲され続けていたといえるのではなかろうか。
また、この法により、導入された保護義務者(7)制度は、家族に、治療を受けさせる義務や自傷他害防止義務などを課した。強制入院(8)の一形態としてもうけられた「同意入院」(9)は、本人が入院を拒否した場合、家族の同意があれば入院させることができるとしたものであり、本人の意思を家族の意思に置き換えたものであった。精神病者を隔離・拘禁する位置は家族から精神医療に移された。そのかわり、家族は、患者の意思を代替する位置、そして患者の治療過程や生活全般を管理し精神医療と患者をつなぐ位置におかれたということができる。
その後、日本では、欧米諸国の動向に反し、精神病床数の急増がはじまる。「小さな閉じこめ」の時代は終焉を迎え、「大いなる閉じこめ」へと進んだ(金子,1982)。病床数増加を指図した国庫補助政策、医療法特例により一般病院に比べはるかに少ない医療スタッフの配置が容認されたこと、病院にいるのが患者にとって最善の選択とするパターナリスティックな発想が「精神病院ブーム」と呼ばれるほどの病床数急増を導いたのである。
通院治療を可能にしたはずの抗精神薬も、時には、入院患者を拘束する手段と化すこともあった。そして、精神病院で「医療」の名のもとに実際に行われていることが、様々な形で、あいついで告発された、あるいは露呈した(10)。1964年のライシャワー事件後の精神衛生法改正および保安処分論議の台頭を契機として活発化した、法曹界、弁護士会などの精神障害者の人権擁護への取り組み。国連NGOによる日本の精神医療批判。家族会運動の全国的広がりと組織化を基盤とした国・行政への発言権の増大。生起したこれらの出来事などの積み重ねによって、1980年代半ば以降、日本の精神保健福祉施策の潮流は、大きな変化を経験することになるのである(全家連,1997a)。
1987年の「精神保健法」への改正では、第一条に「精神障害者等の福祉」とあるようにはじめて「福祉」の文言が記載され、社会復帰に関する規定が盛り込まれ、精神障害を福祉の対象とする方向性がはじめて示されたといってよい。入院は本人の同意による任意入院が原則となり、患者の治療拒否権が事実上認められ、旧法において手薄だった患者の人権擁護の観点も取り入れられた。そして、精神保健法が精神保健福祉法(正式名称「精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律」)に改正された。法名称にも「福祉」が明記され、内容に「精神障害者等の自立と社会参加の促進のための援助」が加わり、各種社会復帰事業の法定化、市町村の役割の明確化など、地域社会に重点をおく規定が大幅に加わったのである。また、自己決定を中心におく自立概念が精神障害領域にも徐々にではあるが浸透しつつある。
では、1980年半ば以降、家族はどう位置づけられていたのか。依然、意思を代弁する位置、治療経過や生活全般を管理する位置にあったといえるだろう。「保護義務者」規定は存続され、のちの精神保健法見直しにおいても「保護義務者」という名称が「保護者」に変更されたものの、その義務規定等にはほとんど変更が加えられることがなかったことからも明らかである。
こうした家族の位置づけへの異議申し立ても起こっている。1990年代から家族会が保護者規定全廃にむけた運動をはじめた(全家連,1997:107)。患者とされた人々の意思を「精神症状」のもとに回収し無効化する。その上で、患者の意思=家族の意思という図式のもとに、患者の意思が不在のまま、医師-家族間で治療上の決定がなされる。そして、このことが通例化した。とくに医療保護入院の同意権は、本人の意思に反した決定を家族に強いることを含んでおり、障害者と家族間に必然的に亀裂を生じさせる原因の一つともなっている。家族が治療のみならず生活全般を管理し決めることは、障害者が決めることを完全に排除するものであるとともに、本来ならば、医療やコミュニティケアシステムなどにむけられるべき要請までもが、家族責任のうちに隠蔽されうることを意味する。家族会によるこうした問題提起は、換言すれば、家族の定義と障害者-家族の関係性の再編を、法制度を中心とした諸回路に対しもとめる主張ということができる。
3.精神障害者家族への社会学的アプローチ
近代という歴史に限定しても、精神障害の社会的位置とそれにもとづく社会的対応のあり方、家族の位置について変遷の過程をみとめることができた。それでは、こうした変移を背景として、これまで精神障害者家族が、社会学の立場からどのように捉えられてきたのか、家族社会学を中心に見ていくこととしよう。
従来、精神障害、とりわけ分裂病と「家族」に関連した研究は主として精神医学領域を中心に押し進められてきたきらいがある(前田・石原・大島,1987:50)。しかも、遺伝論や病因論としての家族への接近であったり、あくまでも円滑な治療過程を保持するための協力者として家族を位置づける研究がその動向の主流をしめていたといえるのではないか。それに対し、社会学の立場からの接近は、まず、家族を社会システムとして捉える家族ストレス論あるいは個人レベルのストレスへの社会学的アプローチに依拠し、家族を「生活する主体」「ストレスを受ける主体」として措定したことに大きな違いがある。
その萌芽は、袖井(袖井,1968,1974)による研究などに見出すことができるが、継続して活発な研究がなされ始めたのはようやく1980年頃になってからのことであった。プライバシー問題などを背景に、実施が難しかった全国調査が、1985年、全家連により行われたこと、そして、この調査の計画の実施・集計・公表過程に社会学者が参画したことを契機に、活発化することとなる(岡上・大島・荒井,1988)。
(1)「生活する主体」「ストレスを受ける主体」としての家族
「精神障害者の問題は従来医療問題として考えられ、また語られ続けてきた。だが、多くの人達が長期間にわたる療養(再発再燃も含めて)を必要としている実態から、患者及び彼を囲む家族が次第に中高年齢化している現実を多くの医療関係者も強く感じていた。それは戦後飛躍的な発展をとげたという向精神薬の開発や治療技術を自画自賛する精神医療及び行政関係者の触れられたくない現実の側面である。その中で、精神医療の限界をどう線引きするか、その線以降の問題にどう対処していくかが大きな課題である。この認識がこの調査の出発点であった。」(石原・滝沢,1979:1)
これは、1979年に出された精神障害者家族へのインタビュー調査の結果をとりまとめた報告書の冒頭に記されている言葉である(石原・滝沢,1979:1)。退院といえば戻るところは家族。地域には、家族のほかに生活の拠り所となりうる場も希少であったといってよい。当時の医療サイドの家族への期待も大きいものであった。このような状況では、家族が障害者を受け入れることを拒否すれば、そのことは精神病院を生活の場としつづけることを意味していた。「家族が引き取らないから、われわれが家族のかわりに世話をしているのだ。」精神医療が本来の意味での「医療」の枠をこえて肥大化していくことへの批判に対し、医療従事者たちの答えはこのようなものになりやすかったのだ。精神医療の範囲を限定すること、家族の限界を示すこと、そして、そこから抜け落ちた部分については福祉的対応が必要とする石原と滝沢の主張は、当時の実状に対し、大きな疑問を投げかけたものであったということができるだろう。
こうした問いかけのもとに、1980年頃から行われ始めた、精神障害者家族研究は、家族をただ単に障害者の地域生活を支える資源の一つとしとらえてしまうのではなく、「生活する主体」「ストレスを受ける主体」と考えたのである。ヒル(Hill,1949)などによる家族ストレス論や、ラザルス(Lazarus et al,1984)のストレス研究などの理論的実証的な蓄積を積極的に取り入れたことで、単純集計の羅列にもとづく冗長な記述にとどまっていた先行研究の限界点を克服し、家族の実状を体系的に理解することができるようになったのである(石原,1982b.,石原・大島,1984.,大島,1987.,南山,1995,1996b,1998.,三野,1993,1997.,)。これまでに、家族が、将来への見通し不安を中心に家族生活全般にわたって深刻なストレス状況にあり、病状を含めた本人の状態が家族のストレス状況を大きく規定していること、それに加え、家族内外の資源状況も大きく関与しており、地域社会から孤立化しやすいことも状況改善を難しくしている一つの原因であること(石原・大島,1984.,大島,1987.,南山,1995)、障害者への共感的態度や、犠牲感や扶養意識などもストレス状況生起に関与していること(石原,1982b.,石原・大島,1984.,大島,1987.,南山,1998)などが明らかになっている。こうした知見は、それまで経験的には知られていた家族の実状を、より一層明確に示しており、家族への支援の方法や具体的な制度・サービスを模索するための素材として、多分に実践的インプリケーションを持ち合わせていたといえよう。
また、一連の研究が、石原が開発した「(家族の)生活困難感」尺度、「(家族の障害者に対する)共感度」尺度など(石原,1982a,1982b)(11)をもちいており、知見の追試や体系的集積が可能となったことも特筆すべき点であり、その後も継続して、尺度の改良や新たな尺度の開発(石原・大島,1984)(12)、理論枠組みの精緻化(大島,1987.,南山,1995)(13)が行われている。
その他には、地域間比較の方法を取り入れ、家族資源や社会資源の状況、伝統的家意識などの社会規範が維持されている程度などの地域差が、家族ケアの実状に与える影響を検討する研究も行われた(石原,1982a,1982b,1996.,大島,1987.,竹島,1997)。
石原は、地域間における家制度の偏在が、家族扶養のあり方にもたらす差異について検討している。その中で、家制度の伝統の強さは、家族による障害者の扶養を維持するものの、規範の拘束性という側面から、困難感を伴い易いということや、人口あたりの精神病床数が、拡大家族形態が多く伝統的家意識が維持されている地域ほど圧倒的に少ないことを示している。これは、当時、医療従事者によって賛美されやすかった扶養規範の限界や、精神病院が家族の扶養機能の安全弁的役割を果たしていることを示唆するものである(石原:1982a,1982b)。すでに述べたストレス研究や、精神病の経過の長期化に伴う障害者・家族の変化や親の高齢化の問題、きょうだい世代へのケアの継承の難しさを論じた研究(石原,1982b,1988b.,石原・南山:1993)などとともに、家族への過剰な期待を相対化する役割を十分に果たしたのではないか。
地域比較研究には、その他に、都市部(神奈川県川崎市)と農村部(長野県東信地区)の比較(大島:1992a)、都市内部(川崎市)を、工業地域(川崎区)、商工業地域(幸区・中原区・高津区)、住宅地域(宮前区・多摩区・麻生区)の3つに地域区分し比較分析を行った研究(大島:1992b)、全国調査の結果を家族会所在地の人口規模別に分析した研究(竹島,1997)などがあり、こうした研究は、地域特性にみあった社会資源のあり方を示唆し提言しうる研究であったということができる。
(2)家族ケアが障害者にもたらす結果
先に見てきたように、家族を「生活する主体」「ストレスを受ける主体」と措定し行われた諸研究は、家族の困難な状況を明らかにし、その状況が容易には解決しえないことを立証したことで、「病院」「家族」にかわる第三の選択肢の必要性を主張しえたものであった。
こうした研究にも批判はあった。ストレス、とくに負担という概念がすでに「ケアはたいへん」「ケアを要する人を家族に持つことは困難」と価値付けられているという批判である。しかしながら、この批判の背後に「家族なのだから不満を表出すべきではなく、すすんでケアに向かうべき」という暗黙の前提が潜んでいたのではなかろうか。留意しなければならないのは、「ストレス」「負担」という概念ではなく、家族ケアのあり方を、家族側にもたらされる結果だけにもとづき判断することの限界性(14)なのである(南山,1998)。
1980年代半ば頃から、従来の<障害者→家族>というベクトルに加え、<家族条件→障害者の状態、入院期間>というベクトルへと研究の射程が広がり始めた。
その一つは、障害者の退院後の再発再燃に着目した研究である(前田・大島・石原,1987.,大島・岡上・石原,1992.,大島,1992.,大島・岡上他,1992)。特に分裂病などは、再発可能性が高く、その要因として過度のストレス負荷があげられる。すなわち、障害者の地域生活が順調に継続されるかどうかは、障害者に過度のストレスを与えないような環境が得られるかどうかにかかっているということである。退院後の生活の場となりやすい家族が、果たしてそのような場となりうるのか。家族が再発可能性を高める要因の一つであるならば、なぜそのようなことになるのか。この研究の関心はこのようなところにあったのだ(15)。現在、この新たな研究動向は、感情表出(Expressed Emotion)研究の成果をとりいれながら、大きな進展を見せている(大島・岡上ほか:1992)。その知見は、障害者のコミュニティケア継続を可能にするような家族条件の導出を可能としており、実践的な試みである家族支援プログラムにも結びついている(全家連:1997d)。
今一つは、社会的入院と家族条件との関連を問う研究である(大島・岡上:1992)。すでに述べてきたように、精神病院は治療機関という枠を大きく越えた様々な機能を担ってきた。その一部が、入院治療が必要ではない障害者の生活の場となっていたことであり、このことを正当化する根拠として、しばしば精神医療の側から「家族の受け入れ拒否」が示されてきた。こうした主張について、大島と岡上は「家族は、本当に精神病院に代わって精神障害者を地域でケアする能力や条件をもっているだろうか」(大島・岡上,1992:479)と疑問を呈している。そして、長期入院と短期入院かをわける家族条件として、「家族の受け入れ意識」が大きく寄与していること、家族の劣悪な資源条件が、「家族の受け入れ意識」に対し、一定の規定力を有していること、といった知見を示した上で、次のように述べている(大島・岡上,1992:487)。
「受け入れに消極的な意識を家族が持つこと、それが直ちに精神病院への長期入院につながってしまう現状の問題点を指摘しないわけにはゆかない。もし病院に代わる生活施設や精神障害者向けに配慮された公営住宅などが十分に用意されていれば、家族が仮にどのような意識を持っていようと、長期間の医療が必要なものは長期間の入院をし、短期間の医療的介入で回復するものは短期間の入院をするはずである。それが、医療の本来的な姿であることはあらためて言うまでもない(傍点は筆者による)」(大島・岡上,1992:487)
家族の実状を考慮しない、あるいは地域資源の脆弱さに対する認識の薄さ。そして、家族に観念的に扶養能力を期待し、入院か家族かの二者択一を迫ることは、長期入院者の退院促進には決してつながらないことを示したものであった。先に示した「再発」に焦点をあてた研究においても、家族が再発可能性を高めてしまう背景には、深刻な資源状況が大きく関与していることが指摘されている(大島・岡上他,1992)。「再発」「入院期間」という臨床的なメルクマールを取り入れたことで、精神医療に対し家族の限界性や地域資源の重要性をより効果的に主張することができるようになったのである。
4.新たなる射程
まず、前章までを簡単にまとめておこう。2章では、近代日本における精神障害の社会的位置と家族責任の変遷の軌跡を概観した。精神障害者の社会的位置の重心は、大まかにいって、治安の対象、医療の対象、福祉の対象へと変化したことが明示された。一方、家族は、概して、隔離・拘禁する主体から、患者の意思を代弁する位置、治療経過や生活全般を管理する位置に移行してきたといえるだろう。そして、今日、家族会による運動や、当事者運動の活発化、医療全般における情勢変化、福祉領域における自立概念の普及などを背景に、障害者-家族の関係は、さらに進んで、障害者の自己決定を基盤とした関係へと模索が始められているのではなかろうか。
また、3章で検討された、精神障害者家族研究の動向は、こうした家族責任の変遷に呼応する形、あるいは先行する形ですすめられてきたといってよい。なぜならば、先行研究に通底していた関心は、その時々において、法制度や医療・福祉システム、文化などの回路により定義づけられ期待された<家族>像が、家族にとって担いきれないものであることを示すことにあり、その<家族>像の再編を主張するための素材を提供し続けてきたともいえるからだ。とするならば、おのずと、とりくむべき課題がみえてこないだろうか。
すなわち、地域生活を中心におくこと、自己決定の尊重が、進められているのなら、そのことが実態とかけ離れた空虚なものにならないためにも次のことを問う必要があるということだ。今、現に水路づけられている「ケアされる存在/ケアするる存在」「意思を代弁される存在/代弁する存在」「(治療過程や生活全般を)管理される存在/管理する存在」といった障害者-家族の関係性をこえて、障害者・家族がそれぞれの立場からお互いの関わり合いを再編していくことができるかどうかを、実際の双方の営みに即して検証することではなかろうか。この提案は、従来の家族研究の知見を、「入院」や「再発」といった障害者の状態だけではなく、さらに、その意味世界も含めた上で再検討することを示している。もちろん、障害者・家族が強いられる関係性から離れ、相互の関係を再構築する営みを阻害する障壁も、依然、多い。社会資源の質の問題、あるいは未整備、保護者規定など法制上の位置づけや社会文化的な扶養規範の存在、欠格条項の存在、精神障害に対する偏見・差別の問題などの問題群を、改めてこの文脈で問い直し、その解消の糸口をさぐぁw)襪海箸任△襦・・w)w) 当事者運動の担い手の一人でもある広田は、精神障害者の親たちに向かって次のように言う(広田,1998:18)。
「「この子を残して死ねない」と思いつつ、その子の生き方をさせず、世間体ばかりを気にして暮らしている。そして子供に何もさせずに、何でも自分でやってしまう。それも文句を言いながら。私は自分の体験を通じて、ぜひ親が生きているうちに子供の生きたいように生きさせてほしいと思います。失敗もさせていただきたい。」(広田,1998:18)。
彼女の言葉には多くの気づきが与えられる。障害者自身の生き方を妨げること。世間体にしばられること。何もかもかわりにやってしまうこと。失敗を許さないこと。親たちが「この子を残しては死ねない」とまで障害者のことを思いなす営みの全てが、障害者にとって抑圧的なものでしかないことをしめしている。こうした親たちの営みは、石川がいう「「障害児の親」としての適切なふるまい」に他ならない。すなわち、「近代社会が親、とりわけ母親に要求する一般的な役割を増幅・拡大させたもの」であり、愛情深く、子供の世話に責任をもち、社会の迷惑にならぬよう子供を監視しつづける親たることである。(石川,1995:36)。親たちがこうした「障害児の親」としてのふるまいから自由になること、
そして、その上で、障害者との関係性を再構築すること、今、このことが障害者の側から強く求められているのではないか。
5.「滑らかな物語」から離れること
精神病院でのケアが全盛であった時代に生まれた、精神病に関する社会学の議論は、「社会学」という知の領域にとどまらない意味を持ちえていたといえるだろう。
シェフは、「精神病」を個人の行動の性質とみるのではなく、規範との関わりにおいて逸脱とみなされることが精神病の本質であるとした。医学的診断という手続きによってある個人に「精神病」というラベルが貼られると、社会の反応、すなわちステレオタイプ化された「精神病」イメージにその人が同調することへの社会的期待と、その人自身の学習によって、逸脱行動は固定化・安定化していくのだとした。精神病を実体としてではなく意味的な産物としての側面を強調したその主張は、精神医療の管理下におくことによって「精神病患者」が創出されるという事態を明示したものであったのだ(Sceff,1966=1980)。
また、ゴッフマンは、入院患者の意味世界を基点に、全制的施設である精神病院の<あるがままの姿>を浮き彫りにした。被収容者の自己が無力化されていく「剥奪過程」-被収容者の自己を維持していた文化や役割の剥奪と社会的差異の平準化-と、被収容者の自己を「被収容者」という空虚な管理しやすいカテゴリーに隠蔽した上であらためて施設管理に従順な自己をつくりあげていく「自己の再組織化過程」という導出された2つのライン。ゴッフマンが描き出した精神病院の様相は、治療施設であるはずの精神病院が新たなる病理を創出する場であることを痛烈に示したものであった(Goffman,1961=1984)。
こうした,1960年前後に登場した社会学の議論は、リベラリズムとともに反施設主義イデオロギーの根拠となり、脱施設化の進展に一定の役割を果たし、精神医療の「権威の失墜」という事態を招来したのであった。このことは精神医療の「加害者性」を顕在化させ、精神医療におけるパターナリズムの正当性をゆるがし、後の患者の治療拒否権や自己決定権に関する議論へのコンテクストを準備したものであったのである(熊倉,1987)。
アサイラムからコミュニティへという大きな潮流を迎えた今日、社会学研究は何を問うことができるのか(16)。フーコーによれば、施設ケアからコミュニティケアへの移行は「解放」ではなく地域社会の「監獄化」に過ぎないということになろう。確かに今日の障害者福祉施策の主要命題となっている「ノーマリゼーション」「社会復帰」「社会参加」も、障害者を社会から隔離・排除することへ決別を告げた言葉として捉えることができようが、具体的な意味内容をもたない空虚なことばとして連呼されるきらいがある。例え具体的な内容を伴っていても、それはあらかじめ非障害者とは区別され制限された期待、すなわち「障害者役割」とでもいうべきものを具現化するものでしかないことが多い。このことは結果として、精神障害者を家族や地域社会の内側に閉じこめることにしかならず、コミュニティケアへの比重の移行は、解放ではなく地域社会の監獄化であるという主張は充分妥当なものとして認めることができる。
しかしながら、今日、社会学に求められているものは、未だ繰り返されがちなこうした記述に満足することであろうか。いや、むしろその先にある、見えざるまなざしに対抗する諸々の営みやその営みを支える制度・文化の生成過程を析出していくことではなかろうか(17)。そして、障害者による「自己決定」の尊重が、現に、決められる人/決められない人という新たな線引きの問題をうみ、自己決定の対局に保護をおかざるを得ないこと、自己決定を過大に評価することが、障害者の存在を排除あるいは否定する暴力になりうることなどについて、改めて俎上にのせ、議論を始めることが必要なのではないか。もちろん、自己決定とともに、保護という名のもとに精神障害者に対し行われた、そして、行われていることに関する吟味が、まずもとって、取りかかるべき事案といえるのではあるが。
家族研究においても同様のことがいえよう。日本の障害者の自立生活運動の中で、家族は乗り越えるべき存在として捉えられた。家族という空間において起きる事柄すべて-たとえ障害児(者)殺しであっても-が、「家族」「愛情」「社会的対応の遅れ」によって正当化されてしまうことに対する、一つの答えであった。時として、何かをきっかけに、それが「運動」とくくられるほどのものでなくても、家族が、見えるざるまなざしとそれに対抗する力が激しく拮抗する場の一つとして、鮮明に立ち現れることがある。親たちの中にも、このことに気づき、受け入れ、家族のあり方を問い始めているものもいる。
確かに、これまでにも、家族が家族のあり方を問うことはあった。しかし、明らかに今行われ始めている家族の問いかけは、それとは、異なる地平に立っている(全家連,1997a:183)。その営みは、家族のあり方を、社会資源の未整備や社会の無理解さのみに直結させて納得しようとするものではない。それは、法制度、精神医療や福祉システム・・・などによって定義され期待される家族像とともに、内なる障害観・障害者観からはなれることをも含んでいる。そして、<家族>=親という範囲を超えて、きょうだいなどによるセルフヘルプグループ設立の動きも活発化してる(南山,1999)。
立岩は、これまで、日本で、「障害者の自立生活運動」といえばアメリカやスウェーデンのことばかりが紹介され、日本で1970年代から行われ、後の運動へと変容しながら引き継がれた「自立生活運動」の歴史が如何に消去されてきたかを論じたもののなかで次のように述べている。
「・・・・・・このように、存在した活動は現れてこない。これは、その主張を肯定するかどうかとは別の、事実認識の問題だから、指摘しておく。けれどそれだけではない。それを初めさせたこの社会の必然があり、それを進めた具体的な力があり、苦闘があり、試行錯誤があったことが伝わらない。様々な「流行」や「流れ」と同じようにしか、「規制緩和は世界の趨勢」といった水準でしか、「自立生活」もまた捉えられないだろう。それは、例えば「障害者福祉」を学ぶ人達にとって、運動を受け継いでいく人たちにとって、よくない。「流れ」や「トレンド」や「時代」、「だから」と言う時、問われるべきことは実は何も問われていない。「どうも世間はこういうことのようだから、こう言えばいいらしい」ぐらいのことにしかならない。この時に、力は奪われてしまい、受け継ぐべきものを受け継ぐことも、問うべきことを問い続けることも、できなくなる。それは嫌だと思うのなら-もちろん「純粋な知的好奇心」でもかまわない-、この章の冒頭に述べたことだが、滑らかな物語から逃れて、あったこと、あることを調べることである。もう一つは最初から考えることである。」(立岩,1999:89-90)。
流行にのる。あるいは、現実から遠いところで「あったこと」「あること」を消去しつつ声高になされる議論の危うさ。「滑らかな物語」から離れて、まず「あったこと」「あること」を丹念に拾い上げていくこと。もちろん家族をとりあげる場合においても、この姿勢で始めることである。
□注
(1)本論で、精神障害という場合、主として「精神分裂病」で、社会生活上、様々な困難を抱えている人々のことをさしている。なお、「システム」という表現を用いることについては、現状の医療・保健・福祉の実状や連携のあり方を考えた場合、ためらいもあった。しかし、内実はともかくとしても、現在、「システム」化への志向が高まっているとの判断から用いた。
(2)岡上・大島・荒井(1988)、全家連(1993,1994,1997a,1997b,1997c)などを参照のこと。
(3)アメリカで、特に1970年代から、州立精神病院を中心に急激に進行した脱施設化の動きは、精神医療ユーザーとその周辺に大きな変化をもたらした。多くのユーザーの生活環境は施設から地域に移った。外来患者プログラムは、力動精神医学的精神療法の理論よりも精神薬理学的処置に依拠したケアマネージメントに重点を移行させ、ユーザーは、精神科医・セラピストよりも、ケアマネージャー、ソーシャルワーカー、看護者、リハビリテーション相談員から多くのサービスをうけることとなった。クックらは、精神保健システムが、過去40年間に施設ケアを中心とするシステムからコミュニティケアを中心とするシステムへと急速に変容をとげてきた現状において、コミュニティケアに関する社会学的研究は緒についたばかりであると指摘している(Cook & Wright:1995:95)。
(4)その規則の正式名称は『警視庁令第41号 精神病者私宅監置室公私立精神病院公私立病院ノ精神病室ノ構造設備及ビ管理ニ関スル取締規則』(1904年)である。
(5)監護法第一条に「精神病者ハ其ノ後見人、配偶者、四親等内ノ親族又ハ戸主ニオイテ之ヲ監護スル義務ヲ負ウ」とある。また私宅監置の原型は、近世に始まったとされる「入檻」であるといわれる。明治期に入ってからも、私宅監置は一つの方法として行われていたが、精神病者監護法は、恣意的に行われる可能性をもっていた私宅監置に関する規定を法定化した。なお、当時の私宅監置の実状の一端を知ることができる調査報告書『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』によれば、調査対象となった多くの患者が、あくまでも当時の水準とはいえ、医療的治療を受けていなかったことがわかる。
(6)事実上、私宅監置と同じ方法が、昭和30年代しばらくの間、存続していたとの証言が、精神科医によってなされている(金子嗣男,1982『松沢病院外史』日本評論社,)
(7)保護義務者は後見人、配偶者、親権者、その他の扶養義務者をさす。(22条)
(8)その他に、強制入院として、都道府県知事命令による「措置入院」がもうけられた。
(9)「精神病院の管理者は、診察の結果、精神障害であると診断した者につき医療及び保護のための入院が必要であると認める場合において保護義務者の同意があるときは、本人の同意がなくともその者を入院させることができる」(精神衛生法 第33条)
(10)朝日新聞に、1970年3月5日から7回にわたって連載された大熊一雄による「ルポ精神病棟」、1984年3月14日朝日新聞で報道された報徳会宇都宮病院事件「患者2人に「死のリンチ」-宇都宮の精神病院で看護職員、金属パイプなどで殴打」など。
(11)この調査にあたって、それまでの精神障害者・家族に関する調査の方法論上・結果の集計上の問題点を指摘した上で、それを克服する方策を処している点も評価できる。一つは、これまでの調査は「調査の目的によるだけでなく調査可能性という点に制約されて、対象者が限定されたり(たとえば、入院患者のみ、措置入院者のみ)、どの範囲に調査票を配布したか母集団との対応がたどりにくい場合など」のサンプルの範囲・抽出方法の問題があったことである。この問題を解消するために、熊本・宮城二県下の全精神科医療機関に対し、病床数と外来延患者数の統計に従って、調査対象数を比例割当し、入院・外来双方をカバーする対象者を抽出している。その他には、これまでの調査の結果のとりまとめは、単純集計にとどまっており、変数間の分析がなされていなかったので、各変数間のみならず地域間比較分析をも行ったことである。
(12)障害者の自律に対する家族の「消極的態度」、家族内の資源量の程度を把握する「家族内資源」、家族の支持的ネットワークを測定する尺度などが開発されている(石原・大島,1984)
(13)大島は、それまでの研究成果をふまえ、家族を「援助者としての家族」と「生活者としての家族」の両面から捉えることを提案している。前者の家族の援助者としての機能を「協力度」(家族の援助協力行動数)に、後者を、ケアの負担が家族生活に及ぼす影響として「困難感」に操作化し、さらに、家族の障害者に対する受け入れ意識として「共感度」を加え、これら三つの要素から形成されるものを「家族の協力態勢」と呼び、変数間の関係の明確化を行っている(大島,1987)。
(14)こうした限界性は、次に示すような、障害者の親たち対する批判の意味するところと通底しているのではないか。
「多くの親たちが持つ障害者観は「何もできない、依存するだけの人」「保護されるべき人」という健常者のもつ、一般社会の障害者観でしかない。この価値観を受け入れている限り、親が障害者(子)のことを思ってどんなに社会に福祉充実の要求をしたとしても、その要求は「障害者の自立」を援助するものではなく、親の負担を軽減するためだけの社会システムづくりでしかない。・・・・・・・・・・・異議申し立て力をもたない家族に囲い込まれた障害者は自立するためには、その価値観と闘わなくてはならない」(要田,1994;74)
(15)筆者も、親たちが、Role Captivity(役割に囚われた身)に陥ることが、親だけではなく、障害者にとっても、ストレス状況をもたらす可能性があることを示唆した(南山,1998)。
(16)Cookらは、重篤な精神病患者に関する社会学的研究の障壁となっているものとして次の4つをあげている。一つは精神病を患う人々へのアクセスの難しさである。二つ目は、社会学者自身が精神病や精神病患者と家族に対するスティグマに満ちた態度を学習し内面化している場合が少なくないことである。そして、生物学、遺伝学、精神薬理学の進歩に伴い、社会学者が最初にこの領域に参入してから、研究を進めて行くにあたって必要となる精神病をめぐる知識が軒並み増大したこと。最後に、ゴッフマンなどによる質的研究により導かれた知見は、精神病や精神病患者についてより肉迫した理解を可能にしたが、今日では、こうした質的研究が置かれている状況が厳しいということである(Cook & Wright:1995:95)。以上の4点は、いずれも、日本の家族研究にも通じる障壁といえるのではないか。
(17)こうした本論の関心を、福祉制度との関連において、展開する場合、以下に示す杉野の主張と共有する部分が大きい。
「個々の福祉制度を「富の再分配装置」としてだけではなく福祉ヘゲモニーの再分配装置としても評価していく作業が不可欠である。この意味で、クライアントの尊厳や主体性および政策立案者と専門職の主導権や「応責性」Accountabilityといった非貨幣的価値の格差およびその再分配をいかにして社会福祉学の射程にとりこむかという点において、従来にも増して社会学理論との交流が求められているのである。」(杉野,1994:28)
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*E-mail/jskmina@ipc.shizuoka.ac.jp
*本研究は平成10年度~11年度文部省科学研究費奨励A「精神障害者-家族の相互関係と家 族ケアに関する研究」の成果の一部である。
*脱稿後、保護者の規定内容が、一部、改正された。その改正内容についての検討は、残念ながら今後の課題ということになる。